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2005年05月31日(火) 『考えあう技術:教育と社会を哲学する』  

を新幹線の往復で読んだ。教育社会学者の苅谷剛彦さんと、哲学者の西研さんの対談が中心になっているが、最初に西さん、最後に苅谷さんがまとめの文章を書いている。

 最後の苅谷さんによる『「学ぶ意味」をどう再生するか』が印象に残った。昨今、「学びからの逃走」が起きたといわれ、その原因は学校において学ぶ意味が見えにくくなっていることだと語られる。学校は学びたいという意欲をひきだせていないともいわれる。こういう問いのたて方自体を考えなおす必要はないのだろうかと著者は考える。つまり、上記のような現状批判をする論者たちが「学びの意味」といった時、それはいったいどのようなものとしてイメージされているのだろうか、ということである。

 著者によれば「学びの意味」を唱えるとき、わたしたちは「(子どもが)自分のために学ぶ」ことを暗黙の前提としている。学びは、本来、個人の知識獲得だけでおわるものではない。他者の存在を前提としている。にもかかわらず、昨今の学習観は学習を、個人の知識の獲得や、変化としてのみとらえてしまっている。昨今の「個性の重視」もまたその傾向に拍車をかけているという。

 さて、上記の個人にとじられた学習観にかわって提案されているのは「誰かのために学ぶ」ことである。Lave & Wengerの正統的周辺参加論をベースにしながら、個人の学びであっても、実は目の前にいない(まだ、会ったことのない)誰かとつながっているという意味で、<社会(文化)ゲーム>への参加としてとらえるという視点が提唱されている。

 でもまあ結局のところ、社会のなかで人と協働してなにかを達成したときに、それを協働したみんなの達成であると正当に評価できるようなシステムをつくらなければ、学びの個人化だけを批判していてもしょうがないと思う。


2005年05月30日(月) 言い忘れ

そういえば昨日のパーティでは、最後になんとか2人でみんなを笑わそうとして頭がいっぱいになってて以下のことをいうのを忘れました。

「受付のお手伝いしてくださったTさんとMさん、曲をながしてくださったYさんとKさん(歩くスピードあわなくてごめんなさい)、ゲームの司会をしてくださったWS(もしくはSS)さん(とってもよかったです。あとプレゼントもありがとー。)、総合司会のTHさん(僕がかたくてごめんね〜)ありがとうございました。」

というわけで、こんなとこ誰も読んでないかもしれませんけども、遅いけど言ってみました。


2005年05月29日(日) パーティー

昼から恵比寿で披露パーティー。いよいよ本番かと思うととたんに緊張する私。
「一生分の注目浴びてるよ」とか言われつつ、司会の同期に硬いかたいとつっこまれつつの2時間でございました。いや、本人はできるだけ柔和にやってるつもりだったんだけどなー。

それはともかく、来ていただいた方々おかげでこちらは大変に楽しく時間をすごせましたよ。
ほんとありがとうございました。あとは来ていただいた方々が楽しく満足して帰ってくださってたらいいなーということです。

いつまでもよろしくお願いします。


2005年05月28日(土) 前日だというのに

昼まであれこれ仕事して、昼から東京へ移動。相方の実家にお世話になる。いろいろ御馳走していただいて幸せ。わいわいと楽しくおしゃべりもできてよかったです。

しかし、明日はパーティー本番だというのにしゃべること何にも考えてない。横で相方は暗唱しているというのに。僕はこんなんでいいのかなーと思いつつ、移動の疲れですぐに眠りにおちる。


2005年05月27日(金) 生協食堂のプランなきデザイン

お昼に人間看護の生協に食事にいったらけっこう混んでいた。それだけではなく、まれにみるインターフェイスの悪さでびっくりした。まず、なんとなく学生が長蛇の列を作っているのだが、みな、なぜ自分がこの列に並んでいるのか分かっていない。

実際、前の子に「この列はどこにつながってるの?」と聞いてみたら、逆に「どこなんですかね?」と聞きかえされてしまう。みな、なんとなく列の存在を知覚して、並ばなければならないと思っているのだが、その列自体にはなんら根拠がないということだ。アフォーダンスの人がよくもちだす蟻塚(蜂だったかな)のように、プランなきデザインが達成されているわけである。

普通、生協食堂といえば「おかず」「ご飯」「麺類」などと領域が区切られていて、みなそこに並んでいくというのをイメージできる。おかずをとったら、必然的にご飯もとらないといけないといった制約はあるが、麺類の人はそこをショートカットすることができる。ところが、ここはそういうことができそうにない。列がショートカットをアフォードしていないのである。

しかも、ここにはサラダバーがあるのだが、これがまた要領が悪い。右から左へと流れていく列ができているにもかかわらず、サラダバーの皿はワゴンの左端につまれている。つまり、客はサラダバーのワゴンを一度行き過ぎてから、もどるという方法でないとサラダバーをとることができないという構造になっているのだ。親切な子が自発的に、左端にあるお皿をいくつかとっては後ろの列の人に渡してくれだしているしまつだ。

細馬さんとこのような諸点について話しながらお昼を食べた。バッドインターフェイスの実習に使えるとか、いま3回生のゼミでやっている観察に使えるとかいろいろ話す。待ち時間が長くてもそれなりに楽しめるものだ。




2005年05月26日(木) 久しぶりに

料理をつくって家人の帰りをまつ。ここのところ作ってもらってばかりだったから。

冷蔵庫にいろいろ入ってるのを使わなければならないので、ポテトサラダに、マーボナスとか作ってみる。ポテサラはこの前、教育テレビの料理番組に出ていたグッチ祐三のレシピをみならってコンデンスミルクを隠し味に入れてみる。うん、微妙〜(^^;)。
あと、貰ってきたサンマも焼いてみる。

味は高評価であったが、台所を汚して怒られる。台所のメンテナンス方法をたたきこまれる。あぁ。たしかに、少し汚れたときに掃除しておけばいつもピカピカな状態が保てるわけね。少し汚れた時は、だいぶん汚れたときでいいやと思ってしまう人との違いだな。


2005年05月25日(水) ゼミとか

午前中は歯医者さん。先週型をとった銀歯をいれてもらう。なんか新しい感触。カチカチ。こうなったら全部直してもらおうかという気持ちになっているところに、Drから「どうしますか」と聞かれるので継続することにする。

午後からゼミ。今年から心理学系はみな3年生と4年生合同にした。3年生は4年生をみて自らのモデルにすることができるし、縦のつながりもでていいんじゃないかということが趣旨。

なのだが、我がゼミは3回生を3つのプロジェクトに割りふって作業させているので、なんとなく3年生の方がすすんでるように見えてしまう。で、4回生に上記の趣旨を説明したら「でも、先生、うちら逆やんかー(3年生の方がしっかりしてる)」とのこと。いやいや、そんなことないよ(汗)。4回生は4回生で就職活動とか大変な時期だというのは理解しているので、マイペースでやってくださいよ。

それから4回生のみなさんには今日は素敵な贈り物をいただく。とっても感動しておりますよ。いずれ報告するつもりでいたんだけど、水臭い教員ですいません(とここで書いても読んでないか・・・・)。


2005年05月24日(火) 教育実習

教育実習にでているゼミ生の頑張りぶりを見にでかける。県内の高校には指導に出かけることになっているのだ。教育実習生の指導教員というよりも、教育実習生そのものに間違われつつも、なんとか役目をこなす。ゼミ生は最初の緊張感などどこふく風でちゃんと授業をこなしていらっしゃる。まあ、よかったじゃないの。講評を求められたのでもっともらしいことを言っておく。まあ、なんでも勉強ですな。

大学の教員にはこういった実習はない。全くないわけではないけど、教育実習とは比べるべくもない。研究の占めるウェイトが大きく、教育にそれほどリソースを割かない人もいるから、実習なんてなくても問題にならないという意見もあるかもしれないが、実習もなんにもなくて教えるというのは難しい。

おおかたの大学院生は非常勤講師とかして、教える訓練をしてから大学に就職するからそれほど問題にはならないのだろうけど、学生のことを考えれば大学院でももっと教える訓練をした方がよいのかもしれない。


2005年05月23日(月) 映像にできること

学生相談とか、学生がつくってきた質問紙のチェックとか、あいまに授業準備とか。
メールができて便利になったもんですね。学校でつかまらなくてもレポート送れば添削してもらえるのだから。まあ、どっちにしても見るのは手間なんですけどもね。

昨日からトランスクリプションを作っていて思うことだけど、生の映像資料、音声資料からおこしたものというのは、現実(この際、現実とは何かとか問わないでおくが)におきたこととはだいぶん違っている。そもそも、文字におこしてあるもののように、僕らははっきりとしゃべっているわけではない。資料をよくきけばきくほどに、これをどう書き表したらいいのかというようなシーンにでくわすことになる。

こういう悩みに対して、ビデオをそのまま取り入れたようなエスノグラフィーなんかはとても役にたちそうである。某MLでは、論文に付録でDVDをつけるか、あるいはその雑誌のwebにビデオクリップをのっけておくといった工夫をすることが議論されている。ただし、のっけるのはいいけども容量が3.5ギガとかで置き所がなくて苦労しているのだとか、単にビデオクリップだけじゃダメでそれをどのように見たらよいのかというインストラクションが必要だとか、いや、そのままでいいんだとかいろいろ問題らしい。

質的心理学会もそろそろそういうことについて考えた方がいいんだろうね。


2005年05月22日(日) ドラえもん学

昼から京都にでていろいろ買い出しなど。

道中、横山泰行(著)『ドラえもん学』PHP新書 を読む。著者は信州大学の教員の方で、ドラえもんに魅せられ、藤子・F・不二雄先生自身の手になるドラえもん作品を蒐集し、分類・分析しておられるらしい。

私がドラえもんを知ったのは小学校にあがった頃。本書によれば、それはドラえもんの人気が飛躍的に高まり、小学館から発刊された『コロコロコミック』が月刊誌になった頃(1978~9年頃)なんだそうだ。いってみれば世間のドラえもん人気を支える一人の少年だったということだ。私にとってはけっこう個人的な物語である『ドラえもん』との出会いが、世間一般の現象の一部であるということを知るのは、不思議な感触をともなうものである。

あと、本書には『ドラえもん』の資料を十分に調べたうえで、ドラえもんの誕生秘話や、どうしてドラえもんがネズミが嫌いで、青く、耳がないのかについて最も信頼できる情報が書いてある。これも僕の理解とは微妙に異なる。人気のあるマンガになると、ファンがいろいろと補って物語をつくるようになり、そのいずれもが、それなりに信憑性のある情報になる。これもまた面白い現象だと思う。


2005年05月21日(土) 相手の視点にたって考えるのではなくて

本来は、介入方法というのは対象理解に基づいて行われるものだと思う。だから、例えば「ひきこもり」の人に対して「見守る」べきだと主張する人も、「早く外に連れ出すべきだ」という人も、その発言の裏には、実は何らかの前提がおかれていて、そこから行動指針が導きだされているものだ。

ただ、この前提というのはたいがいの場合、暗黙の前提になっている。だから、異なる前提をもっている人同士が会議をすると、お互いにケンカになったり、声が強い方が勝ったりする。

こういう時に必要なのは、「相手の視点にたって考える」ことよりも、むしろ、議題となっている対象を深く理解するということだと思う。「相手の視線にたつ」というのは、介入者からみたらそうかもしれないが、当事者にとってリアルな言葉じゃない、と思う。別に「相手の視点にた」たなくても、AさんならBさんの、BさんならAさんの対象イメージをとりいれて、新たな対象イメージが確立されてくれば、自ずと議論はすすむはずだ。

「外につれだすべき」というAさんと、「見守るべき」というBさんの2者関係にとじられた議論を、当の子どもはどうなんだという3者関係の問題にひらいていくことが必要になる。


2005年05月20日(金) 意味のないことをしゃべる

質問紙ゼミは、僕の担当は今日でいちおう終了。これからは細馬さんがデータ解析について講義してくださる。で、学期末に2人で発表会をひらく予定。

夕方からここから研。今日は名大の河野さんと、九大の実藤さんの2人を招いた。
河野さんは「模倣」を用いた痴呆性高齢者のスクリーニングテスト、実藤さんは乳児が乳児のことをどのようにみているのかということをご発表された。

いずれも大変面白いもので、脳科学の成果と、乳幼児や障害をもった方のふるまいについての詳細な観察による知見の積み重ねから、これまでにない分析単位の発見や、新たな枠組みが創出されてくるのかもしれないなとディスカッションを聞きながら思った。

研究会の内容を聞きながら、ふと物思いにふける。最近、今更ながらに思うことは、人間、実は、そんなに意味の通じることをしゃべっているわけではない。聞き手はもちろんのこと、話者自身が何を言っているのかよくわかっていないことがあったり、語りだしてはじめて自分が何を言いたかったのかわかることが頻繁にある。語ったあとに、いや、でもこういうことを言いたいのではないのだと思えることもあるだろう。

このような側面を視野にいれない「語り」研究はとても退屈だ。語りの内容自体を論理的に分析していくことで、ある種の言説の批判をすることは可能かもしれないが、それもまたちょっとなと思うわけである。

最大の勘違いは、「言葉」には最初から「意味」があると思ってしまうことだ。たしかに言葉には意味がともないやすいが、実際のところはそう簡単なものではない。言葉の布置に「意味」があるとしたら、それはどのような条件のもとでかということ自体、問い直されないといけないのだろうなと思うのです。


2005年05月19日(木) 誰かとってくれ

午後から非常勤。今日もまた盛りだくさんな日。
朝から晩まで一言たりとももらさず記録したい衝動にかられる。誰か、おれに密着してビデオ録りしろ。嘘。そんなん見せられるようなものではありません。


2005年05月18日(水) 歯もはも

午前中、歯医者さんにいき、午後からはゼミ。
歯医者さんは、今日はこんでました。

ゼミにはたくさんの人がくる。3回生のあいだはたくさんの先生のやり方をみるのがよいから、いろいろ掛け持ちしてでてくれるのはかまわないけど、やっぱりサイズが大きくなると凝集性がなくなってゼミらしくなくなる。

授業が終わり、今日はたまたま遊びにきた他のゼミの4回生から「先生のゼミはたくさん学生がいて人気あるね。よかったね、独法化されても首にならないよ(笑)」と笑えないことをいう。いや、ほんとに来年からどうなっていくのでしょうな。

夜は京都で結婚祝いに豪華なお食事を食べさせてもらう。すごいよい雰囲気のなか、料理はおいしく、お話は楽しく、と夢ごこちであった。ほんとうにありがとうございました。

相方は「この世のものとは思えない」と。いや、それ、なんか悪い表現なんじゃないかとかちょっと思ったが、まあ許す。


2005年05月17日(火) 風呂場のフィールドワーク

朝から家族をのせて大津の病院へ。んで大津からとってかえし、家で相方をおろしてから彦根へ。5限に環琵実習。今回は昨年までの企画から変更してみたのだが、うまくいくといいのだが。伊藤先生らが編集された『動きながら識る、関わりながら考える』は、テキストにはちょうどいい感じ。

自分も分担執筆しておいてなんであるが、『ワードマップ質的心理学』よりも使い勝手がいい気がする。ワードマップの方はやや難しいかもしれないのだが、それ以上に「教える」というところに焦点化されていないというのが一因だろうと思う。

ま、ともかく3年生のゼミで前期に読んでいこうと思っているのだが、今日の1年生には序章をくばってイントロがわりにする。

フィールドワークというのも、最初からやりたい派と、なかなか外にでていけない派があるように思う。別にどちらがいいとも思わないしシャイなことが悪いことではないのと同様に、引っ込み思案なフィールドワーカーがいてもそれはそれでいいのではないかと思う。が、スタートダッシュは前者の方がいいだろうし、ずっと外にいけないのはそもそも物理的にフィールドワークできない。

今年は、わりと動きたい子が多いようなのでもりあがってくれるのではないかと期待。



2005年05月16日(月) 怒りをコントロールできない子

大河原美以(著)『怒りをコントロールできない子の理解と援助: 教師と親のかかわり』金子書房

を読んだ。著者は児童相談所や教育センターで心理職をつとめた後、大学教員になられた方で、もう20年以上臨床現場にでておられる。

最近、「キレる子ども」などというニュースが世間を賑わせ、ADHDやアスペルガー症候群という名前が知られるようになったので、なにか問題がおきたというとそういう障害に帰属して説明するという風潮がある。著者は、そういう診断名は本人がエンパワーされるときのみに有効であって、レッテル貼りにおわってはしょうがないという。

「問題」とはある種の言説であって、「問題」が「問題」となる文脈が大事だといい、問題を増幅するシステムをたちきることと、その子の固有の問題にアプローチすることをわけて考えるべきだと述べる。また、それを具体的な実践例を交えて説明されている。専門的な部分にふみこまないのは、本の趣旨からしてしょうがないのだが、でもSCとしての実践にとても使える本だと思った。

(キレる子は発達障害ばかりではないが)発達障害の子は、教室の雰囲気といったものに敏感に反応してキレてしまうことがしばしばある。そういう時、本人が発達障害であると知っていても、クラスの雰囲気というのはなかなか手がつけにくいものだが、本書ではそういうクラスのなかでの発達障害をとらえる視点にも言及されていて、すばらしい。学校臨床に携わるみなさん、買って読むべし。


2005年05月15日(日) 懸案の会は

無事すみましたですよ。まあ、なんとか。

でも寝不足で疲れましたよ。寝不足だと、あまり行動に抑制が効かなくなりますね。

で、「私がいうのを復唱してください」と言われて、外国人の牧師さんの「コノユビーワワ〜」という、いかにも外国人らしい発音に、「コノユビーワワ〜」と反射的につられてしまう私。横で相方苦笑。いやいや、俺はどこの人やっちゅう話やね。

あっ、練習してる時ですよ。本番ではちゃんとやりました(本番でやったらシャレにならんがな)。


2005年05月14日(土) 前日だというのに

あまりそういう緊張感もないままに夜まで過ごす。明日のことも心配だが、自分の原稿のほうもけっこう心配の種であり、もうこれ以上いろいろ気にしている場合でもないので根をつめてやることにしたのだが、、、。これがいかんかった。さすがに夜になると「ああ、明日なんだな」と思ってだんだん緊張感が増してくる。しかも、今日一日、なんも心の準備をしてないじゃないの。

それで、早く寝た方がいいとは思いつつ、眠れないままに今まで起きている(というわけで、明日っていうか今日なのよね)。明日とちらないかと心配である。もう1回予行のビデオみるかな、、、、。


2005年05月13日(金) 時のながれ

授業は質問紙制作もとりあえず一山越えたかなというところで終了。心配していた1グループもなんとかキャッチアップしてきてなによりだった。

その後、夕方から2年生の企画した「新入生歓迎会」に出席。金曜日だからか、事前の予告がおそかったのか、教員は誰も出席しておらず。僕一人でなんとなくそわそわしてしまう。新入生の動向もしっておきたいのでこういう機会を逃す手はないのだが、、、。

しかし、毎年この会に出席すると時間がたっていることを実感する。

この職場にきて3年目。最初に赴任したときにでた歓迎会は、僕もまた新入生と同じく新参者だったが、いまではすっかりフルメンバーである。

そして3回生のメンバーがちょっと顔をだして先輩の貫禄をみせるのをみるにつけ、初年度の歓迎会での様子を思いだして、また時間のたつのは早いなと思わされる(去年も同じようなこと書いていたような気がするなあ)。

今年の2回生は、例年の食堂を借りておこなう形式をやめて、自分たちでカレーをつくってふるまい、人間文化学部の棟内でおこなうという形式にしたらしい。準備は大変だろうけど、こういうのもアットホームな感じで良いねえ。





2005年05月12日(木) 時間の量と質、大阪城は誰が作った

朝一で学校にいき雑用をすませてから、非常勤さきへ。今日も盛りだくさんな1日であった。

日本でサービス残業をするのは4人に1人、オランダでは70人に1人だという調査結果があるらしい。残業は美徳とされることもあるが、質の悪い仕事をしているから残業しなければならないという説もある。残業しなければ満足を与えられない仕事をやっているというつもりもないのだけど、どうも時間がたつのが早いこと早いこと。

時間をかければいいものではなく、その場をどう理解するかが専門家としては問題だという説もあるけども、相手方に私が理解しているということ自体を理解してもらうのに時間が必要だなと思ったりもするわけですな。

夜、記録を書きつつ、猛烈に眠くなってねてしまひ・・・。ああ。まったく話題は変わるが、ラジオではどこだったかのCMでは、以下のようなやりとりがあった。

子ども「ねえ、お父さん。ピラミッドは誰が作ったの?」
父「うん?。ピラミッドは昔のエジプトの王様が作ったんだよ。
子ども「え、王様ひとりで?」
父「ははは、王様は自分が作ったといっているだけで、実際には何十万人という人が働いてできたんだよ」
子ども「じゃあ、お父さんは王様なの?」
父「ええ?」
子ども「だって、いつもあの橋はなー、お父さんが作ったんだぞっていってるじゃん」
父「う。む。んー、それはだな・・・」

ここにある「誰がつくった?」という時に、王様か人足かどっちなのかという問題は、子どもの頃からしばしばひっかけクイズのように出されているけども、案外、城とか、ピラミッドとかそういうのではなくて、例えば「学校が改善された」とか「ある不登校の子が学校にくるようになった」とかいうときにはけっこうな問題になるなと思ったです。

実際には多様な要因が複雑にからみあってできているはずの現象を、「○○したことによって〜になった」式に語るのはなかなか難しいな、と。






2005年05月11日(水) さしば

昨日の夜、差し歯が急にポロリととれた。!!!。昔、大学時代にふとしたアクシデントで、僕の口に友だちの履いていたスパイクがあたったのである(どういう体勢だ??)。おもわず、つけたらついたのだが、翌朝起きたら肩がチクチクいたいのでどうしたのかと思ってさわってみたら、またもや差し歯がぬけて僕の肩を圧迫している。前歯だけに、ぬけた姿はまことに間抜けである。

んで、朝から彦根の歯医者さんにいってみてもらう。お医者さんは「あ、問題ないので、またつけましょう」といって、さっさっさと削ってつけてくれた。おお、よかったよかった。

感じがよいところでよかったです。待たなくてよいのが一番よかったのかもしれないけどね。ここんとこ医療場面での人間関係でいいことなかったので、今日はひさしぶりによかったです。


2005年05月10日(火) 見ることと見ようとすること

会議ののち、大学院生2人の合同の研究指導会。藤本さんは今週の土曜日にはアフリカはマハレにある国立公園にむけて旅だっていかれる。これから1年間、野生のチンパンジーを観察にいくのだという。彼女が注目しているのは野生チンパンジーの「見る」ことらしい。

エスノメソドロジカルに考えれば「見る」ことと「見ようとする」ことは分けて考えなければならない。「見る」ことと「見ようとする」ことは重なりつつも、別々のことだ。後者は具体的な行為として数えられるが、前者は実体のない構成概念だ。

ウィトゲンシュタインによれば、「見る」は単にヴィジュアルオリエンテーションを向けるということではなく、理解を含意している。だから、日常言語の言い回しにふりまわされて、実際にそのようなプロセスがあると誤解してはいけない。すなわち「見ている」という言葉があるからといって、そのような経過が実際にあるわけではないというわけだ。

例えば、T大学のI先生らがやっている、大学病院での症例検討会の相互行為分析では、研修医がシャーカステン(レントゲンをつって映すやつ)を見ながら患者の病歴を話すのだが、指導医はそれに一瞥もくれないということがとりあげられている。これは「視線を向けないこと」で逆説的に「見る」ことが達成されている例である。すなわち、普通ならばみるはずのレントゲン写真をみないことによって「異常なし」という理解を、その場全体に表示するものとなっていると考えられる。

一方で、「見ようとする」行為には、ただ視覚的になにかをとらえるだけではなく、それ自体、「見る」ことよりは、他者になんらかのメッセージを伝えることにもなる。例えば、うつむいている友人の顔をのぞきこんで「おーい」と言う時には、話者は友人の顔をのぞきこんでいながらも、実際には「見る」というよりも、友人のふるまいが、<いまーここ>において不適切であることを表示するということをしているのだ。




2005年05月09日(月) 今さらながらに

土井先生の「<非行少年>の消滅」(信山社)などを読み返して「うむ〜」とか言っている場合ではないのになあ。でも、読んでいるのですよ。

近代とは異質性を包摂する時代であった、と、ふむふむ。

でもまあ、なんだね。ミクロな相互行為分析から、いきなり「近代とは」とかまでいっちゃうのって飛び過ぎですか?。まあね。「近代とは」までいっちゃったら、だいたいどんなことでも当てはまってしまいそうな気がするね。>自分。

そうそう、土井先生といえば、今年度の「青年心理学会」は静岡大学であるのだが、そこでは土井先生を招いてシンポジウムを開く予定で、それは楽しみである。そのときにはこちらも差し出せるものがあるとよいなあ。


2005年05月08日(日) 仕事はすすまず

自分の仕事が進まないので、、、というわけでもないのだが、前から約束があるのである人の原稿を仕上げる。

視力が悪いのでワープロが使えないその人にかわって、口述筆記をするわけである。手伝いながら、長い文章を頭のなかだけで考えて口述するのはとても大変なことだと感心する。口語を口語としてしゃべるのは容易いかもしれないが、そのぶん冗長になる。文章にするには、無駄な部分をなくして構造化せねばならない。だから、口述で文章をつくるというのは大変な認知的負荷がかかりそうである。

そろそろ自分のものもなんとかせねばならんね。


2005年05月07日(土) リアルな水槽はリアルでない?

GW中だが『環琵琶湖文化論実習』で琵琶湖水族館にいった。学生は自由参加だが30人弱来ていた。途中で、博物館の学芸員の川那部さんに説明していただいた。いろいろ話していただいたが、水槽をみて川那部さんが思うことは3つあって、「本当はこんなに魚はいない」「こんなに奇麗な水じゃない」「アユはいつでもこんなにでかくない」ということだという。

水槽のなかにいる魚は、明らかに人口過密であって、本当はでっかい水槽に1−2匹いればいい方だ。で、水も本当はこんなに透明ではなく、泥でよごれているのだと。それからアユというのは冬の時期でも博物館内の水槽ではでっかいのが泳いでいるのだが、本当のアユは冬の時期には食べるものがなくてとっても小さいものしかいない。いまのアユは人工繁殖用のペレットを使って飼育しているので、もう、どんどん大きくなる。で、冬の時期の食べ物がすくない様子を再現しようとすると、普通にプランクトンを食べているものはそうではないのだが、ペレットで育ったアユはころっと死んでしまう。だから、太るか死ぬかしかないのだと。

それで川那部さんとしては、将来、でっかい水槽に1−2匹しか魚がおらず、水がにごっていて視界が悪く、冬にはアユがいるのかどうかわからないような、そんな水槽をつくるのが夢だという。リアルを追求したいということらしい。でも、リアルを追求すると誰もそれをみようとは思わない、だからそんな水槽はできないんだということらしい。

先日の森達也さんの本のなかで「リアルなものをリアルに撮ってもリアルにならない」というのを読んだところだったので、われわれが感じるリアルとは、ではいったいなんなのかということが気になった。


2005年05月06日(金) おめでとうございます

東京のほうでは新しい命が誕生したということで、おめでとうとざいます。
いやー、彼がパパになるというのはなんだか実感がわきませんな。でも、世間ではとても父親らしくなったとのことで、人間、変わればかわるもんだなと思いました。

連休中で学生は迷惑かと思ったが、質問紙ゼミはやらねばならぬ。みんな体育の後でお疲れのようであったが話し合いを頑張っていた。もうちょっとで具体的な質問紙ができあがりそうなので、安心。今年はちょっと余裕をもってできるかな、と。



2005年05月05日(木) Nスペで

『心にノック』とかいうのを見た。義家さんと、えー、お名前失念してしまいましたが、金沢市で小学校の先生をやっておられる方が、SOSのメールをくれた生徒に会いにいって対話するという趣旨のもの。リストカットをしている女の子とか、学校でイジメにあっているという小学生とか、不登校の中2の子とか、いろいろ出てきた。

「大人はわかってくれない」色満載の企画に、この大人ならなんとかなると思われつつ出かけていくのは相当に勇気がいりますな。圧倒的にアウェーだもんね。自分だったら、こういう状況で、こういう人の前にたってどんなことを言えるのかと深く考え込んでしまいますよ。しかも会うのはこれ一回きり。

しかしまあ、実感として最初に思ったのは、わざわざ表にでて見ず知らずのその先生に、しかもテレビに映るのに出てきて対話しようと思った生徒たちはたいしたもんだと思ったですよ。もちろん、いろいろな事情があるんでしょうから安易に喜んでるわけにもいかないですけども、最後の子なんて駅まで迎えにきてたしね。なかなか誰にでもできることではないですよ、そんなこと。

しかし、NHKもあんなに映していいのかと疑問ではある。顔にモザイクかかってるけど、携帯のストラップとか、大人からみれば変哲もなくても、小中学生にしてみればかなり自己主張してるであろうところをアップでとったりして。そんなん余裕で特定されてしまうがな。

前に性同一性障害で家族がいるという人のドキュメンタリーを授業でみせたことがあるんだが、当事者の娘さんが顔にはもちろんモザイクだったけど、携帯のストラップにもモザイクかかってて「なるほどなー」とみながら思ったのを対比的に思いだしました。

それともあれか。あの映像自体がよくできたイメージ映像なのか?。それだったら、それはそれですごいですけども。


2005年05月04日(水) こころをさなき世界のために

森達也さんの『こころをさなき世界のために:親鸞から学ぶ<地球幼年期>のメソッド』洋泉社を読んだ。作者は、サリン事件以後のオウム真理教(アレフ)をおったドキュメンタリーである『A』『A2』を制作した方である。

森さんは、オウム真理教の信者たちの生活を撮影しているのだけれど、他のメディアと異なっているのは、他のメディアがその異常性に注目し、いかに理解できない、恐るべき集団なのかということを強調するのに対して、オウム真理教の信者たちを、周囲の人々がどのように扱ったのかということであり、周囲の人々もまた問題として描かれているところだと思う。

森さんは親鸞の教えが、自分の考えをかなり代弁してくれていると感じているようだ。親鸞は、悪をとがめるよりもむしろ、自らを善な立場において悪をとがめる人をとがめているらしい。すなわち、自らを善の位置において、その安全な位置から悪を非難するというのは、人はみな悪をなしているという前提からすれば、そういう自分の悪に気づいていないということで、これも罪深いことだというわけである。

僕は、親鸞がそんなことをいってたとは不勉強ながら知らんかったぞ。でも、こういう森さんの関心は、非行少年を社会で受け止めることを考えるうえでも役にたつものだと思いましたです。思いましたが、「皆が白だというときに黒にとびつく」と森さんがいうような生き方って、とっても厳しいなとも思いました。


2005年05月03日(火) GWの一日

用事があって大津までいったついでに、せっかくのGWだからと大津パルコにいった。パルコのなかの飲食店に入ったら、どこの国の人だかわからないけど、10人以上の人がわいわい話していた。英語や、その他の聞き慣れた国の言葉ではない。たぶん。

服を物色し、気に入ったものの値段をみたら、1万円代のタグがならぶなか、1980円を1000円に値下げしたやつだった。前も数あるもののなかで気に入ったのをえらんだら1500円だった。別に安いから買っているわけではなく、安いものを気に入る性質のようである。

帰りにスタバによって外で飲んでいたらゼミ生に遭遇。いやー、どこで誰にみられているかわかりませんな。




2005年05月02日(月) 本日の検索

[松嶋]×[生い立ち]。

この人はいったい何をもとめているのか。

僕の生い立ちでないことはたしかだ(と思う)。松嶋って名字では、松嶋菜々子か、オセロの松嶋くらいしかしらない。ちなみに僕は、松嶋菜々子と、滝沢秀明をたした名前である。これを言うと、非常勤先ではいつも「はい〜?」と怒られる。

1日、論文の書き直しをやっていた。最初は修正箇所を訂正するつもりが、新たに書き足したり、書き直したりしたくなってしまう。始末の悪いことに、書き直している途中で、自分が試みていることがなんなのかわけがわからなくなってストップしてしまったりして。何をやってんだ>自分。


2005年05月01日(日) 我慢が大事か

相方は東京でいろいろ伝授されたらしい。いや、別に言ってくれればやるですよ。やらせてるわけじゃないっす。まあ、そういう「言ってくれれば」ってのがダメという説もありますな。ええ。

それから、たしかに「自分がやった方が早いし、きれいだから」といって手をだしてしまうと、かえって他方をダメにしてしまいますな。


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