英語通訳の極道 Contents|Next >>
この小文は、Webコラム「風太郎ワールド」から転載されました。 米英軍が苦戦している。少なくとも、当初予想された短期終結の可能性はほとんどなくなったようだ。 イラク軍の幹部や兵士はもとより、民兵も自爆テロリストも、米英の攻撃に「衝撃」を受けている様子はないし、「畏怖」を感じているようにも見えない。したたかに戦っている。米英軍の戦略は、"Shock and Awe"だったはずだが。 今やあまりにも有名になった、"Shock and Awe"。軍事戦略家のHarlan K. UllmanとJames P. Wadeが、1996に発表した論文、"Shock and Awe: Achieving Rapid Dominance"の中ではじめて使った用語だ。 決定的で圧倒的な軍事力を行使することにより、敵の戦意を喪失させるという理論を指すのだが、この日本語訳が少し引っかかった。 朝日新聞はじめ多くのメディアが「衝撃と恐怖」を使っている。毎日新聞は、「衝撃と畏怖」だ。 「恐怖」という日本語は、たとえば、敵の銃撃を受ける恐怖、殺人鬼に襲われる恐怖、車や飛行機が制御不能になった時の恐怖のように、死や危害が迫っている時の心の状態に対して用いられることが多いのではないだろうか? だから、英語に訳す場合は、"fear"、"terror"、"horror"、"fright"等が思い浮かぶ。 一方、"awe"というのは、恐いという感情より、自分の理解を超えた事象、圧倒するような存在に対して、驚くとともに、ある種の畏敬の念というか感動を覚えることではないか?たとえば、巨大な空飛ぶ円盤とか、原始的な村で起こる皆既日蝕などの非日常的現象など。 ちなみに、Collins Cobuildでは次のように定義されている。 Awe is the feeling of respect and amazement that you have when you are faced with something wonderful and often rather frightening.この意味の日本語としては、「恐怖」より「畏怖」のほうが適切ではないだろうか? "Awe"作戦を単純に「恐怖」作戦と呼んでしまうと、この「圧倒的」とか「自分の理解を超えた」という語感が出てこない。 この点で、私は毎日新聞の日本語訳を支持したい。また、最新の日本語版ニューズウィークが「畏怖」を使っているのを見てホッとした。 もし私の理解が間違っていれば、ご指摘いただきたい。 ところで、この"Shock and Awe"という理論。実は、過去の「成功体験」に基づいているというのをご存知だろうか? Ullmanたちは、前述の論文の"Introduction to Rapid Dominance"という章で、こう述べている。 Theoretically, the magnitude of Shock and Awe Rapid Dominance seeks to impose (in extreme cases) is the non-nuclear equivalent of the impact that the atomic weapons dropped on Hiroshima and Nagasaki had on the Japanese. The Japanese were prepared for suicidal resistance until both nuclear bombs were used. The impact of those weapons was sufficient to transform both the mindset of the average Japanese citizen and the outlook of the leadership through this condition of Shock and Awe. The Japanese simply could not comprehend the destructive power carried by a single airplane. This incomprehension produced a state of awe. (ハイライトは筆者による)広島・長崎への原爆投下の「衝撃」が、日本人に"awe"を与えた。だから、同じことをイラクでもやろうという発想。 いまだに、広島・長崎は成功体験として認識されているのだ。
まだ肩の力が抜けない。しかし、今しばし戦争の話題を離れて、英語に戻ろう。 以前、私とラジオ講座のつき合いは、故松本亨氏が「英会話」講師を退かれた時に終わったと書いた。実は、例外がある。 旺文社の「百万人の英語」だ。魅力的な講師が何人もいた。ユニークだったのは、土曜日放送(だったと思う)。ゲスト講師と電話で英会話できるコーナーがあった。そのゲストのひとりが、 ドキドキして聞いたものだ。 しかし、このラジオ講座も卒業。そして、もうラジオの英語講座を聞くことはないだろうと思っていた。その後25年くらいは。ところが‥‥ 長いアメリカ生活から日本に帰ってきて、ひょうんなことから通訳・翻訳など英語を使う仕事を始めると、ビジネスマンや企業経営者、そして学生・主婦などから、どうやって英語を勉強したらいいですか?という質問を受けるようになった。 英語教育市場には、「画期的な教材」、「驚異的な勉強法」が溢れている。何から始めればいいのか悩むのも無理はない。 私は何をやっても役に立たないものはないと考えている。あれこれ探し回るより、気に入ったものをとりあえず一生懸命やるのがいい。 それに、個人的な事情が異なるので、十把一からげに「万人にとってベストな英語勉強法」などを論じることはできない。 そうはいっても、より効果的、効率的な方法というのはある。すでに多くの大先輩方が、体験を通して習得したそういうノウハウを披露されているが、私も自分なりの経験則を少し述べてみよう。 ここでは特に、ビジネス現場で英語が必要な人達のケースを考えてみたい。英語を使う目的は、日常の会話に加えて、会議・交渉・連絡などだ。 留学・海外駐在などで英語をマスターした人は対象外だが、そういう海外経験者でも、英語にはもうひとつ自信を持てないという人は多い。逆説的だが、英語は日本に戻ってからこそ勉強できる。 さて、ビジネスマン・ウーマンの多くは英語初心者ではない。学校でも習ったし、多少の心得はある。だが、自由に使えるレベルではない。 自分の専門内容なら何となく聞いて分かる。ただ、細かい点で誤解する可能性がある。読むほうは、時間をかけ辞書を引けば大丈夫。意味が伝わる程度の文章も書ける。一番困るのが、しゃべる技術のようだ。 実際、ビジネスの現場で通訳していると、英語を聞くのは何とかなるが、しゃべるのが不得手という人がかなり多い。だから、一対一のミーティングなどでは、日本人発言者の「口」としての通訳者の役割が非常に大きい。 では、どういう英語勉強が、こうした忙しいビジネス人に適しているか? ビジネスの最先端で活躍している人は、とにかく時間がない。睡眠時間さえ十分にとれない。毎日1時間の勉強なんて、とても無理かもしれない。 そういう人は、やたら大きな目標を掲げないほうがいい。とにかく、ちょっとしたこと、毎日続けられること、楽ではないが楽しんでできることから始めるのが良い。それが仕事に役に立つとさらに良い。 重要なのは、続けるクセをつけることで、そのためにも「楽しい」という要素は欠かせない。楽しくする「工夫」が要求される。 「短時間」というのもポイントだ。ダラダラしない。たとえば、通勤の20分だけと決めれば、20分しかしない。それ以上はしない。 英語の勉強を日常生活の一部として取り込む。「歯磨き」と同じように「ルーチン化」することだ。 通勤20分だけの勉強でも、チリも積もれば何とやらで、一年後には自分でもはっきりと進歩が感じられる。 さて、そういうビジネス人に適当な教材がないかと、探していると、親友がヒントをくれた。NHKラジオの「やさしいビジネス英語」っていうのがいいらしいよ。 最初、私は半信半疑だった。単なる英会話じゃないのか。ビジネス人には内容的に物足りないのではないか。 ところが、試しに放送を聞いてみて、驚いた。 最高にいい!内容が非常に新しい。ビジネス現場が生き生きと再現されている。実際に使える表現が満載されている。講師の杉田敏氏に味がある。ネイティブパートナーの説明にもいちいちうなずく。 これしかない。これに決めた。故松本亨氏の「英会話」以来、久しぶりに感動するラジオ講座に出会った。 これを毎日聞く。タイマー録音しておくと、時間に縛られない。漫然と聞くだけではダメだ。声に出してリピートし、放送時間後には、何度も音読し、自然に口から出てくるまで練習する。ビニェットを覚える。 ポイントは、時間をかけない、そして集中すること。放送後10分あるいは15分という復習時間を決めると、それ以上はしない。たまに調子よくても、15分で打ち切る。 目標は「継続」。短時間で、楽しく、集中して。これを1年も2年も継続させる。まずは、この継続のクセをつけることが、成功の秘訣だ。 さて、この「やさしいビジネス英語(ビジネス英会話)」。プロで通訳をしているレベルの人たちにとっては、ほとんど新しく習う内容はないだろう。しかし、実は、現役通訳者にとっても、非常に役に立つ使い方がある。これについては、また次回。
先日、ABCの報道番組"Nightline"で、"unilateral journalist"を紹介していた。この単語は、軍の保護を受けずに独力で取材するジャーナリストを指す。また、"unilateral"一語で名詞としても使われる。軍隊用語。 In the days since this war began, at least two journalists have been killed and two more are missing. All were "unilaterals" -- military jargon for reporters who are traveling on their own, not with the troops. (ABC News Nightline 3/25/03)数日前、誤って米軍の攻撃を受け死亡した、英民放テレビ局ITNのリポーター、テリー・ロイド氏も「ユニラテラル」だった。軍による制約はないが、保護もないだけに、危険性が増す。 「ユニラテラル」とは反対に、軍の保護を受ける従軍ジャーナリストのことを、軍隊では"embed"と呼んでいる。アクセントは第一音節。 Embeds, who are always moving with the troops, work in a sort of military bubble. (ABC News Nightline 3/25/03)"Embed"は動詞で使われることもある。たとえば、"unilateral"について言及している数少ないWebページのひとつ、3月24日のopenpolitics.comに、次のような記述がある。 London Times war correspondent Christina Lamb is called a "unilateral" journalist because she is not "embedded."さて、この"unilateral"。まだ日本の新聞メディアなどでは、定訳のようなものを見かけないが、どう訳すのだろうか? 非従軍記者?独力取材記者?独立系ジャーナリスト? あるいは、アメリカの単独行動主義("unilateralism")にひっかけて、「単独行動ジャーナリスト」とでも訳すか? それにしても、他の人の言うことを聞かない現在のアメリカを連想させる、この単語。「軍に制約されずに取材したいジャーナリスト」を指す用語として、アメリカ軍が使っている。何とも皮肉っぽく聞こえてしまうのは、私の考え過ぎだろうか? (下線はすべて筆者による) 3月21日、22日のコラムでもお知らせしましたように、イラク戦争開始以来、メディアを中心に関連用語を拾い集め、"War in Iraq Glossary"として公開しています。ほぼ毎日追加・更新を継続していますので、お役に立てれば自由にご利用ください。新たに、注釈を省いて訳語だけを表示した簡略版も、htmlファイルとして掲載しています。 アクセス方法とパスワードは次の通りです。 「英語通訳の極道 Data Files」にアクセスし、指示に従って、ファイルを表示するかダウンロードする。 ユーザ名:gokudo イラク関連用語に関しては、放送通訳者の水野的氏が、ご自身のサイトで用語集を公開されています。(ここのページの3/26の記述参照) 現役トップクラスの放送通訳者がどのように用語を準備するか、非常に参考になりますので、ぜひご覧になることを薦めます。
だめだ。軽いコラムを書く気になれない。
"Slow down"という表現がある。「スピードを落とす、遅くする」という意味だが、"slow up"もまったく同じ意味になる。 長年の間溜め込んだ、英語表現に関するファイルから、時々おもしろそうなトピックを紹介していきます。 イラク戦争関連用語集 "War in Iraq Glossary"ですが、アルファベット順に並べ替えるとともに、内容をアップデートしました。 この用語集には、基本的に、出典が明らかな用語しか収録していません。自分が意味を知っていても、明記できる出典が見つからない項目は、削除するか空欄のままで置いてあります。 ソースはメディア(新聞、Web、テレビ)が中心ですが、少し辞書からも拾ってきました。 もし、間違いやご指摘、情報、リクエストがあれば、お知らせください。 アクセス、ダウンロードの仕方については、3月22日(土)のコラムを参照してください。サーバは自宅の古いマック上に構築してあり、たまに機嫌が悪い時もあります。もし上手くアクセスできない時は、また時間をおいてトライしてください。 現在、イラク報道の現場で通訳・翻訳されている方々で、訳語が見つからないのに調べる時間がないという場合は、メールでお知らせ願えれば、調査に協力いたします。
「イラク戦争」に相当する英語はいくつかある。現在、アメリカ、イギリスなどのメディアで使われている主なものは、 War against Iraqしかし、この戦争は、フセイン政権との戦い。イラク人民、あるいはイラクという国全体を敵にしている訳ではない。 というわけで、私が作成している「イラク戦争関連用語集」のタイトルを、 War in Iraqに変更した。 さて、その用語集、一日に一、二度最新版にアップデートしている。特にバージョン番号はつけないが、日付で区別。同じ日付でも、マイナーアップデートはありうる。もし、間違い、有用な情報があれば、ご指摘ください。 現在のバージョンは、"War in Iraq Glossary 030322" ファイル形式は、Excelに加え、ブラウザですぐ参照できるように、htmlもアップした。 利用するには、 (1) War in Iraq Glossary (html file)か、(2) War in Iraq Glossary (Excel file)をダブルクリックして閲覧,あるいは右クリックして保存。
戦争が始まってしまった。 イラク攻撃関係用語集をサーバにアップしますので、もしお役に立てれば、ご自由にダウンロードしてください。 (1) War against Iraq Glossary (Excel file)をダブルクリックして閲覧、あるいは右クリックして保存。
はぁ〜、痛いとこついてるねぇ。 オヤジって、見抜かれてるんだねぇ。若い女の子に。 都合よく解釈すれば、私の女友達は、あなたにはそんなオヤジにはなって欲しくない、と言いたかったのかもしれない。が、この言葉は、今でも重く胸に残っている。 という訳で、もしこのコラムで私が、「臭く」なり過ぎていたら、ぜひご指摘いただきたい。 ニオイのしないオヤジを目指します、できる限り。はい。 ところで、うれしいニュースがある。 先日、保証期間切れ直後に、液晶不良で修理に出したセイコーインスツルメンツの電子辞書、SR9200が戻ってきた。ちゃんと直ってる \(^o^)/ おまけに、何と、無料修理だった。 どういう事情で、無料にしてもらったのかは分からないが、これでセイコーの好感度が100ポイントくらいアップ。 メーカーのみなさん、ここですよ、ここ。大切なのは。顧客サービス。 ひとりのユーザが喜べば、こうしてWebでしゃべり、また10人の新しいユーザが生まれる。ところが、ちょっと手を抜いて評判を落とすと、100人の顧客を失う。 修理されてきたのはいいが、これからはもう少し注意して扱わなければならない。電子辞書は、剛性という点ではまだ、気軽にかばんに放り込んで持ち歩ける道具ではない。ノートパソコンと同じようなケアが必要だ。 そういえば、最近、同じくセイコーインスツルメンツからSR-T6500という電子辞書が発売された。 待望のCobuildと、リーダーズプラスが収録されている。英語学習者にはCobuildがありがたいし、現場の通訳者には、リーダーズプラスが重宝する。 外出のついでに、ヨドバシカメラでチェックしてきた。SR9200と同じような造りだが、さらに薄く軽くなっている。「決定」と「戻り」ボタンがメタリックになった。キーのクリック感は悪くないが、「入力漏れ」が生じる。つまり、カチッと打鍵音がしても入力されていない時がある。強めにキーを押さなくてはならない。私には、SR9200のキーボードのほうが使いやすい。 それと、液晶だが、店頭展示品は、縦縞状に表示欠落があった。私が修理に出したSR-9200と同じような不良。展示品は痛みやすいものだが、それでも、やはり液晶は弱点のようだ。 さて、買うかどうか。判断は難しい。ハードが改良されるのを待つか。しかし、ソフトは今すぐ役に立つ。定価48,000円というのが、決め手かな。 ところで、リーダーズには、電子ブック、CD-ROM、ソニーのデータウォークマン、そして、SR9200と、たった一つのコンテンツに10万円近い投資をしてきた。これって、同じコンテンツに何重にもお金を払っている訳で、何か納得できないと感じるのは、私だけか?
昨日、私の英語学習の原点が、故松本亨先生のNHK「ラジオ英会話」にあったという話をした。 実は、後年になって、この練習法が通訳訓練にも非常に役に立つ、ということを身をもって知るようになるのだが、これについて詳しくは、また機会を改めて。
以前このコラムで、英語は日本で学んだ、と書いた。 英語を学ぶ上で、最も影響力が大きかったものは何かとよく問われるが、躊躇することなく、故松本亨のNHK「ラジオ英会話」をあげる。 私は、この松本亨氏の「ラジオ英会話」を中学二年生の一年間、休むことなく聞いた。家族旅行にもラジオとテキストを持って行った。それは一番大切な日課だった。松本氏の番組は逃したくなかった。面白かった。味があった。 英語の発音だけをとれば、もっとネイティブに近い人がいるかもしれない。しかし、松本氏は奥が深いのだ。教材も人間味に溢れ、グイグイ惹き込む。 なかでも秀逸は、「ナンシー・アンド・ジョージ」。宗教が違う若い男女の恋愛・葛藤を描いた名作だった。英語を勉強しているというより、二人がどうなるのかを知りたくて、毎日が楽しみだった。20分があっという間で、終わりはいつも興奮の余韻に包まれて、夢から覚める。 松本先生は、私を英語の世界へと導いてくれた、人生の師のようなものである。 であった。 彼の番組は非常に人気があり、質問の往復葉書が、毎日何百と届いたらしい。彼は、そのひとつひとつに「手書きで」返事を書いた。私も、そういう手書きの返信葉書を、何枚か持っている。 たとえば、"dead"という単語は「死んだ」という意味じゃないのか?という中学生らしい内容の質問をしたとき、"in the dead of"や"dead end"はじめいくつかの例文を示して、分かりやすく説明していただいた。まだくっきりと記憶に残っている。 使用した「ラジオ英会話」のテキストは、渡米中保管場所がなくて、泣く泣く処分したが、手書きの葉書だけは、宝物として大切に保管してある。棺桶まで持っていくつもりだ。 中学2年の一年間真剣に聞いたラジオ英会話だが、しばらくして松本亨氏が退かれることになった。その後は、他の放送を聞いても、何だか物足りない、興味が涌かない。 これをもって、私もNHKのラジオ講座に別れを告げた。
だれにでも、初めての時はある。
通訳業界の大御所、水野的さんのサイトで、この雑文コラムを紹介していただいた。「ある通訳者の生活と意見」というコーナーである。持つべきものは大先輩。光栄です。 ところで、実年令は‥‥ そんなことはどうでもいい。ここは、そういう話をするサイトではない。(キッパリ) この人誰?誰なのよ?なんていう質問もしない。 知りた〜い、教えて〜って、気持ちは分かる。しかし、 詮索しない、考えすぎない。 世の中すべて、サスペンスが大切なのである。 サスペンス、そう、それこそ、このコラムのひとつの大きなテーマなのだ。 知らないことは、幸せなのである。 よろしいですか? 今これを読んでいる、あなた。詮索しない。 それはあなたと私との、暗黙の約束事ですよ。 絶対に破らないで下さい。 くれぐれも。忠告しておきます。 もし、万が一その約束を破った時は‥‥ 一週間後にあなたの部屋のドアをノックする音がしても、決してドアを開けてはいけません。 って、いろいろ書いてることを辿っていけば、何となく浮かび上がってくるんだよネ‥‥ おお、こわ ^^; 先日、「山の音 Redux」で、「文章を書くとき、著者などの人物を指すのに、敬称ってつけるんだっけ?」という質問をしたところ、早速、メールでアドバイスをいただいた。 結論としては、物故者は敬称なし、存命中の人には敬称をつける、というのが一般的なようだ。ただし、文章を書いている人と文中の著者とが、立場的にあまりにも離れていたり、物故者と存命者を並べて書くような場合は、全部に敬称をつけないことが多い、というご指摘だった。 Rさん、どうもありがとうございました。さすが、プロですね。 いや本当に、ネットの力には感謝。多くの知恵が結集されて、疑問の解決が早い。 さて、今日のコラムだが、しばらく前に、一瞬だけ別の内容をアップした。しかし、読み返してみると、文章が未熟で、誤解を生みかねない。やはり、顔が見えない、人柄が分からないネットでの発言。意図せずに不快な思いを与えてはいけないということで、とりあえず削除した。よく推敲した上、後日あらためて同じトピックで掲載したいと思う。
私は、通訳エージェントに登録していない。 社会常識が欠如してたのね、アメリカボケで。中年営業マンの対応も、今なら理解できないこともない。 でも最近そろそろ、エージェントを避けては通れなくなった。ビジネス会議や取材・イベントなどの通訳だけではなく、国際会議やメディア通訳など、トップクラスの通訳に挑戦しようと思ったら、エージェントから逃げているわけには行かない。 どうしよう、登録しに行って、またあのオヤジが出てきたら‥‥
衝撃的な出会いだった。ジャック・プレヴェールにはじめて出会ったのが、小笠原豊樹訳の「バルバラ」だったのは、運命的というほかない。 高校時代、まだ文学青年の雰囲気に憬れて、甘ったるい詩や短歌などを書いては、ひっそりと机の奥に隠し溜めていた私は、駅前の本屋で偶然、創刊されたばかりの、やなせたかし氏編集の「詩とメルヘン」を手にした。 やなせ氏の詩とイラストは、ちょっとメルヘンチック過ぎる嫌いもあったが、当時、現実逃避願望が強く、小さな幸せが満ちた、ふわふわした想像の世界にどっぷり浸っていた私の心に、強く共鳴した。 また、怪しい輝きを放つ味戸ケイコ氏のイラストには、魂全体を魅了され、絵が下手であるにもかかわらず、鉛筆書きを丁寧に消しゴムで消してまぶしい光を演出する、という手法を真似して、文庫のカバーや授業中のノートに、下手なイラストばかり書いていた。 そんなメルヘンの世界に混じっていたのが、ジャック・プレヴェールの詩のいくつかだ。 わたしはわたし いつでもこんなよこういう出だしではじまる「わたしはわたし」には、まったく今まで知らなかった女性のタイプを、はじめて読んだ。 好きなものには ウィといい「劣等性」には、自分を重ねた。中年夫婦の倦怠を描いた「朝の食事」にも、何故か人生の真実を嗅ぎ取って共感した。 プレヴェールの詩は、心の奥底にある何かを激しく揺さぶった。詩を読んでこれほど感動したのは初めてだった。 なかでも「バルバラ」は、読んだ途端、涙がこぼれ、まるで自分も戦争の悲劇の中に、呆然と立ち尽くしている錯覚さえ覚えた。 ジャック・プレヴェールとはいったい何者なんだろう?ぜひもっと読んでみたい。 それから、彼の詩集を探しあるいて、神戸から大阪まで阪神間の本屋を巡る旅が続いた。 まだ高校生の私はフランス語を知らなかった。勉強している余裕はない。日本人による翻訳を探した。 ところが、詩とメルヘンに掲載されていた小笠原豊樹氏の翻訳本は、どこにも見当たらない。 何軒かを回ってやっと嶋岡晨訳の「プレヴェール愛の詩集」を見つけた。表紙を開けるのももどかしく、「バルバラ」を探す。 思い出してごらん バルバラ「ごらん」? 「しきりに降っていた」? 感動が涌かなかった。同じ詩を読んでいるのに、小笠原豊樹訳を読んだ時に感じた衝撃が、まったくない。力強さが感じられない。 「これは、俺が探し求めていたプレヴェールではない」 また、本屋巡りをはじめた。 やっと、北川冬彦訳が見つかった。現代国語の授業でも名前を聞いたことがある、有名な詩人だ。期待に胸弾ませ、ページをめくる。 思い出しておくれよ バルバラ「思い出して‥‥お、おくれよ?」 失望は隠せなかった。これも違う。俺のプレヴェールではない。 その後、どの本屋を回っても小笠原豊樹に出会わない。 そうこうしているうちに、大学へ入学。ほとんどの級友は第二外国語にドイツ語を選択する中、私はフランス語を選んだ。プレヴェールを、バルバラを、自分の力で読みたい、たったそれだけの理由で。 その後、フランス語でバルバラを読んだかって? 「優」しか出さないという伝説のフランス語教師、仏(ホトケ)のホンダの授業で、人類史上初めて、「不可」をもらう学生となってしまった。 そのホトケのホンダ先生。カッコよくて、ちょっとエッチ。 だって、 なんて、変な冗談言うんだもん (*^_^*) 先生はニヤリと、したり顔。学生は、シーン。みんな引いていた‥‥。 そのホンダ先生、私を哀れんだのか、プレヴェールに関する自分の論文のリプリントと、イヴ・モンタン朗読の「枯葉」のテープをくれた。このテープは、今でも私の宝だ。 その後アメリカに留学した時、ニューヨークに行って真っ先にやったのが、フランス語専門の本屋で、プレヴェールの「パロール」という詩集を買うことだった。 喜び勇んで、朗読する。 ラアペル…トワァ…バールバラ 私の発音のあまりの素晴らしさに、そばにいた女友達が、腹を抱えてひっくり返って笑った。 後日談として、とても残念なことがある。長い留学中家族に預けておいた「詩とメルヘン」創刊号からの数冊。人生でもっとも大切な宝の一つが、消失し行方不明になってしまったのだ。 ああ、青春よ、甘くてべっとり、勘違いの連続だった、俺の青春よ どこで迷子になってしまったの? 文中、小笠原豊樹氏、北川冬彦氏の翻訳は、手元に原本が存在しないため、記憶の中から引用したものです。もし、間違っていればご指摘ください。 また、小笠原豊樹訳の「プレヴェール詩集」、および「詩とメルヘン」の創刊号からの数冊をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご連絡ください。一体、何十年捜し歩いていることか。
昨日の夕方、携帯に電話が入った。知り合いの広告代理店だ。 普通、こういう状況が予測できれば、そして、外国人(あるいは日本人)のグループがひとりないし二人の少人数なら、外国人の隣に座って、日英はウィスパリング、英日は逐次というパターンが一番混乱が少ない。もし、受発信機システム(パナガイド等)があれば、片方向あるいは両方向を同通でやる。 今回は、成り行き、時間的制約、代理店・クライアント間の遠慮などの要素が絡み合って、ちょっと恐れていたパターンになってしまった。ただ、ビジネスの現場じゃ、この程度の悪条件、ぜんぜん珍しくないんよね。 なんだかんだ言いながら、3時間しか寝ていない頭をフル回転させて、ようやく会議も終了。部屋を出る前に、外国人幹部が、ニコッとして、 "Thank you. Thank you." それを聞いて、ホッとする。 代理店の人たちからも丁寧に感謝され、ちょっと恐縮。この人たちと一緒に仕事をするのは楽しい。戦略、クリエイティブ、メディア・ミックス。わくわくする。 会議が終了するなり、駅に直行。通勤ラッシュに巻き込まれる前に、ペットボトルの温かいカフェ・ラテと梅干のおにぎりを買って、新幹線に飛び乗った。 もちろん、これもレールスター ^^)
閑話休題: ところで、文章を書くとき、著者などの人物を指すのに、敬称ってつけるんだっけ?「さん」だとか「氏」だとか?普通、著名な作家、著者、政治家などには敬称をつけていない気がするんだけど?「川端康成さん」ていうと、隣のおじさんみたいだし、「川端康成氏」っていうのも、なんか同時代の一般人みたいで違和感がある。やっぱ、有名人は、敬称なしで「川端康成」ってのが一番ぴったしくるんだけど‥‥。サイデンステッカー氏はどうなんだろう?どうも、呼び捨てにすると怒られそうな気がして ^^;。それに、違和感がない。まだ、ご存命だし。文章作法に詳しい人、教えて下さい。 さて、その「山の音」。小文を読んだ知り合いの翻訳者が、マーク・ピーターセン著「続日本人の英語」にあった日英比較を思い出した、と感想を書いてきたので、久しぶりにピーターセン氏の本を開けてみた。そこで、ビックリ。 なんと、マーク(なんで呼び捨てやねん ^^;)、「山の音」のサイデンステッカー訳を読んで感動し、それがきっかけで、日本文学を志したと書いているではないか。 すっかり忘れていた。というか、記憶に残っていなかった。彼の本はぜんぶ愛読したんだけど‥‥。そうだったのか。 実は、私が「山の音」を手に取ったのは、故仁平和夫氏の論文集を読んで、非常に面白かったからだ。不勉強な私は、それまでこんなに素晴らしい翻訳者の存在を知らなかった。たまたま、山岡洋一氏の「翻訳通信」(http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/index.html)サイトを訪れて出会ったのが、幸運だった。 仁平氏は、川端康成の日本語らしい日本語と、サイデンステッカー氏の定評ある英語訳を比較して、いろいろと考察を加えているのだが、これがとても説得力がある。 そこで、私も、「山の音」と"The Sound of the Mountain"を材料に、素晴らしい日本語と素晴らしい英訳の勉強をしようと思い立った次第。もし、テキストを日英ともデジタル入力して、対訳をExcelなどで表示すれば、非常に使いやすくなるんだが。グループの勉強会でも作ればともかく、ひとりではできない‥‥。 もし、まだ仁平氏の論文を読んだことがない人は、是非一読を。 いや、目から鱗が落ちます。 「翻訳通信」サイトには、この他にも、翻訳について興味深い内容がどっさり盛り込まれているので、翻訳の勉強をされている方は、是非一度覗かれることをお薦めする。ちなみに、私はこのサイトとは何の関係もない単なる通りすがりの者で、山岡洋一氏ともまったく面識がないことを、ひとこと断っておく。
ところで、このコラムを書いている、Taro Who?なる人物。一体何者なのか? そういう背景から、英語やアメリカのことについて尋ねられることが多い。 長くアメリカにいたということで、「帰国子女ですね」と言われることがある。 うーむ、「子女」ではない。アメリカに渡ったのはもう20代になってからだ。言語的にも文化的にも、「子女」になるには遅すぎる。もうしっかり、日本人としての自分ができていた。 帰国「子女」は、12〜3才までの言語能力形成期に、日本以外の国でまとまった時間を過ごした人のことを指す。 しかし、「帰国」組には違いない。実際、多くの帰国子女よりも外国生活は長い。それも、アメリカ文化にどっぷりつかって生活していたという事実を考えると、限りなく帰国子女的要素はある。 そこで私は、独自ジャンルを創設し、自分のことを「帰国オヤジ」と称している。 短期間の旅行・滞在者では、帰国オヤジになれない。もっと深く異文化で根を張って生活する必要がある。 それでも、英語やアメリカ文化はあくまでも、第二言語であり第二文化である。まったくのドメ(国内産)でもなく、英語ネイティブに限りなく近い帰国子女とも違う。帰国オヤジとは、ちょうどその中間くらいの、やや物悲しい存在だ。 ある年齢の大人になってから外国で長く生活し、その後日本に戻って来た人たちは、程度の差こそあれ、私と同じような経験をしているだろう。 ただ、私は中学生の頃から英語が好きで、ラジオ・テレビやテープ、新聞・雑誌などで生の英語によく接していた。 だから、大人になってから外国語を習得した平均的な人たちよりも、少しばかり英語の「勘度」が磨かれていた。 そういう意味では、普通の海外駐在帰りのおじさんたちよりも、多少は自然な英語が身についている。 それでも、やはり帰国子女のようにネイティブ並みにはなりきれない。そういう悲哀も、「オヤジ」という言葉にはこめられている。 帰国オヤジはトンボだ。何でもかんでも複眼を通して見る。 なまじ外からの視点で日本を見る習慣があるので、日本や日本人を観察していて、落胆することも多い。 しかし、精神の根底にはどっしりと日本人の魂が座っている。日本を馬鹿にする外国人を前にすると、まるで明治生まれのサムライのごとく、日本を弁護している自分に気が付く。 どこに行っても気が抜けない。 一方、わが身のおかれた状況を振り返れば、日本では今だに、やれアメリカナイズされているだの、変な日本人だと言われて、落ち込むことも少なくない。 外国に住めば、肌の色が違う、文化が違う、価値感が違うということで、疎外感を感じる。 コウモリの心境がよく分かる。 この落差は、まだあまり日本を知らない若い帰国子女達よりも、二つの文化の狭間で苦悩を重ねてきた、帰国オヤジのほうが大きいだろう。 つまり、私は、どこに行ってもキガヌケズ、日本の心にいつまでもコダワリ、異文化に囲まれてクノウする、 「キ・コ・ク・オヤジ」なのである。
さて、前回、"Let's enjoy your life."という、変な広告看板の話をした。 そう、英語が(あるいは日本語が)「自然かどうか」という一瞬の判断は、こういう「感覚」で決まる。その表現(あるいは表現パターン)を聞いた、見た、「原体験」の積み重ねがあるかどうかで決まる。その表現が「文法的に正しいかどうか」というのはまた別問題だ。 もし、"Let's enjoy your life."という看板を見て、こそばゆく感じるどころか、正しいのか間違っているのか考え込んだとしたら、あなたはまだ、「人生は楽しく行こうぜ」という状況での英語を、十分に体得していないことになる。理屈じゃない。感覚の積み重ね。 英語を、使って身につけていれば、ある状況を述べる時、似たような状況で体験した表現が「自然と」口から出てくる。 こういう話をするとすぐに、あなたは外国にいたからだ、という反論が返ってきそうだが、英語らしい英語とは、特に外国に行かなくても、相当レベルまで日本で学べるものだ。私も日本で英語を学んだ。アメリカでは仕上げをしただけ。そして、すべて「実体験」しなくても、「疑似体験」も「原体験」として有効である。 "Let's enjoy your life."のような英語が氾濫する――ひと昔前に比べて現在はかなり改善されたと思うが――のは、日本人の多くが、英語の「ルール」を知識として「学び」、日本人の論理・感覚で英語を組み立てようとするからだ。 これは、予備校などの受験英語勉強法の典型である。「先行詞が人だったら、who。モノだったら、which。最上級や序数詞がつけば、that」なんて考えていたら、会話が進みませんがな。コンマ何秒の判断、いや、反射神経で出てこないと。 そのためには、文法は文法として理解したら、例文というか、実際に使われている文章に大量に、厖大に接して、じわじわと体に浸透させ、とことん覚えこませる必要がある。これについて詳しくは、また別の機会に。 なんだかんだ書いたけど、この話は、最近の私にとっても切実なのね。日本で漫然と生活していると、英語もどんどん変な影響を受けてきちゃって。そこら中に氾濫する怪しい英語が、堂々と「原体験」に入り込み、感覚を麻痺させ、見ても聞いてもおかしく感じなくなってくる。相当ヤバイ。まだ、修行が足らんわい。
数年前に長い海外生活から日本に帰ってきた時、良きにつけ悪しきにつけ、どこを見渡しても驚きの連続だった。 さて、日本で出会った変な英語たち。 たとえば、大阪の繁華街で見かけた大きな屋外広告。 "Let's enjoy your life." なんで「私があなたといっしょに」、「あなたの」人生を楽しまなくちゃならないの? 多分「人生を楽しもう」と言いたいのだろうが、それなら、"Let's"なしで、"Enjoy your life"くらいにすればいいのに。 ちなみに、インターネットで"Let's enjoy your life"を検索してみるといい。ヒットするのは、おそらく日本人のサイトばかりだ。 なぜ、こういう英語がまかり通るのか? それは‥‥ ‥‥また次回。
週刊STという英語学習者向けの新聞がある。その2月21日号に、ひとりの読者が興味深い質問を投稿していた。 井上一馬氏が書いたある英語学習書に、“It's regretful that you lied to her.”という文があるが、“regretful”ではなく“regrettable”を使うべきではないか、という内容。 これは至極的を射た質問で、読者の指摘通り“regrettable”が正しい。 両者の使用法の違いは、接尾辞“-able”と“-ful”の意味を考えればすぐに分かるはずだし、正しい英語にたくさん接していれば、“It is regretful that...”という文章には違和感を持つはずだ。しかし、実際は英語ネイティブでも混同して使うことがある。 ちなみに、
こういう間違いは、英語学習書、特に日本人が書いたものにはしばしば見られる。しかし、専門家でも間違うことはあり、それ自体大騒ぎすることはない。問題は、次に続く質問内容の後半だ。 質問者が出版社に問い合わせると、数人のネイティブがチェックしているので英文は間違っていないと著者から回答があった、という返事が返ってきたらしい。 間違いを指摘されてもすぐに訂正しないどころか、「ネイティブが大丈夫と言っているから」という理由だけで自説を正当化する。 もしこれが事実なら、語学教育者、著者としては失格ではないだろうか。また、もしまだ本気で自分が正しいと信じているとしたら、こういう人から習う英語は、はなはだ怪しいと言わざるをえない。 英語ネイティブといっても、100%正しい英語を使っているとは限らない。それどころか、よほど高い教育を受けた人か、言語に対する造詣が深い人以外は、しばしば間違った英語を使う。日本人だって、平均的な高校生や大学生の日本語をお手本とはしないだろう。 井上一馬氏って、たまに書店でめくってみると、内容的にはおもしろい本も書いていたと思うのだが、、、。 (文中、太字はコラムニストによる)
川端康成 著 「加代がね、帰る二三日前だったかな。わたしが散歩に出る時、下駄をはこうとして、水虫かなと言うとね、加代が、おずれでございますね、と言ったもんだから、いいことを言うと、わたしはえらく感心したんだよ。その前の散歩の時の鼻緒ずれだがね、鼻緒ずれのずれに敬語のおをつけて、おずれと言った。気がきいて聞こえて、感心したんだよ。ところが、今気がついてみると、緒ずれと言ったんだね。敬語のおじゃなくて、鼻緒のおなんだね。なにも感心することはありゃしない。加代のアクセントが変なんだ。アクセントにだまされたんだ。今ふっとそれに気がついた。」と信吾は話して、 「敬語のほうのおずれを言ってみてくれないか。」 「おずれ」 「緒ずれのほうは?」 「おずれ」 「そう。やっぱりわたしの考えているのが正しい。加代のアクセントが間違っている。」 (太字はコラムニストによる) この文章を英訳するにあたっては、二つの点で苦労する。 第一に、「おずれ」という単語には、二つの同音異義語の解釈が可能だということ。どちらも擦り傷を意味するが、敬語「お」がついた「おずれ」と、鼻緒を意味する「緒ずれ」の二通り。 第二に、敬語の「お」が持つ響きをどう表現するか。 ここで、サイデンステッカー氏の英訳を見てみよう。 The Sound of the Mountain Translated by Edward G. Seidensticker (太字はコラムニストによる) サイデンステッカー訳では、「おずれ」と「緒ずれ」を“footsore”と“boot sore”という二つの単語で韻を踏ませ、上手く表現している。 しかし、敬語の「お」が醸し出す古風で上品な言葉選びのセンスは、どこにも見当たらない。これでは何故信吾が感心したのか、加代の気がきいていると思ったのか、まったく理解できない。こういう微妙な味わいこそ、川端康成の真骨頂だと思うのだが、さすがにここまで英訳に盛り込むのは至難の業なのだろう。 また細かいことだが、「水虫」を“ringworm”と訳している。“Ringworm”は、足にできる水虫というより「田虫」「白癬」を指すので、言葉から受けるイメージが微妙に違う。 さらに、あまりケチをつける気はないが、“boot sore”(ブーツによる靴擦れ)から連想するイメージは、下駄の鼻緒による擦り傷とは多少ずれているのでは。 ちなみに、サイデンステッカー氏は、信吾が(靴ではなく)下駄を履いていたという事実には、まったく触れていない。多分、“foot”と“boot”で原文の韻を伝えるとまず決め、それに則って、下駄という事実を削除し、表現が難しい敬語の部分を省略したのだろう。 さて、サイデンステッカー氏の名訳について、畏れ多くもいくつかの指摘をしたわけだが、
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