ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2006年03月31日(金) 更新 4月からのパートタイマー勤務の契約書にはんこを突きました。
1年半保った正社員としての立場は失ってしまうわけですが、その間も休職だとか、パートタイム勤務だとかでまともに給料をもらったことがありません。
そろそろフルタイム勤務にと思っていたのですが、周囲の評価は「まだ無理だろう」というものでした。そう評価されるのはちょっと辛いことですが、まあ周囲の評価は受け入れていくべきでしょう。
仮にフルタイムに戻って、今度また体調が悪いから休んだりして、そして有休を使い果たして、さらに休んで勤務時間が規定に足りなくなった場合、また休職しますでは済まないのであります。そして現在の職場もぎりぎりの人数で仕事している以上、辞められても困るというわけです。
辞められても困ると言われても困るのですが、相手が困っているのもわかるので、あまりわがままを押し通すわけにも行きません。
月曜日にはフレッシュな気分で仕事に行くのですが、金曜あたりには疲れがたまってダレてきます。なので、月〜木の週4日勤務にしてもらいました。基本的に金曜日は休みです。仕事の持ち帰りはできないので、金曜日に何をしようか思案しています。
秋に資格試験を受けることにしました。といってもその資格は5年前にも取得しているのであります。しかし変化の激しいIT産業ですから、5年前の試験の問題はすっかり陳腐化しています。なので5年前の資格の価値もそれなりにしかなりません。別に資格に期限がついているわけでもないし、四角がないと仕事ができないわけでもないのですが、更新することにしました。
参考書と問題集を手にとって、本屋のレジに向かい、手持ちの現金が無かったのでクレジットカードを出そうとしました。が、見つかりません。本屋で財布をごそごそやり、カードを1枚1枚確かめたものの、見つかりません。どうやら紛失したようです。
最近でもカードを使った覚えがあります。が、それはネットの通販です。ネットの通販ではカードの現物は要りません。カード番号・名前・有効期限・セキュアコード・暗証番号などなどを入力する必要があるだけです。別に記憶力が良いわけではないのですが、しょっちゅうネットで買い物をしているせいで、すっかり番号を覚えてしまいました。
「最後に実店舗でカードで買い物したのはいつだろう・・・」
3月のはじめに、サウンドカードを衝動買いしたのが最後のようです。
利用履歴を調べてみたら、不正利用はされていませんでした。でも、みつからないので、しかたなくカード会社に連絡して再発行を頼みました。当然番号は変わってしまうようです。
新しい番号を覚えるまで何年かかるやら。
2006年03月30日(木) ポリティカル・インパーシャリティ 雑記を書こうにもネタが無いので、また新聞記事でも取り上げることにしましょう。
朝日のサイトからは消えてしまいましたが、gooに残っていました。
「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋
要約すると、原爆の被爆体験談をする人に対して、政治的な発言(天皇の政治責任、9条、自衛隊、原子力発電、靖国など)を慎むように要請が出されたことに対して、反発が起きているという話であります。朝日新聞は戦前の言論統制を引き合いに出して、批判的な論調で報じています。
さらに続報として、原爆施設の案内人にも同様の要請が伝えられています。
被爆体験を聞くために講演をお願いしたのに、(賛成でも反対でも)靖国神社参拝の話をされたのではたまったものではない、というのが聞く側の正直な話でしょう。被爆体験には、人を集めて政治的発言をする特権を伴うものなのか、という反感をもたれてしまうかもしれません。被爆体験はなるほど次代に伝えるべき貴重なものなのかもしれませんが、政治的発言は人の耳を閉じさせるのに十分であります。
アルコール依存症の体験談をするときも同じことが言えるでしょう。人の心をつかむためには自分の体験だけを話すのが一番効果的であるようです。AAでもたまに、依存症の病理についての話を一生懸命する人や、どこそこの○○さんはどうだったという話ばかりする人もいます。病院の治療方針について反対ばかり言っている人もいます。誰もそれを「ダメだ止めなさい」と遮ったりしないけれど、そういう人の話が心に残ったことがありません。ましてや政治的発言なんかに偏ったら最悪です。
自分の体験をありのままに話して、そこから何を汲み取るのかは、相手に任せる。それが実は一番効率がよいと経験が伝えられているわけであります。
世の中には何かを大声で批判している人たちがたくさんいます。それはそれで、その人の大事なものを守るために戦っているんでしょう。それに耳を傾ける人もいれば、退ける人もいます。退けられることも承知で話をしているのでしょう。
なるほど体験談と言うのは、批判よりも、人に聞いてもらいやすい、納得してもらいやすい題材であります。人に話を聞いてもらえると言うのは、なかなかに自分を満足させる体験であります。が、相手の考えを自分と同じにしようと欲張りすぎると、もう結構と言われるのがオチです。
「このままでは話を聞いてもらえなくなる」という危機感がわからない人というのは、論争があって当たり前だと思っている人なのだと思います。
などということを書いているこの記事も、実は政治的に偏っている(一方の人の肩をもっている)わけであります。雑記に何を取り上げるか、取り上げないかというのは、かなり気を使うことであります。AAのメンバーであることを明らかにしてサイトを維持している以上、「外部の問題には意見を持たない」という基本方針に忠実であるべきです。
が、僕の生活は基本的には平凡で退屈なものであり、外部の問題を取り上げないことには「何を食ったか日記」になってしまうという悩みもあったりします(ひらきなおり)。
2006年03月29日(水) もろもろ 雪が降っています。
スタッドレスタイヤが磨り減ってきたので、今年はそのまま夏もはき続けてサマータイヤとして使い切ってしまおうと思っています。
歯の治療は続いています。
奥歯の治療は終わったのですが、前歯の間に微小な虫歯が点在していて、時間を食っています。
「アリス・イン・ナイトメア」をクリヤしました(日曜日)。
もっともレベルは「簡単」に設定してですが、この上に「普通」「困難」「悪夢」(うろおぼえ)があります。わざわざ難しくしてやってみようとは思いませんが。
こんなにゲームをやりこんだのは何年振りでしょうか。
夏のイベントについて、携帯電話でも見られるホームページを作っています。
HTMLを書くのじゃなくて、テキストを流し込むと、パソコン用にも携帯用にも加工してくれるというタイプを始めて使っています。なかなかもどかしいです。
2006年03月28日(火) 泥酔が罪? アメリカでのバーで深酒しただけで逮捕されるという記事でも取り上げることにしましょうか。
泥酔することは犯罪なのか、という疑問はあります。
日本で過失運転致死傷罪ができるまえは、飲酒運転による事故の加害者は業務上過失致死傷罪で処罰されていました。この刑が最大でも懲役5年であったために、人が死んだという結果に対して、他の罪に比べてあまりにも軽いではないかという議論があって、過失運転致死傷罪が新設されたわけです(最大懲役15年)。
業務上というのは仕事をしていてという意味ではなく、日常生活のうえでという意味だそうです。刑法が制定された明治のころには、故意にではなく過失によって人が死ぬということは滅多に無く、その罪を重く問うことは適切でないという背景があったようです。
しかし、文明開化が進んで、だれでも(たとえば車という)凶器にすぐ変わる装置を操作している世の中になると、重い罪が適切でないと悠長なことを言っていられなくなるわけです。
時代が変われば罪に問われる事柄も変わる。これについて連想するのがコンピューターのクラッキングです。今は不正アクセス禁止法(1999年)があります。しかし、それ以前、刑法に電子計算機なんたらという条項ができる1987年以前は、他人のコンピューターに侵入することを罪に問うことができませんでした。どうしても立件しなければならないときには、他人のコンピューターを操作=電気を消費した=電気を盗んだ=窃盗罪として起訴されていました。
時代の変化とともに問われる罪も変わると言うことでしょう。
アルコールによる害は日本よりアメリカのほうが深刻であるわけですが、日本も人口が増えなくなった(むしろ減っている)割にはアルコールの消費量は増えるばかりです。健康な人の飲酒習慣にけちをつけるつもりは毛頭ありませんが、アメリカで起きた事象が何十年か後には日本でも起きることは経験的に知られているわけであります。
2006年03月27日(月) 怠惰と不作為の間 動物園と善光寺さんに行ってきました。
朝10時に妙に元気な妻に叩き起こされました。
(お前、昨日はうつだとか言って夕方になるまで寝てたじゃねーか。おまけに食事も風呂も子供の世話も俺に押し付けやがって、自分が遊ぶときだけは元気なんだから)
とは思ったものの、言ってもせんない文句は言わぬがハナであります。
おそらくこの動物園は3回目だと思うのですが、娘たちは前に来たことはまったく覚えていないようであります。ただ長女は「動物園ですごく走った覚えがある」と言っていました。それは3才だか4才のときに多摩動物園に午後4時に飛び込んだときであります。あの広い動物園を1時間で見て回るのは大変でした。それにくらべて、長野の動物園のなんとちいさなことか。
でも、子供たちはポニーに乗せてもらったり、レッサーパンダにさわったり、モルモットを抱いたり(?)と、細やかなサービスがあるのも来園者の比較的少ない動物園のよい点かもしれません。
その後、善光寺へ。
たぶん、高校生のときに「強歩会」という学校のイベントで実家のあたりから一晩かけて歩いていった時以来でしょう。夕方に集合して出発し、夜通し歩いて目的地を目指し、電車で帰ってくるという、いかにも体力の有り余っているティーンエイジャー向けの企画でありました。朝になり、疲労のために集団から遅れて一人で国道端を歩いていたら、車が止まって「乗っていきませんかー」と若い男に声をかけられた記憶があります。当時の僕は長髪が背中の下のほうまで伸び、体重は40キロ台で、短パンから出た足にはすね毛はほとんどありませんでした。振り向くと車の男は驚いた表情でしたが、「結構です」と僕が言うと明らかに安堵した表情で走り去ったのでした。
あれから二十余年、善光寺は記憶にあるのと変わりませんでした。
善光寺に手を合わせる自分は仏教徒なのか、すこし考えたりします。婚家は浄土真宗なので、一応僕も形は仏教徒であります。実家は神道でありました。といっても積極的に神道になったわけでもなく、明治維新後の廃仏毀釈で菩提寺が廃寺になった結果だそうです。そしてAAメンバーとして何も疑問を持たずにキリスト教会に出入りしています。
夏にAAのイベントで使う宿泊研修施設の予約をしました。考えてみるとAAの宿泊イベントの予約を僕の名前でするのは初めてかもしれません。なんとなく心が緊張するものですね。
「私たちが運んでいるメッセージには未来の仲間の命が託されている。できないことをやれとは言わないが、できるのにやらない不作為は許されない」
何年も前に聞いた仲間の言葉を思い出しました。できることをすればいいのですね。
2006年03月25日(土) 配られたカード ポーカーのようなカードゲームを考えて頂きたい。ホイストでもいいし、トランプが嫌いなら花札でもかまいません。麻雀でもいいです。
最初に手札が配られます。手札によっては勝利に近い「よい手」もあれば、とうてい勝ちは見込めない「悪い手」もあるわけです。手札が悪いからといって交換を要求することはできません。みな、与えられた条件でゲームに参加するのであります。
手が悪いからといって投げやりになれば、勝利はおぼつきません。手が良いからといって慢心すると、足下をすくわれます。どのポジションからも努力が欠かせないのであります。
良かったり悪かったり、それもゲームの綾であります。
「配られたカードですから」という言葉を僕に贈ってくれた、先ゆく仲間がいます。
ただそれだけの言葉でありました。
家族がいるとかいないとか、仕事があるとかないとか、借金や他の病気の有無、病気の軽重、ミーティング会場の近い遠い、周囲の理解・・・。私たちがソーバーを目指すにあたって、メンバー一人ひとりの条件は、皆違っています。恵まれている人もいれば、困難な人もいます。隣の芝生はいつも青く見えます。
しかしそれは「配られたカード」であります。ぶつぶつ文句を言っても始まりません。与えられたコンディションで最善を目指すほかありません。
僕らはバケツリレーのように経験と知恵を手渡ししていきます。だから僕もこの「配られたカード」という言葉を贈りたいと思います。
パ・リーグが開幕しました。残念ながらわが楽天野球団に今季初勝利は訪れませんでした。
野村監督の言葉に(引用でしょうが)、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがあります。
うまくいくときには「たまたま」があり、失敗にはかならず原因がある。ソブラエティも同じだと思います。結果として幸運に支えられて「飲まない」が続くことがあります。が、結果に慢心すれば失敗が待っています。結果にとらわれるとプロセスが見えなくなります。
『ビルはこう思う』を全部丹念に読む機会がありました。神さまは、時に人を、他の人より困難な道に導くことがある。だから結果がなかなか出ない時もあるけれど、どんなときでも結果が重要なのではなく、努力することが大切なのだとビルは説きます。
なかなかソーバーにたどり着けない人に対して、時に人はとても冷たくなります。自分に配られたカードがたまたま良い手だったから結果が出ただけだと謙遜することは簡単にはできません。
「1年経つまでは病気が飲ませているのだ。でも1年経った後は本人の責任」
そういう言葉ももらいました。「酒をやめているだけじゃダメなんだ」という理屈はもっともですが、上を見て背伸びをして歩けばたいてい転びます。回復や成長なんてものは、自分が望んでいるよりはずっとゆっくりしたものなのですから。
それに、辛い時、苦しい時にしか、プログラムに取り組もうとは思わないですし。
2006年03月23日(木) テレビ テレビを所有していなかった時期があります。
進学のために上京して下宿に入ったときには、親にテレビを買ってもらったのですが、そこを出てアパートに移った後で手放してしまったのでした。なぜ手放したのかは覚えていません。ともかくそれから何年間か僕はテレビの無い生活をしたのです。
テレビなしのをたくの生活はちょっとさびしいです。でも、当時は大学の先輩に頼めば、彼らが撮っていたビデオをいくらでも見せてもらえました。頼んでもいないものまで見せられました。まあ当然と言えば当然の行為ですが。β派対VHS派の論争もかすまびしいかまびすしい時期でありました。
新聞を取っていたので、ニュースを知ることには困りませんでした。ラジオは聞いていましたし、出たばかりのCDプレーヤーも買いました。おそらく一生で一番音楽を聴いたのがこの時期だったでしょう。
やがてソフトウェア関係のバイトをするようになり、少し金回りがよくなったので、テレビモニター(チューナーがついていないやつ)とβハイファイのデッキを買いました。さっそくNHKの集金人にかぎつけられて、銀行引き落としの契約をしました。任天堂のファミコンを買ってきて、大画面でひたすらゲームをやっていた記憶があります。
そのうちに酒で評判を落とすようになって、仕事がうまくいかなくなり、金に困ってテレビモニターも、βデッキも、ファミコンも売られていきました。でもNHKの口座引き落としをとめるにはどうしていいか知りませんでした。分からないことがあれば聞けばいいのですが、もはや僕の周りには親身になって相談に乗ってくれる人はいませんでした。
それに、「金に困ってテレビを売っちゃったのですが、NHKの金を払わなくするにはどうしたらいいんでしょう?」って人に聞くのは、無駄なプライドを持っていた自分には無理な相談でした。
というわけで、テレビなしでまたしばらく過ごすことになりました。その間、見ることのできないNHKに金を払っていました。やがて再びテレビは買うのですが、田舎へ引っ越してしまい、そしてNHKの受信料を引き落としている口座を解約することでNHKと縁を切ったのであります。
実家は白黒契約でした。もちろんカラーテレビを見ているのですが、うちは白黒だと言い張ってカラー契約への切り替えを父が拒んでいたのでした。当時は電波強度が弱いとか、ゴーストが出るとか、そういう難癖をつけて白黒契約の金しか払っていない人もまだ多かったようであります。
結婚してアパートに入居して、しばらくはNHKとの契約を拒んでいました。だって東京にいたときに見てなかったのに払っていた時期があるんだもん。というのが僕の言い分でした。でも、敵もさるもの。波状攻撃に耐えかねた僕は、結局またはんこをついてしまうのでありました。
最近はあまりテレビを見ていません。なので当然NHKもほとんど見ません。ニュースや天気予報はNHKを選んでみる場合がありますが、ニュース専門チャンネルのコストに比べればNHKは高いと思うのであります。AMラジオやFMのぶんまでしめて払っていると考えても、まだ高いように思うのです。
なぜテレビ受像機を持っている人間にNHKの受信料を払うように法律で義務付けているかと言えば、払わないからといって電波を止めるわけにはいかないからでしょう。でも、地デジになったら、スクランブルをかけて、金を払わない人間には見せなくすることもできるわけでしょう。そのためのB-CASカードじゃないの。それともカードの管理団体はただの天下り先なの?
NHKの言うとおりあまねく広く放送を国民にいきわたらせるのだったら、税金を使ってやればいいとも思ったりします。所得に関係なく一律の受信料というのは逆進性があります。だって、収入が少ないからテレビを見ないように努めても受信料は節約できないんですから。
(まあ決めらられた金額を払えば、何十時間見ても同じ値段だったりして、単位時間当たりのコストは減らせますが)。
教訓。受信料の話を始めると収拾がつかない。
2006年03月22日(水) 3年後が楽しみ 朝起きてみると、口のなかが乾いていて気持ち悪いです。気持ち悪いので寝ていられずに起きてしまうといった具合です。鼻づまりが原因で、口をあけて寝るせいであります。
1月にはこんな症状はなく、2月になって「鼻かぜかな」と思っているうちにインフルエンザになりました。インフルエンザをはさんでかぜが残存しているのかもしれない・・・そんなことを考えていたのですが、何週間も風邪が治らないのも奇妙な話です。だいたい咳も熱も出ないのです。
「これは花粉症だろうか」と思ったりしました。花粉症はいきなりなると言いますからね。
いままで花粉症の人間がずびずびと鼻をかんでいるのを見ては、かわいそうだなと一段高いところから見下ろしてみたり、アレルギーの注射を打つからと医者に行って仕事に遅刻してくる人間を見ては、自分がうつ病で医者に通っているのは棚に上げて、困ったもんだなと思ったりしたものでした。
しかし、どうやら僕もその仲間入りをしそうな気配であります。因果応報というやつでしょうか(違うか)。
精神科医にかかったときに、特に話すことが無いので、鼻づまりの愚痴をこぼしたところ、「それは○×という薬の副作用ではないか」と、分厚い本をひっくり返して調べてくれました。
その薬は量を減らしていずれゼロにして、かわりに抗ヒスタミン剤を飲むことになりました。それが1週間前の話です。症状は若干改善されたような気がしますが、相変わらず口が渇きます。
そう医者に言っても、たぶん「量は減らしたけれどまだ半分の量を飲んでいるので副作用が続いていてもおかしくない」と言われるだけでしょう。
ゼロになり、薬の副作用が消えるまでにはまだ何週間かかかります。ひょっとして原因が花粉だったとしても、そのころには飛散は終わっているかもしれません。
真実は誰にも分からないままになるかも。
ともかく、鼻炎用の点鼻薬の効果は確かであります。
ワールド・ベースボール・クラシックを見て思ったこと。
・オリックス時代から、哲学者みたいな顔して小難しいことばかり言っていたイチローが、子供みたいにはしゃいでいた。
・キューバの9回裏の攻撃は、なんだか高校野球を見ているようで情熱的であった。
・日本のプロ野球選手にはさめた人間が多すぎると言われていたけれど、みんな結構アツかったじゃないか。
・「裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりすることは許されない」と9.02cにあるんだから、球審が独断で裁定を覆したのはルール違反ではないか。ただ「審判員の判断に基づく裁定は最終のものであるから異議を唱えることは許されない」9.02aとあるので、「俺がルールブックだ」と言われればどうしようもないが、それだけに審判の質は問われなければならないと思う。
・やっぱ7月開催のほうがいいよね。でもそうするとWBCのある年はオールスター戦はやらないのか。3週間もリーグ戦を休むのか。
3年後が楽しみであります。
2006年03月20日(月) 回復って・・・ お彼岸で、子供二人と一緒に実家に行き、墓参りに行きました。
雪がちらつくあいにくの天気でありました。
ワールド・ベースボール・グラッシックの準決勝。韓国にしてみれば、日本と3回も試合をして、1試合負けたのが準決勝であったがために、日本のほうが順位が上になるという不条理を感じているかもしれません。疑惑の判定といい、不条理を感じさせることの多い大会であります。
韓国の熱狂は最強のナショナルチームを作ったことによるのでしょう。対する日本は、韓国の監督が日本はまだ3〜4チーム作れるぐらい層が厚いと言っていましたが、それだけベストメンバーが組めなかったということであります。
韓国では野球の人気が急激に盛り上がったといいます。日本も優勝することで野球人気を盛り返してほしいと、サッカーよりも野球が好きなおじさんは思うのであります。
さて、「回復」って何なの? という話がありますが、僕には「よく分からない」というのが本音であります。それは人生の意味だとか、人生の価値だとかと関係があることらしいので、価値観のありようだけ回復のありようもさまざまなのでしょう。逆にひとつのモノサシでいろいろな回復を計ることは無理なんでしょう。
「ちょっと飲んじゃったけどなんとも無かったよ」という話をする仲間が要る一方で、ちょっと飲んだがために大変な思いをする仲間がいます。だから飲まないでいるということはとても大切なことで、それは例えば飛行機が飛んでいるか墜落しているかの違いぐらい大きいだろうと僕は思っています。
ただ、整備不良なのに結果として何ヶ月も事故なしで飛んでいる飛行機があるように、「飲まない」はたまたまの結果として出る場合がままあるということです。
だから、飲んだ・飲まないというモノサシは使いやすいけれども、あまりそれに頼っていると、本質を見誤るような気がするのです。
僕はAAのイベントに行っても、もう一日会場で座って仲間のスピーチを聞いているという忍耐がありません。ちょっと座っていると我慢ができなくなって、タバコを吸うわけでもないのに、ロビーをぶらぶらして回り、知った人間を捕まえて世間話をしてしまいます。風邪を引けばミーティングに行かないのは当たり前で、いっても要領を得ない話ばかり。こうなってから「回復」なんて言ったところで知れたものです。
最初の1年・2年・3年の努力が大切で、後になって努力しようと思ってもなかなかできるものではないという悪い例であります。
2006年03月18日(土) アリス 有意義なことは何もする気になれないので、パソコンでゲームでもしてみようかと、以前買っておいた、アメリカン・マギーの『アリス・イン・ナイトメア』で遊んでいます。
日本語版の発売が2000年ですから、Windows Meや2000の時代のものです。
が・・買った当時のパソコンの性能では、能力不足であまりスムーズに遊べなかったので、そのままほったらかしになっていたものです。
実はノートパソコンで遊ぼうとそれにインストールしてみたのですが、イライラしただけでした。このノートPCが2000年発売のもので、Pentium III 600MHz、Rage Mobility Mという仕様です。
デスクトップの方は最近の仕様なので、結構スムーズにプレイできました。
上のページにもあるデモ版を3時間かかってクリアした後、製品版をインストールして3分の一ぐらい終わったところです。どんなゲームか興味のある方は、デモ版をダウンロードして遊んでみられてもよろしいかと思います。80MBありますが。
「悪夢の中のアリス」というだけあって、アリスが包丁を振り回してざっくざっくと敵をやっつけていくというスプラッターなゲームですので、そういうのがお嫌いな方にはお勧めしません。ただ、内容は「プリンス・オブ・ペルシャ」系統の、アクションなんですが、実際にはパズルで、一面一面謎を解きながらクリアしていくというものです。
秀逸なのはアリスのガイド役として頻繁に登場する「チェシャ猫」で、性格が悪くシニカルな皮肉を振りまいてくれます。召喚して助言を求めようとすると、
「進むべき道を見つける者はわずかだ。見つけられない者もいれば、見つけたがらない者もいる」
とだけ言って消えてしまったりします。
棚には買ったけれども遊んでいないパソコン用ゲームがごろごろしています。古いものだとMSX用の『魔導物語』(ぷよぷよのコンパイルの作)まであったりします。
まあ、明日には飽きているかも知れません。
2006年03月17日(金) キッズgooはじかれサイト同盟 せっかく雑記のページを見に来て頂いたのに、更新していないと申し訳ないような気もするので、今日は遅くなりましたが、スラドあたりからネタを拾ってきて、短いながらも書いてみたいと思います。
キッズgooはじかれサイト同盟なるものがあります。
キッズgooというのは、検索サイトgooの子供版です。我が家では子供用のパソコンのIEを起動するとこれがホームページになっています。
で、子供用だけあって、子供にはふさわしくないと思われる内容のページは、フィルタリングされるようになっているわけです。試しに「心の家路」がフィルタリングされていないか確かめてみたら、はじかれていました。うーん、心の家路もアダルトな内容のサイトでありましたか。
そういえば以前はリファラーにキッズgooから検索してきたという履歴が残っていたりしたのですが、最近キッズgooからはありません。
それにしても、心の家路を検索してくるお子様とはどんな子供だったのでしょうか。やっぱりお父さんかお母さんがアルコール依存症で、なにか解決はないかと学校の図書館のパソコンで検索してみたりしたのでしょうか。
そういう子供たちに「心の家路」を見てもらえなくなったのは・・残念・・なのかなぁ。
あなたのサイトもはじかれていますか?
2006年03月16日(木) プロフェッショナルの偏り 昨日は市民ニュースの偏りが、個人の熱意の偏りを反映しているという話でした(だったような気がする)。
僕は新聞は産経新聞のネット版を読んでいます。月に500円と安価なのと、新聞紙を捨てる手間がいらないからであります。義父母のいる母屋では読売新聞を読み、実家へ行けば朝日新聞を読みます。歯医者や飲食店では、朝日があればそれを読みますが、無ければ毎日だろうが日経だろうが赤旗だろうがかまいません。
こうして読み比べてみると、同じ事象に対しても各紙微妙に伝え方が違っていることがわかります。たとえば産経や読売は朝鮮半島や中国大陸に厳しく、朝日は半島や大陸に優しいのであります。などと書くとさっそく「そんなことはない」とお叱りを受けたりするわけですが、どの新聞だって「うちは公正公平を旨とした編集方針だ」と主張するのは当たり前で、それを鵜呑みしたりするのは危ないことであります。
ではそういう偏りがどこから生まれてくるかというと、つまるところ「読者が望んでいること」を供給するのがニュースメディアであるからだろうと思うのです。ある人が「もし国民の9割が日本に軍隊があることを望んだとしたら、朝日新聞の社説だって9条改憲支持になるだろう」という話をされていましたが、新聞社というのは大きなところでは何千人という社員を抱え、配達員まで入れればもっとたくさんの人がそれで生業をたてている営利企業であります。そして、営利企業というのは顧客第一なのは当然です。
新聞は社会正義の手段であるとか、公器であるとか言われますが、大切なことはそれが事実であるかどうかではなく、読者がそうあって欲しいと願っていることであります。
さて、ニュース検索に引っかかっていなかったのですが、毎日新聞の社説禁煙治療 依存症の軽重無視する子供っぽさと、闘論:禁煙指導への保険適用というふたつを取り上げてみたいと思います。
アルコール依存症に比べて、ニコチンは依存性が少ないし、社会生活が送れなくなるわけじゃないから依存症とは言えない。離脱・禁断症状は喫煙者によって克服されている(吸える場所でしか吸わない)から依存症とは言えない。だから治療の必要はない。
その理屈が正しいかどうかは問題ではありません。なぜニコチン依存症の治療に反対しているかという背後にある意図であります。それは「タバコを吸うことを病気として治療するのに反対」という人たちがたくさん存在しているということでしょう。
成人の二人にひとりが飲酒すると言います。けれど、毎日酒を飲む=常習している人というのは、僕が飲んでいた頃想像していたよりずっと少ないものです(そうであってほしかった)。ほとんどの人は、機会があって酒を飲む機会飲酒者です。そしてしょっちゅう飲んでいる常習者でも、相応の理由さえあれば飲酒を慎むことができる人がほとんどで、理由があっても「今日は止めておく」ことができない依存症者は、飲酒人口全体から見ればたかだか数%にすぎません。
ところがタバコは、人に勧められたときにだけ一服するとか、机の中に3ヶ月前の一箱がまだ残っているとか、そういう「機会喫煙者」はほとんどいないわけです。喫煙者の大多数が常習者であり、常習者の大多数が「今日は止めておく」ことができない状態であるわけです。
喫煙人口3千万の大多数が、「タバコを吸うのは覚醒剤中毒と同じ薬物依存です」と言われれば言われ無き迫害と感じるのでしょう。そう感じるのは個人の自由なのかもしれません。需要側がそう感じれば、供給するたばこ産業も困ったことだと感じるのでしょう。
何が言いたいのかというと、喫煙を治療するという風潮が困ったことだと感じている人が結構たくさんいて、そのたくさんの人の需要を満たすために、「喫煙は依存症じゃないよ」という報道が「供給」されるという構図です。
アマチュアがアマチュアらしく偏るように、プロはプロらしく偏るだけの話かも知れません。
最後に、検索対象から外れているうちにキャッシュに落ちてしまいましたが、なぜ大量飲酒中は男の性欲が落ちるのかという記事を取り上げておしまいにします。
2006年03月15日(水) 熱意の偏り 市民ニュースなるものがあります。
いわゆるマスメディアが「プロの記者」、つまりそれで飯を食っている記者が書いた記事を配信するのに対し、「アマチュアの記者」が書いた記事を配信するところが違っています。
アマチュアの記者がプロの記者より優れている点としては、特定のセグメントに特化していることでしょう。プロの記者だと、たとえば依存症の記事を書く人は、社会面や生活面の記者の人で、病気のことだけじゃなくて、社会生活一般のことを広く取り上げることを使命としているわけです。したがって、個々の事象に対する理解はそう深くはなり得ません。
逆に「市民記者」は、収入以外のものを使命としているのでしょうから、自分の得意な分野を追求することができます。
インターネット登場以前の時代、新聞とは「知の集積」でした。新聞記者は、広く世間を見聞し、人々に紹介する価値のある事象を(公共のということになっている)紙面に載せて伝えたわけであります。特定の分野に深化することは、その分野のプロパーが「専門家」とか「識者」とか呼ばれて担当していたわけです。情報の発信にさえコストを必要としていた時代には、情報を発信するのはプロの役割でした。
ネットが登場し、ワープロソフトをいじるのと同じぐらいの手間でWebページが編集できるようになると、情報発信へのハードルはぐっと低くなりました。それまでは自分の好きな分野の情報を本という形で配信しようとすると、少なくとも数十万円は用意しないといけませんでした。誰にでもできることではありません(まあ、それができる人が何万人と集まるコミック・マーケットのすごさを改めて感じるわけですが)。ところが、WWWという技術の登場によって、ネット接続と、数千円のソフトと、時間と熱意があれば、同人誌レベルの発信は誰にでもできる時代になりました。
さらには、21世紀に入ってブログが流行すると、ソフトも時間も熱意もさらにハードルは低くなり、裾野は広がりました。
当然そうした情報発信の中には、特定の分野に限れば、新聞などのマスメディアよりも高い「知識の山」が存在することになります。そうした山の価値が認められるのに10年は要したように思います。
そうして認められた個人による情報発信の価値を、ふたたびマスメディアに集積してみる試みが「市民新聞」であろうかと思うのです。
日本での市民新聞としては、JanJanと、Livedoor PJニュース。それから韓国のOhmynewsが日本に上陸するそうであります。
「心の家路」のニュース検索にも、JanJanとPJニュースはひっかかってきます。今のところ市民新聞だからという理由でそれらを取り除いたりはしていません。
ただ、市民新聞で引っかかる記事は、DV関係とギャンブル依存関係だけであります。そういう記事の中に「アルコール」だとか、「依存」だとかいう言葉が出てくるので検索対象になっているのです。そしていつも同じ人が記事を書いていることもわかります。
それは、たまたまDVやギャンブルに関心のある市民記者がいて、アルコールや薬物に関心のある記者がいないだけなのでしょう。
市民ジャーナリズムについての話を読むと、情報の正確さを誰が担保するのかという議論になりがちのようですが、僕の感じ方ではこうした関心の偏りのほうが深刻だと思うのであります。
アマチュアによる情報発信は、どうしても「熱意と時間」をどれだけ捧げるかという問題になってきます。そして時間と熱意をたくさん捧げた人の意見は浸透しやすいということであります。たとえばWikipediaの記事にしても、情報の正確さではなく、たくさんの時間を費やしてたくさんの記事を書くことでその人の意見が浸透するわけです。
しょせん「個人の意見」なのだということを承知していれば問題ないのでしょうが、ジャーナリズムだとか百科事典という名前が付くと、そこに真実が存在しているという期待値が高くなりすぎる欠点があります。
(この項、続く)
2006年03月14日(火) ミステリー 推理小説の表紙カバーには「主な登場人物」の一覧が載っています。そしてこの登場人物一覧の中に犯人がいるのが「お約束」とも言えます。
もちろんせいぜい10人ほどしか並べられないので、それ以上に登場人物が多いときには犯人が入っていないという場合もありますが、経験的には少ないです。
マット・スカダー・シリーズにおいても、当然この法則は当てはまります(はずです)。
とはいうものの、シリーズ物ですから、今後も毎回出てくるだろう人物が犯人とは考えにくいです。もちろん、まれにそう言う場合もあります。場合によっては探偵本人が犯人という場合すらあります。しかしそういう「反則」もしくは「反則すれすれ」のことは滅多には起こりません。三毛猫ホームズで片山兄妹・石津刑事・栗原警視あたりは安心して犯人から除外できないと、シリーズが続いてくれません。
マット・スカダーでは、一覧の半分ぐらいが「次の話でも出てきそう」な人であります。
そうすると5人ぐらいしか残りません。であるのに、犯人が誰だか分からないというのは悔しいことであります。
マット・スカダーは本格推理ではないので、密室のトリックを解いたり、偽のアリバイ(不在証明)を暴いたりという必要はありません。だいたい5人の誰もアリバイがなかったりします。同じように誰も「殺しの動機」がなかったりします。
サスペンス小説じゃないんだから、激情に駆られての殺人であるはずがありません。少なくとも未必の故意が認められるだけの計画性のある殺人のはずです。だから「なぜ」の解明は必須です。
というルールでゲームは進むわけであります。ハードボイルドな主人公は、物語の進行に合わせていろんな人に会い、いろんな物事の断片を集めていきます。そして、探偵が「ジグソーパズルのピースはこれですべてそろった」などとぬかすときには、次のページから謎の開陳が始まるという警告であります。そこのページに至っても、まだ5人のうち誰が犯人かも分からない場合には、
「くそー、わからねー」
と敗北を宣言して次に進むわけであります。僕の場合、もう一度読み直して考えることはしません。素直に謎解きを読みます。ああ、しまったこいつが犯人だったのか。そう納得できる場合には「おもしろかった」ということになります。万が一犯人が当てられた場合には、おもしろさは倍増するわけですが、毎回当てられたら逆につまらなくなるでしょうね。
一番つまらないのは「俺の推理だって成り立つじゃねーか」という場合であります。そういう推理が成り立たない理由がちりばめてないと、漏れのある話になってしまうのであります。
ローレンス・ブロックに対して、今のところ0勝2敗であります。こうでなくては。
ハードボイルドな主人公は街の喧噪の中に姿を消していきます。物語は余韻を残して終わります。amazonから次の二冊を発送するという連絡が届きました。
2006年03月13日(月) 不本意ながら 4月からフルタイム勤務という話が進んでいて、それはそれで「できるかどうか本人も不安」だったのですが、いつまでも中途半端なことをしているわけにもいきませんので、「やってみるしかないだろう」という意気込みでいたのであります。有給使い果たしたら辞めればいいじゃん、ぐらいの軽い気持ちでありました。
が、本日本社から管理本部長なるお偉いさんがやってきて面談をしまして、「フルタイム勤務が無理であるならば、いっそのこと正式にパートタイマーになったらどうだ」という話になりました。朝9時から夜まで働くのを週に5日続けるのは大変だろうから、朝からの勤務を週に4日にして、もう一日出てくるかどうかはオプションという話であります。
本人はフルタイム勤務ができるつもりでいたのが、周囲はそう見てはいなかったようであります。
まあ朝から出てくるようになったのが2月半ばからで、それも月曜火曜は9時にやってきても、木曜金曜あたりになると11時ぐらいに出てきたりして。11時というと、僕の感覚では「朝」ですが、世間一般の感覚では「昼」であります。
それが4月1日になったからといって、いきなり毎日朝9時に出てこれるようになる「根拠は何だ」と言われると、何もないのであります。
わざわざ高速通勤でパートやりに来るなんてばからしい、いっそのこと辞めたいぐらいだ! とは思うのですが、いろいろとやりかけの仕事を抱えていて、ここで辞めるなんて言い出したら単なるわがまま者であります。
「不本意ではあるものの」、周囲の評価に自分をあわせていくしかありますまい。やれやれ。病人がこの世の中で生きていくというのは不自由なことであります。
2006年03月11日(土) 病理 「アルコールに酔うというごまかしの魔術にかけられたほうがしらふでいるよりよく、尊敬されることより魅力を感じ、健康であることすらより癒される思いのする多くの人は、社会の無慈悲な屈辱的な懲罰だけでなく、病や面目の失墜の個人的な苦痛さえも甘んじて受け入れている」
〜『アルコール辞典』より〜
なんだか体の調子が悪い・・といっても風邪を引いたわけでもなく、熱があるわけでもありません。鈍い頭痛がして、肩こりがひどいのであります。でも熱があるときと同じように頭がくらくらします。
どうやら眼圧があがっているようで、手で眼球を触るとカチンコチンに固いのであります。
緑内障の点眼薬を朝晩注しているのですが、それでも時折このように眼圧があがってしまいます。
高血圧の人が血圧を意志の力でコントロールできないように、僕も自分の眼圧を意志の力で制御できないわけであります。
うー、気持ちわる。
全然関係ない話なのですが、秋葉原にガンダムが上陸しているらしい ですな。ガンダム世代の可処分所得の大きい独身サラリーマン(ようするに「をたく」だ)にフォーカスをあわせてくるとは、なかなかNTTもマーケティングがうまくなったじゃないか。
しかしSMAPにガッチャマンを演じさせたのは、いったいどんな層がターゲットだったのでしょう。
ガッチャマンの世代って、ガンダムより上ですよね。
2006年03月10日(金) マット・スカダー 読みかけの『銀河ヒッチハイクガイド』が部屋の中で行方不明になってしまったので、ローレンス・ブロックの『冬を怖れた女』を読んでいます。
コーヒーにウィスキーを入れて飲むと、酔っぱらうけれど眠くならない、というのは昔ラリー・ニーブンの話で読んだことがあります。同じ事を考える人はいるものですね。僕はやったことがありませんし、実際にやればたぶん胸焼けがひどいことでしょう。
マット・スカダーシリーズは発表年順に読んでいこうとしています。とりあえず最初の二冊を買っておいただけなので、『冬を怖れた女』を読み終わると次を買わないといけません。
amazonの500円分のギフト券が手元にあって、月末で有効期限が切れてしまうので、それを使うことにして、『一ドル銀貨の遺言』、『暗闇にひと突き』、『八百万の死にざま』を注文しておきました。『暗闇にひと突き』はamazonに在庫がなかったので古本です。
それにしてもamazonにログオンした画面で、個人向けにパーソナライズされた「おすすめの商品」がリスとされるのですが、それが大いに偏るのであります。もちろんその人の検索履歴や購入履歴から、最も適切とamazonが考えるリストがでるのでしょうが・・・。
今日リストされたのは、
『B型H系』
『魔法先生ネギま!』
『魔法少女リリカルなのは』
『ああっ女神さまっ』
『げんしけん』
『School Rumble』
『苺ましまろ』
『ちょこッとSister』
いったい、amazonは僕のことをどんな人間だと思っているんでしょうか。
2006年03月09日(木) 爺々呆談 メーリングリストのミーティングで「友達いない」という話をしている人がいました。
僕もいませんね、友達は。
郷里の小学校中学と一緒だった連中とは、まったく付き合いがありません。高校時代のも1回同級会をやっただけです。大学時代はクラスメートじゃなくて、サークルの仲間とはまだ付き合いがありますが、全国に散らばっているのでネット上の掲示板でのつきあいがせいぜいです。みんな忙しいですし。
フリーランス時代の友人知人とは、酒が原因ですっかり疎遠になってしまいました。
今の仕事仲間は、ときどき遊びに誘ってくれて、ゴールデンウィークもマレットゴルフにおいでよと言われていました(行けなかったですが)。たまにカラオケや麻雀にも行きます。でも友達というのとは違いますね。
住所録でいちばん多い項目がAAの仲間です。
もしAAの仲間が「友達」だとしたら、お互いに深い心の秘密や悩みを打ち明けあっているわけなので、「無二の親友」というぐらい深い付き合いをしていることになるのかもしれません。無二の親友が一杯いることになりますね。
でもやっぱりAAの仲間は「友達」とは違います。
ある時、電話をかけてきた仲間が「なあ、ひいらぎ。俺たちAAを離れても友達だよな」と確認してきたことがあります。
僕は何のことか分からず、「前から言っているとおり、俺とお前とは同じ病気にならなければ会うことすらなかった間柄だ。同じAAのステップをやっていこうという願いがくっつけている仲間だ。もしこのプログラムを止めたら、俺とお前は赤の他人だ」と答えました。
彼は重ねて「友達だよな」と言い、僕は重ねて「仲間と友達は違う」という話をしました。
思えば、彼はその時すでに飲んでいたのでしょう。それに気がつかなかった僕は、なんて間抜けでしょう。
住所録からAAの人のを削り、距離の離れた旧友たちを削り、仕事の関係者を削り、そして親戚や身内を削ると、残るのはせいぜい2〜3人です。
その2〜3人も、最近もらう手紙が金の無心だけだったりして、それも削除すると、誰も残らないのでありました。
2006年03月08日(水) なぜ? 「なぜ自分がアルコール依存症になったのか」
ということを、とても苦にしていた時期もありました。
酒を飲む人はたくさんいるのに、なぜ自分だけが「飲めない体」になってしまったのか。
たとえば僕の実兄は、とてもよく酒を飲むのであります。休みの日は昼間から飲んでいたりします。でも不思議なことにヤツは医者から「依存症」という病名をもらうまでにはなっていません。ひょっとしたらいつかそうなるのかも知れませんが、定年までこのまま元気に飲み続ける可能性も十分あるわけです。
それに引き替え自分は20代後半からもう「飲むのは病気である」と診断されていたのであります。
不公平ではないか、と思って当然ではないでしょうか。
いろいろと自分が依存症になった理由を考えてみたのですが、どれをとっても理屈の上でも、感情の面でも納得できる理由ではありません。
「なぜ自分が依存症になったのか」を考えているのは、実は酒が飲めなくなった自分をすごく不運だと思っていて、かわいそうな自分を慰めてあげたかっただけなのかも知れません。
いつ飲んでもおかしくないはずの自分が、いつのまにか、飲まないのが当たり前になっていました。どんな計画を立てても、それが酒のせいでダメになってしまう暗い見通しがつきまとっていたのに、いつのまにか未来のどこかでも今日と同じような生活をしていることに疑いを持たなくなりました。
そうなって、なぜ自分が依存症になったのかを考えてみると、「たぶんそういう運命だったのだろう」というぐらいに思うのであります。生まれたときに依存症になる運命が決まっていた、とでも言いましょうか。だから、酒が飲めるようになったら、まっしぐらに依存症に向かっていったのも不思議ではないと。
人と比べて不幸なのかどうかは分かりません。幸せな人はすごく幸せな人もいるでしょう。でも、世の中には自分より不幸な運命の人もいるのでしょう。そういう不幸と自分を比べて幸せになる訳じゃありません。同じように幸運な人と自分を比べても不幸になる訳じゃありません。
依存症になった自分が酒が止まったのは、幸運が作用していることもあると思います。医者との出会い、自助グループとの出会い、スポンサーとの出会い。生まれる場所がちょっと違っていたら、そこに行く時期ががちょっとずれていたら、自分はずいぶん遠回りしたかもしれません。
酒が止められずに死んでしまう人もいるのですから、酒が止まったという幸運はありがたく受け取っておきたいと思います。次に飲んでしまったとしたら、また同じ幸運が手にはいるかどうか自信がありません(努力はしたいと思うけど、結果については自信がありません)。だから今回のソブラエティを大事にしたいです。
神様は僕が生まれたときに、僕が将来依存症になることを運命づけられた。きっとそのときに、飲まない依存症者として生きていくことも運命づけられたのでしょう。まあ将来のことは分かりませんが、とりあえず今のところはそんな感じです。
2006年03月06日(月) Skypeミーティングはなかなか始まらない スポンシーに電話をしようと思って、Skypeクレジットも買ってあることだしSkypeOutしようとしました。が・・・、なぜか無言電話になってしまいました。相手の声は聞こえるんですけどね。おまけにSkypeOutは「番号非通知」なので、事前にスカイプアウトすると伝えてなかったら、非通知の無言電話という、「単なる嫌がらせ」になってしまうところでした。いや、なっていたのか。
原因を探るまでもなく、サウンドカードのマイク入力の線が切れていたのであります。このONKYO製のサウンドカードは、マイク入力端子が別のドータカードになっています(親のカードをmother cardと言うのに対し、子カードはdauther cardと言う)。言葉で説明するのは難しいので、こちらに写真があります。
このマザーとドータを結んでいる線が実に断線しやすく、そのたびにうんざりしながら半田ごてで直すのであります。今年も正月に断線が発覚して直し、先日も今年2回目の修理をしたばかりでした。
次に断線したらカードを買い換えだ! と決めていたので、近くの電器店に新しいカードを買いに行きました。秋葉原価格より二千円ほど高いのは気にくわないのですが、通販で買えば送料もかかるし、日にちもかかるし、荷物を受け取る妻には「また何か買ったでしょ」と怒られてしまうので、しかたなくこの店で買うのであります。
新しいカードもONKYO製ですが、今度は一枚のカードにまとまっていて断線の心配がありません。
ちょうどそこへSkypeのお誘いがあったので、新しいカードで初Skypeをしました。そのうちにSkypeでAAミーティングをやってみよう、という話はしているのですが、なかなか実現にこぎ着けません。AAミーティングというのは、広くアルコホーリクに向かって門扉が開かれていないといけません。限られたメンバーだけでひっそりとやるというのは、ダメというわけではないけれど、あまり好ましいものではないような気がします。
そうやって自分でハードルを高くしているので、なかなか始まらないのであります。
さて、ふたたび歯医者に行く日がやってきました。穴が空いた歯に、金属の土台がセットされ、土台を固定した後は、わずかに残っていた歯もほとんど削り取られ、歯ぐきから土台が直接生えているような格好になりました。その上へかぶせる冠用に新しく歯型を取り、来週の月曜日を予約して終わりでありました。
子供の風邪が移ったのか、鼻づまりをしていたので、歯医者にかかるのは大変に息苦しい体験でありました。
2006年03月05日(日) ワールド・ベースボール・クラシック 土曜日には次女が、日曜日には長女が熱を出して、小児科の緊急当番医のお世話になりました。幸い休日とはいえ昼間だったので、医者を捜すのに苦労はありませんでした。
子供が小さかった頃は、熱を出されるというのは悪夢のようなことでした。なんで決まって夜中に熱を出すんだろうと思うぐらい、昼間には熱を出してくれないのであります。昼間から熱があってもたいしたことがなくて、「このまま様子を見よう」とすると深夜になって火のついたような泣き声で叩き起こされるのでありました。ひどい高熱と脱水症状でぐったりとして、これはやばいと思って緊急当番医を探しても、必ず小児科があるとは限りません。小児科も標榜している内科が当番という幸運に恵まれなかった場合には、内科に電話をかけて幼児を診察してくれるように交渉しないといけませんでした。
複数ある内科に電話してもたらい回しにされて、しかたなく二巡目の交渉に入り、「もし症状が重かった場合には救急病院に回ってくれるように」と念を押されてやっと診てもらったりでありました。
その救急病院も頼りなくて、「うちにはそもそも小児科医がいませんので、つれてきてもらっても困ります」などと言われたことも何回か。小児科医不足も深刻なのでありました。
最後は高速道路に乗って県庁所在地や峠の向うの二次救急に行くか、さらに運が悪くてそこの医者が手が離せなかったりすると、別の県の病院に行くか、それとも大学病院や慢性疾患専門の県立こども病院の当直小児科医を叩き起こすか、ただの風邪でそこまでするのは親のエゴではないかと思わせる選択肢を提示されるのでありました。
その後、大学病院と市内の救急病院が三次救急病院の座を争った結果、小児科医救急が充実したり、最近は近所に夜11時まで内科・小児科を診てくれる共同診療所ができたりして改善されたのですが、こどもの方も大きくなって、夜中の発熱も朝まで様子を見られるようになった結果、最近は救急にお世話になっていません。
というわけで、こどもに熱があっても、夕方からテレビで野球を見て過ごしていたわけであります。残念ながら王ジャパンは韓国に負けてしまったのでありますが、まだアメリカラウンドがあります。負けたのはすごく残念なのでありますが、この3月の早い時期から「本気モード」の野球が見られたことはすごく満足なのであります。
ナショナル・チームへの参加を回避する選手がいたり、3月なんかはまだまだ調整中で本気にはなれないという本音が出たりして、野球ファンとしてもスタンスに困っていたところでした。しかしイチローの「むこう30年」発言から、一気に負けられない真剣勝負という雰囲気が出て、見ていて実に楽しかったです。
今年からファンになると決めた楽天野球団はまだオープン戦で勝ち星がありません。と言うより二桁失点で負けてばかりでは応援のしようがないぞ! そもそもWBCに誰も選手が呼ばれていないという状態で、選手の名前すら覚えていません。世間を騒がせた岩隈・一場ぐらい(ああカツノリもいたか)。ぜひ応援できるプレイヤーが出てきてい欲しいです。
夜中に仲間とSkypeで分かち合い。
2006年03月03日(金) ティーザー広告 ティーザー広告(teaser ad)というものが流行っているのでしょうか。
まずはマイクロソフトのOrigami プロジェクトがじらし作戦に出ています。マイクロソフト製iPodなのではないかとか、ポータブルXboxだとか、はたまた500ドルでポータブルのWindows XPマシンじゃないかとか、いろいろ噂が広まっています。
iPodは欲しくないですが、買うんだったらやっぱりアップル製が欲しいですし、ゲームには興味がないし、でも500ドルのXPマシンだったらちょっと欲しいかな、しかもペーパーバックサイズだというなら、かなり欲しいという気はします。
ポータブルのWindowsマシンとして最近話題なのは、W-ZERO3でしょうか(これはティザーではないです)。Windows Mobile(CE 5.0) for Pocket PCをPHSに搭載した、というかPDAにPHSが搭載されていると言った方がいいのか。
「○○さん(本名)だったら、絶対すぐに買うと思ったのに」
と周囲から言われているのですが、「まだ」買っていません。
そろそろPalmに代わるPDAが欲しいなと思ってはいるのですが、いまの僕の生活はあまりPDAが必要ではありません。へなちょこ営業兼務だったころと違って、いまは毎日会社のデスクトップPCの前に縛り付けられた身であります。
「どうせいつもPCの前にいるんだから、ケータイなんて電話ができれば十分」と言い切った人がいますが、その気持ちも分からなくもありません。実際僕もauの携帯電話はデータ通信の割引サービスに加入していません。
それでもさっと取り出して使えるWindowsマシンがあったら、なかなかおもしろいオモチャに違いありません。それがXPだったらもっといいかなと思うのですが・・・。
もうひとつは、バンダイのキッズケータイ。実体はウィルコムのPHSのようですが・・。
2006年03月02日(木) 寝る時間・起きる時間 家族そろって生活するようになって、心がけているのは朝6時半に起きることであります。
前の会社の頃は、朝8時だとか8時半に起きることが多かったのです。子供が保育園に通っている頃は、妻が子供を保育園に送っていく最中に起き、帰ってきたところで朝食を食べて出勤するというパターンでした。朝7時に起きる生活というのは考えられませんでした。
ちょっと製造業に勤めた話を書いたのですが、そのころは子供二人とも保育園で、妻子3人は8時前に起きれば何とか間に合うというリズムでした。しかし製造業の勤務時間というのは8時台に始まりますから、通勤時間も考えると僕は朝7時20分には家を出ないといけません。一人で起きて、食事をし、寝ている3人に向かって「行ってきます」と言って家を出ます。
残業を終わって帰ってくると、もう3人は寝ているのが通例でした。朝と同じ格好で寝ていたりすると、「ひょっとして寝ているんじゃなくて死んでいるんじゃないだろうか」と思って息のあるのを確かめてみたりするわけです。まあそれは冗談としても、起きている家族に会うのは週末だけなんていう生活でありました。
そんなこともその会社を辞めてしまう理由のひとつでありました。
その後は9時からの会社にフレックスで10時から勤務しながら、遅く起きる生活を続けていたのですが、子供も小学校に上がり、7時半には(遅くとも8時前には)通学のために出て行くことになり、妻も6時半には起きるようになりました。でも僕がうつ病で休むようになったりして、家族の生活リズムが合わないままここまで来てしまいました。
子供の精神状態が悪いのも、夜更かし・朝寝しているからじゃないか、一緒に朝起きたらどうかというサジェスチョンをもらったりしたので、6時半に起き、7時すぎに食事をし、8時すぎには出勤するという生活をするようになりました。ただひとつ問題は食事から出勤まで1時間弱あるため、その間に寝てしまうと、二度寝の気持ちよさから抜け出せずにずるずると遅刻してしまうことであります。まあ現在は病気によるシフト制なので、遅く行っても問題ないのですが、いつまでもそうしてはいられません。
今期の査定をする上司との面談があって、ついでに4月からフルタイム勤務に戻るということが決まりました。
ここのところお腹をずっと下していて、一日に3回くらいトイレにこもっています。慣れない生活リズムに順応するために、体が悲鳴を上げているという感じです。夜更かし人間なので無理もないかも知れません。しんどいけれども、それが僕に対する要求であるのなら、変えられないものを変えようとしたり、変えるべきものを変えずにおいたりするべきではないのでしょう。
2006年03月01日(水) ノイズフィルター 「ひかり電話」に変えたら、電話回線にノイズ(雑音)が乗るようになりました。
最初はノイズだとは気がつきませんでした。そのノイズは何かの番組のようだったので、電話で話している相手がテレビでも見ながら話しているんだろうと思っていました。
「人との電話の最中にテレビをつけているとは失礼な人だ」
そのように思っていたのですが、そのうちに
「どうして僕のところに電話をかけてくる人は、みんなテレビを見ながらなんだろう」
という疑問を持つに至りました。
そして、なぜか東京の人からの電話なのに、番組の話題が長野県のことだったりして、どうもおかしいのであります。
そのうちに、その番組が「信越放送(SBC)」という長野県の中波放送だということに気がつきました。
そういえばひかり電話に変えたとき、終端装置も変わったので、3階と2階を結ぶ手段も無線から有線に変えたのでした。そしてそのケーブルはシールドの簡単な一番安い線を使ったのであります。どうやらそれがアンテナの役割を果たして、中波放送を受信してしまったようです。
電話回線を変えるついでに、電話機をパイオニア製からパナソニック製に変えたのでありました。試しにパイオニア製に戻してみると、ノイズは消えました。だめじゃないですか、パナソニック製。昔はこういう事がよくあったそうですが、最近では珍しくなってきました。だから対策を省略してコストダウンするのも商品企画として的はずれではないのでしょうが、僕としてはせっかく買った新しい電話機に早速けちがついた格好になって、なんとか自分手対策をしないとおもしろくないわけであります。
しかしさすがに、最近ではまれな現象なのか、ノイズフィルターを入れればいいと分かっていても、そのフィルターがなかなか売っていないか、あっても高いのであります。電話回線のノイズフィルターといっても、最近はADSL用のものばかりであります。ADSLモデムもノイズには弱いものらしく、ノイズフィルターを入れることによってリンク速度がアップしたという話もあります。
まあとりあえずADSL用を3つぐらい買って試してみました。しかしあまり効果はありません。どうやら数百KHzの中波放送の周波数と、ADSL用ノイズフィルターとでは周波数帯が違っているようであります。
しかしこうした製品も、「内蔵されたコイルによってADSL接続のじゃまになるノイズを低減し、リンク速度を向上させる」という、それだけ聞いているとまるで「車の燃費向上グッズのように怪しげ」であります。一応理屈としては、外乱のノイズはふたつの信号線に共通して乗るので、コモンコードノイズを取り去って差分の信号だけにしてあげれば、S/N比が向上するという話です。これが燃費向上グッズと同じぐらい眉唾なものなのか、それとも実効性のあるものなのか、それは僕には分かりません。
四つ目に買ったオーム電子製のフィルターでやっとなんとか効果が出ました。
オーム電子はまともな会社なのですが、オウム真理教が世間を騒がしている頃には、関連企業だと思われて難癖をつけられたという噂がありました。オウム真理教が秋葉原でパソコンの組み立て販売をやっていたというのも誤解のものかもしれません。なにしろ一番金のかかる人件費を「修行」という名目の無賃金労働でまかなうわけですから安いはずです。事情通はオウムだと分かっていても手を出していたという話もありました。ピンク色の看板のところでありました。
やっぱり電子関係の出版社でオーム社というのがあって、ここにも嫌がらせの電話が一時期かかっていたということもききました。世の中短絡的な人間が多くて困りますね。九官鳥真理教という宗教団体もありました。これも短絡ですか。
もくじ|過去へ|未来へ