たりたの日記
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2011年12月26日(月) |
クリスマスの2日目は手術の日 |
教会歴では12月25日がクリスマスの第一日目、26日が第二日目でクリスマスは1月6日までの12日間という事になっている。 昨夜の夕方の礼拝でもU司祭が語られていた。
さて、クリスマス2日目のこの日のことを記しておこう。
朝8時、点滴がつけられる。その後センチネルリンパ節検査(癌がリンパ節に転移していないかどうかの検査)のための検査薬を注射を受けるために地下の放射線科へ
8時半、朝の祈りの会に出席。礼拝堂を出る時U司祭に手術の事を話すと、手を取ってお祈りして下さる。
9時半 センチネルリンパ節の撮影
10時 夫が病室に来てくれる。
11時半までは病室でリラックスして過ごす。山田太一著「異人たちとの夏」を読み始めていたので、読書に集中し、手術前の緊張や不安などはなかった。
11時半、看護師と夫に伴われ2階の手術室へ。夫へは「行って来ます」と言って中へ入る。後で夫から、何の不安もなさそうで堂々としていたと感心されたのだが、実際不安はなく、とても平安ですっきりした気持ちがあった。これが守られているという事なのかもしれないと思う。
前に説明を受けた麻酔科の医師が麻酔をほどこして下さる。針が入る感触と同時に頭がぐあんとし、「あ、意識がなくなる」と思うやいなや深い眠りに沈んでしまった。
2時10分 ストレッチャーに乗せられ、病室に連れてこられ、ベットに移されたことは覚えているが、はっきり目が覚めたのは夕方の4時頃。夫からリンパ節への転移はなく、リンパ節郭清はせずに済んだと聞き、ほっとした。
顔には酸素マスク、右腕には点滴の管、左わき下からはドレーン(廃液チューブ)、尿の管がついていて鬱陶しいのだが、朝読みかけていた本を読み始めるとその世界の中に入り込んでしまって、読み終えるまで病室で管に繋がれていることを忘れてしまっていた。外はもう暗くなっていた。見れば、夫も隣で本の世界に入りこんでいる。 9時過ぎ、夫は近くのホテルに宿泊。
11時、看護師に睡眠薬を服用して眠りに就く。酸素マスクや管の不快さはあるが、子宮筋腫の手術の時のように痛みで眠れないということはなく、早朝、酸素マスクと点滴、尿管を抜かれる時まで眠っていた。
*
28日 術後の経過は良く、朝のうちにドレーンがぬける。 午後3時、kさんとNさんが、続いてJさんがお見舞いに来て下さる。 何だか夢中でおしゃべりした。 暮れの忙しい時なのによくぞ来てくださったこと、感謝!
29日 午後3時までは読書しながら病室でまったり過ごし、3時に夫が来るの を待って退院。築地で美味しいお寿司を食べ、お正月の買い物をして5 日ぶりに家へ。
2011年12月25日(日) |
入院とクリスマス礼拝 |
入院は短くて5日間、長くなる場合は9日間になるという。9日分の荷物の支度をしようとすれば、着かえも本類も多くなり、スーツケース1つには収まらない。最小限のものをスーツケース詰めて前日に宅急便に出した。
25日は夫の付き添いで8時過ぎ家を出る。9時半には病院に着いたが、入院手続きの10時を待たずに手続きを終え病室へ案内された。 間に合うかどうか心配していたが10時半のチャペルでの礼拝には十分間に合った。
夫と共に礼拝堂へ。誰もない夕方の礼拝堂には何度か立ち寄っていたが、礼拝は初めてだった。クリスマス礼拝とあって、広い礼拝堂はすでに人で埋まっていた。
ここの教会はイギリス聖公会、プロテスタント教会なので、パンと葡萄酒による聖さんに与ることができた。お話は心に響き、クリスマスの讃美歌も歌うことができた。
午後は検査も何もない。ここは全室個室、病室で寛ぐというのも変な話だが、ここのところの目まぐるしい日常からやっと解放され、パジャマに着替え、ベッドに入ると読書に取り掛かった。 クリスマスカードを並べた窓の向こうには聖路加の高層ビルが美しい。
2011年12月24日(土) |
2011年のクリスマスイブ |
長男の家族が大宮まで出てきてくれるというので、1時に待ち合わせ、 ケーキの美味しいお店でみんなでクリスマスのお祝い。 れおはすっかりおしゃべりになっている! 「ねえ、ねえ、みんなきいて!」 「聞いてるよ、聞いてるよ」 大人4人が何事かと耳を澄ます。 「あのね、ぼくね」 「なに、なに」 「大きくなったらね」 「うん、うん」 「チョコレートたべるの」 「・・・・・」 れおはまだチョコレート解禁されていないのでした。
その後、5時からの教会のキャンドルサービスに。 わたしは聖書の朗読の担当。 れおは手渡されたろうそくとろうそくスタンドがうれしくてたまらない。 灯された火をしばらく見ていたが、今度は吹き消したくてたまらない。 それでも長い礼拝の間、自分で遊びを見つけてはおとなしくしていた。
仕事納めは12月22日。それまでにやっておかなくてはならないことは沢山あった。ここ3日間は残業覚悟で、担当校に資料を送ったり、ファックスを書いたり、もしもこの先勤めを続けられなくなったらということを考えて引き継ぎの資料を作ったりと自分の病気のことを考えるゆとりはなかった。
しかし、非常勤職員の悲しさ、無給の残業は少しも構わないのだが、わたしが職場にいつまでも残っていると同じ課の正職員の方々が帰ることができずにいることが分かった。1時間の居残りが精一杯だった。同僚達は気づかってくれ、「何でもやりますから言ってく下さい」「心配しないで、大丈夫。何とかなるから」と声をかけてくれる。有り難いけれど、これは自分の気が済むまでやるしかない。
とは言うものの、日々学校訪問があるものだから時間は限られていた。とてもきちんとした今年度のまとめや引き継ぎ資料を作るまでには至らなかった。となれば、何としても、今年度の内にはこの職場に戻らねばと思う。
そういう数日間の後だったから仕事納めの後の忘年会はほっと緊張を解かれ、仲間の笑顔の中でほっかりとぬくもっていた。 11人の仲間が一言ずつ寄せ書きしたクリスマスカードが嬉しかった。 病院に持って行こうと思う。
この日も担当校で5時間目の授業を終えると築地へ。 昨日の検査の結果を下に手術を執刀して下さるY先生からお話を伺うことになっている。 予約時間の16時には夫も病院へ来てくれた。待合室は診察を待つ人で一杯だ。長い時間待って、診察に入ったのは7時半を回っていた。休みなく診察を続け、Y先生はさぞかしお疲れのことだと思うが、手術について、また今後の事について詳しく説明して下さる。
リンパ節への転移があるかどうか、また癌がどのような状態になっているか、実際に開けてみなければ分からない。状態に寄れば乳房削除やリンパ節郭清することも考えられるし、手術後、切除したがんを詳しく検査し、その結果再手術ということも有り得るという説明を受ける。
これまで、一番軽いがんの場合のシュミレイションばかりしていて、退院すればすぐに普通に生活し、1月11日からは仕事にも出るつもりでいたので、そんな簡単なものではないのだと改めて知らされる。 乳がんの診断を受けた後も、日々の通勤と仕事に追われて、乳がんについて調べたり、本を読んだりすることもなく、むしろあまり考えないようにしてきた。それはそれで良かったのだろうが、手術によっては仕事に戻れないことも考えられる。 それにしても、今後の治療方針が出るのは1月13日の退院後診察の時。 最悪のことを考えて引き継ぎなどの準備をするにしても時間がない、どうしたらいいだろうと帰りの電車の中でカレンダーを睨んでいた。
この日、2時間休をもらい、出張先の訪問校から築地の聖露加国際病院へ。 ここに来るのはこれで3回目。手術前検査の日。16時から18時までの間にエコー、心電図、レントゲン、血液検査等などの検査を一通り受ける。
健康には自信があった。どこも不調はなく、2年の婦人科検診は何の問題もなかった。全く予期はしていなかったものの、乳がんという診断にそれほど大きな動揺はなかった。
3月11日の震災、母の死、すでに大きなことを受けた後だったこともあるだろう。また、わたしの知人、友人に乳がんと闘った人たち、今闘病中にある方たちが少なからずいることもあるだろう。
彼女たちに習い、淡々と受け止め、できることをしていく、それだけ。 母を看取った後で良かったという安堵感と手術が冬休み中で、仕事にもそれほど穴を空けることなく済みそうでほっとしていた。
検査を済ませ、すでに暗くなった診察室の廊下を旧館まで歩き、この病院の中にある礼拝堂へ行く。 誰もいない静かな礼拝堂にパイプオルガンの音だけが響いていた。クリスマスの曲だった。クリスマス礼拝のための準備をされているのだろうか。 これから手術を受け、また治療を受けようとする場所が霊的なところであることに慰められた。
それまでの経過は以下の通り。
10月5日 保健会館クリニックで2年ごとの女性健康診断
10月17日 職場の保健士から乳房、再検査の必要を告げられる
10月28日 同クリニックで精密検査 マンモグラフィー、エコー、細胞診 担当の聖露加病院T先生より乳癌の疑いが強いと告げられる
11月14日 聖露加国際病院で再度検査 マンモグラフィー、エコー、針生検 この検査結果を待たず、26日の手術日などの予約が入る。
11月21日 組織検査の結果、乳がん確定。 T先生より乳房部分切除の後6週間の放射線治療と5年間のホルモ ン治療の話がある。
12月3日 MRI撮影
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