心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年07月31日(金) まずは自分を

53.4Kg, 7.4%
晴れのち雨

NHK教育で児童虐待の番組を見ました(これも結構古いの話)。
虐待されて育った子供は、感情に歯止めが効きません。例えば怒り出したら、相手が謝罪しようがお構いなしに、徹底的にやっつけてしまいます。怒りの感情を親に(も他の大人にも)受け止めて貰えなかったために、どこで矛を収めたらいいのか分からないのだそうです。
番組では施設(病院?)に預けられた中学生の女の子が、スタッフに「もうお風呂に入ったの?」と聞かれただけで、ブチ切れ暴れ続けている場面を流していました。お風呂に入る準備をして順番待ちをしていたのに、「もう入ったの?」と聞かれ、それが「まだ入ってないんだ!」と責められる理不尽と受け取ってしまったようです。
スタッフは彼女の感情の爆発に時間をかけてつきあい、話を聞き、暴れることではなく言葉によってコミュニケーションすることを学ばせていました。

こうして、(親はしてくれなかったけれど)感情を受け止めてくれる大人「も」いること、話を聞いてくれる大人「も」いることを知っていき、それが大人に対する、社会に対する信頼と絆を取り戻していく過程であるという話でした。

例え傷ついていたとしても、子供の心は柔らかく、傷を乗り越えて成長する余地があります。虐待する生き方を何十年も続けてしまった親のほうが変わりにくいのだそうです。そうした親自身、子供のころに虐待を受けているわけですし。

とはいえ「私は子供のころから親に虐められてきたので、いま問題行動を起こしても仕方ないのです」と開き直られても、周囲にとっては迷惑でしかありません。(こういう人に限って、正直な自己開示と「イタい私自慢」を混同する)。

傷ついたまま大人になった人は、なぜか「治療者」になろうとする人が多いのです。それが医者や看護婦として社会的に実現されればまだしも、自称カウンセラーというのは見ていて痛々しいです。自分の問題を放っておいて、人の問題に首を突っ込もうとしているわけです。

これを「傷ついた癒し手」というのだそうです。想像してみてください。満身創痍で血をだらだら流している看護婦が、他の人の擦り傷にバンドエイドを張ろうとしている構図を。まず自分の傷の手当てをお願いしたい。クライアントよりカウンセラーのほうが重症で具合が悪くては治療になりません。

カウンセリングの講座を受けるほど積極的でなくても、集団の中でカウンセラー的立場に身を置きたがっている人も大なり小なり同じでしょう。

病気を治す医者は、患者より健康でないと困ります。これはカウンセラーでも同様。そして子供の世話をする親についても同じでしょう。まずは自分の回復なのであります。


2009年07月30日(木) 寝る2009夏

53.4Kg, 8.5%
曇り

金曜は会社の健康診断。
ということで、木曜晩から絶食になりました。
夜9時以降は飲食禁止。
夕食が夜9時頃だった気がしますが、気のせいです。
夜12時頃サプリメントその他の錠剤をもりもり飲んでいた気がしますが、それも気のせいです。
「きらきらアフロ」を見るのを諦めて早寝(?)。

夢を見ました。
床に丸まっている毛布のようなものをめくると、下からバケモノがガバっと現れました。

(これはいかん、蹴り飛ばさなくては)

と、反射的にキックしてしまいました。
その瞬間、リアルでは「ドン」という音がして、左のかかとが柱の角にめり込んでいました。

痛った〜〜〜〜。

かかとをさすって、もう一度寝ました。

健康診断は問題なく終わりました。血圧も血糖も肝臓の数値も問題なし。レントゲンと心電図は後で専門の医者が見るそうです。胃カメラの画像をプリントしたのをお土産に持たされて、帰宅したらもうお昼でした。


2009年07月29日(水) mil この病気を何と呼ぶか(その2)

53.1Kg, 7.2%
曇り時々雨

日本では長年「慢性アルコール中毒(症)」の名前が使われてきました。これを略して「アル中」という言葉は現在でも使われています。おそらく1980年ごろからでしょう、専門家の間でWHOの提案に従って「アルコール依存(症)」という名前に変えていこうという風潮が高まり、今では新聞やテレビなどのマスメディアが使う言葉は、ほぼ「アルコール依存症」で統一されています。

「アルコール症」という言葉も一部で使われています。この言葉の発祥ははっきりしませんが、元になったアルコホリズムという言葉が、「アルコール」に病気の状態を示す「イズム」をくっつけた言葉であったため、それを直訳して生まれたものと思われます。ただ、アルコール症も、それを略した「アル症」という言葉も一般化してはいません。

新しい病名に変えることで、古い病名につきまとう偏見を取り除こうという意図は、海外でも日本でも成功したとは言えません。今では「依存」も「アル症」も人間のだらしなさというニュアンスを帯びてしまっています。世間に偏見がある以上、どんな新しい病名を使っても同じことの繰り返しでしょう。偏見を取り除くには、病名を変えるのではなく、もっとこの病気の回復率を上げていく努力が必要なのだと思います。

さて、「心の家路」ではこの病気を何と呼ぶべきか、という問題に移ります。
一般になじみのない名前を使うメリットはありません。これで、アルコホリズム、アルコール症が候補から落ちます。「中毒」と「依存」は、どちらも病気の一面しか示していない欠点がありますが、決して間違った名前ではありません。そして一般に浸透しているのは大きな利点です。

メディアがアルコール依存症という言葉を使う以上、この病気のことを知ろうとする人は「アルコール依存症」でネットを検索するでしょう。そして「心の家路」がネットで検索を受けやすくすることは大事です。なので、ここでは「アルコール依存症」という言葉をメインに使い、気楽な文章では一般に最もなじみのある「アル中」という言葉も混ぜていくことにします。

僕はAAのメンバーなので、AAの使うアルコホリズム/アルコホーリクという言葉にも未練があります。けれど、上記の理由でなるべく使わないでおこうと思います。あえて使うとすれば、(特にAAの文脈で)意味があって使っているということになります。

この病気
 アルコール依存
 アルコール依存症
 アルコール中毒
 アルコール中毒症
 (略して)アル中

この病気の人
 アルコール依存症者
 (略して)依存症者
 アルコール中毒者
 (略して)アル中

付記1:発音について
英語の alcoholism/alcoholic の発音をカタカナ表記すれば、それぞれ「アルコホリズム/アルコホーリク」となるので、ここではそのままカタカナにしています。同じ理屈で言えば alcohol は「アルコホール」と聞こえるので、そう書くべきかもしれませんが日本語のアルコールをそのまま使っています。アルコールに揃えてアルコリズム/アルコーリクにするのは変だと思うので採用していません。

alcoholic の末尾の lic は、カタカナにするときは「リック」にするのが一般的です。例えば metabolic → メタボリック、public → パブリックなど。これからすると alcoholic は「アルコホリック」、Alcoholics Anonymous(AA) はアルコホリックス・アノニマスが適当ですが、単に「日本のAAが30年以上アルコホーリクを使い続けている」という理由でアルコホーリクを採用しました。

付記2:アディクション/アディクト
アディクション(addiction)という言葉は、薬物依存(とりわけ麻薬依存)を示す言葉として使われることがありますが、このサイトでは「アルコールを含むすべての種類の依存」という意味で使います。

 アディクション→アルコールを含むすべての種類の依存症
 アディクト→アルコールを含むすべての種類の依存症の人


2009年07月28日(火) mil この病気を何と呼ぶか(その1)

53.3Kg, 7.6%
晴れ

家路もそろそろ内容を刷新しようと思っています。思っているだけでは何も始まらないので、ぼちぼちネタを書きためていきます。新・家路のネタにはmilというprefixをつけて区別することにします。

産業革命が起こり酒の安定大量生産が始まるまで、この病気には名前がありませんでした。それはこれが病気だと認識されていなかったことを意味します。

1849年にスウェーデンの医師マグヌス・フス(Magnus Huss)がフランス語で『慢性アルコーリスム』(Alcoholismus chronicus)という本を出版し、初めてこれを病気として報告しました。フランスでは現在でも慢性アルコーリスムという病名がそのまま使われています。

フスはアルコールが神経を毒すことに注目しました。つまり砒素中毒や鉛中毒と同じように、アルコールを「毒」として捉えました。ですから、その病名が日本語に訳されるとき「慢性アルコール中毒」という言葉が選ばれたのは自然なことでした。

英語のアルコホリズム(alcoholism)は仏語アルコーリスムの翻訳です。アルコホリズムの患者はアルコホーリク(alcoholic)と呼ばれました。alcoholic は単に「アルコールの」という意味の形容詞でしたが、この病気の人を示す言葉としても使われるようになりました。この言葉が一般に浸透したのは、1935年にアメリカでアルコホーリクス・アノニマス(AA)が始まり、彼らがアルコホリズムという言葉を使いだして以降のことです。英語圏ではアルコホリズム/アルコホーリクという言葉が今でも最も一般的に使われます。

さて、これが病気と見なされる前は、大酒は不道徳の結果であり、欠陥を持った人の行いだと見なされていました。その汚名は今でもぬぐい去られてはいません。ましてやこの言葉が広がった当時は世間は偏見で満ちており、「アルコホーリク」はすぐさま人間的欠陥を意味する差別的な言葉になってしまいました。精神科医たちでさえ、ずいぶん後になるまでこの病気を人格障害のカテゴリに入れたままでした。

始まったばかりのAAでは、アルコホリズム/アルコホーリクという言葉への世間の偏見が本人の否認を呼び起こし、「自分がその病気だと認める」回復の第一歩を踏み出す妨げになると心配しました。そこで彼らは「問題飲酒(者)」(problem drink(er))という言葉を作り出し、最初の本に使いました。

このように偏見と差別で汚れた病名を、別の病名で置き換える努力はその後も続きました。例えばアルコール嗜癖(alcohol addiction)、強迫的飲酒(compulsive drinking)など、200以上の名前が作られました。世界保健機関(WHO)では1957年にアルコール依存(alcohol dependence)という名前を提案し、現在ではこれが正式な病名として使われています。

しかし世間の偏見が消えてなくならない以上、どんな新しい病名を提案したとしても、それが広がると同時に「悪徳」や「堕落」の意味を帯びてしまうのは避けられないことでした。この事情は海外でも日本でも同じでした。


2009年07月27日(月) 非定型うつ病についての素人考え(その4)

52.7Kg, 7.5%
晴れのち曇り、夕方から雨。
54.8Kg, 10.4%
曇りのち雨。

非定型うつ病の話も今回でお終いにしたいと思います。

従来のうつ病と、非定型うつ病をあえて分ける必要があるのかどうか。
そもそも、この二つを明確に分けられるとも限りません。もともと非定型のうつ病を持っていた人が、内因性のうつ病を患う可能性もあります。ひょっとすると、大きなうつ病というジャンルの中で、従来型から非定型までグラデーションが広がっているのかもしれません。だとするなら、うつ病患者は、定型的な症状と非定型的な症状を合わせ持っている可能性もあります。

例えば内科の病気であれば、肝臓の病気と腎臓の病気の間には明確な線が引けます。しかし、精神科の病気ではそうとも限りません。

一回目に書いたように、現在うつと診断されている人の中には別の病気の人が混じっていると思われます。昔だったら神経症のカテゴリに入った人、実は分裂(統合失調)なのだが告知されてない人、非定型精神病の人、詐病の人、などなど。様々な病気の人が、意欲や集中力の減退という前景症状を入り口にして治療に入り、うつという病名が仮に与えられたとしても、治療は枝分かれしていきます。だから、病名を厳密に分類しなくても構わないわけです。

けれど素人は「うつは心の風邪」とか「ともかく休養」という言葉に踊らされて、画一的な対応をしようとする。それが問題なのだと思います。

さて、非定型うつ病は病気のぶり返しが多い病気です。休職が明けて仕事に復帰してもまた具合が悪くなり休職というパターンの繰り返し。休むことが治療になっていないのですから、当たり前のと言えば当たり前です。

前回、器質因という話を書きました。
アルコール依存症も器質因の病気ですが、脳のダメージは断酒後の時間とともに回復していきます。けれど回復を時間任せにするよりも、積極的にリハビリをするべきだと思います。手足の骨折後にリハビリが必要なように、脳だってリハビリが必要でしょう。サボれば機能回復しない部分ができても不思議じゃありません。
人間関係のトラブルが起こるのなら、それを回避せずに人間関係の中に身を置いて対処法を学んでいくのがリハビリに相当するでしょう。仕事や自助グループは「相手を選べない」(回避できない)点で利点があります。友人関係やネットはそこがヌルくなってリハビリになりません。

非定型うつ病も器質因が主体であれば、同じことが言えると思います。決まった時間に決まった場所に集まる人間関係が益になるのではないかと。
無論、そこでの人間関係の辛さを安定剤で乗り切っているようでは何にもならないのですけど。

この病気、回避癖がキーワードという気がするのです。


2009年07月25日(土) 非定型うつ病についての素人考え(その3)

曇りときどき晴れ。

非定型うつ病の話の続き。

昨日のまとめ。従来型のうつ病の場合には何よりも休養が大切ですが、非定型うつ病の場合には生活のリズムを維持することが大切で、そのために多少辛くても休まないほうが良いとされます。

うつ病であれば「とりあえず休養を勧める」という紋切り型の対応では、非定型の人には逆効果になりかねません。

あと、うつの人を「励ます」「(目標を持たせて)がんばらせる」ことは症状を悪化させるため禁忌だとされます。しかし、非定型の場合には多少励ました方がよく、毎日目標を持って生きることは大事なので、対応も違ってきます。徹頭徹尾優しくソフトに接するべきだという対応も、非定型に対しては「言葉は優しく、心中厳しく」が基本と変わります。

非定型うつ病の人の特徴としては、「相手の言葉や行動を、悪意に受け取る」という傾向があります。

例えば上司から「あの仕事はどうなっている?」と聞かれたとします。上司は単純に仕事の進捗具合を確かめたかっただけなのに、本人は仕事の遅れを責められていると感じて、遅れてもいない仕事の言い訳を始めるとか。復職を拒まれれば「会社は俺を嫌っているんだ」と感じ、気を遣って軽減勤務にしてもらっているのに「期待されていない」と不満を持ったりします。

奥さんに「あなたの病気が早く良くなればいいのに」と言われると、「あなたと結婚して私は不幸になった」と言われているように感じたりするわけです。

結果として、本人の心の中に、馬鹿にされている・軽んじられている・責められている・上から目線で見られているなどという感情が生まれ、対人関係がギクシャクする原因となります。

実はこういう「なにげない相手の態度を悪意に感じる」のは、精神科の病気のうちで器質因の病気にありがちな症状です。アルコール依存症も器質因の病気で、実際脳の萎縮が見られます。脳萎縮がCT画像で見つかるかどうかは無関係に、大なり小なりすべてのアル中さんに見られる傾向で、断酒後も続きます。

ただ、アルコールによる脳の器質変化は決して不可逆ではないと言われ、長期間の断酒によって、この「扱いづらい性格」も徐々に矯正されていくことは数多の例によって実証されています。

話を非定型うつ病に戻します。ある精神科医のブログでは、非定型うつ病という新ジャンルを作ることを良しとせず、あえて当てはめるならば「器質性うつ病性障害」という既にある病名を挙げていました。従来のうつ病は内因の病気ですから、非定型は病気の仕組みが違うともとれます。

精神が健康な人相手でも「何気ない自分の一言が相手の気分を害してしまう」ことはあることです。しかし、器質性の精神病の人を相手にする場合には、かなり気を使わないと、相手のこの症状に巻き込まれて苦労することになります。
これはアルコール病棟でも自助グループでも言えることです。

でも一番難しく厳しいのはネットなのかも知れません。個人的な意見としては、断酒板(断酒の掲示板)とか断酒系のブログ(他の依存とか摂食障害とかACとかも含む)のなかでも、「自分はうつだ」と言い添えている人たちを相手にするときは、一番気を使う必要があると思います。

「そもそもネットに出てくること自体が<うつ>らしくない」ということは、昨日、一昨日の雑記を読んでいただけたらお分かりと思います。ネットであれば比較的自分に好意的な人たちのコミュニティも見つけやすい(職場や自助会ではそうはいかない)ですから、非定型うつの人にとってネットは良い道具でしょう。

親切心から掲示板に投稿したり、ブログにコメントを書いたら、いきなり機嫌が悪そうな返答が出てきて驚いたことはありませんか?

元気そうに見えても病気は重い、ということなのか。非定型うつの人への対応で、(心は鬼にしたとしても)言葉や態度はあくまで優しくする、というのはここらへんのことかも、と思ったのでした。


2009年07月24日(金) 非定型うつ病についての素人考え(その2)

52.9Kg, 8.9%
午前中は曇り、午後は晴れて暑くなったが、夜になって雨。

非定型うつ病の話の続き。昨日のまとめ。

・非定型うつ病は、楽しいことや面白いことはでき、良いことがあると気分が晴れる。
・非定型うつ病は、朝は比較的調子が良く、夕方から夜に具合が悪くなる。

では三番目。
本来のうつ病では不眠が顕著です。眠れないのに何もできないので横になっているのが大きな苦痛に感じます。非定型では逆に傾眠の傾向が強く、薬を使って夜に十分寝ているにも関わらず、昼間にもっと寝たく感じます。

四番目はイライラしていて落ち着かない(易怒性)。
人間関係でイライラしやすく、それを相手にぶつけるためせっかくの関係が壊れてしまうことが多い。本来のうつ病の人格が自己犠牲と温かさを感じさせるのに対し、非定型うつ病の人は周囲にわがままだという印象を与えます。人に気を遣うより、人に気を遣ってほしいタイプ。

またうつ病の人は食欲が落ちてやせることが多いのですが、非定型の人は食欲が出て体重が増加しダイエットに励んだりします。

「鉛様まひ」といって、手足が鉛のように重く感じられ、体の芯が抜けたようにぐったりする症状があります。本人にとってみれば「体が言うことをきかなくて仕事に行けない」という状態です。

違いは治療方法にも表れます。

本来のうつ病では休養がもっとも大切です。「何をしたら有意義に休養できるか?」と医者に聞いて失笑を買ったという話がありましたが、有意義に休むためには何もしないのが一番です。生活に必要な最低限のことだけして、あとはごろごろ。症状が重ければ、やろうと思っても何もできないでしょうけど。
抗うつ薬も(薬が合えば)よく効きます。それに比べて、他の病気の症状としてうつが出ている場合(例えば依存症の離脱症状としてのうつ症状)は薬の効果はいま一歩な感じです。

非定型うつ病の場合には、多少辛くても仕事は休まない方がいいのです。非定型の場合には生活のリズムが乱れやすく、昼夜逆転になったりします。生活のリズムが乱れると鉛様まひやイライラが出やすくなるため、規則正しい生活を努めます。「やらなければならないこと」(例えば仕事)が、生活のリズムを維持するのに役立ちます。

(まだ続く)


2009年07月23日(木) 非定型うつ病についての素人考え

53.1Kg, 8.9%

最近掲示板の方に「非定型うつ病」という話を書きました。
「うつ」が病気だということが様々なメディアで取り上げられた結果、うつ病が世間に認知されるようになりました。一方で、「うつは心の風邪」という言葉のおかげで、様々な精神の不調が「うつ」という言葉にくくられるようになり、(確かにうつ状態には違いないのですが)本来のうつ病とは違うものも「うつ病」という診断を受けるようになりました。

従来のうつ病とは違うそうした病気に対して、一部では「非定型うつ病」という言葉が与えられています。では従来型のうつ病と、非定型うつ病ではどこが違うのでしょうか。

まず最初は、本来のうつ病では、楽しいことに対しても興味や関心がなくなり、意欲がわかなくなります。例えば野球観戦が大好きな人が、テレビの野球中継を見ることすらおっくうになり、まして球場に足を運ぶ計画を立てるなんてできなくなります。周囲が気晴らしに旅行に連れ出そうとしても、すでに生活全般が苦痛に感じている本人とって旅行は拷問のようにしか感じません。このように生活の中で楽しいこと、有意義に感じることがなくなってしまうのが特徴です。

ところが非定型うつ病では、仕事や家事などは面倒に感じて嫌なのですが、楽しいことやおもしろいことはできるのです。病気で仕事の休みをもらっているのに、収入が減るからとアルバイトをしたり、旅行の計画を立てて実行に移してしまったりします。しかし仕事に戻ると再び不調になります。

非定型の場合でも、気分の落ち込みや集中力の低下という症状は同じです。ただ好きな異性に会うとか、自分の意見が支持されるなど「いいこと」があると、うつが一時的に晴れるのが特徴です。これを「気分の反応性」といい、従来のうつ病と区別する重要なポイントです。(従来型ではたとえ好きな人とでも会うのは苦痛に感じる)。

二番目。一日の中で気分の変動がある(日内変動)のは共通ですが、本来のうつは朝方に調子が悪く、夕方から夜になって症状が軽減するのが普通です。朝はご飯が作れなかった主婦が夕方から出かけて夕食の買い物ができる。朝は出勤できなかった勤め人が、夜になると「この調子なら明日こそ会社に行けるかも」と思える(でもやっぱり翌朝はダメ)などです。(夜型人間というのとは違います)。

非定型の場合には、逆に朝は症状が軽く、夕方から夜にかけて具合が悪くなります。日曜日の夕方に「笑点」というテレビ番組をやっていますが、あれを見るともう明日は月曜日だと憂鬱な気分になる、というエピソードがあります。実に非定型らしい話(つまりうつ病らしくない話)だと思います。

(長くなったので明日に続きます)。


2009年07月22日(水) 登山に必要なもの

53.4Kg, 8.4%

トウムラシ山で遭難死した8人は全員が凍死でした。皆が防寒具を持っていたものの、ガイドを除く7人は夏物だったそうです。頭からかぶるフードが不完全で首筋から雨が染みこんで、中に着込んだフリースを濡らしたことも体温を下げる結果につながりました。
凍死といっても、当時の気温は10℃前後とされていますから、凍り死んだわけではありません。人間は体深部の温度が34℃を切ると生命の危険があり、気温28℃で凍死したという話もあります。冬用のヤッケを持って行った人たちは今回助かっています。

悪天候であれば、無理に下山せず山小屋にとどまる選択肢もあったはずです。しかし、今回は旅行会社の企画したツアー登山で、帰りの飛行機の予約が変更できなかったり、予備日が設定してなかったりという事情が判断ミスを呼んだようです。にしても、命の代償はあまりに高い。

さて、遭難すると捜索隊が出されヘリコプターが飛んだりします。この費用は誰が負担するのでしょうか?

基本的に、警察や消防(もしくは自衛隊)でまかなえる範囲は、税金で負担してくれるので無料です。(長野県では前知事の田中君が有料化しようと言い出してましたが)。

でも、普通は行政だけでは人手が足りないので、地元の山岳会の熟練に依頼して民間の捜索隊を出します。二次遭難もあり得る危険な作業なので、日当が支払われます。これが一日一人あたり数万円。プラス、彼らの移動、食料、装備、保険などの諸費用。県警や消防のヘリで足りなければ民間のヘリがチャーターされます。

むろん、費用がかかる捜索を始める前には、残された家族にどうするか確認を取りますが、そのときに「うちはお金がないので捜索しなくていいです」と言える家族は、ある意味立派かもしれません。そんなわけで数百万円はかかると言われています。

幸い?死体で見つかれば、死亡証明書もすぐに発行されますから、生命保険の死亡保険金でまかなえます。しかし、死体が出てこない場合には、7年経過して裁判所が失踪死亡宣告をするまで毎月の掛け金を支払っていかないと、保険金を手にすることすらできません。捜索費用は早めに払わないといけないのに。
おまけに登山は危険行為ですから、あまりに無謀な計画、チャチな装備で遭難すると保険会社が払い渋ることもあるかも。特に病気を抱えた登山で遭難は支払いが厳しいみたい。

助かってしまった場合には生命保険は役に立ちません。なので、登山専用に登山保険とか山岳保険というのがありますから、それに加入しておくのが無難です。

まとめると、

・ともかく登山保険にはいる。年間一万円ぐらい。
・夏山でも冬物の防寒具を持参。
・予備日をもうけておく。

ですよ、二郎さん。


2009年07月21日(火) Yahoo!解約

53.4Kg, 8.2%

Yahoo!JAPANの有料会員を解約することにしました。以前は294円/月だったのが、昨年末に346円に値上げされ、「はたしてそれだけ払う価値があるか」思案してきたのですが、「その価値はない」という判断になりました。

もともとネットオークションに参加するために取得したIDですが、最近はオークションで金を使うこともなくなりました。解約してもIDはなくならず、五千円未満であれば入札はできるようです(じゃ、なおさら解約可だね)。そのうち出品して小金を稼ごうと捨てないでおいたガラクタがいくつかあるのですが、これも処分しなくちゃ。

月月割が改悪されるようなので、今後はソフトバンクの携帯も契約しないだろうし、子供の携帯もいずれMNPでよそへ移すでしょう。自分にとってソフトバンクは「プロ野球団を所有している会社」というだけの意味しかなくなってしまいそうです。

最近どうも体の芯が抜けたように気合いが入らない日々が続いています。季節の変わり目に当たっているせいなのかもしれません。

AAのミーティング会場を移転することになって、あちこちFAXを送ったのですが、セントラルオフィスの出している月報(かわらばん)には載りませんでした。専用の書式で提出しなかったのがいけなかったのかな。まあいいや、来月でも。こっちじゃ「かわらばん」を見ている人が少ないからね。
(載せていただいたようです。ご配慮ありがとうございました)。

自分用メモ:長いので目を通していないけど、IT技術者はマイタケを食べると良いとか?
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10264063346.html (リンクするエントリを間違えていたので修正しました)


2009年07月20日(月) ステージに立たない

53.4Kg/8.0%

しばらく前のことですが、AAの病院メッセージに行くのに、別のグループのメンバーの車に行きも帰りも乗せてもらいました。ガソリンも使ったでしょうし、途中高速道路も使いましたから、降りる寸前に暗算して「これはちょっと少ないですけど」と千円札を差し出しました。

すると車に乗せてくれた人は、「私が自分の責任だと思ってやっていることです。だからそれは不要です」と断って、受け取ってくれませんでした。

僕は浮いた千円で、駅そばを食べ、西友まで遠回りしてバナナとジュースとヨーグルトを二個買って帰ったのでした。・・・なので、これからその人のことを褒めるわけです。

人に褒めて貰うこと、人によく評価されること、人に認めて貰うこと、こういうことばかり求めている人がいます。「私はこんなに頑張っている」というアピールがうるさい人々です。

例えばAAで「遠くのどこそこのAAに参加してきた」とか「AAの用事で時間を使っている」などという話をする人がいます。自慢とはちょっと違って、私はこんなに一生懸命AAをやっているというアピールです。「へぇ、すごいね」と言われることを求めているのでしょう。僕はそんなアピールを聞きたいのではなく、それでその人が何を得て、何を感じたのか知りたいのですが・・・。

子供は褒めて伸ばせとか、部下は褒めて仕事をさせろと言います。なるほど人は褒められる必要があります。でも、褒められることを目標に行動するのはいただけない。そういう人は、人に認めて貰えない努力はしたがらず、目立つことを好み、陰で地道にやることを好まないものです。

自分で自分の努力を褒めてあげるだけで不十分なのは、それだけ自分に対する自信を失っているのでしょう。子供のころに親から「もっと頑張らねばダメだ」と言われ続けたのかも知れません。部下に持つと(使えなくはないが)面倒くさいタイプです。

僕は車に乗せてくれた人と半日行動をともにして、彼がその病院メッセージを自分の責任だと思ってやっていることを感じました。褒められること、認められることを求めているわけではないと。一緒に行く人がいようがいまいが、彼は続けてきたし、おそらく今後も続けるのでしょう。

今度地元でメッセージフォーラムという企画があって、病院メッセージについての経験の分かち合いが行われるのですが、地道にメッセージ活動をやっている実績を評価して彼をスピーカーに推薦しても、おそらく彼自身に断られてしまうような気がします。

AAの中にあってもステージに立つことを求める人をスポンサーに選んではいけない、と思うのですよ。


2009年07月18日(土) アル中的性格

53.0Kg, 9.6%

アル中というのは、皆が同じ性格を持っています。
元の性格は千差万別なのかもしれませんが、そのベースの上に乗っかった「アル中性格」のほうがはるかに目立つので、アル中は皆が同じ性格傾向を持つ、という印象になるわけです。

アル中的性格とはどんな性格か、ということについては、たくさんのことが書かれているので、いまさらここに挙げる必要もないでしょう。

でも、一つぐらい例を挙げておきましょうか。

例えば、「アル中は誰もが似たような性格的欠点を持っている」と言うと、

「そんなことはない、ひとくくりにしないでくれ!」

と反論が返ってきたりします。要するに「自分は例外である」という主張であったり、「アル中的性格」が存在することそのものへの挑戦だったりします。いずれにせよ、ひとくくりにされることを嫌うことが、性格的欠点の露呈であることに気がついていないのです。陰気にムキになってしまうのですな。

マイナスな評価に対して過敏なんだよね。自分に自信がないからですけど。

せめて陽気にムキになるよう努めなくては。


2009年07月15日(水) 車検でちょちょ切れる

54.0Kg, 8.6%

またまた車検がやってきました。ビンボー人には辛い試練であります。
いつもはディーラーにお任せ車検なのですが、前回請求書を見て涙がちょちょ切れました。不景気のあおりをモロに受けている今回は、整備工場に見積もりを頼むことにしました。頼んだのは、怪しい絵とか光速デジタルが描かれたところであります。

見積もりに1時間半ほど待たされました。その間、茶も出されずに待つのであります。宣伝文句は「拘束デジタル」に変えた方が良いような気もします。

見積もり結果は・・・フロントのブレーキパッドがあと2mmしかないので泣く泣く交換。切れたブーツは交換しないと車検を通過しないので、これも交換。あとは油脂類の定期交換、ブレーキオイル、エアクリーナ、ATF、ギアオイル、パワステオイル。それとナンバー灯と右のスモールが切れているので交換。
これだけで整備費用が7万円近く(検査代込み)。

一方、エンジンオイルとエレメントは、あらかじめオートバックスで換えておくことにして、フェルフィルタの交換は次回に、バッテリーも「まだ大丈夫だから」と交換しないことにして、節約節約。

長距離通勤を続けたおかげで、すでに走行14万キロ。エンジン各所からオイルがにじみ、ラジエータからは冷却水が漏れます。ブレーキのディスクは錆び、ドライブシャフトのカバーにはヒビが入っています。でも今回は見なかったことにしてパス。来年お金の余裕が出来たら、ちゃんと整備しようと心に誓うのでした(ついでに板金もやろう)。

心配していたタイヤの残り溝は十分あったので、タイヤを調達しなくてすんだのは幸いでした。

これにさらに重量税と自賠責と印紙代か。前回より安いのは確かであるが・・。

「あなたが一番影響を受けた本(book)は何ですか?」

という質問に対し、バーナード・ショーはこう答えたそうです。

「銀行の預金通帳だよ」

支払い後の預金残高を見て涙がちょちょ切れそうな悪寒がします。


2009年07月13日(月) 病院メッセージ

53.9Kg, 7.8%

2年ぶりに出身病院へのAAメッセージ活動に行ってきました。
日本のAAで「メッセージ活動」というと、病院などの治療施設を訪問してAAミーティングみたいなことを定期的に開催することを指すようです。

なんで「メッセージ」というのかというと、ステップの12に「このメッセージをアルコホーリクに伝え」carry this message to alcoholics、とあるのが由来です。実際海の向こうでは、メッセージ活動とは呼ばず、12番目のステップ活動と言うそうです。

ただ、日本のAAが病院内でやっているミーティングは「霊的なメッセージを運ぶ作業」とは違っていて、単なる「オープンミーティングの出前」というかAAの広報活動なんだと思います。広報活動も12番目のステップに含まれると言われれば、そうかもしれませんが。

AAが外部との接触を断ったら、秘密結社になってしまいます。病院メッセージは大事なリクルートの場です(でも無理な勧誘は御法度)。私たちは常に「新しい人」が必要なのです。「私たちには私たちを必要としてくれる人が必要」ですからね。

昨年の4月に作った新グループは、ミーティングは何とか続いています。施設から人が来てくれるおかげで、参加人数は常に十人を超えています。でもグループメンバーは創設時の3人のまま(減りもしないけど)増えもしません。そろそろ新しい血を混ぜないと、よどんでしまいますな。

個人的には病院メッセージでステップの話をする奴はお間抜けさんだと思っています。ステップがやりたくてAAに来る人はおらず、たいていはアルコールの問題をなんとかしたくて来るのですから、病院では酒の話をするのが相応でしょう。

一回や二回病院を訪問したぐらいで、いきなりメンバーが増えることもないでしょうから、これから地道に続けるしかありません。


2009年07月12日(日) 子供をAAに?(その3)

54.6Kg, 10.4%

子供をAAの会場に連れて行くのは是か非か? という話を締めておかないといけませんね。

「子供の面倒をみなけりゃいけないのでAAには行けない」というのなら、子連れでAAに行った方がいいのだが、それは次善の策であって、会場で子供の面倒を見ているとどうしても人の話を聞くことはお留守になりがちだ、という経験が、前回までのお話でした。

では、連れて行かれる子供にとってはどうでしょうか。

お父さん、お母さんが家で飲んだくれているよりは、飲まないでいてくれる方が余程マシですから、そのために連れて行かれるのなら仕方ないか、という諦めもあるでしょう。まるで飲酒防止の監視役をやらされている気分かもしれません。

問題なのは、AAの会場にいる大人たち(AAメンバーたち)は、素面になったとはいえ、まだまだバランスを欠いたアル中さんたちである、ということです。バランスを欠いていないAAメンバーはいないし、それはAAメンバーに限らず酒をやめたアル中さんに共通の問題であります。
一般社会の中に素面のアル中さんが少し混じっている、という状態ならまだしも、自助グループというのは問題を抱えた人たちばかり集まっているわけです。当然理想の状態からはかけ離れた場所になります。AAで他の人に対する「配慮」が強調されるのは、皆がそれを欠いているからに他なりません。

小学一年生の男の子にコーヒーを勧めた人がいました。これは笑い話で済みますけど。
子供に聞かせるのはまずい話を平気でしてしまう人もいます。それも自分が飲まないために必死なのかもしれません。自分が子供に会えなくなったので、子連れの人に嫉妬を抱く人もいます。単に酒が切れて間もないので、イライラを自分より弱いものにぶつける人もいます。
ミーティング会場は自分を守れない者にとっては、けっこう厳しい場所なんですよ。

これが大人のアル中本人なら、人間関係のスキルがなくて対人関係で傷ついてばかり、だからAAに行くのが辛いと言われても、そりゃ飲まないためには乗り越えられる壁だよとか言っていられるのですが、相手は子供ですから。

それでも子連れで行くしかない時もあるでしょう。それが現実というものです。理想がすべて実現できないからと悲観する必要もありません。100か0かの白黒決着をつけないと気が済まない硬直した思考ではなく、「しょうがないよね、あはは」と笑ってすませられるグレーゾーン許容も、回復の一つの指標だと思います。


2009年07月10日(金) 子供をAAに?(その2)

子供をAAの会場に連れて行くのは是か非か? の続き。

AAのイベント会場に奥さんと子供を連れてきたメンバーに、「ご家族の理解があってうらやましいですな」という話をしたら、家族と一緒に来ると、どうしてもそちらの相手で時間を取られてしまい、仲間との分かち合いの時間が減ってしまうのが難点だ、とおっしゃっていました。

前妻は僕がAAに関わることに不満たらたらでしたし、子供たちも幼かったのでAAとは無縁に育ちました。

ある時、泊まりがけのAAイベントに行ったところ、大人達がバーベキューに興じる脇で、連れてこられた子供たち十人ほどがきゃーきゃー遊んでいるのを見て、和やかな気分になりました。おそらくあの子達はお互いに面識もないか、ほぼ初対面なのでしょうが、それでも一緒に遊べるところが子供の素直さでしょう。
それは、バーベキューというリクレーションのイベントだったからうまくいったのでしょう。

別のある時、日曜の朝、隣県のステップセミナーに出かけようと準備していると、子供たちが起きてきて「パパだけお出かけするのはずるい」と言うのでした。パパは遊びに行くのではないのだが、それでも一緒に来たければどうぞ、と連れて行くことにしました。しかし、真面目なセミナーに連れて行くのは失敗でしたね。

会場の中に連れ込んでも、子供たちは長くおとなしくはしていてくれません。スピーチ一人分もまともに聞けませんでした。しかたなく、会場の外で仲間とおしゃべりしたのですが、それも1時間が限界でした。
しつけが悪いと言われれば反論の余地はありません。ただまあ、仲間の姿を見ると、子連れで会場に来てゆっくりスピーチを聞いている余裕はなかなか無いようです。会場の外で雑談をするのは楽しいけれど、何のためにセミナーに来たのかわかりゃしない。とはいえ、僕も「遊びに行くわけじゃない」と言いながら、事実上遊びにいったに等しい時もあるわけなので、本人の中で遊びに行っているという意識があるなら、それはそれということなのかも。

まあ、中には1〜2時間は子供をおとなしくさせることに成功している親もいて、うらやましい限りです。僕はダメですね。結局あの時もセミナーは諦めて、近くの公園で夕方まで遊び倒んだっけな。

(まだ続く)


2009年07月09日(木) 子供をAAに?(その1)

子供をAAの会場に連れて行くのは是か非か?

原則論から言えば、AAはアルコール本人の集まりなので(子供がアルコホーリクでないならば)クローズドに連れてきてもらっちゃ困るわけです。でも、原則は原則として、小さい子供を預けられる人がいないとか、子供だけで留守番はさせられないならば、連れて来ちゃうしかないと思うのです。これが現実論というもので、原理原則ばかり語っていたって、現実問題を克服できなきゃしょうがないわけです。

アメリカの某所のミーティング会場リストを見せてもらったら、"cc"という記号があちこちに書かれていました。child careの略で、親がミーティングに出ている間は、別室で子守をしてもらえる印だそうです。子守役はメンバーが輪番でやったり、高校生をアルバイトで雇ったりするとか。グループがそういう子連れの需要に応えられるまで成長しているのでしょう。

以前県内で泊まりのイベントをやったとき、ミーティングの間は子供を別室に集めてみたことがありましたが、子守役のメンバー(♂)はへとへとだったようです(さもありなん)。

日本では、個々のグループがそうしたサービスを行うところまで進んでいないでしょうから、ミーティング会場内に子供が座っているのも仕方ないと思います。本を読んだり、DSをやったり、宿題をやったりして、おとなしくしていてくれればありがたいのですが、まあ子供ですから多少ドタバタするのはガマンしなくちゃならないでしょう。

ただ会場に子供を連れて行くのは、あくまで現実問題に対処するための次善の策に過ぎません。とーちゃん、かーちゃんが家で飲んだくれているよりは、子供と一緒にAAに行った方がいいというレベルの話です。

「ときとして善は最善の敵となる」というのもAAの言葉であり、これにも当てはまると思うのです。

(続く)


2009年07月08日(水) ステップ1

ビッグブックから

「彼は率直に、自分にはもう何の見込みもないことを認め、そう信じていた」
He frankly admitted and believed that for him there was no hope.

「その患者は自己診断をして、自分にはもう見込みがないと決め」
The patient had made his own diagnosis and deciding his situation hopeless

12&12から

「これらの「死にかけた」人たちでさえ、自分が実際にどれだけひどい状態であるかは、なかなか理解できなかった。しかし、それを認めた人たちがいた。」
Even these "last-gaspers" often had difficulty in realizing how hopeless they actually were. But a few did

ステップ1を表現する言葉に、共通している単語は hopeless か。
自分の前途にはもう何の希望もない。酒がやめられずに死んでいくだけだ。という認識でしょうな。

まだ、自分は酒がやめられるし、働いて稼いで真面目にやっていれば、奥さん子供も帰ってくるかも知れないし、また人生が楽しくなるかも知れない・・・と思っているうちは、まだステップ1の無力を認めたことにはならないのだろう。

とそんなことを考えました。

今日飲んでいないからといって、やめられたことを意味しないのだとも。


2009年07月07日(火) ニュース検索更新

ずいぶんほったらかしでしたが、ようやくニュース検索を更新しました。

大きなところでは Google と livedoor の表示形式が変更されていたので、それに対応。それから、マイクロソフトの検索が bing というものに変わったのに対応。

あと、実験的にNHKを検索対象に加えてみました。ただ、ニュース配信だけでなく、番組データも区別なく検索されちゃうので、ハートをつなごうのブログまでひっかかっています。


2009年07月06日(月) バースディ

自宅に一番近いAA会場にひさしぶりに顔を出しました。
バースディミーティングであることは、すっかり忘れていました。来週病院メッセージに行くことになっており、その病院が遠いので、できればそのグループの人の車に同乗させて貰おうと考えたのです。その頼む相手のバースディの日でした。(行けて良かった)。

他のバースディの人の中には、最近始めた仕事がうまく続かなかった人もいました。そこで僭越ながらこんな話をしてしまいました。

AAメンバーにとって働くことは大切なことだと思います。ただそれは、金を稼ぐということが一義的に大事というわけではありません。世の中には金を払ってもらえない仕事も沢山あるのはもちろんのこと、労働には稼得以外の意味があるからです。

今の世の中で働くことは、すなわち「他の人と関わる」ことを意味します。他人と関われば人間関係が出来てきます。人間関係ができれば、人間関係の悩みもできてきます。この悩みから完全に解放された人はいないでしょう。

仕事という、おいそれとは逃げられない環境で人間関係の悩みと向き合うことがAAメンバーにとって意味があることだと思います。ビッグブックでも12&12でも、私たちのトラブルはいつも人間関係をベースに書かれており、性格上の欠点も人間関係の中で明らかになってきます。すると棚卸しが書きやすくなります。

だから飲まない期間がそれなりに長くなったら、働くのがいいと思うのです。例え仕事がうまく続かなくても、その中で(相手の問題ではなく)自分の問題に気がつくことができるでしょう。

ちょこっとそんな話をした後で、その晩のトピックである「気づき」の話にうつりました。時間は4分ほど。帰る前に同乗の承諾は無事もらえました。


2009年07月05日(日) vs.ソフトバンク

52.9Kg, 8.0%

別の体重計で測ると、体脂肪率は13%でした。

ソフトバンク携帯のパケット代がいきなりかさんでしまいました。携帯を使っているのは下の子(小学生)であり、教育上ウェブ閲覧は禁止してあるのでパケットは余り使わないはず、と思ってパケット割引に加入していなかったのが間違いでした。

ふくらんだパケット代を何とかできないものか。パケット割引を申し込めばいいのですが、最近は「適用は申し込みの翌月から」などと言うので、すでに使った分については割引いてもらえません。

それでも調べてみると「かんたんミュージック」なるサービスに同時に申し込めば、当月にさかのぼってパケット割引が適用されるのだそうです。

かんたんミュージックは、おすすめの楽曲販売へのリンクをメールで勝手に送りつけてくるサービスだとか。そのリンクをクリックしてしまっても、ウェブ閲覧が禁止してあるので実害はないだろうと踏みました。

本社に顔を出したついでに、すぐ近くにあるソフトバンクショップで「かんたんミュージック」の申し込みをしました。美人で足が細くて親切なおねーさんが対応してくれたのはいいのですが、親切すぎるおねーさんは「ついでにS-1バトルも申し込んでおきました」と言うではありませんか。S-1バトルというのは、かんたんミュージックと似たようなもので、ただ音楽ではなくお笑いがネタのようです。

(勝手なことをするなよ!)と思ったのですが、ここでモメて時間を食うと職場に戻るのが遅くなります。それはまずいので、ぐっとこらえて矛を収めることにしました。ま、ウェブ閲覧は禁止してあるから大丈夫だろう、と。

その後も、下の子の携帯は日々着実にパケット数をのばしていきます。そもそものパケット大量消費の原因は取り除かれているのですが、なぜか日々パケットが大量消費され続けています? どうも「かんたんミュージック」や「S-1バトル」のメールがHTMLメールになっていて、画像などで飾り立ててパケットを消費する仕組みになっているようです。
相変わらずソフトバンクは小汚い商売をしているようで、ショップのおねーちゃんも片棒を担がされているのでしょう。スパボの誘惑に騙されてソフトバンクと契約した僕が悪いとはいえ、端末の残債がある以上、まだまだ携帯を解約できないのが悔しい。

ネットで検索してみると、ソフトバンクのこうしたサービスは、とっても解除がやりにくいらしいのです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/2009/03/softbanks1.html

子供は養育係(前妻)のもとにおり、いつでも会えるわけではありません。端末にアクセスできないとなると、僕もソフトバンク157との熾烈なバトルを展開せねばならないのか・・・。と暗澹たる気分になりました。

しかし、性悪なソフトバンクも今回は対応を改めたと見え、サポートセンターのおねーさんは、素直に「かんたんミュージック」と「S-1」の解除に応じてくれました。それどころか「他にも二つメール配信が行われているのでそちらも同時に解除しましょうか?」と言うではありませんか。どうもご親切にありがとう。
知らないうちに、二つも勝手に契約させられていたのね。油断も隙もならねぇな。

もっとも養育係が勝手にパケットを使わなければ、こんな面倒ごともなかったはずです。「女房の悪いは六十年の不作」と言いますが、離婚しても不作は止まらないのか。あるいは「悪妻は百年の不作」とも言い、夫だけでなく孫子まで三代に渡って悪影響が残るとか。やれやれであります。


2009年07月04日(土) オープンスピーカーズ

53.3Kg, 8.3%

県内最初のグループの25周年集会にお邪魔してきました。
内容的にはオープンスピーカーズ・ミーティングでした。
お昼休みに参加人数を数えたら三十数人。これは、最近のAAイベントとしては淋しい人数でしょうね。けれど、オープンスピーカーズは人数うんぬんではないと思っています。

ステップセミナーと言われるAAイベントはステップの経験の分かち合いですから、対象はAAメンバーです。だから、参加したAAメンバーの数でイベントの成功度を計りたいと言うのなら、僕は反論しません。

でも、オープンスピーカーズは「AA以外の人にAAの中身を知ってもらうためのイベント」です。そこでは、いかにたくさんのメンバーが集まったかとか、遠く(県外とか)からメンバーが来てくれたか、という基準は意味がありません。あまりそこにこだわってしまえば、マスターベーションになってしまいます。
やはり、AA以外の人がどれだけ来てくれたか、が一つの大きな基準になると考えます。

あいにく隣県で二つAAイベントが開かれていて、AAメンバーの集まりは悪かったのですが、会場には見慣れぬ(雰囲気の)人も多かったので、おそらくAA以外の人も多かったのだろうと思います。

その場でスピーカーを依頼されたので15分話をしました。順番が何人目かだったので、人の話を聞きながら話の中身を考える余裕がありました。先頭とか二番目にいきなり話す人は大変だと思います。事前に頼まれれば、前の日までにちゃんと考えておくんですけどね。
なので、その場での依頼は断ることにしているのですが、断れない相手もいるわけです。


2009年07月02日(木) 階段

52.9Kg, 10.6%

ねんきん定期便というのが郵送されてきました。今年3月までの年金加入の記録が細かく報告されています。経費のかかることでしょうが、いままでこういう報告書がなかった方が変だったわけで、これが普通なんだと思います。

年金というのは25年払ってないともらえないのだそうです。40代後半の僕はそろそろその条件を満たしてもよさそうですが、まだ数年かかります。僕らの世代は学生に加入義務がなかったので、その年数分減っているのですが、僕はそのほかにも未加入期間があります。

20代の頃は飲んだくれて年金払ってませんでした。それどころか、地方税や健康保険も払ってなくて、保険証をもらえなかったし。水道代も払えなくて、トイレ流せなかったりして。身分証明書がなかったので借金できなかったのは、かえって幸いだったかも。本を古本屋に売った金で酒を買ったりしていました。

そんな半引きこもり、半無職状態で自殺未遂をして、実家に戻る羽目になりました。それから田舎でアルバイトを始め、親の金で運転免許を取って、小さな会社に正社員で潜り込みました。それから転職やら倒産やら。

今の会社に移って本社に挨拶に行ったとき、玄関前に社長のベンツが駐めてありました。それを磨いている人は縁故採用の運転手なんだ、という話を聞いて、僕はなんだか腹が立ちました。社長の贅沢が、まるで社会的不正義か何かのように思えたのです。後日、その憤りを実家の母に話したところ、聞いていた母がいきなり泣き出しました。

「飲んでどうしようもなかったお前が、社長が運転手を雇うような会社にようやく入れたんだねぇ。こんな日が来るとは、かあちゃん思わなんだよ」

返す言葉もありませんでした。

それを意識していたわけではありませんが、無職の状態から一歩ずつ階段を上ってきたのだと思います。経済的安定を目指して、三段とばしでその階段を駆け上がりたいと思ったこともありました。でもたとえば、自分勝手に考えて転職を試みても、結果は失敗でした。仕事も、なるようになるし、なるようにしかならないことなんだと思います。
今後少しは楽になるという保証はありませんが、経済的なことも「それが必要であれば与えられる」と思っています。そのために必要なのは、目の前にやってくることを、次々と片づけていくことでしょう。

もちろん、今でも時々三段とばしで上りたくなるときもあります。そんなときに、思い出す言葉があります。最近もまた、その言葉に出会いました。

「私は完璧にはほど遠いが、完璧になることを求められているわけではない」

とはいえ、宝くじは買うのであります。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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