たりたの日記
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2018年09月16日(日) 「たりたの日記」の読者のみなさまへ。

これまで、「たりたの日記」をお読み下さり、ありがとうございました。
また、お祈りや励まし、心から感謝しています。

この日記のしめくくりに、この詩を。

今日は死ぬのにもってこいの日だ。

ネイティブ・アメリカンの詩
Byナンシー・ウッド(訳)金関寿夫

今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやってきた。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑いに満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

【原文】
Today is very good day to die.
Every living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My land is peaceful around me.
My fields is filled with laughter.
My children have come home.
Yes, today is a very good day to die.

出典

今日は死ぬのにもってこいの日
ナンシー・ウッド 著
金関寿夫 訳/フランク・ハウエル 画
出版 めるくまーる 1995年

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たりたくみ 肥後美子は2018年9月16日午後7時57分に帯津三敬病院にて永眠いたしました。
本稿は2018/06/20 時点で夫である私、肥後晶に依頼されたものです。
葬儀、告別ミサは関係者のみで執り行いましたことを報告します。
これまでたりたくみ 肥後美子が日記を続けて来れたのは、皆様からの暖かなお言葉やメール、励ましがあったからだと日頃から申しておりました。




2018年09月11日(火) 抗生物質、終了

11日の朝6時、昨夜の看護師の呼びかけで目覚める。
「やはり、この1本目の点滴だけはやっておきましょう。その後の事は先生とご相談することにして」
彼女の立場とすれば、いくら患者の意思とはいえ、医者の指示なしに点滴をやめるのは、やはり困るのだろう。今朝は毎週火曜日の帯津先生の病室回診もある。その時には主治医の先生や、看護師も一緒だから、その時に、副作用の事を訴えることにし、大人しく点滴を受けた。

幸い、微熱も下痢もない。道場へ行くことにする。今朝の気候は帯津先生の、元極学という他者から受ける外気功のひとつ。30分ほど座っているだけだ。すでに、外部からの方々や入院中患者さんが20人ほど、座禅まくらや、椅子の上に座っていらした。
帰りぎわ、後で回診に行きますからねと、ビッグハグを下さる。

病室に戻ると、夫が、仕事に出かける前、毎朝の玄米スープ(梅干しと昆布で炒った玄米を煎じたもの)と、頼んだものや、郵便物を持ってきてくれていた。一緒に朝食をいただく。わたしは例の口内炎のために、食べたい梨も舌に染みるという具合だったが、パスタスープを何とか食べる。(病院食はほぼ食べられないので、数日前から断っている)
昨日よりも気持ちが元気になっていて、夫も安心した様子。

届いけてもらった本は、藤原新也の写真集「メメントモリ」バイリンガル版と、青木新門著「納棺夫日記」。どちらも全く異なる本だというのに、開かずとも立ち昇っている空気があたりを変えるような、何とも清々しい風を感じて、わたしの魂が今、必要としている言葉がそこにあることを直感する。ページを開くのが楽しみだ。

丁度その時、帯津先生が回診にいらっしゃる。
「先生が「死を生きる」でご紹介されていた本が今届いたところです。」
「そうですか。その本を読むと元気が、出ますよ。僕はもう何回も読みましたよ。」
主治医のH先生も、「この英語は原文のままですね、いい英語版だ。
ホメオパシー担当の看護師の方も、「わたしも
随分前に読んだわよ」
さすがにホリスティック医療のスタッフ!

早速、口内炎の事、抗生物質を終了したい旨、H先生にお話し、2つ目の抗生物質は1週間になるので、やめましょうと言って下さる。口内炎も、カビの一種ということで、口に含む軟膏の薬を出して下さる。


夕方は、帯津養生塾に参加する。ちょうど、お話しが始まることこで、すでに40人ほどの人が集まっていた。お話しの後の 「時空」という帯津流気功にも、座りながらであったが、参加する。
はじめの入院の時に比べると体力は大きく衰えているが、まだ身体を動かせる。


2018年09月10日(月) 入院12日目のこと

入院12日目。
初日からずっと続いていた抗生物質のおかげで、高熱は出なくなった。一方、全身倦怠感、下痢に続いて、口中に口内炎(実際はカンジタ菌)が広がり、それまで辛うじて食べられていた、みたらしだんごなども食べられなくなり、夫にもう後数日で昏睡状態に入ると思うし、わたしもそのほうが楽などと、愚痴をこぼしてしまった。
こうしてエネルギーがまだ残っている内に、帯津先生の言葉でいえば、全力疾走で、あちらの世界にジャンプしたいという願いは高まり、そんな祈りをしたのだった。

ところが、夜10時の点滴を受けながらはっと気づくことがあった。今のこの苦痛、これは2回目の強い抗生物質のせいではないか、前の病院に入院した時も同様な症状と、心の変化があったと思い出したのだ。今回の入院では初めての事だったが、使われている抗生物質をネットで調べてみると、注意すべき副作用として全身倦怠感、下痢、口内炎などの粘膜の炎症が挙げられていて、そういう場合は使用を中止するとある。

夜勤の看護師に、その事を話し、今夜の抗生物質の点滴を最後にして、明日の早朝6時の抗生物質は医師からの指示の前でもストップして欲しい旨伝える。看護師の中ではとりわけ優しく話しが通じる方だったので、こちらの気持ちを汲んでくれありがたかった。

昨日から追加してもらった下痢留めの薬が、効き始めたのか、深夜には下痢も落ち着き、楽になっている。
また、土曜日から月曜日かけて、1リットルずつ、計3リットルの腹水を抜いてもらったので、腹部の圧迫感はなくなり呼吸も楽になっている。明日の朝は帯津先生のなさる外気功にも出ることができるかもしれない。そんな希望を持って、朝までの平安な眠りをいただく。

(翌日9月11日の夜に記す)


2018年09月09日(日) 孫たちと一緒に

今日は長男夫婦が、れお、めいみ、あいみを連れて、次男はそうじろうを連れて病院に来てくれる。

子どもたちは、わたしたちの家に来たときも、寝ているわたしのベッドによじ登って、ハグしてくれた後は、しばらくそこで、おしゃべりしたり、おやつを食べたりして寛いでくれるのだが、病院の狭いベッドにも同じように靴をぬいで、よじ登ってくれるのがうれしかった。

手回しオルゴールを病室に持ってきていたので、子ども達の知っているような童謡やジブリの音楽を回して遊んだり、大分の友人が送ってくれた、庄内梨を美味しそうに食べたりと、見ているだけで嬉しくなる。

昨日、溜まりに溜まった腹水をまずは1リットル抜いてもらったからか、食べたいものを買っていくからと智ちゃんからラインが入っていたので、シュークリームをリクエストした。これも久々に、暖かいカフェラテといっしょに食べたりした。

智ちゃんが、アロママッサージをしましょうと言ってくれるので、子ども達を2人のパパたちが連れ出し遊んでくれている間、マッサージをしてもらった。
1時間も経ったのに、まだ子ども達の声が聞こえないので、電話してみると、外にお散歩に出たのではなく、同じ階の談話室でおとなしく遊んでいたらしい。家だとすぐ喧嘩になって、誰かが泣くか叫けぶかするのに、1人、小さな弟分の従兄弟がいたためか、3人とも、そうちゃんのいいお兄ちゃん、お姉ちゃんでいられたようだった。

来た時のように、また一人づつ、パパ達ともママとも順番にハグし、別れる。
なんて、優しい、良い時間。
2つのファミリーは、近くのファミリーレストランで夕食をしてから、長男は新しい住居のある世田谷へ、大阪に住む次男はまた明日来るために、大宮のホテルに帰っていった。

今月末には、今日はまだ日が立たず来れなかった 次男のところの はなちゃんを見せに
来てくれると悠ちゃんからもテレビ電話があった。
5人の孫たちの祖母であれること、子ども達の家族とこのように気持ちが通う繋がりが築かれていることに心から感謝。








2018年09月07日(金) 「死を生きる」帯津良一著 読了

その後も、下痢、熱、腹水、足の浮腫みといった症状は続いているが、毎日のびわ温灸、月曜日と金曜日の鍼治療、水曜日と金曜日のアロマテラピー、太極拳1回、木曜日の音楽療法と、金曜日の帯津先生の講和には参加することができた。

ここ数日間は、談話室の貸し出し用の書架に置いてあった、帯津先生の「死を生きる」( 朝日新聞出版、2009年2月28日 発行 )に、没頭でき、読了。昼間はトロトロ状態なのに、夜は不思議なように意識がはっきりし、本が読める。
本の帯には「がん診療の第一人者が書き下ろした大往生のための書、いのちの旅立ちに
どう向き合うか」とある。

この本の著者の話しを先ほど、実際に聴き、この本に書かれているホリスティック医療に基づいた、様々な代替治療を実際に受けながら読むので、興味も湧くし、納得がゆく。何より、今のわたしの課題でもあるのだから、身に迫るものがある。

この本の中で紹介されていた、藤原新也の「メメント モリ」と、青木新門の「納棺夫日記」は以前から気にかかりながら読んでいなかったので、今が読み時とばかり、深夜にAmazonで中古本を注文。明後日には手元に届く。


2018年09月04日(火) 命のパンと共に

日曜日、月曜日と、夜になると39度くらいの熱。悪寒は伴わないものの、解熱剤のカコナールを飲んでも、熱はなかなか下がらない。

けれど、ゴム製の袋に氷と水を入れて使う、昔ながらの氷枕、その柔らかな水の感触と、水の中でぶつかりあう氷たちの優しい音に慰められる。

苦しい時に慰められるものは、祈ってくれている家族や友人の存在や、精油の芳香とか、グレゴリオ聖歌とか、いくつもあるが、命のパンの存在は大きい。身体を維持する食物を取り込むことが苦痛になっている今はとりわけ。

前回、8月26日の英神父の説教のライブが「福音おやすみ処」にアップされているものを繰り返し聞いては慰めとエネルギーをいただく。

いつだったか、帯津先生の言う「死に向かってエネルギーを高めていく」ってどういうことなんだろうと質問されたことがあったが、わたしにとっては、この命のパンを自分の内に取り込み続けていくことではないかしらと思える。
主の祈りの中にある、「日々の糧を今日もお与えください」という言葉の意味の深さ。


ここに説教のテキスト版を載せておこう。




2018-08-26だれのところへ行きましょう
英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 6章60-69節 
(そのとき、)弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」十

 
今日の福音書はヨハネの6章の最後のところにあたっています。ヨハネの6章の一番最初のところで、パンを増やして多くの人に食べさせたというところから始まって、そしてこの一か月ぐらい日曜日ごとに読みましたが、イエス様は命のパンであるとか、イエス様の肉と血を食べなければ永遠の命に繋がらないとか、そういう話をずっとしていました。その最後が今日の朗読箇所になります。驚くべきことにその長い箇所はどういう結末に終わるかというと弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」実に悲劇的な結論でこの章が閉じられるということです。せっかく多くの人にパンを配り、そして御自分が命のパンだということを言えば言うほど、多くの弟子たちが離れ去ってしまった。信じられないぐらい悲劇的なところでこの6章が終わってしまうということです。これは本当に考えさせられるところだと思います。命のパンとか私の肉を食べとおっしゃったりイエス様が復活されるとかは、今のようなミサがあればそれは意味が分かるでしょうが、当時の人は何を言ってるのかよく分からなかったと思います。そしてイエス様から離れ去ってしまったということです。これは非常に悲しいことです。現代の教会でも今のところとイエス様と共に歩まなくなってしまったというのはよくあることだろうと思います。成人洗礼を受けられた方の多くは、何年間かは熱心に教会に来られるけれども、ある時から来なくなってしまう方が多いというのは事実として認めなければなりません。この教会は御葬儀も多いですが洗礼を受ける人はもっと多いです。以前佐々木神父様がよくおっしゃっていましたが、洗礼を受けた全員の方が教会に来られたら、今頃この教会は入りきれない人で溢れているはずなのに、日曜日に来る信者さんの数は毎回変わっていない。イエス様と共に歩み続けるということは簡単なことではないと思います。わたしの中で思っている成熟した信者さんの定義というのがあって、それは信者につまづかない、神父につまずかないで、それでも信仰を保っているというのが成熟した信者さんの定義と思います。神にイエス様につまずく人はほとんどいないと思いますが、洗礼を受けた信者さんがつまずくのは、信者さんの集まりでとか、神父の不適切な発言でつまずいたり、それで教会に来なくなったり。それでなくても日々の生活が忙しいとか、御自分のことでなんとなく来なくなってしまうというのは起こりうると思います。簡単に言えば何らかの意味で十字架の苦しみがやってきて、それがきっかけで離れてしまうということかもしれない。そこでイエス様は悲しそうに十二人に向かって「あなた方も離れていきたいか。」と聞くわけです。イエス様の悲壮な悲しそうな表現ですけれども、「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」つまりわたしたちは従っていきますと、ここでペトロは決意しているわけです。でも十字架の苦しみの時にペトロはイエス様から離れてしまうわけです。離れてしまっても復活の恵みによってペトロはもう一度イエス様のところに戻ってくるわけですけれども、これは本当に考えさせられます。私たちも洗礼を受ければ、あるいは神様のところにいれば苦しみが全くなくなるという誤解があるのではないかと思います。洗礼を受けても神様と共に歩んでも、わたしたちの人生に苦しいことはやってくるわけです。洗礼を受けているから、特別にこの世の苦しみから逃れられるということはないと思います。信仰者の恵みは何かといったら、それはイエス様の十字架の苦しみによって、わたしたちが被る苦しみを受けとめていくコツというか、苦しみをどう受けとめていいかを教えてくださる力とか恵みを主がくださるということです。そして十字架を超えた復活の恵みが与えられている。イエス様と共に歩んでいくということは、イエス様の十字架と共に歩み、そしてイエス様の復活の恵みを共に味わう、それがわたしたちクリスチャンに与えられている一番大きなお恵みだと思います。時々こんなに祈っているのにこんなに教会に来ているのに、なんで自分はこんなに苦しまなければならないのかという人がいて、でも真面目に祈ったから苦しみが来ないという約束はありません。主はいつも苦しみを受け入れる力を必ずくださる。そういう時にこそイエス様の十字架にわたしたちの心を合わせることができるか。そしてイエス様と心を合わせることによって、それは今まで気づかなかった、想像しなかった復活の恵みを主がわたしたちに与えてくださっている。それは私たちに与えてくださっている大きな喜び。この世のものではない宝物だと思います。イエス様が命のパンと言った時に与えてくださる命のパンは復活の恵みから来ているということです。だからわたしたちは今ある苦しみ過去の辛さ、それを主と共にわたしたちが歩んでいけると思います。そこで苦しみを受けた時に教会に来るのはやめようかとか、元の生活に戻ろうかという選択とか誘惑とかは絶えずあるのは間違いないと思います。でもその主の復活の恵みをみながら主と共に歩んでいく、その小さな決断と小さな願いをもって歩むことができるということです。このシモン・ペトロの最後の言葉「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ペトロの信仰告白です。これは日本の教会では聖体拝領の前の祈りになっていて、日本語の典礼だけなんです。英語もスペイン語もラテン語もこの言葉を唱えない。日本の司教団やその土地の典礼委員会が決めた独自の言葉です。独特なものなんですけれども。これを聖体拝領の前に唱えるということは意義深いと思います。イエス様から多くの人が離れ去ってしまう。わたしたちもそのような誘惑を感じる。それでも主よ、あなたについていく。そういう自分の決意を聖体拝領の前にささげて、そして命のパンである御聖体をいただく。今ある苦しみや困難をイエス様と共に乗り越えていくということです。人間からの決意表明といえるかもしれません。この世的な恵みが与えられないことは度々ありますが、でも御聖体を通したイエス様の霊的な励ましはいつも与えられているということです。それをわたしたちはいつも頂いて前に向かっていく。人によっては大きな苦しみを抱えているでしょう。人によっては普通の一週間になるかもしれない。この信仰告白と御聖体を頂いてまたこの一週間、イエス様と共に歩んでいける力を与えられるのですから、この信仰告白の御聖体を一週間のスタートの基盤として、信仰生活を力強く誠実に歩んでいけるように恵みを願いましょう十

第一朗読  ヨシュア記 24章1-2a、15-17、18b節
 (その日、)ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。「もし主に仕えたくないというならば、(ユーフラテス)川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」  民は答えた。 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。 主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5章21-32節
 (皆さん、)キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです十



2018 年 8 月 26 日(日)8 時半ミサ
年間 第 21 主日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記


2018年09月02日(日) またまた病院のベッドから

2度、高熱にみまわれた翌日、29日はさすがに疲労感が強く、夫も仕事を休んでくれ、朝のリハビリと、午後の歯医者のはキャンセルしたものの、一日、腹痛や下痢から解放され、具合はすっかりよくなるかに見えた。

長男一家が顔を見せに来てくれるというが、夫は仕事に出る日になっているので、子どもたちのケアもできないい。そこで、長男が、単身で、新しい住まいや仕事の報告も兼ねて訪ねてくれる事になった。買い物や、台所磨きなど夫が戻ってくるまで、家に来ていろいろ肩代わりをしてくれるという。

これまでのベトナムの仕事や、これからの事など息子との話も楽しく、久々のサーティワンアイスを買ってきてもらって食べたり、読書も進み、夕方の4時くらいまでは、何もとりわけ何も問題なかった。ところが、前兆なしで、一昨日同様なのような悪寒に突然襲われる。下にいる息子を携帯で呼び出し、湯たんぽ二つを作ってもらうように頼み、例のごとく、冷房を暖房へと切り替え、ありたけの布団や毛布をかぶる。この頃になると顎がガクガクしてきてロレツも回らす、指先がふるえるため、アイフォーンのボタンも押せない。息子に伝言を頼む。まず、夫と連絡を取り、夫に在宅訪問の看護師に今後のことを相談して欲しい旨指示。息子は、わたしのこのような突然の変容は初めての事で、かなりショックも大きかったに違いない。
まもなく、在宅看護師がかけつけてくれ、脈や酸素量を計り、帯津病院と連絡をとってくれる。前回の発熱のことから、胆管炎の疑いも考えられるので、救急車で病院へ来るようにということだった。

熱は39・9度でピークに達すと、痙攣や悪寒も多少弱まってきた。けれど、今から救急車を呼んでも入院の支度が何もできておらず、病院まで小一時間かかるとなると、あとで面倒なことになりそう。色々やり取りの末、準備をしながら夫の帰宅を待って病院に出向くことになった。7時過ぎ夫と息子に伴われて病院に到着。抗生物質の点滴の用意などは整えられており、すぐに入院室に通され、治療開始。詳しい検査などは明日。

家族がひきあげた後、この夜は、もう一度、悪寒が起き、今度は朝まで、熱が下がらず、明け方、解熱剤のカロナールをいただいて、ようやくおちつく。その後、昨日も今日も高熱が出ることもなく、琵琶温灸、アロマテラピー、鍼治療の施療をしていただきながら、トロトロと微睡みの中に揺蕩うていた。

そんな中で、昨日は長男夫婦が孫達3分人と、息子の連れ合いの姉妹の一家が会いに来てくれた。嬉しい再会!子ども達のエネルギーはすごい。一度に元気になる。
さらに、アメリカ滞在の頃から一緒に子育てをしてきたリコーダーパートナーのJも合流してくれ、しばらくの間、懐かしい時間を過ごす。

今日も、今のところ熱は出ていない。本を開いてみても頭はすぐに眠りに落ちてしまう。悩みの種は食欲がなく、何を食べても苦く感じてしまうが、辛うじて口にできるお団子と果物でなんとか乗り切抜けなければ。

そうそう、今日は、毎週楽しみにしている大河ドラマ 「西郷どん」も観たい!


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