『資本論』を読む会の報告
INDEX|past|will
■第20回『資本論』を読む会は、6月24日(火)に行われました。
第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注31の少し前から注35までを輪読し、討論しました。
ところで、経済学は、不完全ながらも価値と価値量を分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、なぜこの内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえなかったのである。
そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている(国民文庫147頁・原頁95-96)
●「生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体」とはどんな社会をさしているのか?
議論になった一つは、商品生産社会(資本主義社会)以前の社会を「人間が生産過程を支配している」といえるのかということでした。
商品生産社会では、生産における人と人との関係が、物と物との関係としてあらわれ、人は物に支配されている。それ以前の社会では、人と人との関係がそのまま人と人との関係として透明だ。なんらかの形で人間の意志によって社会的生産がコントロールされている。生産過程が人間を支配している社会は商品生産社会(資本主義社会)だけではないかという意見が出されました。
これに対して、確かに物が人を支配しているのは商品生産社会(資本主義社会)だが、それ以前の生産力が低かった社会を「人間が生産過程を支配している」といえるのかという疑問が出されました。
これについては、はっきりとした結論は出ませんでしたが、この文章では「まだ生産過程を支配していない社会」と書かれており、資本主義の後に来る社会を念頭において、人間が生産過程を支配している社会について語っている。ここで問題にしている「生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体」は、商品生産社会(資本主義社会)だということを確認しました。
●「諸定式」とは?
範疇というなら分かりやすい。それなら商品や貨幣、価値や価格と思われる。ここでは「諸定式」と書かれているが、やはり商品や価値などのことではないかとの意見が出されました。
結論としては「価値とは労働だ」とか「価値の大きさはその生産に必要な労働時間によってきまる」という経済学が発見した定式のことだろうということになりました。
●労働の二面性の把握の重要性
注31でかかれている「古典派経済学は、諸労働の単なる量的区別がそれらの質的統一性または同等性を、したがってまたそれの抽象的人間労働への還元を前提するということを思いつかなかった」という指摘は重要。
●価値でもって価値を規定する議論
「労働の価値」を前提し、それによってあとから他の商品の価値を規定するのは俗流経済学的浅薄さだ。つまり、価値によって価値を規定するのは何の説明ににもなっていない堂々巡りだ。
●古典派経済学の根本欠陥
その一つは、価値の形態を見つけ出すことに成功しなかったこと。
その原因は、価値の大きさの分析に注意を奪われたということだけでなく、ブルジョア的生産様式を社会的生産の永遠の自然形態と見誤ったからだ。
●古典派経済学と俗流経済学
注32のなかでマルクスは「私が古典派経済学というのは、ブルジョア的生産諸関係の内的関係を探求するW・ペティー以来のすべての経済学をさし、これに対して俗流経済学というのは、外見上の関係のなかだけをうろつきまわり、いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によって当の昔に与えられた材料をたえずあらためて反芻し、それ以外には、自分たちの最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている」と書いている。
●非歴史的な考え方
注33では、『哲学の貧困』からの引用がなされ、封建制の制度は人為的制度で、ブルジョアジーの制度は自然的制度だとする経済学者たちの奇妙なやり方について述べている。彼らによれば「かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは存在しない」ということになる。彼らにとってはブルジュアジーの制度は、永遠の、完成された制度なのだ。
●リカード 1772-1823 イギリスの経済学者・古典派経済学の代表者。
●W・ペティー ウイリアム・ペティー 1623-1687 イングランドに生まれる。近世経済学の建設者にしてその父とされる。 天才的・独創的な経済研究者であると同時に、いわば統計学の発明者。
●バスティア 1801-1850 フランスの俗流経済学者で自由貿易論者。
【資料】 唯物史観の定式
私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは自分の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化できる。
人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。
物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。
経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急速に変革される。このような諸変革の考察にあたつては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それをたたかいぬく場面である法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的なまたは哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。
ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力し生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。
一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度な生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。
それだから、人間はつねに、自分が解決しえる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。
大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる。
ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる。
(マルクス『経済学批判』序言 国民文庫15-17頁)
■第19回『資本論』を読む会は、6月17日(火)に行われました。
「第18回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注29の後から注31の少し前までを輪読し、討論しました。
【内容要約】
●中世の社会
ヨーロッパの中世では、人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上にたつ生活領域をも特徴づけている。
人格的依存関係のもとでは、労働も生産物も幻想的姿態(価値や商品といった)をとらない。労働の現物形態、労働の特殊性が労働の直接的に社会的な形態である。
労働における人格と人格との社会的諸関係は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的諸関係に変装されない。
●農民家族
共同的な、すなわち直接に社会化された労働の一例として、自家用のために生産する農民家族の家父長的な勤労がある。
自家用のために生産された穀物や家畜、糸や布、衣類などは、家族に対してその家族労働のさまざまな生産物として相対するが、それら自身がたがいに商品として相対することはない。
これらの生産物を生み出したさまざまな労働は、その現物形態のままで社会的機能をなしている。なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だから。
ここでは、継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの規定として現れる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するから。
●自由な人びとの連合体(アソシエーション)
共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみる。
連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的である。しかし、もう一つの部分は生活手段として分配される。
商品生産と対比するために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定すると前提する。そうすると、労働時間は二重の役割を果たす。労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的関与の尺度として、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。
人びとが彼らの労働および労働生産物に対してもつ社会的諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である。
●さまざまな社会的生産有機体に対応する宗教意識、その消滅の条件
古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明。しかしそれは、他の人間との自然的な種族関係の臍帯からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづく。このような生産有機体は、労働の生産力の低い段階によって制約されており、またそれに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。(古代の自然宗教や民族宗教に反映)
商品生産の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働としてたがいに関係させるということにある。(キリスト教が適当な宗教形態)
およそ、現実の世界の宗教的反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうる。
社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。
しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的所産なのである。
■第18回『資本論』を読む会は、6月10日(火)に行われました。
「第17回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注27の後から注29までを輪読し、討論しました。
●「労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである」とはどういうことか?
前のところでどのような割合で生産物が交換されるかが一定の習慣的な固定性にまで成熟すると、その割合はあたかも労働生産物の性質から生じるように見えると述べている。時折の偶然の生産物交換ではなく、最初から交換を目的として生産が行われるようになると、労働生産物ははつきりと商品という性格をもつようになる。 言い換えれば、価値性格がはっきりとしてくる。
ここで、「価値量として実証される」とは、他の生産物の一定量と交換されることでをさしていると思われる。価値とは、無差別一様な労働の対象的な形態であり、他のどんな労働の生産物とも交換されうることの表現である。価値であることは、現実に他商品と交換されることによって実証(現実化)される。
お互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。(国民文庫第1分冊139−140頁 原頁89)
●「絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限界に還元させる」とはどのような内容を述べているのか?
「均衡のとれた限界」をどう理解するかで二つの意見が出されました。 一つは、価格は変動するが、その変動の中心には価値がある。変動する価格は、結局は価値に還元されるということではないかというもの。 もう一つは、「均衡のとれた限度」というのは、社会が必要とする物の生産が行われること、社会全体の需要に応じた生産が行われることではないか。需要との関係で言えば、供給が過少なら価格はあがり、供給が過剰であれば価格は下がる。こうした価格の変動を通じて、さまざまな使用価値を生産する各部門のバランスがとられるということではないかというもの。 明確な結論は出ず、今後も考えていくことにしました。
●「それの発見は、労働生産物の価値量の偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的形態を解消させはしない」とはどういう意味か?
商品の分析によって、価値量がその生産に社会的に必要な労働時間によって規定されていることを知ることはできたが、それによってある商品に含まれている社会的必要労働時間がどれだけかが分かるわけではない。労働(労働時間)そのものとしてではなく、その対象化した形態=価値(価値量)として、物の性質として表れる以外にないということ。
労働生産物に商品という刻印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性を持っているのである。こうして価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。(国民文庫第1分冊140−141頁 原頁89-90)
●「商品流通に前提されている諸形態」とは?
商品、価格、交換価値、貨幣などのことではないか。
ところが、まさに商品世界のこの完成形態――貨幣形態――こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。(国民文庫第1分冊141頁 原頁90)
**********************************************************************
【資料】 マルクスはまず商品の生産をとつて、その労働に二つの面があり、一つは特定の生産活動として示される具体的な有用労働の面、一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面があることを明らかにする。ところで、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物資を獲得するにあたっては、かれはその生産活動の全体を、所期の有用生産物の生産に要する労働時間を基準にして種々の有用労働に配分しなければならない。商品生産社会でも、社会の存続のためには、社会的総労働が、社会的欲望を充足するにたる種種な使用価値の生産に、それぞれの生産に要する労働時間を基準にして配分されなければならない。このばあい、一定の有用労働として一定の社会的欲望をみたす個々の生産者の私的労働は、商品社会全体の総労働の一部として、他のすべての私的労働と同じように一般的な人間労働として支出されることになる。
けれども、もともと労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するのではない。個々の人間の労働がなんらなの仕方で、社会的総労働の部分としての関連をもたなければならないという社会的な生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交換関係をとおして達成される。いいかえると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換される特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのである。商品の価値というのは、こうした商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかならない。すなわち、私的労働として支出される有用労働の面が商品の使用価値となって現れて、種々雑多な商品体の差異をつくりだすのに対して、一般的な人間労働の面は価値として諸商品の質的な同等性をつくりだし、価値の大いさは諸商品の生産に必要な労働時間を基準にして比較計量されうるものとなり、かくしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのである。したがってまた個々の商品価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定されないということが重要である。
商品の価値を形成する一般的労働は商品交換をとおしてはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定されるほかはない。要するに、商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなくて、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができる。 (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 111-113頁)
商品生産の社会では、社会的労働の配分という社会的生産の一般的原則が直接に人間の手で処理されないで、商品と商品の交換関係、すなわち物と物との関係という回り道をとおして実現される。それゆえ、人間は逆に商品交換の法則性に支配されざるをえなくなり、それと同時に商品のもつ特定の社会的性格は商品という物のもつ自然的性質のごとくま受取られ、商品交換の法則性はあたかも自然法則のごとき観を呈するし、また実際そういう作用をなすことになる。このようにして商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出すのである。 (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 117-118頁)
■第17回『資本論』を読む会は、6月3日(火)に行われました。
「第16回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注27までを輪読し、討論しました。
「第16回の報告」をめぐって
価値規定の内容について、「報告では、価値規定を『社会的必要労働時間による商品の価値量の規定』としているが、量だけではなく、質的な規定の内容もある。価値規定とは『価値とは抽象的人間労働の対象化であり、価値量は社会的必要労働時間によってはかられる』とすべきではないか。価値規定の内容は『抽象的人間労働』および『社会的必要労働時間』のことと理解すべきだ」との意見が出されました。結論としては「質的なことも含むと考えるべきで、報告は不十分だった」ということになりました。
また、「報告」で
●「人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ」とはどういうことか? よくわからない。 ここでは価値規定の内容について述べている。「第一に」と「第二に」はわかるが「最後に」はどういうことだろうとの疑問が出された。「社会的形態」は労働について述べられているのだから「社会的必要労働」のこと、個々の労働力が「一つの同じ人間労働力とみなされる」という意味ではないかと考えられるが…それでいいのだろうか。
と書かれていたことについて、「人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ」というのは必ずしも商品生産社会だけのことをさしているのではなく、もっと一般的に述べているのではないかとの意見が出され、そのように読むことができることを確認しました。
そして、商品生産社会の労働を考えるなら、その社会的形態は「個々の労働は、一つの同じ人間的労働力の支出として、抽象的人間労働とみなされる」ことをさしているのではないかということになりました。
これと関連して「報告」で書かれていた「●人間自身の労働の社会的性格 他人のための労働という性格と理解していいか?」については「無差別一様な労働、抽象的人間労働」と理解すべきだということになりました。
本文については特に大きな問題は出されませんでした。
【資料】
私的諸労働の社会的総労働にたいする連関は独自な形態をとる
商品生産もまた一種の社会的生産である。すなわち労働する諸個人はお互いに無関係に自給自足の生活を行うのではなく、彼らは、彼らの総労働によって生産された社会的総生産物のなかから、彼らの欲求を充たすのに必要な生産物を入手して生活する。そのためには、なによりもまず、社会の総労働は、社会の必要とするさまざまの生産物を生産するための具体的労働の形態をとらなければならず、そのようなさまざまの労働部門に配分されなければならない。つまり社会的分業(division of labor)が行われなければならない。さらに、社会的分業によつて生産されたさまざまの種類の生産物が、なんらかの仕方で労働する諸個人(およびその他の社会性成員)に分配されなければならない。
商品生産以外の社会的生産では、社会全体のさまざまの欲求の総体に対応する社会的分業のあり方も総生産物の分配のあり方も、ともに一見して明白である。すなわち、なんらかの共同体組織なり、支配者である特定の個人なり、支配階級を形成する諸個人なり、意識的に連合した自由な個人なりが、その意志にもとづいて意識的に、社会的総労働(抽象的労働)をさまざまの具体的労働に配分し、総生産物を生産手段および消費手段として同じく意識的に配分ないし分配する。ひの意志が独裁的なものである場合もあれば、民主的に形成される場合もあるであろうし、またそれが主として伝統に頼るだけの場合もあれば、多分に恣意的である場合もあり、また周到に計画されたものであることもあろうが、いずれにせよ、社会的分業のシステムや社会的分配の方法は、人間の意志によって意識的に決定されているのである。(中略)
もちろん商品生産の場合にも、なんらかの仕方で、社会の総欲求に対応する社会的分業の有機的なシステムが形成されなければならないし、なんらかの仕方で、総生産物がそれぞれの欲求に対応するように分配されなければならない。この二つのことは、社会的生産の一般的な条件であって、それがなんらかのかたちで実現されないかぎり、社会的生産は成り立ちえないことは明らかである。
ところが商品生産の場合には、社会的分業のシステムについても総生産物の分配についても、そのあり方を決定する個人や個人の集団がどこにも存在しない。労働する諸個人は、まったくの自由意志で、自分自身の判断に従って、自分自身の責任、計算において生産する。彼らの労働力の支出である労働は、各自の私事として行われる私的労働であり、直接には――労働そのものとしては――社会的性格をまったく持っていない。だから、その生産物もまた、彼らが各自で私的に取得するのであって、彼らはお互いに自分の労働の生産物が各自に属することを「私的所有」として法的に承認し合うのである。彼らの生産物は私的生産物であつて、直接にはけっして社会的生産物ではないから、社会がそれを意識的に分配することもありえない。
それでは、分業の組織や生産物の分配の方法を決める者がぜんぜんいないのにね、どのようにして、商品生産は社会的生産の一つのシステムとして成り立ちうるのであろうか?
商品生産者たちは彼らのあいだの生産関係を、直接彼ら自身のあいだの――直接に人間と人間とのあいだの――関係として取り結ぶことはないが、そのかわりに一種の回り道をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ぶのである。
私的労働が商品価値に媒介されてはじめて社会的労働になる
それでは、商品生産者たちのあいだの生産関係は、どのようにして、彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ばれるのであろうか、言い換えれば、彼らの生産物の商品としての交換関係は、どのようにして、商品生産者たちのあいだの生産関係を媒介するのであろうか?
商品は種々さまざまのものから成っており、使用価値としては千差万別である。だからこそそれらは交換されるのである。すなわち交換は、商品の使用価値としての相互の差異を前提する。だがそれだけではまだ交換は行われない。その上にさらに、Aの所有する物はAにとっては使用価値ではないがBにとっては有用であり、反対にまた、Bの所有する物はBにとって使用価値ではないが、Aにとっては有用である、ということを前提する。そうしてはじめて彼らは交換することになる。
けれども、こうしたことは交換が行われるための条件であるには違いないが、これらの条件だけで直ちに生産物の商品としての交換が生じるとは言えない。たとえば、もう飽きたゲームソフトをもっている太郎と要らないサッカーボールをもっている花子とがそれらの物を互いに交換したとしても、それは商品の交換ではない。なぜなら、この交換はおよそ、それの媒介によって彼らのあいだに社会的生産のシステムが成立する、という性質のものではないからである。
それでは、商品の交換を特徴づけるものはなんであろうか? それはいま述べたような、たんに人びとの所有する物の使用価値としての相互の差異、ないしはそれらの物と人間の欲求の関連ではなくて、むしろ、使用価値としての相互の差異にもかかわらず諸商品がお互いに価値として等しいとされる関係、すなわち価値関係である。商品は使用価値としては千差万別であるが、価値としては無差別一様である。だからこそ、どの商品もみな一様に金何円という形態、すなわち価格をもつのであるが、この価格において表示される価値によって、商品生産者たちの労働ははじめて統一性を獲得するのである。
商品生産者の労働は、すでに述べたように、直接には労働としては社会的な統一性をもっておらず、社会的な性格をもっていない。それは、労働する諸個人が私的な諸個人であることから出てくる必然的な結果である。彼らの労働は直接的には社会的労働ではありえない。すなわち商品生産の場合には、はじめから労働力が社会の労働力として存在し、それが種々の生産目的のために、あるいは耕作労働として、あるいは紡績労働として支出されるというふうにはことが運ばない。もしそうであれば、労働はそのアクティブな状態において、それが行われる瞬間から、直接に労働として、そしてまた、あるいは耕作労働、あるいは紡績労働といったふうな、それぞれ異なる特殊な、具体的労働として、その自然のままの姿において、立派に社会的な性格をもつであろう。ところが、商品生産者の場合はそうはいかない。
だがそのかわりに、彼らの労働は生産物に対象化されて、生産物の価値を形成するのである。価値としてはすべての労働は無差別一様であり、たんに量的な差異があるだけで質的な差異はもたない。商品生産者の労働はこういうかたちで――すなわち第1には、労働そのものの性質としてではなく労働の生産物の性質というかたちで、さらに第2には、生産物の自然的な、例えば米から米、布なら布といったふうの、それぞれ違った使用目的に役立つ使用価値としてではなく、無差別一様な価値性格というかたちで――はじ゜めてそれらのあいだの統一性を獲得し、それによってはじめて社会的な労働になるのである。換言すれば、社会がその総欲求の充足のために費やす総労働時間の一部としての、すなわち社会の総労働力の支出の一部としての意味を持つようになるのである。
だから、商品生産の場合には、生産者間の社会的関係は他の社会的生産の場合とはまったく逆の仕方で取り結ばれるのであり、すべてが転倒して現れることになる。最初にまず人間の関係が取り結ばれて、それに従って社会的生産が行われるのではなく、最初にまず、相互に独立して行われる私的な労働の生産物がお互いに価値において等しいとされ、交換される。そしてそれによって、商品生産者の労働もまた、価値を生産するかぎりではなんらの差異もないものとされ、無区別で一様な抽象的人間的労働に還元される。そしてこのような一種独特の形態においてはじめて商品生産者の労働は統一性を獲得し、社会の総労働力の支出の一部だということになるのである。
要約しよう
商品生産は、相互に自立した私的生産者としての労働する諸個人によって行われる社会的生産である。直接には私的な彼らの労働は、その生産物の交換の関係においてはじめて独自の社会的形態を獲得する。すなわち彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において、使用価値としての千差万別のすがたにもかかわらず価値として相互に等置されるのであるが、これによって彼らの労働もまた、使用価値を生産する労働としてのあらゆる現実の差異にもかかわらず、価値を形成するかぎりにおいてはそれらの差異を捨象されて、無区別一様な人間的労働、すなわち人間的労働力のたんなる支出の一定量にほかならないものとされるのである。そして、この一般的な人間的労働の結晶としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲求充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなりうるのである。
商品生産関係とは、私的生産者たちが彼らの労働生産物の商品形態をつうじてはじめて互いに取り結ぶ社会関係であって、彼らの私的労働が生産物の価値をつうじてはじめて社会的労働になるという独自な生産関係にほかならない。
商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた人間が商品所持者として相互に関わり合う関係が支配的な社会的関係であるような社会を商品生産社会と呼ぶことができるが、このような社会はじつは資本主義社会であって、資本主義社会とは異なる商品生産社会なるものは歴史的に存在しない。なぜなら、資本主義社会になってはじめて、社会をたえず再生産する労働する諸個人が彼の必要性産物ないし労働ファンドのすべてを商品市場で買わなければならない諸関係が、すなわち資本・賃労働関係が発展するのだからである。なぜ、資本主義社会では労働する諸個人が自己の必要性産物を市場で買わなければならないのか、という点については、のちに資本のところで立ち入って説明することになるが、その要点は、彼らは、彼らの労働するための諸条件を持っていないので、必要性産物を入手するためには、まずもって自分の労働力を労働市場で商品として売り、その代金である貨幣すなわち賃銀で必要性産物を買わなければならないのだ、ということである。
大谷禎之介「商品および商品生産」(「経済志林」第61巻第2号) 85−93頁
|