I create you to control me
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2004年04月30日(金) |
cave knee me me early show Jinny Mary |
昨日からGWがはじまったが、非常勤がはいっていたので昼から出勤。 臨床心理学の4回目。鬼門の精神病理学だったが今年のクラスは反応がいいので助かった。
しかし、授業後、ある学生から「先生、きのう○○(昨日の日記にあるスーパー)にいたでしょ」と言われる。まったく、どこで見られているかわからないから油断もすきもない。下手なことはできないなとつよく思った(いや、別にへたなことしてるわけじゃないけどさ)。
明日は京都におでかけ。幸い天気もいいらしい。 仕事がすすんでないのであるが、まあ、一日くらいよかろう。 楽しみ楽しみ。
今日からGWだ(といっても、明日は授業なんだけど)。 家にいるのがもったいないようなよい天気だったのでドライブした。
2月ごろから、なるたけ琵琶湖をみてから大学にいくようにしている。 本来は、琵琶湖をみていくと遠回りになるのだが、琵琶湖を車窓から眺めるととても気持ちがよい。
ごくたまにすごく晴れている日に対岸がみえることがある。でかい琵琶湖の向こう岸がみえると、そこにある生活を想像して、ちょっとわくわくしてくるのだった。
琵琶湖も日によって全然見え方が違う。今日は晴れてはいたが向こう岸はみえなかった。おもしろいもんだ。
ドライブがてらスーパーで買い物をして、家でひさしぶりに自炊らしい自炊をして食べた。ゴーヤーのおひたし、ゴーヤーチャンプル、もやしのナムルを作って食べた。うまかった。なにより健康的だ。
毎日、これくらい余裕があったらいいのに。
2004年04月28日(水) |
信じるものは救われる |
非常勤の二回目。
今日もまたしゃべり通しの1日だった。昼ご飯をろくに食べてなかったせいでフラフラしながら聞いた。帰りはどっと疲れがでた。
小学校から一緒だった友人が某コンサル会社につとめている。 その彼は自分の仕事を「新興宗教か、詐欺師みたいなもんだね」といっていたことがあった。 その時は「そんなー」なんて笑っていたが意外と僕もそうかも・・・・なんて思った。まさに「信じるものは救われる」の世界である。ただし、神というものは、遠藤周作の『沈黙』のようになることもあるので注意ということだ。いや、別にさぼってるわけじゃないですよ。ちゃんとやってますよ。ちゃんとやってますけどね、、、、という話だ。
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非常勤がおわり、学校にいって頼まれ仕事を片付ける。 メールをひらくとS君から原稿依頼。 企画書をみると、著書が表になってならんでいる。 すげえなあ。 仕事がはやい人はいるもんだね。 少しは見習いたいもんだ。
とかなんとか思いつつ、頼まれ仕事は意外と手こずって現在午後8時。 人のことうんぬん言ってる場合じゃないぞ、俺。 なんでこんなにかかってんだ、俺。 もうそろそろ限界っす。はよ終わらせて飯たべにいこうよー(涙)。
明日はいよいよGWのはじまりの日(といってもその次の日は非常勤なのだが)。もうちょっと頑張るぞー。
もうすぐゴールデンウィークである。
ゴールデンウィークという言葉は、なんでも昔の映画業界の人がつけたんだそうな。今日、学校にいくとき車のラジオでいっていた。へえ〜〜。
んなことはどうでもいいが、ゴールデンウィークには、いろいろ楽しいことが待っている。だから、もうちょっと頑張ることにする。
っていってもあと1日しかないんだなあ。ああ、あんなこともこんなことも片付ける予定だったのにできてないなー。M嬢は論文をしあげたそうだ。頑張ってるなあ。えらいえらい。
ところで、今日は一日会議だった。そこでぼんやり考えたこと。
質的研究と量的研究は相補的だとよくいわれる。 量的研究で測れるものはごく一側面であって、質的研究がそれを補わなければならないとかいわれる。量的研究者を自認するS島氏も、最近は質的研究のよさを認めてくれているようだ。
しかし、いくら「相補的」といってみたところで、実際のところは世の中、圧倒的ないきおいで「数」のひとり勝ちである。
先日の日記では不登校についてふれたが、そのスクールカウンセラーの成績だって、議会の予算要求でもっとも説得力のあるのは来談者数やケース数である。ケース数じゃ少なくなるからといって、議会に提出する資料は「延べ来談者数」にするところもあるんだから尋常ではない。。
まあ、議会みたいなところで、ケースの秘密をしゃべるわけにいかないけどね。たぶん言ってもダメだと思う。
「人の価値は数ではあらわせない」などと理想論をいってみても、所詮、わかりにくいこと言っていてもダメなのである。いかに説得力をもった質的データをだしていくのか、ということが問題だ。
いろいろな仕事があるようでないようで、なにからやっていいのか分からず手につかない。どうも最近、締め切りにおわれまくったせいで、今度は締めきりがないと動機付けが減少していっているようである。
「これは、自分のなかで締めきりでも作らないとダメかな〜」 「しかし、「締めきり」によって外発的に動機付けられたとは、なんとマゾヒスティックな・・・」
などと考えいたそんなおり、
やまだようこ先生が、質的心理学会の第1回大会のチラシをつくって準備委員のMlに添付してこられた。あまりにも味もそっ気もないものだったので、なんとかしたいなという感じだったところに「素敵なデザインに変えてくれるのは大歓迎」という文字が。
・・・・・・。というわけで「俺は暇人か」とひとりつっこみを繰り返しながら、ついにポスターを完成させてしまった。ああ、もう暇じゃないのにー。思わずやまだ先生へのメールに
「先生、ためしに作ってみました(暇か・・・)のでご活用ください。」
と、メールであるにもかかわらず1人でつっこみをいれてしまいましたがな。まあ、やまだ先生の評判は上々だったからよしとしよう。
というわけでみなさんも見てやってください。「次世代のときと同じっぽいなー」などと言わないこと。
2004年04月25日(日) |
長浜ひょうたんボウル |
午後から車で長浜ドームへ。アメリカンフットボールの第56回「長浜ひょうたんボウル」の日である。この56回という数字は、学生選手権であるコ甲子園ボウル、日本選手権のライスボウルなどよりもずっと歴史がふるい。意外にも滋賀県はアメリカンフットボールのメッカなのである。
アメリカンフットボールの歴史は、戦後の占領政策の歴史とオーバーラップする。第2次世界大戦がおわり、日本を占領したアメリカ軍は、政治的な面だけでなく、文化的にもアメリカ化をすすめようとしたらしい。その一貫として、アメリカでは国技のような人気を誇るアメリカンフットボールを、日本にひろめようとしたのだ。各地で中学や高校の教師が召集され、講習会がもたれた。その時、多くの滋賀県の中学、高校の教師が講習をうけ、自らの学校にアメリカンフットボール部をつくったというわけである。
まあ、というようなことはさておき、長浜ボウルのメインカードは、昨年度、社会人をやぶって日本一になった立命館大学パンサーズと、今年から関西学生リーグ1部に昇格した龍谷大学シーホースの対戦であった。
戦前の予想は圧倒的に立命館有利であり、序盤の戦いぶりも、それを裏付けるものだった。しかし、ここから立命館の歯車が徐々に狂いはじめ、龍谷大学にあっさりと失点をゆるしてしまった。
隣にすわっていたおっさんは、相当な立命ファンらしく、立命がいいプレーをするたびに、ひとりで拍手をおくって周囲から完全に浮いていたのだが、この展開に徐々に険しい顔になり、もっていたリュックサックをぎゅっと握りしめていた。相当に頭にきていたものと思われる。途中から、龍谷大学の選手が活躍するたびに、そのおっさんの顔をおそるおそる見るのが楽しみになってしまった。
もっとも苦戦したといっても、立命館は後半になったら全て2軍の選手にかえてしまったから両校の実力差は本当はこんなものじゃないだろう。しかし、得点差がはなされてもあきらめず、小気味良いプレーを連発していた龍谷大学の選手をみていると、ここのところ滅入りがちな気持ちもすこし元気になったのであった。
ダブルバインドという言葉がある。
統合失調症の病理にかかわるものとしてグレゴリーベイトソンが提唱したものである。例えば、母親が「あなたのこと好きよ。おいで。」といいつつ手をひろげている。しかし、その手はわが子を受け入れることへの拒否感からかたまってしまっている。このような光景をみた子どもは、母親の胸にとびこんでいくことも、とびこんでいかないという選択もできずに立ち尽くしてしまう。 ダブルバインドはこのような状況をイメージしている。
さて、このダブルバインド状況において、もっとも重要なのは、2つの選択肢があることではない。そうではなく、ダブルバインド状況においてはただ1つの軸しかないかのように思わされてしまうということが問題なのである。すなわち、母親から「逃げるかーとびこむか」という軸である。
しかし、考えてみれば「逃げるかーとびこむか」以外にも選択肢はあるのだ。例えば、母親に「ママ、こっちにきてよ」と手招きすることである。それは通常、思い付きにくいことではあるのだが、たしかにそのように動くことは可能なのだ。
心理臨床の場に相談におとずれる人は、大なり小なりこのダブルバインド状況にまきこまれている。
例えば、不登校の子どもをもった両親が、わが子を「見守る」のがいいのか「学校にいかせる」のが良いのか、どちらにすべきなのかとカウンセラーに相談するという状況はしばしばある。このような場合、両親は「学校にいくか、いかないか」という単一の軸にとらわれてしまっている。2つの選択肢があって悩んでいるようにみえるが、実はたったひとつのことにとらわれていることに気付かないのである。だから、心理臨床家の仕事は、この「とらわれ」を本人が意識できるように援助することであるともいえる。
しかしながら、このようにいうと少し片手落ちである。
単一の見方にとらわれていることが問題を膠着させていることは間違いないが、だからといって、その軸自体をとっぱらったら問題が解決するのだろうか?。そこに「なにも問題などないのだ」としてしまうのもまた問題である。そこにはやはり何かあるのだ。それは言葉にする前には何ものでもありえるような「何か」であり、言葉にした後では、具体的な悩みとして明確化されていく。
心理臨床の場では、この具体的な悩みはいったん「何か」にもどされ、そして新たによりましな具体的な行動へと収束していく。学校にいくかいかないかで八方ふさがりになっていた生徒が、非常に不安定な時期をへて、今度は自分がどう生きたいのかを考えはじめるのはその例である。
「自分がどう生きたいのか」というのもまた、「自分のやりたいことを探さなければならない」という軸にとらわれており、それもまた困難をひきおこすかもしれない。少なくとも八方ふさがりの状況よりはよいというだけである。
してみると、心理臨床家の仕事は、悩みをうみだす「とわわれ」を意識化させると同時に、また別の「とらわれ」へと人を導いていくことであるとも考えられる。
毒をもって毒を征するということである。
車場あらしにあった。
非常勤にいこうと車にのろうとすると、カギが空いている。しかも中はあらされた模様。「うわーーー(ーー;)」と思ったが午後から非常勤なのでともかくいかねばならぬ。
こういう時、人間、どう動いてよいかわからないもんだ。
とりあえず、警察に届けたら、ここに指紋の採取とかしにきて、事情聴取されて、場合によっては「車をこのまま動かさないでください」とか言われて、非常勤に遅刻してしまうかもしれない。
幸い被害はそんなにない(こともないのだが)。第一、子どものころ泥棒が家にはいった経験から、とられたものが戻ってきそうもないことはよくわかっている。
しかし、このままほおっておいてもよいものか。いや、やっぱり届けはだしたほうがいいんだよな、などと頭がぐるぐるしてしまった(その時電話をかけて御迷惑をおかけした人、わけわからなくてごめんなさい)。
非常勤がおわると、いそいでとってかえして警察にいった。
被害届なんてはじめてである。受付の人にきいたら「では、刑事1課に」といわれる。刑事1課なんてドラマでしかきいたことないけど、本当にあるんだーと思ってなんだか変なところでドキドキしてしまう。
しかも、「では、こちらにどうぞ」といって通されたのはいわゆる取り調べ室であった。そして、供述し、それを担当の人が書類にしていく。高木光太郎先生がいうように、日本の供述調書はなんだかへんだ。だって僕は刑事さんと
ケ「で、これは〜だったんですか?」 僕「いや、えーと、なんていうのかな、これがこれで」 ケ「あ、じゃあ、こっちのほう」 僕「はい。あ。いや、そうじゃなくて」 ケ「えー、うん?」
みたいな錯綜したインタラクションをしているのに、出来上がった供述調書はというと、
「私は、午前○時ごろ、自宅の駐車場で車にのろうとしたところ、カギがこわされており、〜していたので、そこで点検したところ〜が盗まれていることがわかりました」
といった理路整然とした、一点のよどみもない文章になっている。僕のあたふたぶりと、「こういう感じの」「えー、こおーうなって」といったジャスチャーばっかりの会話はそこにはない。こういうふうにして、人の話はあるフォーマットにしたがって理解されていくのだなと、被害はそっちのけで変に感心したのであった。
しかし、まったくもって腹がたつ。 車の修理代は思ったよりもやすくてホッとしたのだが・・・・。
ところで、とられた品物はそんなになかったのだが、その被害総額を算定するとき、「中古屋に売った時の相場でお答えください」といわれ、二足三文で評価されたのはけっこうな衝撃だった。
そうか、・・・・・そうなのか。
今日の講議は「心理学の資格」について。
臨床心理士でありながら、その資格を問題にするというのも自己矛盾な話だが、現在の資格のあり方が本当によい方向にむかっているのかどうか大いに疑わしい。指定校制度など特にそうだ。
まだまだ若造の僕がいうことではないが、というか、だからこそというべきか、わずか2年で資格をえて現場にでていくというのは本当に難しいことだとおもう。僕なんかいまでも危なっかしいんだから、2年間でやるなんて相当に危なっかしいわけである(もちろん、社会にでていけば、大学なんかにいるよりもずっと早く磨かれてうまくなっていくわけだけど)。
ただし、だからといってカウンセラーなんていらないといっている小沢牧子さんのように、「資格制度なんてなくてもいい」というのも違うと思う。
昔、資格ができる直前、1988年の心理臨床学会のシンポの講演録をみせてもらったことがある。文章中には、現在、臨床心理士会の重鎮になっている人たちが、真剣な議論をたたかわせていた。要は、いろいろな問題点があるのはわかっているのだが、とにかく現在の精神科医に相手にもされない状況をなんとかするためには、資格はなくてはならないという判断があったようだ。いろんなデメリットがあっても、である。
小沢さんは、資格はクライエントのためになっていないという。しかし、では資格をやめて共同体の力を復活させようといったとしても、そんな意見は説得力をもたない。問題をみつけて批判することは容易い。しかし、問題がないものなんてない。どんな立場でも問題はある。
ならば、それのなかのどの立場にコミットするのか、ということになるのだが、小沢さんの議論はコミットするという姿勢にかけている。来談者中心療法で有名なカールロジャースも資格制度には反対していた人だ。しかし、彼は同時にアメリカで資格を認めさせるためにそれこそ心血をそそいだ人でもある。一度自分が真剣になってとりくんだ結果をなげいているのだ。何もしないで資格なんかないほうがいいというのとは違う。
もちろん、どんなことでもコミットすればいいってもんではないだろう。しかし、少なくとも、問題状況をなんとかしようと思うべきだとは思うわけである。
今日はとある会社の非常勤初日である。
キーパーソンとなる方のお話をきく。そのお話は留まるところをしらず、よどみなく語られ続ける。気がつけば勤務時間中ぶっとおしであった。
ある人がおこす「問題」は、その人が固有にもっている心理的特性に還元できるものではない。望むとのぞまざるとに関わらず、彼(女)はある社会、ある文化を共有する場にうまれ、自分がうまれる何代も前からひきずってこられた関係性にいやおうなしに巻き込まれていく。お話をききながら、そんなことを考えた。
しかし、担当者さんは実に、丹念に、細かいところまで気をつけて仕事をしておられる。そんなふうに感心しながらお話を聴いた。こういう方がキーパーソンなら実に働きやすい。私の能力も問われる。
よろしくお願いします。
環琵琶湖文化論実習の1回目。今年も八木先生とともに、ヴォーリスについてのフィールドワークをやることにする。この授業は、学生の親睦を深めつつ、フィールドワークの基礎を学ぶのがメインの企画である。
1年生にあまり多くは望めない。文献をさがすといったって限りがあるし、フィールド観察といっても教員がけっこうお膳立てをしてあげなければならない。なんといっても、このまえまで高校生だったんだから。その下準備がけっこう骨がおれる。
しかし、教員としては欲がでてしまう。この学校の特色はなんといっても現場にでて見て、体験したことをベースにして学問をするというところだ。 佐伯先生の「ケンちゃん絵日記」ではないが、学生にもちょっとは自分で問いをたてて学んだというレポートを書いてもらいたい。ただただ「体験しましたー」ではしょうがないよね。
同じ班になった9名の諸君、よろしくおねがいします。
学生は今日が受講届けの締めきり日だった。あわてて僕のところにハンコをもらいにくる人までいて大変だった。
学生相談室にいく道すがら事務室の前を通ると、学生でごった返している。我が大学にはこんなに人がいたのか〜と感心してしまった。
5月をすぎるとぱったりいなくなるんだけどね。
さて、
『日本質的心理学会』の企画をひとつまかされていたのだが、今日、全ての先生から内諾をいただいて実行できるはこびとなった。まずはホッと一息である。実は、前からあたためていた企画案が僕の見通しの甘さから頓挫してしまい、あわてて2日でつくった企画だった。
とにかく時間がないのでいそいで依頼したりして、本当にインターネットさまさまであった。御迷惑をおかけしたみなさまごめんなさい(読んでないか・・・)。結果的にいえば、けっこう魅力的なシンポになる予感がする。共同企画者のSくんに感謝。
そうそう、質的心理学会といえば、学会のロゴマークが決まった。
なんでも、篆刻古書体で金古文字(青銅器時代)の「質」らしい。なかなかよい感じだと思いませんか?。
3人の人質が解放されたとたん、世の中、バッシングの嵐である。「自己責任」でいったのだから、国民に迷惑をかけるとはなんたることかということらしい。20億かかったんだから弁償しろという声まであるそうだ。
彼らの行動に一定の理解を示す人々であっても、「今回の行動は未熟」であって「お灸をすえられて当然」という論調がめだつ。退避勧告がでているところに行ったのだから、それなりに自覚をもって行動してもらわないと困るというものである。
しかし、ここで彼ら個人の「能力」を問題にするのは、問題のすりかえではないだろうか?。私には非常に巧妙な言説に思える。
というのも、マスメディアは危険を覚悟で現場に入り、貴重な情報を伝える人々を否定することはできない。そんなことをすれば、メディアは自分達の情報源をみずから規制するという自己矛盾を抱えるからだ。「覚悟」や「自覚」の程度の問題に帰属することは、この自己矛盾を回避するためのよい方法となる。
私のみるところ、おそらく、本人が十分すぎるほど自覚していたとしても、結果的に拉致されれば、周囲は本人の自覚の問題にする。なぜならば、「自覚」「覚悟」「理解」といった「こころ」は周囲から観察されるものであって本人の主観的な確信とは無関係だからだ(「この数学の問題を理解した」と、どれだけ本人が強弁しても、答えがあっていなければ理解したとはみなされないことを考えてみればよい)。
女性が暴行された時など、しばしば「自覚がたりない」と本人が責められることがある。「夜中に、危ない街中で、あんな格好をして歩いているのは自覚がなさすぎる」というものである。被害者は被害者なりに自覚していたとしても、結果が悪ければ本人の自覚の問題になるわけだ。
しかしながら、このような事件の場合、責められるべきは加害者であって被害者ではないのは明らかである。このような事件をおこさないために、街灯を増やすとか、警察のパトロールを強化するとか、「夜中にひとりで盛り場をうろつく女性は、男性に誘われたがっている」とかいった神話を矯正するとか、いろいろ対策はあるはずで、このような様々なオプションの存在を忘却することが、被害者の「個人的失敗」にリアリティをもたせるのだ。
今回の3人の場合だって同じだ。どうしてイラクのストリートチルドレンを救いたいと思った女性が、安全にその活動にいそしむことができるような環境を整えるべきだという話にならないのだろうか。
イラクに自衛隊をおくることは当たり前、戦争しているところにひょこひょこ出ていかないのは当たり前、そのうえで拉致されても国家が責任をもたないのは当たり前といった、いくつもの「当たり前」に無自覚であることが、3人の「個人的失敗」にリアリティをもたせてゆく。
その「当たり前」は本当にあたりまえか?。
昨日の答え。「ろく」は「陸」と書き、しっかりしていることを意味するらしい。飲み会では女性陣から「山男は実直そうだけど、海の男って女にだらしなそう」などの意見がきかれた。なんとなくありがちだけど、別にそれとこれとは関係ないんじゃないの?。
今日はのんびり過ごした。イエローハットにいってスタッドレスタイヤをノーマルにとりかえてもらう。その後、洗濯、掃除などしてから車でおでかけ。8号線沿いのマクドはコンセントが使い放題。ノートパソコンを持ち込んで論文執筆。ちょっとだけすすんだ。M嬢も今日は学校にいって頑張っているらしい。すすんだかな?。
ところで質的研究の役目のひとつとして、いろいろな視点を提供するということがある、と思う。
このまえ講義で「いろいろな視点がある」という話をしたら、放課(大学でそういうのか?)に学生が「いろいろな視点があると動けなくなりませんか?」というごもっともな質問をしてきた。
「たくさんの視点がある」=「何をやっても根拠がない」 「たくさんの視点がある」=「この視点にこだわると何ができ、何ができないのか?」
という二つの思考パターンは大変な違いをうみだす。
ポイントはその視点が見つめる世界に、自分が含まれていることを認めるのか、認めないのか、ということだ。この世に正解はないのだ。
昼から専門学校で授業。心理臨床の倫理の話。どうして人を助けたいのか?ということについて学生に考えてもらう。去年もそうだが、2回目までは学生のうけがよい。自分について知ることができるからだろう。これを3回目からの精神病理学にも持続させたいものだが、なかなか難しいね。
大学に帰って第4回のここから研。博士課程に入られた藤本さんの話をきく。藤本さんの修論は、嵐山モンキーパークにいるニホンザルの毛づくろい行動に関するもの。
サルは普段は単独で行動することが多く、固体同士が近接する状況は毛づくろいの時だけだという。また、手当たり次第にやっているのではなく、毛づくろいを特定の相手とくり返す(「リピートペア」と呼ばれる)こともあるらしい。社会性を感じさせる。
しかし、彼らは毛づくろいが終わるとさっさと別れてしまう。細馬さんが「人間のようにただブラブラしているとか、一緒にのんびりするといったことはサルにはないのかなー」言っていたが、なるほどである。サルは極めて目的志向的に生きているということだろうか。無駄に思えるような時間をすごせるのは人間が優れているからなのか、劣っているからなのか。
発表後、みんなで会食。またもや言葉の語源の話になる。以前は薬味って、なんで薬でもないのに薬味というのか?という話だった。今回は「ろくでなし」の「ろく」って何?ということだ。細馬さんのiBookにはいった辞書のおかげですぐに謎はとけたのだが、みなさん、なんだと思います?。
2004年04月15日(木) |
はつチョショ・はつジュギョウ |
お昼、学部のレターボックスを見てみると、勁草書房さんから小包が届いている。『私たちを知る心理学の視点』尾見康博・進藤俊彦(編)。僕の担当は第1章の臨床心理学である。
共著とはいえ、初めの本がでた。自分の名前がのっているのをみるのはウレシイ。店頭には4月19日にはならぶらしい。みなさんも興味があったら手にとってみてください。
はじめてこの本の依頼をされたのは2年前の発達心理学会だった。当初は博士論文と並行ですすめたからけっこうしんどかった。中学校に許可とったりするのも神経をつかった。
しんどい思いして早く書き上げたわりには、諸般の事情から発刊は遅れ、結局2年がたってしまった。でも、その間に自分自身、理解がすすんだところもあったしよい時間だったと思う。
午後、大学では今季の初授業。題して『現場心理学』。人間のこころにはいろいろな見方ができるということを、ブルーナーの2つの思考モード、客観主義vs社会構成主義という話を例にとってしゃべってきた。まあまあの出来だったんではないだろうか。
この授業には大福帳を使うつもり。受講生も少ないからまだいいが、それでも来週からはしんどくなるなー。
2004年04月14日(水) |
掃除・半年間のあいだにかわること |
朝から研究室の掃除をして半日終わった。
僕の研究室にはものがない。
まあ、2年目なんだからそんなものかもしれないけど、けっこう閑散としている。あんなものやこんなもの、できたらこんなものも欲しいなと思うんだけど、こういうのって研究費で買っていいんだろうか。S島氏は買ったみたいだけどなー。
わからんなー。
午後からは授業の準備しながら、教育心理学会の抄録を書く。いつもテッキトーなことを書いているから、今度くらいはちょっとましなことを書こうと思ったんだが、どうも書ききれない。今回もまた「発表時には、詳細な分析をお見せする予定である」なんて書くことになりそうだな。
しかしね、半年も前にちゃんと抄録にかけるような結果がでているものを、発表する学会ってなにか間違っていないか?。人間半年もたったら、けっこう違うことを考えてるぞ。
まあ、あんまりコロコロ意見が変わる人も信用できないし、学会発表が最新の説の発表の場というよりも、交流の場だということはわかるけどね。
とにかく、もうちょっとなんとかしてほしい。半年前からやらなければ印刷がまにあわないというのもわかるが、それなら事前には400字とかにしておいて、発表してから皆に抄録をだしてもらって電子出版するというのもあると思う。
そういえば、今年から日本心理学会のワークショップでは、話題提供者が抄録をかかなくてもよくなった。これは少し進歩だと思う。
新学期になると学生がたくさんやってくる。
学生がどんな体験をし、どんなふうに考えたのかを聞くのはとても楽しい。もっとも、それにばかりつきあっていると自分の仕事の時間がどんどんなくなっていくから悩ましいところでもある。
卒論生のひとりは、すでに内定がとれたといって報告にきた。すばらしいね。僕は就職活動なんてやったことがないから、いろいろな体験談をきくのは面白い。
しかし、シュウカツを通して人生について考えたなどという言葉をきくと、思わずこちらも下心がでてきて、「それならそういった体験を卒論のテーマにしたら・・・・」なんて言ってしまいそうになるのを我慢していた。こちらの興味でやらせるわけにもいかないからね。
でも卒論はがんばってくれたまえよ。
発達心理学会のときのこと。僕は知りあい2人とともにトンカツ屋にいった。学会でしかあわない僕たちは話したいことでいっぱいであった。 ただし、その日は午後から3人とも出席するシンポがあったので、とりあえず目にとまった店にはいった。別にトンカツが食べたかったわけではない。
だから店にはいってもメニューを漫然と眺めながら話していた。 その時、店員さんがふいにメニューをとりにやってきた。僕らはふいをつかれたが、しかし「また決まったら」というには時間がたちすぎているようでもあったし、第一、僕らにそんな時間的余裕はなかった。そこで僕らはいそいで食べたいものを探して注文していった。以下に示すのはそのときの発話だ。
------------------------------------------------------ 友人A:えー、とんかつ定食で。 友人B:とんかつ定食で。 僕 :あー、えーっとね、とんかつ定食で。
店員 :はい。(店奥にむかって)とんてい3つでーす。 ------------------------------------------------------
ここで店員さんは、僕らがひとつひとつ頼んだとんかつ定食を、「とんてい3つ」と呼んでいる。僕はこのときの会話がけっこうおもしろかった。
「どこが?」という声がきこえてきそうだ。
実は、僕は友人2人に先をこされ、しかも2人ともトンカツだというので、「みんな同じというのもちょっとなあ」とか、「いや、でも1人でエビフライとのセットにするのもちょっとなあ」とか、「そもそも、ここって、とんかつが一番安くて900円なのか。けっこう高いなー」とか、そういうどうでもいいようなことをあれこれ考えたすえに「とんかつ定食」といったのだ。あー、えーという発話にはそのような迷いがこめられている。
一方で、友人Bは食が細い人なので、お昼からとんかつなど実は食べたくなかったかもしれない。彼は僕らよりはるかに年下なので、僕らに配慮してその店に決めただけかもしれなかった。実際、彼は僕らがたいらげているのに、半分ほどのこしてしまったのだから。Aについては知らないが、それなりに迷ったはずだ。もしかしたら、逡巡する時間がもう少し欲しかったかもしれない。もちろん、どうでもよかった可能性も否定できない。
つまりである。「トンカツ定食」という3人の発話は、それぞれの事情、好み、経済力、場の制約などの要因が複雑にからみあって発せられた一言なのだ。「トンカツ定食」という言葉は同じでも、それぞれの意味付けはまったく違うのだ。それぞれに固有な「トンカツ定食」といってもよい。
しかし、店員さんにとってはそんなことはどうでもいい。彼女にとってトンカツ定食という言葉は、自分がメニューをとってレシートに書き込み、ちゅう房にむけて叫ぶためのひとつの記号にすぎない。僕らがどんな気持ちで注文しようと、どんなアクセントを使おうと、そんなことはどうでもいいのだ。だから、彼女はそれぞれに固有の「トンカツ定食」という3人の言葉を、「トン定3つ」と数える。
数えるということはそういうことだ。
何かひとつの側面に特化し、その特徴をみたす限りにおいてそれらを同じとみなす。そのことによって現象は、ある特定のカテゴリーへとおとしこまれていく。それぞれに附随していた固有の歴史は忘れ去られていく。
もちろん、そのことが悪いわけではない。同じとみなすことによって、さきほどの店員さんの作業効率はあがる。いちいち客の好みを聞いたり、体調を考えていたら、メニューなんてとれたものではない。
実際、体調を考え、希望を聞きながらメニューを教えてくれる店もあるが、そういうところは店員さんも熟練を要するし、そうしたサービスにみあった値段を我々も要求される。僕がいつもいく床屋は、どんなに注文しても「あ、いつものやつやな」と、たいていおっちゃんの思い通りの髪型になる。しかし、おっちゃんはとても仕事がはやく、切られていて気持ちいい。だいたい僕は床屋ではゆっくりぼーっとしていたいので、店員にいちいち「ここはどうしましょう」「何cmくらい切りましょう」と尋ねられるととてもうるさく感じてしまう。しかも、おっちゃんはこれでも関西地方では有名な職人さんらしいから、僕なんかおっちゃんの「いつもどおり」で十分である。
しかしである。
我々は普段の生活のなかでしばしば自分達が数えていることに気づかない。たとえば、滋賀県は全国でも有数の不登校の多い地域である。教育関係者はみな、不登校をへらそうということをスローガンに頑張っていらっしゃる。あたかも不登校なる人がいるみたいである。ここで各々に固有な人生を歩み、それぞれに固有な両親のもと、それぞれに固有な地域環境、それぞれに固有な友人をみつけ、それぞれに固有な教師に導かれて十何年そだってきた人のことを、「不登校」とひとくくりに呼ぶことにどんな意味があるのか?と疑問に思うのは自然だろう。まして、それを全国で比べるというのはどういうことか?。
もちろん、そのことで見えてくることもあるのかもしれないが、同時に個別の生徒の特徴はみえなくなっていくだろう。数えるという行為には、数えることによって見えてくるものと同時に、見えなくなっていることに十分自覚的であらねばならない。
2004年04月11日(日) |
毅然とするところが違うよ |
結局、イラクでとらわれの身となった人たちは解放されるようである。
それが確かなことであれば、それはなによりである。どうやら政府は今回の件に関して、毅然と対応したことがよかったといっているらしい。人質をとられたからといって、安易に撤退などしたら、かえって日本人はなめられるというのである。
まあ、それもそうかもしれない。しかし、どうも毅然とした態度をとるところを間違えているんじゃないのか?。それを言うなら、毅然と、誤った戦争には協力できませんと言えばよかったのだ。それを言わないから、テロ組織になめられる前に、日本はアメリカになめられている。
別に、いまにはじまったことではないし、こんなに具体的にならないと気がつかない自分というのもおはずかしい話だが、イラクが大変だ。3人の方が拉致されている。自衛隊が撤退することが求められている。
いろんな人がいっていることだが、自衛隊は撤退すべきだ。
僕もその一員のつもりだが、いわゆる「大人の世界」はいろいろあると思う。いろいろな人間関係に巻き込まれてにっちもさっちもいかなるなることがある。自分が正しいと思うことを押し通そうとすると、結局のところ人に迷惑をかけることもある。いろいろな人の立場に配慮することも必要になってくる。そういう人が大人だといわれることもある。
しかし、そういうバランス感覚が大事だからといって、いざという時に、一番大事なものをなえがしろにしたらいけないんじゃないか?。
どんなに悩んでも、ひとたび決断すれば、決断しなかった時に手に入るであろう選択肢は手に入らない。また、自分で決断しなくても、そのまま期限がたてば、必然的にある一方の選択肢はなくなっていく。両方をとることはできない。
どっちが大事か、という話である。
政府を弁護するわけじゃないが、その渦中にいる人からは、外からみると簡単な選択肢がみえなくなる場合もあるだろう。そういうときは、後でふりかえって「あの時なんとバカだったのか」と思うことになる。
日本政府には、そうならないでもらいたい。
今日は入学式。午前中、学内では、学生がクラブ勧誘の準備をしていて楽しそう。もうすでに始まってるところもあるが、うちもいよいよ新学期だ。
午後からは非常勤先に移動して、今期の初授業。2ヶ月ちかく授業から遠ざかっていたので、最初はちょっと緊張した。緊張したからか、進行が早く、時間があまってしまった。まあ、初回だからということで早めに終わることにした。
それにしても学生が多い。2学科で100人くらいいる。この人たちみんな受講するのかな。ちょっと減ってくれないかな、、、なんていっちゃだめか。こうなるともう、一方通行の講議をするしかない。
ただ、まだわからないけど、今年の学生さんは僕が発言をふってもあまりかたくなな態度じゃなさそうなのでよかったかな。去年は、クラス内に変な力動があるのか、学生がお互いに牽制しあっているようで、なかなか自由に発言してもらえなかったのだ。まあ、これからだな。
来週からはうちの授業もはじまる。忙しくなりそう。
昼ごろ学校につき、遅れにおくれた授業の準備をいそいですすめる。 おもいのほか進んだ。 やってると面白くなるものだ。
やればできるじゃないか、俺。
かなり人のネタをぱくっているが、まあ授業だからよしとしょう。 というわけで、ちょっとうれしくなって帰りに、餃子の『王将』によって餃子をたべてきた。 隣の人が、餃子とライスを頼んでおきながら、ライスには手をつけず、餃子だけをすごい勢いでガツガツ食べていたのが印象的だった。
一体、どうしたんだろうか。
と、思ったら後から八宝菜が運ばれてきた。なんだ、そうか、温存していたのね。しかし、すごいバランスの取り方だなー。
学会で「質的研究」「質的研究」といいすぎたせいか、最近「質的」という言葉に食傷気味である。意味飽和現象とでもいうのだろうか、「質的」という言葉が意味することがよくわからなくなってきた。
シツテキシツテキシツテキ。まるでジュモンである。うっかりすると、シツテキなのか、テキシツなのか、ツテキシなのかわからなくなる。あやや顔負けである。
どこかで言われていることであるが、質的/量的という二分法によって見えてくる事もあるが、それによって見えなくなることもある。質的、質的いいすぎると、逆に目標が見えにくくなるように思えることもある。目的はなんなのかということもその1つ。要は、おもしろい研究すりゃあいいんだ。
2分法は、我々の思考をわかりやすく整理することには長けているが、それ自体、ひとつのツールである。ある高名なブラジルの教育学者は「アメリカ人はなんでもかんでも2分法だ」と言っておられたらしい。2分法をもちこみ、両者のどこに差異があるのかと議論しはじめることで、どんどん議論が矮小化されてくることを嫌ったのだ。
質でも、量でもみなケースであることにかわりない。そのケースをいくつ集められるのかということに差はあっても、その都度、自分が見た面白いものをサポートするために使えるものはつかい、使えないものはそれなりに扱えばいいんじゃないかな。
長いフィールドワークをへて分かったことは、結局、他者ってのはわからないものだということだ。たしかにある瞬間、ある瞬間をとらえれば、「わかった!」と思える場面があるのだ。 しかし、それも長続きしない。しばらくするとまた別の見方がやってきて、「今まで俺はなんとわかっていなかったことか」と思うのだ。そして、そういうことを何回か繰り替えしてみると、結局のところ他者というのはどこまでいっても見えないものだと思う方が自然だということになった。 他者をみることは自分をみることでもある。結局、わからないのは自分ってことかな。
今日は、これからお世話になる非常勤先に御挨拶にうかがった。 社員数がとても多い会社でびっくりだった。一昨年までお世話になっていたところの2倍はある。すごい。まだ今年度の事業ははじまっておらず、いまドタバタと慌ただしいさなかといった感じで落ち着かなかった。 まあ、とりあえず担当者さんもいい人そうでよかった。実際に勤務してみないとわからないが、がんばっていこうと思う。担当者さんによれば、我が社は全国的にも事業成績が極めて悪いらしい。せめて全国平均にもどしたいというのが願いであるという。少しでも成績をのばせるように頑張りましょうといわれ、ちょっとやる気がでた。
「呪い」という言葉がぼくの周りではやっている。神戸女学院の内田樹先生が本の中でつかっている言葉だ。
神戸女学院というと、大学時代、病院の実習が一緒だったあの子らも女学院だったなあ。僕が大学院にいったころにはもう結婚しちゃって、それ以来連絡もしていないんだけど。
当時、実験系心理学の教室にいた僕は、どうしても臨床心理学がやりたくて、神戸女学院の生野照子先生という心身症や摂食障害の世界では有名な(と、後になって知ったんだけど)先生がやっている大阪市立大学の心療内科外来というところでメンタルフレンドをさせてもらったり、診察の陪席をさせてもらったりしていたのだ。
先生はゼミ生をたくさんつれてきておられて、男ばかりの集団になれていた僕は、女学院という言葉の響きにクラクラきていたというわけである。なにせ男は僕1人であるから、かなり緊張した覚えがある。
そんなことはどうでもいいや。「呪い」だ。呪いというのは、僕の理解したところ、他者から受けた影響のせいで、自分ではなんだかわからないが苦しんでしまうというようなものである。臨床心理学なんかだと、転移/逆転移にからめとられているような状況をさすのだろうか。 自分がどうしてこんなことを考えてしまうのかがわからなくて苦しい時、「あ、そうだったのか」とその関係性自体を対象化してとらえることは役にたつ。例えば、僕はわりあい自分に帰属することで人間関係をのりきるタイプであるが、そのことに気づくとけっこう楽になるもんだ。
ただし、気をつけなければいけないなと思うのは、呪いとは自分がテンタティブには心地よいと感じる関係性のなかにもあるということだ。常に自分が苦しみを感じるもののなかばかりに呪いがあるわけではない。自分がその場にのみこまれ、とかしこまれているだけかもしれないということには注意が必要だと思う。
ところで、今日は1日家で原稿を書いていた。頼まれた原稿は現時点で3分の2くらいできた。どうせじっくり考えても良いアイデアがでるわけでもなく、どうせなら今日で一気書きしてしまおうということになった。自分でもよくできたと思うね。まあ、肝心のことはできてないんだけどさ。
今日は、なんだかんだとウダウダしていたら、あっというまに時間がすぎてしまった。授業準備もそろそろしなければならないが、あんまり手につかなかった。Mさんは土曜出勤で仕事をこなしているらしい。見習わねばならんね。いかんいかん。 でも、まったく何もしなかったわけではない(と、自分に言い聞かせる)。昨日、大学院時代の指導教官である田畑先生から久しぶりに電話があった。編集を手掛けておられるあるハンドブックの原稿を分担執筆してくれという依頼である。先生の頼みを断るわけにはいかないので二つ返事でお約束する。しかし、なんとその原稿の本来の締め切りはもうとっくに過ぎているという。先生にはなんとか1ヶ月くらいの猶予をもらったのだが、かけるところは早い目に書いておこうということで数ページ書いた。 ここ数日、次世代Mlはものすごいトラフィックで読むだけで大変である。手に付かない仕事があるとき、MLははまりやすい罠である。MLPの斉藤先生は、4月の企画として論文をみんなで読むことにしたようだ。手始めに筑波大学の香川くんの修士論文がとりあげられている。大変におもしろい試みだと思う。さっそく反響があってとても活発な議論がなされている。 ところで僕が修士論文を書いたころにくらべれば、香川くんの修士論文はとてもしっかりしている。僕も負けていられないという感じである。僕の修士論文なんて、ほんとうに個人的な満足だけで書いていたようなもので、世間様に見ていただけるような代物ではなかった。 数人の方に送りつけて読んでもらったりしたのだが、さぞ迷惑なことだっただろうね。まあ、でもそんな失敗があるから今があるんだろうけどさ。
2004年04月02日(金) |
ホームページっておもしれえ |
最近、ホームページにはまっている。 M嬢がHPをつくったというので「いいなー、じゃ、僕もやろうかな」という軽い気持ちでgeocityにスペースを借りたものの、マックの端末からではお手軽作成ソフトを使うことができない。
HTMLなんてわかるわけないっていうのでしばらくほっぼらかしていたのだが、人間なせばなるもので、ホームページ作成に関するサイトをみつけ、そこでhtmlの書き方を学んだ。
少し書けてみるとうれしくなるもんで、「あ、こうしよ。ああしよ」といろいろ想像は膨らみ、ついつい夜更かししてしまうことに。
html恐るべし。
文字だけで図でも表でもなんでもできちゃうんだから、たいしたもんだ。 でも、明日からは真面目に仕事しようと思いました。 ・・・と思ったら明日は土曜だ。
今日は、お昼から出社して自分のHPの改訂にいそしんでいた。 『「私」の物語り的構成』というのは、当初、紀要にだしたのだが、その後、結構反響があって、自分としてはうれしい誤算だった。その時点ではかなりいいかげんで、やっつけで提出してしまったこともあり、改めて書き直したいと思っていた。それで、この学校にきたのと同時に改稿をこころみたのだが、前作がひろまったためかオリジナリティの問題が問われて、某雑誌には不採択となってしまった。で、いろいろひきあいのあるこの論文のバージョンアップ版をお蔵入りさせてしまうのももったいないということでHPにアップすることにしたのだ。htmlもけっこうわかってきたら簡単だな。しかし、まだまだこったことはできない。
昨日の夜は、某研究会の企画をすすめるために複数の人々とやりとりしていたために眠ることができなかった。問題になっているのは研究倫理。質的心理学会もできて、これからますます映像データやら音声データやら、研究参加者の肉声が読み手に届く機会が多くなる。そうなった時に、プライバシーの問題と、研究の透明性をどれだけあげていくのかということのバランスをとることが問題になってくるのだろうなと思う。
僕としては、やっぱり、もとのデータにたちかえって「あれは違う、これはこうだ」とやりたいわけだ。しかし、大勢の人が出入りする現場でそれをすることは極めて難しい。それだけ参加者に迷惑をかけてでもよいものになるんだという意気込みがないと頼めないし、参加者のほうも納得しないだろう。アカウンタビリティがもとめられるということか、、、。
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