心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年09月30日(火) 不思議と言えば不思議

単純に考えて、ビッグブックという本は、AAという集まりを広報(広告)するために出された本ではありません。

AAの最初の100人は「自分たちのメッセージと他に類のない体験を、世界中に伝えるため」に「本を出版する」という手段を選びました。それがビッグブックという本として結実したのです。

最初の100人は、AAを広める手段として、メンバーが全米あるいは世界中に散って、各地でAAグループを立ち上げていく方法は取りませんでした。同様に、スポンサーからスポンシーへと直にメッセージを伝えていくやり方だけに頼ることもできなかったのです。当時の彼らがそのことに固執していたなら、AAの広がりは遅々としたもので、半世紀たってもAAが世界で百万を超えるメンバーを抱えることもなかったでしょうし、日本にAAが伝わってもいなかったでしょう。
日本人の僕が今AAで飲まない生活をさせてもらっているのも、そうした彼らの決断のおかげです。とりあえずそれに感謝です。

ビッグブックの1939年初版の「個人の物語」の最後には "Lone Endeavor"(孤独な努力)というストーリィが載っていました。これはロサンゼルス在住のPatというアルコホーリクからの手紙です。Patはどうしようもない飲んだくれだったのですが、彼の母親が医者からAAのことを聞き、AAのオフィスに問い合わせてビッグブックの原稿を入手しました。

彼の手紙は、彼がビッグブックによって助かって、今では他の人たちの手助けを始めていると結ばれていました。ニューヨークのAAメンバーの興奮は大変なものでした。彼こそ「本だけによってメッセージが伝わった最初の例」だったからです。というわけで、彼の手紙は初版の入稿に間に合わせて掲載されることになりました。また、感激したメンバー達はカンパを募り、長距離バスの切符を買って、Patをニューヨークへと招待しました。

が・・・、メンバーが待ちかまえる中、ニューヨークに着いたバスからはPatが降りてきません。彼は長距離バスの中で飲んだくれてしまったのです。というわけで、初版の二刷りからは "Lone Endeavor" は削除されてしまいました。というドタバタ劇ですが、最初のメンバー達が「本によるメッセージの伝達」にいかに執心していたかを伝えるエピソードとして、僕はこの話が好きです。ちなみに、"Lone Endeavor" は「経験と力と希望」というAAの本に再録されています。

「私はビッグブックを信じている」と真顔で言う人たちが、なぜあの第二版の序の一節だけ信じようとしないのか、僕には不思議でなりません。いや、ビッグブックを詳しく読めば、あの本のあちこちに、「この本を読んで、孤独にステップをやって、ともかくその地域の最初の一人になって、他の人を助けてくれ」という強い意志を感じるものだと思いますが、どうやってそれを無視しているのでしょう。
まあ、人のことはどうでもいいか。自分のこと優先で。


2008年09月28日(日) 雀鬼

アルコール摂取による気分の変動は大きかったと思います。そりゃ酩酊飲料ですからね。
酒を飲んでいた頃は、アルコールに比べれば、カフェインや糖分など「たいして意味はない」と思っていました。それぐらい、アルコールの影響は大きかったのです。
でもしらふになってみると、カフェインや糖分による気分の変動もかなり激しく感じられます。

男女でデートをするときに、食事の後でお酒を飲みに行ったり、あるは最初から居酒屋で飲んだり・・それは「お酒を二人で飲むと楽しいから」ってのはわかるのですが、なぜ喫茶店で二人でコーヒーを飲んだりするのが楽しいのか理解できませんでした。アルコールの代わりにカフェインという化学物質を使っているのですね。
気分がすっきりして高揚し、ますます二人でいるのが楽しくなる、というわけです。もしくは、甘いものを食べて、血糖値が上がってくるのも楽しいし。

僕が、アルコールの価値だけを偏重、偏用していたので、カフェインや砂糖の効用に気づかなかっただけなのです。お酒をやめたら甘いものが好きになる、って話もこの範疇でしょうか。

AAミーティングの後で仲間と食事に行くと(いわゆるアフター)、ついついドリンクバーを頼んでしまい、2杯も3杯とコーヒー紅茶を飲むと、気分が高揚して話が楽しいのですが、2時間もするとかえってイライラしてきます(そりゃアフター長すぎ!)。おまけに帰宅してから不眠です。

カフェインも毎日習慣的に多く摂取すれば、あっという間にハマりそうな気がします。朝起きたときに、薄目のレギュラーコーヒーを一杯飲んだ後は、せいぜい業務時間中に飲むコーラか、夕方のAAミーティングで薄いインスタントコーヒーを飲むのが、僕にはちょうど良い量です。糖分の効用も身にしみて分かっています。

「コーヒー飲んでテンションあげないとやってられない」

という話を聞くと、ああ、この人もカフェイン・ジャンキーなんだなと思ってしまいます。でも人のことは言えません。

昨日はスポンシーの棚卸しの最後の表を聞きにいったのですが、途中のコンビニでブラックのコーヒーを買っていきました。

「珍しいですね。コーヒーは飲まないんじゃなかったんですか?」
「これ飲んでテンションあげないとやってられません」

ステップ4の表で、あまりに登場人物が多いので、ステップ8の表に書き写すのに時間が長く、途中で見捨てて帰っちゃいました。こうなることは4の表を見たとき分かっていたのですが、まさか、4の表を書いている最中に「あんまりたくさん登場させると、あとで8/9が大変ですから、ほどほどに」とは言えませんしね。表はともかく、実際の埋め合わせはなかなか進みませんが、長生きして少しでもリストを消していってください。

雲の上から、ケータイの電波の届く地上へ帰ってくると、いろいろメールや留守電が入っていました。コーヒー飲みながら深夜までスカイプなど。おかげで、横になっても朝方までまんじりともできず。

午前中は眠くて仕事もぼちぼちでしたが、先ほどドリンク剤を飲んだので、そのカフェインが効いてきました。これから夕方までがんばります。

「これ飲んでテンションあげないとやってられない」

僕も立派なカフェイン・ジャンキーかもしれません。


2008年09月27日(土) 久しぶりの道具追加

お腹を下した、というわけじゃありませんが、まるで止まっていた腸が突然働きを再開したかのように、2〜3時間おきにトイレに行かねばならない状態が続きました。「僕の体の中に、こんなにはいってたんだぁ。すげぇ」とか感心している場合ではありません。おかげでロクに眠れませんでした。
ある種の呪いでありましょう。

かなり久しぶりに 道具90 を追加しました。

もう寝ます。


2008年09月26日(金) 控除

市役所に行って、障害者手帳を受け取ってきました。
更新手続きの診断書をお願いしたのが7月中旬。この診断書代はクリニックによってずいぶん違うようですね。8月末に手帳の有効期限が切れ、9月になってから「新しい手帳ができたので取りに来い」という通知が来ました。

受け取るついでに、市内のバスに100円で乗れるパス券と、市営の温泉施設の無料券30枚をもらいました。

「なにか変わりはありませんか?」と聞かれたので、離婚して一人暮らしになったことを告げ、住所変更の手続きをしました。所得税の障害者控除は、年末調整で毎年お世話になっていますし、NHKの受診料減免は、我が家にはテレビがないので無関係です。

車のヘッドライトのバルブが切れたので、ディーラーで交換が済むのを待っている間、出してもらったコーヒーを飲みながら展示されている新車を眺めていました。立派な家を建てても持ってあることができず、自慢の家族も連れて歩いて見せびらかして回るのは難しい。それを考えると、自動車というのは経済状態をディスプレイするのに手っ取り早い道具です。なので、おじさんたちは高くて見栄えのいい車に乗りたがって当然ですな。
プリウスとセルシオの区別もつかない女も多いというのにね。

一時期100ドルを切った原油価格もまた上昇しています。

所得税の控除で思い出したのですが、離婚によって妻のぶんの控除(配偶者控除とか)と子供の扶養控除を失いました。合計百万円を越えます。そのぶん税額も十数万円アップしてしまいました。地方税も同じ具合で増えます。おまけに、会社から家族手当を支給されなくなるので、離婚による減収はいろいろ合わせると五十万円をゆうに越えます。分かっていたこととは言え、まったくトホホです。

国の税制は、子供を扶養している人を手厚く減税しています。相対的に、子供を扶養していない単身者は重税感ずっしりになります。国というのは国民が存在しないと成り立たないので、次世代の納税者を再生産する=子育てをする行為は、税額控除によって保護してくれるわけです。
少子化が叫ばれて久しく、国も有効な手だてを打てないでいます。子育てしやすい環境を整えることはもちろんですが、結婚しないで子供も作らない人に重税を課すというのも一つのやり方なんですよ。みんなそれは嫌でしょうか?

元妻と交渉して、扶養控除を一人こっちに分けてもらおうかな。
そんな面倒なことをしなくても、真面目に養育費を払っているオトーサンを、国は税額控除で応援してもらいたいものです。まあ、それは離婚を助長してしまうという理屈で(つまり300日条項の削除に反対するのと同じ理屈で)、保守的な考えの人たちの反対に遭うのでしょうね。

はてさて、今日はホームGのミーティングだったのですが、終わって晩飯を食べているところにゲンナリすることがあって、いささか疲れています。今日の雑記も後半はグチばっかりになってしまいました。ぶつぶつ。


2008年09月23日(火) スパボ一括

娘がケータイを壊しました。
修理代金が無料になる保険は、月々の支払いがわりと高くて無駄っぽいので解約してしまい、だから「落として壊すなよ」と念を押しておいたのですが・・・。
まさか、踏んで壊すとは。
部屋が散らかっているからだよ(たぶん)。

使用不能ではないのですが、液晶にヒビが入って、黒いシミが広がってしまい、電話をかけるにもメールを読み書きするにも不便になっていました。

修理にいくらぐらいかかるかショップに尋ねてみると、1万円という回答でした。月々500円をケチって、1万円の損。いやそれよりも、娘の機嫌がなんとなく悪いのが、こちらには居心地が悪い。

1円ケータイが当たり前の頃でしたら、速攻で解約して新規契約すればすむことです。が、総務省が余計な通達など出すものですから、2年縛りが当たり前になってしまいました。中途で解約すれば1万数千円支払わねばなりません。(データ通信用に使っているPHSも、まだ1年以上契約期間が残っています)。

そこで、カウンセリングを受けに東京までいった際に、新宿駅西口のカメラ屋で「スパボ一括」の端末を14,800円で買いました。ソフトバンクの場合にはSIMカードを入れ替えれば電話番号もメールアドレスも移せます。古い端末は僕が預かって、保険をかけ直してからタダで直してもらうことにします。この番号について不要なオプションを解約すれば、月々の支払いはユニバーサルサービス料6円だけですむはずです。そして2年たったら解約の予定。

次女にも来年の誕生日が来たらケータイを買い与える約束です。でも次女は、おねーちゃんやママのケータイを勝手にいじくって、ネットでゲームを遊んだり、いろいろダウンロードして課金されまくった前科があるので、電話とメールしかできないプリペイド端末にする予定です(パソコンがあるんだからそれでやれ!)。

ソフトバンクのプリペイドはEメールができるから便利です。年末ぐらいにはiPhoneもスパボ一括9,800円で売られるとの噂です。


2008年09月22日(月) 説教をいただく

ミーティングが終わった後、教会の出入り口の階段で立ち話をしていました。男たち数人が「永作博美が属していたグループは?」というような、どうでもいいような話をしていたのです。するといつものように、先生(牧師さま)が中からドアの鍵を閉めに出てらっしゃいました。

カトリックの教会では神父さまと呼び、プロテスタントの教会では牧師さまとあまり呼ばず先生と呼ぶように思いますが、実際にところどうなのか門外漢なのでよく分かりません。

最近このミーティングも人数が増えました。また翌日が祝日とあって、普段来ないメンバーも混じっていました。先生は見慣れない顔が多いことに気づかれたのか、いきなりご説教を始められました。5分ほど続いたご説教の間、真面目に聞くものあり、茶々を入れるものあり。でも先生はプロなので意に介されません。まあAAメンバー相手に説教するのは、砂丘を耕すに等しいと思うのですが、先生は熱心でした。
最後に先生は「私は79才ですが、気持ちは50才です」と締めくくられました。外見は50才は無理があるとしても、60前だと言われても信じてしまいそうです。うーむ、神の力は実に偉大です。

それにしても、ミーティングの前後に説教を受けたのは何年ぶりでしょうか。最初に通った会場の教会の神父さまが熱心な方で、ミーティングの始まる前に毎回のようにご説教をいただきました。アルコールの影響がまだまだ消えていなかった僕の頭は、ザルのようにお教えをこぼしてしまったのですが、今の僕の有り様に、何らかの影響は残しているのかも知れません。

関係ないのですが、僕のように「野球だって3割打てば大打者ですから、人生7割失敗だっていいじゃないの」などと言いふらして、自己肯定的、てゆーか自分に甘い姿勢を貫いていると、ある人々から強い反発を受けます。
それは、常に100点を取ること、満点を取ることを自分に義務として強いている人たちです。
何点取ったら自分が満足するかなんて、自分で決めればいいことです。満点取って聖人になりたい人は、どうぞ聖人を目指してください。僕は卑しい人間で結構です。どうやって生きるか人に説きたいなら、牧師先生ほどとは言わないまでも、説かれる生き方にご自身が納得されてないと言葉が虚しく聞こえます。
牧師先生は「愛されて私は幸せです」と言いながら、実に幸せそうなご表情でした。そのご表情もご職業のうちでしょうね。もし、辛そうに説教されたら、こちらも辛くなってしまいます。


2008年09月21日(日) スピーカー

AAのセミナーなどで、聴衆に向かって話をさせていただいた経験はあまりありません。地区のセミナーで一回、他地区で一回。他のグループに頼まれて一回。ビッグブックの関係で5分か10分の短いのが何回かあったかな。そんなものです。
話すのは得意ではありません。頻繁にスピーチを頼まれて上手な話をする人をうらやましいとは思いますが、それは僕の役割ではないだろうと思っています。
でも、頼まれて断るのも変なので、今回はスピーカーを引き受けました。

左手に原稿を持って、というスタイルは相変わらずです。
どんな話をすればいいのか分からなかったので、ステップの話を7つぐらい持っていきました。現場でステップ10〜12と言われたのですが、もったいないので結局7つ全部話してしまいました。

それぞれのステップの話をしながら伝えたかったことは「そのままの自分でいいんじゃないの?」ということです。性格的欠点を取り除くうんぬん言ったところで、人間そうは簡単に変わりはしません。そうである以上、欠点丸出し、問題いろいろ抱えたままで生きていくしかありません。「そんな自分で仕方ないよね」としか言いようがありません。周りにとって見れば、はた迷惑でうんざりな人なのかも知れませんけど、申し訳なさそうに小さくなっていたところで何にもなりません。
ともかく自分はそういう肯定感がもらえたので、ステップにはそういう効果があるんだよという話と、その上で、やっぱりそのままでは生きづらいから、ちょっとずつ直して行くのじゃないかな、と言いたかったのですが、ま、そんな良いスピーチができる人じゃありません。

ところどころ笑いも起きていたし、皆がわらわらと席を立ってタバコを吸いに行くこともなかったようなので、悪くなかったという自己評価にしておきましょう。人の評価ばかり気にしていると賞賛乞食になっちゃいますから。

休憩時間、廊下で。
ひ「いやあ、緊張して手に汗握っちゃいましたよ」
某「そうは見えませんでしたよ。たった50人相手に俺に話をさせんのかよ、と思ってませんでした?」
ひ「そんなまさか。にしても、前のほうに女の人が多くてうれしかったですよ」
某「ひいらぎさん、ほんと女の人好きですよね」
あまり舞台裏を見せるものではありませんね。

僕の後のスピーカーの話が印象的でした。忘れないうちにメモ代わりに書いておきましょう。
ステップ10は、問題を自分の手の中に持っている状態。
ステップ11は、問題を神の手に預ける状態。「どうかこの問題を持っていてください」と神さまにお願いする。
さすが、ステップ10〜12と言われて、ちゃんとそのステップの話ができる人は違いますね。

一泊二日、疲れましたが、いろいろ良い経験をさせていただきました。


2008年09月19日(金) 読み方

雑記は「正しい道を指し示す」という意図で書いてはいません。
ただ、たまには誰かが雑記にに触発されて、なにか考えたり、行動してみたりするきっかけになればいいかな、という思いはあります。
触媒は化学反応では主役ではないですね。でも触媒のあるなしで違いがある。雑記も、そんな違いを作り出していけたらいいな、と目指しているのですが、理想は理想、現実は現実であります。

雑記をネタにして、掲示板で意見交換?があると、掲示板のスレッドが雑記のネタになったりします。なので、雑記と掲示板は有機的に結合しているとも言えます。だったら、ブログとコメント欄でもいいのかもしれませんが、ブログが流行る前からの仕組みが残ってしまっているだけです。

「家路」の読み方を強制することはできませんが、雑記と掲示板の両方に目を通していただけると、話題の流れが追いやすい(こともある)かもしれません。雑記から掲示板に、掲示板から雑記に、それぞれアンカーが張れるようにすれば便利かも知れません。いつか実現したいものです。

埼玉の嵐山に行ってきます。
帰りは日曜の夕方になります。


2008年09月18日(木) ろくなな

アクセス数が減って落ち着いてきたところで、真面目な話でもしましょうか(多いときにするとロクなことがない)。

昨日のステップミーティングがステップ6で、今日誘われて行ったミーティングがステップ7でした。

僕はAAに来て最初の6年間ぐらい、性格上の欠点は自分で直すものだと思っていました。「欠点ぐらい自分で直せる」という思い上がりもありました。でもやはりそれは<思い上がり>でした。

酒が止まらないとき、僕は酒は自分で止められると思っていました。でも、そう思っている間は酒が止まらず、AAに来て以降「自分以外の何かの力」によって飲酒へのとらわれ(obsession)から解放されました。

ステップ6では、飲酒からの解放と同じように、性格上の欠点からも解放されると期待しても良いとあります。欠点を取り除いてくれるのは神さまであって、自分ではありません。でも意固地な僕は、自分以外の存在が自分の長所短所を勝手にいじるのを良いと思いませんでした。何でも自分でコントロールしたがっていたのです。

もちろん、努力せずに、自動的に短所が取り除かれるとは思っていません。酒をやめられたのはハイヤー・パワーによるものだったとしても、自分だってそれなりの努力をしたはずです。ミーティングに通ったりとか。短所についても同じで、自分の努力も必要でしょう。

けれど、僕はもう「頑張っているのに、ちっとも欠点が減りません」などと嘆くことはしません。自分では取り除くべき欠点だと思っているものが、実は(神さまの目から見たら)生きていくのに必要な長所かもしれません。また、本当に欠点だとしても神さまが「取り除くのはまだ早い」と判断しているのかも知れません。

その人のハイヤーパワーが、その人に必要なときに、欠点を取り除くのでしょう。だから僕は誰かの欠点を憎んでみても仕方ありません。自分についても同じです。

大切なことは「欠点を抱えながら生きていく」ということに尽きると思います。欠点がなくなった自分が本当の自分だと幻想を抱いても仕方ない。いまは(たまたま)堕落しているだけだと言い訳してもしかたない。欠点の多い自分も、神さまの御意志によって今存在しているということで。


2008年09月16日(火) 内田春菊

時間があったのでB○○K ○FFに立ち寄りました。
県内のB○○K ○FFは県内資本がやっているのじゃなかったかな。

ここで10年以上前の本を見つけるのは、意外と難しい。お目当ての本が見つからなかったので、内田春菊の本を手に取りました。絵柄は好きなのですが、まとめて読んだことは一度もありません。たまたま見つかったのが『こんな女じゃ勃たねえよ』。これをピカレスクロマンと呼ぶのは格好良すぎで、主人公がひたすらいろんな女を食い物にしていくだけのストーリィです。一冊105円だったら買ったのに、と思って棚に戻しました。

内田春菊は性的な描写もあけすけですし、「男なんてそんないいもんじゃねーよ」というメッセージも直裁です。『ファザーファッカー』が自伝的マンガだと知ったのは、ずいぶん後になってからです。

はてさて、いま勤めている小さな事務所を束ねている部長が、来月末で辞めると伝えてきました。末端の社員にまで伝えるってことは、もうやめるのは確定しているのでしょう。
この会社からは人材の流出が続いています。ここ2年ほどの間に、研究開発部門のトップ、その懐刀、メイン部門の本部長、営業本部長と、重要人物といわれる人が次々に辞めていきました。皆さん言われる言葉は同じで「ここではやりたいことができない」。この傾向が続いて、いずれ社長と、イエスマンと、あとは下っ端だけになったら、会社はどうなるんでしょう。
部長が辞めることで、この小さな事務所も閉じられてしまう可能性が高まってきました。その場合、辞めたくなければ本社勤務ってことになるかも。毎日厚木の飛行場の音を聞いて過ごすのか・・・。
まあ、まだ未来のことは分かりません。確実に分かっていることは、僕は来月からフルタイム勤務を始めるってことです。


2008年09月15日(月) ネタがない

雑記も書くネタがないので、トラックバック がわりで。

佐藤春夫の『秋刀魚の歌』の口語訳ってのは、僕も読んだことがありません。この詩を解釈するには、まず「細君譲渡事件」について知らなければ。

谷崎潤一郎は、乳母日傘で育ったお坊ちゃんでしたが、父親の事業の失敗で貧乏になるものの、天が与えた才能で作家になり、耽美的というか破滅的な小説を書くようになります。その生活は彼の書く小説同様に派手なもので、金遣いが荒く常に借金にまみれていたといいます。
谷崎は自己主張の激しい派手な女が好みだったようで、ある芸者が好きになるのですが、彼女にはすでにパトロンがあったために、代わりにその妹(千代)を紹介され結婚します。ところが千代は姉と正反対のおとなしく貞淑な女性でした。全然タイプじゃない女と結婚してしまったことに気づいた谷崎は、千代を徹底的に邪険にします。借金取りの相手を千代にさせて、自らは放蕩な生活。せっかく娘鮎子が生まれたものの、夫婦仲は冷え込むばかりでした(でもやることはやってたのね)。

そんな頃、谷崎に師事したのが佐藤春夫でした。佐藤はすでに女優と一緒になっていたものの、著作のために東京の片田舎に引っ越し不便暮らしをしたりしたために、女優と破局。谷崎の家に出入りするうちに、不遇な千代と知り合うことになります。
その後、谷崎は千代のロリな妹が好きになり、千代が邪魔になります。ますます千代が邪険にされるようになると、佐藤の千代への同情は愛情へと変わりました。

そこで、佐藤春夫は谷崎潤一郎に対し「妻を譲れ」と迫りました。いったんはオーケーを出した谷崎でしたが、後に気が変わって返事を翻してしまいます。(人のものになると思えば悔しい気持ちはよくわかる)。

断られちゃった佐藤は、失意のあまり故郷の和歌山に帰ってしまいます。そこで発表したのが『秋刀魚の歌』です。

一人淋しくサンマを焼き、和歌山の特産品ミカンの絞り汁をかけて食べているのは佐藤春夫。東京での「いけない団らん」を思い出しているのです。

「人に捨てられんとする人妻」は谷崎に捨てられそうな妻千代。「妻にそむかれたる男」は女優に逃げられた佐藤。「愛うすき父を持ちし女の児」は谷崎夫妻の子の鮎子。それが小さい箸を使って、父でない佐藤に「サンマの腸は苦くていらないから食べてね」とあげているのです。

「世のつねならぬかの団欒」のメンバーは佐藤・千代・鮎子の3人。男の好みに合わせて千代はわざわざミカンを手に入れたりと「らぶらぶ」なわけですが、世の中からは指弾を受ける団らんには違いありません。

「あの団らんは夢じゃなかったんだよねー」と、徴兵試験に不合格だった貧弱君で陰々滅々な性格の佐藤君は、えつえつとサンマの上に涙を流すのでした。ミカンと涙のダブルソースで、サンマがしょっぱいやら酸っぱいやら。ああ、秋風よ、まだ愛していると伝えてくれよ。サンマに涙をかけて食うなんて風習はどこにもねーよ。

という詩を、わざわざ文壇に発表するのは、佐藤が谷崎に圧力をかけているわけですが、その甲斐あって、最後には谷崎も承諾せざるを得なくなります。恋の駆け引きって素敵ですね。

「このたび3人で相談した結果、千代は潤一郎と離婚して春夫と結婚することになりました。娘鮎子は母についていきます。みなさん、潤一郎・千代・春男とは、これまでどおりのおつきあいをお願いします」

と発表し「細君譲渡事件」としてスキャンダルになります。まだ姦通罪があった時代ですからね。

谷崎の『蓼喰ふ蟲』は千代と春男の密通を描いたものだと思われていましたが、実は千代の「前の男」大坪砂男との関係を書いたものでした。千代もそれほど貞淑ではなかったようです。

その後、春男と千代は夫婦仲も良く、幸せに暮らしたそうです。苦労して手に入れたものほど価値が高く感じるのが人の心か。ブログに口語訳を載せれば、ヒット数が稼げるかもね。


2008年09月14日(日) 発見

長らく探していたセパレートドレッシングは、実は「ヴィネグレット」というらしいことがわかりました。ワインビネガーとオリーブオイルを適当な割合で混ぜ、塩コショウで味付けするだけのものです。放っておくと(水と油なので)上下に分離します。なので、使う前にビンを良く振ってコロイド状にして使う次第。
そんなシンプルなものなら「自分で作れば?」と言われそうですが、単純なだけに難しいのです。ところが、近所の薬局で売っているのを発見しました。なぜ薬局でドレッシングを売っているのか、謎は深いのですが、ともかく入手。

さて、とりあえずAAミーティングに通っていれば「回復」は成し遂げられるのか?
たぶん、それだけじゃ無理だろうと思います。AAプログラムのかなりの部分は自分一人で取り組むしかありません。まさか、埋め合わせをするのにAAスポンサーについてきてもらうわけにもいきませんしね。
「一人で何かする」のは意外と難しいものです。それができる人は、夏休みの宿題を最終日に泣きながらやった経験はないでしょう。「回復」には〆切日がないので、どこまでも宿題を先延ばしにしがちです。寿命が終わるところまで、飲まずに宿題を先延ばしできれば、それも「勝ち」なのかも知れません。
話がそれました。
宿題をいつまでも先延ばしにはできない、それを確認するところがミーティングで、宿題のやり方を一対一で伝えてくれるのがスポンサーシップ、という表現はどうでしょう。

AAの一つの車輪がミーティングだとすれば、もう一つの車輪がスポンサーシップで、この二つの車輪が調和して回ると前へ進みます。一輪車に乗って移動することは難しいのですが、自転車に乗り慣れれば前へ進むのは早い。なんでみんな、わざわざ難しいほうを選ぶのか(僕もか)。

今日は地区のオープンスピーカーズでした。「疲れた」とだけ言っておきます。


2008年09月12日(金) 比較文化論?

いつまでも魚肉ソーセージの雑記を掲げておくわけにもいかない。なにか書かないといけません。というわけで苦し紛れの雑記です。

フランスの女性閣僚が妊娠しました。
が、フランスでは女性閣僚が出産することは、それほどの珍事でもなくすでに3人。ただ、この人は独身だというところに話題性があります。父親の名前は明らかにされておらず、ご本人は「私の私生活は複雑だから」の一言ですませてしまっています。出産は来年の1月の予定で、閣僚としてギリギリまで執務を続たいという本人の希望に対して、表だった反対意見は出ていない・・というニュース記事でした。

アメリカでアダルト・チルドレンの大統領が、女性研修生と何かしたとかしなかったとか騒がれている頃、フランスの大統領は婚外子の存在を認め、「で、それが?」の一言で記者をあしらってしまったとか。まあ、国ごとの文化の違いなんでしょうけど。

日本の首相にも、愛人がいることがばれて辞めた人がいました。いや、あれは愛人がいることが問題視されたのではなく「三本指」がいけなかったのかな。一国の宰相が職業愛人を囲うのに、お手当てが月に30万ではあまりに情けないという話だったかも。そこらへん、ひいらぎ少年はまだ子供だったので、大人の事情は詳しくわかりませんが。

すんません、ウソをつきました。

ポルノグラフィティの「アポロ」をカラオケで歌うとき、

僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう、アポロ11号は月に行ったっていうのに〜♪

と歌いながら、心の中で(す、すいません。もうとっくに生まれてました)と、誰にともなく謝ってしまうのです。テレビで生中継見てしまいましたからね。それに比べるとハネウマライダーやアゲハ蝶は難しいのです。


2008年09月11日(木) 円周長

僕はたまに晩酌をします。
といっても酒を飲むわけにはいかないので、もっぱら炭酸ジュースです。でも、晩酌と言うからには「つまみ」がないといけません。例えば煮ダコを買ってきて、ワサビとしょうゆで食べるのが好きです。さきイカや柿ピーでもいいです。割いて食べるチーズとか、ウズラの卵とか。僕はコンビニのおつまみコーナーのお得意さんです。

先日、セブンイレブンでつまみを物色していると、ソーセージを見つけました。スーパーで5本入りで売っている魚肉ソーセージをちょっと太くしたようなそれは、一本115円と価格もリーズナブルなので、さっそく購入して帰宅しました。

パッケージを見ると、唐辛子入り魚肉ソーセージという以外、特に変わったところはありません。さあ食べようと、ソーセージを右手で握りしめた途端、なぜか懐かしいような、というより日常的に馴染んだ何かの感覚が湧いてきました。

この感覚はなんだろう・・・。

しばらく考えた後に、僕はお裁縫セットから巻き尺を取り出すと、ソーセージの円周を測りました。その数字を見て、「うむ、やはりそうであったか」と得心しました。頭は忘れていても、脳が憶えていたのです(意味不明)。長さもそれっぽい。そして、さあこれで疑問も解けたと、ソーセージの皮を剥いて食べようとしました。

が、なんとなくいろんなことが想起されて、それを囓って食べる気にどうしてもなれません。しかたなく、包丁で輪切りにすることにしました。でも、輪切りにされるソーセージの姿が、やはりどこか痛々しい。しばらくソーセージは買わないことに決めました。

なお、円周長の具体的数字については個人情報なので伏せたいと思います。


2008年09月09日(火) 感情の絞り器

第3章のフレッドの話のお終いのところ。

He had felt only the first nip of the wringer. Most alcoholics have to be pretty badly mangled before they really commence to solve their problems.

古い訳「それでも彼が感じたのは、感情の絞り機の最初のひとしぼりにすぎない。ほとんどのアルコール中毒者は、充分に切り刻まれてからでないと、ほんとうに問題を解決するようにはならないものである」

新しい訳「フレッドはアルコホーリクの地獄のほんの入り口を体験しただけだ。アルコホーリクの大半は、問題にやっと本気で立ち向かい始める前に、相当痛めつけられている」

wringer というのは、洗濯機についている絞り器のことらしいです。と言っても今の二槽式の洗濯機の回転ドラムではなくて、二本のゴム製ドラムの狭い隙間に洗濯物を通して絞るタイプ。と説明しても、今の若い人にはわからないか。Google で wringer をイメージ検索してみて下さい。
まあ、これに手を挟むととっても痛いわけです。

この文章は「フレッドはまだちょっと痛い目にあっただけだよ。たいていの人は、もっと痛い目にあわないと、酒の問題を解決しようとは思わないよ」というほどの意味でしょう。
感情の絞り器というのは、平たく言えば誤訳です。「AAミーティングは感情の絞り器だ」というような使われ方をする元がここにあった、というだけの話ですけど。

「小さな祈り」について、教えていただきました。
英語はともかく、日本語で<小さな>お祈りと言った場合、それは祈りが長いか短いかは関係ないのだそうです。小さいというのは、へりくだった表現で「私たちのするこのつまらないお祈り」というほどの意味です。
実際には長い熱心なお祈りかも知れず、「食事の前に小さな祈りを捧げましょう」という言葉で始まっても、食事がすっかり冷めてしまうぐらい続くのかも知れません。映画 sister's act(天使にラブソング)で、目の前の食事を悲しそうに見つめる主演ウーピーの姿が目に浮かぶようです。

short prayer に訳語をあてるときに、たまたま使い慣れていた「小さな祈り」という言葉をあてただけだったのかもしれません。

原意はともかく、言葉はいったん使われ始めると、独自の意味を帯びるものです。「やおい」だって、元はストーリーのつまらなさを表現する言葉だったのが、今や女性向け男性同性愛マンガの代名詞です。小さな祈りも、感情の絞り器も、配られたカードも、やおいと同類なわけで、そのことに文句を言ってみても始まりません。


2008年09月08日(月) 100円対ドイツ

amazon.co.jp で荷物を実家の母のところに直送しました。
中身はHP製のインクカートリッジ(この場合のHPはヒューレット・パッカード)のはずでした。

10年ほど前、最初にFAXを導入したのは、いわゆるホームファックスというやつで、留守番電話にFAX機能がついたやつでした。印字の機構はサーマルヘッドと感熱紙の組み合わせでした。昔はパソコン用のプリンターにも、サーマルヘッドを使ったものが多く、NECなどがよく売っていました。ただし、感熱紙ではなく、熱転写フィルムで普通紙に印刷するものでした。

感熱紙はコストが安くて良かったのですが、保存して半年・1年と経つとどんどん変色してきてしまい、最後には読めなくなってしまいます。だから、大切なものはゼロックス・コピーしておく必要がありました。

ホームファックスを買い足すときに、電気店の店頭で「感熱紙は嫌だから、インクジェットのやつはないですか」と聞いてみたら、NECかキャノンだと言われました。NECはHP製のエンジンを使っているそうで、ならばインクカートリッジもこの先長く(HPから)供給されて安心だろうという判断でNEC製を選びました。

その後しばらくしてブラザーのレーザー複合機に買い換えてしまったので、NEC製ホームファックスはお蔵入りとなりました。部屋に置いておいてもじゃまなので、実家の母のところで預かってもらったのが5年前ぐらいでしょうか。

先日、母の使っている電話機が壊れ、しまっておいたホームファックスに入れ替えたという話を書きました。そのときに、一緒にしまっておいた新品のインクカートリッジに交換したのですが、表示がエラーになってしまいました。HPのカートリッジには賞味期限(?)があり、しかもそれが電子的にカートリッジに記録されています。あんまり古いものを食わせようとすると、本体側でそれを拒否る仕組みです。
(なので、ジャンク屋でHPのカートリッジを安売りしていても、喜んで箱買いしてきてはいけません)。

「どうせファックスなんて受信しないから、インクもいらねーだろ」

という話にしておいたのですが、機能があれば使いたくなるもののようです(母子似たり)インクの催促の電話が来ました。

というわけで、amazon でHP33というカートリッジを注文し、届け先は母の住所にしておきました。届いた荷物を母が開けてみたら、中に入っていたのはカートリッジではなく入浴剤だった、とお怒りの電話をいただきました。

おおそうか、忘れていた。カートリッジのついでにKNEIPPの入浴剤を箱買いしたのでした。HP33が品切れでメーカー発注になったので、他のものだけ先に送るというメールが来ていたのを忘れていました。母と兄一家の住む家の風呂は、循環式の24時間風呂なので入浴剤は使えないし、使ってもフィルターで濾過されてしまうでしょう。入浴剤は僕用に買ったものです。

それにしても、カートリッジはすでに生産中止なのかもしれません。HPは頼りになると思っていたけど、それほどでもなかったかな。どうしたら母の不興顔を見ずに済むものか。「もうHPなんて信じられな〜い」とか書くと問題発言ですか。

関係ない話ですが、KNEIPPの先頭のKは読むのですね(クナイプ)。KNIPEX(クニペックス)というプライヤー(工具)の専門メーカーがドイツにありますが、KNEIPPもドイツとかあそこらへんの国でしょうか。

入浴剤も工具も普段は100円ショップで購入です。でも、100円の入浴剤はあまり効かない気がしますし、100円の工具だとネジがつぶれて涙ものだったりします。

(さっきパッケージを見たらドイツと書いてありました)。


2008年09月07日(日) カードの秘密

12&12のステップ12のお終いあたりに、

He learns that he can be content as long as he plays well whatever cards life deals him.

という文章があります。

初版の訳「人生は、どんなカードが配られても、楽しく遊べる限り満足できるものだ、ということを学ぶ」

現在の訳「人生がどんな試練を投げかけてきても、真剣に対応してゆくかぎり、満足のいくものだということを学ぶ」

「カッコーの巣の上で」という精神病院を舞台にした映画がありました。僕は見ていないので伝聞ですけど、ある場面で患者さん達がカードゲームに興じています。でも、頭のおかしなじいさんがゲームのルールをしょっちゅう破ってしまいます。
頭のいい別のじいさんは、そのルール破りがどうしても気に入らないので、注意するのですが、それで直るわけもありません。ついにじいさんが怒り出したところで、後で見ていた別のじいさんが「ともかくゲームを続けるんだよ」と諭すのであります。

そう。人生がどんなに理不尽であろうとも、投げ出すわけにはいきません。続けていればきっと楽しいこともあるでしょう。人生は楽しんだ者勝ちです。他の人がどんなルール破りをしているかはおかまいなしに、ゲームの本質を掴んで楽しんだほうが自分が充実するわけです。

新しい訳は正しいけれど真面目すぎて面白くありません。古い訳は直訳過ぎて、そこだけ取り出してしまうと「なんのこっちゃ」ですが、味があります(前後の文脈を追えば意味は分かります)。ただ、どちらか一つを選べと言われたら、僕は新しい訳ですね。というわけで、訳が改まっても「配れたカード」という表現は残り、時折古い人たちがミーティングのテーマに持ち出してきたりするわけです。

「そこだけ抜き出してくる」ってのは僕は好きではありません。例えば「中途半端は何の役にも立たなかった」というのは、ソーバーを確実にするためにステップ3から先に取り組んで神を探すのか、それともまた飲んでしまうリスクを取っても面倒なことはなしですませるのか、二者択一を迫る文章です。二つの道は同時に歩けない。さあ、どうする、どうする? とカルト的決断を迫る文章なんですけど、「中途半端・・・」というところだけ取り出してミーティングテーマにしたりすると、皆の話はとてもバラエティに富んだものになります。

そりゃそうだ。人間どこかしら中途半端なことを抱えているものですから。90分いろいろな「中途半端なこと」の話を聞き、ふーん人生っていろいろなんだなぁ、となんだか心が軽くなって帰るわけです。
が、ふと「僕はここに何しに来たんだっけ」ということも考えるわけですよ。


2008年09月06日(土) いびきの話

ある時若い同僚が、「いびきって治療できるのですか?」と尋ねてきました。
ちょうど地元の大学病院にいびき外来が出来たという記事を読んだばかりなので、教えてあげると喜んでいました。

なんでも奥さんが、「一緒に寝たいのだけど、あなたのいびきがうるさくて眠れないから、いびきを治して欲しい」と言ったのだそうです。
なんだかほのぼのしていい話です。

いびきがうるさいので夫婦別室で寝るようになった話を聞きます。いびきがうるさいのは事実なんでしょうが、奥さんには別室で寝たい別の理由があって、いびきは単なる理由付けじゃないのか、と思うことがあります。
ちなみに(アル中であるかどうかは別にして)酒を飲んで寝る人はいびきがうるさいものです。宿泊付きのAAのイベントなんかで、同室になって「こりゃうるさくて眠れん」と思わせる人は、寝るために薬を使っている人が多いような気がします。あるいは単に太りすぎか。先に寝るのが勝ちであり、途中で起きれば負けです。

ダンナの吸うタバコの煙が臭いから、奥さんが別室で寝ている夫婦もあるでしょう。タバコという依存物質によって夫婦が隔離されているわけです。これがアルコールになるとダンナが精神病院の中、違法薬物になると刑務所の中、とだんだん隔離度が上がっていくわけです。これは北海道の田辺先生から聞いたネタだったか。

父は母は最後まで同室で寝ていました。子供は小学校高学年になると、子供部屋に追い出されました。これは当時の田舎はそういう風習だったからでしょう。母は自分のいびきがうるさくて起きてしまうような人でしたから、父もよく頑張ったと思います。

自分のいびきがうるさいのかどうかは知りません。当面独り寝が続きそうなので、心配するまでもありません。

夫婦別室で寝るのは豊かさの証拠ですな(異論が出そう)。でもだって別に寝る部屋があるんだもの。

LUNAさん、二つの秘密については明日までお待ち下さい。


2008年09月05日(金) メダリストへの道

5月の自分のバースディ・ミーティングの前に「ああ、メダルは自分で注文しておくから」と言ったまま、注文するのを忘れて当日が来てしまいました。ないものは仕方ないので、メダルなしですませ、後日注文してメダルが届いたら、改めて仲間から渡してもらう約束にしました。
そのまま3ヶ月経過してしまいました。今日気がついたので、ようやく注文したところです。5年の時は、そのまま注文し忘れているうちに翌年のバースディが来てしまい、メダルは手に入れずじまいでした。いや、バースディ・ミーティング自体やらなかったのか・・、もう記憶があいまいです。

で、注文のFAXを送ろうと思ったのですが、USB接続のFAXをWindowsが認識してくれません。USBケーブルを抜き差ししたり、「やっぱりUSBの拡張ボードに接続したのがいけなかったか」とパソコンの蓋を開けてみたり・・・。30分ほどして気がつきました。FAXのコンセントがいつの間にか抜けていたのです。

メダルへの道のりは遠いのであります。


2008年09月04日(木) ネタ困り

恒例、グレープバインのオンライン・アンケートから

伝統7のバスケット(献金)にいつもいくら入れている?
・1ドル 1636 49%
・2〜5ドル 1425 43%
・5〜10ドル 183 5%
・10ドル以上 44 1%

あなたのホームグループは、ミーティングを何で締めくくっていますか?
・平安の祈り 988 24%
・主の祈り 2959 71%
・祈りなし 47 1%
・私たちの責任 87 2%
・その他 98 2%

ステップ9に取りかかっている人は、埋め合わせの相手があと何人残っていますか?
・もういない、終わった 278 22%
・1〜3人 427 34%
・4〜10人 213 17%
・11〜20人 62 5%
・数えるのやめた 265 21%
(現在投票中)

献金箱に入れるのは百円か二百円か三百円といったところでしょうか。
僕はホームグループは五百円玉。他のグループでは百円玉2〜3個と「プラスワンコイン」の十円玉1個(か2個)。もちろん、献金するのを忘れて帰って来ちゃうこともしばしばです。これで毎日100円献金している人と同じぐらいの額になると思います。

海の向こうでは、ミーティングの終わりは「主の祈り」(天にまします我らの父よ・・・)が7割、平安の祈りは2割程度。聞いた話では平安の祈りはミーティングの終わりではなく、始まりに使うところが多いとか。日本国内で主の祈りを締めくくりに使っている会場はわずかで、たいていは平安の祈りか、祈りなしです。

平安の祈りのことを「小さなお祈り」と呼ぶ人がいます。どうして「小さなお祈り」というのか、理由を知っている人がいたら教えて下さい。


2008年09月03日(水) 嫌なものは嫌

雑記を書くネタがないので、本からのネタで。

こんなグループ(人の集まり)にあなたは参加すべきで、逆にそうでないグループには近寄らない方が良い、という話。

・不参加の自由がある

欠席するとどんな陰口を言われるか分からない、というのでは安心して休めません。でも、そんな人たちの環に入ってしまうのは、ひょっとすると「不参加の自由がない家族」に育ってしまったからかもしれませんね。行きたくない家族行事にも付き合わなければ、親が意固地に不機嫌になってしまうとか。お酒を飲んでいるオトーサンと一緒にご飯を食べなきゃいけない決まりとか。

・みんなが同じである必要がない

理不尽だと感じたら嫌だといえる自由がないと苦しくなります。でも人の集まりなんて「どうせ不自由なものだ」と自分を納得させてしまうのだったら、ひょっとすると「違いが許されない家族」に育ってしまったからかも知れません。家族で同じものを「おいしいね」と食べているのに、一人だけ「おいしくない」と言ったらオトーサンがみるみる不機嫌になるようでは言論統制と同じです。

・外部に敵を作ることで結束する必要がない

人の悪口を言うことで結束するのは簡単なんですが、いつ自分が悪口を言われる立場になるかと思えば安心できません。オトーサンが自分の職業に誇りを持つのはいいことですが、違う職業のことをこき下ろす癖がついていれば、子供はそういう職業には就けなくなっちゃいます。近所の家の悪口ばかり言っていれば、子供はその家の子供とは遊べないし。

まあ、そんなところです。

こももさん、リンクを張らせて頂きました。ブログのコメント欄にお礼を書こうと思ったのですが、なぜかうまく書き込めませんでしたので、こちらに書かせて頂きます。ありがとうございました。


2008年09月01日(月) とほほ

子供の成績が落ちてきてしまいました。
いまさらトホホとは言っていられません。離婚するときに当然予想できたことで、覚悟の上だったはず。でも、何も対策をしないわけにもいきません。

いま引っかかっているのは、最小公倍数・最大公約数・分数の通分という例のところ。一度はできていたはずなのに、勉強する習慣を失うと、やっぱり忘れてしまうもののようです。自分も小学生の時に、ここで引っかかったことを思い出しました。まず「約数とは」ってところからやり直すしかないのでしょう。

結局塾に通ってもらうことになりそうです。有名な苦悶式は家から遠いのでダメなようです。家の一番近くのコンビニの2階でやっている普通の塾に通うことになりそうです。算数国語の2教科、週に二日各1時間半で1万3千円余りのところ、母子家庭割引きというのがあって1万足らずで収まるそうです(値段で決めたな)。

普通のコースの子供たちは7時前までですが、進学コースの子供たちはその後も普段8時、週に二日は9時前まで。中学生になると週に二日は10時までというスケジュール表を見て「俺こんなに勉強したっけなぁ」と昔のことを考えてみたりしています。

勉強はできなければならない、とは思わないのですが、そこそこ勉強ができないと学校の授業の時間が苦痛になってしまいます。それが高校卒業まで続くとなると、可哀想な話です。

入塾時にテストがあるそうで、できが悪いと入れなかったりするのでしょうか。テストの日にちの案内に「300円の3割引きはいくらでしょう」という問題があって、それが分からないとメールを送ってこられると、これまたトホホであります。それ小5の問題だろう(300円の30%引きだとわかるらしい)。

やっぱり苦悶式のほうがいいんじゃないかと思うのですが、もはや選択は僕の out of control なのであります。まあ塾が苦痛だと言い出したら、再考の目も出てくるでしょう。中学生になるとさらにかかるんだよなぁ、金が。

さて、どうやってやる気を出してもらえばいいのか。なんか仕事で部下を持っていた時代のことを思い出しました。とりあえず子供だからモノでつるしかないのか。Wiiとか。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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