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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年04月24日(火) 「あなたのためだから」 仕事柄IT関係のサイトは時々覗いています。中でも小寺氏の文章には、忙しくてもなるべく目を通すようにしています。その中にこんな文章がありました。
小寺信良「ケータイの力学」:青少年条例と憲法の関係
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/1111/07/news053.html
> 自由主義社会において、人の行動を規制するというのは、憲法に定められた数々の自由を制限することであり、大変な権力である。曽我部先生の講演でもっとも興味深いのはこの部分だ。
> 「あなたのためだから」という理由で人権を制限できるのか。通常人権の制限は、他者の人権や公益を害する場合にのみ可能である。したがって、本人にとって有害であることを理由に、人権制限はできないのではないか。例えば成人であっても過度の飲酒・喫煙は健康を害する恐れがあるが、行動が規制されているわけではない。
引用元は未成年のケータイ使用を規制する法的根拠についての話なのですが、引用部分は「本人のためだからという理由で人の自由を制限できるか」という問題提起になっています。
自立支援というニーズ
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20111025
どこから手を付けるべきか(その3)
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20111013
という雑記のエントリでは、金銭管理ができないために、所持金をあっという間に酒やギャンブルに費やしてしまう人たちのことを書きました。そして、その人たちのために、金銭を預かって小分けにして渡す公的サービスが必要とされていることも書きました。
けれど、考えていただきたいのは、人は自分の財産を自由に処分する権利を持っており、金銭管理のサービスはその権利を制限していることです。つまり、生活保護で月初めにもらった保護費を、一日でギャンブルや酒や買い物に費やしてしまい、残りの一ヶ月近くを食うや食わずで過ごすのも、その人の自由な選択であり、人にはそうした生活を選ぶ権利があるというわけです。
これには、常識を持った人はそういう選択をしないという前提があるように思えます。自分の行動がどんな結果を生むか予測がつき、たとえそうしたい衝動を持ったとしても、知性を働かせてそれを避けられる人であれば、その選択を「自由」なり「権利」と呼んでも良いでしょう。人に迷惑をかけるわけではありませんから。
それを「あなたのためだから」という理由で制限するべきなのか。
食うや食わずの生活に30日間近く耐えられる人だったら、その自由を認めてあげてもいいのかもしれませんが、実際に金が無くなって生活できなくなったからと、相談に来られる窓口のほうは困ってしまいます。
衝動的に、あるいは無計画にお金を使ってしまい、月半ばで生活費が足りなくなってしまう。酒や薬やギャンブルが止まっても、それが改まらない人がいます。それが買い物に対するアディクションというわけではありません。
その背景には知的障害や発達障害が隠れいているのかもしれません。そうした障害がなくとも、成長する過程でそのスキルを身につける機会がなかったのかもしれません。
いずれにせよ、足りないと言われて金を渡し続けるわけにもいきませんし、叱ってみても説教してみても、そうした金の使い方が改まるわけでもありません。だからといって、ほっておいて良いというものでもありません。例えば、福祉事務所の職員が困窮した相談者を追い返して、その人が餓死してしまったら、人権侵害だとして糾弾されること間違いなしです。
結局、お金を全額その人に渡さず、小分けにして必要なだけ渡すことになります。つまり、誰かがその人に替わって金銭管理を代行するわけです。
家族がいれば、家族に管理してもらうのが理想です。でも一人暮らしの人はそういうわけにいきません。また家族がいても、家族も同じ問題を抱えたりします。金銭管理を代行する公的なサービスが必要です。
成年後見制度というのがあります。認知症のお年寄りや、知的障害の人が、だまされて高額な商品を買わされたりしないように、本人に代わって財産を管理する仕組みです。裁判所が後見人を選びます。各地の社会福祉協議会で後見人を引き受けるサービスをしています。ただ、これの法定後見制度は明らかな障害がないと使えません。
手帳を持っていないレベルだと、本人が同意して契約することで任意の後見制度が使えます。ただこれは任意契約なので、本人側からの申し出で解除できます。金銭管理を受ける側とすれば、「自由を制限されている」と感じるものです。自分の金なのに全部渡してもらえないのですから。だから、不満に思って契約を解除しちゃうこともしばしばです。(せっかく本人を説得して同意させたのに・・・)
そんな感じでいろいろ面倒なので、福祉事務所の職員が、金銭を小分けにして渡したり、現物支給することも行われています。あるいは、訪問看護や介護の人が善意で金銭管理したり・・。本当はそういうことはしてはイケナイのですが、現実的にそれしか解決策がないこともあります(でも法的には根拠がない)。
話は変わって、何度も刑務所に入る人は、生活能力に支障があって、刑務所の外ではなかなかうまく暮らしていけない人も少なくありません。(刑務所の中ではきっちり管理されて生活できるし)。そういう人に対する出所後の生活支援を行うとすると、どうしても(金銭管理も含めて)何らかの自由の制限をせざるを得なくなります。すると「外に出ても刑務所と同じぐらい自由がない」と感じてしまう・・という話も聞きました。
明らかな障害を持っていない人に対しても、公的な金銭管理のサービスを提供する必要があるのだと思います。(法定後見制度みたいな使いにくい仕組みじゃなくて)。でも、それは人に自由を制限することにつながります(しかもそれに法的根拠を与えろという話になる)。
そこで冒頭に書いたような、そもそも「あなたのためだから」という理由で人権を制限できるのか、という話が登場してきます。
人権の制限にはそれなりの根拠が与えられてきました。認知症のお年寄りや知的障害の人には「判断能力がないから」。未成年には「判断能力が未熟だから」。
しかし、現実の「困った人たち」は、そういう明らかな判断能力の欠如はありません。生活費を使い果たしてしまうことを見ると、やはり何らかの能力の欠如はあるのでしょう。でも、それは手帳とか診断書という形では証明されません。だから、制限することに法的根拠がない・・にも関わらず、現実には制限せざるを得ない。「あなたのためだから」という理由で。そこに現場の困難、困惑があります。どうすれば良いのかは正直僕にはわかりません。
ただ、一つだけ確かなことがあるとすれば、それはアディクションがとまっても「解決せずに残るもの」だということです。酒や薬やギャンブルが止まっても、まだ金銭管理の問題は残る人はいます。「回復すれば」とか、12ステップをやれば解決するというものではありません。別種の手助けが必要です。
もう一つ「家族が管理してくれれば理想だ」とは書きましたが、その家族が親である場合は問題が残ります。親が年老いて死んでしまうと、管理できる人がいなくなってトラブルが表面化します。親が生きているうちは、ちゃんと働けて、生活できていた人が、独居になったとたんに生活が崩壊・・という話は珍しくなく、AAで病院メッセージに行くと、患者さんの話に良く聞きます。親としては、よかれと思って面倒を見ていたのでしょうけど。
この雑記で何が言いたかったかというと、管理される側からは「自由を奪って」と責められ、内心「人権侵害なのでは」と悩み、やっていることに法的根拠がないことに不安をおぼえ、それでも目の前の問題を解決しようとしている人の心情、お察ししますということです。
2012年04月15日(日) バック・ツー・ベーシックス騒動(その4) 日本のAA以外の12ステップグループを眺めてみると、施設との関係を断ち切れていないところが目立ちます。いや具体的に名前を挙げるのは憚られますが。施設と自助グループの密な関係は、最初は相互の発展に寄与するでしょうが、時間を経るに連れて弊害が拡大していくようです。最大の弊害は、自助グループが外部からの影響を排除できなくなると、グループの有用性が失われてしまうことです。だから、早めの独立が望ましいし、これから施設の影響を被りそうなグループに対しては、AAのこうした経験を分かち合うことも大切でしょう。
鴨川の集いは多くの賛同者を生み出しましたが、彼らにとってはマック経験者から異を唱えられたことは心外でした。これが新たな感情的しこりが生まれたことは間違いありません。まるでマック派とビッグブック派が生まれ、お互いに足を踏んづけ合うような状況が生まれました。もちろんそれが良い結果をもたらすことはありませんでしたが。
鴨川で使ったバック・ツー・ベーシックスはAAメンバー夫妻の書いたものだったとは言え、ワリー・Pの著作と名前が同じで中身も似通ったものであることが難点で、後に「ビッグフット」という名の別のフォーマットが日本人AAメンバーによって作られています。
こうした台本ミーティングやスタディ・ガイド本の是非については、常任理事会まで持ち込まれたことがありましたが、当時の理事会はアメリカの理事会の声明を引用しました。アメリカの理事会としてはAA公式のスタディ・ガイドを出版する必要性を認めないこと、AAメンバーがそれを出版したり、活用することには反対せず、個々のグループが使うことについて理事会は意見を持たないというものです。ただし、日本の常任理事会は独自の声明として、そうした個人や外部で作られたものは(AAの原理を正しく反映しているとは限らないため)、AA外部においては(例えば病院メッセージなど)でAAを紹介するために使わないように要請を発表しました。
バック・ツー・ベーシックスが日本のもたらしたものはなんだったのでしょうか?
それは12ステップは「教える」ことが可能であること、そして教えることが必要とされている、という認識を広めたことです。まさにそれはAAの原点に戻る動きでした。
マックという施設としてはビッグブックのプログラムを排除する意図など持っていなかったと思います。一部のOB・OGが過敏に反応しただったと僕は解釈しています。現在はそのマックで(それもミニー神父が始めたマックで)ビッグブックと教材を使って12ステップを伝えるやり方が始まっています。マックとビッグブックが対立するものという捉え方がナンセンスになりつつあります。時代は変わります。
評議員となって東京に通い出した2003年頃、僕はビッグブックを使った12ステップというものに、それほど強い関心を持っていませんでした。アメリカ帰りのAAメンバーからいろいろ聞かされていたものの、実際にそれに取り組むには心の中のハードルが高かったのです。実際多くの人たちがその段階(興味はあるけど手が出せない)に留まっていると思います。僕もそうでした。
実はその前の年に僕にスポンシー候補ができ、ビッグブックの分かち合いをやってみようかと提案して、ミーティングの始まる前30分ぐらい前に二人で待ち合わせ、それぞれ1ページずつ読んで感想を分かち合ってみました・・・でも、何にも起きず、分かち合いは2回やっただけで終わりました。「こりゃだめだ」どうも自己流ではダメっぽい、ということだけは分かりました。
そんな時期に、B2Bの騒動を知り、過去の出来事を調べるうちに、なんだか自分のやっていることはビッグブック・ムーブメントの擁護活動みたいになっているのに、当のビッグブックによるステップのことはまるで知らないな、と気づかされ、そして「集い」の中に混じっていったのです。involveという言葉には、参加するという意味もありますが、僕の場合には「巻き込まれる」という感じのinvolveでした。
でも、そうでもなければ、ビッグブックをやっている人たちのことを未だに遠巻きに眺めていただけだったかもしれません(あるいは飲んで死んでいたか)。あの時巻き込まれたことも、今となってみれば、恩恵だったことが分かります。そう、今となってみれば。いつだって、後になってみなければ分からないことはあるものです。
(この項おわり)
2012年04月12日(木) バック・ツー・ベーシックス騒動(その3) 出版物について調べていくうちに、日本のAAは、過去にAA以外の本を売っていた時代があったことが分かりました。例えばヘイゼルデンの『スツールと酒ビン』『一日24時間365日』、アラノンの『今日一日だけ』、その他に『アルコール中毒という病気』というパンフもありました。これらは多くが、日本のAAを始めたピーター神父が翻訳し、マックとAAがほぼ一体だった時代に発行されたものです。
そう、日本のAAはその始まりの頃、マックという施設と密接につながっていました。そして、その後、痛みを伴う分離がありました。僕は何人かのAAの古老に話を聞き、当時なにがあったのか資料を当たりながら調べました。
日本のAAを始めたのはミニー神父というアメリカ人です。彼は京都大学で講師をしていたのですが、酒が酷くなって様々トラブルを起こし、アメリカに帰され、そちらのAAで回復しました。日本は彼にとっては古戦場(AAメンバーは以前飲んでトラブルを起こしていたフィールドをこう呼ぶ)であって、二度と日本には行きたくないと思っていましたが、教会の仕事として、またステップ8・9の埋め合わせのためもあって、しぶしぶ日本を再び訪れることになりました。
日本に来た彼はAAがないことを嘆き、精神病院を巡って患者を紹介してもらったり、断酒会を回って仲間を集め、ミーティングを始めました。これが日本のAAの始まりとなります。
一方で彼は「マック」というアルコホリックのための施設を始めます。その時、彼はドヤ街の住人を対象に考えたようです。なぜそうしたのか。仕事も家族も持っている人たちには、すでに断酒会という回復の場があるが、社会的地位を失った者に手を差しのべる人はいない、という主旨の文章を彼は書き残しています。それもあったでしょう。
アメリカでは19世紀より、困窮者に救いの手を差しのべ、同時に宗教的サービスも提供する「ミッション」が行われています。(たくさんの宗派がミッションを実施していますが、有名なのは救世軍です)。ビル・Wがサミュエル・シューメーカー師の導きを受けたのも、カルバリー・ミッションでした。ミニー神父には、そうしたミッションのことが頭にあったでしょうし、メリノール宣教会の資金を使う理由にもなったことでしょう。(MACとはメリノール・アルコール・センターの略)。
その片腕として呼ばれたのが、当時「受取人のいない荷物のように」教会内であっちからこっちへと(酒のせいで)移され続けていたピーター神父です。ピーターというのは洗礼名で、純然たる日本人です。彼の物語は、日本語版のビッグブック(個人の物語付き)の後ろの方に掲載されているので、ぜひ読んでください。
この二人の神父が日本のAAを始めた、ということになっています。(ピーター神父も神学校で教鞭を執ったことがあり、二人ともインテリです)。そんなわけで、日本の初期のAAメンバーにはこの施設の世話になった人がとても多く、かつ回復後に洗礼を受けてカトリックに改宗した人も少なくありませんでした。
最初の頃のAAのオフィスはマックに間借りしていました。多くの人たちが「AA=マック」だと思っており、「マックAA」や「AAマック」という呼び名すら存在しました。間借りはAAにとって大きなメリットでした。経済的にも、また知名度からも。
「12の伝統」からすれば、AAが特定の施設や団体と特別な関係を持つことは良くないとされています。伝聞によれば、AAのオフィスに対して「マックから出ていくように」と言ったのはピーター神父だそうです。AAメンバーたちはマンションの一室を借りてJSOというオフィスを立ち上げました。1981年10月のことです。
JSOのマックからの独立は、AAとマックの分離にとって象徴的な出来事でしたが、それだけでは精神的な独立を達成するには不十分だと、当時のAAメンバーたちは考えられたようです。3年後には、JSOはAA以外の出版物を取り扱わないことに決め、前述の『一日24時間』や『スツールと酒ビン』などの在庫が廃棄されました。
また、そうした本をミーティングで使わないようにというお触れも出たようです。それらの本はミーティングで使われてAAメンバーに親しまれており、廃止には抵抗もあったようです。ハッキリとはしないのですが、当時、マックとの関係をある程度維持しようとする一派と、AAの完全なる独立を達成しようとする一派の間で、せめぎ合いとでも言うべき事態があったようです。だから、そうした本を使っているミーティングを訪れて注意することも行われたと聞きます。(AAが統治機構を持たないとは言え、改革期には極端なことも行われたということでしょうか)。
特に『一日24時間』についてはAAメンバーの愛着が強く、どうしてもミーティングで使い続けたいと考えた人も多かったようで(僕も良い本だと思います)、廃止後には海賊版も出回り、翌年には横浜のホームカミングがヘイゼルデンから版権を取得して新規訳出となりました。その他の本も、人気の高かったものは現在は概ねどこか他から手に入りますが、もはやそれらがAAミーティングで使われることもありません。
1980年代、90年代は、日本AAのサービス機構が整備されていった時代です。関東常任委員会やゼネラル・サービス・ミーティングが始まり、日本AAの創始者たる二人の神父にかわって、AAメンバー達がAAのことを決定できる仕組みが整っていきました。
東京の都心部のAAは「中央」「城東」「城西」「城北」「城南」の5つの地区に分けられていますが、その地区わけの際に、境界をまたいで別の地区にミーティング会場を持っていたグループは、その会場を閉鎖したり、別のグループと会場を交換して、地区境界をまたがないようにするように言われたところもあったそうです。
当時のWSMの資料を読むと、「AAならぬもの」の影響を取り除こうとしているのは日本のAAに限らないようで、例えばバースディで贈られるメダルをAA公式のものでないと認定したり、AA以外の本をオフィスで取り扱うべきではないという話などが、伝えられています。日本のAAの動きもそうした世界的な潮流に沿ったものだったと言えます。
施設に関わってみると分かりますが、施設スタッフは利用者に大きな影響を持ちます。(利用者に何の影響も与えられなかったら、そのほうが問題です)。そしてその影響力は施設を出た後も続くものです。だから、施設から人がやってくる限り、グループは施設の影響を被ることになります。
AA独立派の人たちは、そうしたマックの影響を排除するのに懸命だったようです。前述のようにマック由来の書籍を排除するばかりではなく、例えばマックのステップセミナーのチラシをAAミーティング内で配ることを禁じたり、施設内のことについて明示的に話すことを諫める雰囲気を作っていきました。
まるでマックのことはAA内では禁忌であるかのように。
もうおわかりでしょうか。バック・ツー・ベーシックスを使った鴨川の集いについて、異を唱えていた人たちは、マックの出身者やその支持者が多かったのです。彼らにしてみれば、自分たちの愛する書籍はAAから排除され、世話になったマックのセミナーについて仲間に広報しようにもチラシを配るのすら苦労するという受難を味わったわけです。(AAとマックのプログラムは同じなのに!) その一方で、バック・ツー・ベーシックスが許容され、鴨川の集いのチラシは配って良いどころかAAの月刊誌にもその広報が掲載されている。この違いが納得できない(理屈はともかく感情が)、といういうのが本当のところだったのだと思われるのです。
10年、20年以上前に起きたAAとマックの分離運動で発生した感情的なしこりが、時を経てそんなところで噴出していたとは。
分離活動については「AAの人たちは、その本流をマックから取り戻した」と外部の人が評したそうですが、これまで見てきたようにそれは簡単なことではありませんでした。それでもまだ、日本AAは始まって10年も経たないうちに施設から分離独立することができたので良かったとも言えます。
日本のAAは、ピーター神父の翻訳による12&12を改訳し、さらに2000年にはビッグブックを改訳し、ピーター訳の文章とほぼ決別しました。夏になるとピーター神父の墓参りに行くAAメンバーもごく一部にいますが、もはや二人の神父の影響の残滓を日本のAAの中に探すのは困難です。創始の苦労を忘れるのは恩知らずだと言う人もいますが、この二人が創始者としての賞賛を拒んだことこそが、謙遜の実践としてその名を知る者に感銘を与え続け、望まれたとおり彼らは忘れ去られていくでしょう。「私だって、あなた達と同じ、ただのアル中です」の言葉通り。
(続きます)
2012年04月11日(水) バック・ツー・ベーシックス騒動(その2) 本筋に入る前に、すこし注釈を加えておきます。
ワリー・Pという人は、当時必ずしも評判が良いとは言えませんでした。彼がB2Bという集まりを、AAとは別の団体として動かそうとしており、自分がその創始者の座に納まろうとしている、という批判が寄せられてもいました。彼が本当にそのつもりだったのか分かりません。その後の彼は、B2BをAAから独立させることなく活動し、現在ではB2Bによって回復したAAメンバーは30万人以上に及ぶと主張しています。その数字には多少誇張が含まれているにせよ、北米のAAのなかで大きな影響力を持つ一派となったことは間違いありません。
さて本筋です。
鴨川の集いに反対する人たちの主張は、AA外部の出版物をテキストとしてAAミーティングで使うのは「良くないことだ」という主張でした。
AAには特に「外部の出版物を使っちゃいけない」という合意事項はありません。しかし、AA以外の12ステップグループにはそのような決まりを作っているところもあるとおり、むやみに外部からテキストを持ち込むのは良いことではありません。例えばAAのミーティングに行ってみたら、そこで聖書の勉強会が開かれていたとするなら、新しい人はAAをなんだと思うでしょう。そもそも、12ステップが薄められたという反省から活動しているとすれば、外から何かを持ち込むことは良いこととは思えません。その主張には説得力があります。
ところが、実は鴨川の集いで使われたテキストは、「バック・ツー・ベーシックス」という名ではあるものの、ワリー著のものではなく、マイク&キャシーという夫婦のAAメンバーが書いた別のものでした。あくまでもAAメンバーの書いたものですから、AA外部のものとは言いがたくなります。(実際にはその名の通り、ワリーのB2Bの影響を強く受けたテキストではあるのですが)。
AAメンバーが書いたものであれば「外部のものを持ち込んでいる」とは言えなくなります。
すると今度は、一人のAAメンバーが書いたものが、ちゃんとAAの原理をくみ取っている保証はあるのか? という議論に移りました。
ここで話はわき道に逸れます。
AAには評議会承認出版物というものがあります。例えばビッグブックは承認出版物です。これはその本が、AAの原理(12ステップや伝統)を正しく反映していることを、評議会が保証しているということです。
この一連の雑記の冒頭に述べたように、AAの12のステップは個人がどのように解釈しようと自由です。その解釈が「正しい」とか「間違っている」ことを判定する機関はAAにはありません。だから、ある人が12ステップにまつわる文章を書いたとしても、それは個人の解釈に過ぎず、AAの原理に合致しているという保証は与えようもありません。(この雑記だってそうですよ)。
しかしそれでは困ったことが一つあります。というのも、AAの創始者はすでに故人ですから、新しい本を書いてもらうわけにはいきません。となると、どのメンバーが書いた本にせよ、その内容は「正しいかもしれず、正しくないかもしれず」になってしまいます。それでは、新しいAAの本を出すことはできなくなってしまいます。
そこで、アメリカのAAでは、本を作る過程で手間をかけ、本の中身がAAの原理を正しく反映していることを評議会で検証して承認する仕組みがあります。そして、アメリカの承認出版物を翻訳したものは、そのまま日本でも承認出版物になると了解されています。
こうして承認出版物を使うことで、国の違いや時代の違いを越えて、いつも同じAAの12ステップが運ばれることを確実にしています。
そんなわけで、AAミーティングでは評議会承認出版物だけを使うべきだという主張がありました。鴨川の集いで使うテキストは、AAメンバーが書いたものではあるものの、それは一人か二人のメンバーが書いたものにすぎず、正しくAAプログラムを反映している保証がない。だから、それは良くないという主張でした。
実はAAは承認出版物ばかりを出しているわけじゃありません。AAの出版物には「評議会承認出版物」と「そうではない出版物」の二種類があります。「ではない」ほうは、例えばBOX-916という月刊誌です。これはAAメンバーの投稿によって成り立っている雑誌ですから、個々の投稿の内容について評議会などで「正しくAAプログラムが反映されているか」どうか審査しようがありません。あくまでも、記事の内容は「書き手個人の解釈にすぎない」のです。
また、AAミーティングでよく使われているハンドブックという小冊子があります。実はNYのGSOは、複数の評議会出版物から抜き書きして集めた本は基本的に許可していません。だから、ミーティングハンドブックは承認出版物たり得ないのです。
そんなわけで、あまり評議会出版物にこだわりすぎると、ミーティング・ハンドブックすらAAで使えなくなってしまいまし、BOX-916をミーティング場に持ち込んだだけで白い目を向けられる羽目になってしまいます。調べてみると、アメリカでは自分たちでローカルなパンフレットを作って使っている地域もあり、大局に影響を与えない限りは、そこの人たちがオッケーというならオッケーなのがAAでもあります。
鴨川で使うのが評議会承認出版物でないからダメだという話にも説得力がなくなりましたが、それでも話は収まりません。
(続きます)
2012年04月10日(火) バック・ツー・ベーシックス騒動(その1) もう10年も前になるのかと思うと少々感慨深いものがあるのですが、2002年の夏の地域集会で選ばれて、2003年・2004年とAAの評議員を務めました。
ある程度大きな団体であれば、「決議機関」と、そこでの決議を執行する「執行部」というものがあるはずです。AAの執行部はボード(常任理事会)と呼ばれ、そのメンバーはトラスティ(常任理事)と呼ばれます。一方、決議機関はカンファレンス(全国評議会)と呼ばれ、全国から選ばれたデリゲート(評議員)と常任理事がメンバーです。
AAは統治機構を持たないので、常任理事会であれ評議会であれ、AAグループやメンバーに対して命令を下すことはできません。であるものの、評議会の決議は日本のAAグループの総意であるとみなされる重みを持っています。
評議員は地域のAAの声をすくい上げるために、結構忙しく活動しなければならず、アメリカでは「AAメンバーの離婚率は一般より低いが、評議員になると別だ」と言われるほどだそうです。僕も当時はほぼ毎月地元と東京での会議に出席していました。
そうした会議の中で、あるAAのイベントに問題があるのじゃないか、という話が出ていました。
そのイベントの主催は「AAビッグブックの集い」というAAメンバー有志の集まりで、イベントは千葉の鴨川で行われる一泊二日の12ステップ研修でした。それのどこが問題なのか?
実はその研修で使われるテキストが「バック・ツー・ベーシックス」という名前のテキストでした。
ここでいったん話はバック・ツー・ベーシックスに逸れます。
20世紀終わり頃のアメリカのAAでは、ジョー・マキューが述べたように「AAプログラムが薄められた」現象が起きていたようです。12のステップは個人がどう解釈しようとも自由で、そのため皆が首をかしげるような珍奇な解釈をする人もいますが、AAはそのような解釈の広がりを許容しています。しかし、20世紀後半にアメリカで依存症の治療施設がたくさんでき、そこから多くの人たちがAAに来るようになった結果、12ステップ以外の考え方が多くAAに持ち込まれ、12ステップの解釈が変質し、その効果が失われる結果となりました。いくら自由に解釈して良いとは言え、それがAAの根幹に関わるようでは看過してはおけません。
そこで対策として、12ステップの原点に戻る活動がメンバーの間に自発的に起こりました。その一つとして有名なのが、時折この雑記で取り上てきた「ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディ」です。もう一つ有名なのが、ワリー・Pの「バック・ツー・ベーシックス」です。
ワリーさんは、ニューヨークのAAオフィスの記録庫を調べ、まだAAが外部の影響を受ける以前の1950年代に、AAがどのように12ステップを伝えていたかを調べました。そこで、当時はAAに新しく来た人(ビギナー)に12ステップを「教える」仕組みがあったことを発見しました。その仕組みを現代に再現したのがワリーの「バック・ツー・ベーシックス」です(略称B2B)。
B2Bの源流をたどると、AAのクリーブランドグループにたどり着きます。AAは、ビル・Wとドクター・ボブが出会ったアクロンで最初のグループが立ち上がり、やがてビル・Wがニューヨークに戻って二番目のグループがスタートしました。三番目のグループは、アクロンから60Kmほど離れた五大湖沿岸の街クリーブランドで始まりました。彼らはアクロンまで通って12ステップを身につけ、地元に戻ってAAを始めました。
クリーブランドで始まったAAの活動は、地元の新聞に取り上げられました。(その記事はAAの中で有名な文章として今も伝えられていますが、AAを賞賛する内容となっています)。掲載された記事を読んだ人たちが、クリーブランドのAAグループに殺到することになりました。
12ステップはスポンサーからスポンシーへ、一対一で伝えられるものとされています。その基本は今でも変わっていません。しかし、その記事によってたくさんのアルコホーリクがクリーブランドのグループに押し寄せたため、一対一で12ステップを提供することはとてもできませんでした。
そこで彼らは一計を案じました。ちょうどビッグブックができあがりつつあった時期でもあり、彼らは新しい人を一室に集め、ビッグブックを教科書(テキスト)として使い、古いメンバーを教師役にして、教室形式でステップを伝えました。そしてステップで酒をやめて二週間にもならない人が、今度は教える側に回って次の人たちの相手をすることで、爆発的にメンバーが増加しました。これが「クリーブランド現象」とし語り継がれるものです。ビッグブックの重要性が最初に実証された機会でもありました。
こうしたミーティングは「ビギナーズ・クラス」と呼ばれ、『リトリ・レッド・ブック』『スツールと酒酒ビン』の著者もこうしたクラスを運営していたことが知られています。
ワリーさんが再発見したものはこのクリーブランドの流れを継ぐものでした。彼はそれを60分×4回のミーティングに仕立て上げ、週に一度の出席で、4週で12ステップ全体をおおよそ把握できる仕組みを整えました。それが「バック・ツー・ベーシックス」(B2B)という本として出版され、アメリカ国内で広まりつつありました。
なぜそのような「集団で教える」仕組みが、20世紀後半のアメリカAAで廃れてしまったのかは分かりません。しかし、J&Cのビッグブック・スタディにせよ、B2Bにせよ、そのような「教える仕組み」の再興運動だったとも言えます。(おそらく廃れた原因は、その役割を施設が代行したからでしょう)。
B2Bは、ビッグブックからの抜き書きと、抜き書きについての解説になっています。B2Bミーティングではこれを読みながら進行します。実際には本を読むばかりでなく、インタラクティブな要素もあるようですが、スクリプト(台本)ミーティングと呼ばれるように、ミーティングはB2Bという台本に従って決まった形で進められます。
鴨川でのビッグブックの集いは、一泊二日でこのB2Bを実際にやってみようという試みでした。しかしこれが、AAメンバーの過敏な反応を呼び起こしました。
考えてもみて欲しいのです。それまで日本のAAメンバーは、「12ステップは教わるものではない」と捉えている人もいたし、AAミーティングというものは一人ひとりの「語り」によって成立するもので、台本通りに進行するミーティングなんてあり得ない、と多くのメンバーが考えていたのです。
(これについてはナラティブ文化の影響なのではないかという雑記を書きました。日本においても12ステップが「薄められる」現象が起きていたのではないかと思います)
AAにはミーティングはこのように進めなさいという決まりがあるわけでもなく、ステップを教えてはいけないという決まり事もありません。参加者が納得し、12の伝統に反しない限り、どんなやり方をするのも自由です。
しかし鴨川の集いに対して強固に異を唱える人たちもいました。そのような反AA的(!)なイベントの広報を、AAの月刊誌に掲載したり、AAミーティングでチラシを配らせるのは良くないと主張する人さえいました。おそらくその主張の背景には感情的なしこりがあるのではないか、と推測し、僕は評議員活動の一部として、その背景をさぐることとしました。
(続きます)
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