ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年07月30日(日) 飲酒夢 酒を飲んだ夢を見ました。
久しぶりであります。
夢の中の僕はなんだか若かったです。気分的には20代ぐらい?
冬場らしく、こたつに入っています。こたつの上にあるのは、パソコンではなくB5版のレポート用紙と万年筆でした。レポート用紙の隣にはビールの中瓶であります。
大瓶(633ml)ではなく、中瓶(500ml)というところが「自己規制しているつもり」でしょうか。ビールの銘柄はキリンのラガーで、ラベルは往年の中国の麒麟が描かれたやつでした。
ビールをコップに注いで飲んでいるのですが、味とかは感じませんでした。そのうちに、「このビールを早く飲んでしまわなければならない」と感じるのでした。その理由は空き瓶をどこかに隠さねばならないからです。なぜ隠さねばならないのか・・・それはいずれ妻が帰宅するから(なぜか結婚している)。
隠すのはこたつの中か、それとも流しの下か。どちらもすぐばれそうな気がして、どうもダメであります。うーん、困ったどうしよう。そうこうするうちに、なんだか頬が暖かく感じられるようになりました。あ、酔っぱらってきた。
そんなことより、次の酒をどうやって手に入れよう。やっぱ一杯飲んじゃうと、次が飲みたくてたまらくなるなぁ、一本だけにしようなんて考えが甘かった。ああ、俺って奴は。困った困った。
電話の音で起こされました。パソコン使ってないわけないもんなー、と思ったわけであります。
アルコール依存症者の飲酒夢と断酒継続との関係に関する調査研究
飲む夢を見るのは、断酒継続の指標なんだそうで。え? お前の場合は予知夢じゃないかって?
セントラルオフィス交流会。別所温泉でお風呂に入った後、三重の塔を見て、別所から鹿教湯へ抜ける峠へ、尾根沿いの未舗装路を通って保福寺峠から四賀へ。
女性がナイフで脅されて車に連れ込まれるという事件があり、子供のラジオ体操が中止になりました。ラジオ体操はやらなくても死なないけど、車で連れ去られたら死んじゃうかも知れないので、賢明な判断だと思います。
2006年07月28日(金) ゼロからの出発 朝9時に仕事に行って、夜9時まで会社にいます。別に会社が好きなわけでも、仕事が好きなわけでもありません。どちらかといえば嫌いであります。嫌いだからいろんなことを先延ばしにするのです。そうして月末になると、帳尻あわせのために必死にならざるをえないのであります。まさに自家製の問題と言おうか、管理ができていないと言おうか。
毎月一回はAAの仲間と泊まりに行っていた時期がありました。3年近く続けたでしょうか。毎回夜2時3時までコーヒーとタバコで話し込んでいました。雑談も多かったですが、AAのこともいろいろ教えてもらいました。伝統のこと、アノニミティのこと、メッセージ活動のこと、広報について、3つのレガシー、帽子、仲間がミーティングに来なくなったらどうすればいいか、まだ話していない人がいるのに時間が足りなくなったらどうするか、などなど。
「一からの出発」という言葉があります。潔くていい言葉だと思います。
そんなことを話題にしていた時に、ある人が「一からの出発には、まだ一があるだけいいんだ。大変なのはゼロからの出発なんだよ」と教えてくれました。
家族もない、仕事もない、住む場所もない、もちろんお金もない。持っているものといったら自分の体と着ている服だけ。靴はAAの仲間からもらった。幸い住む場所は福祉があてがってくれたけれど、アパートにテレビもなければ、冷蔵庫もない。こたつもなければ照明を買う金もない。AAミーティングから帰っても部屋が真っ暗だから、布団に直行して寝るしかない。
そのうち少し余裕ができて照明を買う。世の中が明るくなったような気がする。寒いからこたつを買う。世の中が暖かく感じられる。ひとつ手に入れるたびに喜びと感謝を感じる。ところが着る服が良くなるぐらいになると、何もかも当たり前にしか思えない。ようやく人並みという生活をしばらくして、また酒を飲む。
またもやゼロからのやり直し。前のようにやればうまくいくはずなのだが、うまくいかない。病気が進行しているから。
そんな話をしてくれた人は、身なりもよく健康そうで、とてもそんな経験がありそうには見えませんでした。
そこまで行かないと分からない人間が、そこまで行っても生きていられた奇跡。そう聞いて、そういう奇跡は自分には起らないかも知れないし、そこまで行く前に死んでしまいそうな気がしたので、自分はせいぜい一からの出発にしておきたいと思いました。
自分にとって幸運だったのは、そうしたいろんな人に会って話を聞く機会を与えられたことでしょう。今になって「月に一回はAAでお泊まりに行きたい」などと言い出したら、妻には「いい加減にしろこのタコスケ」と言われ、子供には「自分だけ遊びに行ってずるい」と言われてしまうでしょう。
2006年07月26日(水) 国語に関する世論調査を読んで 文化庁 平成17年国語に関する世論調査 のニュースを読んで、自分はどう思うか書き出してみました。
誤った表現を変だと思うか。
○怒り心頭に発する
×怒り心頭に達する (変だと思う)
心に達するなら、怒りはどこからやってきたのか。
○愛嬌を振りまく
×愛想を振りまく (変だと思う)
愛嬌は相手の歓心を得るためのもの。愛想は自分の好意。
○言葉を濁す
×口を濁す (変だと思う)
歯を磨いていないみたいで嫌だ。
○腹に据えかねる
×肝に据えかねる
肝が据わっているという表現があるからでしょうか。
重複表現を変だと思うか。
従来から 気にならない
あとで後悔した 気にならない
一番最後 気にならない
僕は重複表現は気にならない人なのかも知れません。
ちなみに誤解の内容に昨日の雑記の補足をしておきますが、「子供」は差別表現ではありません。男ども、女ども、二人ともの「とも」に使う「共」と同じ意味です。「子ども」とひらがなで書くのは、男共、女共、二人共と書かなくてひらがなを使うのと同じです。
「子供」は差別表現なんだと言って、人を煙に巻いておもしろがっている人がいるだけの話です。
長野県内のラジオの交通情報では、冬場には「雪が踏み固められ圧雪になっています」というような表現が多用されます。ほかにどういう圧雪があるっちゅーねん。とも思うのですが、県外からスキーにお越しになる方には「あっせつって何」という人もいるので、親切心からだという話であります。
2006年07月25日(火) 不具・部落・子供 「宗教なくしては科学は不具であり、科学なくして宗教は盲目である」
というアインシュタインの警句をタイプしようとしたら、ATOKが「不具」を変換してくれませんでした。もちろん河豚(あまり食べたことがない)や不虞(≒不慮)とかは候補に出るんですが、不具は出ないのであります。
そういえば以前「気違い」も変換してくれませんでした。ためしに、めくら・つんぼ・おし・かたわを変換してみましたが、どれも辞書には入っていないようであります。べつにそんな言葉は使う予定はないのですが、意図的に排除されているような気がすると「すごく嫌な感じ」であります。
(これはきっと、ATOKには politically incorrect な言葉を排除するような設定があるに違いない)
そう思ったわけです。それが標準設定だというのは余計なお節介かも知れませんが、気に入らなければ設定を解除すればいいだけの話です。そして僕はATOKの設定を隅々まであたってみました。
が・・・、そんな設定はどこにもなかったのです。
要するに意図的に単語が排除されているわけで、「これだからATOKは、だめだめなんだよな」とつぶやいて、MS-IMEへと切り替えました。ところが、MS-IMEでも「不具」は変換してくれなかったのです。
別にどんな単語を使おうと勝手だと言っているわけではありません。何も考えずに言葉を使えば、時には人を深く傷つけることもあるのは承知です。言葉には責任が乗っかっていて、知らなかったからと言って免除になるわけじゃありません。
規制についても同じで、たいして考えずに規制を受け入れることは、相手に対する思いやりではなく、自己責任の放棄にすぎないわけで、決してほめられた話ではないでしょう。
新潟中越地震の時のテレビ中継で、被災者の人が自分の集落を指して「部落」という言葉を使っていたのですが、女性レポーターがそれをいちいち「集落」に置き換えているのは、滑稽としか言いようのない場面でした。まあ、ニュースは新潟だけに流れるわけじゃないですから。
生活の中で、部落を集落に言い換えることはありません。もちろん被差別部落のことは知っていますが、それがどこであるか知識も曖昧で、時々誰かの結婚のうわさ話で、年寄りが「昔はあそこへは嫁に行かなかったもんだが」と話すのを聞いて、昔あそこはそうだったんだ、と思うぐらいです。まあ県内、全国均一ではないでしょうが。
○○部落公民館という看板が、○○集落公民館という真新しいのに交換されたのを見るたびに、部落解放運動とはまったく関係のない、単なる税金の無駄遣いとしか思えないのであります。
子供は大人のお供じゃないから、子供は差別用語だとして、子どもと書き換える人もいるのだそうです。子供がATOKの辞書から消えたらさすがにちょっとなー。
病気だとか、障害だとか、出自だとか、そういう差別は言葉の問題じゃなくて、poor な心の問題なのに、言葉の問題にすり替えてしまうのは「臭い物には蓋」作戦。本質の問題を解決するのは面倒くさいので、なにか対策をしているふりをしてごまかす政治手法のようなものでしょう。
2006年07月23日(日) 死因 アメリカ政府の統計によれば、アメリカ国内では2002年に244万人が死亡しています。死因の順番に並べると、心臓(28.5%)・がん(22.8%)・脳血管(6.7%)・肺(5.1%)・事故(4.4%)、以下糖尿病、インフルエンザ、アルツハイマー、腎臓、敗血症、自殺、肝臓、高血圧、殺人、という順番になっています。
昨年はがんが心臓病を上回って、第一位になったというニュースもありました。
アルツハイマーによる死は、別の死因が付けられていることが多く、実際にはもっと割合が多いだろうという注釈がありました。
アルコール依存症という死因は挙げられていないのですが、アルツハイマーと同じことが言えるでしょう。依存症も死亡診断書に書かれる病名ではないわけです。
死因を別の角度から見た統計で、直接の死因となった病気に「なぜその死因にたどり着いたか」を研究したものもあります(こちらの数字は2000年)。
これも多い順に並べると、タバコ(18.1%)・栄養の偏りもしくは運動不足(16.6%)・アルコール乱用(3.5%)・細菌感染(3.1%)・有害物質(2.3%)、以下交通事故、武器による事件、性感染、薬物乱用と続きます。
アルコールの過剰摂取が3番目の死因と言われるのは、ここらへんが根拠でしょうか。alcoholsm is the 3rd great killer.
日本の統計を見てみましょう。第一位はがん(31.0%)、以下心臓(15.5%)・脳血管(13.3%)・肺(8.9%)・事故(3.9%)・自殺(3.0%)、老衰、腎臓、肝臓、糖尿病。
別の角度から見た統計は見つかりませんでした。
アメリカでの自殺率1.3%に対して、日本の3.0%は、いかにも高い気がします。
国別のアルコール消費量 の図を見ると、アルコール消費量の多い国(図でオレンジやピンクで塗ってある国)と、AAの活躍(?)している国とは、だいぶ重なるような気がします。
2006年07月21日(金) 優秀の証 ソフトウェアは「機能よりも思想が良くないと駄目だ」んだそうです。某作家の言葉だといいます。けれど、その例として「NetscapeがInetenet Explorerに敗れ、一太郎がWordに敗れた」という例を挙げるのはどんなもんでしょう。
個人的には一太郎はあまり好きではありません。それは「一太郎が優れていたから、数ある日本語ワープロソフトの中で生き残った」と宣伝していたことによります。それじゃあWordが市場を占めた今は、Wordのほうが優れたソフトだということになります。
一太郎は優れたソフトであります。ただ改良が進んだのは、マーケットシェアを奪って収益が安定してからのことで、良かったから選ばれたというのは因果関係が逆です。現在の一太郎はWordより優れたソフトだと思います。が、仕事で一太郎を使うことが許されなくなった現在、自宅でもWordを選ぶのは仕方ないことです。
「優れたものが勝ち残るとは限らない」
技術の世界ではよくそういうことを言います。
ウィルコム製のPHS W-ZERO3[es] の評価記事を読んでいました。
かな漢字変換エンジンに「ATOKを搭載して使いやすくなった」と書いてしまうと、シャープ製のエンジン「ケータイShoin」のほうが悪いという印象を与えかねません。シャープはこのメディアの大きな広告主だそうで、おかげで<奥歯に物が挟まったような>表現になってしまったのでしょう。
ケータイShoinといえば、誤動作の記事 が流れたばかりです。
SkypeがWi-Fi対応IP電話端末を販売
備忘のため。Skypeが無料でも、端末が2万円したんではなぁ。
航空写真リンク集
国土交通省国土計画局 国土画像情報
http://nlftp.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
国土交通省国土地理院 空中写真サービス
http://mapbrowse.gsi.go.jp/Airphoto/
Yahoo!地図情報 - スクロール地図(ベータ版)
http://map.yahoo.co.jp/beta/
いくとこガイド
http://www.ikutoko.com/
東京空間遊歩人
http://tokio.decore.jp/
Google Map
http://maps.google.co.jp/
2006年07月20日(木) 疲労コンパイル中 いつもは30分か40分の道のりが、3時間もかかってしまいました。
(しかし、30分と40分では平均時速が33%も違うわけですな)。
「ルールはある。メンバーが酔っぱらってミーティングに来たときには、外へ出てもらったり、誰かに頼んで連れ出してもらったりする。しかし、翌日しらふでやってきたら、ちゃんと受け入れる」
〜AAの伝統が生まれるまで〜
酔っぱらいにミーティングを壊されることは、もちろん全体の福利にかなうことではなく、ミーティングから追い出すことが、すなわちAAから追い出すことを意味するわけでもありません。
僕も酔っぱらってミーティング行ったことが一度だけ有ります。その時は入れてもらいました。ただし、年配のAAメンバーに滅法叱られましたけど。結局入院するまで酒は止まらなかったのでありました。
2006年07月19日(水) 日常 出勤しようと高速の入り口まで言ったら、妙に混んでいました。
大型車同士が変な向きでぶつかっていました。そして、遠くから救急車のサイレンの音。「ああこれは、事故か」と思ってしばらく待つものの、いっこうに列が動く気配がありません。
見ると高速のゲートの上のランプは、全部赤く点灯しています。そして、通行止めの文字。事故が関係してるのではなく、どうやら雨のせいらしい。
諦めて市内へと戻り、一般道を通って会社に向かうことにしました。
携帯から会社へ電話してみるものの、誰も出ません。
ラジオをつけてみると、土石流のニュースをやっていました。この分だと、峠を越える一般道も通れるのかどうか。ラジオはなかなか交通情報を流してくれません。
携帯電話から道路交通情報センターに電話してみましたが、話し中でした。話し中というより網が輻輳しているような、いや輻輳を防ぐために網側で切断しているような、素早い切れ方でありました。みんな考えることは同じであります。自分だけ優先してつないでくれというわけにもいきません。
ともかく会社を目指して行ってみるしかありませんでした。
そのうち同僚から着信がありました。塩尻峠は通行止め、善知鳥峠に回ってみたけれど車列は動いていないという情報を伝えてくれました。お互い電波状態は悪くないはずなのに、ガガガとノイズは入るし、声も本人だかなんだか判らないぐらい歪んでいました。渋滞の中で皆が携帯を使っていたでしょう。CDMAは収容ユーザー数が増えるほど音が悪くなるというのは本当のようです。これからはドコモもソフトバンクもCDMAに移行するわけですな。
峠のこちら側に自宅のある社員で連絡を取り合った結果、ともかく高速道路の通行止めが解除されるまで自宅待機することにしました。
おそらく今日の代わりに、金曜日が出勤になるでしょう。すると金曜日に行くはずの医者に行く時間がなくなってしまいます。というわけで医者へ。2ヶ月あまりかけて、抗うつ薬をトレドミンに変更したのですが、結果は良いようです。まあ結論を出すには早すぎますね。
会社へ電話しても相変わらず誰も出ません。そのうち携帯に着信があって、今日は事業所全体(といっても6人しかいない)お休みという、本社部長の結論を伝えてくれました。
休みと決まったころから、雨は小やみになり、空も明るくなってきました。降り続いた雨も上がりましたが、前線が北上して梅雨明けに向かっているわけでなく、南下しただけなので、またぶり返すかも知れません。
2006年07月18日(火) すごい雨降りであります 「私はあなたの思っているような良い人間じゃない。本当の姿を知ったら、きっとあなたは私に幻滅して、嫌いになるだろう」
そんなふうに考えているとしたら、本当の自分は誰にも愛される価値はないと思っているのでしょう。だから良い面だけを見せるようにし、悪い面は見せない、そういう緊張の日々を送っているわけです。疲れるはずです。
その一方で、みんなから愛されたい、認められたい、受け入れられたいという願望も強いはずです。その願望は自然なことかも知れません。けれど、「例外なく誰からも」好かれたいと願うのは強迫観念です。
自分のことを考えてみればわかります。自分が「例外なく全員を」好きであるか、愛しているかと問いかければ、やっぱり嫌いな人間、愛せない相手もいるはずです。「すべての人を愛していると言える人がそれほど多くいるわけではない」とAAの本にも書かれています。だからこそ、博愛は美徳なのでしょうが。
ある人には自分の愛は与えずに、一方で全員から愛を受け取らないと気が済まない。もしくは自分のことを認めてくれない相手の存在が、気になって気になって仕方ない。見下されていると感じると、自分の価値がなくなっちゃうような気がする。
人間関係に悩んで仕事を変えたのに、新しい職場でまた人間関係に悩んでいたりする。どこへ行っても、どうしてもそりの合わないヤツが最低一人はいるような気がする。
10人いて、その10人全員から否定されたら、打ちひしがれない人はいないと思います。
でも10人いて、そのうち9人から認められたら、残りの一人がなんと言おうとも、おおよそ満足できる、それが多数決の論理です。
ところが、残りの一人に否定されただけで、9人の肯定がどこかに吹っ飛んでしまうとしたら、それはその一人の問題ではなく、自分の内面の問題です。身の回りの多くの人の愛を感じる能力を失ってしまっているのです。それは積極的な愛ではなく、消極的な肯定かも知れません。ともかく、それを感じられない、感じてもそれに価値を見いだせない。それよりも自分を否定する人間に、自分を認めさせようと躍起になって消耗しているわけです。
良い人間になろうという努力は必要だと思います。でも、その動機が「認められたい、尊敬されたい」というところから来ているなら、その努力は長続きしないでしょう。仮面をかぶる努力は、息が詰まるだけです。
自分で自分のことを愛していない、認めていない、尊敬してもいない、だからこそ人に完全に愛されねばならないのでしょう。自分ことを愛していない人間が、自力で自分を愛せるようになるのは、実に難しいことです。無条件で愛されることが、その近道なのでしょうが、無条件の愛を人に求めるのも病的であります。
生まれたときから変わらず自分を愛してくれている存在。自分がどんなにひどい状態だったときも、見捨てずにいてくれた存在。そして今後命ある限り一緒に歩んでいける存在。そういう人ならぬ存在に「気がつく」ことが、求められているような気がするのであります。
2006年07月17日(月) 権威というもの 医者には治せない病気というのがあります。
たとえば虫歯です。歯科医は虫歯の被害が広がらないように削り、その場所に補てつ物を入れるのであって、本来の歯を再生しているわけではありません。治療と言うよりは工芸であると、自嘲気味に語った歯医者がいました。
ともかく、人間の治癒能力は歯にはほとんど及ばない、その事実を歯科医も、患者も、「望ましくはないが変えられない事実」として受け入れています。たまに元の歯に戻せといって歯科医を困らせる患者もいるそうですが、それが出来る名医がいるなら僕もかかってみたいです。
それでも日本の歯科医療は進歩しているのであって、多くの国では、歯が痛んだら抜くしかないという治療が行われているわけであります。
依存症にも治癒はありません。
再び飲酒がコントロールできるようになったという話を聞かないこともありませんが、その人本来の寿命までほどほどに酒を飲んで生きた事例が十分な数が集まったという報告は、シルクワース博士の時代も現代にもありません。
元の状態に戻せと行って医者を困らせる人の数は、歯医者を困らせる人の数よりずっと多いでしょう。無論、それが出来る名医がいるなら、僕も一度はかかってみたいです。
依存症の回復は layman に任せられているのであります。
じゃあ依存症の治療に精神科医は不要かといえば、そんなことはないでしょう。
第一に、自助グループがすべての問題を解決できるわけではありません。
たとえば、(数を数えたわけじゃありませんが経験的に)依存症の人が別の精神疾患にかかっている割合は、世間の人と変わらないでしょう。依存の後遺症で一時的にうつが出ている人を除けば、おそらく1割ぐらいがうつであり、1%ぐらいが統合失調症であるはずです。こうした問題について、自助グループの方が精神科医より役に立つとは言えないでしょう。
第二に、医者の権威は layman にはないものです(あったらやだし)。
医者が「自助グループに通いなさい」と勧める以上に効果的なことはありません。これは逆のことを考えてみれば分かります。「自助グループなんか通ったって無駄ですよ、僕が治してあげますから」と言われた患者がどう感じるかです。
第三に、医者に名医とヤブがいて、はたまた患者一人一人と合う合わないの相性があるように、自助グループだって善し悪しがあるし、合う合わないもあります。だめな(と言って悪ければ合わない)自助グループに通うより、医者に通っていた方がよほど安定した断酒が続いている事例は、世の中には山ほどあるはずです。
それに自助グループのない地方も、日本にはずいぶんあります。
医者が不要だった人はたくさんいるでしょうが、だからみんなに医者が不要と言うことにはなりません。第一は常識の問題。第三は自助グループ側の質と量の問題。
でも、権威は医者だとか職業的カウンセラーに任せておいたほうが無難だと思いますね。
依存症者は権威に弱いというか、個人に惚れ込みやすいというか、個人崇拝が得意であります。人にコントロールされることは大嫌いなくせに、自分が尊敬している人の敷いたレールの上を喜んで走っていきます。自分で考えると不安でたまらないので、無闇な安心に浸っていたいのでしょう。
そうして最後には「信じていたのに裏切られた」と言って嘆くのであります。人に依存した自己責任なのに。
その点、良い専門家は過度な崇拝を適当に処置するすべを、経験によって知っている(はず)です。
話は変わって、マット・スカダーの四作目『暗闇にひと月』を読了しました。いよいよAAという単語がちらほら出てくる巻であります。
どうでもいいですが、巻末の解説文が7作目『慈悲深い死』の spoiler(ネタバレ)になっています。しかも spoiler warning もなしのネタバレのおかげで、解説全体の価値が台無しであります。国内の発表順ではなく、原作の発表順に読んでいる人間のことも考えていただきたい。
次はいよいよ五作目『八百万の死にざま』でありますが、たぶん来月でしょう。
2006年07月15日(土) 気付いたこと何点か 今月も半分を過ぎました。三浦でのAAイベントに泊まりで行きましたし、病院メッセージに2回、それから地区委員会に代理で出席しました。そうやってAAに十分関与していたつもりでしたが、考えてみると普通のAAミーティングには、今月まだ1回しか出ていません。今週も水曜日に予定していながら、行けずじまいでした。
ここ2〜3日、テキストエディターを開いても何も文章を書く気もせず、プログラムを書こうとしても30分もやれば嫌になってしまい、もちろん仕事も進んでいません。
そうした鬱屈の原因は、ひとつにはこの暑さであり、もうひとつは体に疲れがたまっているからだと、自分では思っていました。
しかし、ゆっくり寝てみても、クーラーのあるところに逃げ込んでみても、スーパー銭湯でゆっくり過ごしても、整体に5,800円使ってみても、ちっとも改善しないのでありました。
原因は肉体的なことではなく、精神的なことにあるのでしょう。
「あまりAAミーティングから遠ざかりすぎると、ソブラエティの質が悪くなる」
本にも書いてあるし、自分でも何度となく体験した、当たり前のことが今回も起きていただけだったようです。
昼間にあった女性クローズドから流れてきた人がいて、今日のミーティングの男女比は1:1でありました。僕は与えられた時間(たぶん5分か7〜8分)話をして、仲間とすこし言葉を交わして帰ってきました。
AAのミーティングは自罰的あるいは自虐的だと考える人もいます。事実は単純で、人間誰しもある程度は感情的に病んでいるということです。みんながそうだから、自分の感情的な病をケアしなくていいという考え方もあるでしょうが、自分の負の部分を振り返ることで、誰しもがそうであることを知ることができます。
そして、他人が悪であり、自分はその哀れな被害者である、という思いこみから解放され、自分にも他人にも等しく価値があることを理解するのでしょう。
猫がトイレの場所を憶えてくれました。ひとつ予想外だったのは、ウンチが臭いということです。草食動物のはそれほど匂いません。でも、カリカリのキャットフードであっても、やっぱり肉食用の成分が含まれているのでしょう。
子供のおむつを替えていた頃を思い出します。
近所の神社がお祭りで、子供たちが金魚を取ってきました。
2006年07月13日(木) 横浜1990 まあ10年前にすでに「思い出話」として聞いた話なので、正確性の担保できる話ではありません。しかし当時横浜にいた経験のある複数の人から聞いた話ですから、それなりの真実は含まれているでしょう。まあ、僕の記憶が曖昧なぶんもあるので、差し引いてください。
アル中さんに生活保護の支給が決定したとします。すると一月分の保護費が渡されるわけですが、先のことを考えないアル中さんですから、数日のうちに全部酒に変えて飲んでしまうわけです。生活費に困ったアル中さんは、福祉事務所を訪れて「金がねぇ」と訴えます。もし仮に、ここで再度金を渡しても、同じことが繰り返されるだけです。
口を酸っぱくして「きちんと管理して金を使え」と言ってみたところで始まりません。それができないほど重症になっているのですから。
そこで福祉事務所のほうも一計を案じるわけです。現金を渡すからいけない。現物支給をするのであります。お米はお米券、銭湯は入浴券(そんなのあるの?)、たばこは一日一箱を現物で。必要なぶんだけ渡すのであります。まるで小学生並み、いや小学生だってもっと自己管理能力があるかも。これを金に換えて飲んじゃう人は、ずっと現物支給から逃れられません。
治療としてはAAとか断酒会に行ってもらいます。往復の交通費は移送費から支給。でも、これで飲まれても困るので、きちんと出席してはんこをついてもらってくる必要があります。
しばらく真面目にやっていて、はんこの数が貯まってくると、お小遣いとして数千円が現金で支給されます。その金で飲んじゃう人は最初からやり直し。
さらに真面目にやっていると、ついに全額現金支給という夢を実現することができるのです。喜びのあまりに祝杯を挙げる人が多数です。
AAの側からみていると、とても真面目に通ってきた人が、現金をもらえるようになった頃に全員来なくなってしまうのです。そして、しばらくすると現物支給に戻ってまた現れます。ああ、この人たちは酒を止めたいのではなく、福祉から現金をもらうために来ているのだと思えるのですね。
そんな繰り返しの中からぽつりぽつりと回復する人が出て来る。そんな話だったと記憶しています。
今でもそんなことをやっているかは知りません。たぶん、ほとんどの人が、現金でもらえるものは現金でもらっているのではないかと思います。それだけ軽症化が進んでいるのかもしれません。
逆に言うと、そこまでの重症にたどり着けるのは、体も精神も丈夫な一握りのエリートアル中さんに限られていて、僕を含めた多くのアル中さんたちは、そこに至る前に体か精神がダメになるのではないかと思っています。
アルコール依存症の中間施設で、生活保護費の取り扱いが不適切だったとニュースにありました。本人には毎月数千円しか渡っていないという話を読んで、昔の横浜での話を思い出したのであります。
家族への連絡や外出を制限するってたって、そりゃ普通だし。再就職の機会ってても、早く働くことが回復じゃないし。まあ、どんな人が入所していたのかはニュースから分かりませんから、どんな処遇が適切かも、野次馬にはわかりません。
でも、福祉事務所側の無理解が大きそうですね。
2006年07月12日(水) Life with 猫 犬を飼ったことはありません。実家の近くには放蕩者の大叔父が、三番目の奥さんと一緒に住んでいたのですが、そこで大きな犬を飼っていました。高校の頃までその散歩を頼まれて行きましたが、犬は人間を値踏みしますんで、犬を散歩させていると言うより、犬が勝手に散歩していて、紐を持った人間がその後ろをついて歩くという風情でした。
猫を飼ったことはあります。といっても、飼い主はばあちゃん(祖母)でしたが。
実家の敷地は広く、ネズミがいる小屋や、生ゴミが捨てられている場所もあり、野良猫が縄張りにするには悪くない環境でした。でも父が猫嫌いで、猫がいるのを見ると、徹底的に追い払っていましたんで、おそらくどの猫の縄張りにもなっていなかったのでしょう。
ある日、僕が玄関でぼうと景色を眺めていると(そう僕はぼうっとしている子供でした)、子猫と言っても良いぐらいの若猫が「にゃーん」と言って飛び込んできました。どうやら野良猫のようでした。かわいかったので牛乳をやり、ばあさんが残飯をあげました。猫は待遇が気に入ったらしく、今の座布団の上に居残るのを決めたようです。
夕方農作業から戻ってきた父は驚きました。実は父はこの猫が敷地内にいるのを見つけ、何度も追い払ったそうなのですが、そのたびに戻ってきてしまったのだそうです。そりゃそうです。敷地の外はほかの雄猫たちの縄張りで、若猫が安穏と過ごせる環境ではありません。猫としても仕方なく戻ってきていたわけでしょう。
攻防の末、やっと猫を追い払ったと思い、安心して農作業に取り組んだ父が、テレビで明日の天気予報を見ようと帰ってきたところ、居間の父用の座布団の上に宿敵が丸くなって寝ているのを見つけたわけです。
父はそうとう文句があったようですが、母親(ばあちゃん)の言葉には逆らえず、猫との同居が始まりました。
トイレのしつけはせず、野良猫時代のまま外へしにいっていました。人間は戸を開け、猫が帰ってくるのを待って閉める係です。そのうち自力で戸を開けていくようになりました。でも、閉められませんから、冬は気がつくと室温が氷点下なんてこともありました。
ご飯は「猫まんま」というやつです。
ひさしぶりに猫を買い出しました。
狭いアパートで室内猫。トイレは猫用で。食事はキャット・フード(かりかり)。
時代は変わりますね。
2006年07月11日(火) ニュース雑感 もう20年も前のことになるでしょうか。調布に住んでいた頃の話です。
夏頃から放火が相次ぎました。主に人の住んでいない建物に夜半過ぎに放火するという事件が月に2〜3件ずつ続きました。
僕の住んでいたアパートの隣にも、大家が以前事業をやっていた時の残存で、機械が収納してある作業小屋がありました。僕の部屋で先輩と酒を酌み交わすうちに、朝になりました。窓の外は車庫になっていて、トタン屋根が張ってあります。そのトタン屋根に何かがボトボト落ちる音がしました。
明け方になって大粒の雨でも降り出したのか・・・、そう思いながら窓を開けてみると、降っているのは雨ではなく、火の粉でした。驚いて見回すと、隣の建物から火の手が上がっていました。「火事だぁ」と叫びながら、逃げていく男の影を見ました。
慌ててアパートの別の部屋の住人を起こすべく、ドアをたたいて回るのですが、なにせ家賃が2万2千円(当時)。仕切りの壁はベニア板というボロアパートであります。夜中じゅう飲んで大声を上げていたのも聞かれています。その酔っぱらいが、今度は「火事だぁ〜」と叫んで回っても、酔ったあげくの悪ふざけだしか思われず、なかなか本気にしてもらえません。水道を全開にしてアパートの内側から壁に放水したのですが、かけるはじから蒸発して水たまりができませんでした。
消防車より早く来たのが東京ガスでした(止めに来た)。そして消防車、パトカー、電力会社、水道局、野次馬。事情聴取を終えて刑事が帰っていったのが、お昼近くでした。
放火事件は翌年3月まで続きました。そしてぴったりとやみました。浪人生が大学に合格したに違いない、と皆で噂していましたが、また夏頃から放火が始まりました。そして翌年の3月でやみました。新聞記事にもなりましたが、結局犯人はつかまらず、事件は人々から忘れされられていきました。
職場の近くで、この春から放火事件が続いて他のですが、犯人が捕まったようです。
その他、ニュース雑感。
・「ローマの休日」は権利消滅 東京地裁、格安DVD認める
1953年公開の映画はすべてパブリックドメイン(公共物)に。
・幻覚キノコ食べた関大生、飛び降りて死亡
マジック・マッシュルームの食べ過ぎ。
・星野金属工業が不渡り
高級パソコンケースWiNDyの製造元。
2006年07月10日(月) ギアナの豚 さて、モルモット(marmotte)という名前は、南米からモルモットをヨーロッパに持ち込んだオランダ人が、これをヨーロッパにいるリス科の動物マーモット(marmot)と同じ種類だと勘違いしたことから来ています。実際には別の種で英名はギニア・ピッグ(Guinea pig=ギニアの豚)といいます。
でもモルモットは南米の動物、ギニアはアフリカの国です。南米ギアナ(Guyana)の名前が、いつの間にかギニアに勘違いされてしまったようです。
日本名はテンジクネズミ。天竺はインドであります。
ヨーロッパ・アフリカ・南米・インド。世界を股にかけた動物であります。
南米ギアナには、西からイギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地が並んでいました。イギリスとオランダのぶんは独立しましたが、フランスのぶんは相変わらずフランス領です。
オーストラリアがイギリスの流刑地だったように、フランス領ギアナもフランスの流刑地でした。フランス本土の政治犯や終身刑囚がギアナに送られ、過酷な強制労働をさせられたのです。
この流刑地を舞台にした映画が、スティーブ・マックイーン主演の『パピヨン』です。腕の入れ墨からパピヨンと呼ばれる金庫破りが、仲間の裏切りにあって濡れ衣を沢山着せられ、ギニア送りになります。パピヨンは脱走して本国へ帰ることを決意するのですが、看守を買収する金がありません。
そこで目を付けたのが偽金作りのドガ(ダスティン・ホフマン)。ドガは本国で女房が減刑運動をしてくれてるから、そのうち帰れるだろうと気楽に構えているのですが、その女房は弁護士とデキちゃっていることがわかります。
でも、この映画は格好いい脱獄映画じゃありません。
脱獄に失敗したパピヨンは、沖合にあるデビルズ島(悪魔島)の刑務所へ送られ、独房での日々を過ごします。そこからも脱獄しようとするパピヨン。でもやっぱり失敗してしまうんです。悪魔島からの脱獄にはさらに過酷な刑が待っています。
「被告から1ヶ月、光と、食料の半分を奪う」
パピヨンの入っている独房に蓋がされ、中は真っ暗闇になってしまいます。食事が半分になって飢えたパピヨンは、床を這う虫を食べて生き延びるのであります。
この映画は実在の人物の電気を元にしたものだとか。あくまでも運命にあらがうパピヨン、運命を受け入れようとしながらも心が動いてしまうドガ。この二人の対照が映画の妙です。
ああ、それにしても暗闇のひと月。想像するだけで過酷です。僕だったら気が狂ってしまうでしょう(え? もう狂ってる?)。暗闇にひと月かぁ。
えーと、何のためにこの文章を書き始めたんだっけ。そうだ! アル中探偵マット・スカダーの四作目『暗闇にひと突き』を読み始めたといいたかっただけなんです。
2006年07月08日(土) 最善は善の敵になる 仕事の合間にIT関係のコラムを読んでサボっていることは良くあります。
次の記事、次の記事と読み進めていくうちに、「今日の必読記事」とかのビジネスコラムにまで突入しちゃうこともあります。
そんな中に「最善は善の敵となる」(だったかな)という言葉に出会いました。家に帰ったらそれで雑記でも書くかと思ったものの、URLをメモっておくのを忘れ、どこの記事だか分からなくなってしまいました。
Operaのキャッシュなどを漁ってみたものの、結局見つかりはしませんでした。
Googleで「最善+善」で捜しても、なかなかお目当てのものが見つかるわけでもありません。なんか検索のアイデアが出るたびに捜していて、ようやくみつけたのが、18世紀フランスの思想家ボルテールです。シェークスピアの時代の人で、フランス王政を批判したがために弾圧され続けた人であります。思想史をやっている人には常識なのかもしれませんが、僕は初めて聞く名前でありました。
Voltaire の言葉に "Le mieux est l'ennemi du bien." というのがあり、僕はボンジュールとメルシーしか分からない人なので、英訳をみますと The best is the enemy of the good. (最善は善の敵となる), The perfect is the enemy of the good. (完璧は良好の敵である)となっています。
Voltaire が何を言いたかったのかは知りませんが、「最善を目指すあまりに一歩も譲歩しないでいると、結局何事も成し遂げられないで終わる」というのは、常識的に理解しやすいことであります。個人的には「進歩は譲歩によって成し遂げられる」と解釈しています。
とうぜんこの文章は『12のステップと12の伝統』の伝統2のところにある、ただの善は時に最善の敵になる、という文句を念頭に置いています。だいたいAAの伝統というのは、「世の中の常識に反して、我々が守ったほうがいいこと」のリストじゃないかと思うのです。Voltaire の警句に反することを選んでいかなければならないということでしょうか。
だいたいこの病気は常識に反するところがあって、アル中さんが「以前のようなひどい飲み方ではなく、最近はおとなしく飲んでいます」という時、良い方に向かっているという解釈はできないのであります。
で、12の概念になるとビルは違うことも書いていて、サービスに携わる人間は、積極的に妥協(譲歩)できる資質が必要だとあります。ほとんどの良い進歩は妥協から生まれるとも。自らの理想を追い求めるあまり、一切の例外を許さないという態度は、結局何事も生み出さないでありましょう。
このように私たちは、常識から反常識へ、反常識から常識へと遷移するのであります。
2006年07月07日(金) こねこねこのこ 我が家のトイレの掃除をするようになって3ヶ月が過ぎました。
春頃我が家のトイレは「これはちょっとどうかな」と思うぐらい大変なことになっていました。ところが妻にいくら言っても掃除してくれません。僕も汚れがひどい時は、軽く掃除をしたりするのですが、家のトイレの掃除は妻の仕事という考えがあるので、本格的な掃除には手を出さずにいました。
でも、娘たちが汚れたトイレに慣れてしまうのも具合が悪いような気がして、手を出したわけです。
家のトイレは自分の仕事だとは思っていませんが、職場では定期的にトイレ掃除の順番が回ってきます。定期的に掃除されているトイレは、それほど汚くはなりません。誰が買ってきているのか知りませんが、洗剤は「トイレのルック」、ぞうきんの代わりに「トイレクイックル」が用意されています。なぜかどちらも花王の製品だったりします。
仕事帰りに夜食を買って帰るついでに、このふたつを買って帰りました。我が家のトイレだって掃除をすれば、いい匂いがするではないか、と思いました。そして、妻が「ありがとう、これからは私がちゃんとするわ」と言ってくれると想像したのであります。
が、妻は感謝の言葉の後に、当然のように「これからもよろしくね」と、トイレ掃除の責任と実権が僕の手に渡ったことを高らかに宣言したのでありました。
僕の心の中には「こだわり」があります。行動しながら、結果を自分で拘束しています。AAミーティングでも、何か話をしながら、みんなの反応がこうあるべきだと勝手に決めています。仕事でなにか成し遂げれば、すぐに給料に反映されるべきだと思ってしまいます。トイレを掃除すれば、妻が改心(?)すると期待しているわけです。
そして、結果が思い通りにならなくて、やる気を失っているのが自分の姿です。
「おまかせ」と言いながら結果を自分で拘束して、思い通りにならないと苦しんでいる。まるでスポンシーが言うことを聞かないと嘆いているAAスポンサーのようです。
結果をコントロールしたいという願望が、自分を酒に追いやったもののひとつであることは、すっかり忘れてしまっているわけです。
クイックルは使えば無くなってしまいます。掃除一回あたり数十円は消費しているでしょうか。妻はそれはもったいないと言うのですが、僕は「トイレの床をぞうきんで掃除して、そのぞうきんをまた洗っておけってんなら、俺は掃除自体をやんねーぞ」と言うのであります。これも「こだわり」でしょうか。
一回か二回掃除をしただけで満足するほどキレイにはなりません(タイルの目地とか)。でも続けてきたので、少しずつマシになってきました。いつの間にか、風呂や流しの掃除までやっている自分がいます。でもゴミ出しはこの1年一回も行っていませんし、空のペットボトルは流しの下に放り出しておくだけです。
やりたいことを、やりたいようにしかできない。自分がそうだし、自分以外の人もたぶんそうなんですかね。
妻が猫を飼いたいという話をしていて、ついに大家(妻の父母)の説得に成功したようです。「部屋がこんなに散らかっていたんじゃ、猫の歩くところがないし」という条件が出たので、さきほどからどたばた片づけをしている音が聞こえてきます。
2006年07月06日(木) プロアナにアンチ・フェミニズムを感じる プロアナ(pro anorexia)に関する話が出ていたので、ちょっとだけ見回ってみました。
プロアナを簡単に説明すると、拒食症を病気としてとらえず、痩せるライフスタイルを選択しているんだと解釈して、積極的に支持していこうというコンセプトです。最大の利点は、拒食症の人の自己肯定感(self-esteem)を向上させることにあるんだとか。
アルコール依存の経験しかないので、他の依存症も同じかどうか断言はできませんけれど、たぶん同じだと思うのですが、この病気には「罪悪感」がつきまとうのであります。
アディクションにはまりながら、こんなことを続けていては自分の将来がダメになってしまうし、人にも迷惑をかける、だからやめなくてはと思うものの、思うだけでやめられるのだったら依存症ではないわけです。思ってもやめられない、やめてもまた戻ってしまう。そんなことを繰り返しているうちに、自分は意志の弱いダメ人間だとしか思えなくなってしまいます。
そうやって自己肯定感を失っていくと、自尊心を失っていきます。言い換えると「投げやり」になります。人に迷惑をかけても良心の呵責を感じられなくなる一方で、自分を否定する気持ちばかりに始終支配され続けることになります。
それが苦しいから、自己肯定感だけ補充してやるなんてことが、はたしてできるのか大いに疑問であります。仮にできたとしても、そんなものは対症療法にすぎないでしょう。歯が痛いから鎮痛剤を飲んでごまかしているのと変わらないのです。効果が切れれば前よりもっと痛くなるのは必定です。
苦しいアディクトは心の中では救いを求めています。self-help group がそこにつけ込むところがカルト的だってのなら、プロアナだって同じようにカルト的であります。「ほうら、私ってこんなに痩せてモデルみたいにキレイでしょ」という写真が掲げてあるページを見ると、単なるアンチ・フェミニズムなんじゃないのという気がしてなりません。
「酒をいくら飲んでもいいじゃないですか。好きなんだから。飲むのも自己実現ですよ。飲まなくなったらあなたじゃなくなっちゃいますよ」
もちろん、相手の言って欲しい言葉を言ってあげることが優しさではありません。
え? 酒と過食拒食はちがうって? じゃそういうことにしときますか。
2006年07月05日(水) ブログに思う どこのとは言いませんが、とあるブログを久しぶりに覗きに行ったら・・・ちょっとびっくりしました。
無くなっていたとか、更新が止まっていても、そんなに驚きはしなかったでしょう。
そこには amazon.co.jp へのリンクが張られ、リンク先の紹介文を読むと、どうやらブログの内容が本になったようでした。そしてブログの以前の記事はごっそり削除されていました。
「まだ、読んでなかったのにぃ!」
そりゃ本の内容は、ブログの中身に手を入れたものであって、基本的には同じものでしょう。本は有料で提供し、ブログは無料で見せていたら、そりゃみんなブログを読むでしょうね。
削除したのが作者ご本人の考えなのか、それとも出版社の指示なのかは分かりませんが、なんだか「げんなり」してしまって、ブックマークから削除してしまいました。
コンテンツの所有権はご本人が持っているのでしょうから、削除しようが、本にして売ろうがご自由であります。Webの内容が好評で、本になったよという話はいくつか知っています。本と同じ内容はWebからは削除した例も見ましたし、そのまま残してある例も見ました。
そのまま残してあれば「太っ腹だなぁ」と思うのですし、削除したのを見れば「ケツの穴のちっちぇー奴」と思うのであります。
例えばあなたが、久しぶりに「心の家路」でも見るかとこのページを開いてみたとします。でもそこには、「好評でしたので、心の家路が本になりました。買ってね」と amazon へのリンクが張ってあるのを見たとします。そして、ページがごっそり削られているとなると・・・。
たぶん「おいおい、ひいらぎ、何を勘違いしてるんだよ」とツッコミたくなるんじゃないですかねぇ。それとも、何か嫌なものでも見たような気がして、お気に入りリストから「家路」を削除して忘れてしまうことに決めるのかも知れません。
「ちょっとヒマつぶしに見てみるか」と「金を払ってでも読みたい」の間には、深くて大きい川があるのであります。本にしただけで金を払う価値が出るわけじゃありません。まあ、タダで読めなかった腹いせを書いているだけですが。
関係ないですけど、ハリー・ポッターは最終巻で死んでしまうとか。でも映画では死ななかったりして。
2006年07月04日(火) BBの集い雑感(その2) ステップは理論ではなく「やり方」です。本(ビッグブック)は理論を学ぶ本ではなく、その通りやってみればいいハウ・ツー本です。僕もそうでしたが、AAの本に書かれたことは、60年前のアメリカの白人中年男性キリスト教徒が体験した「実例のひとつ」に過ぎなくて、それをそのまま自分に適用するには無理がある。現代の日本に生きる自分は「自分なりのハウ・ツー」を見つけなければならないと思ってしまったわけです。
だから気に入った所、気に入らない所ができてしまい、好きなものばかり食べているから栄養が偏って具合が悪くなったのでしょう。
自分なりのやり方なんてものは、ハウ・ツー本の中身をひととおりこなした後で、付け加えていけばいいもんだと思います。
でも、たいていのアルコホーリクは「言われたとおりにやること」が最も苦手で、自分が自分の主人でなくなることに不安を覚えるのは、よく分かります。
僕は自分のやり方を見つけようとずいぶん時間を使いました。僕が幸運だったことは、その間もAAミーティングに出続けることができたことでしょう。でも、そのような幸運が誰にでも訪れる訳でははないし、できないのは自己責任で片づけられる問題ではないと思います。「このメッセージをアルコホーリクに伝え」の<このメッセージ>とは、(それが不要だとは思いませんが)AAミーティングに通ったりイベントに行ったりすることでなく、霊的な目覚めのことを示しているのは間違いありません。でも僕はずっとそのことを否定してきました。
信心深い年寄り連中のほうが正しかったと認めることは、好んで出来ることではありませんし、それを自分より若い頭の柔らかい連中に教えられたことで、もっとプライドが傷つけられましたが、意地を張るのを止めた方が楽に生きていけるというものです。
originality の追求(自分なり)を否定するわけにもいきませんが、original(原型)の追求のほうが楽でありました。
なんだかんだ言っても、僕はこの1泊2日はまだ2回目です。得たものは貴重ですが多くはありませんし、「実はそうだったんだ」という気づきも、日々の生活の中で泡沫のように消えていくでしょう。その部分を定期的にリフレッシュしていきたいですね。
青年の家みたいなところだったので、夜11時消灯でした。でも廊下で1時までひそひそやってました。朝早い人々は、外で早朝ミーティングをやったようですし、それはひょっとしたら海岸でやったのかもしれませんが、当然僕はぐっすり寝ていました。
(この項お終い)
2006年07月03日(月) BBの集い雑感(その1) 心も体も疲れ切った状態で、月曜日仕事に来ております。
ひとつには、三浦はとっても暑かったということであります。温度が高いだけじゃなくて、湿度も高くて、汗べっとりで体力消耗が激しかったです。やせるんじゃないかと思ったのですが、帰ってから体重を量ったら増えてました。
もうひとつは、プログラムの密度の高さ。
よくあるAAイベントだと、スピーカーが話している間も、廊下の喫煙コーナーには人だかりができていて、熱心(?)に雑談している姿を見ることができます。そういうAAの気楽さを、僕も大いに甘受することにしていて、日に2〜3人のスピーカーの話しか聞いてこなかったりします。
今回の研修では、スピーカーの話を聞く場面もありましたが、それは主菜ではなくて、主菜をいただくためのスパイスでありました。多くの時間はスクリプトを読んでいるか、スポンサー・スポンシーでペアになって過ごしているので、「ちょっと抜け出したまま戻ってこない」という技を繰り出してみたところで、会場の外でひとり淋しく過ごす羽目になっただけでしょう。
スクリプトを読んでいない時間は、スポンサー・スポンシーでペアになって、棚卸し表に記入したり、埋め合わせのプランを立てたりします。広い会場のあっちこっちにそのペアが散らばっていました。ひょっとしたらプログラムの部分は終わって、ふたりで四方山話をしているだけなのかもしれませんが、でもすごく深い分かち合いをしているかもしれませんので、お邪魔するわけにはいきません。
自分のぶんは手短に片づけたとしても、そうして話し相手もなく、風通しの良い階段で涼んで、視野に入る人たちを眺めていました。
スポンシーの人の中には顔が硬直している人もいました。本当は逃げ出したいのかもしれませんが、そうもできずにスポンサーの話を聞いているのでしょう。このスポンサー役の人が初対面だったりするわけですけどね。スポンサーが棚卸し表に記入してあげているペアもあり。ハグをしているペアもありました。
そうした姿を見ていると、「ああみんな真面目にステップに取り組んでいるんだな」と不思議な安心感というか充足感に満たされました。
決められた形式の表に書き込む形式の棚卸し(ステップ4)に違和感を持つ人もあるかも知れません。もちろん、ステップ4のやり方に、正解だとか不正解だとかないので、この方式が他より優れていると主張することはできません。
帰り道で駅までタクシーに同乗させてくれた相模原のメンバーと分かち合ったのですが、ステップ4は「どんなやり方でもいいよ」と言われるのは、実はとっても悩んでしまうことなのだと。それはまるで、真っ白い紙とクレヨンを渡されて「何でも君の好きな絵を描きなさい」と言われるのに似ていて、何をどう描いたらいいか困ってしまうのであります。そのくせ、その絵の出来で「1学期の図工の成績を採点するよ」と言われているような気がするのであります。
採点されるような気がするのも、ひとつのビョーキなんでしょうけれど。
ステップ3で決心をした後は、もうすぐに棚卸し表に取りかかって、それが終わるとスポンサーに「スクリプトに書いてあるとおり、<私たちのほとんどは他人が悪いと結論するのがせいぜいだった>わけだ、でも少し自分の欠点に目を向けてみよう」と言われて、どーんと背中を押されてしまうわけです。
そして、翌日には埋め合わせの計画も出来て、祈りと黙想を紹介され、ひとりでやるプログラムではないから一緒にやる人を探しなさいとなって、あっという間に24時間が終わります。間に挟まるのは、食事と風呂と睡眠。
これは完全なステップでしょうか? いえ違いますね。でも、どうやればいいかまず経験してみることです。「ステップは難しい、ステップは分からない」という言葉を耳にします。僕に言わせればそんなのはナンセンスです。難しい分からないというのは、ステップが理論だと思っているからです。自分にあったステップのやり方を見つけるためには、まず理論を理解する必要があるのでしょう。
「自分にあったステップ」だとか「理解」を求めているからなかなか見つからない。僕もそうでした。
(続く)
2006年07月01日(土) 無力+α(しめくくり) 穴のないドーナッツもありますが、穴のあるドーナッツを思い浮かべてください。
ドーナッツの穴は空虚であります。
穴にも意味がありますが、少なくとも空腹を満たす役には立ちません。おまけに、ドーナッツの穴は、穴だけ存在するというわけにはいきません。ドーナッツがあって初めて穴になれて、ドーナッツが朽ちれば穴もなくなります。
無力を認めるのは、結局自分がドーナッツの穴であることを認めることだと思っています。
もう一度、ドーナッツの穴は空虚であります。
その穴が、「俺は空虚だ、空虚だ。生きていくってなんて虚しいことだろう。ドーナッツがなくなれば穴があったことすら、皆忘れてしまう、ああ空しい」
そのくせ穴は、穴になにかを入れられることには我慢がなりません。何かが入ったら、穴が穴でなくなっちゃうじゃないかと。
それでも空虚なままにしておかずに、なにかを入れてみるということでしょう。あんことかクリームが無難でいいです。たくあんが好きならたくあんでもいいですけど、僕には勧めないでください。あまり変なものは入れない方がいいです。ドーナッツが食べられなくなっては元も子もありません。お酒もダメです。
そのあんこが「神様」なのだと思います。あんこは静かに空隙を満たして、不安や不満を耐えられるものに変えてくれます。
神様が何を考えているか、僕には分かりません。人間という限界ある殻に閉じこめられた身には、理解できないことはたくさんあるでしょう。ときどき分かるような気がするときもありますが、たいていは(これが正しいという)僕の思いこみでしょう。
ドーナッツの穴にも意味があるように、僕の人生にも意味が与えられました。この世の中に意味のないことは起こらないのだから、自分の人生にだって意味がないはずはありません。じゃあ、どんな意味がと言われても、自分にそれが完全に理解できる日は来ないだろうし、他の人にも同様だろうと思います。
不安も不満もゼロになりはしませんし、いきなり聖人になれるはずもありません。最低限の物質的充足がなければ、幸せは難しいだろうとも思います。それでも、世界が理想とほど遠くても、自分が不平不満のない聖人になれなくても、要するに酒を止める前と止めた後で根本的に何も変わらなくても、生きていけるようになったのは、あんこを受け入れたからということでしょうか。
AAメンバーがあんこを求めて歩いた道は無数にあります。僕もそのひとつを通ってあんこにたどり着きました。けれどこのあんこは僕のあんこであって、あなたのあんこではありません。だから、僕のあんここそが真正のあんこだと言えば、僕は嘘つきになってしまいます。
あなたが僕と同じようなドーナッツの穴であるならば、あなたを満たすあんこが見つかるよう願っています。
(この項おしまい)
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