低家賃? - 2006年06月26日(月) 山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 上はご存知、夏目漱石の「草枕」冒頭。 改めて読むと、 軽くて、すらすらと流麗な、 でも含蓄ある真実ですねえ。 まったくだ。私とて仕事しているといつもこんなことを思う。 ところで何で「草枕」かというと 昨日マイハニーが言った一言に驚いたからです。 日々の生活費の話、というリアル話をしていて、 家賃がもう少し下がらないかな?なんていう話に至ったのですが 彼女、こう言いました。 「やっぱ住みにくい時はもっと安いところに引っ越したくなる、って漱石も 『草枕』の中で書いてるけど、ありゃ全くだよね〜。」 へ(??) おい。。。 「安いところ」って家賃が安いところ、って意味じゃねーぞ。 心安いところ…気持ちの落ち着くトコって意味だろ。。。 時々マイハニーはとてつもない。 (この後、自分で大ウケしてた) ... 脅し? - 2006年06月23日(金) 私もご多分にもれず、「ダ・ヴィンチ・コード」に夢中。 とはいっても映画はまだ見てません。 原作を読み始め、ようやく上巻が終わったトコ。 だからネタバレ厳禁っすよ! 面白いですね〜。世界でベストセラーってだけのことはある。 友人から「教会通ってるクセにいいのかよ」 って言われましたが、別にそういう感覚で読んじゃいない。 フィクションだから、って完全に割り切ってる、というのとも違うけど。 ところで昨日、マイハニーが(彼女は既に読み終わってる)、 「ほしいものあるから1万円クレ」 と言う。 「は?」(何ワケわかんねーこと言ってんだ?) 「クレよ〜。クレないと「ダ・ヴィンチ・コード」の結末話すぞ!」 ・・・なんちゅう脅しじゃ。 ... 闘い終わり・・・ - 2006年06月20日(火) 話が交互になりますが、 仲間とのコンサート、先週末に終わりました。 コンサート自体は「無事」終わったのだけど 私自身は無事ではない…(哀) いや悔しいです。 あんなに練習したのに。 前に日記で書いたときは まったく曲に歯がたたず、って感じだったのが 寸前になって少し光明がみえてきた… というか自分でもそれは意識してなかったのだけど いつのまにか弾けてきてて、(弾けてないところもあるにはあったが) 「弾ける、弾けない」という技術面よりも 音楽面での取り組みにウエイトが移って来ていました。 だから「なんとか人に聴かせられ」そうな次元にまで手が届いてきていた。 (ひっかかって、くらいか) だから、なあ…。悔しいっす。 つまり、またアガリにジャマされちゃったんです。 これは自分が一生付き合わなきゃいけないマイナス面だ、と よくわかっていながらも やっぱりやりきれない思いがあります。 あとでビデオを見ると、これはあれだけ弾きこんだ成果なのか (客観的にみて) 音楽のかたち、展開はわりとしっかりしているし 音の質もわるくなさそう。 だいぶ甘さがとれ、ダイナミックさも出てきてたし、 いちばんネックだった、対位法的に書かれたフィナーレの展開部(フーガのように展開する圧倒的な音楽の流れ)は、自分がやってるとは思えぬくらいちゃんとどの声部(同時進行するメロディー)も弾き分けられてる。 けど、そう、音が細かく走る部分や、3度や4度の和音で弾くパッセージになると グチャグチャ。 思い出すと赤面ものなのだけど そういうところを弾いてる時は、本当に腕が縮こまってた。 ビビってしまって。 大体フィナーレに先立つ、遅く幽玄な第3楽章で、 ここはずっと左足で弱音ペダルを踏みっぱなしにしているのだけど その左足が震えっぱなしだった。 どうして、こう本番に弱いんだろうなあ。 ピアノが一番弱いんだよな。 同じ舞台でも、歌をうたう時とか、 芝居の養成所で(実際の舞台ではなかったけど)、たくさんの人の前で演じても ピアノほどアガらないのに。 でもね。 やめられないんです。 これだけの曲に取り組めたことが嬉しい。 種のような小さなモチーフが、あれだけ深く大きく音楽として拡がっていく ベートーヴェンの創作をまたも体験できたことが嬉しい。 そしてもう来年の曲も検討し初めているし。(←ホント懲りない) ... 寂しいな - 2006年06月16日(金) 前回、「連日オーケストラ」なんてタイトルをつけつつ、 N響の方を全然書かずに終わってしまいました。 で、今回…と思ったのですが、 悲しいことがいくつもおきました。 そう、作曲家ジェルジ・リゲティが亡くなり、 指揮者、岩城宏之さんが亡くなり、 さっき仕事仲間から連絡があったのですが、 やはり指揮者の佐藤攻太郎さんも亡くなられた。 人は誰でも、いつか死ぬ。 それがわかっていても、そして歳をとって何度それに出会っても やはり寂しく悲しい。 この中でリゲティが一番世界的なのだろうけど、 この国で、しかも音楽の仕事をしていれば 岩城さんの存在は大きかったし、 佐藤さんも地味ながら、時々オペラの指揮などを聴くにつけ、 大事な存在だな、といつも思ってました。 岩城さん、最近実演聴いてなかったですね! こういう時だから言うわけではないですが、近頃、久々に聴きたいな岩城さん、 とよく思ってました。 私が学生の頃、年に1度くらいN響の定期だとか何だとか指揮してましたから、 結構聴く機会がありました。 その度に思ってたのは、岩城さんが指揮するとオケの音がすっきりキレイに鳴るんだな、ということ。 今になってみると「耳がいい」ということに起因することで、 だからこそ、武満徹をはじめ、現代曲の初演に長け(初演魔と言われてたんですよね) 近代の音楽だったら、プロコフィエフだとかストラヴィンスキーのような、音が込み入った音楽の演奏で特に印象が残る指揮者でした。 前に一度、一緒のテーブルで大勢と食事をする機会があって、 彼が書く軽妙で面白い本と同じく、歯に衣着せぬ物言いをする方、頭のいい方だなあ、と思ったのを覚えています。 そして最近のオーケストラ・アンサンブル金沢との活動。 「コンポーザー・イン・レジデンス」という、いわゆる「座付き作曲家」制度を始めて、 定期的にこの人たちに新作を書いてもらい、アンサンブル金沢で初演するという、 彼ならではの活動に、何より私は注目してました。 だって、そうして新しい音楽が生み出され、繰り返し演奏されていかなかったら 音楽はどこかで閉塞してしまう、って怖さがあるから。 ホント、行動家でしたね〜。 それがまたCDにもなって(しかも1枚1000円)、売られるものだから 私は何枚も買いました。 権代敦彦さん作曲の「愛の儀式」という曲(笙とオーケストラのための曲)、結構何度も聴きました。 現代の音楽といえばリゲティのことも。 リゲティこそ現存最高の作曲家だと思っていましたから、もう充分な御歳だとはいえ、 やはり残念です。 私が好きだったのは、例えばブーレーズやシュトックハウゼン、故ベリオらと比べて、 かつて動乱に満ちていたハンガリー生まれという彼のルーツがそうさせるのか、 同じように音が複雑で鮮やかであっても、そこに強い「意志」や「祈り」を感じさせてくれること。 彼を有名にした、トーン・クラスターの技法(色んな楽器が音をず〜〜っと伸ばし、それが各々入ったり出たりすることで音色や音の増減が変化していくような音楽)で書かれた 「アトモスフェール」(映画「2001年宇宙の旅」で使われた)や 「ロンターノ」といった初期の作品も好きですが、 あの大好きな名ピアニスト、ピエール=ロラン・エマールがリサイタルで弾いたり、CDで出してくれた、あの素晴らしいエチュード! ホント、これも一時期よく聴きました。 それから何年前でしたっけ? やはり大好きな指揮者、エサ=ペッカ・サロネンがフィルハーモニア管弦楽団とともに 東京オペラシティでやった「リゲティ・フェスティバル」。 悲惨な客入りでしたけどね、(あの大ホールに500人くらい?1F席は前半分くらいしかお客がいなかった…) 私はすごく楽しかった。 サロネンがまた素晴らしく、透明に明晰に音楽の姿をくっきりと聴かせてくれるものだから、リゲティの音楽が格別に魅力的に響いていたのを思い出します。 う〜ん、やっぱりため息。 どうか、亡くなられた皆さん、 私がいつかそちらに行った時、また素敵な音楽聴かせてください。 今までありがとうございます。 ... 連日オーケストラ - 2006年06月12日(月) 先週はオーケストラ2連投。 大植英次指揮ハノーファー北ドイツ放送フィルのワーグナー・プログラムと 翌日は準・メルクル指揮N響の定期公演でシューマン・プログラム。 一昨年も確か大植/ハノーファーを聴きに行った翌日にN響定期があり、 N響って上手いんだな、って改めて思ったものでしたが 今回も同じ。 やっぱN響の方が「上手い」。 ただちょっと、ひとつの次元では比較できないな、と思ったのは ハノーファーのオーケストラの鳴らすワーグナーの音。 やっぱりこういう地の底からわき上がる、 チェロやベース、特にティンパニの深々と大地に食い込むような音は、 ドイツのオーケストラが「身につけてる」「板についてる」もので これは単にオケが上手い、下手だ、って話じゃないな、と実感。 大植さんは、皆さんもご存知の通り、去年ワーグナーの聖地バイロイト音楽祭に日本人で初めて出演した指揮者。 賛否両論を巻き起こして、残念ながら今年は出演できなかったけど やっぱりそういうところで、「ワーグナー命」たちが集まるオーケストラを集中して指揮した人が演奏するワーグナーは一味違う。(決して思い込みじゃない) そして歌手がハンパじゃない。 特にジークムントを歌った・・・ あ、やった曲は「リエンチ」序曲、ジークフリート牧歌、そして4夜かかる超大作「ニーベルングの指環」の中の2番目「ワルキューレ」の第1幕を演奏会のスタイルで。 … テノールのロバート・ディーン・スミスは凄かった。 この役では、多分現在ベスト3の一人。 ワーグナーの主役を歌うテノ−ル、ってのはまさに「選ばれし者」で 生半可なノドじゃ絶対歌えない。 ケタ外れに強い声帯を持っていないと無理。 まずそういう肉体的なハードルがあって、 私も今まで、絶叫して頑張ってるのに、ちゃんとした発声、ちゃんとした言葉にならず、 ただただ叫んでいるのみ、ってテノールに何人も出くわしてきた。 そんな中に「選ばれし」ノドを持ったワーグナー・テノール(ヘルデン(英雄)テノールと呼ばれる)が本当に数少ないが、いる。 前に書いたルネ・コロ、クリスティアン・フランツなどがそう。 スミスもその一人。 こういう声を聴けるだけで、「ああ、この声の持ち主がいた」と感激。 もっとも私はスミスを、あの例の新国立劇場の「ワルキューレ」でも同じ役で聴いているのだけど、あの時よりもっと感動した。 ただし。 父親の名を呼ぶ、中盤のクライマックス、 モノローグの中で「ヴェルゼ!ヴェルゼ!」と最強音で叫ぶ部分があるのだけど、 これを 「ヴェ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ルゼ」と 15秒も20秒も長々伸ばしていてくれたのには、感動どころか、興ざめ。 「オマエ、バカ??」 それでも素晴らしい「ワルキューレ」の上演でしたが。 素晴らしい、といいながら、大植さんがバイロイトで賛否両論だったというのもわかる気がしました。 というのは、上手く言えないんだけど、やっぱりオペラを振りなれてないあたりからくるのか、 人の声の生理とオーケストラとが、絡み合いとけあって音楽がふくらんでいく、熱を帯びていくオペラ的な特性と、オーケストラの音を正確に組み上げていくシンフォニーを指揮するときの感覚の両方がうまく融合しないというか。 テンポが不自然に変わる部分、ワーグナー特有の「誰々のモティーフ」みたいのが唐突に響いたり、展開に自然さがやや欠ける感じ。 ああ、ワーグナー・オペラに関してはまだまだ第1歩、第2歩って感じ。 もっともたった1回のバイロイト体験でここまで来る指揮者だから、 きっと今度聴く時は・・・ って期待は十分だけど。 ... 焦りと鏡 - 2006年06月07日(水) うぉ〜、いよいよコンサート本番まで時間がない。 どうしよう!どうする? …練習あるのみ。それ以外できることは何もない。 という境地に至った今日この頃。 ひたすら黙々と練習に励んでおります。 まだちゃんと音になってない部分が何箇所かあり、 止まらないで通して弾ける確立50%ほど。 そのパーセンテージ、次第に上がってはいるけど。 サマンサの一言じゃないけど、まったく「無謀」な曲を選んだもんだ。 ところで、そうしてひとつの曲と立ち向かい、 練習しているとあることに気づきます。 先日、ある程度の地点まできたと思ったので 録音してみました。 学生時代のように先生のところにレッスンに通えないから (単に時間とお金がないだけ) とりあえずは自分でダメ出しをしなければならないのだ。 昔から発表会前には数回、必ずやってきたことなのだけど 考えてみたら、ここ数年、それをやっていなかった。 よく皆さんも自分の声を録音で聴いてギョッとすることがあると思いますが、 それは自分のピアノを聴いても同じ。昔から、そう。 そして、今回・・・ 悪くはない。あれだけ「ダメだダメだ、こんな曲は弾けない」と思いながらやってきた割には、決して悪くはない。 かなりつたない感じはするし(テンポがまだ遅すぎる)、実際音はボロボロこぼれてるし、弾けてないとこもいっぱいあるけど、音楽の感じとしてはそんなに悪いものではない。 想像していたよりはかなりマシだ。 …とこんな風に書くと「随分甘いんだな」と思われそうだけど とりあえず自分的には正直なところ。 そう、私がいつも自分のピアノを聴いてギョッとして気持ち悪くなるのが この「甘さ」だ。 他の人が私の演奏録音を聴いたらどう思うのか興味深いのだけど 私がいつも「客観的に」一聴して感じるのが ここにはなんだか、人の良さ「そうな」、柔和・温和「そうな」、優し「そうな」、そして甘ったるい人間がいる、という感触。 (ちなみにマイハニーはやっぱりそう感じたようだ。) もっと厳しさとか辛口なところや、ダイナミックな躍動はでないのか、 というフラストレーション。 ある意味、これだけ弾いている人間の感じが濃厚にでているというのもスゴイことだな、 と他人事のように思ってしまうが、 ベートーヴェンを弾いている限り、自分よりベートーヴェンの音楽が表にでていないと困るのだ。 そうじゃないと、私はなんのために必死で練習しているのやら。 学生時代から私のピアノが、特に音色が「甘美な感じ」とか言われて、 それは褒め言葉なのだろうけど、皮肉にも聞こえるな、 なんて複雑な思いでそういう言葉を受け止めてきました。 でも、やっぱり録音を聴くと、 「実際はそれほど甘ったるい人間ではない」と思いながらも やっぱり私の根っこはこんなものなのだろうか、 と愕然としてしまうのでした。 ... 恐るべき境地 - 2006年06月02日(金) アルバン・ベルク四重奏団のコンサートに行きました。 感動。。。 恐るべき境地にありますね、彼ら。 聴いていて空恐ろしいほどでした。 ピアノでいえばポリーニとか、そういうほんのひとつまみの 「選ばれし者」たち。 もちろんこのカルテットはもう随分前、 それこそ1980年代からカルテットNo.1の名を欲しいままにしてきた王者だったし、 私もその間何回か聴いて、その度に「すごいな。。。」と感心してたけど 今回ほど感銘を受けたことはない。 モーツァルトの弦楽四重奏曲2曲と バルトークの弦楽四重奏曲1曲という組み合わせ。 モーツァルトは、いわゆるハイドン・セットと呼ばれる ハイドンに捧げた、モーツァルトが珍しく「苦労した。試行錯誤の連続」と告白している、複雑に書かれた野心作の中のニ短調(K.421)の曲と、 そういう時期を経てから、再び簡潔明朗に書かれた練達のニ長調(K.499)の曲。 バルトークが最晩年、ナチズムを避けてヨーロッパから去ろうとしていた時期の、 全編、暗い悲しみと慟哭に満ちた(全楽章にメスト−“悲しみ”という表記があります)曲です。 後半のバルトークも、私は身を切られるような思いで、重い静けさを受け取りながら聴いていましたが、 (私は、彼らが80年代中頃に録音したバルトークのCDを、学生時代、あれはなんだったか?FMで早朝に流していて、それを全部録音して聴いていました。その時に「いつか彼らの演奏するバルトークをナマで聴きたい。」と夢見ていて、それを今の今まですっかり忘れていた。彼らが演奏しだしたと同時にそれを思い出しました。) すごかったのはモーツァルト。 モーツァルトを聴いて、「すごかった」って感想を書くくらい、 ふさわしくない、野暮だ、 ってことはない気がしますが、ほかに何と言えばいいのか、ちょっとわからない。 ニ短調…って調性は、モーツァルトの中でも「これは」ってものが多く、 たとえば超有名な「ピアノ協奏曲第20番K.466」がそうだし、 オペラ「ドン・ジョヴァンニ」がそう。 モーツァルトが「短調」で書く曲はひたすら暗く、ドス黒い。 誰もよせつけない独特の「パトス」… ベートーヴェンや、その後のロマン的な音楽とは全く質の違う、「情念」とはまたちがうもの… そんな暗い暗い出口の見えない暗さ。 誰がやったって、モーツァルトのこのニ短調の弦楽四重奏曲はそういう音楽だけど アルバン・ベルク四重奏団の演奏は、一体この音楽にどこまで連れて行かれてしまうのだろう、と背筋が寒くなるほど凄味があった。 凄味と言ってしまうとなんだか強引な感じがするけど、そういうよりは 透明で精密な分、いつのまにか静かに吸い寄せられていく、という感じ。 ニ長調の方、といえば、この「ニ長調」という調性もまた、 「フィガロの結婚」だとか、明るいのだけど 先日の日記に書いたように、明るく透明に音楽が羽ばたけば羽ばたくほど 悲しくなってくる曲が多い。 なぜ明るく純粋なものが悲しみにつながってくるのか、 わからない。 でも、その感じを分かってくださる人は多いはず。 アルバン・ベルク四重奏団の「ニ長調」弦楽四重奏曲は、 それをいつもより、もっともっとはっきりと実感させてくれるものでした。 ...
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