たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2008年07月31日(木) |
山頂から奥の細道歩道 |
7月29日のつづき。 羽黒山山頂の鐘楼
河骨に覆われた鏡池
羽黒山から細道歩道(昔の月山登拝道)を歩いて下山。 人影のない、静かな山道は靴がぬかるほど、雨を吸い込み柔らかな山道だった。 雨にぬれたみずみずしい緑の中、1時間ほどかけてゆっくり下りて来る。
羽黒休暇村で昼食を取り、バスで山伏温泉、ゆぽかへ。
2008年07月30日(水) |
羽黒山の石段を登って |
羽黒山の頂上までは2446段の長い石段を登っていく。 登り口では雨はすっかり止んだかのように見えたのに、杉木立の中を歩いていると急に大粒の雨になり、途中の社の階段で雨具をつける。 けれど、それは雨ではなく、杉の木の枝に付いた雨水がぽたぽたと落ちて来ているのだった。
<随神門から始まる表参道は、全長約1.7km、2446段の長い石段である。両側には樹齢350〜500年の杉並木が続く。その数は400本以上で国の特別天然記念物に指定されている。山頂まで徒歩約50分。>
左のしめ縄の巻かれた木は「爺杉」。樹齢1000年といわれ、国の天然記念物に指定されている。
羽黒山五重塔。東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられる。現在の塔は、約600年前に再建されたものらしい。
2008年07月29日(火) |
ムーンライトえちごから羽越線へ |
29日朝4:51、電車は新潟に着く。4:54発羽越本線快速に乗り、途中村上で羽越本線普通に乗り換え 鶴岡には7:35。駅前から7:52の羽黒行きのバスに乗り、およそ1時間で羽黒センターへ。ここから羽黒山までの2446段の石段を登ることになる。
この夏、青春18きっぷの旅のはじまりは「ムーンライトえちご」
7月28日、大宮発23:42の「ムーンライトえちご」に乗った。 目的地は出羽三山のひとつ、月山を望む、羽黒山。
この電車は、あこがれの電車だった。 文学ゼミで遅くまで二次会に参加する場合、池袋から大宮までの間、「ムーンライトえちご」を使えばぎりぎり終電のシャトルに間に合う。 酔っ払って夜行の指定席に深深と身を沈める時、このまま終点の新潟までずっと座っていたいと思うのが常だった。夜を越えて移動し、早朝、見知らぬ土地に降り立つ。それは素敵なことに思えた。いつかこの電車に終点まで乗って行こうと。
2008年07月25日(金) |
安達太良山で聞いた笛の音 |
また1週間ほど日記の日付が空いてしまった。旅日記はまだ終わっていない。 遠野へ行った翌日、6月28日、29日、友人と安達太良山へ遊ぶ。
こ日、うっかりカメラを持参しそびれた。山に集中するためにはその方がかえってよかったが、その山行きを思い出すきっかけになる写真が残っていないことをやはり残念に思う。 かといって、詳しい山行きの記録を綴る気持ちは今は起きない。 せめて言葉で印象に残ったことを残しておくことににしょう。
安達太良山頂の少し手前、眺めの良い開けた場所で休憩した時のこと、どこからともなく、笛の音が聞こえてきた。ソプラノリコーダーよりも高音の鳥のさえずりのような音だったからソプラニーノに違いない。いったいどこから聴こえてくるのだろう。
登山道から離れた場所、ちょうど山々の折り重なるところが見える崖のようになっている場所に中年の男女のカップルがいて、男性の方が笛を吹いているのが見えた。 曲は聞き覚えのある曲。気をつけて聴いてみれば、それはパブロ・カザルスの「鳥の歌」のようだった。もともとチェロの曲だが、意外にもソプラニーノに合っている。ほんとうに鳥が歌っているようなのだった。 ちょうど、わたしたちもここで昼食休憩を取ろうとザックを下ろしたところだったので、弁当を食べながら耳を傾けていた。 しばらくすると、笛の音は別の曲に変った。これは、マリー作曲の「金婚式」だ! そちらに目をやれば、今度は女性の方が吹いている。 それにしても懐かしい・・・中学生の頃、この曲をソプラノリコーダーで吹いたものだった。
笛の演奏が終わるや、山頂の方から、この「金婚式」のはじめのフレーズが今度は口笛の音に乗って聞こえてきた。山頂を目指していたグループからのもののようだった。拍手の代わりに口笛で「聴きましたよ」という合図を送ってよこしたような調子で、愉快だった。その笛のカップルも口笛の聞こえてくる方に向かって顔を上げ、女性の方が手を振ると、山頂付近からざわめきのようなものが伝わってきた。 山の中での音楽を通しての交流だ。 山頂を目指していたそのグループも、わたしと同様、突然、山の中に響いた鳥の声のような音楽に驚き、またそれを楽しんだのだろう。
そこから安達太良山の山頂はすぐだった。
遠野駅から徒歩10分以内のところにある、遠野市立博物館ととおの昔話村へ。
柳田國男が『遠野物語』を書くために滞在した高善旅館を移築保存した柳翁宿で、「ざしきわらし」の映画を観る。 他にも興味深い民話に触れることができた。
「遠野物語」の文庫本を求め、再び釜石線へ。
6月27日 新花巻から釜石線で、終点の釜石まで。 釜石駅そばの市場で、ウニ丼の遅い昼食。 一時間ほど過ごし、また釜石線に乗る。目的地は遠野だった。 民話のふるさと、遠野はあこがれの土地でもあった。 確か、子ども達がまだ小さい頃、ラボ教育センターが慣習する遠野の昔語りのテープを聞いていた。 実際に昔語りを聞く機会には恵まれなかったが遠野の景色の中を歩くことができてよかった。
岩手軽便鉄道 七月(ジャズ) 宮沢賢治
ぎざぎざの斑蠣岩の岨づたひ 膠質のつめたい波をながす 北上第七支流の岸を せはしく顫へたびたびひどくはねあがり まっしぐらに西の野原に奔けおりる 岩手軽便鉄道の 今日の終りの列車である ことさらにまぶしさうな眼つきをして 夏らしいラヴスィンをつくらうが うつうつとしてイリドスミンの鉱床などを考へようが 木影もすべり 種山あたり雷の微塵をかがやかし 列車はごうごう走ってゆく おほまつよひぐさの群落や イリスの青い火のなかを 狂気のやうに踊りながら 第三紀末の紅い巨礫層の截り割りでも ディアラヂットの崖みちでも 一つや二つ岩が線路にこぼれてようと 積雲が灼けようと崩れようと こちらは全線の終列車 シグナルもタブレットもあったもんでなく とび乗りのできないやつは乗せないし とび降りぐらゐやれないものは もうどこまででも連れて行って 北極あたりの大避暑市でおろしたり 銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり ふしぎな仕事に案内したり 谷間の風も白い火花もごっちゃごちゃ 接吻をしようと詐欺をやらうと ごとごとぶるぶるゆれて顫へる窓の玻璃 二町五町の山ばたも 壊れかかった香魚やなも どんどんうしろへ飛ばしてしまって ただ一さんに野原をさしてかけおりる 本社の西行各列車は 運行あえて軌によらざれば 振動けだし常ならず されどまたよく鬱血をもみさげ ・・・・・Prrrrr Pirr!・・・・・ 心肝をもみほごすが故に のぼせ性こり性の人に効あり さうだやっぱりイリドスミンや白金鉱区の目論見は 鉱染よりは砂鉱の方でたてるのだった それとももいちど阿原峠や江刺堺を洗ってみるか いいやあっちは到底おれの根気の他だと考へようが 恋はやさし野べの花よ 一生わたくしかはりませんと 騎士の誓約強いべースで鳴りひびかうが そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡 いるかのやうに踊りながらはねあがりながら もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け 緑青を吐く松の林も 続々うしろへたたんでしまって なほいっしんに野原をさしてかけおりる わが親愛なる布佐期間手が運転する 岩手軽便鉄道の 最後の下り列車である
6月27日、ひとり、釜石線に乗る旅。 去年の6月末、八幡平、岩手山、早池峰山と欲張りな山旅をしたが、ひとつ心残りだったのは釜石線に乗らなかったことだった。
宮沢賢治の詩に「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」というのがあるが、この岩手軽便鉄道こそ、花巻駅と釜石を結ぶ、釜石線の前身。『銀河鉄道の夜』のモデルとも言われている、この線路を走ってみたいと思っていた。
サッフォーの詩、手元にあるのは英語に翻訳された詩集が一冊のみ。 この本はアメリカの友人Dからもらったもの。$1.25という値段がついているから随分古いものに違いない。カリフォルニア大学の出版で訳者はMary Barnard となっている。
サイトではギリシャ語と英語の対訳の詩を見つけることができた。 日本語の訳詩とまではいかないけれど、 日本語に置き換えてみるとこんな感じだろうか。
Now like a mountain wind the oaks o'erwhelming, Eros shakes my soul.
今、樫の木に猛威を振るう風、
山に吹くその風のように
エロスはわたしの魂を揺する。
*
Now Love, the ineluctable, with bitter sweetness Fills me, overwhelms me, and shakes my being.
今、愛は
避けることのできないそれは
苦さと甘さでわたしを満たし
わたしを覆い尽くし
わたしの存在を揺さぶる
*
こういう日本語訳の詩も見つけた。
輝く朝が播き散らしたものを、 すべて連れ返す宵の明星よ。 あなたは羊を返し、山羊を返し、 母のもとへ子を連れ返す。
(サッフォー 断片104 藤縄 謙三 訳)
2008年07月13日(日) |
函館美術館にサッフォーがいた! |
思いがけなく、サッフォーにまみえることができた。
古のギリシャの女流詩人、サッフォー。
プラトンにも高く評価された、恋愛詩人。
レズビアン詩人とも言われるその人。
若い娘達のための学校を作り、文芸を始めとする教育を行った人。
興味と憧れとをかき立てられる詩人がそこに
大きな存在感とともに座していた。
< 北海道立函館美術館の庭で。作者はアントワーヌ・ブルーデル >
2008年07月12日(土) |
乳香を手に教会の坂道を降りてゆく雨の日曜日 |
さて、日付が変わってしまって、7月12日の土曜日の午前零時半。
眠りから目覚めてようやく始まる一日はどのような日になるのだろう。 まだ始まってもいない今日の日記のページをもう開いてしまった。
ここにも、過ぎた時の印象を残して置くことにしよう。
6月22日日曜日。
函館は雨。夫とは別行動で、わたしだけ、ハリストス聖教会の礼拝へ。
残念な事に、教会に着いた時にはすでに朝の礼拝は終わっていた。 けれども、あの匂い、去年の12月1日の土曜日の祈祷会に出席した時、 司祭が振っていた振り香炉の匂いが礼拝堂に残っていた。 うっとりするような瞑想的な香り・・・
しばらく黙想した後、教会の方にあの香の事を尋ねた。
「あの、礼拝の時に使われている香りは何の香りですか? もしかしてあれが乳香なのですか?」
「そうです。乳香です。礼拝では振り香炉を用いますが、こちらでもお求めいただけますよ」
それは小さな瓶に入った、褐色のキャンディーのようなものだった。 乳香とは樹脂を固めたものだったのだ。 ギリシャの修道院で修道士達が作ったという乳香の小瓶を二つ求める。
外に出るとまだ小雨は降っていた。 教会の裏手の庭の薔薇がひときわ美しかった。
やっと、7月の日記のページが埋まった。 旅の後、時間を置いて、その時に写した写真を見ると、 旅の最中や、直後には感じることのできなかったものが湧き起こってくるのは不思議だ。
旅の直後は、実際に目にしたものと、写真とがあまりに違うので、見る気も起らないのだが、時間を経て目にする旅の写真は、その時に思っていた事、考えていた事、また、次第に心象風景になりつつある、こころの中の風景とうまく溶け合っている。
写真だけではないな。 心にのこる出来事、読んだ本、聞いた音楽、心の中で繰り返すうちに、より詩的な印象となって深まってゆくものがある。
木はいい。
とりわけ大木はいい。
樹齢を重ねた木を抱きしめると
木の命が流れ込んでくる。
木の生きてきた果てしない時の中に
吸い込まれる。
ひとつの瞑想がおこる。
今日は木曜日。
いつもなら、早朝から運動モードで、自転車を走らせジムに通うところだが、体調不良。 運動はあきらめ、仕事までの間は家で過ごすことにする。
やるべきこと、やりたいことは山のようにある。 まずは、また穴が空きそうなこの日記を何とかしよう。 前回の文学ゼミの時、Tくんに、日記ちゃんと書くと約束したにもかかわらず、あれから書いていない。 今日はもう木曜日だというのに。
6月には函館と遠野へ行った。 安達太良山へも。
その時の写真を一枚つづアップしていこう。
まずは7月5日のページから3日分。
「ルピナス」「沼」「河骨」の写真。
短いコメントと共に。
2008年07月09日(水) |
大沼のむこうに駒ヶ岳がかすみ |
やっぱり、この写真も載せておこう。
21日、函館駅から大沼公園駅までやってきて、まず、大沼、小沼のクルージングをしたが、その時、向こうに見えていた駒ヶ岳の山影が見えていた。
今となれば、あの曇天の下の、黒っぽい水の色と、かすんだシルエットだけの山がとても美しい印象になって残っている。
必ずしもくっきりと晴れた日が最高の日和とは限らない。
ign=right>
2008年07月08日(火) |
流山温泉から眺めた駒ヶ岳 |
大沼公園を自転車で半周したところ、キャンプ場の手前に、流山温泉への道が見つかる。
かけ流しの温泉に浸かりながら雄大な駒ヶ岳を眺めることができるとガイドブックに書いてあったが、いったいどんな温泉なのだろう。
流山温泉へ到る道は平野の中にどんと幅の広い人影のない道が広がっていて、思わず、アメリカの南部の田舎にいるような錯覚に陥ったが、これが北海道の風景なのだと思う。
その埃っぽい道の先に、確かに流山温泉はあり、露天風呂の正面には、駒ヶ岳が美しく雄大な姿を横たえていた。
静かなジャズが流れているのだが、よく聞くとそこに、鳥の声が重なっている。どうやら、そういう音を流しているらしい。その組み合わせが心地よかった。
巨岩と巨木とを組み合わせた不思議な露天風呂だった。誰もいない、ひとりきりの湯。 駒ヶ岳を眺めつつ、心は地上をはるかに離れ、どことも知れぬ空間を彷徨っていた。
ここのアーティステックな温泉施設は、世界的彫刻家、流政之氏のデザインによるものとのこと。
ここの本格的な手打ち蕎麦もえらくおいしかった。
沼の水面には河骨(コウホネ)に黄色い花がポツポツ咲いていた。
河骨という不気味な名前とこの可愛らしい花とは結びつきにくいが、このスイレン科の植物は根茎が白色で肥大し、白骨のように見えるのでこの和名が付いたという事だった。
河骨という植物の存在を知ったのは、高樹のぶ子の短編集「彩月」の中の一篇、「河骨」という作品を通してだった。
そのぞくりとする、けれども、美しくまた哀しいストーリーの中で、この植物の白い根をまざまざと目にした。 忘れられない作品。
この植物の下の白骨のような根を見ることはできなかったが、その物語の中の植物に対面できた感動があった。
この日は生憎の曇り空。大沼、小沼を遊覧船で回るも、駒ヶ岳は霞がかかっていて、その美しい姿を見ることはできなかった。
この公園で気に入ったのは、「森の小経」と名づけられた、トレッキングコース。 そこで出くわした沼のたたずまいに魅かれた。
静かで重い水と木々。
地面から生えている木々と水面に映る木々の対話。
何か、深い秘密を抱え込んだ、ひんやりしたその場所。
6月20日から22日にかけて、大人の休日倶楽部のフリー切符を使って、夫と函館へ。 今回は大沼国定公園を中心に。
自転車で大沼湖畔を回ることからスタート。
まず、目に入ったのはいちめんのルピナスだった。
この色の響き合い!
夢のようだった。
2008年07月04日(金) |
福永武彦「愛の試み」再び |
3月26日の日記で、福永武彦の「愛の試み」をボイスブログにアップしたことを書いている。 昨夜、三ヶ月振りにこの著書をまた開いた。
朗読する気はしなかったが、文章をそのままここに残しておきたい思いが起った。
ここで繰り返し語られる、愛と孤独との関係。少しずつ見えてくる。
福永武彦著「愛の試み」より最終章の「愛の試み」の途中から引用。
もし人が初めの愛に於いて理想的な恋人を得、その持続の内に一生を終わったとするならば、それは羨ましいことには違いないが、現実はもっと傷だらけのものだ。
僕たちは真に心を許し合える対象を見出すまで、傷痕を自ら癒しながら、この生を続ける他にはないだろう。
僕はドン・ジュアン的な意味で、愛が繰返しだと言うのではない。愛は多くの場合、一種の幻覚であるが、孤独は紛れもない人間の現実であり、愛は成功すると失敗するとに拘わらず、この孤独を強くするものだと言ひたいのだ。
真に生命を賭けて愛した者でなければ、孤独を強くすることは出来ない。
孤独という言葉の持つ詞的な響きが、もしもそれを弱いもの、傷つけられたもの、不毛のものとしての印象を与えるとするならば、僕はこの言葉を、より積極的な意味で使っていることに、注意してほしい。
弱い孤独によって愛した人間は、その愛もまた弱いのだ。
孤独と孤独がぶつかり合う愛の共通の場というものは、愛するものどうしが助け合い、慰め合い、同情し合うことのみを目的としているのではない。
孤独はエゴの持つ闘いの武器であり、愛もまた一種の闘い、相手の孤独を所有する試みなのである。
「夜われ 床にありて我心の愛する者をたづねたりしが尋ねたれども得ず。」
僕は『雅歌』のこの言葉を好む。これは人間の持つ、根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。
この孤独はしかし、単なる消極的な非活動的な、内に鎖された孤独ではない。愛によって自己の傷の癒されるのを待っている孤独ではない。孤独の方が、愛に向かって、愛を求めて、ほとばしり出ていこうとする、そうした精神の一種の行為なのだ。
愛が失敗に終わっても、失われた愛を歎く前に、まず孤独を充実させて、傷は傷として自己の力で癒そうとする、そうした強い意志に貫かれてこそ、人間が運命を切り抜けて行くことも可能なのだ。
従って愛を試みるということは、運命によって彼の孤独が試みられていることに対する、人間の反抗に他ならないだろう。
若い頃、
自分の力では耐え切れないほどの試練を前にした時、
藁にもすがる気分で聖書を開いた。
言葉、言葉・・・
タリタ・クミ!
死んだ少女を起き上がらせる、イエスの言葉、
そんな魔法の言葉を求めて。
その時の悩みや苦しみがどういうものだったか
今となっては思い出せないものの方が多いけれど、
その時にすがりついた言葉は覚えている。
この言葉もそのひとつだった。
コリントの信徒への手紙 13章4〜7、愛の章から
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、
高ぶらない。
礼を失せず、
自分の利益を求めず、
いらだたず、
恨みを抱かない。
不義を喜ばず、
真実を喜ぶ。
すべてを忍び、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてに耐える。
もう、何度も読んだ言葉のはずなのに、
今、新しく響く。
それにしても愛が「忍耐」に始まり、
「耐える」で終わっていることを、見逃していたような気がする。
まるまる一ヶ月、ここで何も綴らなかった。 ここで書き始めてから7年間、これほど長いブランクは初めての事だった。
今、思っている事は、よく、まあ、7年間もの間、自分自身を、例え、日常の一部、心の一部だとしても、それを、不特定多数の人達の前に開いてきたなという事だった。
何も書かず、つまり、外へ開く間口をほとんど閉ざし、外との繋がりを最小限に抑えて過ごしてきた一ヶ月を過ごしてみると、自分を晒してゆくという行為はずいぶんエネルギーのいる行為だった事に気づく。
繰り返し書いてきたが、この日記は、今、わたしに命を与えて下さっている方へのレスポンス。自分のための記録や他者への情報の提供や便りというよりは、応答。神への。
では、この一ヶ月、わたしは応答することを止めていたのかと言えば、そうでもない。そこに訴えつつ、道を聞きつつ進んできた事には違いない。 けれど、それを公開する気持ちにはなれなかった。内に抱えた。
こうして書きながら、固く閉ざした岩戸をわずかに開けて、外を眺めているような自分の姿が浮かんでくる。このまま開き続ける事ができるのか、それともまた閉ざしてしまうのか、自分の心の事ながらさっぱり分からない。 気持ちのままに・・・ いくらか開き、また閉ざしつつ、けれど、完全に閉め切ってしまわないようにしたいと思う。
7月、この月は好きだ。夏がこれから始まるという期待に満ちている。子どもの頃のようにたっぷりと自由な時間に浸れるというわけでもないが、何か、特別な事ができそうな気持ちがするのだ。
ハナミズキの葉が濃い緑色になり、大きく広がった。この葉が秋になり色づくまでの間の夏。 先月植え込みをしたアメリカンブルーの株が成長してゆき、たくさんの花をつけ、やがて花を終わらせるまでの夏。 土の上にばら撒いた小さなバジルの種が発芽し、大きな枝となり、わさわさと茂った葉を茂らせ、一年分のバジルペーストを作れるまでに育つまでの夏。
さて、始まった7月をどのように過ごそうかと、まだ日程の書き込まれていないカレンダーのノートを見つめている。
|