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■ ◆◇◆風の音 第3話◆◇◆
―――最後に頼みがある。 そう言って托雄は英生を見つめた。
「何ですか?私にできることならば何でもお助け致します」 「いや、助けはいらない。ただ…」 托雄はそこで言葉を止めると、佇んでいた英生の腕を引き寄せ、そのまま思いがけないほどの強い力で抱きすくめた。そして、耳元に「英生」と囁く。それは、えいしょう、という僧名ではなく、あの頃、二人で戯れる時にだけ使った俗名の発音だった。 身体が思い出す。心が思い出す。 重なり合った胸はあの頃のものではないはずなのに、強く押し返すことができない。仏を忘れ、禅を忘れ、積み重ねた修行のすべてを一瞬にして忘れ、英生はその肩口の優しさに思わず顔を埋めた。 「…たくお」 小さく囁き返すと、ぎゅっと抱き締める腕がきつくなる。
しかし、すぐにその腕は英生を離し、托雄は「悪かった」と云って俯いた。英生は、煽られて発熱した炎が自分のなかでちりちりと燻るのが分かった。 「――――これが、あなたの決着なのですか?」 「ああ、そのはずだった」 托雄はゆっくりと顔を上げ、またあの人懐こい笑顔を見せる。少し無理をしているのか、口元が僅かに歪んだ。 「頼むよ、英生。もっとちゃんとおれを拒んでくれ」 「そんな…そんなことできません」 「ずっと会いたかったんだ」 托雄はそう言って英生の白い頬に腕を伸ばしかけたが、しかしその手もすぐに離れていった。英生はたまらずそんな托雄の顔を凝視する。 「英生。また、会いに来てもいいだろうか」 「…困ります」 「そうか…そりゃあそうだろうな」 苦笑を洩らした托雄に、英生は小さく首を振った。 「違うのです。このまま姿を消されては、私が困るのです。お願いですから、会いに来てください。それで私の心が乱れるのなら、それはまだまだ修行が足りぬということ」 「可愛いことを言う」 その声は、10年前と同じ響きで、言っている側から英生は心を揺さぶられていた。 托雄はそんな英生を可笑しそうに眺めたあと、無造作に左手の指輪を外し、それを英生に手渡す。 「外されれば奥方に叱られます」 「知ったかぶりを言うな英生。いいんだ、もういらないから」 「どういう、意味ですか?」 小さく肩を竦めた托雄は、悪戯小僧の笑みを取り戻した。 「先週別れたんだ」 ぽとり、と英生の手から指輪が落ちて転がった。慌てて拾い上げると、すでに托雄は門に向かって歩き出している。 「托雄!」 「また会いにくる。それまでお前が持っていてくれ」
托雄は顔だけ振り向いて、右手をはらりと翳した。 夕陽を背負ったその姿は、やはり凛として、あの頃と変わらぬ強さを持っていた。
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最後までお読み頂きありがとうございました〜。
2001年09月30日(日)
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