たりたの日記
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2013年04月27日(土) 義母の告別式

今日は7月2日。
4月25日に義母が亡くなってから3カ月あまりの時間が経った。義母の死の直ぐ後5月1日に生れた孫娘の芽美も生後3カ月。こうして時間は前へと進んでゆく。
孫たちは日々成長へと、そうしてわたしなどは終わりの時へと向かって。

2011年、2012年、2013年と親たちの死が続いた。家族の出来事としては最も大きな出来事がこの2年ほどの間に続いたことになる。親たちが後に残していった家やその中ものがまだ未整理のままそのままの状態であるように、ここに来てもまだその死をすっかりは受け止めていない気にすらなる。

親しい身内の死というものは誰にとっても同じようなものなのかも知れないが、その存在がこの世界にはいないということをどこかで自分に知らせないような気持ちが働いているのではないか。考えないように思い出さないようにと読みかけの本をパタリと閉じて書棚の奥に、背表紙も見えないように仕舞い込んでしまうように。

だから、3カ月前のことをここに書く作業はしんどい。何も書かずにおこう。
いつか振り返って書ける時もくるのだろうから。

ひとつだけ、教会を愛し、教会の人だった義母にふさわしい良い前夜式と告別式であった。
そこにかかわってくださったみなさんへ心から感謝している。








2013年04月14日(日) 今日は死ぬのにもってこいの日

礼拝の後、一年に一度の墓前礼拝に参加する。
ここ7年間、教会墓地での墓前礼拝に参加することはなかったのだが、今日は日曜日の午後に何も用がなく、牧師の車に乗せていただき墓地へ。
百合の花の描かれた「墓前での祈り」の式次第の説教題を見てはっとする。
「今日は死ぬのにもってこいの日」
あぁ、このフレーズ、最近読んだ本の中に出てきた詩、たしかアメリカインディアンの詩だった・・・そうだ、4月1日の文学ゼミの課題図書、鶴見俊輔著「アメノウズメ伝」の中で引用されていた「今日は死ぬのにとてもよい日だ」に始まる詩。

墓前での牧師の説教でナンシー・ウッド(Nancy Wood)著「今日は死ぬのにもってこいの日( 原題"Many Winters")」の存在を知る。二つの異なる本から同じ言葉が届いた。どうやら今この本に出会う必要があるようだ。さっそくアマゾンに注文した。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩に、わたしはメイ・サートンの「肥沃で、すこやかで創造的な死」という言葉を思い出した。

2001年4月1日のたりたの日記<メイ・サートン>の中でこのように書いている。

メイ・サートンの「独り居の日記」(みすず書房)を読む。
そこから立ち上ってくる、部屋のにおい、庭のたたずまい、何より彼女の深い孤独に慰められる。私が自分の内に培いたいと思っている強靱な孤独。彼女の自然への想い、とりわけ花々へのそれに共感する。
彼女は私たちの魂を自然から、あるいは純粋な思索から引き離す日常の雑務のなかで、庭つくりをこのように見ている。
『..............そこへいくと庭つくりはまったく趣きが違う。広く”聖なるもの”ー成長と生誕と死ーに向かって開かれているからだ。花々の一つ一つがその短い生命のサイクルのうちにすべての神秘を包んでいる。庭のなかではわれわれはけっして死から、あの肥沃で、すこやかで創造的な死から、遠いところにいない。』


集中治療室にいる義母を思う。彼女にとってこの世での命の終末はそのままイエスと共に生きる新たな生への始まり。彼女が長い生涯愛し続け、生きることの真ん中に置いていたイエスのところへと向かうこと。彼女の日々が主に守られ、平安であることを祈っている。
豊かな死はしかし、送る側には痛みであり、その時が間近に迫っていることを思うと心は乱れ、緊張し、どのようにそれを受け止めれば良いのか右往左往するのである。
だから今この詩なのだろう。死、そこにある豊かさはそれを迎える者にも、送る者にも等しく差し出されているということ。


ナンシー・ウッド著「今日は死ぬのにもってこいの日」の中のこの詩をここに記しておこう。


今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

Today is a very good day to Die.
Every living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My land is peaceful around me.
My fields have been turned for the last time.
My house is filled with laughter.
My children have come home.
Yes,today is a very good day to die.


2013年04月10日(水) れおの入園式



今日は孫のれおの入園式。
れおのもう一人のお祖母ちゃんと、パパとママで幼稚園へ。
Jさん(れおのもうひとりの祖母)と、子ども達の入園式を思い出すわねぇと話す。
実際、目の前にいる息子が三才の時の入園式を昨日のことのようにはっきり記憶している。

あの日わたしは新卒の始業式の時に着た濃いピンク色のスーツを着て、よちよち歩きの次男を連れていた。近くにも幼稚園はあるのに、泥んこになって遊ばせてくれる隣町の幼稚園を選んだのだ。説明会には自転車の前と後ろに子ども達を載せて、1時間ほど自転車をこいで出かけた。しかしこの日は幸いなことに同じ団地に住むMさんが、車で連れて行ってくれたのだった。
その日から始まった、毎朝のお弁当作り、園バスまでの送り迎え(歩くと往復1時間くらいかかった)。雨の日も風の日も、ベビーカーを押しながら、自転車の前と後ろに載せながら・・・

さて、れおのママにはそういう日々が明日から始まる。れおの幼稚園もうんと遊べる自然保育の幼稚園。毎日ママの作お弁当で、園バスもない。5月に下の子が生れれば、赤ん坊を連れての送り迎えが始まる。
この前、れおの家から幼稚園まで歩いてみると30分かかった。自転車とバスで毎日2往復。ママは大変だ。

そしてれおも。もうママとパパが側にいない人生が始まる。我がままも通用しないし、いろんな我慢や不安も引き受けなくてはならなくなるだろう。でも親から離れるという大切なプロセス。
がんばれ れお!




2013年04月03日(水) 誕生日



誕生日のこの日
焼きたてのパンと
バースデーという名前の紅茶を持って
同じ誕生日のYさん宅へ
ケーキとお花を用意してくださっていた。
二人でロウソクの火を消すところを
Yさんの息子が写真に納めてくれる。

夕方6時には教会へ行き、礼拝の奏楽やテゼの曲のリコーダー練習。
7時から礼拝堂に集まって来てくださった方と共に今月のテゼの歌を練習する。
今月はイースターに因んだ歌を数曲選んだので、新しく練習する曲が6曲になってしまった。
テゼの練習の後、夫と食事へ。
夫の誕生日の日は宮崎の実家へ行きお祝いもしないままだったので、一緒にお祝い。

さてこの一年はどんな一年になるのだろう。
新しい命の誕生もあるが、別れもまたあるのかも知れない。
闘病のさなかにある弟からのメールに、「お互い人生の終盤に向かい、いろいろなことがありますね」とあった。
これまでにも増して祈りの年にしたいと思う。


2013年04月01日(月) 桜散る公園で



昨日の日記のつづき

薄曇りのまさに花冷えの日だったが、近くの公園は満開の桜。ちょうど開ききり、折からの強い風でひらひらと花吹雪、地面は花びらで覆われ、幻想的だった。

今年は桜の開花が早く、わたし達は3月23日に公園にお弁当を持っていき、早い花見をしたことだったが、その後は雨だったり寒かったり、また義母を見舞に宮崎へ出かけ、満開の桜の下でのお花見もできないままでいたのだったが、思いがけなく、わたし達の他誰もいない公園で思いっきり桜を楽しむことができたのだった。


たりたくみ |MAILHomePage

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