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2000年11月30日(木) BSデジタル放送

明日からBSデジタル放送が始まるという。
BS、CS、デジタル等々やたら多チャンネル化が図られているが内容はどうなのだ?
結局、地上波の既成番組とどれほどの差があるというのだ?
カルト教賛美番組とか日本赤軍玉砕番組とかテレパシー実験番組とか月軌道上からのライブ映像とか自衛隊戦闘実況番組とか自殺実践講座とかが始まるのなら興味深いが、そんなものは出来まい。
いままでの既成価値観に留まり、それを壊すような革新的な内容はどうせ最初から除外されるのだろう。
結局のところ出涸らしのお茶を更に薄めたような希薄な番組がコピー&ペーストされるだけの話。
テレビ放送が始まって50年。
少なくとも新しい価値観が生まれると共にそれを吸収し、再生産してきたところにテレビ放送の意義があった。
ところがこの世紀末、新しき価値観を受け入れる事をやめ、既得権益保持のための道具として古いモノを反芻するだけになった時、テレビは新しき者にとって敵となった。
テレビは今や墓場か斎場のようなもの。あるいは汚物集積場か。
BSデジタル放送も新しき革新者にとっては何の意味も持たない。
双方向?どうせ都合の悪い情報はなかったことにするのだろう。
ヒトラーの演説をノーカットで聴きたいとリクエストしたら応じるのか?
まず「なかったこと」にされるのがオチ。
双方向が聞いて呆れる。
そんなに沢山チャンネルが余ってるなら、有象無象のカルト集団に開放してやったらどうだ?
そっちのほうがいろいろ楽しめよう。いろんな意味でね。
テレビは地上波3つもあれば十分。そこで人類の未来にポジティブに貢献出来る建設的ニュースと最先端の科学技術に裏付けされたライブ映像を嘘偽りなしに流していれば事足りる。それもアナログで十分。カラーである必要もあるまい。
既得権益にすがりつく偽政者と愚か者と、それを背後操縦する邪教徒の干渉を排除しない限り、何万チャンネルあろうとデジタルであろうと双方向であろうとハイビジョンであろうと可も不可もない砂を噛むような雑映像が垂れ流されるだけ。
そんなものに付き合うほど愚かではない。


2000年11月09日(木) 三島由紀夫

三島由紀夫の単行本が本屋に平積みにされていたので立ち読みする。
「憂国」というのを読む。
2/26事件の時、決起部隊に入れなかった陸軍中尉だったか・・。夫婦で国を憂いて心中するという話。
自分は三島文学などというものを知らないし、本人が世に言われる「国を憂いて割腹自殺するような国粋主義者」だったのかも解らない。
ある作家や作品に傾倒出来るのは10代後半がピークであって、それを遥かに過ぎるとどんな「名作」だろうが心に響く事はなくなる。
「憂国」はいかにも商業作品という印象で、別段国を憂いて書いたという印象はない。むしろ、全共闘時代に東大で公演した記録集のようなものの方が、世に言う「三島由紀夫」のイメージがある。

1960年代から1970年代。
皇太子世代からするとTVから盛んにデモやら火炎壜を投げるシーンが流れてきたという記憶しかない。
なんであんな騒乱ざたをマスコミは好意的に扱ったのか、子供ながらに不思議に思っていた。
あれはやっぱり「革命ごっこ」だったのだろう。
ゲバ棒振り回していた学生もちゃんと就職出来たんだから、ある意味「おめでたい時代」だったのだ。
重信房子が「英雄」で麻原彰晃が「悪魔」と扱う世間の基準もまた所詮、「おめでたい」団塊の世代の欺瞞そのものだ。
若い頃、盛んに変革を叫んでいた連中が、社会の主導権を得る地位に付いた途端に、手の平を返すがごとく、変革をもたらす者を断罪する。
欺瞞もここまでくると滑稽ですらある。
「革命ごっこ」はよいが本物の「革命」は困る・・か?
今の若い者はまともに就職すらまま成らぬというのに。
本物の「革命」とやらが来るとしたらこれからかもしれぬな。


2000年11月08日(水) 「革命ごっこ」

日本赤軍の最高幹部、重信房子が捕まったニュースが流れた。
東京に護送されてくる本人の顔は、どこかのフリーマーケットで古着を売ってるおばさんというイメージしかない。
無論、偽装するという理由もあろうが、70年代の若き頃の雰囲気は微塵もない。
そう、人は永遠に生き続けることは出来ぬ。いずれ朽ち果てるしかない。
若き頃の情熱も肉体の衰えとともに虚空へと消える。
魂がこの身体に宿る限り、人間は必ず老い、朽ちる。

30代未婚男女の8割がお見合い結婚を肯定的に考えているという。
ラジオで誰かが話していた。
かつて、自分の意志にかかわらず、結婚相手が決まってしまう時代があった。
許嫁(いいなずけ)とかいう言葉が普通に使われた時代。
ではその頃の結婚は若い男女にとって不幸だったのか?
今や、結婚を第三者から決定ずけられることなど例外に過ぎない。特に都市部ではそうだ。
すべては自由恋愛のもとに男女が自分達の自由意志によって決定できる。
ではそれで全ての者が幸せな結婚を成就出来る時代になったのか?

むしろ逆に結婚の意義をみつけられずにどんどん老いるに任せるしかない孤独な絶望に苦しむ社会になっただけ。。
結局のところ、許嫁の時代と自由恋愛の時代とでは幸福度にさほど変化などなかったのである。
恋愛というのは一時期の感情の高まりでしかない。
それのみで男女が一生共にするなど所詮不可能だ。いずれは許嫁の時代と同じく不自由に拘束されるしかない。
では結婚を否定し続ければ事は済むか?

肉体は必ず滅びる。
その前に自分の遺伝子を次世代に継承することにおいて、唯一合理性が保たれている制度は一夫一婦制の結婚ぐらいだ。
一夫多妻などの制度差はあっても家族を構成するということに変わりはない。
人はひとりでは生きていけぬ。
人間が社会を構築するほ乳類である以上、この掟からは逃れられぬ。
これを否定することはすなわち欺瞞である。
欺瞞はいずれ破綻する。
かつての「革命ごっこ」のように。
魂がこの肉体に宿っている限り我々は何万年経とうと同じ事の繰り返しだ。

吉祥寺の『パルコブックセンター』に立ち寄る。
広大なフロアの中、膨大な文章が氾濫する。
本だけではない。音楽や絵や写真。あらいる表現物が紙やCD、印画紙という「肉体」に乗せられ流通してきた。
だが、急速なIT化によって、その「肉体」を介さずに表現物が質量0のまま、溢れ出した。
1500円で売られている有名作家のエッセイ本と、タダでアクセス出来るどこの誰だか解らないHP上の戯れ言文章との違いをもはや見出せなくなる。
かつては作家になるなどということは夢のまた夢。
だが今や「作家ごっこ」は誰にでも出来る。大家の作品よりもよほど面白いことを書くアマチュアなど腐る程いる。
人々がそれに気がつけば、作家などというステイタスは一瞬にして消え去る。
音楽も絵も然り。
こうして媒体という「肉体」を失った瞬間、文学やアートといわれるものは壊滅する。
そこには人間の肉体も存在しない。
オンライン上では誰でも作家や絵描きやコピーライターもどきに簡単になれる。
しかし、誰もが出来たはずの生身の恋愛や結婚が逆に虚構の彼方へと消えつつあるとはとんだ皮肉だ・・。
そうなれば普通の家庭を営むことが逆に羨望の的となろう。結婚出来た男女はまるで人間国宝のように敬われる。
一方で大多数の人は部屋に隠り、一生PCのディスプレイを眺めながら恐ろしい孤独の中でそのまま朽ち果てるしかないのだ。
だがこんなことが一世代も経ない情況で現実化すると思うか?

人はその肉体に代わる魂の拠り所を見い出さぬ限り、ほ乳類としての掟からは逃れられぬ。肉体無しには生きられぬ。
IT革命などかつての原子力のように破綻が来よう。魂が自らの身体に宿る限り、このレベルでのITでは身体が受け付けぬことに皆やがて気がつくだろう。
そして拒絶反応が津波のように押し寄せることになる。
かつてオランダあたりでチューリップの球根が投機目的に売買され、天文学的な値で取り引きされたという。
だが人々はやがて気付く。
「こんなばかげたことはいつまでも続くはずはない」と。
そしてバブルは弾けた。
IT革命などこれとたいして変わらぬ。破綻は時間の問題。

なぜ30代独身男女が見合いを肯定的に考えるようになったか。
物事の本質に気が付いたからだ。
人は肉体という媒体が必要だということに。
その肉体の呪縛から逃れる策はただひとつ。
魂を新たなステージに。この脆弱な身体に代わる新たなる永遠なる子宮。
魂の座
それをサルベージしない限り、我々はほ乳類としての闘争の掟からのがれることは出来ない。
「ヒトゲノム計画」、「人類補完計画」実践なくして本当の意味での革命は成就しえない。


絶望皇太子