2002年07月31日(水) |
「ケガレ意識」701~21世紀 |
人類史の中でもっとも長く展開するのは、原始共産制・無階級社会とよばれる身分・階級のない時代です(9000年以前ころから紀元前3~2世紀ころまで)。 しかし、大陸から稲作や鉄が伝わってきた弥生時代(紀元前3~2世紀から紀元後2~3世紀)になると 身分や階級があらわれました。各地のムラの間で余剰生産物や土地の所有をめぐる争い(戦争)が繰りひろげられ、各地に首長や小国をうみだしていきました(「漢書地理志」では100余国とされています)。 中国(漢)が朝鮮半島においた郡の1つである「楽浪郡」に使者を派遣して、あいさつをして貢物を献上する(朝貢)という外交が始まり、中国の正史である「後漢書東夷伝」には 西暦107年に、「生口(せいこう)160人を献じ、請見を願う」とあります。 この「生口」は奴隷のことらしく、「もの」としてやりとりされる人間のいたことがわかります。 「倭国大乱」の時代の末に成立したのが、女王卑弥呼を盟主とする「邪馬台国連合」です。「魏志倭人伝」によると人々は、女王、それを補佐する男の王、大人(たいじん=各地の首長)、下戸(げこ、一般の人びと)、奴婢(ぬひ、最下層民)の身分にわかれていました。「奴婢」は、男が「奴」、女が「婢」であり、女王卑弥呼が死去した時に100人以上の奴婢が殉死させられたといいます。 人間を人間として扱わず「ものをいう道具」として扱う社会の仕組みが、このころできあがりつつありました。 このころ女性差別も発生したと言われています。自然、呪術の持つ意味が大きかった縄文時代にくらべ、農業、戦争が中心の弥生時代では母権より父権が強くなり、土地、財産も男性に所有されることが多くなっていったと言われています。
7世紀後半ころ、律・令という法律を中心に国家体制を整える古代律令体制という新しい社会の仕組みが成立しました。大宝律令が制定・施行された701年から翌702年は、「天皇」という称号が正式に公文書に採用され、「元号」の使用が恒久化され、「日本」という国号が唐へ派遣された遣唐使によって伝えられます。 大宝律令は その中国の唐から導入されたものですが、差別という視点に立った時、「貴・賤」といった観念も中国から持ち込まれたことが大きな特色であると言えると思います。 古代日本における被差別民は、源信『往生要集』に「貴賤」とあるように、「貴」に対する「賤」です。それは天皇と賤民の成立というカタチをとって現れました。「貴」の究極にあるのが天皇で、皇族、貴族がこれに続きます。支配者は「貴族」とされ、人民は「良民」と「賤民」にわけられました。大王という名から変わった天皇は、支配者の中で一段と超越した地位に立ちました。 支配者たちは それまでの「大王」を 豪族とは異なる超越的・申請なものとするため、「天皇」の(中国の道教では最高の神をさす)言葉に置き換え、自分たちの利益を守ろうとしたと思われます。天皇がそれまでの大王とはことなり、生前から神格化されていたことは、「万葉集」におさめられた柿本人麻呂の歌「大君(おおきみ、大王)は 神にしませば 天雲(あまぐも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いおり)せるかも」などからわかります。
天皇という庶民から超越した、神にも等しい存在をつくった以上、それに対応する賤しい人々がいなければならない(神聖でないものがあってはじめて 神聖でないものが意味を持つ)というもとで、賤民は 作り出されました。天皇は、一般民衆を超越した存在として氏・姓(うじ・かばね)を持ちませんでしたが、賤もまた 天皇の対極の身分にある賤しい存在として 氏・姓を持ちませんでした。租税の負担の義務がなかったのも 人として扱われない(もの扱いの)賤民と(神扱いの)天皇だけであり、両者が密接な関係を持っていること、それらが政治的に作り出されたものであることがわかると思います。 同じく、唐を模倣して、選民を 陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)の5種類に分けて蔑視・差別する「五色の賤」とよばれる賤民制が 令のなかに制定され 身分制度は整えられていきました。 と同時に、インドのカースト制にもみられる「浄・不浄」の差別原理も古代日本にみられました。
古代国家において、色彩は、身分を示す重要な標識だったといえます。こうした律令国家の形成とともに、支配される側の人民も色彩の規定をうけるようになりました。 『養老令』衣服令では、最上位におかれる白色が天皇の服飾と定められました。 これは、「白」が清浄・神聖を象徴する色彩だったからです。ふつうの人民である良民は、黄色の衣です。そして、どんぐりなどで黒く染められた橡(つるばみ)の衣を着用するように義務づけられた階層が、五色の賤のなかでも最下層の家人(やかひと)・奴婢(ぬひ)です。黒は、凶事、不吉、不浄など、穢(けがれ)と結びつく色彩です。支配階級の華やかな色彩は清浄、神聖を示すものであり、黒はその対極にあるものでした。 穢れをとりのぞく「禊(みそぎ)」「祓(はらい・はらえ)」にみられるように、ヤマト王権が形成されるなかで清浄と穢れという考え方が形成されたと思われます。 色彩による身分差別は、インドや中国など古代のアジアにみられるもので、中国では「蒼頭奴婢」といわれ、青い衣の着用を強制されました。
『養老令』戸令は「およそ陵戸・官戸・家人・公私の奴婢は、みな当色婚することとせよ」と定め、同じ種類の賤民としか結婚できないよう規定しています。 しかし、現実には良・賤間の結婚は行われており、生まれた子ども(ダブルっち)を賤とすると身分制度のくずれや租税負担者の減少をまねくというわけで、良民と賤民との間に生まれた子は良民とされる(789年)という 律令制度の重大な方針転換を生みました。それは、良との結婚などによって 奴婢は奴婢身分から解放されるということです。こうして、古代賤民制は延喜年間(901~923)の奴婢停止令により、10世紀初頭には 解体していきました。 古代賤民制は、律令制の解体や奴婢の抵抗によって解体しましたから、「五色の賤」は近世の穢多・非人へとつながるものではありません。これと対照的に最近注目されているのが、古代に朝廷に服属して各地に移住させられた東北出身の蝦夷=俘囚(ふしゅう)です。彼らが近世の賤民の源流ではないかとする学説があります。今も西日本から関東にかけての地域で部落差別が根強いことの理由が、移住民でしかも古代において差別された身分が祖先だからであるとされています。たしかに地域的にみると興味深い説ですが、古代後期の場合、荘園・公領のなかの村落は、それぞれの荘園領主による私的支配を受けていたのですから、ある村落が他から特別に賤視されてそれが固定化されたとは考え難いといえます。 「貴・賤」、「浄・不浄」の2つの差別原理のうち、律令制とともに導入された「貴・賤」の観念は10世紀初頭に解体したものと思われますが、その一方で、「浄・不浄」の差別原理の方は、長く日本社会に根強く残ることになりました。 「浄・不浄」の原形は、仏教が伝わる以前からみられたはらえ(祓)・みそぎ(禊)など古来の習俗にもみられますが、方違(かたたがえ)、物忌(ものいみ)などの陰陽道や、死や出産を穢(けが)れたものとする観念として生き続いているといえます。 禊とは、「川の水を浴びて罪や汚れを払うこと」となっています。「水に流す」という言葉は現在もあり、「朝シャン」も不浄をはらって一日を過ごそうという意味で、同じ原理がはたらいているといえるかもしれません(今は環境問題もあってあまり流行していません)。 また、親族を亡くした人が新春の年賀状を出さないのは、これは死による穢れをもつからで、論理的に、親族を亡くしていない人が「喪中」の人に年賀状を出すことは何ら問題はありません。「忌引」も歴史的には同様の習俗によるものです。 その他にも、病院や旅館・ホテルなどでの四号室・九号室の欠落、大峰山などの女人禁制等々、日本には「穢れに触れる」ことを忌み嫌う因習が数々残っています。トイレ用のスリッパやタオルはトイレ専用になっており、洗濯する時も自分たちのものとは別に洗う家庭も少なくありません。昔は 死体や血から悪しき力が発生し、強い力で伝染すると考えられていたので、現在でも近親者の死後、喪に服すとして四十九日間(家にこもって)行いを慎み、精進料理しか食べず、殺生を嫌います。大相撲の土俵・能舞台・トンネルの貫通での「女人禁制」の理由は、産穢と血穢です。21世紀を迎えた今日においても、穢れ意識からいまだに抜けきれていないのを感じます。
さて、古来の習俗にくわえて、仏教の肉食や殺生の禁忌(タブー)もまた「浄・不浄」の差別原理を増幅させました。 天皇・公家などの貴人にかわって「穢れ」を取り除く人びとが必要とされることになりました。不浄を浄化する行為そのもの(掃除など)や、従事者を「清目(きよめ)」といいます。清目は、中世の「ひにん」の最も大きな仕事でした。
また、穢多という言葉がわが国で初めて登場した文献である 鎌倉時代の辞書『塵袋』に「キヨメをエタというは・・・根本は餌取(えとり)というべきか」とあるように、動物を解体する「餌取」、つまり屠者(としゃ)も清目を構成する人びとでした。
中世社会では、彼らが河原に居住していたため、「河原者」ともよばれました。河原の地は氾濫すると居住や耕作ができなくなるため、土地に税がかからず、貧しい人々が流入しました。住民は「河原者」として もの乞いをする人たちやハンセン氏病患者とともに 中世社会で選視されました。(日本において長く差別の対象となったハンセン氏病は、仏教でも、前世の悪業によるものとして、彼らを差別の対象にしました。そうした彼らを救済するために、鎌倉時代、忍性あるいは良恵が奈良坂に建てた施設を北山十八間戸といいます。仏教の功績は否定できませんが、その限界に眼を注いでおかねばならないと思います。) 十三・十四世紀以前は、神仏の奴婢として「聖」なる集団の一角を占めたこれらの人々が、この時代には一転して、宗教的に穢れを連想させる仕事に従事しているという理由で、穢多と呼ばれ、「賤」視されることになったのです。 ただ、このように「穢多」という言葉はできあがりましたが、「穢多」という身分はこの時代では固定されていませ。「ひにん」も「えた」も言葉の上では同じでも、江戸時代のそれらとは違っており、賤視はされていたけれども、政治権力によって統制、管理を受けていたわけではありませんでした。 豊臣政権および初期の徳川政権では、当時の民衆の一部分が「穢多」身分に政治的に編入され、彼らに対し 当時賤業とみなされていた仕事(主として皮革業)が一律に強制されていきます。決してその逆(部落の先祖の人々が賤業に従事していたから差別され部落ができたというもの)ではないことを ここで強調しておきたいと思います。 中世社会には、彼らのなかから洗練された文化(東山文化など)が多く生まれたことは見過ごすことはできません。その約500年前の室町時代の文化を今に伝えるものとして、京都の鹿苑寺金閣と 慈照寺銀閣があります。 後者の慈照寺庭園は、「山水河原者(せんずいかわらもの)=庭を造る河原者」とよばれた善阿弥の子孫たちのもつ技術・才能を、時の将軍足利義政が吸い上げて東山文化につくりあげたものです。 善阿弥の孫の「河原又四郎」は、自分の生涯を振り返り、 「それがし一心に屠家(とか)に生まれしを悲しむ。ゆえに物の命、誓いてこれを断たず。また財宝、心してこれを貪らず。」(出典:鹿苑日録 1489年6月5日) と述べています。彼の言葉から、賤視された河原者が自身の出生を嘆きながらも 誇り高い倫理観に到達していることがわかります。筆者(相国寺鹿苑院主)も彼らの生き方について、「いまどきの(一般の)人の所為は、屠者におよばず。」と敬意を表しています。 時代はさかのぼりますが、日蓮宗の開祖日蓮は自分を「センダラ(インドの賤民身分)の子」と言い、華厳宗の僧侶明恵は「非人高弁」と名乗り、みずからを被差別民になぞらえて、その反骨精神をエネルギーにして万人の救済をめざす布教活動に従事しました。 また、河原又四郎の誇りある言葉は、20世紀の「水平社宣言」にも継承されます。
義政については、「応仁・文明の乱」をとめることができなかった将軍といったイメージが先行します。貴人・権力者に直属して仕事に従事しながらも、社会的に差別・賤視されるという構造は江戸時代以降の非人制度にもみられますが、東山文化のような洗練された文化をつくりあげた上級の武家(将軍)・公家はいません。 近世日本、つまり江戸時代において「賤民」とされた人びとには、穢多(えた)・茶筅(ちゃせん)・鉢たたき・非人・猿飼(さるかい)などがいます。
茶筅は葬送に従事するもので、地域によっては隠亡(おんぼう)ともいわれました。鉢たたきは葬送の場で鹿の杖で鉄の鉢やひょうたんを叩いて念仏をとなえるのがなりわいでした。 猿飼は、猿をつれて武家屋敷や町家をまわって、穢(けが)れを取り除くもので、「猿まわし」、「猿曳(ひき)」ともよばれました。 非人は、物乞い・遊芸や刑場使役を業とする賤民で、良民でありながら心中に失敗して非人におとされた者もありましたが、その身分から解放されることもありました。 穢多は、農業に従事する一方で、死(弊)牛馬の処理や皮革業も行なっており、戦国時代から江戸時代の前期にかけては、「皮多(かわた)」ともよばれていました。戦国時代になって、皮革製のよろいに対する需要が高まると、諸大名は彼らを城下町や農村において支配するようになります。江戸時代の穢多が農村に居住することになった背景には、こうした戦国大名の政策がありました。 この身分差別は近世中期以降、さらに厳しくなり、広く庶民のなかに浸透していきます。「皮多」という呼び方が「穢多」に統一されていったのも江戸時代の中期でした。 皮革業は、原始・古代社会からありましたが一貫して賤業視されてきたのではなく、平安時代から徐々に賤視され始め、戦国期にかなり強まってきていることが1558年の「信濃史料」などからわかります。ただ、この時期はすべての皮革業者が卑賤視されたのではなく、「堺市史」によると有力町人で茶道の大成に功績のあった北向道陳などの「皮屋」が賤視されていた形跡は見当たりません。 のちの豊臣及び徳川政権の時代に、皮革業に対する賤視がいっきょに強められ、「かわた」(のちの「えた」)身分の人々に一律に賤業といわれる皮革業が押し付けられてきたと思われます。 こうして同じ人間でありながら、身分制度が固定化され、世襲化され、法制化されていきました。 人権問題は、すでに古い時代に発生していましたが、古代賤民制は奴婢停止令によって崩され、武士の出現による封建的身分の形成は戦国の大乱で崩され、この末期からの現在の部落問題につらなる近世身分制は 近代に至って「解放令」で 部落差別への終止符が打たれたはずでしたが、実質的な解放が行われなかったため、水平社運動が展開され、戦後ようやく 同和問題の解決を国策と取り上げられるに至りました。 日本史をみても世界史をみても、平和時より長い戦時のほとんどが 政治的・経済的な差別を克服するためのたたかいです。 誰もが自分の意思によって部落民に生まれ、男子または女子に生まれ、「障害」者に生まれ、ある人種に生まれたのではありません。「生まれという、個人に責任のないことによる差別が減少していくことが人類社会の進歩をはかる尺度」という市井三郎氏の言葉があります。
参考 高校日本史講座 (松井秀行) 「人権のあゆみ」(解放出版社) 昨年、天皇が誕生日前日、「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言したことは、歴史教科書問題や小泉首相の靖国神社訪問で ぎくしゃくした日韓関係を大いに好転させたと思います。 本年6月開催のサッカーのワールドカップ(W杯)は終わりましたが、引き続き 両国民間での理解と交流は 深まっていかねばならないと思います。
今日は 韓国の「李朝の時代の身分制度」について。
両班 東班(文官)・西班(武官)、税役免除の特権階級、ヤンバン 中人 医者・天文官・通訳など技術官僚、両班の庶子が世襲 常民 農民・商人・手工業者、俗に「サンノム」という 賎民 広大(クァンデ)・寺党(サダン)、芸人 巫げき、 シャーマン 喪輿軍、 墓堀人 僧・尼 儒教社会では悲惨 妓生 公私の奴卑、公奴卑は1801年解放 白丁、 屠殺業・柳器製造・皮革業・食肉業・農業
賎民の中の「白丁」は、日本の徳川幕府時代の身分である「えた(extreme filth)」や「ひにん(non human)」に相当しました。 1894年に、日本軍の後押しで行われた「甲午の改革」により 身分制度は 全て廃止されましたが、民衆の差別は残り、 日本支配下で、朝鮮総督府により、戸籍に「屠業」、「屠獣業」と表記されたり、学校や官公庁に提出する履歴書に身分の明記を要求されるなど、新たな差別が生まれました。 こうした社会情勢のもとに、日本支配下の朝鮮南部の晋州で、「白丁」の張志弼と、非「白丁」の姜相鎬により衡平社が結成されました。「衡平社」の命名は、ハカリのように正確な平等を理念につけられました。衡平社は水平社に刺激され、水平社宣言(Declaration of the Levelers Association)の翌年1923年4月に結成されました。 運動は、路線の違いなどから分裂や統合などもありましたが、子弟の教育・生活保障・差別の糾弾などを中心に全国的に精力的に展開されました。また、日本の水平社との交流なども官憲の監視・妨害にもかかわらず行われました。しかし、それも1931年に途絶えてしまいました。
1927年には「高麗革命党事件」、1933年には「衡平社青年前衛同盟事件」と称した日本支配下の「手入れ」が行われ、1935年「大同社」と改名され、運動の内容も融和的なものに変化し、侵略戦争への協力を余儀なくされて 衡平社の幕を閉じました。
解放後の「白丁」差別は、朝鮮戦争の混乱に埋もれてしまい、現在は南北共に表だった差別はあまり無く、解放運動組織は韓国にはないようです。しかし、「白丁」差別は 農村部の古い世代や 都市部の低所得者層の間に まだ多く残っているとのことです。
この「李朝の時代の身分制度」については、「半月城通信」http://www.han.org/a/half-moon/index.html を参考飼料とさせていただいています。
2002年07月25日(木) |
姫だるまの部落問題2002 |
2002年06月11日(火) 「部落は血族結婚が多い」は教育の中で植えつけられてきた差別意識である
保育所で 1980年、滋賀県犬上郡甲良町と多賀町の保育園で 全園児を対象に調査票を使って「園児の本籍、両親の学歴、職業、さらに住宅環境として自家、借家、社宅、間借、部屋数、年間収入、備考として、血族結婚、ろう、盲、色盲、大酒飲み、精神病」等を問う調査を実施していたことが明らかになりました。 しかもこれは 高知県須崎市須崎保育園で使用していた調査票を 園長個人の判断で入手して使用したものでした。
大学で
1979年7月、早稲田大学において、宗教研究の講義中 永井という千葉県出身の教授が「私の村の隣には きちがい部落があるが、こうした部落では近親結婚が多く、だいたい1割の割合で きちがいが出ている。私は結婚相談をされた時には きちがい部落の出身者が相手なら注意することにしている」と講義したことが明らかになりました。
(どちらの記録にも 差別的表現が含まれていますが 事実を知っていただくため 原文のまま 記載します。)
ワタシは、「部落は血族結婚が多い」という考え方が今も残っているとしたら、それは 幼児から対社会において 日常的にこのような差別観念、差別教育の注入を受けることにより 当然なもののごとく錯覚されたためと見るのが 自然であると思います。 それが、この国の一部の人に 永く思想的、感性的支配力を持っているのだと考えます。 「部落は血族結婚が多い」という考え方に対しては、何より部落出身者の方が「事実無根だ」と否定しておられます。 一方で、婚姻の自由という基本的人権を 部落出身者が侵害されている現実を隠すつもりはありません。 また、最近は都市化現象の中で 部落と部落外の結婚が増えてきていることに関し、多くの結婚が その後も部落外から猛烈な反対・圧力を受け 危機的状況を迎えている現実も(その逆のケースも)、隠すつもりはありません。 それでないと(現実を見なければ)、この国の人々の人権感覚は 現実を無視した とても非科学的な、主観的なものに陥りがちだと思うからです。 結婚にまつわる差別事件が 現在もあとを絶たないことが それを端的に現していると思います。
1971年、大阪市住吉区の 浅野佳代さんの結婚差別事件では 彼女を死に追いやった恋人の母親は 同和教育の教師でした。彼女は徳島の出身でした。 同じく1971年、京都府宇治川モミジ谷での 池上誠さんの結婚差別による自殺は、一度目の自殺未遂の後、「お前まだ生きとったんか」という言葉を 恋人の父親から投げかけられたのが引き金となりました。それから3ヵ月後、彼は自分の父親に「くれぐれもK子(恋人の名)をうらまないで下さい」と遺書を残して亡くなりました。彼は高知県宿毛市の出身でした。
個人は、この国のこれらの現実に対し、差別・偏見に感染せぬよう、自己管理する必要があります。
「しんどい」人を定義することはできないが。
義父(ダブルっちの祖父・六六歳)は5年前、脳神経外科手術を受け、術後は「障害」認定を受けリハビリが課されたが、積極的ではない。自宅のあるムラを朝夕散歩するのみ。義父の息子の一人は、サッカーの授業で級友の蹴りをまともに受けて大腿骨折し、一時は歩行も危ぶまれたが、リハビリで完治していた。また、蹴った級友は最後まで名乗り出なかったが、息子は「事故だから」と親にすら打ち明けなかった。「だからあなた(義父)もやろうと思えばできるはず」という叱咤激励は、義父には効き目が無かった。これは強者の論理だった。 「自分は部落の誇りがなくても、やってこれた。だからあなた方(部落差別とたたかってきた人)も、やろうと思えばできるはずだ」という論理が、最近出てきた。
これはなぜだろうか?
かつて、「部落差別から逃げず、差別をなくすために何か行動する中で、自分は変われた。だからあなたもやろうと思えばできるはずだ」と言って来たことのしっぺ返しだろうか。 単純に言うと、話し合いで「強者」側に立つ人が、「部落の誇りがあって差別とたたかっている人」から「部落差別をなくすために何もしない人」に変わってきた。
このことは、部落解放の運動に取り組んできた人びとの信じた理論が、他の部落の人たちの生活実感からかけ離れていたことや、差別の起源を江戸時代の政策に求め、悲惨さを強調した歴史認識とも、無関係ではないと思う(部落解放運動も、明治政府が国家的な教育のなかで作り上げた「江戸時代は、士農工商の身分制度に基づく封建制度の時代」という常識から脱しきれていなかった)。 けれども、部落解放運動は、明治政府が神話を事実とした天皇中心の歴史に対しては、はっきり批判を行ってきた。 日本人を「血統」の上で天皇につながる優れた「大和民族」であると教育で刷り込み、アイヌや琉球の人びとの個性の無視、朝鮮半島の人びとへの蔑視感情を植えつけたものとして。「天皇の軍隊」として「皇軍」と呼ばれた軍隊が、後に「南京大虐殺」問題、「従軍慰安婦」問題などになっていく、驚くべき実態を持つ軍隊に形成されていったことに沈黙しなかった。 ワタシは部落解放運動がたどってきた道は、最善に近い道であり、もっと評価されなくてはいけないと思う。そのうえで、「自分は部落の誇りがなくても、やってこれた。だからあなた方(部落差別とたたかってきた人)も、やろうと思えばできるはずだ」という論理が出てこないものかと思う。
一方で、「部落の誇りがあって差別とたたかっている」側も、「部落差別をなくすために何もしない」側も、「自分は部落出身者であるが、『差別されたことのない者に差別の痛みがわかるか!』のような被害者意識はない。だからあなたもやろうと思えばできるはずだ」の論理は言ってきたと思う。つまり「被害者意識のある人」に対しては 共闘を組む。「被害者意識のある人」は共通の「弱者」だったと思う。 ワタシ自身は、部落問題で「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」と言う人に言葉を失った。こう主張する人を最もしんどい人(失礼な言い方をすれば、弱者、重症の人)と感じてきた。 この間のいろんな話(健常者で語る「障害」者の性、介護不要者で語る要介護者の実態等)で、どうも、部落問題で最もしんどい人は、 「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」とも言えない人、もっと言えば「どうせやっても無駄(部落差別はなくならない)」と心で考えている人ではないか、という視点ができあがりつつある。感謝していると言っては変ですが、多謝~(イソベッチに習った中国の言葉です)。 では、「部落でない者に、部落差別の痛みわかるか!」とも言えない人、「どうせやっても無駄」と考える人にこれからどう声かけしていったらいいのだろうという問題が次にくる。 「そのような考え方では部落と部落外の溝は深まるばかり」とか「差別する側もされる側もどちらも被害者なのだから」とか「被害者意識を持ち続けることで損をするのは結局あなた自身」などと、ワタシがここでまじめに語っても、その方にとっては毒になるだけだと思う(部落差別に対して自分が何もしなくて申し訳ないが、できればもっと気楽に生きてほしいと、思われるだけだと思う)。 ただ、部落差別を憎むいろんな立場(宗教者、歴史学者、心理学者、人権関係者・・・)からの取り組みは実際ある。「どうせやっても無駄」とその方が感じるのは、狭い視野で考えた結果かもしれないと疑うことだけはしていいと思う。 だから、ワタシの立場から言えることは、「いろんな人権サイトを覗いてくださいね」それだけなんでしょうね。悪いのは差別だから。
部落と部落外の溝はお互い謝れれば埋まると思う
余談ですが、
「ダブルっち」は ボク(四歳男児)が生まれて 少しヒトらしくなった時(二歳児くらい)に ハハ(姫だるま)がネットを始め 自分より先にボクのHNを思いついた。ボクにもいずれしてもらいたいと思っていたのかどうかは知らん。で、つけたHNを そのままHP名にして 部落問題HPを開設しちゃった。安易か?開設前いちおチチ(部落出身者)には声かけしたらしいが この夫婦の歴史には珍しく 「ダブルっち」は無事チチの賛同を得る。まぁ、ボクのチチは 単にちゃらんぽん好きだったのだろう。他のみなさんの受けが気になります(ハハ談)。
さて、本題。
部落と部落外の溝は、ぶっちゃけたところ、ないところにはない(1)し、あるところにはある(2)だと思います。
ワタシは「部落問題は部落出身者が中心」と頭にたたきこまれましたが その言葉の意味は 「自分のことは自分でしたい、語りたい」(融和からの脱却、自立) であり、水平者宣言の教えにのっとったものというふうに理解しています。
被差別体験ある人は(部落の友だちにも 被差別体験ある人とない人とがいます) 自分は「こうしてほしい」というか、 「こうしたい」も ”語り”の結びで言われると、現場では聞こえがいいようです(3)。
その前に、 ”語り”(部落)で「こうしたい」が言われなくても ”聞き”(部落外)は それを 汲み取るべきですね(人間には想像力があるのだから)。
現実には(実社会・実生活では)、 友人は 被差別体験ない人であったが 親友(部落)が部落差別体験をしたら これは放っておけませんでした。 同様に 恋人(部落外)が別の差別体験(女性差別、精神障害者差別等)をしたら 「オレもいちお、部落差別、肌で感じてるから」と こちらも放っておけませんでした。
そういう、 「自分が実社会でどうしてきたか、どうするのか」の意見交流だと 意味があるというか わかりやすいというふうに思います。
ただ、 管理者が関わっている範囲(ここダブルっち村 )での論議が、 すべて意味あるものだったのも事実です(←楽観主義)。
補足1)ワタシの友人(部落)で、自称「温室育ち」の(高友・大友の指導者は部落内外の人であった。また部落研は部落より部落外の人の方が多い環境にいたことをさして言っているのだと思う)女性は「部落出身者は近道にいるだけ。部落問題はみんなの問題」という考え方をしています。「なぜ部落問題に関わったのかは、私の場合、自分が部落であるからでは、部落外の人がなぜ関われるかを説明できない。だから、理由を聞かれたら、親友が部落差別を受けたから これは放ってはおけないということで一緒に悩んだと言うようになった(それで自身が出身者であることは言わなかったのだ)」と聞いています。
補足2)掲示板でも「わしが部落や思て、わざとそういうことしたな」みたいなことを言う人の存在が部落と部落外の溝を大きくしているのではないか、また、そういう人は部落出身者にとっても迷惑な存在であると思うから、変に被害者ぶったり、ましてやそのことによって不当な利益を得ようなどと考える輩をこそなんとかせにゃならんのではないかという論議がありました。具体的に、誰がどうすることが一番必要なのでしょう。本人の身内が無理なら、本人と誰かがまず友達になって、迷惑かけた人々に一緒に謝る、借りたものはちゃんと返さすということが、溝を埋めていく作業になるかと、イメージとして、そういうことを思います。
補足3)昨今、人権サイトの掲示板でもようやく、三十年、四十年前子どもだった人の部落問題のお話が聞けるようになり嬉しい限りです(インターネットを二十代、三十代が牛耳っていたこれまでは、偏った世代が言い放題の場という感がありました)。まず第一に含蓄があります。それから、どの方も教員から受けた部落差別が一番痛手として残っているというお話は注目に値すべきものでした。 とはいえ、これが学校現場で行われたら、子どもたちの反応はどうだったでしょうか。ひと昔前の世代の方の被差別体験を聞いた率直な感想は「三十年も、四十年も前のお話だから、今とは違う」であったり「ボクらワタシらがあなたに何かしたか」であったりするのは仕方がないこととしていったん認めてやって、他にありませんかと粘り強く聞いていけば「先生がそんなことするなんて驚いた、信じられない」というような発言もきっとしてくれることでしょう。だから語り継いでいただきたいのです。 たとえ学校現場はご遠慮なされても、ご自分のお子さん、お孫さんには語り継いでください。 うちのダブルっちちゃん(四歳児)の祖父母は まだまだ遠慮されているのですよ。祖母はともかく、祖父、父はワタシが里帰り時、部落問題の話を出すと「うむ」と言って席を立つというパターンが続いています。でも祖母は、ワタシ一人を相手にでも 根気欲話してくれています(うちに限っては部落であっても女性より男性の方が 部落問題をタブー視する傾向が強い。単に面倒なだけとでも?どうよ)。 学校の子にはすぐには無理でも、自分のおじいちゃんが部落差別受けたという話を聞く体験は、部落問題が他人事ではないダブルっちちゃんにとっては、差別に対する怒り、差別に負けない力に直結するわけです。体験を通してしか学べないものってあると思います。 そういうわけですから、どうか三十年、四十年前子どもだった方に部落差別体験を語り継いでいただきたいと思います。同時にその方たちがされているように、「同和教育の廃止」を言うような先生にはならないでほしい、結婚差別をする親にはならないでほしいというようなお気持ちも、子どもたちにわかるように伝えていただきたいと思います。
「何を、誰が、いつ、どこで、どんな目的で、どんな方法によって」が知りたい
これまでの同和対策、同和教育を見直し、同和問題、部落差別は「見ざる言わざる聞かざる」の手法で解消に向かえると結論を出した人がいました。 部落差別にふれることをタブーだと思っている従来の人々と 同じ結論を出したわけです。 (そういう考え方を間違っていると言うつもりはなく、かといって、考えを理解することもできないワタシですが、考え方の背景を理解したいという気持ちだけは、人一倍強いと思います。また、世界の人権擁護の潮流は無視できないものとしてあり、これから紹介はしますが、それを持って自分の考え方が正しいと言うつもりもありません。) かつて「見ざる言わざる聞かざる」の方法で二百六十年間 安寧した時代がありました。はたして、それが二十一世紀にも通用するのかといった視点で、少し考えてみました。 結論から先に述べると、国際化の時代を迎えた二十一世紀、次世代に「見ざる言わざる聞かざる」を引き継ぐことは、国際人の育成という世界の要請に逆行するものであり、島国日本ならではの発想なのでしょう。
ただ、「見ざる言わざる聞かざる」を主張する人のバッグ・グラウンドに何があるのかを探ることは 一番意味のあることですが、今まであまりされてきませんでした。 今回それを問うたことにより、自分は成人するまで、部落問題をまったく知らず、部落問題を独学で学んだので差別、偏見を持たずにすんだとか、自分の地では部落差別はほぼ解消しているとかいった原体験が明らかになりました。 しかし「自分の地では部落差別はほぼ解消している」という時、親も、きょうだいも、小・中学校を一緒に過ごした友人たちも、「成人するまで、部落問題をまったく知らず」だったのかどうか等を聞いてみるという行動を 実際に起こしたのかどうかということを思います。実際問うてみると、その人たちは、部落問題に対する自論・自説を持って行動を起こさなかったことを正当化してしまうのでした。 そうして、知識だけ持って実践を伴わなかった主張は、傷を受けていないので、とても綺麗なのでした。
国際化、地球市民とは外国に行くとか外国語が喋れるとかいうことではなく、あらゆる人に対して差別をしない人になることだといいます。 まず自分から一歩出ること。家庭、地域といったくらしの中で 具体的にどう実践していこうかと考えを巡らすこと。それが、世界という大舞台に立ちうる自分育成につながると、ワタシは信じたい。 カリフォルニア出向中の義弟にも確認してみたところ、今年、アメリカでは一月二十日はアメリカ黒人の地位を向上させ、人権差別撤廃をめざした黒人リーダー キング牧師の誕生日(15日)を記念しお休みだったそうです。テレビ・コマーシャルでは、生まれたばかりの赤ちゃんが画面に現れ、「生まれたばかりのこの子には、差別意識など全く無い。そのまま差別の無い人間に育てていくためには、家庭や地域社会からまず差別を無くそう!」というタラップが流れているそうです。 ひるがえって日本は、次世代の人たちにバトンタッチできるものを何か作るという発想では非常に遅れているのではないでしょうか。 事実、国連を通じて世界の人々は日本の部落問題を知っているのに、この国の人々は部落問題を説明できないという状況にあります。 次はBBSでの対話です。 --------------------------------------------------------------------- 「部落問題とはどういったものかということを正しい理解をしてもらうために、説明するとどうしても長々と話してしまうということによくなりがちですが、最近、私は毎週水曜日に英会話に通っているんですが、そこで部落問題の話になり、英語で説明しないといけなかったので、日本語でも説明するのにも困難なのに、そのうえで英語になおさんといかんので、かなりのむずかしさがありました。ていうか、ほとんど伝えきれてなかったですわ(泣) まあ、私の語学力不足もあったんですけど、部落問題は世界の中では理解しにくい差別(見えない差別だからといわれた)のようで、日本特有の差別であり、日本人でも理解しにくいものが、ましてや外国人が理解するのにはかなり大変なことがわかりました。 でも、その英会話の先生は、しかしながら、今現代の日本社会における部落問題にたいするマイナスイメージ的なとらえ方といいますか、価値観といったらいいんでしょうか、そんなものがすでに刷り込まれていたようで、 ①部落という言葉は使ってはいけないと聞いた ②部落問題は日本人に対して話していけない、触れてはいけない問題であると聞いた といったようなことを英語で言ってました。
ほんまに、部落問題を伝えることはむずかしいわ・・・。」 ---------------------------------------------------------------------- 「見える」違いが差別の根拠になるなら、なぜ「白人差別」とか「健常者差別」が無いのですかと、お尋ねしてみられるとか・・・。結局ののところ、差別は、白人が自分たちの利益を追求する上で、黒人の肌の色が黒かったことが都合よかったということではないでしょうか。差別を「見える」「見えない」で区別してしまったら、「見える」=「ゆえある」黒人差別をする人がいるのはやむおえないけど、「見えない」=「ゆえなき」部落差別をする人はけしからんということにもなりかねない。だからやっぱ、差別の根っこはいっしょだということで、部落問題にも触れてもらわんといけないと思います。それには、周囲(日本に住んでいる私たち)がまず変わらねばと思います。 --------------------------------------------------------------------
手元にある、ルース・バージンさん(愛媛大学農学部留学生担当講師)の「外国人の見た日本人の人権」の記事(愛媛県同和教育協議会会報より抜粋)には、「アメリカの多くの人は差別をなくすることはとても難しいということは分かっているので、心を痛めています。でも私たちはその問題が存在することは知っていますし、その問題について何かしようと努力している人もたくさんいます」とあります。
2002年07月22日(月) |
「イエ意識」1874~1998 |
 (明治以前の人々はみな「事実婚」をしてきた。1874年、日本に初めて「婚姻契約」という言葉が登場し、その翌年1875年に、福沢諭吉を証人として、森有礼と広瀬常が婚姻契約を交わしている。 同性どうしの婚姻契約もあった。1899年、小原染末と安井タメという女性同士が 婚姻契約を交わしている。つまり、明治にはすでに欧米が進んでいた道をたどろうとしていた人たちがいた。
しかし、明治以降の戸籍制度の確立、「家制度」の登場により 人々は引き戻されてしまった。)

血縁にもとづいて編成された人民の集団を「戸(こ)」といいます。卑弥呼から約500年後に古代律令体制が成立しました。 古代律令制下の戸は、複数の世帯からなる大家族(複合大家族)で、1戸あたりの平均人数は20数名でした。 律令国家が人民を戸単位で掌握するために作成した基本台帳が「戸籍」で、租税(調・庸)を賦課するために作成した台帳が「計帳」です。計帳は毎年作成され、戸籍は6年ごとに作成されました。
古代の「家族法」では、相続権は、男女ともに相続する、妻の財産が独立したものとみなす、となっていました。大宝律令は、中国(唐)をモデルにつくられたものですが この条文は中国の男子相続とは異なる日本独自のものです。 また、婚姻可能年齢は男15歳・女13歳(男女差2歳)となっていました。
しかし、やがて、律令制の変容とともに、戸籍制度は効力を失っていきました。
民法編纂は1870(明治3)年司法卿・江藤新平のもとではじめられました。この民法(旧民法)は、フランス法学者ボアソナード指導のもと ヨーロッパ風の家族制度(個人の権利を重視)を基準とされていました。 ところが、東大教授・穂積八束(ほづみやつか)や法曹界・政界の保守派は、日本は天皇制的家族国家であり、キリスト教思想にもとづくヨーロッパの家族制度をそのまま取り入れようとするこの民法は 日本の美風をそこなうと非難しました。 そして、ボアソナード民法を大幅に修正し、戸主(家父長)が家族を従属させる「家」制度を成文法化し、男女「不平等」に基づく明治民法(新民法)が1896年・98年に公布されました。 この戸籍が登場したとき、「これは人権上許されない」と 江藤新平のあとを継いだたくさんの人たちが批判しました。政府の保守的な人たちも「この制度は命脈50年」つまり、やがて人権意識が人々の中に高まってくれば廃止せざるを得ない、50年で潰れるだろう、と言っていました。明治政府も、戸籍制度が潰れてもいいように、別な制度(欧米を真似た身分登記という制度)を一方では用意していたのです。 ところが、実際この制度を存続させたまま もう100年を過ぎてしまいました。この国は「50年では潰れない」、「家制度」で国民を引っ張っていくことが出来るという自信を手に入れました。
●史料 民法(新民法)
第749条 家族は戸主の意に反してその居所を定むることを得ず。 第750条 家族が婚姻または養子縁組をなすには戸主の同意を得るこ とを要す。 第813条 夫婦の一方は左の場合に限り離婚の訴を提起することを得。 一、配偶者が重婚をなしたるとき。 二、妻が姦通をなしたるとき。 三、夫が姦淫罪によりて刑に処せられたるとき。・・・ 第970条(家督相続人の順位) 一、親等の異なりたる者の間にありてはその近き者を先にす。 一、親等の同じきものの間にありては男を先にす。
(出典「官報」) 明治民法は、「妻は婚姻によりて夫の家に入る」と定めていました。 「家とは戸籍のことである」と定義しています。欧米には「戸籍」は翻訳できないので、「戸籍」を「家」と言い換え、「家」を「ファミリー」と訳させ、非近代的な「戸籍制度」の説明をさけました。 「夫の家に入る」といっても、実際には夫の「戸籍」「氏」に人ったわけです。だからΓ入籍」という言葉ができ、妻は夫の氏を名乗ることになりました。
1947年の5月3日に新憲法ができます。「個人の尊厳」「両性の平等」を大きな柱にしました。 しかし「家制度」は まず「家」が大事で、個人の尊厳を否定しています。また「家」は家父長制ですから男系優先で「両性の平等」にも反します。旧民法と新憲法とは両立しませんから それから半年後(翌年の1月1日)新民法ができました。
しかし、「家]とは戸籍のことですから、戸籍を廃止しなければ「家」を廃止したことにはなりません。この間、「日本国憲法の施行に伴なう民法の応急的措置に関する法律」に基づく「戸籍法の取り扱いに関する通達」では、「家とあるところは戸籍と読み替えて仕事をせよ」と言っています。元々「戸籍」と書くべきところを「家」と書いたのが、新憲法になり「家」が使えなくなったために、「家」を「戸籍」と読み替えろ、ということでした。 1948年にできた新民法が現在の戸籍法になります。そこで、今まで「家」と書いてあったところはすべて「家」は「氏」に変わっていました。 つまり「家」と「戸籍」と「氏」とは全部イコールで結ぶことができるわけです。
この状況を大きく変えたのが、1960年代末から70年代の初め頃に起きた女性解放運動(リブ運動)でした。 60年代末は世界中がスチューデントパワーといわれる学生運動も栄えた時代で、そういう中で、「子どもに対する差別はおかしい(婚外子差別の撤廃)、夫婦が同氏であることを強制されるのはおかしい(夫婦別姓の容認)」の声も生まれてきました。 そしてこの2点は、リブの運動がなくなったあと、フェミニズムに引き継がれ、国を動かしてきています。
リブはもう一つ、「結婚そのものを疑う」という大きな問題提起を残しました。いわゆる「事実婚」といいますが、戸籍制度は婚姻を届けてもらうことによって成立するので、これは戸籍制度と真っ向から対立することになります。
欧米では、婚外子差別の撤廃、「事実婚」の容認は もう確立してしまいました。それは婚姻契約の受け入れにもつながり、「同性結婚の容認」に進んでいます。個人は完全に自由であり、一つの尊厳として見なされ、幸福の追求単位と考えられるならば、当然その人たちの幸せの追求権を保証しなければなりません。すでにカリフォルニア、デンマークでは同性結婚か確立されています。 人権擁護の大きな流れの中で、日本も、民法の改正により、夫婦別姓と、婚外子の差別(2対1の相続差別)の廃止を明確にうたっています。さらにその先には「事実婚の容認」、「同性結婚の容認」が必ず人ってくるでしょう。
部落では、結婚差別の被害者が自殺する事件が相次ぎ、当時すでに戸籍制度が大きな問題になっていました。これをテーマに取り上げて、岡林信康などが歌を作り、そして一人の女性が「未だに壬申戸籍(戸籍が登場した明治5年が壬申の年だったので、「壬申戸籍」と呼びます)と同じように被差別部落の出身者であることが「エタ」と厳然と記載されている戸籍を発行してくる、謄本としで証明される、そんなものを許していいのか」と朝日新聞に投書しました。明治5年(1872年)は、「解放令」が出た翌年であり、部落民の場合も戸籍の族称欄には「平民」と書くべきところが、「旧穢多」「新平民」と書かれる場合もあったのでした。 この投書が始まりで、部落解放同盟は壬申戸籍の廃止運動を起こし、壬申戸籍は全部ダンボールに入れて封印され、法務局の倉庫に送られました(1968年)。
それから約40年後の、平成9年度定例会で、高知県議会議員の森田益子さんは以下のように訴えておられます。 「大概の結婚の問題に、血が濁る、先祖に申しわけがないとよく言われます。今回のケースも私の孫の相手の母親も、自分の命にかえても部落とは縁を結びたくないというのは、一体このような社会意識は、日本古来からの家意識、汚れ意識の差別文化とも言えるのではないかと思われます。このような考えが女のお産を汚れとして扱われたり、そして今も多くの被差別部落が氏神様の氏子にさえされておりません。いわば、神様も私たちを汚れ多い者として忌み嫌ってきたのです。」
戸籍制度によって不利益をこうむるのは部落の人だけではなく、このことから 部落解放運動では、新しい戸籍制度(出生届、婚姻届、死亡届などの個人情報の分散によって、個人のプライバシーが守られていく制度)の成立を求め、婚外子差別の撤廃、夫婦別姓の容認、事実婚の容認、同性結婚の容認等に取り組む人たちと連携していくことが ますます必要であると言えます。
(次回は「ケガレ意識」との対話のために です)
参考:九三年の「総務庁による国民の意識調査(二万四千八十人対象)」より 部落外で、結婚にさいして「家柄をいつも気にしている」 一四・〇㌫、 「おかしいと思うが、自分だけ反対しても仕方がないと思う」 三一・〇㌫、 「まちがっているから、なくしていかなければならないと思う」五三・五㌫ (今日でも四五・〇㌫もの人びとが、結婚にさいして相手の「家柄」を気にして いる風潮がある) 参考文献・資料 「高校日本史講座」(松井秀行) 「戸籍がつくる差別」(佐藤 文明) 「人権のあゆみ」(解放出版社)

>補足 現在の戸籍は、氏を同じくする夫婦および未婚の子をワンセットに編製しています。 よって、氏を持たない天皇・皇族は皇統譜、姓(family name)を氏とはみなされていない外国人は外国人登録で管理されています。 戸籍簿の管理は法務省の監督下、本籍地の自治体が行っています。 今日、戸籍制度を持つのは日本、台湾、韓国の三地域だけです。これは、日本が殖民地支配をしていたときに、1896年「台湾戸籍に対する告示8号」、1920年「朝鮮戸籍令」などによって強制してきたものです。朝鮮民主主義人民共和国は1945年、日本支配からの解放とともに戸籍を廃止しています。 台湾・韓国に今も戸籍が残されているは、両地の支配に貢献していると同時に、出身地差別や女性差別の温床として批判もされています。
2003年3月の第6回GID(性同一性障害)研究会(司会:東京家庭裁判所医務室・精神科医・針間克己さん)で、神戸学院大学法学部教授で、法と生命倫理の専門家である石原明さんが、性別変更を考える際に大きな問題となる戸籍制度について「歴史的に見れば、徴税、徴兵、土地政策など、国のための制度であり、個人のためのものではない」と指摘しています。
2002年07月07日(日) |
人種差別撤廃条約1965~2001 |
人種差別撤廃条約、すなわち「あらゆる形態の人種差別撤廃に関する国際条約」(The International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination) と 在日外国人、部落差別の撤廃について
1. decent:「世系」ではなく「門地」だっつーの。
この条約は「同対審」答申と同年の 1965年に国連で採択され、最初の同和対策事業特別措置法が制定された同年の1969年の1月に、27カ国の加盟により国際条約として発効しました。日本は1995年12月、村山内閣の時 146番目にようやく批准しています。故市川房枝議員が政府に早期批准を迫ってから 25年もの月日がかかりました。 条約は 対象となる「人種差別(racial discrimination)」を「人種(race)・皮膚の色(color)・世系(descent)・民族的・種族的出身に基づく差別(national or ethnicity)」と定義していました。この「世系(decent)」をどうとらえるかが、検討課題としてまず様々な国で論議されました(「世系(descent)」についての議論が一番早かった国は インドで、インド政府は日本政府と同じく、カースト制度に基づく問題は条約の対象にならないという態度を取っています。またカースト制度の問題はネパールやモーリシャスやバングラディッシュにもあります)。 英語で書かれている「decent」は 一般的には「門地」と訳され、この条約を日本で最初に紹介した龍谷大学の金先生もこれを「門地」と訳しています。憲法にも同じ「門地」が使われおり、そこでは明らかに社会的差別まで含んでいました。「門地」は、普段使われる日本語では「出身」や「家柄」に当たり、当然部落差別も対象になりました。そこで日本の外務省は 条約の解釈として「社会的差別までは対象にならない」、「『門地』と訳せば、憲法と整合性が取れなくなる」(外務省筋)との立場をとり、日本語ではなく中国語の「世系」を採用しました。 2.人種差別撤廃委員会(CERD)は 日本政府の 在日外国人に対する考え方についても懸念、勧告した。
さて、この条約では、本来加入してから1年以内に国内での実施状況についての報告書を国連・人種差別撤廃委員会(CERD)へ提出する義務が課せられています。しかし、日本の政府報告書は、2000年の1月にようやく第1・2回報告書としてまとめて提出されました。その後、報告についての審査が行われ、2001年3月20日にCERDは21項目の勧告を含めた日本政府報告書に対する「最終所見」を採択しました。 この最終所見で 日本政府は21項目の懸念事項及び勧告が突きつけられました。 まず、日本政府の報告書は被差別部落民の問題を隠そうとしていると指摘を受けた尾崎課長の「『descent』はあくまで人種や民族、更には種族による『descent』を意味するもので、部落問題のような同一民族内の社会的出身を理由にした差別まで含むものではない」という答弁に対し、「条約の第1条に規定されている人種差別の定義の解釈に関して、委員会は締約国とは反対に『世系(descent)』という文言が独自の意味を持ち、人種や種族的出身、民族的出身と混同されてはならないと考える。従って、委員会は締約国に対して部落の人々を含む全ての集団が差別に対する保護、及び第5条に規定されている権利の完全な享受を確保するように勧告する」とされました。CERDは 部落差別も「descent」に含まれると断言しました。
また、石原慎太郎東京都知事の「三国人発言」について指摘を受けた尾崎課長の「第三国人とは単に外国人を指したもので、また石原都知事はその後、在日外国人の人権を積極的に守っていくとの見解を表明しており、差別の意図はなかったので問題はない」というの答弁に対し、委員会は「高い地位にある公務員による差別的な性格を有する発言並びに、特に第4条-Cの違反の結果として、当局はとるべき行政上又は法律上の措置をとっていないこと、及び当該行為が人種差別を扇動し、助長する意図がある場合にのみ処罰されうるという解釈に懸念を持って留意する」としました。
そして「義務教育というものは日本国民を育てる教育であるから、外国籍の子どもたちに強制するわけにはいかない」という日本政府の考え方に対し、CERDは「義務教育における民族教育を認めるべきだ」と指摘しました。 在日韓国・朝鮮人に対する差別撤廃の問題については、日本政府報告書審査の担当者であるバレンシア・ロドリゲス委員は、在日朝鮮人に対する暴行等の事例をみたとき(この時、民族衣装を着た学生に石を投げつける行為も指摘されましたが)、日本の現在の刑法では不十分であり、国内法を整備が求められる、また 第5条にもあるように外国人の排除は差別であり、地方参政権について統一的な見解を出すべきであると指摘しました。
*参考資料 「21項目の勧告突きつけた国連・人種差別撤廃委員会『最終所見』 友永健三さん(部落解放・人権研究所所長) 「半月城通信」
*参考1.人種差別撤廃条約に対する定住外国人の反応(国内の定住外国人は百三十五万人でその半数近くを韓国・朝鮮籍が占めます) 在日本大韓民国民団の徐元チョル国際局副局長は「遅きに失したが、我々にとってはよって立つ根拠になる」と評価しました。同氏は今後の方針として、各種の法律で対象を日本人に制限した国籍条項の撤廃を求め、 1)公務員採用と地方参政権 2)民族教育の制度的保証など民族権 3)戦後補償などの社会補償 などの実現を迫っていくとのことでした。 一方、在日本朝鮮人総連合会も「批准を全体的には肯定的に受け止めている。これを契機に差別をなくしていかなくてはならない」と語っています。
*参考2.「三国人発言」について 石原という病原菌(デジタル朝鮮日報、社説 2001.4.11より) http://japan.chosun.com/
作家出身の石原慎太郎東京都知事が数日前、陸上自衛隊の創隊記念式典の場で「不法入国した多くの“3国人”と外国人が凶悪犯罪を犯している」とし「大きな災害が発生すれば彼らが騒動を起こす可能性がある」と発言した。われわれは率直に言って一介の都知事の主観的見解に対応する価値を感じない。ただ、われわれは軽蔑する気持ちと同じぐらい、日本の狂信的な極右がいまでも存在している事実に唖然とさせられる。 彼がいうところの「3国人」が在日韓国人と台湾人を指すのかどうかには関係がない。われわれがあきれていることは、一部といっても日本の官僚や知識人が他者をみる視線にあり、あまりにも偏狭であまりにも自己中心的だという点だ。 石原の発言は自国の国民は立派で外国人は「潜在的犯罪者」という考えだ。世界が一つの共同体へと進んでいる最近の状況で、どの国であれ外国人と共に住むのが当然なのに「外国人を敵」としてみていることは、国粋主義を超え国際社会で日本を孤立させ自らを滅ぼす行為だ。 日本のマスコミや知識人の憂慮もそこに由来する。『毎日新聞』は「現職知事の発言は外国人差別として映る」と報道した。『朝日新聞』は「在日外国人を中心に強い批判が起きている」と伝え、『読売新聞』は「在日韓国人をはじめ外国人を蔑視する発言」と指摘している。 われわれは外国人との共存を考える知事が、かえって「旧時代的な発想に基づいた穏当ではない発言をしたことに憤怒とともに危険性を持たざるをえない」と在日民団の見解に全面的に同意する。
2002年07月03日(水) |
姫だるまの社会科学例会2002 |
青春を生きる人たちへ vol.1「近代主義批判」
古来、未開人はアニミズム(万物は霊魂にみちみちているという信仰)に見られるように、自然と人間との間に区別をおいていませんでしたが、2500~2600年前ターレスが宇宙の根源を水であると言い、自然を自然として人間から区別して客観的に説明しました。宗教的なもの、非合理的なものを退けて客観的な法則を最初に問題にした彼は「哲学の始祖」と呼ばれ、ここが哲学の発生と言われています。 主観と客観を区別し、人間が物質から自己を区別する自己意識は、商業と世界貿易の発展で平等が万人の目に見えるようになった近世に到って、ようやく確立したと言われています。つまり、近代的自我の確立はこれらの基礎の上にはじめて可能となりました。 この「近代的自我の確立」の取り違えが、戦後の全般的な思想的無風状態の思想的根源と言われています。政治的社会的解放によって決着しない個人の内的世界の拡充において人間は純粋に人間的でありうる、すなわち純粋なるエゴに人間の本質があるとする考え方を近代主義といいます。 この近代主義がくせもので、これに思想的根源をおいているのが「民主主義の根本は多数決である」という考え方です。すなわち、近代主義は多数決以外に、真理と「民主主義」のよるべき客観的基準が存じえません。これを「多数の暴力」と称します。 繰り返しますが、「多数の暴力」、「民主主義の根本は多数決である」という考え方は近代主義から出てくるのであって、民主主義から出てくるのではありません。それは、教育の客観的基準である科学と基本的人権の権威を否定し、一切の社会理想に対して懐疑的な態度を取る近代主義にその思想的根拠を置いています。近代主義者が一切の価値と権威を否定するのは、エゴ(かけがえのない「個人」)とその利害(主観・実感・信念)を真善美の唯一確実な基準に高めたいからです。 同時に「少数意見の尊重」という原則も近代主義のこの同じ原理から出てくるものです。真理の客観的基準が否定されたところにおいて持ち出される少数意見の尊重の主張は、単に少数者のやましい利害の主張という以外の意味を持ち得ないからです。 自己についてのみ配慮するに到った近代主義は もはや現実を正視し得ず、理論的には 実践の基になる外的現実の把握の抽象性、無性格性となって現れ、思想的には資本の自由(権力)と人民の自由(権利)を区別できず 階級対立を曖昧なものにすることとなって現れました。こういう純粋なエゴの自由は、他人の服従を前提としてのみ可能であり、それは「上」に対する無力な反抗が直接「下」、「他」に対する専制であるような自由です。 近代主義者が、全体としての人間を自我(個人)と他我(人類)、内的現実と外的現実に二分割したものを統一する基礎は、理性と人類性にあり、そこに人間の本質があります。それを論証し「純粋なエゴに人間の本質がある」とする近代主義の原理に打撃を加えたのが唯物論哲学でした。
人間の本質は人類性と理性にあること。民主主義がそれに基づいてのみ可能となる基本的人権とは、この人間の本質の、すなわち人類平等の権利(自由)の法、規約における表明とその保証に他ならないこと。この基本的人権のうちにこそ、自然、社会の物質的、経済的必然性と異なった、政治的組織における自由と進歩の客観的基準があること。自由と主体性は、客観的必然性と基本的人権に基づく、すなわち科学と民主主義に基づく理性の自律のうちにのみ存ずるということ。
これらを再確認しておくことが、近代主義の名の下にむきだしのエゴイズムが持ち出され、それがファシズムに発展しようとしている時、特に重要でした。それに伴う民主主義の概念の混乱についても、問題はどう立てられるべきかを提示する必要がありました。
民主的決定とは基本的人権に基づく決定のことであって、多数決のことではない。基本的人権に基づく判断は、それがただ一人によって主張された場合でも、それは全人類の意見であり、絶対多数の意見である。 多数決は行動統一の原理であり、そういうものとして多数決原理は極めて重要な意義をもっている。しかし、それが有効で正当であり得るのは、その決定が基本的人権に抵触しないそのかぎりにおいてである。 基本的人権は一切の法、一切の決定に優先するものであり、それの侵害に対して有効なとりうるべき一切の手段を尽くしてたたかうことは人間に課せられた神聖な義務であり権利である。(ついでに言えば、科学と基本的人権は、教育と道徳の基礎・原理であり、そこには中立はあり得ず、そのために献身することは教育者の最高の倫理である。)
以上のことから、近代主義と唯物論哲学との間には、自由(人類平等の権利)の概念に原理的な、絶対的な対立があったことがわかると思います。すなわち、前者は民主主義の一分子も含まない「エゴ」の恣意の自由を表明する立場、後者は基本的人権のうちに自己の自由とそれの真の表明を見い出す立場です。 近代主義者はまた、唯物論的立場は「個性」を卑小化するとも吹聴していますが、個性は生理的遺伝に基づくものであって焼き直さない限りそれの発現を阻止したり変更したりすることは不可能であると言えるでしょう。科学と民主主義のために献身した人々は、そのことによってより偉大な個性になった(知性はいっそう鋭くなり、意志はより強固となり、愛はより深くなった)だけだと思います。 参考文献「マルクス主義と自由」(森 信成著・合同出版) 青春を生きる人たちへ vol.2 歴史における個人の役割
理性的なもの(科学的な真理とか民主主義の発展とか基本的人権)が実現されていくためには、非合理的なもの(宗教とか国家とか資本とかの人間を疎外しているもの)を相手にしなければいけません。これは簡単にいくものではないことは誰が考えてもわかると思います。その実現の保障はあるのかを問題にする哲学を史的唯物論といいます。 歴史がどれだけ進歩したかをみるには 一貫しているものがなくては測れません。既に述べましたように、科学とか民主主義とか人間の個性の拡大と獲得に向かって進むことが世界史の進歩という概念です。 よく、人間の本性は善であるとか悪であるとか白紙(タブラ・ラサ)であるとか言われますが、善とか悪とかいう場合、それを区別する基準は何かという問題があります。既に言いましたように、世界史の進歩の基準に沿う行為が一般的に善であると言えます。これに対して、人類の利害に反して自分の利益をはかる行為は悪です。人間は本来社会的な存在としてそれほど悪に生まれついていませんが、一定の社会関係のもとでは、悪が人間の本質と言われるようになります。 カントやルソーが理性的なものを実現しようとする場合、まず人間の本性は何かということから考えました。そして、それに従って理想の社会を頭の中で考え、その理想を知っている人、つまりエリートが現実の人々を理想に向かって引っ張っていきます。この考えは一般に、啓蒙主義ないし空想的社会主義と言われていますが、理想と現実のつながりを問題にしないので空想的なものになり、結局のところ成功の保障が存在しません。よって、理想と現実、つまり自由と必然、理論と実践がいかに統一されるかを解決する必要性が生じてきました。 啓蒙主義の欠陥は、「人間は環境の産物であり(必然の領域)、しかも環境は人間が作る(自由の領域)」と二元的にとらえたことにより、「古い環境に従って古い思想が生まれるが、新しい社会環境がつくられるためには新しい思想が既に発生していなければならない。そうすると、新しい思想はどこから発生したのか」という矛盾に陥ることです。 この矛盾に対し、啓蒙主義者は、新しい思想、価値理念を「無からの創造」によって説明しました。「新しいものは無から出てくる」とは、教祖や天才が急に思いつくということになります。新しいものがどこから発生してきたのかを説明できずに「無からの創造」をいう場合には、これは説明ではなく無説明と同じことです。私たちが理論的・理性的にものを考えるという場合には、「無からの創造」という考えを否定しなければならないと思います。 新しい環境は、古い環境の体内に必然的に生まれてきます。これが発生してくると、これにふさわしい思想が生まれてきます。したがって、この場合には、意図や願望から独立な、客観的な世界史の必然性に基づいて、新しい思想が発生してきたことを説明できます。この考えを科学的社会主義といいます。 世界史の必然性の認識が非常に進んだのは、フランス革命の後においてです。それ以前は、特定の人間が、特に英雄が歴史をつくると考えられていました。 社会問題というのは、それを否定する条件がすでに成熟してきている時に、同時に起こってきます。つまり、社会問題はそれの解決の条件と一緒に私たちに与えられるわけです。ですから私たちは現在の矛盾を否定して新しい社会を作ろうと思う場合に、頭の中でつくられるべき社会のことを考える必要はないわけです。それの解決の条件がすでに現状の社会のうちでつくられているのだから、それをさらに発展させるという方向をとれば良いわけです。 一定の思想が人々の間で大きな影響力を持つのは、人々がこの思想を待望している時、広範な人々の間にこの思想を受け入れる地盤が出てきた時、しかもこの思想を明確に表現した場合に限ります。この意味で、天才とか英雄とかは、新しく出てきた問題でみんながぼんやりと感じ欲しているこの一番基本的なことを、最も強く欲し、それを実現するのに最も指導力を発揮する人ということになります。天才というものは条件があれば非常にたくさん出てくるものです。例えば、ギリシャのアテネの時代には、非常に小さい町でしかも短期間に、哲学家とか悲劇作家とか非常にたくさんの天才が生まれました。ルネッサンス期のイタリアでも、短期間にダビンチとかミケランジェロとか多くの天才を生み出しましたが、そこは人口10~20万くらいのフロレンスという都市でした。ところが、中世期は非常に長く続いているのにほとんど天才を出していません。それから薩摩藩とか長州藩の下級武士には明治維新の時に非常に才能のある人をたくさん生み出しています。 一方、思想家は新しく出てきた問題でみんながぼんやりと感じ欲しているこの一番基本的なことを明確に表現する人です。例えば、天下が太平である徳川時代の初期に身分制度はけしからんと言ったところで何を言っているかというだけに終わりますが、幕藩体制の体内に非常な矛盾が起こっている時にはこれを放棄して四民平等の明治維新に進むべきであるという要求はみなの受け入れるものになります。部落差別という現状の矛盾をなくして、差別のない新しい世の中をつくるという思想は、古い生産関係の内部においてはまだ理想にとどまってはいますが、それが必ず実現されるという条件がこの内部にあります。この条件の必然性が顕在化してくると、これを実現しようという理想が人々の間に生まれてきます。理想が必然性に依拠しているものは、必ず実現され得る理想であるから、この場合、理想と現実の間には分離はありません。理想が明日の現実になります。
一定の条件がある場合、個人は一定の発展の方向というものをかえるわけにはいかないけれども、それがどのように具体的な過程を経て、どれだけ急速に実現されるかというところで、歴史における個人の役割は非常に大きな意味を持っているわけです。
参考文献「唯物論哲学入門」(森 信成著・新泉社)
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