たりたの日記
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2003年03月30日(日) |
すとんと我が身に落とした言葉にはきっと力がある |
今日はミュージカル最後の練習。 演出の知人の俳優の方が稽古場にいらして、最後の通しを見てくれた。風貌からして「役者」という感じがするその人の視線を意識してか、あるいは最後の練習だからか、みんな今までにないような生き生きした演技をしていると感じた。しかしさすがプロの視点。コメントは「はっ」としたり、また「ふうん」と考えさせられたりした。
「虚像の中にある真実を大切にしなくてはならない。そこに嘘があってはならない」というコメントはどきりとするものがある。舞台は虚構の世界ではあっても、役者がその人間になりきる時、そのキャラクターと自分が一致する時、その虚構は真実なものになるのだろう。しかし、キャラクターになりきれない時にはそれが嘘になってしまう。その嘘は観客から明らかに見破られてしまうのだ。語りとは違う。語りは語るものと聞くものがいっしょにその世界の中に入っていくのであるが、演劇はその話の世界の中にまるごと自分が入りこまなくてはならない。その人間に成り代わらなければならないのだろう。私の場合、どこか演じている自分を見ている醒めた自分が一方にあるのだ。きっちりとスイッチが入っていない感じがする。
「台詞が単に台詞として演じるのではなく、すとんと自分の中に落とし、その落ちたものが自然と口を突いて出てくるようにする。」ということも納得のいくコメントだ。わたしはまだすとんと落としていない。つまり私自身と台詞の間に距離があるのだ。だから、どこかよそよそしく、芝居がかっている。人の心を動かすほどのパワーはそこには生まれない。
文章だってそうだ。どんなに整った文でも、そこにはその人の匂いもエナジーも感じ取れないものがあれば、子どもが書く詩や文にはっとするようなエネルギーを感じることもある。すとんとその人の胸元に落ちた言葉というのはどんな言葉でもそこにある真実に打たれ、そこにあるエネルギーに触発されるものである。
さて、でも今は文ではなく、台詞のこと。自分の台詞をすとんと我が身に落とすという作業をこの一週間で何とかやり遂げたい。
2003年03月29日(土) |
♪ミュージカル、見に、見に、見に来てね♪ |
ミュージカルの練習から今戻ってきた。来週の土曜日のリハーサルを除けば、今日、明日が最後の練習。今日は10時まで残ってデュエットの部分の練習をした。演技も歌も欲をいえばきりが無いが、全く経験のない者たちがよくここまでやってきたという気がする。ステップをまちがったり、音程が下がったりとそんなミスはあっても、それぞれの人が精一杯表現しようという姿には胸を打たれる。練習場に流れるエネルギーがとてもいい。
埼玉芸術劇場小ホールは蜷川さんのシェークスピアにも使われる本格的なホール。脚本と演出のマオさんはこのミュージカルに彼女の児童文学作家としての想いと情熱のありったけを注いでいる。また、今回舞台美術を担当した画家のKさんの作る森は幻想的でわたしの好きな世界。現代舞踏家のIさんの振り付けはユニークだ。音楽もラップ、グレゴリアンチャント、ジャズ、クラッシックと変化に富んでおり、クラシックピアニストのKさんとジャズピアニストのWさん2人による、それぞれに持ち味の違う生演奏。考えてみれば、かなり贅沢なセッティングだ。
舞台そのものには不安はない。この一週間、そのことに気持ちを集中させ自分なりに最も良い表現ができるように持っていこうと何か力が漲ってくる。心配なのはチケットのこと。この会場は客席が350席ほど。公演は昼と夜の2回なのだが、売れた券を集計してみると、昼の部の券が客席を100席ほど上回る450席分ほど出てしまっており、一方夜の部はまだ100席という状況。このままでは昼の部のチケットを持っていながら入っていただけないお客さんが出てしまう。これはなんとしても避けなくてはならないから、昼のチケットを買ってくれた人に夜の方に回ってもらうよう交渉していかなければならない。しかし、中には遠方からの人や、子連れの方など、どうしても昼にしかいらっしゃれない方も多い。
今日、こんなことをここに書いたのは、もしかしてこの日記を読んでいる方で気が向いたらミュージカルを見に行ってやってもいいかなと思っている方がいらっしゃるかもしれないと気になったからだ。夜の部に来てくださる分には感謝、感激、雨、あられなのだが、昼にいらっしゃるおつもりの方はもう席が埋まってしまっていることをお伝えしておかなければと思ったのである。
さて、ここからは宣伝。 関東地区にお住まいの読者のみなさまでお気持ちのある方、どうぞ「森のおく」のミュージカル、夜の部を見にいらしてくださいませ。
詳しいインフォメーションは劇団MAOMAOジャングルミュージカル「森のおく」のHPをごらんください。 http://homepage3.nifty.com/maomao-gekidan/
練習風景にはあたくしも登場しておりますが、さて、どれがたりたでしょう 友人の娘のNちゃんが、以前よりスリムになったあたくしの写真を見て、パンツ姿がキマッテルなんてうれしいことを言ってくれました。ありがとっ、Nちゃん♪ あぁ、誤解のないように。単に昔がひどかったというだけで、比較の問題ですから。
2003年03月28日(金) |
このふにゃふにゃと頼りないものに凝縮された人間の知恵と技 |
昨日の日記に、7年間使ったコンタクトレンズを紛失したと書いたが、実際はそれより長く使っていたのかもしれない。というのはコンタクトレンズは一方しか失くさなかったから7年前にどちらかのレンズを新しくしたのである。ひょっとするとその時に失くさなかった方のレンズだったのかもしれない。とすれば、10年、あるいはそれ以上使い続けていたのかもしれない。
さて、なぜそのレンズを失くしたことが神の助けだったかということだが、レンズを新しくすべく眼鏡屋に行ったところ、その残ったレンズを検査した人が「これいったいどのくらい使ってます。もう使えないほど傷が入ってますよ。それにマークもすっかり擦り切れていて、いったいこのレンズがどこのメーカーのどういう種類のものかも分らないほどです。」とあきれられてしまった。 確かコンタクトレンズを作ったら、年に一度は定期検査を受けなければいけないのに、私は毎年人間ドッグに入っていて、その時眼科の検診も受けるからそれで良しとし、レンズの状態のチェックを甚だしく怠っていたのだ。
ここでレンズを失くさなければ、この状態の悪いレンズを使い続け、眼に負担をかけ続けることになっただろう。どういう理由で無くなったのかは今持って分らないが、日曜日の朝、片方のレンズが無くなってくれてほんとに良かった。
さて、新しいペアのレンズを作ることにしたものの、レンズが届くまでに3日かかるという。この前のように突然レンズが消えるということがあった後では 大切な舞台を控えていてその日の朝レンズを失くすということが無いともいいきれない。この際、うわさに聞いている使い捨てのコンタクトレンズを1セット買っておこうと思った。1セット30組で5400円。1ペアがわずか180円である。もちろん、これだけにして毎日使うとすれば、毎月5400円新たな支出が加わる。しかし、特別な時に使うと考えれば6年間保存できるのだから1年のうち5回使って1000円なら手元に置いておいて悪くない。
それで、レンズが届くまでの間にこのワンデーアキュビューなる最先端の代物を試してみることにした。あぁ〜ところが、これってとにかく薄いフイルムのようにふにゃふにゃしたものなのだ。しかも黒目よりも大きい。つまり普通に眼を開いただけでは全く入らない。両手を使って瞼を上下に押し広げ、白目が見えるようにしなければならないのだ。苦労するのなんのって、第一日目は一時間近く鏡を覗きこみながら奮闘した。今朝はやく半分の時間でなんとか入ったものの。どうやったらスムーズに入るかそのコツが掴めたというわけではない。何回も失敗しながら、何かの拍子にまぐれで入っただけのことである。だから明日は30分では済まないかも知れないのだ。このレンズと格闘するために、私は朝の忙しい時に30分かそれ以上時間を取られることになる。
次男の話だとクラスの生徒の半数近くの人間がこのワンデーアキュビューを使っていて、みんなひょいひょいと入れているというのである。もしかして今どきの青少年は目が大きいのだろうか、あるいは、手先が異常に器用なのだろうか。いえいえ、それを言うなら、ひとり私が人より目が小さく、また指先が異様に不器用なのではないかという疑いを持つべきだろう。
しかし、このワンデーアキュビュー、いったん目の中に納まってしまうや、もう自分の裸眼と少しも変らない。目の中でレンズが動くという不快さもなければ、ほこりや風のせいでごろごろすることもない。目が悪くないというのはこういうことだったのかと感動してしまった。
科学の進歩ってなんてすごいの。眼鏡だけでも大した発明なのに、目の中にレンズを入れるなどというとんでもないことを人間は考え出し、さらにはレンズを薄いフィルムのように目に貼り付けて矯正するということにまで発展した。その品物がこよなく小さく、薄く、ふにゃふにゃと頼りなげなものであるだけに、そこに集められた人間の知恵とか技とかいったものに溜め息がでるほど感嘆してしまうのである。
2003年03月27日(木) |
目、眼鏡、コンタクトレンズ |
わたしはかなりのど近眼だ。あの保健室などに貼ってある眼力検査の表なんて、自慢じゃないが、定位置からだと一番上のバカでかい文字だって読めはしない。しかし、目が悪くなる前はクラスで一人だけ眼鏡をかけている女の子がうらやましくて、いつ目が悪くなって眼鏡がかけられるのだろうかなどとふとどきなことを考えていた。その女の子、視力検査の度に先生が指し示す文字をどれも「読めません」と繰り返し、その度に「おおっ」と教室にどよめきがおこるのだ。皆が固唾を呑む中、最後に残った一番大きい字をそのぱっちりした目でしばらく見つめた後、彼女が「読めません」と勝ち誇ったように言い放つと、教室は妙な興奮につつまれた。だってあんなにはっきりと大きな文字が読めないなんて普通に視力を持つ子ども達にとっては不思議でしかたがないのだ。同情よりも尊敬の念に近いものが彼女に集まったのは彼女の持って生まれた気位の高さによるものだろう。そして私が小学生の頃、眼鏡にあこがれたのはこの視力検査の場面の故だったにちがいない。
さて、そういう過去があったせいか、中学校2年生の時に急に視力が落ち、眼鏡を手にした時は何か誇らしい気分だった。しかし、若気の至りとはこのことで、それから視力のことや眼鏡のことで苦労する度にあの頃のわたしにもう少し思慮が備わっていたらと悔やまれた。急激に視力が落ちたその理由は分かっている。あの時分、わたしは本の虫だったが、その頃ちょうどドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいて、寝る時間になっても本が手放せず、親から寝ろ、寝ろとうるさくせっつかれ、さりとて本を読むことは止められず、夜な夜な布団の中に懐中電灯を持ち込み、数日間であの分厚い上下巻の本を読んでしまった。目の異常に気が付いたのはその本を読み終えたある日、スーパーに買い物にいった時だった。なんだか、スーパーにうず高く積まれている商品が何かゆらゆらと揺れるようで気持ちが悪くなってしまった。恐らく焦点が定まらない仮性近視の症状だったのだろう。しかし、あの当時は視力回復センターなるものも周囲にはなく、眼科に行くと視力が落ちているから眼鏡を作れということだった。それからはもう、坂道をころがるように視力は落ちていった。そして1年後の視力検査では、晴れてあの眼鏡の女の子のように、指された一番上の大きな文字に「読めません」と得意げに答えたのだった。
さて、いい気になってかけていた眼鏡がどうしてもいやになったのが高校2年生の時、わたしが男の子にモテないのは一重にこの黒ぶちの眼鏡(赤ぶちだったかもしれない)のせいではないだろうかという疑いを持ち始めた。思い始めるとますますそんな気がして、わたしは世の中にあるというコンタクトレンズとやらをどうしても試さないではいられなくなった。当時、コンタクトレンズを作るためには電車に一時間も乗って市内の眼科へ行かなければならない。しかも一週間の間毎日通院して一時間ごと装用時間を延ばしながら目に慣らしていくというめんどうなことをしなければならなかった。またお金も結構かかったと思う。親はわたしがかなりドジだということを取り上げ、せっかく高いお金を出してコンタクトレンズを買っても、すぐに失くすか壊すかに決まっているからそんな無駄なことはやめろと執拗に私を説得する。きっと私に娘がいたとして、その娘がわたしくらいドジであれば、私にしても買ってやるとはいわなかっただろうが。そう、親というものには良識がある。それに娘が男の子にモテなくてもいっこうにかまわないものである。いったいあの時、どういう方法を使って親を説得したのか覚えてはいないが、なんとか口説き落としてみごとコンタクトレンズを手にすることができた。
ところで全く信用なかった私がこの30年間の間にレンズを失くしたのはわずか3回。これはかなり良い成績といえる。最後にレンズを落としたのは確か7年前、ということは7年間同じレンズを使い続けたということになる。ところがこのレンズをとうとう失くしてしまった。先週の日曜日の朝、レンズを付けるべくケースを開けるとそこにあるはずの右目用のレンズが無い。落とすとか壊すとかというのならまだ納得がゆく。しかし入れたはずのところにレンズが無いということをどう考えればいいのだろうか。手元が狂ってそれに気が付かないほど、指先の感覚が鈍くなってきたということなのだろうか。この30年間一度もそんなトラブルがなかったというのに。ケースを丹念に見てもレンズはやっぱり一枚しかないく、その日は仕方なく眼鏡をかけて教会へ行った。さて、しかし、今になってあの時にレンズを失くしたことはむしろ助けだったと、私はむしろ感謝している。これはもう神様か、あるいはフェアリーが仕組んだことなのではないかと思ってしまった。その理由は明日書くとしよう。
2003年03月25日(火) |
猫と暮らす人にはなぜか縁がある |
昨日、連れ合いのmGがPさんのサイトの掲示板へ「猫と暮らす女性について」という書きこみをしていた。ふうん、文章だとこういう感じなんだ。その文章はなぜか生身の本人よりも本人らしい。
さて、その猫と暮らす女性ならわたしも知っている。そしてmGがPさんのところでその女性のことを書いた訳もなんとなく分かる。「ひとみさん」とわたしたちが呼んでいたその女性のしなやかさや自由さ、そして不思議さがどこかPさんと似ているのだ。
わたしがmGと出会ったのは、彼がひとみさんのアパートへの居候を終え、いくらか血色も良くなった頃だった。スペインオムレツを食べさせてくれたという、元彼女でも、ガールフレンドでもない、ミステリアスな年上のその女性に会ってほしいと彼は言う。なにやらあやしげな場所に出入りしているらしいmGとは違って、当時のわたしは夜の10時まで音楽棟の練習室でバイオリンやピアノを練習するという超真面目な学生だったので、彼女に会うことも、またヒッピーっぽい人たちの溜まり場へ出向くことも、かなり気後れしていた。いくらmGが危険な男には見えないといっても、栄養失調の彼を助けるべく、一週間も女ひとりのアパートに泊めて日々栄養をつけてやる女性などと聞けば、それだけでビビる。わたしの数段上を行く女だとライバル意識などは抱きようもなかったけれど、どんな評価を受けるのだろうかと不安ではあった。
シタールの音楽が流れ、ふらりとなるような強いインドのお香が漂うその喫茶店。隅の丸テーブルに彼女がいた。その時わたしはジーンズに黒いタートルネックのセーター、その上からオリーブ色のふわっとしたモヘアのオフタートルのセーターを重ね、黒いセーターで覆われたの首の真ん中あたりに緑色の四角い皮のブローチを付けていた。彼女は屈託のない輝くような微笑で、「あなたのその格好、好きよ。そのブローチの位置がいい。」となにかそんなことを言った。
なぜだか良くはわからなかったけれど、わたしは彼女に気に入られ、今度夕食作ってあげるからいっしょにおいでよと招いてくれた。それからしばらくして、彼女のアパートを訪ねたが「わたしのとこアンアンとかノンノンなんかに載っているような部屋じゃないから、期待しないでね」と前置きしただけのことはあって、美しく妖艶な彼女の風貌とはちょっとそぐわないくらい殺風景な部屋だった。その家の装飾といえば、2匹の美しい白猫くらいで、猫たちが出入りできるようにだろう、トイレのドアは開いたままだった。猫を飼っているというよりは猫たちといっしょに暮らしてるという印象で、もしかすると彼女も猫ではないのかと思えるような不思議な空間だった。当時、わたしは猫がすぐ側を通っただけで身がすくむというほど猫が苦手だったから、彼女の作ってくれたおいしい炊き込みご飯と上等な牛肉のしぐれ煮をいただきながらもそわそわと落ち着かなかったことを思い出す。
さて、mGと結婚した後、彼女から渡したいものがあるから出てこないか、と昼間に電話をもらった。待ち合わせの喫茶店へでかけていくと、彼女は「これお祝い」と言ってキースジャレットの新譜のLPレコードをくれた。その後で彼女はこんなことを言った「結婚したらもうわたしのものって安心するとだめだよ。彼はそういうのいやになるだろうから。」その時は彼女の言うことの意味が分らないでポカンとしていたような気がする。今になって思えば、飼い主に忠誠を誓う健気な犬のようなワイフにはならずに、気侭で我侭な猫のようであればうまくゆくよと、そんなアドバイスだったのではなかろうか。彼女の忠告を守ったというわけでもないが、わたしは猫のようにmGと暮らしてきたような気がする。とすれば、彼も猫と暮らす人ということになるだろうか。
ところで今日はmGの46回めの誕生日。帰りは遅くなるだろうけど、上等なワインとチーズでお祝いをするとしよう。
2003年03月24日(月) |
たいへん!喉がやられたぁ〜 |
どうしよう!いちばん恐れていたことが現実のものとなってしまった。 ここ一週間ほど、朝目覚めた時にのどが痛い。鼻の粘膜も炎症を起こしている感じがする。しかし風邪というわけでもないし、花粉症でもない。いつものアレルギー性鼻炎だと高をくくっていた。 ようやく仕事も終わったので今日は思い切って病院へ行ってみたのだ。
「鼻が炎症起こしてますねえ。」
と医者。
「あのう、鼻はいいんです。のどがちょっと痛いんで、それが心配で来たんです。4月のはじめに舞台があって歌わなくちゃならないんですけど、練習してかまいませんか?」
と、頭は歌のことばかりのわたし。
「のども炎症おこしてるよ。治るまでは声出さないほうがいい。少なくとも一週間は。」
そんなぁ〜。
「はぁ、でも...これって風邪なんですか?」
「いや、あなたが鼻炎をほおっておいたからそれが喉にまできたんですよ。」
あぁ、そんなこともあるのか。こうなることが分っていたら、さっさと鼻の治療に来るんだった。だが、後の祭り。しかし、今回は前回のようにすっかりのどの炎症をこじらせて、声も出ない状態になってから医者に来たのではないから、不幸中の幸い。なんとか本番までに治すぞ。
前回の喉のトラブルの時も2、3週間後に歌の発表会を控えている時だった。 間際になって練習ができなくて不安なことこの上なかった。その時のことがあったから、のどにはこの1年、かなり注意を払ってきたはずたっだのに。 さて、ミュージカルの公演まで2週間。今日から毎日3時間は練習などと予定していたというのに。
まずは早く寝るようにして、毎日医者へ通い、ネブライザーを受ける。練習は 台本を目で追いながらシュミレーションで行う。ソロで歌うところの動きを考えることになっていたから、しばらくは動きや演技にフォーカスして、この際歌のことは忘れよう。
きっとこのハプニングにも何か意味があるのだろう。 一見、失敗やマイナスだと思えることが、かえって良い方向に繋がっていくことはこれまでにもあったから。
あぁ、それにしても...
「神様、どうか早くのどの炎症を取り除いて歌が歌えるようにしてください。」
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愛する読者のみなさん。 投票ボタンに、人気サイトランキングのボタンまでお願いしてその上にさらにお願いなんてずうずうしすぎますが、どうぞ、あたくしの喉が早く治るようにお祈りしてくださいませ。
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2003年03月23日(日) |
ジョーンバエズのようだと言われたからには |
今日は教会学校にNちゃんとNちゃんのパパとママ、それに生まれたばかりの赤ちゃんがそろって来ていた。赤ちゃんは好きだが、生まれたばかりの赤ちゃんというのは感動的なものがある。この存在には何もかなわないっていう感じ。生まれたての赤ちゃんがいちばん神さまに近い存在だという気がするからだろうか。
今日の教会学校の説教は長老のMさんのゲストスピーチだった。Mさんのお母さんが72歳の時、夕食をいっしょにすませて帰ろうとするとMさんのお母さんが「これからがわたしの仕事なの」と言う。怪訝に思ったMさんの奥さんがいったい何の仕事なのかと聞くと、もう身体も弱り目も見えなくなっているMさんのお母さんの仕事というのは、4人の子どもたちやその家族のことを順番に時間をかけていのるのだという。MさんもMさんの奥さんも、年老いたお母さんが毎晩、そうやって祈っていることを初めて知り、母親の愛の大きさを知ったと、そんなお話を子ども達に聞かせてくださった。聞きながら思わず涙が出た。わたしの母もまた夫の母も毎日かかさずわたしたちの家族のために祈ってくれていることを知っているからだ。わたしも祈ることがわたしの仕事と言い切れるような母親になりたいと思った。
お話の後、わたしは思いついてひとつの歌をみんなに紹介した。「パパとママと赤ちゃん」というゴスペルフォークを、まだママになっていない20代の私はギターを弾きながら良く歌っていた。それ以来、歌うこともなかったが楽譜を見るとコードも覚えていて、ちゃんと弾き語りができた。いつものぶっつけ本番だが、若い頃あきるほど歌っていたこの手の歌はもう身体の中に入ってしまっているかのようにいつでも取り出せるようだ。Nちゃんのママとパパも喜んでくださった。
さて、それだけでも充分うれしい気持ちだったのだが、さらにご機嫌なことがあった。礼拝の後、Mさんがわたしが歌う様子はジョーン.バエズのようだと言ってくださったのだ!これは全く殺し文句に匹敵するのだが、Mさんはわたしがそれほど舞い上がるとは予想していなかったらしい。中学生の頃、ジョーン.バエズのLPを聞き、わたしは虜になってしまった。彼女の声も歌い方も、また歌詞もメロディーも、そのすべてに心をつかまれた。歌で反戦を訴え、人種差別を訴える60年代の象徴のような彼女に、何か崇高なものも感じていた。学校から帰るとギターをかかえ、LPを繰り返し聞きながら、ギターのフレーズをコピーしてはまねをしては歌っていた。リベラルなものへの傾倒も、またアメリカや英語への憧れも窓口は彼女だった。考えてみれば、あの思春期の頃、彼女の影響はかなり大きい。
夕暮れ時の大宮駅では若者たちがギターを鳴らしながらラブソングなどを歌っているが、わたしはここで反戦歌を歌いたいと密かに思っている。若かったら迷わず歌うのだけれど、いくらブーツカットのぴちぴちのジーンズをはいていたとしても、若者には見えないのだから、通る人から「ぎょっ」という顔をされるに決まっている。そういうルール破りに、人は厳しいものだ。それを覚悟で敢えて歌うか。どなたかごいっしょしません?若くても、そうでなくても。
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2003年03月21日(金) |
ピニャタを割ることができなかった少女がいた |
たりたガーデンのトップの写真、左側の木に何やら黄色い動物の形がしたものがつるされていて、それを子ども達が取り囲んでいる。この動物の人形はピニャタと呼ばれるものでオリジナルはメキシコ。もともとはプレゼントやおいしいものを入れる粘土のつぼらしいが、たいていは鳥か動物の形をしている。メキシコでは12月16日からクリスマスイブまでの間、子ども達が行列を作って町を練り歩くポサダという催しものが9回に渡って行われる。その最後のポサダの時にピニャタ割りをする。
アメリカのパーティーグッズを売っている店には様々な形の張りぼてのピニャタがたくさんつるされていた。たいていは子ども達のバースデイパーティーのアトラクションで使われるようだった。キャンデーや小さなおもちゃがたくさん詰め込まれたピニャタが木につるされ、目隠しをした子ども達が順番に棒でピニャタをたたく。ピニャタがみごと割れて、キャンディーが雨と降ってくると子ども達は奇声をあげながらわれ先にキャンディーを受け止めるのである。なんだか、日本のすいか割りと棟上の時の餅まき(今はあまり見かけないが私の子どもの頃はあちこちで行われていた)をいっしょにしたようなゲームだ。
さて、この日、Hの誕生日パーティーを夫と私で企画し、ゴーストバスターをテーマに、いろんなゲームをしたのだが、ピニャタをゴーストに見立て、背中にリュックをしょったゴーストバスターたちが、それをやっつけるという筋書きだった。子どもたちをピニャタを割るべく一列にならばせようとしていた時、サラという女の子が、「I can't 」と言って、後ずさりをしてみんなから離れてしまった。彼女の少し悲しげな怯えたような表情から、はじめ彼女の家の宗教上の理由か何かでこの遊びを禁止されているのだろうかと思った。なにしろ、息子たちが通う学校にはさまざまな人種、国の子ども達がいるので、常に、そういった「違い」にぶつかる。
後に知ったことだったが彼女の両親はポーランド人だった。学校の父母会やボランティアでも両親そろって積極的に参加していて、人種差別をなくすための学校のプロジェクトのために寄付をしたことが伝えられた。確か、お父さんが教室でホロコーストの特別授業をしたのではなかったか、Hがそんなことを話していたような気がする。人種差別や戦争に対してはっきりした意見を持ち、親の立場でそのことのために活動していた人たちだった。
サラが、ピニャタの動物をたたくことを拒否したことが、その時の顔が今でも忘れられない。他の子どもたちにとってはなんでもない遊びが、彼女にとっては胸の痛むことだったにちがいない。たとえ紙でできた人形とはいってもその人形を棒でたたくという行為を彼女は自分に課すことができなかったのだ。
人は本来、人をあるいは動物やものを破壊することなどできない生き物なのに違いない。ところが、それが何かの拍子に破壊に対して無感覚になってしまう。張りぼての動物だから平気だというのと同じように、人種が違うから、宗教が違うから、考え方が違うから、見も知らぬ遠い国のことだからという理由でその国のひとつひとつの命に対して無感覚になってしまうのだ。ナチスはユダヤ人という理由で多くの人間を殺し、アメリカは第二次世界大戦を終結させる為として日本に原爆を落とした。そして日本もまた南京で大虐殺を繰り広げた。私たち人間の歴史はこれほどの過ちを繰り返してきたというのに、今だに正義を振りかざして破壊と殺人とを繰り返そうというのだ。
あの時のサラは今20歳。きっとアメリカのどこかの大学に通っていることだろう。アメリカのイラク攻撃をどう受け止めているのだろう。ピニャタをたたくことができないと訴えた彼女は胸の痛む日々を送っているのではないだろうか。
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この不景気に、しかもこの歳でフルタイムの、それもかなりやりがいのありそうな仕事のオファーがあった。今いる私の世界よりもうんと広い場所へ出ていくことが求められる。英語のレポートや会議、海外への出張や研修。多くの人や場所と繋がりを築いていく仕事。このお話があってから心はかなり揺れていたが、今日お断りした。
5年前、フルタイムの仕事に付くべく、高校の英語教師の資格取得のためにガリ勉をしていた頃であれば、願っても無いとこの仕事にとびついたことだろう。多少な困難やリスクがあったとしても、グリム童話の「かしこいモリー」よろしく、「やってみます!」といつもの身の程知らずを貫いたことだろう。
今日、その仕事の内容を聞くうちに、それが片手間ではできないこと、そこに全力投球することが求められていることが分った。また私の実力とその仕事の内容を考え合わせると、かなり背伸びし、プレッシャーを引き受けることとなる。その仕事をやることで得ることは大きいだろうが、しかし失うものも大きいと感じた。
真っ先に頭に浮かんできたのが親たちのこと。わたしの親も夫の親の親も年老いて病気を抱えながら自分達だけで暮らしている。なんとか子ども達の受験が終わるまでは元気でいてと祈るような気持ちでいたが、その受験も無事終了した。それが終われば今度は親たちの終末につきあう時期だとどこかで覚悟していたはずだった。そのためにも、身動きできる状態でいなければならないはずだ。
次に足を引っ張ったのが、私が教えている幼児や小学生たち。探せば、私の変わりにその子たちに英語を教える人は容易に見つかるだろうし、英語教室はいくつもある。子ども達にとっては私の存在など大したものではない。しかし、私にとって子ども達とかかわることがなくなってしまうことは大きな喪失と思った。教えることが好きなのだと思う。限られた時間の中で目の前にいる子ども達とダイレクトに繋がるその充足感や高揚感は他の仕事では替えが効かないという気がする。
その2つのことを考えた時、おのずと答えは見えてきた。 広い世界へ自分を放つ方向ではなく、自分のすぐ足元を見て、そこにあるニーズに答えていくこと、そこから学び取っていくことだと。そこから何かを伝えていくという方向。
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2003年03月19日(水) |
戦争、この忌まわしいものが |
戦争、この言葉の形も響きもひどく嫌い、吐き気がするほどに。 しかし、また、誰もが忌まわしいと思っている戦争が行われようとしている。 戦争は起こるのではない。起こすのだ、人間が。 人間が人間を殺すという選択をあえてするのだ。
なぜ?
何のために?
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind
かつてボブディランが歌ったように その答えはただむなしく風に舞うだけなのか。 わたしたちはどうすればいいのだろう。
2001年09月12日、同時多発テロの翌日の日記を紐解いてみた。 あの時、心の内側から出てくるままに言葉を綴った。 あの時受けたインスピレーションは 絡まってしまった糸を力まかせにひっぱるのではなく、 辛抱図良く、ゆっくりとほどいていかなければならないということだった。 絡まった糸はほどけるどころか、さらに絡まってしまったというのか。 もう一度、ここに記しておこう。
ほどいていく
ほどいて ほどいて わたしの国を、あなたの国を ほどいて ほどいて わたしの言葉を、あなたの言葉を ほどいて ほどいて わたしの歴史を、あなたの歴史を ほどいて ほどいて わたしの神を、あなたの神を
わたしたちではなく、わたしに あなたがたではなく、あなたに それぞれがそれぞれと向き合うのです ひとりっきりで立つのです なにもかもほどいてしまって あなたと わたし 同じ命のみなもとへとたどりつく
1本の木がすべての木とつながっているように ひとつの花はすべての花とつながっているように 一つの命はあらゆる命とつながっている
わたしの国は、あなたの国 あなたの言葉は、わたしの言葉 わたしの歴史は、あなたの歴史 あなたの神は、わたしの神
ほどいて ほどいて ほどいて ほどいていけば・・・・
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2003年03月18日(火) |
あたしってコピーキャット、でもまねして書きたい初体験 |
「初体験」これって、ちょっと書いておきたいことではある。
期待や恐れや不安や、様々な感情の嵐が逆巻く中を、 「ここを通らねば女じゃあない」 とばかしに目をつむって突っ走る。 そもそもなぜ不安なのかといえば、未知なる世界なのだから、どこをどう辿ってゆけば、目的が達成できるのかそれがさっぱり見えない。またリードしてくれる者がこちらが全く何も知らず、聞くことさえできないほどにシャイだということを受け止めてくれるかどうかという不安も伴う。はたまた導き手にくっついていったところで、私は十分に満足を得られるだろうか。もしかして、単なる苦痛と敗北感だけを味わう結果になれば、「一生こんなことはしない」とわたしは扉を閉ざしてしまうことになるだろう。
しかし、案ずるより産むが安し。それは全くの杞憂だった。 彼の包み込むような眼差しと、ゆっくりとていねいなイントロダクションに緊張はすっかり解きほぐされ、十分に習熟したテクニックでリードされることとなる。痒いところに手が届くというのはこういうことを言うのだろう。彼が発する、最初の一言でもはや心は捕らえられ、そのおいしいレッスンを味わい尽くした4ヶ月間であった。はじめてのレッスンにすっかり満足したわたしは次第にその世界へ深く入りこみ、少しづつ習熟していったのだった。
それはNJの、とあるコミュニティーカレッジに在籍し、初めて受講した外国人のための英語のクラスのこと。 子育てに追われていた30代前半の私にとってみれば、清水ジャンプの初体験であった。すでに50は越えていると思われるハーバード大学出身のM教授の授業は実に魅力的で、私は多いに満足した。授業を受けるという行為がかくも大きな喜びをもたらしてくれることを初めて知った貴重な初体験であった。あぁ、ほんとうにおいしかった。教師にファーストネームで呼ばれたことなんてなかったから、親しげに名前で呼ばれること自体がファンタジーだったのだ。
そもそもロクに英語をしゃべったり聴き取ったりもできない身だったのに、あたしは単独、近くのコミュニティーカレッジに出向き、そこの幼稚園に子どもまで預かってもらって、学生をやる決意をしたのだった。学力検査の結果では1の段階を免除でレベル2のクラスから始めることができたもののクラスに入ってみると、他の国々から来ている外国人学生はバンバン手を上げて質問し、教師の質問にも即答する。一方わたしは教師が指示することも聞き取れないというような情けない状況。身の程知らずとはこのことを言うのだろう。しかしその身の程知らずのお陰で、老賢人を地でゆくようなM教授からは英文を読むことの醍醐味と、書くということへの様々なアプローチを教えていただいたし、アランドロンを女にしたような美しいT教授の独創的な授業も受けることができた。それは模擬裁判の場面を作るというもので学生は犯人、その母、被害者とその家族、陪審員、裁判官、新聞記者とそれぞれに役割を与えられ、インタビューしたり、証言をしたり、また記事にまとめたりといった学習活動を展開する。きっと研究者でもある彼女は新しい第2外国語の教育方法を様々に模索しているのだなと興味深かった。その模擬裁判のクラスの中でわたしはまだみんなと同じレベルでは話せなかったものの、自分がまるでハリウッド映画の中に組み込まれたような興奮を覚えていた。もちろん反りの合わない教師や、授業がつまらない教師もいたし、けっこう小テストや宿題がどっさりあって、いつもヒーヒー言っていた私は学校へ出かける子ども達から「今日はもう宿題終わったの?」とか「お母さん、今日のテストがんばってね」とか心配してもらっていたなあ。
そう、いつだって初体験はどきどきもの。でもいくつになっても未知なるものに飛び込んでゆく潔さは持ち続けていたいと思う。
今朝、F氏の日記を読んでいておもわず「ふふふっ」と笑ってしまった。そしてわたしもこの手法で書いてみたくなった。Fさんからcopycatと言われるだろうなとは思ったけれど。
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2003年03月17日(月) |
今年度のお仕事はすべて終了! |
今日で今年度のクラスがすべて終了!おつかれさ〜ん。 と、いっても週に9個コマほどのクラス、仕事などと威張って言えるようなもんではない。しかし穴も空けずに無事お約束を果たせたという安堵感はある。 また、それと同時に軽い空虚感のようなものも。
6年生の9人と中学生2人はこの3月でおしまいになるし、また、幼児クラスと小学校低学年クラスの何人かは、引越しなどで英語学校をやめていく。これまで週に一度は顔を合わせていた彼らと、もう会うこともなくなると思うと淋しいというよりは何か虚ろな感覚。気が抜けたような。毎年、何人かの子どもたちが巣立っていくわけで、3月は別れを避けては通れない。
今日は6年生のしおりちゃん、なつきちゃん、さやかちゃんの3人の最後のクラスだったので、始めに一時間、今までの復習や発表の練習をした後、お母さん方に参観していただく。見ていただいたのはRow Row Row Your Boatの4部輪唱、Who Took the Cookies from the cookie Jar のチャンツ、それぞれが英語で書いた手紙の朗読。3匹のこぶたの朗読。英語でのQ&A この子たちは5年生になって初めて英語を習った。アルファベットから初めて、週に一回のレッスンでよくここまでできるようになったものだと感心する。基本的なフォニックスもマスターしたので、中学校での読み書きはずいぶん楽なことだろう。ひとつひとつの単語の綴りを覚えなくても、一定のルールに当てはめて、読んだり、書いたりできるのだから。
そういえば、彼女たちとは「千と千尋の神隠し」の映画をいっしょに見た後、銭湯へ連れて行ったりした。また映画に連れて行ってあげると言っていたのに実現しないままだった。彼女たちはミュージカルを見に来てくれるらしい。 がんばらなくっちゃ!人気サイトランキング
2003年03月16日(日) |
別れの涙はいつだって美しい |
今日はこの1年間、英語学校のネイティブの教師として仕事をしてくれたAの送別会だった。彼は今月末にはアメリカに帰国し、大学に戻って勉強することになっている。ハンサムで頭の切れる黒人青年のAは大人にも子どもにも人気があり、わたし自身、ティームティーチングをしながら、若い彼から学ぶことも多かった。アーティストとしての気質と良い勘を持っている彼は、マニュアル通りのクラスではなく、相手に合わせて、即興で対応していくようなところがあった。市販のカードやワークシートなんどを使わずに、自分でイラストを書いて、さっさとワークシートを作ったりするところは見事だった。わたしもどちらかというとかなりクリエイティブ&即興の人だが、彼には負けていたかもしれない。
ニューオリンズ出身の彼は一度は教会のメンバーのために、もう一度は生徒のために、彼のふるさとの郷土料理「ガンボ」を作ってくれた。これは奴隷時代に主人の家で残った食べ物をなんでもいっしょくたにしてひとつの鍋で煮たことがその由来だとAは説明していた。教会の狭いキッチンで、Aは何度も味見をしながら、「おばあちゃんが作ってくれたのとなんだか味が違う」と不満足の様子だったが、チキンとえびがたっぷりと入ったなんとも香ばしいそのスープは異国の味がして彼を取り巻く人々との温かい関係がそのまま、その中に溶け込んでいるようだった。
礼拝の後、持ち寄りの料理がテーブルに並ぶ。それぞれが自分の紙皿に好きなものを取り分け、好きな場所でその場にいる人たちと語らいながら食べるというポットラックパーティー。わたしは今朝、なんとか早起きができ、いつものバナナケーキと古代黒米を入れて作ったお赤飯を並べることができた。畑を借りて野菜を作っているアメリカ人のTは自分で育てたかぼちゃをケーキに焼きこんで持ってきた。Aとのクラスが大好きだった帰国子女のY君とAちゃんの兄妹はお母さんといっしょに作ったというコロッケを持ってきた。形が不揃いのところがなんともかわいらしかった。他にもそれぞれが持ち寄ったそれぞれの味。こういう気取らないパーティーをわたしは好きだ。
Aに教会からと英語学校からプレゼントを渡し、送別の時に歌う「神ともにいまして」の讃美歌を歌う。送別の時には必ず歌われるこの歌、前奏が始まるともううるうるとしてくる。これまでの送別の場面が一挙に蘇ってくるような気がする。Aの顔がくしゃくしゃになる。泣いている。 そして、いつだって別れの涙は美しい、と思う。
歌の後、みんなに隣の人と手を繋いで一列になってもらう。そして手を繋いだまま、Aを先頭にして部屋を出、ロビーを出、ドアを開いて中庭に出る。Aに中庭の中心に立ってもらい、手を繋いだまま、列はAの回りをぐるぐると巻いてゆく。巻き終わったところで、「グループハグ!」 みんなでいっせいにAを抱きしめようというもの。外を行き交う歩行者たちはこの人たち、いったい何をしているのだろうと思うかもしれない。いい大人たちが押しくらまんじゅうでもしているのかと。
このグループハグ。実はわたしがアメリカから持ち帰った大切なおみやげのひとつなのだ。帰国する前、教会でいっしょに歌っていたクワイア(聖歌隊)の仲間がわたしたちのためにサプライズパーティーを開いてくれた。夏休みに入る前のある日曜日、ポットラックパーティーを仲間の家で開くからあなたも何か作って持ってきてと、ほぼ強制的にサインナップシートに名前と料理の名前を書かせられた。その日会場に着くと、みんなわたしたちより先に来ていて、わたしたちは拍手で出迎えられた。いったい何事とわたしたちがど肝を抜かれたのだが、それは実は我々のための送別のパーティーだったのだ。我々があまりに驚いたのでサプライズパーティーを企画したみんなも大満足の様子だった。
手入れの行き届いたイングリッシュガーデンのはしにある広いガレージの中にテーブルが置かれ、すてきなパーティー会場が作られていた。天井にはガーデンで育てられた花々やハーブのドライフラワーがすきまのないほどたくさんつるされていた。夕暮れ時、テーブルの上のキャンドルが美しかった。パーティーの最後になるとその会の音頭を取っていたJがみんなに手を繋ぐようにと言い、私を先頭にしてみんなを中庭に連れ出した。と、わたしの回りにみんなが手を繋いだままぐるぐると巻きついてくる。40名くらいはいただろうか。おもいっきりその大きな輪に抱きしめられた。グループハグというものをその時に知った。 いつまでも涙が止まらなかった。
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2003年03月15日(土) |
日記を書きたいという気持ちの裏にあるものは |
今日はミュージカルの練習で帰宅が遅くなったし、明日は早起きして教会のポットラックパーティー用にお赤飯とバナナケーキを作るのだから今日は日記をお休みにしてさっさと寝ようと思った。ところが誘惑に負けてやっぱりここへ来てしまった。そう、誘惑なのだ、書きたいという。 なんなのだろうな、この感覚。
なぜ日記を書きたいのか。ちょと考えてみよう。
ひとつ、自分自身のリラックス、及びヒーリングのため。 書く(打つだが)作業はなにか私にとってその日一日の様々な精神的な疲れを取り除き、緊張を解きほぐすような作用があるらしい。なぜ書き言葉を連ねることが解放につながるのか今ひとつ分ってはいないのだが、今日一日、どこかで本心ではない言葉もたくさん口に出してきて、あるいは本心を口でできないといった状況もあって、そんな窮屈な場所に閉じ込めてきた自分の言葉を解き放ってやろうとするのかもしれない。
もうひとつはここを開いて読んでくださる読者が少なからずいて、その方々に新しい日記を届けたいと思うから。 前は少しも気にならなかったアクセス数を最近はよくチェックしている。だいたい100件前後、多い時には200近くのアクセスがある。100人の方がいらっしゃっているということでは必ずしもないだろうが、100回は日記のページがクリックされるということで、これは私にとってかなり刺激的なことに違いない。昨日などはお気に入りの日記サイトで見つけた「人気サイトランキング」なるものをまねて、自分のところにもくっつけてみた。新し物好きということもあるが、きっとさらなる読者を獲得しようと思っているのだ。わたしはよくよく、欲が深い。
みっつめは、さてなんだろう。風呂に入る時間を引き延ばし、またベッドへ行く時間をじりじりと引き延ばす。今日という一日を終えるのにかくも未練たらたらなのだ。小さな子どものように「まだ寝たくないよぉ〜」と駄々をこねているのだ、自分に向かって。
さあて、でももういいでしょう。ゆっくりお風呂に入って今日の日をクローズすることにしましょう。
それではおやすみなさい。みなさんも良い夢を。 人気サイトランキング
2003年03月14日(金) |
できることならわたしがやりたい寄宿舎生活 |
今日は次男のMがめでたく合格した大学の入学手続きの日。夫の運転する車で3人ででかける。車でなら2時間ほどのところにあるその学園都市は聞いていた通り、学ぶのには最適な場所だと感じた。格調もレベルもそこまでは及ばないにしても、たっぷりした敷地や木立が美しいキャンパスを歩きながら、様々なカレッジが集まっているボストンの街にどこか似ていると思った。
かなり古くて汚いと聞いていた学生宿舎は、真新しいアパートメントハウスのようにはいかないにしても、いかにも寄宿舎らしく、6畳ほどの個室に机とベッドが備え付けてあり、洗面ユニットまであるりっぱなものだ。我々の学生時代の寮は確か2人部屋でもっと狭かったような記憶がある。これなら上等。むしろ、私の方がここで一人暮らしをしながら、日々講義を受け、夜は宿題をするという生活をしたいほどだ。ああ、そんなことが許されるならどんなにか幸せなことだろう。そんなことを言うと夫が「それはあなただけじゃあなく、誰もがしたいことです!」とのたまう。彼もきっとMの境遇がうらやましいのに違いない。Mもかなり覚悟していた学生寮が、思いのほかこざっぱりしているので安心したようだった。
寄宿舎かぁ、もう今後縁もないことだろうけれど、寄宿舎とか修道所とかに長期滞在したいという願望は果てない夢のように私の心の奥で疼いている。初めての寄宿舎体験はは高校1年の時、サマースクールでバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学の寄宿舎に2週間寝泊りした時だった。初めて手にした一人の空間。親の監視が光らない場所。しかもドアひとつ隣には友人がいて、夜寝る直前まではわいわいといっしょに過ごせるのだ。天にも昇る気持ちだった。
2度目はニュージャージーに住んでいた頃、ニューヨークのルドルフ.シュタイナーの学校が開いたオイリュトミー(身体表現のひとつ、身体で音をまた言葉を表現するというもの)のサマーセッションに5日間参加した時。様々な地域からの参加者がありほとんどの人が寄宿舎に寝泊りしていた。私は車で通ったが、家族の許しを得て、最終日だけそこの寄宿舎に宿泊したのだった。あの時はミネソタからやってきていたジュリーという女性とすっかり親しくなり、彼女はセッションの後、そのまま私の家に来て一泊した。彼女もまた母親で、小学生と幼稚園へ通う子ども達3人を夫に預けてこのセッションに参加したのだった。
そういえば、彼女、どうしているのだろう。昨年は誰にもクリスマスカードを書かず、ひどいことにはいただいたカードの返事さえ書いていない。クリスマスカードの束はまだ目につくところにおいてあり、そのうちきちんと近況などを書いたニュースレターを送るのだと心に言い聞かせながらも実行しないまま日々が過ぎている。なんなのだろう。こうしてPCに向かって駄文を綴っているくらいだから時間がないというわけではない。でも何かが決定的に欠けているような気がする。
様々なノルマや煩雑な日常から逃れて、静かな木立の中の寄宿舎のような場所で一人だけで暮らせたらとそう願う私の心の状況と、クリスマスカードの返事をかけないでいる心の状態とはどこかで繋がっているような気がするのだが。
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2003年03月13日(木) |
Jとのデートはジョンレノンミュージアム |
Jとジョンレノンミュージアムで待ち合わせをする。 一足先に着き、広々とした白い空間が広がるミュージアムのロビーの赤い椅子に座っていると、らくだ色の皮のジャケットをスマートに着こなしたJが現れた。 この前よりまたきれいになっていると思う。
彼女とはおしゃべりも楽しいが、黙っている彼女の側で私も黙っているという時間がわたしはとりわけ好きなのかもしれない。 ビートルズの曲が流れるミュージアムは視覚だけでなく、聴覚も、また言葉にも触発される。さらにオノヨーコの前衛芸術の持つくっきりと妥協のないそのテイストにも。 見るとうよりはメッセージを聴き取るという感じがする。
2年前、アメリカ人のGを伴ってここへ来た。 たいていのことでは話が合う彼女だが、若い頃ビートルズを聞くのを親から禁止されていたらしく、そのせいなのか、ミュージアム中に渦巻くジョンとヨーコの発するメッセージが必ずしもGに心地よいものではないことが伝わってきた。あの時は30分そこそこで出てきたので何か心残りがあったのだ。 Jとはここに流れているスピリットにもお互いに共感するものがあることが分っているので、言葉は交わさないまでも、無言の対話をしながら、ゆっくりとその中で時間を過ごした。それにしてもすっかり時間が過ぎていた。 気が付くと入館したときから2時間近く経っているのに、まだ最後まで見終わっていなかった。
このままでは話をする時間がなくなってしまうので、続きは今度ということにして話をすべく、ミュージアムのレストランに入る。その場所のカランと開けたような空間の冷たい水のような感覚がわたしは気に入っている。 今日の話題は仕事のことだった。今お互いが抱えている仕事の意味、これからの10年間、どんな仕事をしていくかということなど。
それにしても出会った時には二人とも子ども達の母でありパートタイムの学生ではあったが、仕事は持っていなかった。今、すっかりキャリアウーマンとして仕事に自分を傾けているJを見ながら、わたしもそろそろ一つの仕事に集中する時期を迎えているのかもしれないと思う。
おしゃべりしている間に、窓の外は次第に闇が濃くなり、席を立つ頃にはすっかりライトアップされたイルミネーションだけになっていた。
*日記を読んでくださっている方に*
はじまりよりずっと変らなかったHP「たりたガーデン」のトップの絵がやっと変りました。どうぞHPも覗いてくださいな。もう季節は春ですが、冬のなごりを惜しんで(こんな言葉ないか)駆け込みで美しいNJの雪景色をUPしました。 3日おきくらいにトップの写真を変えていく予定です(と、管理人は言っております)あたくしの顔写真なんていうのではありませんからご安心を。
2003年03月12日(水) |
目の前に新たな道が立ち現れるということがある |
全く予期していない時に今自分が歩いていることの目の前に別の道が立ち現れることがある。これまでの私であれば、その方向が今歩いている道よりよりチャレンジングであるならば、迷わずにそちらを選んできたような気がする。しかし、ここのところ自分がかなり守りの形勢を取っていることに自分でも気がついている。自分にストレスはかけたくない、チャレンジはしたくない、今のままの仕事でまた生活で十分。そんなふうに思っている自分がある。それは年齢のせいだろうか。心は若い、身体だって30代には負けないなんて自負していながら、どこかで自分をすでにリタイアーのところに置いているのではないだろうか。
しかし、私は何が楽か、どうすることが自分を楽しませるか、そこにポイントを置く生き方を退けてきたのではなかっただろうか。わたしがどう用いられるか、わたしが果たすべき課題は何なのか、そう問いかけてきたはずだった。そして必要なことはみな向こうからやってきた。
今の私、かつてのように何かを成し遂げたいという強烈な野心も、身の程知らずのことを平気でやってのけるような無鉄砲さも、またこのままでいいのだろうかという焦燥感もない。しかし、だからこそ、今のわたしがいただくアサインメントがあるのかもしれない。野心や、焦燥に突き動かされるのではなく、自分の力なさを十分承知した覚めたところから動きはじめる方向。それがどこかは分らないが、少なくとも天へ向かって自分を開いているのでなければと思う。
2003年03月11日(火) |
その人の持つさじ加減でその人の味が生まれるんだね |
次男のMが4月から一人暮らしを始めるので、自炊のトレーニングを始めた。タイミングよくヨシケイのセットメニューの5日間の試しメニューのチラシが入っていたので、即注文したのだった。あれは、一応夕食の定番が2品目、あるいは3品目、焼き物、煮物、和え物とバランスのとれた献立が組まれている。また盛り付け例の写真もあり、懇切丁寧な作り方ものっているわけだから、調理事始の人にとっては最適な教材ではなかろうかと狙いをつけた。それで2、3週間作ってみれば、どういう食品をどう調理するのか、またどのくらいのたんぱく質類や野菜類を取る必要があるのか、おおまかなところがインプットされるのではないかと思って。ああ、この母心。しかしMとすればかなり迷惑なことかもしれない。いいのだ、きっと後になって、やっていてよかったと思うのだろうから。
しかし、問題はそれをやらせることができるかどうかだ。彼はかなり頑固。 昨日はMも私も夕方3時間で時間があった。食材は12時過ぎに配達となる。そこで今日は夕食ではなく、これを昼食用に作ることにした。なにしろ、鍋や調味料がどこにあるかそこからMは知らないので、私がお料理番組の助手、あるいは家庭科の先生よろしく、隣に待機しながらの調理実習であった。
それにしても日々の料理、私は軽量スプーンなどは使わない。Mが作り方の通りに醤油を大匙一杯量ろうとしてので、「大丈夫、だいたいでいいのよ」というと。「そのだいたいの見当が付かないから、きっちり計らないとだめなんでしょ。」といわれてしまった。ごもっとも。 彼は、きっちり、砂糖や塩や酢の分量を量って合わせ調味液を作っていた。家庭科の調理実習を思い出す。
さて、この日のメニューは豚肉のしょうが焼きの生野菜添え。ちくわとれんこんとこんにゃくとにんじんの炒め煮。キャベツとわかめの甘酢和え。 豚肉のしょうが焼きはともかく、この手の煮物や和え物は我が家の青少年たちにはまずもって人気がないので、わたしもほとんど作らなくなっていた。「こんなまずそうなもん作らないといけないなんて」とぼやいていたがテーブルの上にランチョンマットをしいて、少ししゃれた皿や器に盛り付けると、結構色どりも美しく見栄えよく整った。友達に自慢しようというのだろう。Mは携帯のカメラで自分のこしらえた料理を写真に収めていた。
この味、お手本どおりとはこういうことをいうのだろう。しかし、何か自分の家の食べ物という感じはしない。病院や給食の食事を彷彿とさせる。 何か、微妙に満足感に欠けるのである。ということは、いかにお手本とは違った自分のさじ加減があるかということだ。きっとわずかな差ではあるのだろう、大匙一杯の醤油がわずかに多かったり、小さじ半分の塩がわずかに少なかったりという。私はもはや軽量スプーンは信用していないから、すべては目と手と舌に頼る勘で調味する。たいていの主婦、また主夫がそうであろう。そして、このさじ加減の違いがその家々の味の違いになるんだろうなと何か納得した。
さて、M。まず、お手本どおりに調理するというスキルはあるようだし、そのことに本人も満足気ではあった。それがやがて、自分のさじ加減で自分の気に入った味が出せるようになるかどうか、そこが問題だ。もしそこまで自分の舌に合うものをさっさと作れたらこんないいことはない。どこの国へ行っても、食で困ることはないだろうから。これってしかし料理に限ったことではないなと思う。きちんと基本を抑えながら、体裁を整えながら、しかもその人にしか出せない味、人が真似できない味を出していくというのは生活全般にいえること。どんな状況が変っても、回りに振り回されず、自分のテイストを保つことができるようなそんな大人に成長してほしいなあと思う。数年後、彼がどんな味を出しているのか楽しみにしていよう。
2003年03月10日(月) |
心は人の言葉で暖まるものなのね |
何だか今日は後半、人の言葉で暖められていた。
ひとつは、同じえんぴつで書いているあ●●さんの和テイストの日記の中の言葉で。もうひとつは友人の娘のNちゃんからのメールで。そういえば、二人とも20代の若い女性だ。一方わたしは50の方が近いという歳。にもかかわらずわたしのことをお友達のように親しい言葉を向けてくださるというのはかなりうれしい。
どうしてだろうなあ。過ごしてきた時間が長いのだから、歳取ってる人間というのはそれ相応に大人っぽく、賢く、また逞しくてもいいはずなのだが、実際にここまで歳を重ねてくると、年齢と成熟度とは必ずしも正比例していないことが分ってくる。いやむしろ、若い人たちの中に成熟したもの、クールで確かな視点を見、私も含むいい年した大人たちがどこかすとんと未熟で、えらく甘いなぁと感じることが多々あるのである。これはいったいどういうわけなのだろう。わたしとて、今はこんなにボケボケしているが20代の頃はもう少しシャープだったのではなかろうか(もともとボケていたと連れ合いは言うに決まっているが)。だからいろんな意味で世代の違う人の言葉からは異なる空気と刺激をもらい、そこから何か触発されるものがあるから好きなのだ。
ネットのよさのひとつは距離もだけれど、年齢もすっと越えられるところだと思う。年齢や立場や性別にも影響されないで、心が温かくなる言葉を伝えあえるのはいい。届けたいと思った言葉を躊躇なく届けられるというのはいい。
2003年03月08日(土) |
彼は黄色のグラサンのいかついオニイチャンで現れた |
明日つづきを書くなどと言っておいて昨日は更新しないままだった。さて、でももうあのぶっとび卒業式もはるか遠くのことのように思える。だいたい時というのは単に過ぎるだけでなく、何か、ひとつひとつ終わっていくような気がする。その時の感動や驚きも次にやってくる新たな驚きや状況の変化に押されてたちまち色褪せてしまうのだ。しかしその記憶がまるっきりフェイドアウトするわけではない。何かの拍子に生き生きとまたありありと思い浮かぶものである。
そういう意味でも、昨日の卒業式2部は一生忘れることのない映像として記憶に残ることになるのだろう。我が息子はかなり目立っていた。奇抜な格好の卒業生たちの中でもとりわけ。
何も青いクマの着ぐるみを着ていたのでも、真っ白いスーツに光ものを貼り付けたプレスリーの格好をしていたわけでもない。黄色いグラサンを鼻にひっかけたいかついちんぴらのいでたちでステージの上に登場した。で、暴れたり、怒鳴ったり、踊ったりとなんとも華々しいことであった。彼はなんと学校一人気の5人からなるコントグループの一員らしく、文化際や予餞会の度にオリジナルなコントで皆を沸かせていたらしい。話は多少聞いてはいたが、そのステージ(?)は初めてだった。「お母さん、見ると卒倒するかも」と聞いては見ないわけにはいかない。
この年齢の子たちってこの軽薄なちんぴらや、やくざがなぜか好きなのだろう。彼らがその格好でステージに現れるや異様な興奮のどよめきが起こる。イケメンのカッコイイ男の子たちへ向けられる賞賛とは趣を異にする、何か別の賞賛。その何かって言葉にはできないが分らなくもない。
さてお母様方の反応はいかにと気になるところであるが、さすがN高の親たち、いたって好意的に拍手喝采していた。 「かわいいわよね、あんな格好してても」 と、どこからかそんな声も聞こえていた。
さて、我が息子のコントのことばかり書いてしまったが、この2部の出しものは実に変化に富んでいて、他にバンドが数グループ、ジャズダンス、ストリートダンス、劇と、卒業生によるパフォーマンスが続いた。早々に大学が決まっている子もいれば、我が息子のように受験のさ中の子もいるし、また浪人覚悟の子もいるらしい。いずれにしろ、高校生活の最後の瞬間が受験一色に彩られていないのはなんと幸いなことだろう。この会の実行委員長は袴姿の女の子で、「みなさん、寒いところ、こんなに長いこと体育館に座らせてしまってごめんなさい」と泣きながら挨拶をしていた。思いがけないアクシデントがあり、時間が予定より2時間もオーバーしてしまったのだった。でもそれすらきっと忘れられない思い出として語り草になるのだろう。 ともかく、みんな、よくやったよ。卒業おめでとう!
コントのステージにどきどきしていた次男も私もすっかりそのことは頭からすっとんでいたが、この日はまた国立大学の合格発表の日でもあった。私はその後、父兄と先生方とのパーティーの席に出たので、私より一足先に家に帰った次男から携帯に連絡が入ることになっていた。不合格の場合はメール、合格だったら電話という申し合わせで。夕方6時すぎ、駅のコーヒーショップでコーヒーを飲んでいると携帯が鳴った。それは電話を知らせる着メロだった。 こっちもよくやった、おめでとう!
2003年03月07日(金) |
ぶっとび卒業式は着ぐるみもあり! |
次男の通う高校の卒業式のぶっとび具合については聞いてはいたが、果たしてそれはなかなかのもんだった。 まず卒業生の格好。スーパーマン、カーボーイ、アルプスの少女、着物に袴、自分たちでこしらえたとおもわれる奇抜な衣装、大きな熊の頭が他の子たちを見下ろす感じの着ぐるみの子までいれば、体育館はハロウインかコスプレパーティーの雰囲気。
卒業証書授与式が始まりクラスごとに呼名が行われる。名前を呼ばれて立ち上がった生徒達、個性的なのは彼等の出立ちだけではなかった。表情が実に生き生きしている。これから何かが起こるという興奮のようなものが見て取れる。始めのクラスの名前がすべて呼ばれるとクラス全員が彼等の担任に○ちゃん愛してるよ!と叫ぶ。女性教師はそれに答えて 「みんな愛してるよ」と応じる。クラスの担任への言葉はさまざまで教師の応答もそれぞれに個性的だった。
代表で卒業証書を受け取った生徒はスーツ姿で何かをするようには見えなかったが卒業証書を手にするや、それを高く掲げ、やおら腕まくり。なんとその腕には刺青?と思ったが腕に何やら文字が書かれているのだった。前の方からどよめきが起こる。私のところからはその文字は読めずに残念だったが、後で息子に聞くと、彼の腕に書かれた言葉は「N高、最高」だったらしい。ちなみに去年の生徒会長は卒業証書授与の時、壇上でやおらカメラをと取り出し、校長先生とツーショットの記念写真を撮ったらしい。
さて卒業生からの記念品贈呈の運びとなり、いかしたジャケットにぴったりしたチェックのパンツのおんなの子が壇上に上がり目録を読む。 「ひとつ、ジェットヒーター3台。ひとつ、卒業式第2部 」 ということで卒業式に引き続いて卒業生自らが企画した卒業式第2部がそれから実に4時間続いたのである。
この日はあいにくの雨。体育館は思いの他冷え込みが厳しく、この日、予定していたブラウスとスーツをやめてセーターとパンツにジャケットそれに厚手の靴下という格好に変更しておいて正解だった。それでも寒さは骨にまで達してきたもの。この寒さの中、ノースリーブのドレス姿の女の子たちもいて、風邪をひくのではないかしらと心配だった。しかし、この寒さと裏腹に、卒業式第2部が始まるや、卒業生、在校生のみならず教師もまた親達も異様な熱気に包みこまれていった。この2部については明日続きを書くとしよう。
2003年03月05日(水) |
我が家の青年H、今度の旅はアジア |
どうやら彼は大学の休みの度に旅に出るつもりのようだ。自分でバイトして稼いだ金で行くというのだからとやかくは言えない。とはいっても、給料は翌月にしか入らないからという理由で毎度、私のへそくりから貸し出しをするはめになる。そのへそくりとは私がいつか海外旅行をしようとこつこつ貯めているものなのに。だから「ぜったい返す」と言われても、貸す時は全く気分が悪い。しかし、やつは母の機嫌悪さなんてものともしない。「親にお金借りてまで旅行するってどういうことよ。貯まるまで待ってから行けばいいじゃないの」と言いはするが、やつがお金を貯められないことくらい分っている。貯まるまで待ったらいつまでも行けっこないから、いやみを言われ、またうるさく借金の取り立てをされても、母親からの借金に甘んじるわけだ。父親には怖くて旅に出るということすら話せないのだから、被害をこうむるのは私だけ。ま、しかたない。そういうふうに育ててしまったわけだから。でも約束の3月25日には何としても返してもらうわ!
さてHはヤップ島、イタリア、ときて、今回はアジアを回るようだ。Hが残していった旅行会社からの日程表(これ、置いていってよかったのかしらん)には、シンガポール、シェムリアップ、バンコク、タイペイの空港名が記されている。初めのヤップ島の時には連絡がつかずにおろおろし、滞在先の友人の親戚の電話番号をやっとの思いで探しあて、国際電話をかけたのだったが、もう3度目ともなれば、2週間いなくてせいせいするといったくらいのイキオイだ。しかし、今回いっしょに行ったのは、Hの高校の時の友人で海外へ出るのは初めてという子。今回のプランはすべてH主導らしい。ふとあちらの親御さんのことが思われた。息子さんのこと心配されているんではないかしらと。連絡先を聞かれたらどうしよう。「聞いてません」と言ったらショックを受けるだろうなあ。
2003年03月04日(火) |
朗読劇 「女の平和」、 昨日に引き続き |
この前、日比谷公園へ反戦集会に出かけた時も一人だった。あの後、誘ってくれればよかったのにと何人かの友人に言われて、そうだ、今度は仲間といっしょに参加しようと思っていたのに、今度も一人で来てしまった。というのも直前まで行くかどうかを決めかねていたからだった。ただのエンターテイメントであればこんな雨の夜、知らない街中を歩くなんてとてもしないだろうが、反戦のためのプロジェクトとあれば、そこに足を運ぶことに意義があると、やはり出かけることにした。
会場には、ずいぶん早く着いたので、しばらくロビーで本を読み、また同時に開催されている写真展もゆっくり見ることができた。湾岸戦争で被爆した子どもたちの写真はどれも痛々しく、原爆写真展の展示を思い出した。この戦争を再び繰り返してはいけない!開場を待つ間、側にあったソファーに腰掛けていたが、私の隣に外国人の若い女性が一人でぽつんと座っている。「どこからいらっしゃいましたか」と日本語で話しかけてみた。オーストラリア人の若い女性だということが分かったので英語でしばらく話をする。聞けば彼女の父親がこの劇をギリシャ語から英語に翻訳したらしい。もちろん、さまざまな翻訳がなされてきたことだろうが、このプロジェクトに賛同して、その翻訳を提供したので、英語圏では彼の翻訳したものが使われているということだった。そういういきさつもあり、日本で開かれたこのプロジェクトに彼女も参加したというわけだった。やがて開場となったので、彼女と連れだって入った。
舞台を半円形に囲むような段のついたフローリングの客席には椅子もなかったが、どうやら折りたたみの椅子がフロアーの下に折り込んであるようで、みな、椅子を組み立て始めた。ギリシャの野外劇場をほうふつとさせるステージは舞台装置もほとんどない、まったくシンプルなものだった。音楽はシンセサイザーと太鼓。ジーンズにプロジェクトのロゴが入った白いTシャツ姿の役者たちは手に手に台本を持ち、あくまで朗読をしながら、しかし演じてもいる。観客は100近くだっただろうか。演技者も観客も圧倒的に若者が多い。
主役のリュシトラテは華奢で眼鏡が良く似合う知的な雰囲気の中年女性が演じていた。友人のMの演じる巨乳のランビトは東北なまり。さすがに演技力のあるMの朗読。彼女から聞いていたのだが、この朗読劇の練習は一ヶ月足らずで、大半が朗読劇のワークショップや台本の読み取りについてのディスカッション、そして配役が決まるのは公演の当日ということだった。自分の役のところを覚えるほどに読み込むというやり方には出せないひとつの緊張感をねらったのだろう。確かにそこには即興的な要素が生まれ、今、観客といっしょにステージが創られているといった新鮮な趣があった。
さて、そのオーストラリアの女性は日本に3年住み、英会話スクールで英語を教えているということで、日本語も多少は分るようだった。しかし、この劇のスクリプトはいったい彼女に通じただろうか、なにしろ日本人の私でも初めて耳にする隠語や言い回しがいくつか、いえ、いくつもあったから。また英語ではいったいどんな翻訳になっているのだろうという興味もあって、その辺りのことを話してみると、やはり朗読の言葉は難しくて理解できないものが多かったと苦笑していた。そしてまた彼女の父親の翻訳もかなり過激な言葉を使っているらしい。インターネットで読めるかもしれない、試してみよう。
行きは暗いどしゃぶりの中、知らない場所を探しながら心細かったが、帰りは雨もすっかり止んでいて、しかも会場で会ったMとの共通の友人Fと話しながら帰ることができ幸いだった。
2003年03月03日(月) |
女たちは団結してセックスを拒否した 男たちが愚かな戦争を止めるまで |
この日の夕方、どしゃぶりの雨の中、青山まで出かける。3月3日の今日、ブッシュ政権のイラク攻撃に反対して、59カ国、1004箇所で同時にアリストファネスの「女の平和」が朗読劇として上演されたが、日本では青山の東京ウイメンズプラザがその会場だった。
このLYSISTRATA PROJECTのことは何も知らず、演劇をやっている友人のMが、この朗読劇に出演するということで初めて知ったようなわけだった。非戦、反戦のメッセージを古代ギリシャの喜劇アリストラータ(邦題は「女の平和」)に託して世界に発信しようというプロジエクト。またこの売り上げはイラクへの人道的支援に用いられるということだった。
アリストファネスって、確か世界史の教科書に名前が載っていたような気がするがこの喜劇については予備知識がなかったので、芝居が始まるや「ぎょっつ」となる。かなりセクシャルな、直接的な表現がぽんぽんと飛び交い、それは 露骨、破廉恥、卑猥といっても良いくらいのものだった。ところが昨今のポルノグラフィーとは全く違う、開放感とさわやかさがある。だからぜんぜんいやらしく感じないし、下半身に訴えて来るもんでもない。セックスの話題に終始しているというのに、どういうわけか、理屈っぽい言葉の羅列を聞くときのような脳への刺激の方が強い。ソクラテスやプラトンの言葉を読む時のわけわかんないけど気持ちいいといった気分と共通する。アリストファネスはBC447〜385の人だから、その当時のセックスへの感覚や女性の性へのかかわり方など、興味深もあった。また演じる女性たちがみなきりりとしていて、そんな女たちの口から飛び出す刺激的な言葉もなかなか小気味良いものがあった。
当時のギリシャはペロポネソス戦争の真っ只中、このばかばかしい戦争を早く終結させようと女たちが一致団結して行ったことというのは、男たちとのセックス拒否するということ。色っぽいすけすけの下着でさんざんに夫や愛人を興奮させておきながらやらせないという作戦や、愛のささやきを告げて男たちをその気にさせておいて体を遠ざけるといった手段に訴えながら、何日もセックスを拒否し、国中の男たちはとうとう根負けし、平和条約を結ぶという筋書き。 今日はここまでで続きは明日。
2003年03月02日(日) |
アマチュアの芝居にしかない面白さってある |
ミュージカルの仲間のIはもともとさいたま演劇集団「YOU」のメンバーだ。今日は午後からIが主演する「桜川」という劇を見に行く。とりわけ芝居が好きというわけではなかった私は、数えるほどしか芝居を見てきていない。ところが自分が演じるとなると他の素人の舞台はどんなもんだろうと気になり、今年は2回、アマチュアのミュージカルのステージを見たが、市民劇団の舞台は始めてのことだった。
ひとことで言うと実に面白かった。楽しんだ。プロのやる芝居とはまったく違った面白さがあると思った。昨日の日記で書いたことに通じるのだが、日頃はそれぞれ社会人として演劇人とは異なる生活をしているその多様な人生がその舞台の上に見え隠れするのである。こなれたプロの表現とは一味違う、生活者の味わいとでも言ったら良いのだろうか、そんなものが演じるひたむきさと共に伝わってきた。そのことで食べていないというのは何にしろ純粋なものがあるということなのだろう。アマチュアならではの芝居。
しかし、脚本も演技も、とてもテンポが良く、笑いのつばをきちんと押さえてあって、破綻がなく素人離れしたものではあった。じっさい気持ちよく大声を出して笑わせてもらったし、またじんわりと涙がにじみ、ごそごそとバックからハンカチを取り出したりもした。それにしてもIの演技の達者なこと。彼女の実年齢は25歳かそこらなのにこれから結婚しようという息子を持つ田舎の母ちゃんの役をみごとにこなしていた。まったく違うキャラクターを演じているのにそこにあるスピリットはまさにIさんのそれというのがなんとも不思議でおもしろいと思った。あのキャラクターを別の人が演じれば、そこには全く違った母ちゃんが出現することになるのだろうから。
劇の後、ミュージカルの仲間たちとお茶を飲みながら芝居の感想や我々の舞台のことなどいろいろと話した。確かにわたしたちの舞台は全くタイプの違うもので同じところで比べたり論じたりはできないが、同じアマチュアの舞台ということでは多いに学ぶところがあった。
2003年03月01日(土) |
舞台、それぞれの人生というパズルのピースをひとつの絵に仕上げていくという作業 |
3月だあ〜。 例年であれば、4月から始まった新年度が無事に終わる安堵感と解放感に浸りながら、実家へ帰省する予定などを立てている時期である。しかし今年はこの一ヶ月が正念場。この1年かけてやってきたミュージカルの公演が一月後に迫っているのだ。今の段階で50パーセントのところをこの一月で100パーセントにまで持っていかなければならない。
今日から練習が毎週入り、時間も午後1時から10時までという長丁場になる。 しかし、ストレッチや発声に始まり、踊りの練習、歌の練習、それぞれの台詞の練習とやっていくと時間はあっという間に過ぎてしまい、まだまだやることが山ほどあることに気づかされる。
2月のリハーサルの時からは芝居ができていないことに愕然として、かなり意識的に練習してきたが、今日のクライマックスのところのシーンは演出や演出助手の方からずいぶん良くなったと言われた。わたし自身、その人物になりきるということがどういうことなのかようやく掴み始めたような気がする。ただの演技ではなく、自分が消えてそのキャラクターに取って代わるという感覚。 みんなそれぞれきらりと光るものが見えてくる。それぞれの人生が舞台というひとつの絵に溶け込んでゆくのが、そこに新しいものが生まれていくのが見えるような気がする。この一ヶ月、大切にしてゆきたい。
公演のパンフレットに載せる原稿を出したがそこにはこんな文を書いた。
<パズルのピースが一つの絵に> 始まりは劇中の歌の作詞だった。ところが舞台にもということになり、気が付くとママの役のみならず、音楽担当の大役までいただいていた。小学生の頃に習っていたバレー、中学生の時に演じた2つの主役、大学時代の声楽や作曲法、小学校教員時代の歌唱指導、子育て時代の語り、ニューヨークで見たいくつものミュージカル、プロから受けたヴォイストレーニングと、これまでの私の人生で拾い集めてきたいくつものパズルのピースがこのミュージカルを作るということでひとつの絵になっていくような感慨があった。それはここにかかわったそれぞれの人にいえることだろう。人生は舞台。そして今度は舞台に人生を乗せる。それぞれの人生というパズルのピースが一つの絵になる。
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