ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

暴発 - 2004年04月01日(木)

夫が会社に馴染んでいくにつれ、夫との距離は広がっていった。彼は私という「コネ」を最大限に生かし、酒宴やゴルフで着々と人脈を増やしていった。しかし、家では殆どお互いに口をきかない状態が続いていた。
既に気遣いも思いやりもない。夫が会社に落ち着くことが、せめてものこれまでの感謝の表現であり、それ以上は何も望んでほしくなかった。
以前はオールイーブンだった家事と支出のバランスが崩れていたが、既に修正する気力もなかった。嫌われても怒られても何も感じなかった。本当に「どうでもよかった」のだ。

本当はずっと前に気付いていたのだ。出遭った頃に感じた「これまで異性に感じなかった安心感」の出自が、彼のいわゆる「良くも悪くも女性的」な資質にあったことは。裏表のバランスやヒステリックな酔い様。神経質で粘着質な言動の数々。金銭に対する細かさ。劣等感。これ以上挙げるとフェミニストに殺されそうな性質がそれを物語っていた。
そしてこの日記では敢えて言外に語ってきたことについて。異性ではない、すなわち肉体的関係を持たない夫婦生活を結婚以来続けてきたこと。これが親との口論の中で露呈してしまったことが第一のきっかけだった。太いロープに編みこまれた最初の一本の糸が切れてしまったのだ。

一本切れると次の一本。なんて簡単にバラバラと解けていくのだろう。それからはもう言動のすべてが無法地帯。これまでの辛抱はどこへいったのかが不思議だった。
もちろん自分なりに必死に生きてきた道程の一部である夫婦という形が、次々に簡単に壊れていく様を見るのは心地よいことではない。例え自分の手でそれを切り離したのだとしても。
毎日お酒を飲んで帰って、上司の悪口を3時間以上正座させられて聞かされるのが嫌。仕事とゴルフの話以外、何も話さないのが嫌。酔って他人に迷惑をかけるのが嫌。私の給料なのに銀行残高をチェックされるのが嫌。お風呂の水を替えてもらえないのが嫌。挨拶の電話も母の日や父の日のプレゼントも嫌がる人間嫌いの義父母が嫌。
途中からは口にするのも諦め、氷の心を抱えたままだった。

しかし私の中で決定的だった出来事は、意外にも他者によって齎された。夫の姉が私の両親について注文をつけた一言が、私にはどうしても許すことができなかったのだ。私についてなら何を言われてもいいが、親のことは別だ。
この時、最後の糸がぷつんと音を立てて切れた。私はもう我慢しなくなった。修復しようという気は最早どこにもなかった。

その日から、夫という名の人間と真摯に対峙することをやめた。

だからといって何か行動を起こすほどの気力もなく、虚無とはこういうことかと日々心の空洞を見つめながら過ごしていた。この状態から逃げ出せる夢を見ては、そんなことは有り得ないと自嘲して鼻で笑っていた。
虚しさに向かい合って、いつ止まるか分からない心臓を抱えて生きる。これが私の人生なのだと。

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