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2005年04月30日(土) 質的研究会

立命館大学で質的研究の研究会。今年で3年目。毎年、継続して何回も同じ人の発表をきくので、その人の成長のあとがよくわかる会。で、今回は立命館の荒川さんと、椙山の宮川先生と僕がコメンテーター。

1年目の会もこうだったかもしれないが、まだ3人ともに問題意識がかたまっておらず、どのようにコメントするか迷う。抽象論ばかりでデータがでてこないというのではなく、むしろデータはたくさんとってあって、分析もすすんでいるようなのだが、どうもそのデータとともに語られている理論とデータが整合していないような気がする。

問いをたてるというのはもう質的うんぬん以前の問題ではあるが、しかし一番大事なところではある。次回にどのように焦点化されてくるのかが楽しみ。頑張ってください。


2005年04月29日(金) 対話をうみだすにはわかりにくく書く?

昼から研究室にいってお仕事。ひたすらなおす。でも、なんかしっくりこなくて根本的になおしているうちに時間がどんどん過ぎる。別に暇なわけじゃないんだぜ>自分

現代のエスプリは『臨床の語用論(1)』。長谷川先生の監修。(1)ということは(2)があるのか?。相手を動かす言葉というフレーズは印象に残った。そしてナラティブのH,アンダーソンやらガーゲンをバッサリといっている。壮快。

ガーゲンと言えば、asahiのwebニュースのBookレビューで東大の刈谷先生が『あなたへの社会構成主義』の書評を書いている。(本書をよんで)ほんとにうまくいくのかという疑問がわいてすっきりしないのが、かえって良いのではないか。それこそガーゲンの狙いとする対話へと読者を導くのだから、、と書いておられる。刈谷先生の方がガーゲンより「対話」の性質をわかっているのじゃないか?。


2005年04月28日(木) 九州の

松本さんから論文抜き刷りをたくさん送っていただく。松本さんは、論文以外でも、最近『心理学研究』に掲載されて話題となっているらしいが、研究面では、これまで一貫して同行調査という方法で高齢者を対象に研究をすすめられている。同行調査っていうのは、高齢者の人と一緒に外出しつつ、その時々の気持ちとか思い浮かんだこととか聞いていくというようなものだと思う。歩いていて目にとまったものから、「昔はここで〜」などというような語りが得られたりする。これまでにない方法論を自前でつくって、その理論的な検討もしながらデータも集めてと、とっても精力的ですごい人である。

最近、記憶が語りはじめられる時、その人には何がおこっているんだろうかと思うこと多し。

語りの側面に焦点をあわせると聞き手性が強調されるが、「記憶」の語りはそういう<いまーここ>の関係性だけには回収できなくて、自分自身のために語っていると思えることもある。

そんなこと当たり前ですか、ああ、そうですか。


2005年04月27日(水) 初合同ゼミ

本日は3回生をまじえてのゼミ1回目。自分のやりたいと思うテーマを一人ずつ語ってもらいつつコメントし、ということを繰り返す。

そして、最後に・・・・

「みんなが言っているような面白そうと思うことなら、本を読んで勉強すればそれですんでしまうかもしれない。でも、自分なりにこれはどうなっているんだろうかと考えていくのが卒業論文だから、みんな自分なりに考えをもっていろんな論文を読んでいくといいと思う。これまでみたいに、ただいろんなのをみて、面白いなじゃなくて・・・・・」

と言った。
ただし、4回生が。

へーー、君ら立派なこというねえと思わず言ったら「先生、わたしらもちゃんと考えてんねんで」とのこと。いやいや、別に前からちゃんとしてへんとは思ってないですけどもね。

これまでひとつの学年だけでゼミをしていたからわからなかったが、案外、縦のつながりができると、聞き手が異なることでみんな言うことが違ってくるということだな。

後は、サイズが問題。やっぱり12人もいるとディスカッションにならない。


2005年04月26日(火) 世の中そんなもの

またもや研修会の講師を頼まれる。頼まれるうちが華。使ってもらってなんぼの世界です。
ただし今度は10年研らしい。10年といったら、新卒からとして、同年代じゃあないの。
知ってる人(正確には、過去を知ってる人)がいたらいやだな。

内田樹・名越康文(著)『14歳の子を持つ親たちへ』新潮社

名越先生は、前に『グータン』という番組で、芸能人の精神分析をやったり、『ホムンクルス』『殺し屋イチ』というマンガの原作をやっている人だ。マンガも面白いし、グータンでのコメントっぷりも、まあ、テレビ向けだから基本的にいんちき臭さはあるものの、それなりに信憑性のあることをいっていることもあり、その人がなにをしゃべるのか興味があった。

のであるが、面白かったのは内田先生が後半部分で語っていた14歳のころのエピソードである。内田先生の中学の友人に映画評論家の松下政巳さんという方がいらっしゃるそうだが、中学時代はめっぽう生意気で、親も同級生もバカに思えてしょうがない時代を過ごしたらしい。そんな松下さんは、内田先生のような、これまた生意気でこ難しいことを語る中学生と文通をはじめて救われたのではないかと内田先生は分析する。お互い、顔のみえないなかで生意気で難しいことを書き連ね、それぞれに「細面で痩身の知的な感じ」といった身体的特徴まで想像していたのだが、いざあってみるとお互い「坊ちゃん刈りで丸顔の中学生」にすぎないことがわかり、「なんだ、世の中ってそんなものね」と思ったところで憑物がとれるように楽になったのだそうだ。

「ああ、こういうのでも大丈夫なんだな」と思う経験って大事だと思う。概して、理想主義的になり、世の中が矛盾ばかりにみえてしまう人たちにとって、僕らは矛盾ばかりでちっとも冴えない人に違いない。それでも、こんなやつでもなんとかそれなりに生きているらしいということが、彼らにわかることが大事なのではないか、と。






2005年04月25日(月) 新人は荒野を目指す

「新人」という言い方は、暗黙のうちに「古参者」の存在を前提にしている。たいてい「新人」は、古参者ができることを、近い将来にできるようになるべき人物として描かれる。

こうした視点にたつ研究は、古参者と比べて、新人たちがどれほど劣っているのかを教えるが、新人たちに何が見えているのかを明らかにはしにくい。

例えば、ある学校に新しく赴任した教員は、その学校における新人であり、ベテラン教員は古参者ということになるが、この場合、新人教員はベテラン教員の姿に近づくべきであろうか?。

もちろん、必要にあわせてそうしなければならない側面もあるだろう。が、1年間たてば、確実に中学校なら3分の1、小学校なら6分の1の生徒がいれかわるのだから、自ずと学校の雰囲気は変わってくる。そのなかでベテランのやるとおりに変わらないやり方を何年も押し通すならば、その学校はうまく機能しないのは自明の理である。この場合、古参者はむしろ新人からこそ、現在の実践をブレイクスルーする方法を学ばねばならないことになる。

また、例えば、新人が熱烈型の学級経営をし、ベテランが要所をおさえた学級経営をみせるという時、2つの学級経営がならびたつことにより、生徒はライバルを得て頑張り始め、結果として学年としてのバランスは保たれることになる。このときどちらが優れていて、どちらが劣っているということは一概には決められない。

いずれにしても、システムや状況からきりはなされた単体としての新人や古参者はいないのである。そして単体として評価されるかぎりにおいて、新人はあくまでもベテランに追いつくべき存在であり、ベテランは新人に比べて優れた特質をもつ存在とならざるをえない。


2005年04月24日(日) 自由と警察

新居の近くには、鉄道がはしっていて踏切がある。駅前に買い物に行く時は、必ずこの踏切をこえていかねばならない。しかし、この踏切はけっこう無視されることが多く、一旦停止しないで事故する車も多いらしい。

というわけなのか、たまに警察がこの踏切の近辺ではっている。この前も、朝、つかまっている人をみて、「うわー、自分じゃなくてよかった」と思いつつ、午後になって再びこの踏切をわたるとき、さすがにもう引き上げたんじゃないかと思ってうっかりと一旦停止を怠りかけたところ、周辺視野に警察の制服が目に入ってあわててブレーキをふんだ(一応、軽く止まるつもりではいたよ)。至近距離にならないと、警察の紺色の制服は周囲の色にとけてしまってわからないのだ。

おかげでというかなんというか、最近はたとえどんなにいそいでいても踏切ではしっかりと一旦停止するようになった。フーコーは、囚人はパノプティコンに収容されているうちに、いつでも看守に見張られているという気持ちになり、これが外界にもどっても自制心のもとになるのだというようなことを書いているが、これもまた同じような仕組みだね。

警察は取り締まるなら全部を平等にとりしまればいいのに、スピード違反でも、路上駐車でも、酒気帯び運転でも、ごく一部の人しかつかまえない。それで、しばしばスピード違反でも路上駐車でも、つかまった人は運が悪いなと思い、あいつもやってるしあいつもやってるのにどうして俺だけと毒づくことになる。

しかし、おそらく経済的効率性を考えつつ、抑止効果を狙うのであれば、理不尽でも、運が悪い人だけがつかまるようなシステムの方がいいのかもしれない。全員をとりしまりはじめたら、お金がいくらあってもたりないし、それではドライバーには安全に運転する自由や、途中はいくらスピードだしていても、ここぞという所では注意して運転するというような、メリハリをつける自由がなくなってしまう。


2005年04月23日(土) pre

昨日は明和さんらが主にやっている胎児観察の結果をみせてもらった。24週齢ほどの胎児は、さかんに指をすったり、口をあけたり、閉じたり、さかんに顔を動かしている。

乳児はうまれてすぐの段階から原始反射をするが、これも胎児の頃からおなかのなかでやってきたことの積み重ねの結果としてみれば、驚くべき能力でもなんでもなく、ごく自然ななりゆきといえるのかもしれない。

胎児の様子がわかってきて、僕の想像を超えて能動的に動いているものだということがわかってくると、では、出産時のことを、胎児はどのように体験するのだろうかということも気になるところではある。


2005年04月22日(金) ファミレスにて

ある親子づれの会話を聞いていたら、こんなことがあった。おばあちゃんや母親が「ほら、これ食べなさい。好きでしょ」といろいろすすめているのであるが、お兄ちゃん(推定、小学1年生くらい)は「ううん、ええわ。血がドロドロになる」とのこと。
家族は苦笑。おもわず僕も苦笑。

そういえば思い出した。あるテレビ番組で『血液サラサラ王選手権』と題して、スポーツ選手から採血してそれの流れを顕微鏡でみるという企画があるのだが、あのように実際に血がサラサラなのとドロドロなのを視覚的に提示されると、単に知識としてではなく、身体感覚として否定的なイメージができてしまう。

でも、考えてみれば、その番組で提示されるのは、血液の流れている様子だけなのに、サラサラと通過していく血液に比べて、ドロドロととまっては少し流れ、とまっては流れを繰り返す血液をみていたら、なんだか後者の方が気持ちが悪く見えてしまう。みなさんはどうなのであろうか。

昔はお医者さんが登場して所見をのべるというVTRもあったのだが、いまはそれもない。でも、十分に視覚的な気味悪さでドロドロが悪いというイメージができてしまっている。
昔から、ジュース(コーラとか)には角砂糖にすると何個分入っているというような絵を見せられたことがあるが、いくら飲み過ぎると悪いよといわれるよりも、角砂糖という1個なめただけで相当に甘いものを何十個もつみあげた図を見せられる方が実感がわいたものだが、血液についても同じような効果なのだろう。


2005年04月21日(木) あほな話をするのも専門性か?

非常勤。社内を歩き回って様子をみつつ、社員さんと話しつつ、新しく入ってきた客についての情報を交換する。

「境界横断」についてのいくつかの文献をあたってみると、「境界横断」がおきるときの条件のひとつに、その場面で第一義的に求められる関係以外の話題をもちこむことにあるように思われる。

例えば、ソーヤーさんの理系のラボへの留学生の適応に関する研究では、自分の研究上で必須なかかわり以外の、研究室の行事(例えば、お昼はいっしょに学食にいくとか、春には花見をするとか)には参加しなかった学生たちは、他の留学生に比べて日本語能力が優れているにもかかわらず、研究に関わるコミュニケーションに関してもトラブルを起こしたことが記述されている。

オスターランド論文のなかでも、キャロルという新米コンサルタントは、業務以外の趣味の話などをたくみに会話におりこんでいく(と、周囲からは見えるだけで、単に脱線しているのかもしれないのだが)ことで、顧客との円滑なコミュニケーションを達成し、そのことがコンサルタントとしての成績の向上にもつながっているということが記述されている。

その場で要請される「会話」の意味自体が、当該の場における会話のみによって完結しているのではなく、その場にいる人が参加する他の多くのコミュニティにおける会話との関係のなかで確定されるということが明らかになるということを示す例ではないだろうか。つまり、仕事の話は、仕事以外の話によって文脈を与えられているということではないか、と。

このようなことを念頭にいれれば、スクールカウンセラーが先生と仕事以外の話をするのも専門性といえるのであり、カウンセラーの多くがそうするのは、単に経験上そうするとうまくいくからというだけのことではなく、理論的にも説明できるということになる。ま、だからどうだっていうことはないのだけど、まあ、そういうことかと。


2005年04月20日(水) ネタバレ

コンビニではレジの前に、気まぐれでもなければ買わないような商品が陳列されている。これは十分に買い物をしたお客に、レジの待ち時間を利用してふと手にとらせてお金をおとさせようというデザイナーの意図があるらしい。あるいは、コンビニはいつも道路に面してガラス戸がつけられており、そこに雑誌の陳列棚があるが、これはそこに立ち読み客を誘い込むことにより、店を活気のあるものとして外部にみせようというデザイナーの意図の反映であるらしい。

よくつくられているもんだ。お客に実際に聞いてみれば、たまに欲しくなることがあって買ってみただけだとか、雰囲気がよかったから入ってみようと思ったのだとかと言うのだろうが、人間というのは後付けでいくらでも都合のよいストーリーを語れるものだし、それで売り上げが顕著に伸びているのなら、それはデザインの効果といってもよいのかもしれない。

僕もコンビニがなければ、おそらく一生買って食べることはなかっただろうというようなB級菓子がたくさんある。

しかし、こういうデザイナーの意図は、なにも店側だけが知っているということではなく、世の中には知っている人がけっこう多くいるものだ。僕自身、そういう知識をしってから、店のレジ前に陳列されている商品には、あんまり心動かされないでおこうと思うようになった。また、あまり目につきにくいところにおいてある商品の方が、同じものでも目につきやすいところにおいてある商品よりも賞味期限が長いということもわかっているので、わざと手の届きにくいとこからとるようにする人もいるという。

こういうネタばれによる逆効果というのはけっこうあるんじゃないのだろうか。逆効果をさらに逆手にとったデザインというのはあるのだろうか?。


2005年04月19日(火) 新奇情報をめぐる新奇でない情報

 細馬さんと「あ」と英語の"oh"が違うというような話でもりあがる。会話分析の世界では、ヘリテジという人の仕事が有名で、僕も昔、この人の論文を引用したことがあるのでよく知っている。人は「あ」という言葉を、なにか会話の進行上、新奇な情報を発見したことを聞き手に表示するマーカーとして使うというような話である。細馬さんによれば、新奇情報の発見を表示するという知見は強力なのだが、日本における「あ」と"oh"は同列に扱えないという。いわく前者は、何を発見したかについて、「あ」の発話者に説明責任が強く求められるが、後者にはそれほど求められないというようなことである。
 そこから話は発展して「あ、はい」はどうか?ということになる。
そういえば、高校時代、部活動で3年生の先輩からなにかを教えてもらうとき、僕らの学年は緊張感からか「あ、はい」ということが多かった。それがしばらく続いて、ある時先輩が怒って「お前ら、返事はハイでいいの。なんであをつけんの?。なんか気になるからやめて」と言いだしたのを思い出した。
 このときの「あ」は、部活動のような上下関係が厳しい場にあって、しかも正確な伝達が求められるコーチング場面にあって、なにかすぐには理解できないような情報の存在を感じさせつつ、しかし「はい」という、指示の実行を約束する言葉によって、新奇情報についての説明責任がたくみに回避され、秘匿されてしまうからではないだろうか。上級生としては「なんか文句があるんだったら、ちゃんといえ」ということになるわけだ。
 もちろん否定的な効果ばかりではない。カウンセリング場面での「あっ、はい」という受け答えは、「はい」というのに比べて、先行するクライエントの人生についての話題を、一般論として理解可能な話題としてではなく、語り手の固有な人生のなかでおこった唯一性をともなう出来事としてきくことをハイライトすることもある。

 ところで昨晩、細馬さんのラジオをきいていて、その話を一回きいていたのだが、今日、お昼に研究室にいったらまっさきにその話がはじまった。僕も、ラジオを聞きましたというのもなんとなくあれなので黙って会話に参加した。
 昨晩と同じ声で、まったく同じような出だしで、まったく同じ内容の話が、しかし、まったく新しい話題として語られるという体験をした。新奇情報をめぐる会話が、新奇情報ではないにもかかわらず、新奇情報として扱うというのは、これはこれでまた面白い。


2005年04月18日(月) 諏訪哲二(著)『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ

を読む。全体的に、それほど違和感なく読めた。

共同体的な価値観をもち、贈与的関係を志向する教師と、市民社会的な価値観をもち、等価交換的関係を志向する生徒(子ども)とのあいだでおこったズレが、近年、学校現場でおこる生徒の問題を形成していると主張するところなどは、なるほどと思うところである。

ただ「子どもが変わっている」から、そこで学校による管理や生活指導に力をいれるということ認めたとしても、そのまま昔のような体制にもどせるわけではない。現代の社会システムに適合するようなかたちで管理や生活指導のあり方も考えなければならないだろう。


2005年04月17日(日) 同じことを言ってるつもりで

カウンセリングしていると、しばしば「(不登校などの)原因はなんですか」と聞かれる。そんなものに原因がみつかることはめったにない。かりにそうだったのだろうということがわかっても、現在の時点ではどうしょうもないこともある。そこで、「わかりません」と答えるしかないと思い、そのように答える。ここで私がそういう意味だと思う「原因」は、業界で通用する「原因」という言葉だ。

でも、その「原因」と、今、息子の逸脱行動に困り果てて相談にいらっしゃったご両親がおっしゃる「原因」が同じ意味だという保証はない。もし私たちが使っているような意味での「原因」ならば上記のような答えになるだろうけれど、そうでないなら「わかりません」といってしまってはいささか芸がないように思えてしまう。

むしろ、その言葉をとっかかりにして、原因という言葉でこの人が言い当てようとしている事態はいったいどのようなものかと会話していくとよいのじゃなかろうか。

もっとも、両者の意味合いが微妙にまじりあっていて、後者の意味だと思っていると、やはり問題行動には原因があるのだから、では、それを取り除けばよいのではないかという思考に発展することがあって厄介だ。

結局のところ、言うべきことは言わないといけないし、でも、言ったらそれで十分かというと、決してそうではないということなんだろうな。


2005年04月16日(土) 素直に喜んだらどうかね

京都までお出かけして着せ替え人形になる。みんな「よくお似合いですよー」といってくれる。そりゃ「どれもパッとしないわねえ」とは言えんわね。でも、単純というかなんというか、お世辞だとわかっていても、言われると悪い気はしないんですな。

しかし、「前にお会いしたときも思ってたんですけど」とか、「お似合いですよ」といったあと、独り言のようにぼそっと「うんうん」と自分の言葉を確かめるようなニュアンスでつぶやいたりとか、さりげなく、これは本気でいってると思わせつつほめるのって、なかなかなスキルを必要とするね。カウンセラーも見習うべきだな。


2005年04月15日(金) 授業

今年最初の質問紙の演習。去年はつめこみすぎた反省から、今期は細馬さんと2人で半期かけてとりくむことにした。今日はグループ分けして、テーマを決める手前までいってタイムアップ。

その後、カウンセリング論演習。今日は僕の出番ではないのだが、最初ということで挨拶のみ。管理栄養士の必修単位ということで、栄養指導ともからませてカウンセリング技術を教える予定(もちろん、うちのコースの子がとってもいい内容ではある)。違うコースの子のことはまったく知らないのだが、さて、どんなものか。



2005年04月14日(木) ゼミと非常勤

朝の1限から卒論ゼミ。ほんとは別の日に設定したいのだが、とりあえず初回だけ正規の時間割にしたのだ(でも、後からみたら2限だった)。

各自の春休みの進捗状況を聞きつつ、今後の方針について話しあう。今年は3回生も、4回生のゼミにだして進めることになった。4回生は3回生の見本にならないといけないよと発破をかけておく。

2時間ほどやってから非常勤へ。
今日が実質的にはじめての日。
人を動かしていくというのは難しいなと痛感する一日。


2005年04月13日(水) 自己言及

4回生のみなさんは就職活動に一生懸命なようだ。就職活動になるときまって聞かれるのが「自分の長所・短所」とか「自分がやりたいこと」であるらしい。僕は知らないが、これがなかなか難しくて4回生を悩ませるものであるらしい。

それはそのとおりで、自分で自分のことを語るのは難しい、と思う。

というのも、この「自己」を語るという営みは、語ることによって「自分」をつくりだす一方で、そのために語っているのもまた自分であるという自己言及的な営みだからだ。

自分が○○だと断定的に強気で語れる人物は、だから、この自己言及の循環関係をどこかで断ち切っている人だ。自分が○○な人間であるとなんのためらいもなしに雄弁に語れるようになったら、そこで語られているのはその人のことではもはやないのではないだろうか。

自分は○○だと強気で語る自分っていったいなんだろうと考えた瞬間、それまで断定的に語れた「自分」は崩れてしまうのだから。


2005年04月12日(火) 「なるために」と「働くために」

頼んでいた本がamazonから届いたのでみてみたら、微妙に装丁が違う。
題目が微妙に違う別の本だったorz。
無理もない。もともとは一冊の本で、それを翻訳した人が別々の本にしたらしい。
だからというわけではないが、これも持っていても損ではない。
というわけでこれはこれでおいておくとして前編の訳本を注文しておく。

今日は午前中、大津にいって午後に大学にとってかえして環琵実習のガイダンス。
今年は、昨年までのテーマを一新して新ネタで臨むことにする。
準備はいろいろとしなければならないだろうが、面白いフィールドワークにしたいところ。
今年の新入生はどんな子なんだろうか。
まだわからないが面白い学年になるとよいなと思う。


2005年04月11日(月) 図書館に

文献複写の紙をどっさりもっていって、地下の書架で、某先輩の論文を探していたら、偶然、以下のような論文を見つけた。

萱原道春. (2002). 掃除をとおしたスクールカウンセリング:非行生徒への関わりと新しい道徳教育の模索,金沢大学教育学部紀要(教育科学編),51, pp159-177.

論題に強烈なインパクトをうけて読んでみたのだが、これはすごい。著者は1年間、ある非行生徒の問題行動が目立つ中学でSCをおこなったのだが、そうした生徒によって荒れてすさんだ雰囲気をみて、学校を清掃し続けるということを思い立つ。そして、1年間、ほとんど「掃除のおじさん」状態になって過ごしたのだという。

生徒からはありがたがられることは少なくても、汚されてもよごされても初志貫徹でずっと黙々と掃除し続けたのだという。なにも言葉でやりとりするだけがカウンセラーではない。非言語的に、彼らに提示しつづけた姿勢がなにごとかを成し遂げる原動力になっている。変わらずに、そこに居続けてくれるということが、非行生徒にとって大きな護りを提供したのではないかと思う。

それと、論文中に生徒の名前が「黄髪頭」「大丈夫なんかじゃねえだよ」といった実にユニークなネーミングになっているのも笑える。いや、笑えるだけではなくて、このセラピストが生徒をどのようにみていたのかを上手にあらわしている感じがして妙に心にのこった。ただ・・・、すごいけど、これは誰でも真似できることじゃあないなーと思った。僕にこんなことができるだろうかというと、こころもとない。


2005年04月10日(日) 花見

全国では日曜日にもかかわらず働いておられる方々が大勢いらっしゃると思いますが、昼から彦根城にいって桜みてきました。ずっと滋賀にすんでいて、高校の3年間は彦根にいたにもかかわらず、彦根城にいったのは今日が2回目。玄宮園のそばの広場とか、体育祭のとき夜遅くまでさわいでたなあ(そして、もれなく浪人したなあorz)と回顧してみたりして。






いやしかし、やっぱり彦根の桜はきれいでしたよ。わざわざいったかいがありました。

ただし花粉症の私はマスクが手放せず。「なんでマスクしてまで花をみにいくかな」「大学院の友だちが、動物アレルギーのくせに比較認知(ネズミの学習)をやってて、飼育室でひいひいいっていたのを思い出しつつ・・・・。

なんて考えたりしていたら、彦根城についたらゴロゴロいましたよ、そういう人。


2005年04月09日(土) 捨てるために習う

朝から手紙を印刷したり、授業準備したり、研究計画を考えたり。

質的研究を学ぶためには、まず、きちんと要因計画法や質問紙法の考え方を知っておかねばならないと思う。この学部では卒論生のほとんどは質問紙調査などしないので、「捨てるために習う」というのは無駄なようにも思えるが、必要な作業にちがいない。

というのも、僕らは質的研究といった時に、その研究の背景にどんな研究の歴史と積み重ねがあるのか、なんとなくわかりつつやっている。それがわかっているから、まあまあマシな研究ができるのだと思っている。それを知らずに質的な方法をやろうと思っても、それはほんとにお手軽な研究としか言えない代物だろう。たとえ面白い論に仕上がったとしても、である。

ダウンタウンにあこがれて「シュールな笑いをすんねん」といってブレイクし、ある時、ところでシュールって何?ときかれて「え、なんかめちゃくちゃやることやろ」と答える若手芸人のようではいけないのである。ダウンタウンはちゃんとしゃべくりもできる。

もちろん下手に質問紙やるくらいなら、丁寧に一事例をみて、そこでおこっていることを説明することがどれだけ難しいか理解するほうがよっぽど彼らの今後に役立つだろう。それに、いいかげんなことやっていたらゼミ生ならばダメ出しもできる。

でも、僕にダメをだされるからではなく、自分なりに「このデータでここまでいっちゃダメでしょ」というような罪悪感とでもいうようなものを得て卒業してもらいたいわけである。今やっている心理学の最先端など、10年もたてば最先端ではなくなるし、下手すれば過去の遺物になっていることもあるわけで、その時に通用するのは「考え方」だけだろうから。

というわけで、学生のみなさんは「質問紙法しんどい」とか言わないで頑張るように。


2005年04月08日(金) 大学教員だろうと、なんだろうと

夜からは非常勤先の歓迎会。これまで話したことのなかった先生ともいくらかお話ができてよかった。一般の人にとって、大学教員というカテゴリーに属する人に、そうそう出会うものでもないから、この目の前の、ヒゲなんかはやしちゃってる20代後半のにーちゃんがそれなんだとはなかなか思えないらしい、ということを改めて知る。

その方が(若く見えるほうが)良いのだといってくれる学生もいることなのでよしとするか。・・・たしかに大学教員イメージにばっちり会う人というのが、世間で(とりわけ僕の非常勤先で)どういう反応を向けられるのかと考えると、それはそれでそういう立場にたつのはちょっと怖い気もする。



とはいえ、どんな立場にたっても、それはそれで自分がどう見られているのかをレフレクシブにモニタ−するのみだ。よく大学教員になってしまうと、世間でも偉い人と思われがちだから、大学院生の頃の方がフィールドワークにむいているといった議論を耳にすることがあるが、おおいに違和感がある。

そういう人は、上下の関係がないところで語られたことがオーセンティックな語りなのだといいたいのだろうが、果たしてそうだろうか、といいたい。


2005年04月07日(木) アルコールと心

聞いた話だが、「精神分析」は、飲み会で調子にのって飲み過ぎて、ついに気持ち悪くなり、とっても気持ち悪くなっているのだが吐くにはけないで苦しんでいる人の背中をずっとさすってあげる様子に喩えられるという。

つまり、なかば自分が悪くてこうなっているんだからちゃんとしてよねと白眼視されるような人に、本人もまた「しょうがねーなー」と思いつつも放っておくのではなく、かといって自分がその人の気分を楽にしてあげられる特別な方法を知っているわけでもなく、ただただ背中をさすって「全部吐いたら楽になるのだから」という見通しをたよりに、「この人、救急車よんだ方がいいのかな」というような不安をぬぐいながら、その人が安心して吐けるようにしてあげるようなものだ、と。

この例は、ウィニコットの「抱っこ」と同じように、重い病態の人とつきあっていく時の様子をうまくあらわしていると思う。

・・・とは思うが、この例がよくないなと思うのは、心の問題を、体内に蓄積されたアルコール分のように、なにか実体的なものとみなしてさしつかえないような前提がみえる点である。僕としては、その前提はいまある社会を自明視するところから発しているように思えるのでとことん疑ってみたいわけですよ。でも、この前提はなかなかに強力だし、むげに否定するのは惜しいなとも思うので始末がわるいのです。


2005年04月06日(水) 非常勤

今年度最初の非常勤。今年一年よろしくおねがいします。

昨年から言い続けてきたおかげで、今年度は会議の時間を設定してもらえたし、検討会もひらけるようになった。担当者の根回し力と、組長の実行力あってのものだけど、1年間言い続けてきた甲斐があったということで少しうれしい。

僕たちは長くとも2−3年したら新しい職場におもむくことになる。その時に、人が変わったら何もかもなくなったというのでは困る。新規事業をてがける僕らの仕事のひとつは、僕らがいなくなっても次の人がそこになじみ、自律的にうまく機能するようなシステムを残すことだ。

いくら個人的にうまくやる人も、システムのないところではまったく機能しないが、初心者でもシステムにまもられていればそこそこのことができる。大学の相談室で訓練をうけ、なかばそういうシステムを自明なものとしてやってきた僕らにとって、システムはなくしてみてはじめてありがたみがわかるものだ。

だから、それを作らねばならない。まだまだ、今回はその第1歩。

昔、僕がいた大学の相談室は、建物の改修工事のために移転したことがある。普段、なにげなく通っている建物が、移転先の方がよっぽど綺麗なところだったのにもかかわらず、僕たちを強力にサポートしてくれていたことに気づいたものだ。バーカーらの生態心理学では、ある場所にはその場所なりの動き方があるというふうに説明するが(だったと思うが、汗)、これはすでにシステムができあがった状態のことをいうのだろう。

システムのないところにのりこんで、そこで動き方を耕していくような場にあっては、その場がどのようなものかという外的な枠組みはともかくおいて、ミクロな相互行為のなかでの意味付けをみていく必要があると思う。


2005年04月05日(火) もう歳か・・・。

学校にいっていろいろ雑用。昨日もやって途中になっていた抜き刷りの発送作業などやったりする(北の大地にいる後輩くんにも送ったのでよろしく)。

最近おもうのは、一時的におもろいとか、華やかとか(まあもともとそういう芸風ではないが)、そういう研究よりもむしろ、地味でも、いや地味だからこそなのか、人に信用されるような研究がしたいものだということである。

夕方になって、相方の弟君が来訪。青春18切符をつかって、ここまで7−8時間かけて電車を乗り継いでやってきたのだという。途中、名古屋で下車してミソカツとか食べたらしい。いやあタフな旅ですな。もう僕にはそんな無理はでけませんですよ。東京までいくのに深夜バスを使えば、新幹線の半額でいくのはわかってるのだが、もはやそういうことが選択肢にのぼりすらしないものね。












2005年04月04日(月) 捨てること

学校にいって、たまった書類をバカバカ捨てたり、抜き刷りの発送準備したり、授業の準備したり。

昔からものもちがよくて、「いつか見るかもしれない」と思って捨てられないのを繰り返してきた。

しかし、最近、ずっと見ないものは、なにかない限り、永遠にみないらしいということがわかってきた。それに、こう書類が多くなってくると、いっこくもはやく捨ててしまわないと私の頭がついていかなくなるし、置いておくのにかさばってしょうがない。中味をとりだしたら消えてなくなる封筒とかないものかしら。

『イケイケ、パニッカー:自閉症の子育てマンガ&エッセイ』 高坂正枝 クリエイツかもがわ

を読む。ひょんなことから作者と出会ってこの本をもらったのだが、軽妙なマンガとちょっとしんみりさせるエッセイで、自閉症にかかわる全ての人におすすめな本である。
作者の高坂さんは息子さんが自閉症であり、どうやら現在は中学生くらいになっておられるようだが、小学校卒業までの期間の子育て体験をマンガとエッセイで綴られている。

僕ら心理士は、ある限られた時間(1時間)だけ自閉の子と遊ぶことがある。いわゆるセラピーというものだ。1時間たったら終わりだと思うから一生懸命関われる。しかし、この子とお母さん、お父さんは24時間つきあっているのだなと思うと、ほんとに感心してしまう。

高坂さんも、子どもが幼い頃、子どもが自閉症であること、一般の子どもよりもできないことが認められなくて、いろいろとストレスを抱えこみ、子どもにもつらくあたっていたかもしれないと反省をこめて書いておられる。

こういうのは普通、心理学では「障害受容がまだまだ」の状態だといわれるのだが、間違っていようがなんであろうが、一生懸命になんらかの関わりをしておられるからこその今があるのだなーと思うと安易にそのことをどうこう言う気になれなくなるのだ。


2005年04月03日(日) アクションリサーチか・・・

秋田・恒吉・佐藤(編)『教育研究のメソドロジー:学校参加型マインドへのいざない』東京大学出版会、を読む。

多くの先生がこれまでの自分の人生を語りつつ、現在の研究について位置づけておられるところが面白い。まあ、これを読んだからすぐに研究ができるというような本はないのだが、

最近、アクション・リサーチも勉強してみようと思っている。これまで自分がとりくんでこなかったのは、実践者でありつつ、研究者でもあるというのは難しいなという思いがあったからだ。実践者という立場の方が、自らがとりえる行為の選択幅が狭まるし・・。それに学校というのは、まあ、めったなことでもないかぎり変わらないものだと思う(それがいいところでもあるのだが)。とりあえず変化をどう記述していくのかというのは大問題だ。

とはいえ、時間のある学生の立場ではないのだから、こういう方法でフィールド研究していくことも考えないといけない。


2005年04月02日(土) Vadevoncoeur & Patel Stevens (Ed) Re/Consturucting "the adolescent"  LANG

が、Amazonから届いていたので読んでみる。

編者のひとりのVadevoncoeur (なんて発音したらいいの?)は社会文化的アプローチから、"at risk youth"についての研究をしている。社会文化的アプローチにもとづいて、こういったテーマに取り組む人は案外少ないので、取り寄せてみたわけである。

「青年」という概念は、単に年齢のひとくぎりをいうのではなくて社会的、政治的な意味あいをもつ。「青年」という概念をめぐってなにがおこっているのかということを、言説分析やフィ−ルドワークから明らかにした章が続く。

彼女の序章をみると・・・・近年の社会の急速な変化によって、青年の職業選択はより個人的なものになった。青年はこれまでの来歴をふりかえって、これからどうなりたいのかということを考えつつ職業を選ぶ。(・・)○○事件がおこってからというもの、学校のセキュリティをもっと高めるべきだというような議論や、地域、学校教育などのブレークダウンがおこっているといった議論が盛んになされるようになった・・etc。

というように、これは日本のことだといってもあまり違和感のない文章が並ぶ(ちなみに○○事件とは、コロンバイン高校銃乱射事件である)。日本の研究者たちが、自論と称して、輸入した社会学理論を丸写ししているのでなければ、少なくとも先進国といわれる国々には、青年を語るときのスクリプトのようなものがあるのだろうかと思えてくる。



2005年04月01日(金) 新年度早々

熱発中の相方を近くの病院におくっていったりいろいろバタバタ。

昨日はどこも休みで市民病院にいったのだが、研修医ばかり(会ってないからわからないけど)でろくにみてもらえない。不安だし、しんどいしという中をいってみたらそれでは、よけいに不安もしんどさも増える。苦しむ相方を車にのせてあっちこっちとやっていると、ほんとに頼りにできる医者がいるってことがとても助けになることが実感される。

ふと過去に大学の相談室で、昔の僕のような大学院生カウンセラーのクライエントになった人々のことが思いだされる。弱り果てて相談室を訪れ、現れたのがへなちょこカウンセラーでは、クライエントも当の問題そっちのけでへこんだのではないか、と。

大学の相談室にも天才的に頼りになる人はいる(と思う)のだが、そうではない人もいる。そりゃ、はじめからうまかったら訓練はいらない。で、そういうのが将来、よいカウンセラーに育とうと思ったら、たくさんのケースをみることが必要だろう。

が、その犠牲(といったら言い過ぎか)になる多くの人々がいることもまた事実。「私なんかが診るのは悪いから・・・」と遠慮していてはうまくならないのだが、ある意味、これは当然の感覚なのかもしれないなーと思ったり・・・。

恩返ししなければならんね。





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