ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

衝撃 - 2003年10月30日(木)

夫は入社後、順調に業務をこなしているようだった。これまでの職歴と経験が重宝されたのと、唯一の趣味であるゴルフに誘ってくれる仲間がたくさん出来たことが良かったようだ。
幸か不幸か、私は社長を筆頭に役員や経営幹部に知り合いが多い。我が社では年間数十人の中途採用者がおり、なかなか全員を覚えるのは難しい。しかし彼の場合、私の夫だという噂が社長を出所として徐々に広まった。実際ゴルフや麻雀がそこそこの腕前だということで、今尚そちらの方面でも重宝がられているようだ。

かくしてほんの少しずつではあるが、彼の体調は上向きに動き始めた。相変わらず仕事に対する愚痴は多かったが、結局は何処にいても不満が蓄積するタイプなのだ。多少の愚痴でストレスが解消されるならそれに越したことはない。私が我慢すればいいだけのことだ。
しかし慢心は危険である。この頃の私は油断していた。突発的に生じる危機的状態へのガードが甘くなっていたのだ。

私が発症したきっかけ、もう10年も前に付き合っていた男は、今は同じ部の幹部職になっていた。彼が驚きの結婚をしてから随分経っていた。結婚後まもなく、かつての同僚だった奥さんは仕事を辞めていた。相変わらす一人の女では満足できない性癖は治っていないらしく、関連部署の後輩や、直属の部下の女の子との噂が絶えなかった。
私が所属部署で主催するゴルフコンペの幹事に任命され、各人のスケジュール調整に東奔西走しているときだった。決して大袈裟な表現ではない。営業マンが80人ともなると、調整には大変な労力を要する。やっとの思いで彼を捕まえ出欠を問う。彼はこともなげに言った。
「ああ、その日はカミさんの出産予定日だから行けない」

脳天に火花が飛んだ。ビリビリという音が聞こえた気がした。勿論、彼はとっくに忘れているだろう。10年も前の話なのだから。
あの時、私がもう二度と子供を生めないと医者に宣告された時、彼は言った。私一人を傷つけて本当にすまないと思っている、自分も将来子供は作らない、一生共に罪を背負い、失った二つの命を忘れずに生きていく、と。
無論その言葉をまともに受け取っていた訳ではない。その場限りの慰めだと分かっていた。それでも心の片隅に留まっていたということは、どこかで彼の最後の良心を信じたかったのだろう。
結局、私はまだまだ脆く甘いしみったれだったのだ。自分が子供を生めない苦しみ、夫に対する永劫の罪悪感、申し訳なさ、様々なことが心の中でグルグルと渦巻いた。

やっとの思いで自制して動揺を押し隠して、「了解!じゃあ次回のコンペはよろしくね」と口にするのがやっとだった。彼は笑顔で「幹事お疲れさん。頑張れよ」と手をあげた。その表情はまぎれもない父親になる喜びと自信に満ち溢れていた。
フラつきながら自席に戻り呼吸を整えた。大丈夫。大丈夫だ。こんなことくらい。分かってたことなんだから。PCの画面に集中しようとしたが、なかなか焦点が定まらない。落ち着こう。今更悲劇のヒロイン気取りじゃあるまいし。これくらい何だっていうんだ。大丈夫。落ち着かなければ。でも息が乱れる。苦しい。苦しい。眩暈。吐き気。耳鳴り。そして背中から後頭部にかけてやってくる、あの感触。

私は椅子に座ったまま真後へ倒れた。久しぶりの大きな発作だった。

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