TENSEI塵語

2003年01月26日(日) はぁ〜、くたくた、、、

今朝もまた6時半ごろに起きて、今朝は稲沢のホールへ。。。
アンサンプルコンテストの県大会が、今年はうちの支部の担当なので、
支部内の顧問の先生たちにも14人ほど役員として出てきてもらった。
めったにないことである。(要するに7年に1度)

地区大会と違って、運営責任は県の事務局がやるから、
私は、役員分担をするときに「進行」のところに自分を入れて、
ほとんどはそれさえやっていればいいので、気は楽である。
質問や相談が、いつもの習慣で少なからず私のところに来るけれど、
ちょっとでも迷うようなことがあれば事務局へ回せばよい。
「進行」の仕事は、主に、ステージの演奏ができるだけ進行表どおりに進むように、
ステージの動きを見ながらアナウンスに指示を出して行くだけである。
遅れるのは当然の進行表なので(ほとんどの演奏チームが4分30秒ほど演奏するのに
5分刻みで切ってあるから、入れ換え時間で遅れて当然である)、その遅れを
最小限にするのが仕事である。
のんびりやるのは絶対にいけないけれど、演奏者がパニクるほど焦らせてもいけない。
アナウンスが終わるころには、演奏者が配置し終えて落ち着いている、という
タイミングを狙わなければいけない。

午後の部の中ごろには、足腰が壊滅状態になりかけていた。
何しろ、時には座るけど、朝8時半ごろからほとんど立ち仕事、走り歩き仕事である。
すべて片づけも終わって、6時過ぎに解散したころには、2日も過ぎたような感じがした。
長〜〜い1日だった。
けれども、体はどんどん疲れるのに、聞きごたえのある演奏も多くて、
心地よく過ごせる1日でもあった。
演奏を終えて、袖に入ってくる高校生の顔が、どれも頼もしく見えた。
そういう意味で、とても喜ばしい1日でもあるのだ。



2003年01月25日(土) 慌ただしかった昨日

昨日から3年生の学年末考査が始まった。
1、2年生は通常の授業だが、3年生だけが卒業を賭けての定期考査である。
慌ただしさは、朝のいつも以上の渋滞から始まったのだが、そこは割愛して、
読書指導に行って、すぐに態勢が整ったので、自分の読書を始めたら、
ふと、いつもと違って、その時間が終わる時刻には
試験監督の部屋に行ってなければならないことに気がついて、急いでもどった。
試験監督を1時間やったら、次は授業である。
授業を終えて職員室に戻ったら、分会(組合の学校単位を分会という)の選管が、
来年度の学校委員(組合の学校単位の世話役)選挙の開票をするよ、という。
煙草で一服してから、彼の常駐している社会科標本室に行った、けれど、いない。
階段を3つ上がって図書館に行ってみたけど、いない。
また、社会科にもどったけれどいないし、会議室に行っても、いない、、、
と、会議室を出た廊下で、彼と出会うことができた。
今年学校委員だった北さんと開票を済ませたと、結果を渡された。
それから、3年生の古典を一緒に担当している先生と試験問題の最終検討をして、
授業に行って、昼食をとって、投票の上位2人と話をして、了承してもらって、
試験の解答用紙を作って、3時前に年休を取って帰らせてもらった。

帰り道に、本屋に寄って、ここんとこ気になっている山口雅也の文庫本を探したが、
可能性のある2冊もまったく見つからなかった。
一昨日、「奇遇」という本を垣間見たら、哲学的な叙述がかなり長くつづられていて、
ミステリー作家らしいけれども、ちょっと興味を抱いたのだ。

それでちょっと時間を費やしてしまった上に、行きつけのCD屋にも寄った。
予約しておいた、まつ様のDVD(前半26話分)を引き取りに行ったのである。
先週予約したときに、店の、いつも親しげに応対するおねーさんが、
「マジですか?」と反応したのには、笑えた。
菜々子さまコレクション以外の価値が何ら見出せないのだから、当然の反応である。
それにしてもありがたいことには、この7枚セットがビデオ2本分の大きさである。
全49話分そろえても、ビデオ4本分の体積以下であろう。
まつ様のために25本のテープが積まれているけれど、
それはもう保存しておく必要はなくて、他の録画にまわせるのである。
省スペース・高画質のための投資だと思えば、なかなか上手い投資に思われる。

帰宅してから、娘と夕飯の用意について相談しておいて、再び出かけて 、
バス・電車を乗り継いで行った先は、分会の新年会会場だった。
30分近く宴会に遅れてしまった。
帰りには先日のラーメン屋に寄った。途中下車して歩いた。
あのラーメンは病みつきなになりそうだー。

11時近くにようやく帰宅して、最初に妻に言われたことは、
明日の朝(今朝だ)8時までに出勤なので車で送ってほしい、ということだった。
この2日間の休日はどちらも、深夜帰宅にもかかわらず、朝6時半ごろになりそうだ。
たいへんだー。



2003年01月23日(木) まだまだ続く

相変わらずの、そうおもしろくもない億劫な仕事にかきまわされる中、
なーんとなく喜ばしい気分に満たされているのは、楽しい本に出会えたかららしい。
これも恋の一種なのだろう。
ただ、この場合は、自分に欠けているものを追い求めるという、
プラトン的なエロスの喜びに限られているとは思うが。。。

「相対性理論を楽しむ本」をまだ読み返しているのだが、
時々メモを取ったりもしているのである。
20数年前に、わかりっこないからわからなくてもいいや、と諦めた領域である。
それから何度か説明を読むのに挑戦したけれど、挫折し続けてきた。
今ごろになって、にわかに興味が深まるというのも不思議なことである。

この後、量子論、宇宙論と入門を進めるつもりである。
これほど好奇心を刺激されたのは、最近では、脳に関する本だった。
脳と宇宙・・? 何やら、カントの名言にも通じるような。。。
でも、人間の心と宇宙の摂理ほど巨大なミステリーはないではないか。



2003年01月21日(火) 相対性理論入門

先日、本屋でたまたまPHP文庫の、
「相対性理論を楽しむ本」
「量子論を楽しむ本」
「最新宇宙論と天文学を楽しむ本」
の3冊を見つけて買い、何度目の挑戦になるか、相対性理論入門を試みることにした。
今まで、こんなのはぜんぜんわからん、とあきらめていた分野である。
けれども、この「相対性理論を楽しむ本」は、題のとおり楽しんで読むことができた。
途中までをわかる範囲で要約してみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「相対性理論」の「相対」とは、
「他との関係の中で成立する」という意味とともに、
「どれも正しい」「どれも平等に価値がある」という意味でもある。

「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」がある。
「特殊相対性理論」は「制限つきの(限定的な)相対性理論」で、
物理的現象を観測する人が等速直線運動をしている場合に限ったものである。
「一般相対性理論」は、それを拡げて、加速度運動の場合にも使えるものである。

船のマストの上から石を落とすと、
船に乗っている人から見ると真下に落ちているけれど、
地上で船を眺めている人には、放物線を描いて落ちるように見える。

電車の車両の中央から、2つのボールを同時に前後に同じ速度で投げると、
同時に前後のドアに当たる。
けれども、地上にいる人が、その走っている電車の中の様子を見ると、
後ろに向けて投げられたボールは短い距離を遅く、
前方に向けて投げられたボールは長い距離を速く進んで同時に当たる。

光の速度は秒速30万キロメートルである。
この光の速度は、どう実験を重ねても、常に同じである。
物の運動の場合には「速度合成の法則」があるけれども、
光の運動の場合には「速度合成の法則」は通用しない。
それほど、光の速度というのは絶対的な数値を示している。

上の車両内での実験を、ボールに代えて光で行ったら、
見た目には、2方向の光が前後のドアに同時に達したように見えても、
実際には、後ろのドアにより速く達しているはずである。
車両の進行方向と同じであろうと逆であろうと、光の速度は変わらず、
距離は、後ろのドアまでの方が短くなるからである。

見た目には同じに見えても、実はわずかな誤差がある場合もあるのだ。
ボールの場合でも、同時に見えて、実は誤差があるのかも知れない。
あまりにもわずかな誤差なので、信じ込んでいるだけなのかもしれない。

光時計の実験。あくまでも、思考上の実験である。
15万キロメートルの長さの筒の中で、
光が往復30万キロメートルを往復すると1秒表示灯が点灯する。
その筒を、電車に乗せる。
電車に乗っている人は、その筒の中の光が真上に昇り、真下に降りて、
そうして1秒表示灯が点灯するのを見る。
けれども、地上に止まっている人が電車の中の筒を見ると、
光は真上・真下でなく、斜めに進むのである。
斜めに進むということは、距離が長くなるのであるが、
1秒表示灯の点灯するタイミングは、電車内の人が見るのと同じである。
地上から見ている人にとって、光は時速30万キロ以上で進んだのではない。
光はそういう影響をまったく受けないで、常に不変の速度で運動する。
ということは、動いている電車の中では、1秒がより長い、
1秒たつことがより遅い、ということになる。
これは、地上に置いた筒を電車内の人が見た場合でも同じである。
その立場によって、時間の長さが違うということが、
俄には信じがたいことだけれども、否定できないのである。

より長い、より遅い、といっても、日常生活では気づくほどのものではない。
秒速20キロメートルの、現実では超高速の宇宙ロケットでも、
計算上、16年間の間に1秒遅れる程度の遅れに過ぎない。
日常生活の中で気づくはずもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日ここまで読んだときに、もうやめられなくなった。
なんというミステリーであろうか。
読み進むにつれて、ますます不思議の世界へと、そして宇宙の不思議へと誘われる。

上に要約したのは、まだ「特殊相対性理論」の段階である。
「一般相対性理論」はさすがに難解だし、宇宙論も俄には信じがたい。
時間のとらえ方も、どうも私自身のとらえ方とちょっと違うような気もする。
けれども、この本は、驚異の認識をもたらしてくれたような、、、喜ばしい体験である。



2003年01月20日(月) 貴乃花引退

貴乃花の脚を破壊してしまったあの優勝劇はいつだったかと、
この日記の記述を探すのに思わぬ時間を費やしてしまった。
2001年の5月27日だったようだ。1年半以上も前のことである。
そんなに前のことだとは思えなかったので、なかなか見つからなかった。
そんなに前のことだと思えなかったのは、貴乃花が休場している場所でも、
いろいろな取り組みを見ながら、その姿に物足りなさを感じ、
貴乃花の芸術品のような取り組みを心の中で反芻していたためだろう。

貴乃花のインタビューはひどい。
取り組み前の、トロンとした視線でタラタラやってるような仕切も嫌いだった。
けれども、時間いっぱいになってぶつかり合った瞬間から、
その動きは、これぞ相撲の模範とでもいうべき、芸術的な動きになる。
かつて私がもっとも好きな取り組みは、輪島−北の湖戦だったし、
二子山親方の現役時代や千代の富士のような柔軟かつ力のある力士にも感服していたが、
もう少しで、そうした名力士を総合したような横綱になりそうな気がしていた。
ところが、あの怪我である。
読み返してみると、14日目の武双山のまわしの緩かったことがわざわいした、とある。
本当にくやしい話である。

引退はやむを得ないと思う。
1年半も体調万全でない期間が続いたら、体力の衰えも当然だろう。
脚が治りきらないのに、出場を促した相撲協会の気持ちも、
その都度、もうちょっとそっとしといてやれよー、と思ったものだが、
急かす理由が理解できないわけではない。
いずれにせよ、何場所も休まねばならないようだったら、普通はクビなのだ。
けれども、その引退があまりにも淋しいのは、
ああいう相撲をとれる力士が、他に育っていないからなのである。

大相撲ダイジェストを見たら、貴乃花引退特集と称して、
22回の優勝を決めた一番を全部見せてくれた。
若いころは小さい体で、父親譲りの粘りのある相撲をしてたんだな、と再認識した。
確かに、強敵不在の中で、最年少昇進記録をいくつもぬりかえてきたかもしれないが、
ある時期から、粘りと力と型とを調和させた取り口になってきている。
あの怪我さえなければ、そういう典型的な相撲の型を体現してくれたに違いない。
私が口惜しいと思うのは、それが中座してしまったからである。

大相撲ダイジェストは、きょうの主な取り組みを駆け足で見せてくれたが、
期待する若の里も琴光喜も、貴乃花相撲とはほど遠い。
相撲の新たな楽しみを見つけるのに、かなり時間がかかりそうである。



2003年01月19日(日) 短い休日

起きたのが午の0時を過ぎていたので、唖然としてしまった。
せっかくの休日が、もう半分終わってしまっているではないか。
正月にもこんな日があったのだけれど、こういう日はテンション下がってしまうのだ。
余命いくばくもない、という思いにとらわれてしまうのである。

昨夜は3時ごろまで、忘れないうちにと再開した「ラチェット」に取り組んでいた。
以前さんざん苦しんだところも、1発クリアできてしまう。
半世紀近く生きてきた者にも、学習能力はまだあるんだと感心したりして。。。
その後、「美女か野獣」の第1話を見直したりしていた。
昨日はかなりハードスケジュールだったから、その上こんなでは早起きできるわけがない。
休暇は夜中に回したんだ、と思えばいいのに、そういうことも忘れて、
午過ぎに起きてしまうと、どうしてもその後の生活に活力が損なわれるのである。



2003年01月17日(金) Catastrophe!!!

昨夜はあまりのショックのために書けなかった。
どうしてあんなことになってしまったのか、その時は狐につままれたようで、
茫然としてしまったが、冷静に考えてみれば簡単なことだ。
いつもどおりにゲームを始めようとしたつもりだったが、
不意に「上書きしますか?」と見ようなダイアログが出て、何これ??と思いつつも、
反射的にOKボタンを押してしまったのである。
そうしたら、ゲームは1番最初から始まり、今までのデータは消失していたのである。
いつもは、上から2段目の「ゲームをロードする」を選択して始めるのに、
昨日はなぜかそこをぼんやりしていて、
1番上の「新しくゲームを始める」を選んでしまったらしい。
そして、そのことに気づかず、今までのデータのところに最初からを上書きしたわけだ。

「ラチェット」は苦労に苦労を重ねて、最終ボス戦だけを残していた。
それが、それをするためには、またこれから長い道のりを再開しなければならなくなった。
こんなことは初めてだし、ホントに再開するかどうか、悩ましいところである。
だいたい、このゲームを始めたときから、最初のメニュー画面の配列が疑問だった。
多くの人はゲームの続きをすることが多く、新しく始めることは稀なのに、
最初のメニュー画面では、「新しくゲームを始める」が1番ですでに選択されていて、
それをいちいち2段目に下ろさなければならない、、、逆なのである。

それにしても、なぜうっかりしてしまったのか。。。。
あと3、40分で始まる菜々子さまのドラマのことが気にかかっていたのか、
ボス戦の攻略に思案をめぐらせていたせいか。。。。
それはよくわからない、心のふとした虚に魔が忍びこんだという感じである。
ほんの瞬間的なミスにしては、あまりにも被害が大きすぎる。。。


それでも、菜々子さまの「美女か野獣」の間は、
そのことを忘れていたのでありました〜 f^_^;



2003年01月15日(水) 居眠りで遠回り

昨夜は吹連の支部の新年会ということで、名古屋まで出かけた。
その帰り、JRに乗って座れなかったのはつらいような気もしたけれど、ちょっとさいわいかな、と思わないでもなかった。
こういう帰りは、眠ってしまって乗り過ごすことがあるからだ。
立っていればなかなかそこまで熟睡することはない。
ところが、一宮で目の前の座席が空いたので、座ってしまったのである。
10分くらいだから、眠ってしまうこともあるまいと信じていた、、、、、
、、、、、「すいません」という声に、ふと気づくと、隣の人が立とうとしていた。
えっ?えっ? ここどこ? えっ? と、うろたえて窓の外を見ると、
岐阜という文字が目に入ったので、何気ない風を装ってそのまま降りた。
冷や冷やものである。隣の人が大垣で降りる人だったら大垣まで行っていたはずである。

タクシーで帰りたいな、と思ったけれど、バスにした。
もうすでに1回眠ってしまったから、バスで眠ることもあるまいと思った。
タクシー代はバス代の約10倍だから、できれば慎みたいものである。
案の定、眠らないままに、あと停留所3つのあたりまで行った、、、、、、
、、、、、ふと気づくと、ひとつ乗り過ごした停留所にバスが停まっていた。
降りなきゃ!!と思った途端に、バスは走り出した。
慌てて次の停留所で降りる準備をして、2つ乗り過ごした停留場で降りた。
危ない危ない、、終点まで行ったら、それこそ途方に暮れるとこだった。
もうちょっとのところで眠ってしまったのは不覚だったけれども、
よくあそこで気づいたものである。
20分ほども寒空の下を歩いて帰るのはつらいけれども、
終点まで行ってしまったことを思えば、それでも上出来である。

寒さに耐えてしばらく歩いたら、最近オープンして気になっていたラーメン屋が見えた。
迷わず入ってみた。ニンニク出汁のよく利いた味噌ラーメンを食べることができた。
何が幸いするかわからないものである。
酔った帰りに居眠りしてよかった経験はないけれど、昨日は居眠りが幸いした。
寒空の下を温かい雰囲気に包まれて歩くことができた。



2003年01月13日(月) 盛りだくさんの1日

ゲームは終われなかった。
最終ボス戦にはいつでも好きなときに向かえるようにだけして、終わった。

昨日、市吹の演奏曲検討のために借りてきたヒット曲CDを返しにレンタルへ。
ついでに、本屋2軒回って、いろいろと物色した。
またついでに、スーパーに寄って食料品を買い込む。

冬休み終わる日から気がかりだった授業プリントを作った。
休日でないとなかなかこういう仕事はできん。
明朝の老人会主催の資源回収の準備もした。普通ゴミ出し準備も。

スマスマに菜々子さまが出ると教えてくれた人がいて(神さまみたいな人だ!)、
通りすがりにしか見たことのないスマスマを最初から最後まで見てしまった。
それにしても、あの美人ぶりは完璧だーーーー。

塵語に費やすべき時間を市吹の活動日誌に使った。
だから、きょうはこれまで。



2003年01月12日(日) ゲームも終盤に、、

暮れに始めた「ラチェット&クランク」も、
きょうの昼に最終のステージへの権利を獲得した。
そして今夜、あきらめて後回しにしていた2つのコースをクリアした。
Mission Impossible としか思えなかったところが、次第にいろいろな点に気づいて、
微妙な操作ひとつで攻略へと結びついて行くのは、実に感動的である。

おそらく1年以上ぶりのゲームだが、本当にいろいろな趣向で楽しませてくれる。
ドラクエやFFは常にすばらしいゲームに思われていたけれど、
ああいうコマンド入力式のRPGは、もうやれなくなってしまっている。
めんどくさい、よけいな時間を費やしているような感じがするのである。
私が好きなのは、トルネコ・シリーズやシレン・シリーズの、
「不思議なダンジョン」シリーズで、これは、じっくり考えた者勝ちで、
危機に陥ればその危機がきわどいほど、頭脳が活性化される。
今回の「ラチェット&クランク」は、それとは対照的に、とっさの判断を強いられる。
いつどんな敵が出てくるかわからないし、瞬時に変身しなければならないときもあるし、
レースには参加させられるし、バリアを避けつつ時間内に泳がされたりもするし、
宇宙船を追撃して破壊するようなイヴェントもあったりする。
頭も使わされるけれど、手指も実に忙しい。
「こんなんぜったいむりだーぃ」と思いながらも、あれこれ考えながら、
苦手なんて言ってられないぞ、と翌日にはついつい再挑戦してしまう。
こんな歳になってこういうゲームに関わるのはなかなかつらいのだが、
そう思いながらも、がんばってみたくなるのである。

たぶん、明日数時間も費やせばエンディングにたどり着けるだろう。
できれば3時間以内で終わらせたいものである。
もう充分遊んだ。これほど安価な玩具はない。値段以上にたっぷり遊ばせてもらえる。



2003年01月10日(金) 長〜い4日間

始業式が火曜日、それから3日間平常の通り授業があって、明日から3連休。
しかし、もう10日か2週間くらい経ったような錯覚についつい陥ってしまう。
これは、周囲の仲間に聞いてみても、かなり一致する感覚のようだ。
新学期の最初の1週間は、やたらと長〜く感じられるのである。

おまけに、今回は新学期の前日に雪が積もった。
いまだに路上の氷が解けないで残っているところがところどころにある。
そのせいか、ゆっくり走る車があって、
朝、通常のペースで走るのが難しくなって、いらいらさせられることが多い。
昨日から、私にとっては通勤路2つ目の橋で、片側通行を強いられるようになった。
最悪である。
とにかく、まず通勤段階で疲れてしまう。



2003年01月08日(水) 難所をクリア

4日前、行き詰まってしまった「ラチェット&クランク」の難所をクリアした。
宇宙船のジェット気孔のような部分を狙って、6カ所を破壊していくという課題だが、
ミサイルは飛んでくるわ、機雷がバラバラとばらまかれるわ、
なかなか命中させられないのをがんばって2カ所ほど破壊すると、
つかまえられて、ミサイルをぶちこまれるわ、さんざんである。
さまざまな対処に気を取られていると、隕石にぶつかってお陀仏である。。。

こんなん、ぜったいムリだ!!と思って、ここ3日ほどは、
今までにクリアしたところの、おまけイベントをクリアするのに専念していた。
けれども、あの宇宙船をやっつけない限り、先に進めないのである。
練習や、対策を立てるためだけにでも、少しずつあの部分をやらねばならない。
4日前と違って、やられることは平気で、いろいろと試しながらやってみたのである。

このゲームのこれまでも、こんなんムリだと思いながら対処できたわけだし、
このゲームに限らず、いくつかのゲームで体験してきたことである。
こういうゲームの楽しさは、さまざまな工夫を強いられるということである。
あちら側のデータ(ゲームをしながら、やられながら、見つけるのである)と、
こちらにできる事柄のデータをいろいろ考え、さまざまに学習しながら、
解決の糸口を探っていくわけである。
教育理論でよく言われる、問題解決学習のようなものである。
頭で解決するだけでなく、運動能力とまでは言わないにしても、反射神経も問われている。

ゲームの害というものがいろいろとあることも認めるけれども、
ゲームの功績というものもやっぱり捨てがたいものがある。
その思いは、スーファミのスーパーマリオワールドが流行っていた時代に
ゲームを楽しみ始めたころから変わらない。
くやしい、、、くやしい、、、くやしい、、、、、、の後の喜びは格別である。



2003年01月06日(月) この冬初の積雪

昨日の3時ごろから、待望の雪が舞い始めた。
積もらないうちにとあわてて買い物に出たけれど、
スーパーを出たころには、車は雪にまるまる覆われて、路上にも積もりかけていた。
湿り気のある、くっつきやすい雪が降りしきっていたので、はやく積もったのだろう。
雪は夜中の11時ごろまで降っていたようだ。
その後、ますます冷え冷えとして、空に星が出ていたところまで見た。

朝、雪は冷気のために固まっているのではないかと予想していたが、そうではなかった。
道路の上も、車の上も、どこもそうだが、雪の底がカチンカチンに凍って、
その上に、サラサラの粉のような雪が10センチほど積もっていた。
車に積もった雪をどけるのに、棒状のもので一挙に落とすということができなかった。
雪がくっついていないので、何度も何度も払ってやらなければならない。
このあたりでは、珍しいタイプの雪だった。

困ったのは、車に頑固に張りついた氷であり、さらに困るのが、路上の氷である。
あたり一帯、雪は少なくなっていたけれど、氷の道路である。
雪の上を走るのは好きなくらいだけれど、氷の上を走るのは嫌いである。
ちょっと出発を遅らせたけれども、まだそこら中氷の上だった。
路面に気を取られて、雪景色を楽しむことができなかった。残念だ。



2003年01月05日(日) 大学の授業採点

今朝の新聞の一面トップは、「一橋大学 今年度から授業を学生採点 教官名も公表」。
そうするねらいについて、教育研究機構長だという藤田氏の言葉が載っている。
「教員を刺激して、授業を改善し、教育水準を上げたい。
 他大学の例を見ても、学生は授業を評価できる。
 教官や科目名をはっきり出すのが、学生からの批判にきちんと応える道だ」
驚いたことに、4年制大学の4分の3は、教官名など公表しないにしても、
こうした学生による授業評価を実施しているという。
昨日か一昨日の朝刊には、授業マニュアルを作った大学の話が載っていた。

そうしたことは、悪いことと言ってはいけないのだろう。
学生は講義を受けに大学に通う、その講義を充実させるのは大切なことである。
けれども、こうした話を聞くたびに、どこもかしこもコセコセした社会になるなぁ、と
うんざりしてくるのである。
私としては、小・中・高の教員と違って、大学の教官というものは、
まず第一に、研究者集団だと思っている。
教えるということに対して、そうコセコセと思い悩んで欲しくないものである。
遠い過去の研究成果にしがみついているだけで、ろくに研究もしない上に、
講義に対してあまりにもいい加減な人は抹殺してもらってもいいのだけれど、
研究第一にして、鷹揚に構えていて欲しいものである。
授業が難しくてわからなくても、大学まで行くような者は、
自分でもそれがわかるよう努めてほしいものである。

私の大学生活を振り返るに、大学の授業なんてものは、きっかけでよかった。
自分の講義ノートをゆっくり読み上げて書き取らせるだけの愚かな講義もあれば、
家庭内の雑事を勝手にしゃべっているだけで、自分の著書のここを読んで下さい、
で終わるだけの、何とも手応えのない、妙な授業もあれば、
淡々とあらぬ方向を見つめて勝手に説明しているだけの授業もあった。
(しかし、この3つ目の教授は、実にわかりやすい説明で、私にとって影響大だった)
そうかと思うと、古代哲学史やプラトンのゼミの担当だったペレス教授などは、
受けているこちらが疲れてしまうほど、時間を惜しまず熱弁してくれた。
けれども、どんな授業であれ、きっかけであり、入り口に過ぎないのである。
そこから自分で発展させることこそが、大学生活なのである。

「よい評価を得ようと、学生に迎合する授業が増える恐れがある」と、
ある日大の教授のコメントが載っていたが、それも確かに恐れるところである。
それとともに、大学の授業の高校化、、、というか、
高校の授業がすでに小・中化してしまって、至れり尽くせりの様相を帯びているけれど、
大学さえもそんな道をたどり、学生が、授業に頼りすぎるようになる、
授業さえ受けていれば大学生だ、などという、バカげた風潮が、
トップレベルの集まるような難関校でもはびこってしまいはせぬかと不安である。
それはむしろ、教育水準の低下につながるのである。
また、こんな妙な縛りや負担を設けることによって、
いい研究のきっかけを見失わせてしまうのではないか、という恐れもある。
研究というのは、長年に渡る地道な積み重ねでもあるけれど、
一瞬のひらめきをきちっととらえて発展させるか、見逃すかというのも大きな問題だからだ。

まぁ、そんなことするなーっ、と声高には叫べないけれど、もしするならば、
それを機に、学生の単位認定・卒業認定をもっと厳しくするという、
肝心なことをちゃんとしてほしいものである。



2003年01月04日(土) 解せない年賀状

きょうまでに私に届いた年賀状に、子どもの写真を印刷したものが、8枚ほどある。
ひところよりは減ったと思うけれども、これがどうも私にはよくわからんのである。
本人の写真ならわかるし、夫婦なり、家族の写真ならよくわかるのだけれど、
子どもの写真など見せられても何の意味もないように思われるのである。
まぁ、こういうことにそうケチをつけてはいかん、
そうは思っても、なぜ子どもの写真なのか、その心境がよくわからないわけだ。
出すなら本人を出せ、というような思いである。
そこに、差出人自らも登場しているのなら、とても好感が持てる、
もっとも気のきいた、有意義な挨拶状だと思うのだが、
子どもだけを並べられても、不思議な感じがするだけなのである。
いいじゃないか、羊の絵だろうが、門松や鏡餅だろうが、風景写真だろうが、
子どもの写真だろうが、それは、単なるデザインなんだから、、、
と思ってみても、子どもだけの写真が送られてくると、極度の違和感に襲われるのだ。
その子どもの側からしても、いい迷惑なんじゃないだろうか。。。
親としての気持ちは、些少でもわからぬわけでもないのだが、
誰に対しても子どもの写真という点が、なかなか理解できないのである。
それも小さいうちだけで、
高校生や20歳過ぎたわが子の写真を貼りつけた年賀状にはお目にかかったことがない。



2003年01月03日(金) バッテラと松前寿司

今夜は、階下に住む義父母の食卓で、年に1回の6人での会食だった。
同じ屋根の下にいながら年に1回というのは、そう取り決めをしたわけでなく、
なーんとなくそんな風な慣例となっているのである。
で、大体正月の3日と決まっていて、食卓に並ぶのも、
義父の選んだ店からとった寿司とおせち料理、と決まっている。

その中に、寿司屋からとったとは思えないバッテラがあるので、聞いてみると、
ある旅館のおかみさんからのいただきもので、松前寿司だと言っていたそうである。
たしか、去年もあったと思い出して、何やら日ごろ食べ慣れているバッテラと違い、
(私は、しめさばとバッテラが、刺身や寿司の中でもっとも好きである)
飯も硬くぽろぽろした感じで、鯖もしめすぎてあるような感じだった。
早い話が、バッテラと言うには、あんまりうまいものではないのである。
松前寿司とバッテラは違うのかどうかという疑問も起こったが、
話題は、なんでバッテラというんだろう、というところに進んだ。
義父が、オランダ語かなんかだぞ、カステラ、バッテラはオランダ語だ、
と言いだした。これは彼の単なる憶測に過ぎない。
寿司の名前なんぞに、オランダ語を使うものかな、と疑問に思って、
食事が終わってから検索して調べてみた。

明治27、8年ころ、大阪の順慶町に開業した「鮓常」という寿司屋が、
店の看板となる寿司ネタとして、二枚おろしのコノシロを使い始めた。
銀しゃりの上でピーンとしっぽを振るコノシロの姿に、
ひいき客のひとりが、バッテラ(オランダ語で舟、ボートの意)とあだ名をつけた。
やがてコノシロが値上がり、安値の鯖を材料に使うようになり、
生臭さを消すために昆布を上にのせるようになった。
見栄えをよくするために白板昆布を使うようになって、今の姿になったようだ。

う〜ん、なーるほど、、、おもしろいものである。
義父の当てずっぽうが、ズバリ当たったわけである(オランダ語ということだけだが)。
で、次なる問題は、松前寿司とバッテラの違いだが、これがわからない。
上に要約した説明文の末尾にも、「今では大阪を代表する松前寿司となって、
広く一般大衆に好まれる食べ物となっている」と書かれている。
他を検索してみても、説明してあるものは「松前寿司、つまりバッテラ」のように、
同じものとしてさりげなく済ませているものばかりである。
ところが、実にたくさん検索されるお店のメニューでは、両者は別物で、
値段も、たとえば、バッテラが400円、松前寿司が1500円、というように、
1000円前後違うのが普通である。
義母が松前寿司と言われてもらったときも、きょう食べてはダメ、もう少し置いて、
明日以降に食べるようにしなきゃダメ、と細かいこだわり付きだったという。
もともとは同じものだが、寿司屋や料亭での製法上の区別ということだろうか。。。
また機会あるときの課題としよう。



2003年01月01日(水) 謹賀新年

昨夜、年明けて間もない時間に北さんから年始メールが届いて、
ある映画評論家の次の言葉を引用して、年頭の抱負が書かれていた。

「自分に自信を持つためには、自分を知らなければならない。
 自分を知るためには、自分に影響を与えたものを知ることである」

それで、私自身に大きな影響を与えたらしいものが、次々に思い浮かんだ。
「ベン・ハー」、イエス・キリスト、「巨人の星」、
音楽、特に、ベートーヴェンとマーラー、カラヤンとワルター、
太宰、それから、哲学、特にサルトル、メルロ・ポンティ、プラトン、、、
いっぱいあるのだが、バッバッと思いつくのはこんなところだろうか。。。
特に、イエスと音楽と太宰とメルロ・ポンティが、
最も、生き方や考え方、ものの見方を変えてくれたように思う。

それらを列挙して北さんに返信したのだけれど、
後で思うと大切なものを忘れていた、、、中学校で受けた教育である。
(これについては、「教育」コーナーに書いてある)

「巨人の星」というのは唐突かもしれないけれど、
克己とか、現状打破とか、乗り越えるとかいう感情を養ってくれたはずである。
「ベン・ハー」もそうだが、これはもうひとつ、イエス・キリストへと導いた。
イエスは、神の子としてではなく、最高の倫理学者として近づいた。
当初は、なるほどなるほど、すばらしい教えだ、と、その言葉に感服していたが、
やがて、古い観念を否定して真理に対して誠実なひとりの思想家として慕うようになった。
そのように割り切りながらも、神の存在についてさまざまに考えようともした。
「ベンハー」というひとつの映画に感動したために、
いろんなことを考えなければならなくなったわけである。

心への影響というのは、突然、唐突にあるものではなくて、
さまざまな連鎖や状況の中であるものなので、簡単には説明できないものである。
音楽にのめり込んだのも、母のそんなに熱心ではない興味づけがあったからかもしれない。

そういう詮索は、また何かきっかけがあったときに譲るとして、
昨夜の北さんからのメールがきっかけとなって、
今年は、太宰やメルロ・ポンティについての思いをまとめようかな、と
考えたということを、新年の抱負のひとつとして書きとめておこう。


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