風太郎ワールド
2003年03月31日(月) |
Shock and Awe |
この日のコラムは、Taro Who? presents: 「英語通訳の極道」に転載されました。
2003年03月30日(日) |
真珠湾 vs. 広島・長崎 |
前回、イギリス人教授およびアメリカ人教授の講演を聴いて、原爆投下をはじめとする歴史認識に、ギャップを感じ始めたという話をした。
この疑問は、実際に夏合宿で10人以上のイギリス・アメリカ人知識人と討論をして、ますます強くなった。どうもほとんどの人は、普段は表立って言わないが、広島・長崎の話しかしない日本人に、不満を持っているようなのだ。
その頃の私は、大学のクラブ以外でも英語で議論する社会人の集まりに参加していた。そこでも、原爆や核兵器問題の議論はするが、ドレスデンやフィリピンが話題にのぼったことはない。
そういう疑問を抱えている頃、アメリカに渡った。そして、驚いた。
アメリカ人の多くは、日本への原爆投下を正しい選択だったと考えていた。終戦から35年経ってもまだ。
それまでの私はナイーブだった。原爆使用は悪だという考えには議論の余地がない、世界の共通認識だと思い込んでいた。戦争中の経緯はいろいろあるとしても。ところが、アメリカ人の過半数は、広島・長崎への原爆投下を善としている。
それどころか、アメリカは、キューバ危機やベトナム戦争で、原爆使用を真剣に検討した。ニクソンはロシアに中国への原爆投下を持ちかけている。
また今、イラク戦争に突入し、万が一戦闘が長引き、米英の戦死者が数千人単位にまで増え、戦況が不利になった場合、勝利を至上命題とするブッシュ政権が、戦術核兵器を使用しないという保証はない。
原爆の善悪に対して、日本人とアメリカ人の間では、意見の違いだけでなく、善悪の判断、価値観が根本的に懸け離れている。その事実をはじめて知って、まだ20代前半の私は、世界観を根本的に覆されてしまった。
さらに衝撃だったのは、日本の真珠湾奇襲攻撃に対する根強い怒り。建前の服を脱いだ時にアメリカ人たちが見せる、剥き出しの嫌悪感。誰もが知っている、"Remember Pearl Harbor"。
パール・ハーバーのインパクトがこれほど大きかったとは、日本では想像もできなかった。
さて、そうしたアメリカ人の原爆感や真珠湾に対する憎悪。賛成はしないものの、何故そうした感覚を持つのか、少しは理解できた頃、ちょうど日本へ一時帰国する機会があった。
私は、久しぶりに古巣の討論会へ顔を出し、仲間の議論に加わった。そして、いつものように二次会へ繰り出し、日本語でも議論が盛り上がっている時に、ちょうど原爆・真珠湾という話題が出てきた。
私は、どちらに味方するでもなく、アメリカ人と日本人の感覚には相当ギャップがあるという話をした。アメリカ人は今だに、広島・長崎への原爆を正しかったと考え、真珠湾奇襲は歴史上もっとも卑劣な行為のひとつであり、太平洋戦争では100%日本が悪者だと考えている。
すると、会の常連から猛烈な反論があった。私は一方的に攻められた。お前は、アメリカに行ってかぶれてしまい、アメリカ人の味方をするように成り下がった。真珠湾は、ルーズベルトの策略だという証拠もある。悪いのは日本だけではない。日本は原爆投下の被害者なのだ‥‥。
「議論」にならなかった。まるで、私は敵国の差し金であるかのごとく、何を言っても感情的反論しか返ってこない。
日本人であるはずの自分だが、この居心地の悪さ。悲しかった。世界の問題を議論するはずの知性派の仲間でさえこの反応だ。
アメリカでアメリカ人に、原爆投下は正しかったと思うかと問えば、半数以上がイエスと答える。戦争が早く終わった。アメリカの若い兵士達が無駄死にしなくてすんだ。日本人は狂気に満ちており、原爆でも投下しないと投降しなかった。云々。
彼らの前で、いかに広島・長崎の人たちが苦しんだかという話をしても無駄だった。可哀想なことだったが、戦争では仕方がないことだ。広島・長崎以外にも多くの市民が戦闘で亡くなることはよくある。
話がかみ合わない。同じだけの事実を前にしても、日本とアメリカのこの認識の差は何故なのだ?日本にいても、アメリカにいても、真実はどこか違うところにあるような、もどかしい気分になる。疎外感を感じる。
「広島・長崎を思い出してください」と訴えかければ、日本人なら、原爆の悲惨さ、被爆者の苦しみを思い浮かべ、決して核兵器を使ってはいけないと誰もが考えるだろう。
ところが、アメリカ人の多くは、原爆のおかげで戦争が終わった、必要なら核兵器使用も辞さないという、肯定的感触を持つ。
根本的な歴史認識で生じる平行線。このなんともしがたいギャップは、どうしたら埋めることができるのだろうか?そもそも、埋めることができるのだろうか?
イラク攻撃を巡る賛否。どちらの側も自分こそ正義と信じている。判断の材料となる事実にそれほどの違いはない。にもかかわらず、話が噛み合わない。前回、そういう話をした。
議論の土俵に上がれない。こういう溝の深さを初めて感じたのは、もう20年以上も昔。
日本の大学で、英語を勉強する一環として、英語クラブに所属していた。しかし、日本人だけで英語を練習しても本物ではない。そこで、最大の年中行事である夏合宿に、英米出身のネイティブの人たちを10人以上も招待して、英語の教えを請うたことがある。
皆、大学の教授や講師などの知識人。単なる英語の反復練習やスピーチの審判だけではもったい。ということで、いっしょに討論に参加してもらうことにした。合宿前には、二人の教授に講演も依頼した。私が提案したトピックは、「広島・長崎への原爆投下」。
実は、この講演が、その後私の考え方を根底から揺すぶる、長い葛藤の始まりとなろうとは、まだ知る由もなかった。
イギリス人の教授は、ひとしきり原爆投下を批判した後で、真っ直ぐに聴衆の目を見つめ、静かに語りかけた。
日本は広島・長崎のことしか話さない。しかし、大量虐殺があったのは日本だけではない。ドレスデンのことを何故日本人は話さない。
恥ずかしながら、当時私はドレスデンの大爆撃の事は詳しく知らなかった。また、日本で教育を受けてきた範囲では、広島や長崎に原爆を落とされ、東京大空襲を受けた日本は、先の対戦の「犠牲者」の一つだという、根拠のない印象を持っていた。さらに、日本は唯一の原爆被爆国、世界中から同情されているはずだと、非常にナイーブに思い込んでいた。
そこに、初めて聞くドレスデンの話。イギリス人の教授と私の間には、無視できない温度差が存在する。足元の地面が少し揺れたような、落ち着かなさを感じた。
もう一人の講演者は、アメリカ現代史専門のアメリカ人教授。フルブライト交流プログラムで来日2年目。非常に進歩的で、ニューレフトと呼ばれた。幅広い見識から、原爆投下決定に到った、アメリカ国内および国際政治でのさまざまな駆け引き、思惑などについて話をしてくれた。その教授が、講演後いっしょに帰る途中、思いもかけぬ話題を持ち出す。
「いま、とても興味深い本を読んでいる。太平洋戦争の時、日本兵がフィリピンの住民に対して残虐行為を行った。それを心理学的に分析しているんだ。ところで、君に聞きたいのだが。こうして私が接している日本人は、普段は非常に平和を愛し、おとなしい。なのに、何故フィリピンではあれほどひどいことをできたのか、君はどう思う?」
私は不意をつかれて何も言えなかった。というか、フィリピンで日本兵が何をしたかなんて何も知らなかった。
この合宿をきっかけに、私は、どうも日本人の間で共有されている歴史認識と、その他の国の人たちの認識には、かなりギャップがあるのではないかと思い始めた。
それと、日本の学校をはじめ、我々が習う歴史に関する情報には、ぽっかり抜けている部分がある、というか、必ずしもすべての知識が網羅性を持って伝えられているわけではないらしい、ということに気付かされた。
その頃の私は‥‥
―― 続く ――
2003年03月21日(金) |
Benevolence |
ここ数日、このコラムも多少まじめな論調になっている。現在、世界が、そして日本が置かれた状況を考えれば、日常生活に埋没して、無視を決め込む気持ちになれない。
ということで、もし、堅苦しい話題が苦手だという方がいらっしゃれば、しばし、読み飛ばしていただきたい。
* * * 正義論は別として、私が一番胸を痛めるのは、多くの読者のみなさんと同じく、戦渦に倒れる、罪もない人々である。もう20年以上も戦争に翻弄されてきたイラクの民。疑問を持ちながら戦場に赴いた若い兵士。
人間の盾としてイラク入りしている日本人の方々もいらっしゃる。非常に立派な行動だが、彼らの安全も危惧している。先日、イスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたアメリカ人の活動家もいた。盾として志願した方々は、命を失う可能性が現実のものだと、理解しているのだろうか?
私なら、この段階でイラクには行かない。日本では、「人命は地球よりも重い」という考えが通じるかもしれない。アメリカでは、犯人逮捕のために人質が死ぬのもやむえない。"Collateral damage"なのだ。
* * * アメリカは、大きな振り子のような社会だ。ひとつの極端からもうひとつの極端へ、何年かごとに大きく振れる。
クリントン時代の8年は、今とはかなり雰囲気が違った。内政、経済、テクノロジーなどが大きな関心事で、たまにメディアが騒ぐのは、大統領の不倫事件。
国連支持のないイラク攻撃が決定された時、アメリカのロバート・バード民主党上院議員はこう嘆いた。
"No more is the image of America one of strong, yet benevolent peacekeeper..."
"Benevolence"――優しくて公正
そう、それこそが、私にとって、アメリカに感謝し、アメリカというリーダーを信頼しえた理由だった。
ひるがえって‥‥。
* * * 今のアメリカを説得するのは無理だろう。
いや、戦争反対運動が無駄だというわけではない。それどころか、今後も大きな声を上げて戦争反対を訴えつづけていきたい。たとえ、結果は失望するものであっても。行動したこと自体が、意味を持つ。
もっと根本的な問題として、そもそも今のアメリカとは、話し合いが成立しないのだ。イラク戦争に反対する陣営とアメリカ(の保守派)は、まったく同じ土俵に乗っていない。
* * * 平和、人命が大切なことは、アメリカもよく分かっている。しかし、それを達成する方法が違う。
今のアメリカのやり方は、武力による問題解決だ。力の外交。そして、彼らの信念の裏には、成功体験がある
冷戦の勝利。レーガン時代に、軍拡競争を推し進め、「悪の帝国」ソ連を崩壊に到らせた。自由主義社会を勝利に導いた。強い軍事力で。
ポワーポリティックス信奉者達には、もうひとつ大きな歴史上の教訓がある。
第二次世界大戦勃発前、イギリス首相チェンバレンが採った対独宥和政策だ。衝突を避け、譲歩をしたために、ヒトラーの増長を許した。その後、チェンバレンにとって代わったチャーチルは、断固戦う決意を貫き、イギリスを勝利に導いた。以来、軍事行動に対する弱腰を批判する場面では、決まって引用される。
* * * 武力で世界の問題を解決するのはよくない。分かっている。しかし、武力介入がなければ、91年のクウェートはどうなっていただろう?ボスニア・コソボはどうなっていただろう?
我が日本を振り返っても、北朝鮮工作員は自由に日本に出入りし、拉致を行い、麻薬を持ち込み、テポドンを(衛星と称して)発射した。拉致被害者あるいは彼らの家族は、いくら待っても帰ってこない。
北朝鮮が、テポドンを発射したらどうする?核攻撃を仕掛けたらどうする?科学・生物兵器が、東京に、大阪に、あなたの家の近くに落ちたら、どうする?
黙って、されるがままにいるのだろうか?それこそ、社会党全盛時の「非武装中立」理論ではないか?10代の私も、例に漏れず、一時期そういう理想の世界を信じていた。
それとも、今こんなに非難しているアメリカの軍事力の背後に隠れるのだろうか?
* * * 戦争は悲劇だ。私もこの戦争には反対だ。戦争の「根拠」が不十分である。「緊急性」の要件を満たしていない。
しかし、非常に強い苛立ちを感じている。
それは、戦争はよくない、平和的な手段で問題解決を、話し合いを、と信じながらも、十分な説得力を持ちえない自分に対する、挫折感なのだ。
話し合いが成立しない無力感。これは過去にも何度か味わった‥‥。
ニシタマオ氏を巡る戦いが、あつい。
「ややっ?タマちゃんを捕獲しようとしているぞ!何をしているんだ、バカヤロー!」 タマちゃんを見守る会のメンバーが罵る。
「このままじゃ衰弱して死んでしまうかもしれないんですよ。可哀想じゃないですか?」 タマちゃんを思う会のメンバーが応戦する。
「でも、タマちゃんはあんなに栄養状態が良いじゃないか、バカヤロー!」 ――見守る会。
「アゴヒゲアザラシは、集団で生活するので、単独でいるのは自然じゃない。自然に帰してあげるべきだ」 ――思う会。
「タマちゃんは、ここが気に入っているんじゃないか。勝手に連れて行くなんて、ひどいじゃないか。バカヤロー!」
それを無視して、見守る会がエサを与える。
「オイ、勝手にエサをやるな、バカヤロー!」
「エサをやるのは法律違反じゃないですから」 無視して、続ける、動物愛護団体のメンバー。
「やめてください」 実力行使で止めにはいる、お役人。
いやはや、アゴヒゲアザラシごときで、なんでこんなに騒ぐのかといいながら、こっそり面白がっているのは、私ひとりだけではあるまい。
それにしても、もし「真実」がたった一つであれば、世の中争いも少なく、「バカヤロー」の連呼もなくなるだろうに。
単純に考えればそう思うのだが、実際には、全く同じ事実を目の前にしても、立場変われば、見方も変わる。
* * * 今、世界では、これと似たような議論が繰り広げられている。いや、もう議論は終わったのかもしれない。戦争は、既定事項。秒読み段階へ入ったようだ。
イラク vs アメリカ。
アメリカが主張するように、イラクのフセイン政権が、国連の決議に違反しつづけているのは事実だ。きっと大量破壊兵器も持っているだろう。クルド人も虐殺した。クウェートにも侵略した。テロとも何らかの繋がりがあるだろう。
という疑問は消えない。
イスラム世界から聞こえてくる不満に頷くことも多い。アメリカはイスラエルに味方し、パレスチナはじめイスラム諸国に対して不公平だ。そもそもイラクに大量の武器を与え、オサマ・ビンラディンに軍事訓練を与えたのは、アメリカだ。アメリカ流「正義」、アメリカ流「民主主義」、アメリカ流「ビジネス」を押しつけて、イスラムに対して十分な敬意を払っていない。
同じ事実を積み上げても、そこから出てくる結論がまったく違う。議論が噛み合わない。お互いに相手の主張が間違っていると思っている。正義は自分の側にあると信じている。
何故、こういうことがしばしば起こるのか?
昨日の朝日新聞の報道によると、パレスチナで人間の盾として活動していたアメリカ人女性が、イスラエル軍のブルドーザーにひかれて死亡したらしい。
パレスチナ人の家を破壊しようとしているイスラエル軍の、ブルドーザーの前に座り込んで止めようとしたが、ブルドーザーはそのまま前進したという。
イスラエル軍報道官のコメントは、「命を危険にさらす無責任なやり方で抗議していた一団がいた」というもの。
* * * このニュースを聞いて思い出すのが、中国で民主化要求運動を弾圧するために起きた、1989年の天安門事件だ。
多くの学生、人民が戦車に踏みつぶされたが、そんな戦車軍団の前に、敢然と立ちはだかった男がいた。
手提げかばんをダランと持って、か弱そうな無防備な男がひとり。一台の戦車の前に毅然と立ち塞がった。戦車が方向を変えても、追いかけ、一歩もひるまなかった。
戦車は困ったように動けなくなり、男は踏みつぶされなかった。
この映像は、世界中に配信され、繰り返し放映されて、国家暴力に立ちあがる民衆を象徴するものとして、歴史に刻まれた。
* * * その頃私が住んでいたアメリカでも、天安門事件は衝撃的に報道された。大学のキャンパスでも、中国の民主化運動を支持するデモが大々的に行われた。あれだけ大規模なデモは、ベトナム戦争以来だったといわれた。
私には、中国人の友人が何人もいた。彼らと同じ年代の若者達が、血だらけになって、戦車に踏みつぶされている状況に、いても立ってもいられなくて、私もデモに参加した。
大学のキャンパスから、州議会があるCapitolまで、中心街を2キロにわたって練り歩き、"What do we want?"、"When do we want it?"というリーダーの呼びかけに答える形で、みんなでシュプレヒコール。
最後は、議事堂前の広場で大集会。その日、街は異様な雰囲気に包まれた。まるですべての市民がデモに参加しているのではないかと思われるほど。
そして、私も、正義のために、小さいながら自分なりの貢献をしているのだという実感を持った。
* * * 仲が良かった中国人同級生Hは、私と同い年。大学院に入るのが遅れた。文化大革命の終わり頃に数年、地方の農村に下放されたからだった。こうした文化大革命の犠牲になった知識人中国人に、80年代のアメリカで何人も会った。
Hは、農作業を全部習ったので食うに困らないと屈託なく笑うが、失われた時間はあまりにも惜しい。
彼は誰にでもやさしく、とにかく謙虚、いつも笑顔が絶えない。
という言葉がピッタリだった。
非常に優秀な大学院生のひとりだったHだが、学問以上に、彼の魅力は、高潔な人格。長いアメリカ滞在中に私が出会った、最も尊敬すべき人物だった。
Hは、普段、政治的な話は一切しなかったが、天安門事件のときは、研究を中断し、中国人グループのリーダーのひとりとして、デモを組織したり、マイクを握った。
そしてその後、中国人学生が中国政府からパスポート更新を拒否されても、アメリカに滞在できるよう、アメリカ政府に働きかけた。
学部の教授たちも、スタッフも、研究者も学生も、そして大学全体が中国人学生達を応援し、大きな声で支持を表明した。
アメリカ政府は、移民法に特例を設けて、滞米中国人学生に対し、パスポート失効後の滞在を許可した。この時のアメリカ政府の動きは速かった。また、アメリカ中で盛り上がった、中国政府への抗議と中国人学生・民衆への支持は、素晴らしかった。
このときは、アメリカ政府の、そしてアメリカ人の正義を信じることができた。彼らと一体感を感じることができた。
* * * いま中東では、アメリカの、イスラエルの行動に、世界中から抗議の声があがっている。14年前の正義は、どこに行ってしまったんだろうか?
ちなみに、私の友人Hは、その後研究者として素晴らしい業績を残し、母校の教授になった。
昨日、留学先のB教授の話をしたが、同じ大学で授業を受けた教授にもうひとり、W教授がいた。
博識と頭の良さは比べる人もなく、他の教授も研究者も、困った問題があれば、W教授のところに相談に行った。
好奇心の赴くままに、いろんな問題を研究していた。誰かが、新しいアイデアを思いついても、既にW教授が昔同じことを考えて、ペーパーに書いていたということがしばしば。そういう、発表されなかったペーパーが山ほど、研究室の引き出しに詰まっていた。
もし、ひとつの分野に集中して研究していれば、ノーベル賞を取っていただろうというのが、周りの人のW教授評だった。
彼はマンハッタン計画に参加してオッペンハイマーの下で働いたが、その後マッカーシーの赤狩りで大学を追われ、民間に下った。8年後、別の大学で教授として復活。その独特のキャラクターが、物理学科で名物のひとつだった。
さて、そのW教授から、私は量子論入門のクラスを取った。ところが、これがまったくついて行けない。
とにかく、学生の程度、クラスの想定レベルをまったく無視して、いきなり先端の内容なんかをしゃべりだす。ノートも本も見ないで、黒板の端から端まで、数式に次ぐ数式を書き連ねる。覚えていない時は、一からすべて導き出す。書いたり消したり、考え込んだり。どこにこれだけの知識が詰まっているのか?
たまに、恐れを知らない学生が手を上げると、"How dare you!"とかなんとか大きな声で怒鳴られる。質問もオチオチ出来ない。彼の講義は、現代物理の歩みを生き生きと伝えていたが、学生がいてもいなくても関係なかったのかもしれない。
私は、その学期たくさんの単位を取っていて、平均3時間しか寝る時間がないような忙しさだった。いくら聞いても分からない彼の授業に、そのうち我慢できなくなった。
ドロップしようと決心したのだが、それは必修科目。取らないと卒業できない。学科の主任教授が心配して、裏でW教授に画策したのかもしれない。私を呼び出して、W教授と話をしろという。
私は恐る恐る、W教授のオフィスのドアを叩いた。
迎え入れてくれたW教授には、いつものピリピリした雰囲気がない。しばらく沈黙が続いた後、フーッとひとつ息を吐いて、彼は口を開いた。
「私の授業が難しいというのは、私にも分かっている」 「‥‥‥」
「私は、君達に全部理解してもらおうとは、期待していないのだ」 「‥‥‥」
「私が望むのは、新しい物理が生み出された時の、感動、興奮。それを感じて欲しいだけなのだ」 「‥‥‥」
「今は分からなくても、私の話を聞いているうちに、何かが掴めてくる。それで十分だ」
彼は、私の方を見ないで、ゆっくりと窓際へ歩いて行った。枯葉が舞い始めたキャンパスの景色を、遠い昔を思い出すように眺めた。
「その昔、私にも、挫折に打ちのめされた時があった‥‥」
彼は、意外な話をはじめた。
City College of New Yorkで物理を勉強していた頃のW教授は、誰もが認める天才。神童の名を欲しいままにした。頭の回転の速さで人に負けたことがない。
そんなある日、図書館で難解な物理の本を手に取ろうとすると、同時に同じ本に手を伸ばした若者がいた。そこで、一緒に読もうということになり、席を並べて座る。
一ページ、読み終わったらページをめくる。また、一ページ。
読み進むうちにペースが上がる。そのうち、なんと、驚いたことに、W教授が読み終わらないうちに、もうひとりの男がページをめくろうとするではないか!
ショックだった。今までに味わったことのない挫折だった。
その若い男。後に朝永振一郎、リチャード・ファインマンとともにノーベル賞を受賞した、若き日のジュリアン・シュウィンガーだった。
そういう話をしながら、ちょっと寂しげな表情を浮かべたW教授が、私にはとても人間らしく見えた。
私は、最後までW教授の授業を受けた。ほとんど何も分からないままに、無我夢中で勉強した。持ち帰りの最終試験は、提出期限を1週間延長してもらい、学期が終わって、ガランと誰もいない図書館にこもって、何とか仕上げて提出。そのクラスでたったひとつのAをもらった。
その、W教授。彼も、昨年の10月に亡くなっていた。
彼の授業が、無性に懐かしい。合掌。
留学したアメリカの大学で、私は物理を専攻した。
実は、もうひとつ専攻があり、ジャーナリズム学科にもいたのだが、当初一年だけの留学予定だったので、虻蜂取らずを恐れて――ホントは、ちょっと息抜きもしたい ^^;――ドロップした。
さて、その物理学科で教えを受けた教授のひとりに、B教授がいた。専門は相対性理論。アインシュタインの最後の弟子のひとりだった。
おっとりして、ヨーロッパ訛りが抜けない英語で、ゆっくりと考えながら諭すように話す。
黒板の前で
クセが妙に可愛かった。
ニューヨーク市に住み、毎週水曜日に飛行機でやって来ては、風呂敷包みのような荷物を抱えて、あたふたと遅刻してクラスに入ってくるのが常だった。金曜日まで連続3日間授業をし、金曜日夕方のコロキュアムに参加してから、また飛行機で帰って行った。
そろそろ引退の年齢で、私が授業を受けたのが最後の学期。私達は、彼の授業を受ける最後の学部生となった。その最後の授業。普通に終わるのが何だかもったいなくて、B教授に、授業をやめて替わりに話をしてもらえないかと頼んだ。タイトルは「アインシュタインと私」。B教授は快諾してくれた。
彼は、ドイツの大学で21才の時にドクターの学位を取得。当時、プリンストン高等研究所にいたアインシュタイン宛てに、大胆にも紹介状もなく手紙を書いた。自分は博士号を取ったばかりだが、研究者として雇ってもらえないかと。
聞いたこともない若者から突然仕事をくれと依頼を受けて、大学者アインシュタインもさぞ困ったはずだ。ところが、B教授の指導教官が世界的に有名な学者で、アインシュタインとも知り合いだった。そこで、アインシュタインから問い合わせがきた。君のところの学生からこんな手紙が届いたが、一体どんな人物なのか?
B教授の指導教官は、多分、彼は優秀で人物も信頼できるとでも言ったのだろう。B教授はアインシュタインから仕事をもらい、プリンストンで研究生活を送ることになった。
アインシュタインと一緒に研究三昧の日々は、刺激の連続だったと言う。
彼は27才の時、相対性理論の教科書を書いた。標準的教科書として、多くの学生・研究者に愛読された。私は27才の時にその本を読んだが、まだよく分からないところがたくさんあった。その後、彼は相対性理論の分野で、世界を代表する大学者となる。
B教授はユダヤ系。先の大戦のホロコーストでは、身内や知り合いに多くの犠牲者がいたはずだが、その話題について語ったことは一度もない。長らくドイツにも帰らなかった。何十年ぶりかで故郷の土を踏んだ時の思い出についても、少し悲しい表情を浮かべるだけで、ほとんど触れることはなかった。
そんなB教授だが、卒業後まったくお会いすることもなかった。最近たまたま母校のWebサイトを覗いたら、昨年10月に亡くなられていた。
少し巻き舌のやさしい語り口が、フラッシュバックで甦る。合掌。
2003年03月14日(金) |
ミルク色の壁に囲まれて |
「ミルク色の部屋の中で、子供たちがお祈りをしています。小さな手を合わせて、いっしょうけんめい、お祈りをしています。‥‥」
これを読んだ瞬間、世界がひっくり返ったような衝撃を受けた。小学校の卒業文集の一文の出だし。書いたのは、私が心の片隅で、密かに恋いこがれていた女の子。
実は、
の風景だ。
相当昔のことなので、一字一句まで正確には覚えていない。それでも、「ミルク色」、「小さな手を合わせて」、「お祈り」という表現は、鮮明に記憶に残っている。とても小学生の書いた文章とは思えなかった。 同じく卒業生の私はといえば、原稿締切前夜になっても、何も書けずに苦しんでいた。いくら頭を絞っても、アイデアさえ浮かばない。無理にペンを取ってみたが、出てくるのは、下手くそ、陳腐、箸にも棒にもかからない、駄文ばかり。
規則的に時を刻む壁時計が、イライラを募らせた。夜も更ける。真っ白い原稿用紙を前に、ほとんど絶望的な状態に陥っていた。真夜中過ぎ、見かねた親父がアドバイスをする。
「何も書けない、ということを書けばええやないか。」
なるほど。そうして、私は書いた。一編の詩を。 詩が書けない
チクタク、チクタク
時計が鳴っている
いくら頭をひねっても
何も浮かんで出てこない
外は真っ暗
締め切りは迫る
‥‥‥
これを平凡と言わずして、何を平凡と言おう。何とか形のあるものを、卒業文集に載せたものの、才能の片鱗すら感じられない。稚文を越えて、恥文だった。
それに比べて‥‥「ミルク色の部屋」かあ。
よく思いつくなあ、そういう形容詞。子供たちの手が小さいのは当たり前なんだが、子供の純真、一途な雰囲気が滲み出ていた。
いったいこの違いは何なのだ。
この卒業文集をきっかけに、私の将来の選択肢から、文学の道が消えて行った。
タリーズでカプチーノを飲んだ。アメリカで弁護士をしている友人が訪ねてきたのだ。
この店の、黒を基調としたガラス張りのデザインは気に入っている。喫煙室を完全にガラスで囲って別室にしているのも、好感を持てる。
私はタバコの煙が大嫌いなのだが、喫煙家の友人につき合って、そのガラスの部屋に入った。すると、やけに声が響く。すべての喫煙客の話し声が、クッキリはっきり聞こえるではないか。
「あたし、もう頭にきちゃって」 「やめなよー、そんなオトコ」
落ち着いて話ができない。友人に我慢してもらって、ガラスの箱から出る。 タリーズさん、何とかしてね、この反響構造。応援してんだから。
私は、カフェとかカプチーノバーの熱烈なファンだ。
20年以上前にアメリカに留学した時、おいしいコーヒーを飲む店がなくて、毎日が物足りなく、悲しかった。当時のアメリカのコーヒー事情は最悪だった。かつて「茶店王」と呼ばれた私は、日本の喫茶店が恋しかった。
ヨーロッパ人の指導教官に、 「ヨーロッパのコーヒーが世界で一番でしょう」 と尋ねると、日本通を自認するその教授曰く、
クーッ、いいこと言うねぇ。
ところが、80年代も後半に入ると、エスプレッソベースのカプチーノやラテなどを中心とした、ヨーロピアンタイプのカフェがアメリカでも増え、事情は一変した。
コーヒー一杯1ドルもしない国で、その3倍も値段の張るエスプレッソ。コーヒーの味も分からないアメリカ人が、お金を払うはずはないと思われたが、予想を覆して、カプチーノショップはアメリカで支持され、増殖を続けた。
私は、旅先で、あるいは飛行場で、とにかく行く先々で、必ずスターバックスを探し出しては、チェックした。場所によって微妙に味も違う。
ボーダーズという書店の中に入っているカフェも大好きだ。シカゴに行けば先ず、ダウンタウンのど真ん中にあるボーダーズでカプチーノを注文して、ウォータータワーと街行く人々を眺めながら、何時間も過ごした。ニューヨークタイムズを片手にさりげなく持って。(ようするに、そういう雰囲気が好きなのね ^^;)
日本に帰国する時、カプチーノを飲めなくなるのではないかという恐怖心にかられた。カプチーノがなければ、私のすべての創造活動は停止する。
という訳で、家庭用の一番いいカプチーノマシンを買って、わざわざ担いで帰ってきた。
当時は、あまりにもカプチーノバーが好きで、スターバックスにかけあって、日本での展開をやらせてもらおうかと、多少本気で考えていたほどだ。実行しないままに、サザビーという会社が日本でスターバックスを大流行させたのは、ご存知の通り。
もう10年近く前から、スターバックスは絶対日本で流行るという自信があった。何故なら、留学や旅行でアメリカにやって来る日本人の女の子達の間で、絶大な人気があったから。このポイントを見ていれば、数年後の日本でのトレンドが容易に予測できた。
いずれにしても、自分でスターバックスを展開するという人生はなくなった訳だが、最近は、タリーズやシアトルズ・ベスト・コーヒーなどのシアトル系に加えて、日本独自の質の良いカフェもあちこちに増え、カフェ好きにとっては大歓迎だ。
さて、そのスターバックス。日本進出以降、ものすごい勢いで店舗・売上拡大を記録し、スタバ・ブームも作ったが、最近は一店あたりの売上が落ちているらしい。
実は、スターバックスには弱点が2つある。私は、10年前にアメリカでスターバックスに通っている頃から、その2点に関していささか不満があった。無敵に思えるスターバックスだが、この弱点を突けば、他のカフェチェーンにも大きなチャンスが出てくると信じていた。
その弱点って何って?
それは‥‥宿題。読者の皆さんが自分で足を運んで、いろんなカフェを比べてください。よ〜く観察すると、コーヒー好き、カプチーノ好きなら、また、ひとりでの〜んびり読書するのが好きなら、きっと気づくはずです。
答えは、また別の機会に。
脱ダム宣言、そして議会との対立で有名になった、長野県知事二期目の田中康夫氏。今や政治家としての風格さえ感じられる。
そんな彼が、脚注満載のカタログ小説「なんとなくクリスタル」で芥川賞を受賞し、「クリスタル族」が一世を風靡したのは、1980年。まだ一橋の大学生だった。
翌年、彼は大学を卒業して、モービル石油に入社する。
当時、私の知り合いの日本人留学生に、たまたまモービル石油の社員がいて、社内誌を見せてくれた。新入社員紹介のページが掲載されている。そこには神妙な面持ちの田中氏の顔写真もあった。そしてその下に、入社の抱負が述べられている。
20年以上経っても、忘れもしない、
彼は、2ヶ月ほどして会社を辞めた。
その後の彼は、短い結婚生活の実態を元妻に暴露され、女の子に弄ばれるやんちゃなキャラクターでテレビ・雑誌に登場し、スッチー達とのエッチ生活を詳細に記した「ペログリ日記」で独自のポジションを築く。
そして、阪神大震災でのボランティアをきっかけに、市民派活動家として台頭して、その勢いのまま長野県知事になったのは、ご存知の通り。
人は変わるもんですね。彼の人生にもたくさんの脚注が必要かも。
16才の頃、もう年をとり過ぎたと感じていた。
12才の若さに満ちた自分が、懐かしかった。
純粋な恋愛をできるのは15才までだ。 それを過ぎると、打算が入ってくる。
そう書いたのは、愛読していたヘッセだったろうか。 (記憶がおぼろげ。誰か知っている人、教えて)
だから、自分はもうすっかり汚れて、 醜い人間だと悲観していた。
多感も、ドを越せば、単なるアホーだ、 といういい例だろう。
しかして、今 あの感受性のかたまりだった思春期から、何十年が過ぎた。
光陰矢のごとし。 少年老い易く、学なり難し。
そろそろ還暦も過ぎようとしている‥‥
て、いくらなんでも、それはちょっと大げさか ^^;;
さて、それほど身も心も世間に揉まれ、 汚れつちまった、かつての少年だが‥‥
一向に進歩しとらへんのよ〜、16才から。
っていうセリフが口から漏れ、ハッと驚く。自分が怖い。
まだ、大人になっていなかったのか。 この老ピーターパン!
2003年03月05日(水) |
「英語通訳の極道」登場 |
いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
さて、このコラムについてのお知らせ。
今後、通訳・翻訳・英語・異文化コミュニケーション関係のコラムは、新しくオープンした「英語通訳の極道」に掲載することになりました。
いっぽう、「風太郎の珍答乱麻!」では、足元に転がっている日常の話題から宇宙の神秘まで、ますますパワーアップして、縦横無尽に、ややもすれば的外れな心の叫びを連載していきますので、引き続きご期待ください。
2003年03月03日(月) |
ダンシコウビョウからの脱出 |
さて、ダンシコウビョウだ。いよいよ佳境に入る。
前回は、私の懸命の努力が実は間違った方向に向かっていたという話をした。つまり、「男性」作家、それも本人自らダンシコウビョウにかかっている疑いのある作家が書く処方箋ばかり読んでいた。その結果、とんでもなく女性を誤解していたかもしれない、という事実に気がついたということ。では、どうすればよいのか?
そう、賢明なあなたならすぐに気がつくだろう。「女性」によって書かれた本を読めばいいのだ。女性なら当然、女性自身の心理、本音、願望を理解しているはずだ。何故こんな単純な理屈に今まで気がつかなかったのだろう?
私はそれまで女流作家の本というものをまったくといっていいほど読んだことがなかった。オトコは、オトコが書いたオトコの文学を読むものだと、知らず知らずのうちに思い込んでいたのだろう。恋愛も、女性についてさえも、オトコが書いた本を読んで理解しようとしていたのだ。
女性作家を読む。それは、当時の私にとっては――ちょっと時代遅れの表現を使えば――コペルニクス的転回であった。
まず、どんな作家がいるのかよく知らなかった。遠藤周作先生のマドンナでもありお友達でもある佐藤愛子先生のことは知っていたが、ほとんど読んだことはない。曽野綾子女史は何だかお高くとまっていそうで近寄りがたい。だれか、読みやすくて、おもしろくて、それでいて女性についての真実を教えてくれる作家はいないのか!
そうあれこれ物色しているときに、知り合いの女友達が、「これスンゴイおもしろいから読みなよ」といって一冊の本を貸してくれた。
「姥ざかり」 作者、田辺聖子。名前は聞いたことがあったが、どうも大阪アキンドのイトさん・コイさんを描いた泥臭い作品を書いている人じゃないかという、根も葉もない思い込みがあって、あまり気にかけたこともなかった。
ところが、その「姥ざかり」。一度読み始めたら、これがやめられない。とてつもなくおもしろい。オトコの俺がこんなにエンジョイしてエエのやろか?と悩むくらい、とにかくエンターテイニング。「ハイ、サヨデッカ!でわ、サイナラ。アハハハ」という痛快さなのだ。
こ、こんな素晴らしい作家がいたのか!それからだ、田辺聖子の作品が私の書棚の一段を占領し始めたのは。
彼女の著作を読み出してすぐ気がついた。彼女が描く女性像は、遠藤周作氏とはまったく違う。女性から見た女性の姿ってこうだったのか。初めて知る真実。
女子学生ってこんなことをしていたのか。だれも教えてくれなかった。想像だにしなかった。すべてが新鮮な驚きで、発見の連続だった。
ちなみに、このコラムを読んでくれている男性読者のあなた。あなたは、あんなに可憐で純情に見えた女子高の生徒が、実は、夏の暑い日、学校の休み時間にスカートをまくって下敷きで扇いでいたって知っていたか?
また、その少し離れたところでは、別の女子高生がフケを落としては下敷きで集め、たくさん溜まったその自分のフケをじっと観察している、という姿を想像できるか?
あるいは、あの禁断の花園、女湯では、お湯に浸かったひとりのオンナが、湯船の隅に陣取って、他の女達が湯船の縁をまたいで入ってくるたびに、
田辺聖子先生から習った真実の数々は、私にとって衝撃の連続で、あやうく卒倒しそうになるところであった。
ただ、この話は一昔前のことである。「何でもあり」の今の時代に思春期・青春期を送っている若者達にしてみれば、「このオッサン、なに時代遅れのアホな話しとんねん」ということになるのかもしれないが。
それはさておき、青春真っ只中にあった私は、こうして田辺聖子先生から女性のありのままの姿を学び、大きく変貌を遂げていくのである。
(そのはずである‥‥ ^^;;)
ご愛読ありがとうございます m(_ _)m
2003年03月02日(日) |
ダンシコウビョウとの戦い |
昨日、女子校病のことを書いた。そして、まだ青かった頃の自分は、それと似たような「男子校病」に冒されていたかもしれない、いや、実際冒されていたという、事実を明かした。
さて、その男子校病に悩む若かりし日の自分だが、手をこまねいて、のたうち回っていたわけではない。病気克服のためにそれなりの努力をしたのである。
まず、「戦に勝たんとすれば、敵を知れ」ということで、「敵」の研究をはじめた。
実は、「敵」を知るための努力は、多感な思春期の頃から盛んに行っていたのだが、その方法がまずかった。
文学や恋愛論の本を大量に読んでいたのだ。いや、別に怪しい本ではない。すべて立派な先生方がお書きになった本だ。ただ、振り返って考えれば、問題が一つあった。
すべて、「男性」作家による本だったということである。それも、彼ら自身何らかのダンシコウビョウに冒されていたようなフシがある。
私が人生の指針として愛読していたのは、その昔旧制高校生のバイブルといわれた三種の神器のひとつ、倉田百三だった。
彼の「出家とその弟子」を読んだときは、自分が生まれ変わったような衝撃を受けた。その後、「愛と認識との出発」や「青春をいかに生きるか」などから、人生そして恋愛に対する心構えを学んだ。
旧制高校生のバイブルを読んだからといって、別に私はそんな昔の人間ではない。(いや、頭は昔の男かもしれない ^^;)これらの書物を読んでいる同級生はほとんどいなかったし、当時は書店でも隅にひっそりと置かれていた。
私は、単純に旧制高校生に激しく憬れていたのだ。できることなら、その昔に戻って自分も黒いマントを羽織り旧制高校生活をしてみたかった。たぶん、これも若い頃に読んだ一昔前の文学作品群の影響だろう。
ちなみに、三種の神器のもう一つ阿部次郎著「三太郎の日記」は、しばらく必死で読んだが、いつも猛烈な睡魔に襲われ、何が書いてあったのか、ほとんど記憶にない。西田幾多郎の「善の研究」は、手にとる前に多感な時代が過ぎてしまった。
というわけで、私の女性観、恋愛観の根幹には、倉田百三教祖が鎮座しているのだ。
それと同じくらい、いや、読んで分かりやすかった分だけもっと大きな影響力を残したのが、遠藤周作だろう。彼の著作はほとんどすべて読んでいた。純文学系以外は。^^;; (「海と毒薬」とか「黄色い人」、「留学」などいくつかはもちろん読みましたよ、いくらなんでも)
要するに、俗に中間小説と呼ばれるものと弧狸庵シリーズ、そして恋愛論の類を熟読していたのだ。そして、彼からも恋愛に関して非常に多くのことを学んだ。‥‥と思っていたのだが、じつは彼は、女性のことをよく分かっていなかったようだ。^^;
ある小説、実はもう20年以上前に読んだきり、引越時に小説の類をすべて手放してしまったので、タイトルや細かいストーリーを思い出せないのだが、読後の印象だけは鮮明に残っている。
主人公の女性が、ある男にどうしても会いたいと願って、遠い外国の地を探し求めて歩く。ところが、やっとめぐり会えたその男は、彼女のことを慮って正体も明かさず、彼女の前から立ち去ってしまう。(だったはずだが‥‥^^; いま必死に遠藤周作の作品群をWebで調査しても、どの作品なのか見当がつかない‥‥。こんど図書館で調査して来るので、間違っていたらご勘弁を)
ま、細かいことはおいといて、私が「感じた」印象は、はっきりクッキリと残っている。私はこのストーリー、この男の生き方に大いに感銘を受け、絶賛し、女友達のひとりに夢中になってしゃべったのだ。すると彼女が宣うた。
そんなオトコ、だめよ。カッコよく立ち去るなんて、現実じゃそんなことないよ。私はヤダナー。オンナは、そこでぐっと抱いて欲しいのよ。ややこしい理屈はどうでもいいのよ。あのね、こんな本ばっか読んでると、あなたオンナで失敗するよ。だいたいね、遠藤周作はオンナをわかっとらん!
こう私に説教したのが、今やフェミニストとしても有名な、ヌードのフォトグラフィーの第一人者、K氏(の若かりし頃)だったから、説得力があった。
私が長年築いてきた恋愛論の理論的枠組みが、たった一撃のもとにガラガラと崩れ去ってしまったのだ。
で、どうしたか?
シツレイいたしました m(_ _)m
2003年03月01日(土) |
ジョシコウビョウの罠 |
大学に通っていた頃、クラブの関係で他大学の多くの学生と交流があった。その中のひとりが、一年先輩だったK女学院のOさん。
ややポッチャリ度が高く、飛び抜けた美人というわけでもないが、人一倍エネルギーに溢れ、いつも次の目標に向かって動いている、躍動感があった。頭脳も明晰で人なつっこい。多くの男子学生もまとめて引っ張っていくようなリーダー、というかボス的存在だった。とても魅力的な女性で、私は心から尊敬し憬れていた。
彼女とは何らの男女関係もなかったが、どういうわけか、よく可愛がってもらった。たぶん、おとなしい後輩の面倒を見ずにはおれなかったのだろう。いろいろな集まりに連れて行ってもらい、おもしろい人たちを紹介してくれた。
K女学院は、中学から大学まで一貫のお嬢様学校だが、Oさんは公立高校から受験して大学に来た、少数派だった。
その彼女がある日、クラブの大学間交流合宿の打ち上げパーティーで、ボソッともらした。
「ジョシコウビョウっていうのがあるのよ」 「えっ、何ですかそれ?女性特有の病気ですか?」
「ううん。あのね、中学校からずっと女子校で来た人たち。男女共学を経験していないでしょ?」 「たしかに」
「思春期に、異性がいない環境で成長しているでしょ。だから、男性に対して、いつまでもウブなのよ。少女マンガに出てくる、夢物語のような幻想が抜けないの」 「それがいけないんですか?いいじゃないですか、可愛らしいと思うなあ」
「それがね、女子校病の女の子って、困っちゃうのよ」 「困る?」
「男の人に出会うたびに、ときめいて、すぐ恋しちゃうの」 「恋するって‥‥あたりまえでしょ、年頃なんだから」
「それがあ。私なんかは、共学で、男子学生なんかいっぱい見てるから。男の子が周りにいても普通なのよ。動じないのよ。彼らの成長期に付き合ってきてるでしょ、毎日教室で。あっ、コイツ最近声変わりしたなあとか」 「はぁ」
「もちろん、女の子だからみんな、男の子の目は気にするよ。でも、別に男の子はめずらしくないのよ。だれかれとなく恋に落ちるってことはないのよ。免疫があるの」 「ふ〜ん。そんなものなんですか」
「ところが、女子校病の女の子達ときたら、ちょっと素敵な男性が現れるたびに、それはもう、すぐに恋に落ちちゃって。心をセーブすることを知らないから、何も手につかなくなるの。上の空。悩んで、苦しんで、落ち込んで、そしてこっちに相談に来るのよ」 「‥‥」
「でもね。いくら話してもダメなの。まったく免疫がないのに、バイキンがうじゃうじゃいる世界に、突然飛び込んでしまったようなもので。慰めても、諭しても、何をしてもだめ。自然に免疫がつくまで待つしかないの。‥‥はぁ〜あ。彼女達も大変だと思うわあ」 私はじっと聞いていた。
「女子校病」 まったく新しい真実を、突然目の前に提示され、閃くものがあった。女子校病があるなら、男子校病もあるのではないか。中高一貫の男子校を卒業した私は、そう考えた。
そういえば、Oさんが説明した女子校病患者の症状は、程度の差こそあれ、自分にも思い当たるフシがある。むやみに女性を美化し過ぎているかもしれない。それが不必要に自分を苦しめ、女性を息苦しくしているかもしれない。考えれば考えるほど‥‥その通りだった。アンドレ・ジイドの「狭き門」の世界に嵌まり込んでいるかもしれない。
何とかしなければ。女の子に出会うたびに、恋に落ちもがき苦しんでいては、心が持たない。体が持たない。男と女が住む普通の世界で、普通に生きていくことができない。
「先輩、ぜひその、女子校病とやらを克服する方法を教えてください」 「どうして‥‥あなたが?」 先輩は怪訝そうな目を向けた。
「あの‥‥その‥‥もしかすると、ぼくは‥‥‥男子校病じゃないかと」 「ダンシコウビョウ?‥‥なるほど。そういえば、あなたも共学出身じゃなかったわね」
「早く何とかしなければ、ぼくも、不幸な青春を送るんじゃないかと、思うんです」 Oさんは私の顔をじっと見つめて、は〜ぁ、と小さくため息をついた。 「ないのよ。残念ながら。そんな方法って」
「じゃ、どうすれば、ぼくは救われるんですか?」 「‥‥時間ね」
「えっ?」 「時間が解きほぐしてくれるわ。いろいろ経験して――でも慎重にね――失敗もして、壁に突き当たって、絶望して、また前進して‥‥。そのうち、ああ、いま自分の心はこの辺りにあるんだっていう、そういう感覚が分かってくるのよ」
「ようするに、体験から習えと?」 「やっぱり、それが基本かしら」
「何か、もっとできることはないんですか?そのお、失敗をする前に。女性の実態を知るために、本を読んだり、修行したり。何かできること‥‥ないんですか?」 「ごめんなさい。私にできることは‥‥ここまで」
「‥‥」
その後、私がダンシコウビョウを克服できたかって? ご静聴、ありがとうございました m(_ _)m
◆◆◆ このコラムをはじめて一週間。 内容にまったく一貫性がないという指摘がある。
おっしゃるとおりです。^^;; つまり、心に思いつくままの雑文ということで。 しばらくはこういうゴッタ煮状態ですが、よろしければご愛読ください。
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