2002年10月05日(土) |
部落問題入門2002 |
(はじめに) 1 「部落差別」という言葉を初めて聞いた時、どのように感じましたか?また同和教育を学習したことがあれば、どのように考えていますか? 2 「部落差別」「部落問題」について疑問に思ったことがあれば書いてください。 1) 1 日本の歴史で、「身分」が発生したのは何時代からですか、またそれはどういう理由からですか? 今から2300年ほど前、大陸から稲作と金属器(鉄と青銅器)が伝わった時代(弥生時代)は「戦争」と「身分社会」の時代でした。米や土地を多く持つ一部の者(支配者)とそれを持たない多くの人々がいて、「クニ」をつくり互いに争っていました。戦争に負けた人々は奴隷としてあつかわれたと考えられています。経済的(土地やものなど)な差や戦争などによる支配・被支配が「身分」を作っていったのです。中国の歴史書「魏志倭人伝」には「国王」をはじめ、「大人(たいじん)」「下戸(げこ)」「奴婢(ぬひ)」などの身分がいたことが記されています。 2 「身分」とは何ですか? 「身分」とはその人の身体や能力に関係なく、生まれた家がらによって地位や職業(生業)が決まっている社会関係(序列)を言います。
3 律令時代に、差別された身分にはどのようなものがありましたか、またそれはどのような仕事をしていましたか? 「賤」には5種類(五色の賤)あり、陵戸(りょうこ;天皇などの墓の管理)、官戸(かんこ;国の宮内省に隷属)、家人(けにん;貴族などに隷属)、公奴婢(くぬひ;国の役所の雑用)、私奴婢(しぬひ;個人の雑用) で、特に公奴婢と私奴婢は最も低くあつかわれていました。「賤」とされた人々はそれぞれに所属する人たちの所有物として扱われました。
2)中世の社会と差別 (平安時代~室町時代)
1 中世に差別された身分にはどのようなものがありましたか、またそれはどのような仕事をしていましたか? 非人」とよばれていた人たちは住む場所や仕事の内容によって「河原者(かわらもの)」「散所人(さんじょにん)」「坂(さか)の者」「宿(しゅく)の者」「声聞師(しょうもんじ)」に分かれていました。彼らは天皇や貴族、寺院や神社に属していて、町の清掃や葬儀、犯罪人の取り締まり、皮や履き物の製造、庭づくり、猿楽などの芸能の仕事に従事していました。 また、当時の人々は「死」や「血」、「お産」などに対して異常に畏れをいだき、それに触れたり、見たり、それを経験すると「ケガレ」たと感じました。その「ケガレ」を「キヨメ」てくれる人々が必要でした。その人たちが「非人」の人々だったのです。
「河原者」は京都の賀茂川など文字通り、河原に住んでいましたが、特定の身分の人の支配下にはありませんでした。死んだ牛馬の処理をはじめ、皮細工、刑の執行、染色、井戸掘りなどの仕事に従事していました。また河原者の中には善阿弥(ぜんあみ)など、龍安寺や銀閣寺の石庭など庭造りをしていたり、三重県名張出身の観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)などのように猿楽を「能楽」という芸術として高めた者もいました。 中世のこういった人々は、政治的あるいは制度的に固定された「身分」ではありませんでしたが、人々の「ケガレ」意識に基づいて、周囲より「排除」されていく中で差別されていったと考えられています。
2 コラム1「銀閣寺と又四郎」とコラム2「観阿弥と能楽」をよんで、なぜ高い技術や芸能を持った人々が当時は差別されていたと考えられますか? 当時一般の人々は荘園や「惣(そう)」などの共同体で中で生活し、農業や漁業など何か具体的なものを「生産」する人々が通常とされ、目に見えない経済活動(商業活動など)や芸能活動は一般的に低く見られていました。従って共同体に属さず、それらに携わる人々が差別されていたのです。 3)近世の社会と差別1(安土桃山時代)
1 豊臣秀吉は身分をどのような方法で確立していきましたか、またなぜ秀吉は身分を確立・確定する必要があったのですか? 秀吉は支配を維持するために身分制度を確立する必要がありました。それは太閤検地、刀狩令、身分令などを実施する中で兵農分離を進めましたが、土一揆や一向一揆をなくすねらいもありました。これによって武士と農民の身分が確定し、身分と職業、住居などが決まっていきました。
2 秀吉の行った太閤検地に「かわた」とはどのような人たちですか、またこの「かわた」とよばれた人々は後に何とよばれる身分になっていったと考えらていますか? 「かわた」とは皮革業者をさすものと考えられますが、後の江戸時代にこの「かわた」の人々が「えた」身分になっている例から、すでに秀吉の時代から「かわた(かわや)」と呼ばれていた特別な身分が存在していたであろうとされています。「かわた」とよばれた人たちは、皮革の仕事の他、牢屋の番や掃除、刑場の仕事が役負担として強制されていました。
4)近世の社会と差別2 (江戸時代)
1 江戸時代にはどのような身分があり、それぞれどのような仕事(生業)と役負担(税など)が決まっていましたか? 江戸時代には「天皇、公家」身分、「武士」身分をはじめ、「百姓」身分、「町人」身分、「えた」身分、「ひにん」身分など様々な身分がありました。それぞれの身分には住む場所と固有の職業(生業)、役負担(税など)が決められていました。「百姓」身分は村(農村、漁村、山村など)に住み、農業や漁業、林業などを職業とし、税金である年貢を納める義務がありました。「町人」身分は町(城下町、港町など)に住み、商業や工業を職業として、税金として地子銭や運上金などを納める義務がありました。
2 江戸時代に差別された身分にはどのような身分がありましたか、またそれはなぜ差別されるようになったと考えられますか? 武士たちの収入の大半は全人口の84%も占めた百姓身分からの年貢であり、その額も大きなものでした。従って百姓身分の反抗や不満をそらす必要がありました。「五人組制度」や「寺請制度」などによって民衆を統制しようとしましたが、その最も有効な手段として役割を果たしたのが「えた」身分や「ひにん」身分などの人たちでした。
「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは、「身分外」の身分、「排除された」身分とされ、他の身分の人々から「差別」によって遠ざけられ、時には人間としての扱いを拒否されていました。「えた」身分の人々は「百姓」村に隣接した「えた」村に住み、固有の職業として死んだ牛馬の処理や皮革の仕事があり、役負担(税)として刑場や警察、掃除の仕事がありました。「ひにん」身分の人々は町の「ひにん」小屋に住み、季節の行事や慶弔、色々な芸によって祝儀(お金)を受け、役負担として村や水の番人、刑場や警察の仕事がありました。
3 コラム3「伊勢まいりと差別された人々」を読んで、なぜ奉行所は宿屋の主人に謹慎を言い渡したり、かまどを壊させたと思いますか? 幕府や藩の支配者は多くの人々が持っていた「けがれ」意識や「賤視(人々を卑しく、軽蔑する考え方)」、「優越感」などをうまく利用して差別していったのです。
えた」身分や「ひにん」身分の人たちは一般的に貧しいイメージがありますが、本当に生活は苦しかったのでしょうか。次の表は今の鈴鹿市にあたる河曲郡(かわのぐん)のある百姓村とそれに付属した「えた」身分の人たちの土地所有(石高)を比較したものです。
※平均石高・・・・百姓身分→12.25石/人 、「えた」身分→17.18石/人
これをみると、平均の石高は百姓身分の人たちの一人あたり約12石に対して、「えた」身分の人たちは一人あたり約17石も収入があったことがわかります。また百姓の人たちは30石以上の裕福な人(おそらく庄屋)と4石以下の貧しい人まで幅が広いのに対して、「えた」身分の人々は20石前後でほぼ同じで、貧富の差がないこともわかります。 「えた」身分の人たちは普段は一般の百姓と同じく、自分の土地を耕して生活をしていたのですが、固有の職業として死んだ牛馬や皮革の処理があり、それを役負担として役所(武士)に納めたり、刑場や警察、掃除の仕事をすることによって収入もありました。すなわち、「えた」身分の人たちなどは、差別はされていましたが、生活は決して貧しい生活であえいでいたわけではないことがわかります。
4「えた」身分と解体新書
前野良沢と杉田玄白が書いた「解体新書」は当時の医学書としては画期的なものでした。これはオランダの医学書「ターヘルアナトミア」を翻訳(ほんやく)したものですが、医学の基本である「解剖(かいぼう)」は行われていませんでした。前野良沢らは初めて人間の解剖を見ることになります。翻訳の苦労をつづった杉田玄白の「蘭学事始」には次のような記述があります。
「おのおの連れだって骨ケ原(死刑場)に設けられた見物場にやってきた。解剖は「えた」の虎松(とらまつ)という者がことのほかうまく、前もって約束しておいた。しかし急に病気になったので、虎松の祖父で年齢が90歳の者が代わりにやってきた。彼も若い頃より解剖は度々やっており、今まで数人を手掛けてきたと話している。」
このように医者でさえ行ったことのない解剖をいとも簡単に「えた」身分の人々がやってのけたのです。しかも内臓の名前もすらすらと言えました。
5)「解放令」と近代部落の成立(明治時代)
1 コラム5「五万日の日延べ」を読んで、「えた」身分や「ひにん」身分の人たちはどのような思いで「解放令」を聞いたと思いますか、またなぜ百姓村の大庄屋が「五万日の日延べ」というウソをついたのでしょうか? えた、ひにん等の称が廃止されたので、これ以後は身分、職業ともに平民と同様にすべきこと
これは一般的に「解放令(かいほうれい)」あるいは「賤称廃止令(せんしょうはいしれい)」とよばれているものです。これによって江戸時代に定められた「えた」身分や「ひにん」身分はなくなり、平民と同じ扱いをうけることになりました。もとの「えた」身分や「ひにん」身分の人たちの喜びはひとしおだったと思われます。しかし周囲の、特にもと百姓身分の人たちにとってはこれまでの考えが消えるはずもなく、自分たちの不満のはけ口がなくなることに不安を覚えました。そこで西日本を中心にもと百姓の人たちを中心に「解放令反対一揆」が各地でおこりました。明治時代以降、「えた」身分や「ひにん」身分がなくなっても、差別は続きました。これが部落差別のはじまりであり、この部落問題は社会問題となりました。
2 「解放令」以後も、なぜ差別がなくならなかったのでしょうか? こういった被差別部落(たんに「部落」ともいわれる)は江戸時代の「えた」部落や「ひにん」部落を中心としていますが、明治時代以降新たに、と殺場や斎場、炭坑、建設現場などが新しい「部落」として差別されたところもみられます。明治政府は「えた」身分や「ひにん」身分をなくしましたが、それまでの差別をなくす努力も経済的な援助もしなかったのです。明治の最初につくられた戸籍(壬申戸籍)には「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは「新平民」と記載され、一目で元の身分がわかるようになっていました。
3 明治以降に行われた「部落改善運動」「融和政策」とはどのような取り組みをいいましたか? そのような中で、部落差別の問題が社会問題として取り上げられることも多くなりました。しかしそれは部落の生活環境を変えれば差別はなくなるという考えで、各地で警察などが中心となって部落内の衛生面や、衣服、言葉使い、生活習慣の改善を進めていきました(部落改善運動)。その後、社会主義運動が激しくなると、国は部落解放運動が社会主義運動と結びつくことをおそれ、予算をつけて「融和政策」を押し進めることにしました。「融和政策」とは、部落の外から積極的に働きかけて仲良くして差別をなくそうとするもので、部落の子だけが通う学校をなくして部落外の子の通う学校といっしょにしたり(混合教育)、青年会や婦人会などに部落の人の参加を呼びかけることがなされました。しかし学校ではこのことによってかえって学校内で教師や部落外の一般の子どもによる部落差別の発言が増える結果となりました。
6)水平社の成立(大正時代)
1 水平社ができた大正時代とはどのような時代ですか? 大正時代に入り、人々は憲法に基づいた政治(護憲運動)や普通選挙法、婦人参政権、軍備縮小など民主的な要求していきました。これは大正デモクラシーとよばれるもので、一般民衆が政治や社会改革に関心を持っている結果でした。そして同時にヨーロッパから社会主義思想が入り、労働運動や農民運動が激しくなっていった時期でもありました。
2 水平社をつくった人たちにはどのような人がいましたか、また彼らは差別をなくすためには何をしなければならないと考えていましたか? 東京では平野小剣らが部落解放をよびかけてビラをまいていました。福岡県では松本治一郎らが「筑前叫革団」を結成して部落解放運動を始動しました。三重県では上田音市らが「徹真同志会」を結成して差別糾弾闘争や小作争議に参加していました。
そのような中、奈良県柏原(かしはら)では1920年5月、西光万吉、阪本清一郎らが「燕(つばめ)会」を結成していました。「燕会」では部落内の生活改善や貸し付けなどの活動を通して部落の民主化運動に取り組もうとする団体でした。そのような中、メンバーは「部落差別をなくすには部落自身が立ちあがらなくてはならない」と主張した佐野学の「特殊部落解放論」という論文に大きな影響を受けました。
3 コラム6「上田音市さんが見た大日本平等会」を読んで、部落の人たちはどのような思いで水平社を作ろうと考えたのでしょうか? 全国から集まった人々は「同じ差別に苦しんでいる兄弟がこんなにも大勢いるんだ!」との喜びと通い合う共感で満ちあふれていました。自らの力で差別をなくそう 1922年2月、松阪市から部落の融和団体であった「大日本平等会」の創立大会に出席するように要請があり、音市さんら「徹真同志会」のメンバーは会場の大阪市中之島公会堂に出向きました。この会議は上からの指導で環境衛生などの部落改善事業を押し進め、同情によって部落差別を無くそうとする「同情融和」の集会でした。音市さんはこの考えに疑問を持っていました。その時、会場の2階からビラが降ってきました。そのビラには、次のことが書かれてありました。
「来る三月三日、京都全国水平社創立大会へ! 同情的差別を撤廃せよ!」
会場は拍手と怒号で満ちあふれていました。音市さんはその時、⑥胸にこみ上げる何か熱いものを感じたということです。3月3日、音市さんとその仲間は待ちに待った水平社創立大会に参加するため京都市岡崎公会堂におもむきました。最初は「ほんとうに差別は無くなるのだろうか」と不安でいっぱいでしたが、水平社宣言が読み上げられると、その思いは確信へと変わっていきました。「三重県にも水平社を!」という強い思いを抱いたということです。
4 水平社のシンボルである荊冠旗(けいかんき)に色を塗ってみて。 5 荊冠旗について次のことを考えてみましょう!
①荊冠旗の荊(いばら)は何を意味しているのでしょうか? ②荊冠旗の赤い色にはどのような意味があるのでしょうか? ③荊冠旗の黒い色にはどのような意味があるのでしょうか? 荊冠旗(西光万吉によってデザインされ、差別社会を表す黒地に解放への情熱を表す赤が使われた)
7)水平社創立大会
1 水平社宣言を読んで、ご感想を。 崇高な文体、部落解放の展望・・・
2 コラム7「西光万吉と水平社宣言」を読んで、西光さんはなぜ「特殊部落民」にこだわって残そうとしたと思いますか?
あえて差別語を使用することで 差別に対して戦闘的決意をもつことになるという自己表現にせまられる。(差別とたたかっていきるという決意表明?) 賤視だからこそ堂々と使用し、そのことで主体性をはっきりさせる。(主体性追求?)
8)水平社の闘いとその後
1 水平社の運動である「糾弾闘争」とはどのような運動をいいますか? 糾弾闘争」とは差別的な発言や行動したりして部落の人たちを侮辱した人たちに対して、そのあやまちを指摘して、その人に謝罪を要求することです。水平社の人たちは団結して、差別をしたことをあいまいにせず、差別した人に反省してもらい、最後まで徹底して差別をなくす運動を展開していきました。糾弾闘争は1922年で69件、23年で854件、24年には1052件にものぼりました。
2 水平社は朝鮮の被差別民の組織「衡平社」となぜ交流、連帯しようとしたのでしょうか? 別紙
3 「福岡連隊差別糾弾闘争」「厚生小学校差別糾弾闘争」「高松差別裁判糾弾闘争」を読んで、水平社の闘い方について感想をかきましょう。
水平社は「高松差別裁判糾弾闘争」以後は、部落の人たち全体に根付いた闘いを行い、部落の生活を安定させるために予算を要求するなどに重点がおかれました。しかし日本は中国など大陸を侵略し、戦争へと突入していきますが、水平社を支えた人々も戦争に参加することを余儀なくされ、1942年1月、水平社は自然消滅しました。
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