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2006年03月31日(金) soubetukai

夕方から非常勤先の送別会。僕は昼頃に契約継続のお達しをもらったので来年もひきつづき同じ職場であることが確認され、安心して会場へ。

送別会では、社員さんがたくさん入れ替わることが判明。退職される方、移動される方など事情はさまざま。いずれにしても、それぞれの職員さんがのこしていかれた言葉は、それぞれに重みがあって感動的でした。

僕はこの職業をやることになって今年で6年目に突入。いまの職場は6つ目なのだが、いまの職場が一番長くつとめていることになる。いずれも、それぞれにカラーが違っていて面白いし、勉強になる職場だったが、年月を経ることで自然とわかってくることもある。

技術不足でご迷惑をおかけしたところもあるから、大きな顔はできないが、育ててもらったと感謝してこれからも頑張っていきたいとおもう。


2006年03月29日(水) 芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社α+新書

遅まきながら、手に入れて読んだ。

著者がとりあげている「凶悪犯罪は低年齢化、急増している」という言説にはそれほど根拠がなく、ここ40年ほどをみれば、少年犯罪はむしろ激減しているし、世間が理解に苦しむような凶悪犯罪は昔にも存在していた、といったことは、すでにいろいろなところで言われていることである。また、山形マット死事件などを境にして、少年を刑罰よりも、教育の対象としてみて、保護すべきであるという精神は失われ、社会的に共有されなくなっていったというのもしばしばいわれる。

こうした保護思想が共有されなくなった社会は、現在どうなっているのか。著者はそれを自らを安全なところにおいたまま、「少年」や「異常者」をモンスターにしたてて、社会をお化け屋敷にみたててスリルを楽しむ社会だという。地域の防犯運動で、そろいのパーカーを来てパトロールする人々などのように、もやは防犯活動はエンターテイメント化しているという。

著者が現在の社会に対して感じる違和感はおおむね共有できるのだが、「ホラーハウス社会」というとらえ方はどうなんでしょう。地域安全マップ作りや、地域安全パトロールといったような動きは、まったく無関心な状態に比べればよほどよいと思う。地域の大人とほとんどしゃべったことがない子どもが社会を知るきっかけになったり、大人も子どもの顔がわかることで、これまでのように無関心ではいられなくなる。

誰でもそうだが、面倒なことはしたくない。少年に対する懇切丁寧な関わりがあればいいが、それを使命のように感じる善意の人はそうそういない(だから、とってもありがたいのだ)。エンターテイメント性があって、お手軽だからこそひろまっているという側面に、もっと肯定的な意味づけはできないものか。

前言と矛盾するようだが、『少年問題ネットワーク』にでてみると、少年に潜在的に関わりたいと思っている人はけっこういる。だが、そのような人がどうやったらいいかがわからない現状がある。こころある人がでていこうとしても、適切な場が整備されていない。昔のような地域共同体が崩壊したことを嘆く人たちの声もわからなくはないけれども、もはや昔にもどすことはできないのだから、代替的に新たな社会のネットワークを作らなければならないのだと思う。上述の動きも、そうした少年の発達を見守るネットワーク作りのきっかけとしてみてはどうか。


2006年03月25日(土) 日常経験をデータとしてみることへの異和感

昨日にひきつづきの「異和感シンポ」の話。

ここでは日常生活で出会うことがらを「データ」としてみるということがもたらす異和感について語られた。その感覚はまっとうなものだと思うし、とても大事なことだと思う。の、だ、けれども、僕は同時にもうひとつ想いださずにいられないことがある。それは2004年の10月に、同じく九州大学の教室できいた北山先生の講演である(過去日記にそのときの記録あり)。

北山先生いわく、フロイトは実は芸術家(いまでいう三谷幸喜みたいな人のことをいうらしいのだけど)になりたいと思っていたけれどもなれなかった。そこで芸術家にすごい羨望(envy)を抱いていたのだという。でも、北山先生はこのような羨望はもつ必要がなかったのだとおっしゃる。なぜならば、臨床家と芸術家は根本的に違うから。臨床心理学者は、もし芸術家が創ればほんの少しの時間で終えてしまうようなドラマをつくるために、(あえて言うなら)退屈でおもしろくないクライエントの話を、それこそ何10時間もの時間をかけて聴こうとする。

最後に北山先生は最後に以下のように締めくくられた(2004年10月末の日記)。
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研究者もまた3者関係での苦しみを抱いている。すなわち2者関係で、クライエントと接して得たあのよろこびが、3者関係にしようとおもって論文化した瞬間にまったくおもしろくもなんともない話になってしまうことを我々はしばしば経験する。それは、なかなか伝わらない。

しかし、私たちはそれよりも3者関係にいたるまでの2者関係を味わうというところにその重点をおくこともできるし、それが我々の問題なのだ。この 2者関係ではおもしろいのだけど、3者関係にすると面白くなくなってしまうというこの感じ。そして、上手く伝えることができないというこの感じは、実は、クライエント自身が社会にいきていくうえで抱いてきたつらさでもあるのだ。
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例えば、学校にいったときに受ける「なんともいえない感じ」があるにしても、それは、なんの矛盾も葛藤もなくそこにあるわけではないだろう、と私なら思う。こうした矛盾や葛藤をそのままにして、先にすすむことはできない。だから、人々は問題に直面する。でも誰も、その矛盾や葛藤が解消できるとか、統合できるとか、そういうことは想像もつかない。だからそうしようと試みることもない。

研究者はそういう人々の絶望感にのみこまれてはいけないのだ、と思う。たしかに2者関係でうける喜びや面白みが、3者関係になることで一気に失われてしまう。そのことは痛みだ。でも、その痛みはおそらく、現場の人が、他者に伝えようとして伝わらない、わかってもらえないと感じるその痛みなのだと思う。だから、それをひきうけながら、それでも絶望感にのみこまれないように、その矛盾や葛藤にのみこまれない現実のとらえ方ができるのだということを身をもって感じることが大事なのではないだろうか。

そんなことを思った。


2006年03月24日(金) ナラティブ研、そして謝恩会

昨日は、発達心理学会がおわったばかりの九州大学の研究室の一室をお借りして、ナラティブ研究会の総括の会。年度末のこの時期にはやはり各先生方のやりくりをするのも大変で、世話人を中心としてごくこじんまりと行われた。部屋などお世話いただいたSさんに感謝(ところで、Sさんの名刺やレジュメにつねにつけられているマークが個人的に気になっており、「もしや、これはSさんのシンボルマーク?」などと考えていたのだが、実は九州大学のシンボルマークであることが今日分かった。そらそうだわな)。

ところで懇親会では大先生から「ナラティブ心理学はどこへいく?」というシンポは、個々の発表はとてもおもしろかったが、結局のところ「どこへいく?」に誰も答えていないのではないか?という至極まっとうなご指摘をうけたorz。

まあ、それはそのとおりなのだが、それはこの研究会が、とりあえず現在の国内のナラティブ研究の動向をマッピングするという方向性でやってきたのだから、なかば当然といえば当然なのである。「どこへいく?」というのは、おそらくこれから、現状をふまえてあのシンポを聴いた各人が考えていかねばならないことだろう。ええ、もちろん、僕らも考えていきますよ。

そして今日は、卒業式、謝恩会。雨壷山付近のoldにて。oldは彦根にいくつもある昔ながらの家を改造して作った、雰囲気のあるお店。今年の卒業生は、僕が赴任して最初に授業を担当した学生である。最初だったこともあったからけっこう苦労したけれど、それぞれに個性的で、自分の主張ができるメンバーで、教えていてとても面白かった。けれど、きっと僕が彼女(彼)らにしたことよりも、僕の方が教えられたことが大きかったことだろう。社会にでても頑張ってほしいですね。そして、余裕があったなら、後輩の面倒もみにきてあげてください。









2006年03月21日(火) トランスクリプトはデータではない

『質的データへの異和感』シンポへでてみる。大倉さん、木下さん、阪本さんの話題提供。

大倉さんはのっけから村主選手のオリンピックでの演技後のインタビューからはいる。そしてトランスクリプト(単純に会話の移行情報だけが付加された、書き起こしであるが)を提示し、これではテレビ映像をみたときの、この私のなんともいえない感情をともなった「意味」にはとどかないでしょう、とおっしゃる。そして、分析者がその場の人に内在的な分析をすすめなければならず、それこそが質的分析の目指すところだったはずだ、という。ところが、それが単にトランスクリプトを提示して、そこから解釈を加えるという、従来の客観主義的研究となにもかわらないものになってしまう場合があるという危惧を述べられた。それはまったくそのとおりだと思う。

偶然だが、僕も彼女のインタビューをライブで聞いていて(というのも、荒川選手の演技がおわった直後に目覚めてしまったので)とても印象的なインタビューだと思っていたので、偶然にも同じものを印象深く見ているというので驚いた。もっとも、印象深かったポイントというのは少し違う。僕は冒頭のインタビュアーの「・・メダルには届きませんでしたが、頑張りましたね」という切りだしがとても印象に残っている。

というのも最近のインタビュアーは、だいたい事実のみを相手に伝え、そこから彼(女)らの自由な反応を聞き出そうとしているように思える。サッカーの中田はそういうやり方が嫌らしい(自分からさらけだすのがとても嫌いなのだろう)のだが、うまい方法ではある。ところが今回インタビュアーは「届きませんでした」という事実を伝えるだけではなく、その後に「が、頑張りましたね」と続けたわけである。僕にはまさしく「続けた」ように聴こえた。そして、こういうインタビューをするにはなにかインタビュアーなりに引き出したいものがあるに違いないと感じた。だから印象深かったのである。

さて、村主選手はそれに少し戸惑ったような笑顔を少しみせ、そこから様子がおかしくなってくる。「良い演技」だとたたみかけられて、頑張ってしゃべっているのだが涙がこみあげてくる。ここでの涙を大倉さんはインタビュアーには頑張ったといわれつづけ、そこに口に出せない悔しさがでたものというように評しておられた。

もちろん、そういう見方もできるのだけれども、僕はもうすこし違う感じをもっている。というのは、冒頭の質問でも結果ではなく、努力のほうに焦点づけていることに関連するのだが、村主選手はそれまでの日本選手権でのインタビューなどみても、結果はもちろん欲しいけれども、それ以上に観客に伝わるよい演技をすることを心がけているように僕にはみえていた。

だから、「頑張った」というインタビュアーの問いかけをうけて「すごいたくさんのお客さんがいたので」とここでもお客さんんのことをだしている。ただし荒川選手が金をとったのに4位になってしまったという状況では、頑張ってよい演技ができたというだけでは認めてもらえるものではない、というのは村主選手もわかっていたのだろう。

結果がでないことに焦点づけた質問をすれば、彼女の想いもひきだせなかったに違いない。あのときインタビュアーが出した「頑張りましたね」という彼女の努力に焦点化した質問は(コーピングクエスチョンなどというと白けるが)、その意味で、村主選手が本来大事にしたいと思っていることを話題にすることを許した質問だともいえる。

このインタビュアーは(もし本当にそうだったらけっこうずるい手を使ったなーとも思うのだが)そういう村主選手のこれまでをちゃんと勉強していたのではないか、と思えた。まあ、もちろん想像である。だけど、おそらく村主選手だって、これまでに事実のみをつきつけられるインタビューはたくさんうけてきただろうし、そういう選手の様子をみてきてもいるだろうから、今回もそうだろうという予期があったというのはあながち空想ではないと思う。その彼女の予期は、のっけから崩されたわけである。

このようにして大倉さんが「かみあわないインタビュー」と評したインタビューは、僕はかみあわないのではなくて、むしろ、ここで一般的に期待されているであろう枠組み(つまり結果がでなかったことへの悔しさ)をわざとインタビュアーから逸脱することで、選手の実感に近いところにふれられるインタビューになったのではないかと思うわけである。

ところで、大倉さんの発表のなかで一番気になったことは、トランスクリプト=データとしていたところである。少なくとも会話分析的な研究の場合、トランスクリプトはデータではない。むしろ結果だ。例えば、トランスクリプトとして大倉さんがだしていたものは、ターンの切り替わりだけが表示されている単純な書き起こしであるが、もし、村主選手が目に涙をうかべるまでの過程で、インタビュアーと村主選手のあいだになにがおこっていたのかに注目するならば、もう少し違った(たとえば表情の変化をできるだけ付加するような)トランスクリプトを作成することもできるだろう。

さて、それでも実証主義的なにおいがするといわれればそれまでだけれども、なにも会話分析的研究というのは客観的な証拠として書き起こし資料を提示し、それに対して解釈を加えることを意図しているのではない、ということは強調したい。もちろん、大倉さんは、そのようなことを承知しない、安易な質的分析の使用をいましめたのだろうからここで目くじらをたててもしょうがない。そのような分析をする人がいたら、僕も同じように指摘する。

とってつけたようになって申し訳ないが、大倉さんのご研究での分析はとても見事なもので、常に自分の感じを丁寧に文章にしておられる。卒論生にもすすめることがある。トランスクリプトなど呈示されるわけではなく、それに比べれば私の会話分析的な研究はともすると客観主義的な枠組みにはまりやすいものととられることがある。これには反論したい(別に大倉さんは僕に言及しているわけではないことはわかっているが、いちおう、そのように僕の研究を受けとる人がいてはいけないので、そのためにいっておく)。

長くなったので、続きはまたこんど。


2006年03月20日(月) やっぱり教えなければならないことはある?

昼からシンポジウム2連発。しかも同じ部屋。なんか変な感じ。

1回目は質的心理学の教育法のシンポジウム。保坂さんは発達的ワークリサーチによる教師の学びについて、杉浦さんは説得納得ゲームについてプレゼンされた。これらは質的心理学の教育法というテーマから逸脱するのではないかという意見もあるかもしれないが、そう簡単ではない。

質的研究であれ、なんであれ、教えるときにどのようなシステムを作ったらいいのかというのは、(ある程度理論的に導かれるとしても)個々の創意工夫にまかされている。また、どれだけいいシステムを作ったとしても、ユーザ−がそれをデザインされたとおりに使うとは限らない(うちの大学のデザインをみよ)。

結局、なにか「これは」と思うものを試してみて、そこでの人々の学習プロセスを詳細にみていくよりほかにない。そのときに保坂さんや杉浦さんの知見は役立つのだと思う。

さて、私たちのグループは、ナラティブデータにおける教育のあり方を、学習者が見えている部分に対して、見えていない部分を提示することで、学習者のアイデアを拡張していくことであると考えた。そのために教育者側がすべきことは、護られた環境を維持することだけだ。

これに対しては、やっぱりそうはいっても教えないといけないようなものがあるんじゃないかという意見も聞かれた。コラボレーションといっても、質問紙法も、実験も知らないで、いきなり学生にエスノグラフィーといってもコラボできるものではないというのだ。

もちろん、実践的にはある程度の基礎知識がなければ、次に進めないというのはそのとおりだし、卒論とか修士論文とか、時限が決まっているものをなんとかしなければならないというときに、何をどのタイミングで教えなければならないということはあるに違いない。

しかし、そんなことは当たり前なのである。コラボレーションというのはひとつの学習のあり方だ。ここから先はコラボ、ここから前は教え込みというものではないはずだ。

そもそも私は教育場面で、いわゆる「質問紙」「実験法」を教えているつもりはない。学生には教員として身につけてほしいもの(といっても具体的に「これ」といえるものではない)があり、その過程で「質問紙」や「実験法」を知っていることが、自分がぶつかっている課題に対してこんなに意味があるのだということ実感してほしいと思っているのだ。別に質問紙や実験でなくても、一例の詳細な観察であっても構わないと思う。










2006年03月19日(日) シンポ第1回は大盛況で終わる

家族心理.comのシンポ。朝から三鷹市の武蔵野大学へ。なんかお互いblogを読んでいるので初対面な感じはしないのであるが、生田先生にご対面。とてもかっこいい人であった。矢代さん、若島先生ともご対面。会場にはかなり多くの方が、しかも年齢層的にもバラエティにとんだ方がお見えになっていてとてもありがたかった。

矢代さんのご発表では、理論的枠組みは違っても家族療法実践の内実をみれば、実際にはどちらの理論であっても説明できるような変化が起きているという研究結果が示されていた。これは「理論」の地位をめぐる問題のように思える。すなわち、理論は実践を外部から記述するというよりは、それを超えて、実践の一部であるといえるのではないだろうか、というようなことが思い浮かんだ。

若島先生のご発表では、ベイトソンの「ダブルバインド理論」のなかの「ディスクオリフィケーション」発話の出現について、それが統合失調症家庭のみならず、一般的な葛藤場面での会話のなかにみてとれるということが示されていた。ディスクオリフィケーションが増えるのか、ディスクオリフィケーションが多い会話を、われわれは一般的に葛藤場面ととらえやすい傾向があるのか、そこらへんは分からなかったが、このような結果から示唆されることをふまえておくことは、セラピストのよいガイドになるだろうな、と思った。ところで話題とは直接関係しないが、収集されたデータのなかに抽出されていた会話は、いずれも名古屋弁であり、それが面白かった。

さて、シンポジウムが終わって学生さんからいくつか質問をいただく。若島ゼミの方たちらしかったが、若いのに偉いものですね。よい先生についてちゃんと鍛えてもらっているからこその結果でしょう。18時くらいまで懇親会会場にいたあとは、いそぎ空港まで移動。後片付けの生田さんには最後のご挨拶もできずに申し訳ないことをした。また、いろいろお声かけてくださいませ!

明日は、また昼からシンポ二つ・・・・.



2006年03月16日(木) いちおう最後の日

今日で、今年度は最後の非常勤。来年もまた同じ職場で働けるといいですね、と、社員さんたちとお話して帰ってきた。現在の職場は新規開店してから、今度の4月でようやく3年目。導入した新システムを根付かせるためにも、もう少しできるといいな。。。とは思うが、こればかりは自分で決められる問題ではない。

非常勤の帰り際、お世話になっている総合教育センターの先生がたまたまおみえになっていて、来年度から一緒にやろうとしている新しい研究の状況についてご説明くださる。これは、とっても面白くなりそう。いや、面白くしていきましょう、ぜひ!。

ところで、先生は今年度センターでてがけられた研究があるそうなのだが、その発表会では一番大きな発表をなさるそうで、さすがである。僕も昨年度は同じような会に同席させていただいたが、大変緊張するものだ。
今回の先生のご発表は、お聞かせいただいている範囲ではとても面白い試みだと思う。現場との恊働型プロジェクトであり、協力した現場は、おそらく苦労もあっただろうがきっと役立っているに違いない。

行動力も度胸も抜群の先生なので、発表もきっと大丈夫にちがいない。

ぜひ頑張ってくださいませ。


2006年03月15日(水) 気がつけばこんな時期に

気がつけば3月ももう半ば。そして日曜日には【家族心理.com】のシンポジウムですね。blog拝見すると生田先生は準備を着々とすすめておられる様子。書籍販売もなさるとか。すばらしいですね。同日に東京でも国際的なシンポがあるそうですが、内容的には負けてないと思います。○常心理学をやらなくても、エビデンスを突き詰める以外にも、臨床心理学を深めていくチャンスはたくさんあると思います。

断っておきますが、僕は上記の方向性に異論はないのです。ただ、そればっかりというのはよくない。それに、臨床心理学が「科学」だと名乗るための代表がそれなのだと言わんばかりな勢いを感じますが、だとするとちょっと困るなあと思うわけです。

論理実証主義的な発想にうまく適応する部分だけとりだして、アートをサイエンスにするんだというとしたら、ちょっとどうなんでしょう。いわゆる「アート」というのは、「自由」とか「主体性」のようなものであって、ある種の制約のもとにおかれなければ発見できないんじゃないか、と。だから、制約のないところに「アート」なるものはなく、あるのは「無茶苦茶」というものですね。心理療法がアートであることとサイエンスであることは相互構成的であり、アートをサイエンスで駆逐するという発想になるとしたら、ナンセンスです。

いや、まあ、そんなことは誰もいってないといわれればそれでいいですが・・・。というわけで(どういうわけで?)、みなさま、ご興味おありでしたら是非いらしてくださいませ。

さて、昨日は学内特別研究の会議、その後、懇親会。あんまりゆっくりしてる場合でもないのだが、仕事に追われているのはみな一緒。

懇親会では、健康問題についての見識を深める。先日のナラティブ研でも40代になったらガクッとくるという話をきいたばかり。僕ももう若くない、などというと笑われるかな。外見は十分学生でとおりますから。






2006年03月11日(土) ほけきょん♪

東京へいく相方を見送りついでに一緒にでかけ、僕は京都へ。

京都駅前のスタバで仕事。1つは1ヶ月締め切りがのびたが、それでも3月末までにあと2本あげねばならぬ。あぁ、学会発表とか(「とか」がデカい)もあるのにぃ。

どうすんのよ、俺、どうしちゃうのよっっ(オダギリジョー風に。ちなみに、ひけるカードは「書く」「書く」「書く」)

そんななかでも今日は楽しみな会。1時から京都駅前のキャンパスプラザで第1回の『ほけきょん』。養護教諭の先生方と恊働して、現場でおきている問題について考えることを主旨とした会です。

龍谷大学のエスノメソドロジー研究の秋葉先生、現役養護教諭でありつつ「保健室のエスノグラフィー」で有名な研究者でもある伊藤さん、そして僕が発起人。2−3年後に本を出版することを前提に、実りのある研究会にしようというわけです。

現場の先生方を交えて、今日は今後の方向性についてディスカッション。さすが、問題意識をもって向上の機会を探されている先生。とてもするどい視点がつぎつぎとだされます。研究者である私たちにとっても、ずっしりと考えるべき宿題が課されることとなりました。

これからもよろしくお願いします。


2006年03月07日(火) 学生の言葉をひきだす

朝から深草の龍谷大学へ。EMCAの例会の2日目に参加。こんどから、ある研究会を一緒にやることになっている秋葉先生のご研究を予習する。

発表は前代未聞というか、3回生のゼミ生が自らの授業での学びについて報告するパートがほとんどで、秋葉先生は前ふりとして授業の狙いを少しお話されただけ。そして、この授業というのは、例えば「いじめ」といったテーマについて即興劇を行い、配役をかえて、観客の意見もとりこんでどんどん積み重ねていくというもの。

即興劇、その後の振り返り、トランスクリプトといったさまざまなものがjaxtaposeされることでぶ厚く記述された「いじめ」という出来事。

秋葉先生は、現時点ではきれいに概念化して語ることをよしとされていなかった。教員がクリアーな概念できらないことで、学生さんたちがちゃんと自分たちで問題にとりくみ、自分たちの言葉で語れるようになったのではないか。それに比べて僕はいつもついしゃべりすぎて学生の言葉を奪っているなあと反省。

午後からは彦根にもどって会議だったので、まともに感想もいえずに退席してしまったのが残念。









2006年03月05日(日) この2日間の顛末

昨日は、午後から名古屋は名城大学でナラティブ研。名古屋大学の杉村和美先生のご発表。僕は、世話人であるにもかかわらず、ギリギリの電車でいこうとしたところ、駅についてみたら「急病人」がでたとかで15分も遅れており、新幹線に乗り遅れてしまいました。

名城大学の坂道を必死こいて走りましたが、日頃の運動不足がたたって、すぐに乳酸が充満してしまいました。マラソンのように「ああー、失速。足にきたー」という解説者(誰?)の声が心中音として聞こえるなか会場へ。杉村先生ほかみなさま、お待たせしましてすんません。

杉村先生のご発表は青年期の女性のアイデンティティの移行プロセスについての質的な分析。杉村先生のご発表は大変におもしろかったのだが、と同時に、アイデンティティという、ある意味、個人主義的で、これまでとことん客観主義的な枠組みで論じられてきた概念を、質的研究でやることの難しさを痛感。

そして今日は名古屋大学で相談室交流会。そういう企画を後輩たちが企画してくれたわけです。現役とOBがあつまって1日研修会をやってしまおうという企画。プログラムも午前中は蔭山先生の犯罪被害者支援についての講演。午後からは2時間の事例検討セッションが2つ続くという盛りだくさんな企画。お得感満載である。

OBたちが虐待、SC、病院、地域療育といったフィールドでやってきたとりくみを発表し、それを現役生をまじえて事例検討する。こうやってケース会議を毎週やっていたのがもう3年前だなんて時のたつのは早いもんだね。ああいうのはほんと他のどんな場所でも得難い経験だと思う。

現役のみなさんは頑張ってくださいね。


2006年03月03日(金) 統計処理の「裏側」を教える本らしい

今日は、ひなまつり。というわけで相方がちらし寿司をつくってくれました。いやあ、ええもんですなあ。おいしかったです。


それはともかく、大学院の先輩が統計処理の本を出されたそうです。発達心理学会のニュースレターにのってました。題して『研究事例で学ぶSPSSとAmosによる心理・調査データ解析』(東京書籍)だそうです。これまた売れそうな題ですな〜〜。

さて、この方(小塩さん)は『SPSSとAmosによる心理・調査データ解析ー因子分析・共分散構造分析まで』(東京書籍)という本も出されてまして、この内容がそっくりwebにアップされており、うちのゼミ生もすご〜くお世話になってます。いやいや、めっちゃ太っぱらやわー。

統計処理って、理屈がわからなくても手続きだけわかればなんとなくできてしまうところがあると思います。そういうのが批判されることもあります。例えば、SPSSのような統計パッケージを使うと、なかで何をやっているかわからなくなるというので、『実践としての統計学』(東京大学出版会)という本もでてます。

自分自身は学部生のときに手計算で分散分析とかいろいろやらされまして、のちに関数電卓などという便利なものがあるということを知って喜んだものです。SPSSなんて夢のようです。・・・と、別に苦労自慢じゃないけど、このようにやると統計って別に特別なことをやっているのではなくて、数式で現象を記述しているのだということがわかるし、だから、『実践としての〜』で著者先生方がいわんとされていることもなんとなく共有できる「気」がします(あくまでも、気がするということなんですが)。

ただ、そういう側面はあるにせよ、研究手法って、質的研究なんかも含めて習うより慣れろというところもあるんじゃないかと思います。先生や先輩の言われるがままにいろいろなことやってみたら、なんか知らんけど結果がでた。その言葉だけを受け売りにして、後輩にえらそうに手続きを教えたりして、そうこうしているうちに、今度、自分1人で調査をやろうとしたときに「ああ、あん時のあれはそういうことか」というのが分かって来たりするんじゃないでしょうか。

最近、こればっかりですがヴィゴツキーの「精神間から精神内へ」みたいなもんではないか、と。


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