たりたの日記
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2003年06月30日(月) 眠りを導くためのおまじない

眠りなんてどうやったって手に入れられる。
わたしはたいていそう信じている。

実際、歯医者であんぐり口を開けさせられ、年若い歯科医に治療してもらいながら、あたしはきまって寝てしまう。
昨日だって、寝てしまった。

あたしが眠りに入るやいなや、息づかいが変るから、寝るとすぐに分ると夫はいう。ということはあの若い歯科医にも毎度、わたしが眠ってしまうことがばれていることだろう。

こういう脳天気で基本的にハッピーなわたしではあるものの、ある時、まさに何かの災害のように、前触れもなく、不眠に陥る。そうなると、どうしたって目を開けていられなかったわたしがどうしたって眠れなくなってしまう。だいたい、去年1年はそういうことがわりと頻繁におこるいわば精神不安定期だった。もう、そういうものともすっかり無縁になったと思っていたが、いろいろと心や体のアンバランスからは起こるものである。


書くということは、自分を客観的に眺める行為。なぜ眠れないでいるのか、もしそこに理由があるのだったら、それをどう取り除けばいいのか、頭の中を整理しようとしている。だいたい眠れないというのは、心のどこかにほぐさなければならない緊張があるのだ。そこのところに働きかけるのでなければ、問題は解決しない。

どういう人も、どういう事柄も、過去のことも、これから起こることも、すべて神の手の中にあることを確認すること。
決して自分の想いで自分の世界すべてを覆ってしまわないこと。
種に、小さな種になって、今日という日に一度死ぬ。そうして、今日とは繋がりのない、新しい明日に、また目覚める。

おまじないのように繰り返す。
わたしは小さい種、今眠りの土へと帰ると。

あぁ、効果はあったようだ、今ようやくまぶたが重く、心は安らぎの中へと溶け込んでいく。

しかし、夜というよりはむしろ朝だ。





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2003年06月28日(土) 頭と心はかってに旅を始めてしまったという今日一日

今日はそれこそ、一歩たりとも外に出ず、洗濯、掃除、ご飯作りの他はずっとPCの前に座りこみ、ああでもない、こうでもないと旅の行程や交通機関のことを考えていた。普段の帰省なら旅行会社にチケットを予約すれば後は何も考えることとてないのだが、今回は帰省のついでにまだ訪ねたことのない土地を訪ね、会ったことのない方たちとオフ会を果たそうという夢みたいなことをやろうとしているわけで、心と頭はもうすでに旅を始めてしまったというわけだ。

調べてみれば、行く通りもの方法があり、交通機関があり、料金も時間も様々なことが分る。朝の出発からシュミレーションをしつつ、もっとも短時間で安く、しかもストレスのない方法で移動しようとあれこれ考えた。お陰で、少しも知らなかったこの辺りの地理にも少し明るくなり、高速バスや周遊券のこともいろいろと分ってきた。

だいたいあたしは単純なので、ひとつのことが頭を占めると、もう他のことが入ってこない。ゴスペルもラテンも、バジルの種を蒔くことも意識の中から消えてしまっていた。しかし、一月も先の旅のことばかり考えているわけにもいかない。さてモードを日常に切り替えよう。




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2003年06月24日(火) たしかに種はまいたのだったが

たしかに種はまいたのだったが、それも一月も前に。
ゴマほどの小さなつぶつぶえを一袋ぜんぶまいたから
少なくとも50個の芽が出ていていても良いはずだった。

バジル、そう、今までバジルには裏切られたことはない。ほとんどまいた種すべてが発芽した。ふつうはそこで間引きをするのだが、私はどの双葉も引いて捨てることができずに、割り箸で丁寧に、まだ一本くらい出ていない根を途中でちぎれないように、その乳幼児のようなバジルを土から取り出しては、別のコンテナや花壇の隅に移植した。

それだから夏ともなれば、庭のあちこちからバジルが顔を出す。風もバジルの匂いになる。そんなにたくさん食べられないって?いえ、いえ、バジルの使い道はいかようにも。乾燥させたり、冷凍したり、バジルペーストを作るとなれば、バケツ一杯ほどのバジルの葉っぱがほしいところ。

あぁ、たしかに種はまいたのだった。
ぜんぶがぜんぶ、お腹の空いた小鳥たちに食べられてしまったのだろうか。
ぜんぶがぜんぶ、古い売れ残りの不良品だったのだろうか。
それともぜんぶがぜんぶ用心深くて、一番良い発芽の時期を待ちながら、息を潜めてうかがっているのだろうか。

バジルは気温が高くなければ発芽しない。
梅雨が過ぎて、ぎらぎらの陽射しが届くあたりまで待ってみようか。




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2003年06月20日(金) ゴスペル事始

何事にも事始(ことはじめ)というものがある。これまで、数限りない事始をしてきた私だが、今日という日は記念すべきゴスペル事始の日だった。

この春くらいからゴスペルを教えてくれる場所を探していた。ところがこれがなかなか難しい。今やゴスペルは流行りの音楽になってしまい、様々なところでゴスペルと名のつくものはあるものの、本物のゴスペルを伝授してくれる場所は案外少ないことを思い知った。わたしが求めているのはスタイルではなく、ゴスペルのスピリットを伝える歌だったから。ゴスペル、つまり福音、神の言葉、イエスの言葉。それを歌う人や指導する人間が内にその人を生々しく生かしているゴスペル(福音)を持っていなければ、話にならない。

午後3時、D氏のアパートの前まで来ると、ひとつの窓から音楽が聞こえてきた。ドアのブザーを押すとお連れ合いのYさんが笑顔で迎えてくれる。D氏はキーボードを弾きながら、マイクで歌っていた。私がCDと思いこんでいたのはD氏自身の歌でありライブ演奏だったのだ。そこはまるでスタジオで、キーボード、マイク、スピーカー、録音や再生の機械がひしめきあっていた。改めて今まで踏み込んだことのない音楽を始めようとしているのだとわくわくする。

初回のレッスンはイントロダクションということだった。はじめにホワイトボードに書かれていることを自分のノートに写すようにと言われる。

1 Breathing technics
2 Vocal technics
3 Discipline

といった具合に、そこには13項目に渡って彼が指導する内容が書かれてあった。
まるで大学の講義のようだ。

D氏はまず、ゴスペルとは何かというところからその定義やその背景にある物語、respect(人としての価値を認めること)について、さまざまな例を挙げながら説いた。その中の言葉で印象的だったのが、「あなたは私にとってmiracle(奇跡)であり、私はあなたにとってmiracleである」という言葉だった。miracleという言葉に込められた気分が良く理解できたし、その通りだと思った。人と人との出会い、それこそがmiracle(奇跡)なのだ。そこには偶然とは言えない神の導きがある。他にも書き留めておきたい含蓄のあるメッセージがいくつもあったが、別の折に書くとしよう。

さて、次は1の呼吸法。これに関しては私は腹式呼吸をすでにマスターしているので問題ないということで、2の歌唱法へ進む。何か歌うように指示されるので先日教会の葬儀で歌ったAmazing Graceを歌う。歌い終わるとまず、この歌を歌う時、どんなことを考えながら、どんな思いを込めて歌ったかと聞かれた。私の思いを述べ、この歌のバックグラウンドなどについての話をした後、私の歌い方についてのコメントがあった。strong voice を持っていることは良いと言われたものの、constriction(締め付けられる感じ)とビブラートのコントロールが私の解決すべき問題だと指摘される。

今度は私が4ビートのゆっくりしたテンポで歌ったAmazing Graceを、D氏の弾く3ビートのリズムに乗って歌うように指示される。私の歌う歌にD氏はアドリブでハーモニーを付ける。そうしてデュエットで歌ったものを録音し、そのテープを聴きながら、それに合わせて今度は私もアドリブでハーモニーを付ける。そうして出来上がった4声部のAmazing Graceをテープを巻き戻して聞いてみる。ひごろ、楽譜を読んでそこに書かれてあるハーモニーを歌うということはしても、楽譜にないハーモニーを自分で付けるというのは遊びの中でしかやったことがない。しかし不思議なもので楽譜がないと自然に耳は和音を聞き分けハーモニーをつけることができるものだ。しかし私の付けられる和音はあくまでもクラッシックの主要3和音の域を出ない。ジャズやゴスペルに特有
のシックススやセブンスの和声は体の中にないから音として出せないのだ。ここにもクリアーすべき課題が見つかる。

90分の予定のレッスンは何と3時間にも及んだ。しかし全く疲れはなく、多くを学んだという充実感があった。さて、D氏は「わたしが新しいことを教えるのではない。すべてはすでにあなたの中にあることだ」と言うが、わたしの内にある眠っているものが目覚めることができるだろうか。すっかり音楽が楽譜に頼らなければならなくなっている今の時点から、フォーマルな音楽教育を受ける前のひたすら耳から聞いては歌い、ハーモニーを付けていたあの時点に戻る必要があるのだろう。




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2003年06月19日(木) なんの変哲もない日常の断面

基本的に毎日書くはずの日記が気が付かない間に滞っている。
この日記は一応文芸ジャンルに登録しているから、単に何のことはない自分の日常を記録するというのは気が引ける。しかし、時間を置いて、読み返しておもしろいのは案外、その日のなんの変哲もない日常の断面だったりする。他人にとってはおもしろくも何ともないであろうが。しかし、あえて、今日という日のことがらを書き留めておこう。

朝7時起床。Hは外泊しておらず、mGは歯が痛く、朝食事を取らないまま出勤したので、ひとり、フルーツとミューズリーのヨーグルトかけとコーヒーの
朝食、PCを相手に。

朝10時まで家事やしたくやメールや掲示板の返信書きなどをし、自転車でジムへ

ジム スタジオで 10時30分〜16時

   ラテンエアロ
   ダンベル体操
   カロリーバーナーエアロ
   太極拳
   の4本、いつもの3本に太極拳が加わった。

ジム 風呂及びサウナ、至福の時。 16時〜17時

夕方6時、まぐろ丼の食事を摂った後、自転車はおいたまま、最寄の駅から電車で、ゴスペルクラスの会場の教会へ。そこから教会までは電車10分徒歩5分という近さ。

ゴスペルクラス 19時〜20時30分

この日は22日の演奏会のリハーサルということだったので、わたしはMDで録音しつつ聞く。それにしても指導者のレイの歌はすごい!明日のプライベートレッスンが楽しみだ。

10時少し前に帰宅。M駅で待っていてくれてたmGと共に帰る。(途中、一回ケンカ、正確にはたりたが一方的にふてくされ、いっしょに歩くのを止める。じき回復)


そしてその後、PCの前に2時間。その間、Hの食事も整える(スパゲティーナポリタンとほうれん草とツナのサラダ)

さて、12時を回った。これから入浴、そして就寝

と、こういう一日。おそらくはこれから毎週木曜日のスケジュールはこれ。




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2003年06月16日(月) 降って沸いた我が家のベジタリアンブーム

我が家の青年Hは肉であればよかった。肉があればよかった。肉と野菜がのっかっている皿をテーブルの上に置いておけば、朝には、きれいに肉の部分だけが無くなっていた。

ところがこのH,先週6日間に渡るArt of Living というヨガのクラスに出るようになるや、肉は食べないのだという。
「別にいいよ、ぼくに合わせてくれなくても」
と言うので、カレーにもチキンを入れ、次男が寮から戻ってきた週末は予定どおり焼肉をした。ヨガだったらわたしは6年もやってきた。その間、肉を食べるななどと言われたためしがなかったし、別に肉を食べたからといって、そのクラスに出席できないというわけではないだろうと、彼の発言を無視して作ったものを食べさせようとした。

ところが、あの肉好きのHが一口も肉を口にせず、肉の味が付いた野菜も食べず、納豆ご飯ばかり食べている。もともと痩せているのに栄養失調にでもなられると困るので、しかたなく肉無しの料理を作り始めた。
今朝は朝食と昼食の兼用に、キャベツ、ピーマン、たまねぎ、にんじん、なす、ちんげん菜と、とにかく冷蔵庫にあるだけの野菜と買い置きしていた缶詰のサラダ用豆をいっしょに炒める。肉無しの野菜炒めといったところ。どんなにまずいかと思いきや、それぞれの野菜の味がそこなわれていなくて、肉を入れたものよりおいしいと思った。また少しでもたんぱく質を摂れるようにと塩、胡椒を味噌と砂糖に代えたのも思わぬ効果をもたらした。味がこってりとこくがあり、これならば肉はむしろないほうがいい。

ベジタリアンともなれば、親しか食べなかったフルーツとミューズリー入りのヨーグルトの朝食も避けて通るわけにはいかない。また、ヨガにおいては酒も飲むなということらしく、帰宅時間まで早くなり、当然早くベッドに入るので朝も早い。そのヨガのクラスのおかげで、食生活のみならず、彼の生活そのものががらりと変ってしまった。人間、いつ変化のきっかけが訪れるか分らないものである。ついでに彼が自分のぐちゃぐちゃな部屋をどうにかしようという気になってくれたら、言うことはないのだが。

さて、今までは深夜に帰ってくるHの食事のことは考えなくてもよかったが、今夜もベジタリアンディッシュをこしらえなくては。かぼちゃと豆の煮物を甘辛く煮付けて、マカロニサラダを作ろう。サラダにはきゅうり、スイートコーン、たまねぎ、りんご、うずら豆、ひじきとあるものは何でも入れるのだ。我々もこの菜食に付き合えば、さらに理想体型に近づけるかもしれない。




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2003年06月13日(金) アメイジング グレイスを Kさんとのお別れに

Kさんの亡骸をつつんだ御棺は十字架の刺繍のついた白い布をかけられ、礼拝堂の中央に置かれていた。たくさんの美しい花に囲まれて、彼女の元気なころの写真がこちらに向かって微笑んでいる。
kさんに別れを告げる告別の式が執り行われようとしていた。

オルガンによる前奏、讃美歌、詩篇交読と続き、故人愛唱の時になった。
わたしは前に進み出てKさんの写真に身体を向けた。

「Kさん、あなたが好きだったアメイジング グレイス、歌いますね」と心の中で呼びかける。

オルガニストにCの音をもらうと、深く呼吸をし、アカペラでゆっくりと歌い出した。

♪Amazing Grace!
 How sweet the sound.
 That saved a wretch like me!
 I once was lost, but now I'm found,
 was blind but now I see.

 驚くばかりの恵みの
 それはなんと甘い響き
 それはわたしのような救いようの無い者を救った
 かつてわたしは道に迷っていた、しかし今わたしは見出された
 盲目であったが、今は見ている


二週間ほど前、夫と供に彼女の病室を訪ねた時の彼女の言葉を思いだしていた。
「昨日、夢の中でイエス様にお会いしたのよ。こんなこと信じてはもらえませんでしょうけど。わたしはイエスさまといろんなことをお話しました。これまで分らなかったことをすべて聞きました。それに対してイエス様はていねいに答えてくださったの。なぜわたしがこういう人生を送らなくてはならなかったか、そのことも分りました。こんなわたしがイエス様にお会いできたのは、わたしの信仰などのためではありません。みなさんのお祈りの力です。」とkさんは語った。

彼女からこのような恵みに満ちた言葉を聞くのは初めてのことだった。それまでは自分がどんなに不幸で、また周囲の人間がどんなに冷たいかという彼女の痛みの言葉しか聞いてこなかった。死を前にして、さまざまにもつれ絡まった糸がほぐれて、Kさんの心が軽く、温かくなっていることを知った。
何かが変わっている、何か大きな恵みが彼女を覆っている。彼女に訪れているものを私達もまた感じ、深い想いでその場を去ったのだった。


オルガンがこの曲をワンコーラス弾いた後に続けて、オルガンの伴奏で、この
歌を和訳した讃美歌(讃美歌第二編 167番)の一番、三番、五番を歌う。



♪われをも救いし くしきめぐみ、
 まよいし身もいま たちかえりぬ


♪くるしみなやみも くしきめぐみ
 きょうまでまもりし 主にぞまかせん

♪この身はおとろえ、 世を去るとき
 よろこびあふるる み国に生きん



Kさんが亡くなる前の日、牧師から話しを聞いた。
Kさんが お葬儀の時にアメイジング グレイスを歌ってくれるようにわたしを口説いてよと頼んだという。その口説くという言い方が、シャープな物言いをする彼女らしと思わず苦笑した。そういえば、ずいぶん前、わたしが礼拝の中で讃美歌を独唱した時、彼女が何か言葉をかけてくれたことがあった。このところ礼拝で歌うこともなかったが、Kさんはその時のことを覚えてくれていたのだろう。

自分の告別式にわたしの歌を指名してくれるなんて、こんな幸いなことはない。でもKさんが生きているうちにこの歌を歌いたいと思い、その日の夕方、仕事の帰りに病院へ立ち寄り、彼女の病室を訪ねた。ベッドに横になっているKさんはモルヒネが効いているのだろう。わたしが手を取って呼びかけてみても目を閉じたままだった。もう長くはないということは私にも分った。

病室の窓からはたそがれ時の静かな景色が広がっていた。ご主人に先立たれ、子どももいなかったKさんは長い間ひとりで暮らしてきた。この病室も見守る家族とてなく、Kさんひとりだけ。けれどもその病室が外の物寂しげな景色とは対照的にほのかな明るさと優しさに満ちていたのは、この前に伺った時に聞いたKさんの言葉があったからだ。もう一人ではなく、すでに天国へ向かうkさんを案内すべくそこに天使達が控えているのが見えるようだった。このように平和に満ちた終わりの時もあるのだと深い印象を覚えた。Kさんの手を取ったまま、小さな声でアメイジング グレイスを何度も繰り返して歌った。歌っているうちに外にはすっかり夜の帳が下りてしまっていた。




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2003年06月12日(木) その歌が導いた場所は願ってもないところだった

さて、昨日の続きを書くとしょう。DRY BONEの歌がすっかり気に入ったR君、クラスが終わった後もそ歌を口づさんでいたので、迎えに見えたお母さんに楽譜のコピーを渡し、歌の説明をした。

「えっ、ゴスペルを教えていただいたのですか。わたしとこの子、二人で教会のゴスペルクラスに参加してるんですよ。」とお母さん。

「ええっ、どこの教会、わたしもゴスペル教えてくれるところ探してたのよ。」

ということで彼女は同じ市内にあるその教会までの地図を書いてくれた。毎週木曜日の夜が練習日というので、明後日の練習に参加すると伝えると、「わあっ、先生も来るの」とうれしげなR。そう、善は急げ。この出会いはビッグなものになりそうな予感がする。

2日後、最寄の駅から15分くらい歩き、彼女が書いてくれた地図を握り締めて、教会を探す。着いてみれば、いつか車の中から、こんなところにバプテスト教会があるねと話した見覚えのある教会だった。

ドアを開けた時から、教会独特のフレンドリーな空気に気持ちがなごむ。以前見学したカルチャースクールのゴスペルクラスとはまるで違った空気。インストラクターはきちっとスーツを着た年配の黒人男性。元ドリフターズのメンバーだと聞いていたが、彼のしゃべる調子やゴスペルへの熱意は男女の違いこそあれ、あの映画「天使にラブソングを2」でゴスペルを指導するシスターを彷彿させた。そこに集まっている人は必ずしもクリスチャンではないようだったが、祈りを持ってクラスを始め、祈りでクラスを終えることも嬉しい事だった。

そこは日本、わたしの生活圏からいくらも離れていない地域の小さな教会。しかし、まるでアメリカのような、しかもわたしにはあまり馴染みのなかった南部アメリカに旅しているような印象だった。
「みなさん、何度言ったらわかるのですか。しっかり集中してください。やる気がないんであればここにこないでください」とかなり厳しい。しかし、そのエモーショナルな口調にも、彼自身のパーソナリティーにも大いに好感を覚えた。
またそのレクチャーを通訳するお連れ合いも、ゴスペルのスピリットを熱心に伝えようとする魅力的な人だった。

思えば、ゴスペルを学ぶ場所としてわたしが探していた場所はこういうところで、求めていた指導者はこのような人だったと、この出会いがなんともうれしく思われた。これから毎週木曜日の夜通うことは言うまでもないとして、翌日電話でプライベートレッスンの予約まで取り付けた。

「時間は90分だが、自分は時間は気にかけない。たいてい長くなる。リズム、テンポ、黒人音楽の歴史や様々なスタイルの歌、あらゆることを教えよう。いいかい、シートベルトをしっかり閉めて、飛び立てるようにしておいて。」

「分ったわ。そうする。いっしょうけんんめいやるって約束する。わたしはあなたのいい生徒になると思うわ。」

と会話はどこまでもアメリカ的。こういうの、日本ではハッタリというんだろうか。




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2003年06月11日(水) 子どもの時に聞いたその歌は、まこと摩訶不思議な歌だった

前回の日記に黒人霊歌のDRY BONEのことを書いた。
実はこの歌との出会いは古い。まだテレビというものに色などが付いてなかった頃、歌謡番組の中で4人のおじさんたち(ダークダックスだったのだが)がやたらボン、ボンいいながら、意味不明な歌を歌っていた。音がだんだん上がり、そしてまただんだん下がっていく感じが何かぞくぞくした。

ボン、ボン、というのは歌詞にBONEという単語がしこたま使われているからで、だんだん上がったり、下がったりする奇妙な感じというのはフレーズが半音階づつ上がっていき、また半音階づつ下がっていくわけだから、ひとつの歌がめまぐるしく半音階づつ6回に渡って転調しているというわけである。そもそも普通の歌謡曲は転調なんてめったにないわけだから、これはもう、普通でない歌の極みであったのだ。

しかし、その当時、音と言葉の響きとリズムだけが印象的で、その歌の意味は知るよしもなかった。たとえ学校で英語を習った大人であっても、歌い出しのEzekielからして馴染みがないし、Demとかgon-naなどどいう、辞書にものっていないようなスラングがやたらと繰り返されるに至ってはほとんどの日本人にとって意味不明だったことだろう。

この歌が何を歌ったもので、どういう言葉によって成り立っている歌かを知ったのは、アメリカに住んでいた時のことだった。 Wee Sing というカセットテープ付きの子どもの歌の本のシリーズがあり、どこの図書館や本屋にも目立つところにおいてあるのだが、何かの折りにそのシリーズのうちの Silly Songsという歌集を買った。きっと子ども達が選んだのだっただろう。いわゆるおふざけの歌やおばかっちょの歌を集めたもので、我が家の子ども達は美しい歌などにはおおよそ興味がなく、こういったSilly Songs ばかり歌っていたから。

さて、たまたま買ったその歌集の中にこの子どもの時に聞いたなつかしのDRY BONEが入っていたのだ。ちょっとした感動だった。その後、誰かからか、これは聖書の中の話に題材を取った歌だと聞いた。しかし、その時はその題材が聖書のどこいらにあるのか調べる熱意はなく、やがてその歌もその本のことすらすっか忘れてしまっていた。

先週の日曜日のこと、私は体調不良で聖書の朗読の当番も夫に代わってもらったものの、一人ベッドで、この日の日課を読んでいた。この日はペンテコステ(聖霊降臨日)と呼ばれる日で、旧約聖書の日課はエゼキエル書の37章だった。それは非常に奇妙でかつ魅力的な話しだった。そして、その時、あの骨の歌はここを題材にした歌だったとあの記憶のすみにあった歌を思い出したというわけである。

そうなると、なんとかその歌詞を知りたいものだとアメリカのヤフーにまで行って検索したものの、レコードやCDや楽譜は山のようにあるのに、最近のポップスではないせいか、肝心の歌詞は検索にかからない。でも灯台下暗し、書架の中にぎっしり詰め込んである英語の絵本のコレクションの中に混じってあのSilly Songの本が見つかった。探してみれば、カセットテープも保存していた。

さて、よくよく歌詞を読み、楽譜を追ってみると、子ども達の英語の教材として申し分ないということが分った。そこで、今週のクラスの中に急遽、この歌を挿入することに決めたのである。予想以上にこの歌は子ども達にウケた、3歳児、幼稚園児、小学校低学年、高学年の帰国子女クラスの子どもたちにさえウケた。手前味噌になるが、その日の朝に閃いたこの歌の振り付けも、効いたのだと思う。英語のフレーズは身体を使うとよく身に付くと私は考えていて私は何でも振りを付けるのだが、この歌は身体の部分が順を追って出てくるので言葉と振りが一致して効果的だったし、骸骨が歩き回るところなど、子どもたちはケラケラと笑いながらやっていた。

さて、なかでも小2のRはとりわけこの歌を楽しんだ。そしてそこから事は以外な方向に展開していった。

(続く)




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2003年06月10日(火) 枯れた骨たちはカタカタと音をたてて動き出した

<黒人霊歌、DRY BONES の授業のための再話 >

   生き返った骨の話し

2500年ほども前のこと、イスラエルの国ににエゼキエルという預言者がおりました。

ある時、エゼキエルは神さまの声のままに歩いていくと、見知らぬ谷の真ん中に来ていました。その谷にはたくさんの骨がっちらばっています。あたりを見渡せば、谷の上の方にはもっとたくさんの骨があり、その骨はみなカラカラに枯れておりました。

その時空の上から神さまの声がしました。
「エゼキエル、このたくさんの骨は生き返ることができるか」と

どうしてエゼキエルがそれに答えることができるでしょう。エゼキエルは
「神さま、あなただけがその答えをご存知です」と答えました。

「それならばエゼキエル、この枯れた骨たちに言いなさい、神の言葉を聞けと」
そこでエゼキエルは神から伝えられたことを枯れた骨に告げました。

「骨たちよ。神はこう言われる。おまえたちを生き返らせると。おまえたちの上に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、そして霊を吹き込む。そうするとお前たちは生き返り、神のことを知ると」

エゼキエルがそれを言い終わらないうちにカタカタという音が辺り一面に響いてきました。音は次第に大きくなります。見れば、乾いた骨が動き出し、お互いに近づき合い、組み合わされ、ひとつの身体になっているのです。そこに神が霊を吹き付けると死んだ身体はむっくりと起き上がり、立ち上がって歩き始めました。無数の骨から出来た人の数はおびただしく、それはまるで一団の兵隊たちのようでありました。

          ( 出典 旧約聖書 エゼキエル書37章 )



さて、枯れた骨たちがどうやってくっついたかって。こんな歌があるんです。
アフリカからアメリカに連れてこられた黒人たちが作ったこの歌は、沢山の人に長い間に渡って歌い継がれてきた歌 DRY BONE 
きっとどこかで聞いたことがあるでしょう。


  ♪DRY BONES♪

Ezekiel cried, "Dem dry bones!"
Ezekiel cried, "Dem dry bones!"     
Ezekiel cried, "Dem dry bones!"     
Oh, hear the word of the Lord.
     
The foot bone connected to the leg bone, 
The leg bone connected to the knee bone, 
The knee bone connected to the thigh bone, 
The thigh bone connected to the back-bone, 
The back-bone connected to the neck bone,  
The neck bone connected to the head bone,  
Oh, hear the word of the Lord.
     
Dem bones, dem bones gon-na walk a-round,
Dem bones, dem bones gon-na walk a-round,
Dem bones, dem bones gon-na walk a-round, 
Oh, hear the word of the Lord. 
     
The head bone connected to the neck bone,  
The neck bone connected to the back-bone,  
The back-bone connected to the thigh bone, 
The thigh bone connected to the leg bone,  
The leg bone connected to the knee bone,  
The knee bone connected to the foot bone, 
Oh, hear the word of the Lord. 


枯れた骨  (たりた 訳)     

エゼキエルは叫ぶ、おまえたち、枯れた骨たちよ

エゼキエルは叫ぶ、おまえたち、枯れた骨たちよ

エゼキエルは叫ぶ、おまえたち、枯れた骨たちよ

おお、神の言葉を聞け


足の骨はひざの骨にくっつき

ひざの骨はももの骨にくっつき

ももの骨は背骨にくっつき

その背骨は首の骨にくっつき

首の骨は頭の骨にくっついた

おお、神の言葉を聞け


骨が、その骨たちが、歩きまわるよ

骨が、その骨たちが、歩きまわるよ

骨が、その骨たちが、歩きまわるよ

おお、神の言葉を聞け


頭の骨は首の骨にくっつき

首の骨は背骨にくっつき

その背骨はももの骨にくっつき

ももの骨は足の骨にくっつき

足の骨はひざの骨にくっつき

ひざの骨は足首の骨にくっついた

おお、神の言葉を聞け




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2003年06月09日(月) 身体が「待った」をかける時

前回、えらく威勢のいい日記を書いたと思いきや、週末の2日間、ダウンし、ベッドの中で過ごした。これはいったい何が起こったのか、何が問題だったのか、今後のために立ち止まって考えてみる必要があるかもしれない。

そもそも6日は一ヶ月も前から予定が入っていて、その日の朝までそこへ行くことに気持ちは向かっていたのだ。この日はミュージカルの公演の後、初めての集まりで、再演の依頼についてどうするかの話合いが持たれる事になっていた。

わたし自身は4月6日の公演の後は舞台を目標にする演劇活動には参加しない旨を演出家にはメールで伝えていたものの、話合いの日を日曜日から私の都合の良い土曜日に変更してくれたという経緯もあり、また一年間いっしょにやってきた仲間とも再会したいという気持ちから、話し合いには参加する心積もりでいたのだ。

しかし、この日の朝、身体がどうにも置き上がらない。熱はないし、風邪をひいた感じもしない。しかし立ち上がろうとするとくらくらと眩暈がし、何より、気分が相当落ちている。身体なのか心なのか、その声の出所は定かではないものの、「行くな」と言う声がする。「行かなくては」という私の意志に対し、私の中のもうひとつの私が全力で「待った」をかけるのだ。内なる声だけであれば、聞かない振りをして出かけるところだが、どうやら身体までその声に協力している。これではもう勝ち目はない。メールで欠席の連絡を取り、ベッドに篭ることとする。

その「待った」の中身は何なのだろう、何を恐れているのだろうといったんは閉じてしまった想いをもう一度解いてみてみようと思った。

舞台までの1年間、自分なりにかなりテンションを上げて取り組んできた。ミュージカルの練習をすべてのことに優先させてきたともいえる。義父もまた私の父も病気を抱えており、ミュージカルなどと言ってはいられない状況がいつ訪れるとも分らない状況だった。しかし幸いなことに父たちも元気でいてくれて、練習も一日だけ仕事と重なって出られなかっただけで、後はすべて出席することができた。確かに気持ちを張ることでかなり困難な状況も乗り切ってこれた。しかし、それを乗り切った後、もう一度自らをその緊張の中に投じることはできないと感じている。演出家もまた他のキャストの多くの人たちも再演に向けてエネルギーを集めようとしている時、このネガティブなエネルギーをその場に持参することがためらわれたことは確かだ。いつだってサービス精神旺盛の私は、自分の想いとは裏腹に、まず相手の期待に答えようと動いてしまう傾向がある。そういう自分の動きを予感した上での「待った」なのだろう。

去年のこの時期、当然のこととして期待していた作曲家の先生の指導やリードを得ることができないことがはっきりし、経験もなく訓練もしてきていない私が音楽担当として任された。その時には春に控えた舞台のことを思い浮かべて脂汗がにじむ想いがあった。時間を使うことや練習自体にはそれほどプレッシャーはないが、ミュージカルとして観客が納得する歌を披露することができるだろうか、そこまで持っていくことができるだろうかというプレッシャーは大きかった。自分の歌うところだけでよければ、いくらでも練習できるが、他の人の歌は私一人があせったところでどうにもしかたない。これが学習の成果を発表する発表会であるなら気楽だ。しかし観客がお金を払って見に来るパフォーマンス。発表会とは違う。経験が無い、努力した、というのは言い訳にはならない。そういう想いを抱えての1年だった。結果はそれぞれの歌はパフォーマンスとしてもそれほど損傷のない出来で、ミュージカルそのものも成功だったと言えるだろう。私自身、他のメンバーと同様、達成感や充実感を感じたことは確かだ。

本来なら達成感や充実感は次のステップへと移行していくものなのに違いない。その点、再演に向けて動き出そうとする他のメンバーは正しい。ミュージカルに対して健康的にかかわってきた証拠だ。それに対して、私には身体のレベルから「待った」がかかる。それは私が自覚する以上に自分の気持ちに無理をさせてきたからだと思う。この点はおおいに反省の余地がある。私自身の性格が抱える問題もそこにある。しかし、その無理を押しても、この一年間そこにかかわるということは私自身が選択し、受け止めたひとつの課題だった。そして課題を果たした今、このひとつのことをすっかり終えたいと思っているのだ。

公演の日、様々な感慨の中で「今終わるひとつのこと、今越えるひとつの山」という歌のフレーズが繰り返し浮かんできていたことを思い出した。




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2003年06月06日(金) 生垣の剪定中、18歳女子ふたりに声をかけられる

毎週金曜日は家事日と決めているのだが、今夜も、また今週末もジムへは行けそうにないので、今日は予定していた生垣の剪定を後回しにし、ともかくエアロビを2本こなし、モールの中にあるブティックで見つけた変ったプリントの
そしてまた変ったデザインのスモック風ブラウスなどを衝動買いして夕方帰宅する。この服、なんだかティンエイジャーの領域の服のような気がしないでもないが、いいのだ。Pの昨日のBBSの書き込みによれば、ファッションとは予想される自分とは違う自分を楽しむものらしいのだから。

もう6時だがまだ外は明るい。なんとか暗くなる前に生垣のレッドロビンの剪定をやってしまえるかもしれないと、急ぎ、脚立や剪定ばさみなどを用意する。バッサ、バッサと豪快にハサミを入れていた時に「センセイ」と背後から女の子の声。振り返ってみれば、中学3年まで家に英語を習いに来てたSちゃんとTちゃんだった。2人ともすぐ近所に住んでいるのに、時折り、自転車に乗っていてすれ違いざまに声をかけるくらいで、この2年間、あまり話しもしていなかった。小学校6年生から中学3年まで4年間いっしょに勉強した5人は高校はそれぞれ別々の高校へと進学していった。ようやく新しい環境に慣れた6月の初めに、我が家でクラス会を開いたが、それから2年、集まることもなく日々が過ぎていたのだ。

TもSももう高3。子どもっぽい体型からすっかり女性らしい体つきになってはいるものの、当時わいわいとにぎやかに集まっていた頃の彼女達と少しも変ってはいない。
「ねぇ、クラス会やろうよ〜」と2人。
「じゃあ、近くの喫茶店に集合する」と持ちかければ
「センセイの作っためんたいスパゲッティーの味が忘れられないんだけど」と殺し文句を言うT。

そんなもんいつ食べさせたんだろう。確かに4年の間にはクリスマス会とか、夏休みスペシャルクラスとか、学年終了祝いとかいろいろ理由をつけて
パーティーのようなことを何回かやった。彼女達は今度も昔のように我が家の狭いリビングルームに集まりたいらしい。
みんなに連絡を取って2週間後の金曜日に入試突入激励クラス会をやることに話しがまとまる。

「これからどうするの」もうあたりは暗くなってきている。
「ダイエットのためにこれから2人で歩いてこようと思って」と2人
「何、歩く? 情けない、走らなくっちゃあ。あたしなんて45分は休まないで走るわよ。」
「ええっ、そんなの絶対無理。一分も走れない!」

なによなによ。中学の時はあれほど毎日部活で走ってたじゃないの。その若さで中年のオバハンに負けてどうするのなどと言いながら今のわたしが18歳の若き乙女たちよりも体力があるということがちょっと自慢だった。
走るどころか自転車にも乗れなかった自分の18歳の時のことはひとまず棚に上げて。




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2003年06月05日(木) 掲示板っておもしろい

制服のことどう思う?って問いかけをして、掲示板やメールでいろんな方々が意見を寄せてくださった。当然制服の良い点と悪い点があるわけで、それぞれの好みや感覚や、はたまた制服に抱いているトラウマのあるなしも関係し、とても結論を引っ張り出せるような問題ではない。でもそこで、それぞれの方が胸の中にあった「言いたい」ものを出してくださって、そこにひとつの熱気が漂ったことは良かったなと感じている。こういう人の意見を聞いたり、それに対して、同感!とか反対!とか思う時におこるフツフツ感は好きだ。本や新聞だと読むだけでそれを外に出せないが、ネット上ではそんなことも可能になる。

BBSでのやりとりを見た方から、「みんな仲間なんでしょ。よく会っておしゃべりするんですか」と言われたが、実際そこで語り合う仲間は住んでいるところも別々、顔も知らず、会ったこともないというのがほとんどの間柄。そして、それぞれ、何かの検索でこのHPに辿りついたり、日記を読んでメールを下さったりというのがきっかけ。いわば、自然発生的な人の集まりがそこにふわりとできた。いえ出来つつある。きっと、また新しい方が訪ねていらっしゃることだろうし、新しいネットワークも広がっていくのだろう。

この日記を読んでくださっている、まだ出会っていない方々ともいつか、おしゃべりする日が来るのだろうと楽しい気分でいる




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2003年06月02日(月) ねえ、制服ってまちがってなあい?

さっきからこんにゃくやら厚揚げやら大根やら人参やらを煮ながら、頭はしきりにひとつのことを巡っている。それは制服というもののこと。制服への腹立たしさは今に始まったことではないが、一斉に夏服に変る衣替えの今日。制服に支配されていた頃のトラウマが疼くのだ。

日本の中学校と高校から制服がなくなるとのはいつ頃のことになるのだろうか、それとも私の孫が中学校に通う時分になっても、首のまわりが窮屈なひたすら真っ黒な詰襟を5月31日まで着続けるという理不尽が続くのだろうか。
あるいは、いくらズボンを掃きたくっても許されず、どうしたって性的な興奮を引き出さずにはおかない極端に短いスカートの下から生足をにょっきり出して自転車をこがなければならないのだろうか。そんなことを考えると自分が生徒だった時の日本の社会へ向かう何か絶望的なやりきれなささえ甦ってくる。

人間の一生で6年間は長い。その6年の間、毎日人と同じものを、その日の気分と無関係に着続けるということの不自然さに誰も何も言わない。当の本人たちも。

不自然なこと その1 個性の発達をさまたげる

いくら個性を尊重するなどと教育目標に掲げても、制服(ユニフォーム)は見た目がどこ子も同じに見えるようにわざわざユニ(ひとつ)のフォーム(形)の中に子ども達を閉じ込めるものに他ならない。そのような中で個性が尊重され得るはずがない。


不自然なこと その2 子ども達の色彩感覚を損なう

だいたい制服は黒、紺、グレーと相場が決まっている。教室はモノトーン一色である。そこには色がない。しかし、色はエネルギーそのもの。色がさまざまに人の心理に影響を及ぼす。ある色の服を着たい時にはその色が持つエネルギーを身体や精神が必要としているのだし、色と日々接することで自分自身の心にも敏感になる。それに6年間、このモノトーンの中に子どもを閉じ込めておいてどう色彩感覚を育てるというのだ。

不自然なこと その3 きわめて不健康

思春期の子ども達は新陳代謝が激しい。体内から出る分泌物が当然多い。常識から考えてそういう年齢の子ども達にはTシャツとジーンズに代表されるような毎日ざぶざぶ洗えて吸水性も良い、綿素材の服だろう。しかし、ウールや化繊でできている多くの制服は洗濯機で毎日ざぶざぶ洗えるようには出来ていない。

不自然なこと その4  制服こそがセクシャルなコスチューム

女子高生の制服がセクシャルではないとはもはや誰も言わないだろう。しかしまるで裸の王様よろしく学校や教育委員会はその社会的な現象をことごとく知って知らぬ振りをし、制服はあくまで学生らしいという態度を貫く。男性の性的刺激をあおるこの上なく危険な格好を若い女の子たちに強要していることを誰も認めようとはしない。そうして女の子たちは敏感にそれを嗅ぎ取り、それを逆手に取って制服を武器にする方法をゲットした。もし制服がなかったら、これほどまでに援助交際などというものが蔓延しなかったのではないだろうか。

制服のこと一つとってもこの国の常識はどこか狂っていると思ってしまう。
あぁ、世の人に問うてみたい
「制服って間違ってない?」と。


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この日記をお読みの方、きっと制服に関しては賛否両論あることと思われます。制服について、それぞれの立場で意見を言い合うことなどはできないものだろうかと常々思っています。

メールやHPの掲示板にご意見などお寄せいただければうれしいです。




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2003年06月01日(日) Sと深川めしを食べて舟越桂を見る

昨日のこと「たりたガーデン」の常連ともいうべきSが上京してくることが分り、急遽Sとオフで会うことになった。今東京都現代美術館で開催中の舟越桂の彫刻展をメインに、時間があれば神田の古本屋街で高橋たか子の著書を掘り出そうという算段で神田で待ち合わせをする。

さんざん、言葉のやり取りをしながら相手の顔も声も知らないといった人との関係をこのところ結びつつある。顔や声を知らなくてもその人のエッセンスのようなものは言葉の中から充分感じ取れるから、それはそれで何の不自由もないと思っているが、もし会うチャンスがあるのならそれをみすみす逃すのはもったいない。短い人生の中でクロスする人間はそれほど多くはないのだから、会えるのならば、オフでも会いたい。

ネット上ですでに知り合いになった人とオフで、つまり実際に会うという場面はこれまでに何度か体験してきて、その度に感慨深いものを感じてきたが、今度もまた、オフで会うことができてよかった。言葉が受肉したと言えばいいのだろうか。言葉と人とがそこで繋がる。なにか昔から知っていたようななつかしさを覚えるのもこういう出会いの特徴。


まず、木立のトンネルの中、深川江戸資料館通りを歩き、深川江戸資料館前の深川めしを食べさせる料理屋に入る。私たちがそこに着いた時にはすでに6人くらい人が待っていた。店内は狭いが、いかにもここでしか食べられない郷土料理といった雰囲気なので、おしゃべりをしながらしばらく待つことにする。
深川飯は初めて食べるものだったがもともとの深川飯はあさりの入った味噌汁がご飯にかけてあるぶっ掛け飯で、それとは別にあさりを炊き込んである炊き込みご飯の深川飯がある。私たちは欲張って両方のどんぶりがセットになっているお膳に決めた。宮崎の郷土料理にも冷汁という同じような食べ物があるが、それとはまた一味違ったこのぶっかけ飯、その甘辛い味噌汁はあさりの出しが効いていてなかなか濃くのある味だった。それにしても東京というローカルの持つ郷土料理の土臭さが何か新鮮でもあった。

その通りをまっすぐ行くと目の前にモダンな建物がドーンと出現する。これがうわさに聞いていた東京都現代美術館。ニューヨークのグッケンハイム美術館やモダンアート美術館、また新しくなったルーブル美術館を髣髴させる建物だった。

舟越桂の彫刻展はかなり人が入って込み合っていた。「永遠の仔」の表紙の彫刻が舟越桂という彫刻家によるものだということは最近知ったが、何年か前にこの本の表紙を見た時に、この彫刻が持つ不思議な雰囲気に惹きつけられた。しかしその惹かれ方というのが、かつて私の中に鎮座していたある感覚を呼び起こすもので、その果てしなく虚ろな虚無感になにかぶるっと身震いする感覚を覚えたのだ。そしてその感覚故に私は話題になっているその本を一度手にしたものの、読み進めることを止めた。

本の表紙になっていたその彫刻と同じ匂いを持つ人の顔がいくつも並んでいた。それが人間の深いところにあるものを引き出していることは良く分かる。どの口にも漂っているひとつの淋しさや虚ろさ。目は遠くを見ているが、その視線は空の空ともいうべきところに注がれているように見える。命がやって来た方向ではなく、死んでゆく方向へと。しかし、この2つ方向は決して両極端ではない。むしろ限りなく近いところにある方向。ひとつの端がくるりと回ってもうひとつの端に届くはずなのだ。この虚無を通り抜けたところに広がるもうひとつの眼差しがそこには見えないまでも内包されてはいないだろうか。今後の作者の作品に注目していきたいと思った。

美術館をSと夫と3人で歩きながら、いつか同じようなシチュエーションがあったことを思いだした。アメリカ滞在中、ニューヨークのオイリュトミー学校で開かれたサマースクールに参加した時のこと、そこで友達になったジュリーという同世代の女性がそのセッションの帰りに我が家で一泊し、翌日いっしょにメトロポロタン美術館へ行った。ミネソタに住む彼女はNYの美術館は初めてだというのでその日ミネソタへ返る飛行機の時間までの間、美術館に案内したのだった。

そういえば、ジュリーもSのように60年代から抜け出してきたような格好をしていた。何か妖精めいていると思ったことまで似ている。




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