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2004年12月31日(金) 大晦日

あんころ餅の残りで朝ごはんにしようと思ったら、あんこがちょっと怪しくなっていた。お餅のやわらかさを優先しようと思って冷蔵庫に入れなかったのが失敗。昨日は暖かかったからなぁ。
午前中形ばかりにそこらへんを片付けて、のし餅をひたすら切る。お昼頃雪が降ってきたのを合図に買出しに。今年○文の少人数用パックを生協で買っておいたので、それで適当に済ますつもりだったのだが、急遽お重を入手してしまったので、中身を詰めるべく。といっても買うのは鶏肉と三つ葉とにんじんと大根とレンコンぐらい。魚屋さんでぶりあらと数の子を売っていたのでそれも買う。肉屋さんで傍らの夫が「今日は準備大変ですか、だんなさんも手伝って大変ですね」と言われるが、いやー、だんなさんは何もしません。帰りにお蕎麦屋さんに寄って、年越しそばを済ます。隣にカップルがいて二人ともおうどんを食べていた。大晦日にわざわざ混雑する蕎麦屋に来てうどんを食べるとは…。いや、好き好きですが。
まず年賀状を作成。能登で撮影したとんびの写真があったのでそれを加工して、メッセージを入れてじゃかじゃか印刷する。今年は新しいプリンターなので快調。宛名は手書きなので夜書くことにして、とりあえず晩御飯。次はお節。きんぴらごぼう、紅白なます、レンコンの白煮。レンコンはあく抜きが足りずに灰色になってしまう(泣)。こんにゃくの炒り煮。お煮しめは断念。苦し紛れにゆで卵。お重の梱包を開いてざっと洗う。おとそも買ってないので日本酒のみ。あとは元旦につめることにして、宛名書きだー。
紅白はもともと見る習慣はないが、音を消して画像だけ流しておく。唯一マツケンサンバIIだけは最初から最後まで食い入るように見る。いやぁすばらしい。ただただ楽しい気分になるためだけの曲という感じ。初めて知ったが作曲は宮○彬良。さすが。日本人の若手作曲家としては注目株は、この宮川○良と○住明と山本はるきちだと思う。
せっせせっせと年賀状を書き続け、12時になる前にポストに投函する。なんとなく達成感があるが、どうせ回収に来るのは来年だ。部屋に戻ってきたら紅白は終わっていて、適当にチャンネルを回したらなんかボレロをやっていて、これが終わると年が終わるとかなんだとかで、指揮者いらないんじゃ?というようなin tempoな演奏。最後に妙にガシャガシャガシャ!という感じでつじつまがあったのだか、転がりこんだかで曲が終わり、会場内に派手にテープが舞う。窓を開けて都心方面を見ると、サーチライトがぐるぐると空を照らしていた。一応夫と新年の挨拶を交わすが、その後も食器を出したりしながら準備にかかり、2時ごろ就寝。

それにしてもいつから日本人は絶叫しながら年を越すようになったのか。


2004年12月30日(木) はぁ〜

昨日までの余韻も覚めやらぬまま、ぐったりと起きる。
朝食はお土産のあんころ餅をいただき、ソファに転がって「やっぱりうちが一番だよな〜」というお約束のせりふも。午前中に母から電話がかかってきて開口一番「お餅はいつ届くの?」と聞いてきた。この人、いつも話の順序がおかしい。それで些細な言い争いになることもしばしばあるのだが、要はこれからうちの区内に住む伯父のところに車で行くので、帰りにうちに寄ってお餅を受け取って帰りたいということだったらしい。お餅はまだ届かないが、昨日もって帰ってきた分があるのでそれを持たせてあげるからといい、伯父の家を出るときに電話をしてくるように言う。
昨日の荷物が散乱しているが、見苦しくない程度に片付け物をしていると、輪島からお重が届く!すごく大きいダンボールである。お重を買ったとか言うとまた母にうらやましがられるので(なぜだ?)、とりあえず目の付かないように別の部屋に運び入れておく。電話が鳴ったので出ると母からで、いきなり「お昼ご飯なんてないわよねぇ?」という。…えーと、それはいったいどういう意味でしょう(-"-)?聞くと伯父の家を出たところでおなかがすいたので、どこかでご飯を食べようかそれとも娘のところで何か食べさせてもらおうかと思って聞いてみたそうだが、しかももうあと5分ほどで着く距離にいるという。何のために携帯もってるんだか、お母さん!とりあえず例のお米があるので、あわてて研いで「洗米後すぐ」というモードで炊く。
あっという間に両親は到着し、ばたばたしている間にまあ何とかお米はたきあがり、ありあわせの明太子だの梅干だの焼き海苔だの、ほとんど分解したお結びという感じの昼食にする。お米の感想を聞くと、「すごくおいしい。けど、もっと給水時間が長ければもっとおいしい」と言った。ま、そりゃそうでしょう。
両親が2時半頃帰り、この騒動で年賀状の準備ができないまま少し昼寝をして、石川から届いた荷物を受け取る。フタをあけると二つ折ののし餅がべろーんと乗っている。もうすでに硬いぞ。お重のダンボールもあける。たくさんの地元新聞の山をかき分けて、まずお椀が二つ。そしてお重。箱を開けてプチプチの緩衝材をどけて、お重が一つずつ入っている袋をあけて、和紙でくるまれているのを確認して、そこまでにする。紀宮さんの婚約会見を見ながら、山のような新聞紙をたたむ。落ち着いた話方とか、にこやかで控えめな立ち居振る舞いとか、さすがスーパーウーマンの娘だけあってこの人はなかなかの人物だと認識する。新聞紙をたたんでいるうちに出かける時間になり、大慌てで身支度して出かける。
夜は飲み会。夫の研究室にいた留学生が日本に来ているので、久々に親しい学生さんと集まる。


2004年12月29日(水) 「わだは米屋になる(長文注意)」

昨夜は夫が博士課程の学生さん二人を連れてT口家に合流し、夜は酒盛り。昨日まで家に帰りたがっていた坊は遊び相手が出来てこの世の春。全開バリバリではしゃぎまわり、あっけなく沈没。学生さんは「わー郷土料理が食べられるんですねぇ」と期待していたが(多分彼女の頭の中はお芋の煮っころがしとか、山菜とか??)、あいにくT口夫人はあっさり期待を裏切って、朝方仕入れた鮭を使ってチャンチャン焼き。まあ郷土料理だろうけど、ここには北海道関係者は一人もいない。あとは能登の牡蠣を焼いたり、キムチが出たり。お酒も地元のではなくて伏見や灘のものがふんだんに出て、男性陣はつぎつぎと沈没。T口夫人と女子学生さんと私の3人で明け方まで結構ディープに話し込む。女子学生さんは相当飲む人らしい。私のネットで仲良くしている人たちは皆、よく食べて勉強が好きだという話をしたら、ぜひ仲間に入れてください!がんばります!飲み会誘ってください!と言ってきた。だから、飲むんじゃないんだってば(-"-)。

明け方寝て、2〜3時間寝てまた起きる。ちょっと頭が痛いがお酒が上等なせいかあまり残らない感じ。朝食を済ませて、仕事に出かけるT口氏を見送り、車を借りて隣町まで。神社にお参りして、ふもとの造り酒屋に寄る。ここは見かけは昔ながらの造り酒屋だが3年前に中を民芸調のギャラリー風に改装して、元の作家の酒器などもおいてあり、接客も今風。白酒などを振舞ってくれる。この町には有名な酒蔵が2軒あるのだが、もう一つは近代化の波に乗りすぎて東京でも簡単に手に入るし、社屋をビルにしてしまって面白くない。こっちは乗り遅れた分レトロな感じが残って却って良かったが、ちょっと作られすぎという感も否めない。いくつか試飲させてもらって、学生さんたちはお土産に何本か買っていく。実はもう一軒、私たちが住んでいた町内の造り酒屋にも行くことになっていて、T口夫人に電話してもらっていたのだが、こちらは明らかに招かれざる客という感じ。電話のおかげで門前払いを食うこともなかったが、声をかけると奥から事務員が出てきて、特に説明してもらえるわけでもなく、昔ながらの酒屋の所蔵品などを見せてもらい、ここでもお土産に少し買う。電車ではこられなくて、車の人が多いので試飲もしてない。こちらは街道沿いでもないし、いまひとつ試行錯誤中という感じで仕方がない。

いったん荷物を置きにT口家に戻って、またもちつきに出かける。昨日仕入れた知識をさっそくひけらかしながら、山間の道を走る。このあたりの田んぼでとれたお米が私たちの口に入るのだ。さて、作業場では今日もぺったんぺったん盛大に餅をついている。とりあえずおなかでお餅を、じゃなかったお餅でおなかを満たし、農業法人のシャチョーに夫と学生さんたちを紹介する。ここでは自分のところで作ったお米を、さっき見学に行った町内の造り酒屋でお酒にしてもらっているという。いろいろと話し込む。この人は若い頃に1ドル360円で外貨持ち出し制限が500ドルだった時代に、その制限額すら持ち出せずに、貨物船に乗って世界各国を働きながら旅して歩いたそうだ。今でも機会があれば、農業実習等で知り合いになった外国人の国を訪ねたりしている万年青年だが、なんというか「万年青年」臭さ(笑)がなくて、熱心だけど冷静な感じで、話していてとても楽しい。となりでは鍋を作っている。
シャチョーの家を見せてもらう。中規模な百姓の家だとシャチョーは謙遜気味にいうが、このあたりは浄土真宗系(一向宗)で、農民の力が強く、中規模といってもかなりの広さになる。典型的な田字型で、持ち回りで法事を営んだりするためにふすまを取っ払うと何十畳という広間になる。なんと六畳間が狭く見えるのだ。この家は夏を旨として作られていて、夏には夏障子やすだれで涼しげにするそうだ。こうした家は冬は寒いし、維持も大変なので最近ではどんどん取り壊されているというが、シャチョーはこうして取り壊された家ももう1軒分買い取っていて、土地を探して移築するつもりらしい。そしてそれを皆が気楽に集まったりできる宿泊施設にして、都会の人が農業体験をしたり、都会と地元の人が交流できる囲炉裏端のミーティングスペースのようなものを作りたいという。楽しそう。だから学生さんたちも勉強ばっかりしてないで、たまにはこういうところにきて汗を流すといいんだよ、言われるが、言うほど皆勉強してないような…。

戻って程なくすると鍋が出来上がって、一杯食べる。おいしい。今年は熊やいのししが里にたくさん出たので、いのししの肉も入っているというがそれ以外にも鶏や豚やいろいろ入っていたので、よくわからず。さんざ食べて遊ばせてもらってお土産にあんころ餅、のし餅、お米までもらって帰る。ほとんど子供である。とりあえず親しい人たちにお米を配って、せいぜい米の販売先を見つけることにしよう。「わだは米屋になる」と一人つぶやく。
またT口家へ戻って荷造りして空港行きのバスに乗るべくバス停へ。雪がちらついてきた。大体私が去るとその場の天気が崩れることになっているが、今夜からいよいよ雪が本格的に降るらしい。空港につくと東京でも雪が降ったようで飛行機が大幅に遅れている。空港行きのバスは私たちが乗ろうとしていた穴より1つ前のニッコーの出発時間に合わせて到着したのだが、チェックインしたときには1つ前の穴機がまだいた。急いでチェンジすれば乗れたのかー。私たちが乗る便も20分以上の遅延。羽田でも到着後ゲートに着くまでかなり待たされて、予定よりかなり遅くなる。今回はお米、お餅、お酒、などが入っているので余計に重いので、都心までバスに乗り、そこから路線バスに乗り換えるルートを取るが、ちょっと選択を間違えて、重い荷物を持ったままよろよろと歩く羽目になった。いつも思うことだが、羽田から家までが一番遠い。雪はかなり降ったようであちこちが白くなっていた。家に着いたのは9時ごろ。早速T口家にお礼の電話をする。もうかの地も積もっているらしい。

それにしても実りの多い旅行だった。お世話になった方々どうもありがとうございます。


2004年12月28日(火) おいしいお米が食べたい。

朝起きて窓を開ける。針葉樹の香りが鼻腔を満たして、うーむ、空気がうまい。しかし、12畳間に一人寝というのも寒いものだ。窓を閉めて
布団に逆戻り。遥か彼方にある石油ストーブのスイッチを入れてしばらく布団の中で丸くなって待機。朝ご飯を食べて、T口夫妻と泊まりに来ているお孫さん(以下「坊」)とで隣町の歯医者さんへ。二人が治療中私は坊の子守。ここの歯医者さんは待合室が畳敷きだっ。外見は首都圏の歯医者さんと変わらず、待合ロビーに普通のソファもあるが、その隣に6畳間併設。畳敷って案外効率がいいような気がする。荷物も置けるし、詰められるし。私はもっと離れた町の歯医者さんに通っていたので知らなかったが、こっちではわりとあるらしい。
ついで、スーパーで買出し。焼餅網を買う。198円。こういう単純なものって東京のスーパーだとなかなかお目にかからないので、丸と角と2つ買う。あとでよく見たら販売元は新宿区だった。いったんT口邸へ荷物を置きに戻ってから、もちつきへ。作業場に着くとブロックで作ったかまどにじゃんじゃん火をくべて蒸篭(せいろ)でもち米を炊いていた。建物の中(作業場兼倉庫)でうすと杵とで盛大にもちをついている。つき立てを早速手づかみでいただく。おいしい!
ここは農業法人の作業場なのだ。作り手がいなくなった近隣の田んぼを借り上げて、法人組織として米を作り流通させようという狙い。私たちが過去に住んでいたあたりは、山間の集落で、日当たりはあまり良くない、水は冷たい、ということで質や形が均一の米がとれないそうなのだが、実は平地の米よりも米の味はいいのだという。農協の規格に合うのは平地の米で、山の手の米はこうした流通経路にも乗りにくいのだという。しかし最近は米は自由流通しているので、生産者が直接米を売ることが出来る。そこで一般には流通しにくいおいしい米を安めの価格(5kgで2200円ぐらい)で直販しようというのが、ここの法人の試み。作物を作る以外にも都会の人たちの農業体験を企画したり、いろいろと面白そうなことをやっていて聞いているだけでワクワクしてくる。今回のもちつきは、お得意さんや普段お世話になっている人たちに分けるためだそうで、作ったそばから近所の人たちが笑顔でつき立てのお餅を持って帰っていた。
T口邸では玄米で購入していてご飯を炊くつど精米しているそうで、どうりでおいしいはずだ。いつかT口家から新米をもらったときのあの信じられない手触りと香りを思い出す。玄米で購入できるなら、新米の時期からはすでに数ヶ月経っていても、味はそんなに落ちないだろう。宅配便と郵便振替で全国どこへでも送ってくれるというので、都会に住んでいても十分おいしいお米は食べられる。早速我が家でもこのお米にしようと心に決めて注文書をもらって帰る。
こういうものは、米どころに住んでいるからといっておいしいお米が手に入るとは限らない。直接農家に知り合いがいるか、販売ルートに伝手がないと結局はスーパーや米屋など、一般の流通ルートで買うことになる。一般的な米の流通ルートは必ず古米などの抱き合わせ販売があるので、普通に買っていたら何割かは混ざっているものを買っている可能性もある。生産者の顔が見えない作物というのはここが怖いのだが、たとえ生協で買っていても事情は同じである。しかし今回はまさに生産者と直接知り合いになれたので心強い。2005年からはおいしいお米が食べられそうである。
#おいしいお米が食べたーいという方、注文書をpdfファイルでお送りします。メールご連絡くださいまし。


2004年12月27日(月) 旅は続くよ。

朝バスで金沢を発って次なる目的地、つまり昔住んでいた辺りへ。当時は車か電車を乗り継いで金沢間往復をしていたので車窓からの景色は意外と新しい発見に満ちている。バスを降りて夫の学生さんやら研究仲間と合流して、まずは公衆浴場へ。女子学生さんとは初対面でいきなり裸の付き合いである。その後、昔の馴染みの定食屋で昼食。相変わらず美味しい。食後は夫達はワークショップへ。私は車で迎えに来てもらってT口邸へ。知り合いの消息や人生観などお母さんと喋り倒す。明日は餅つき大会参加予定。まだまだ遊ぶわよー。


2004年12月26日(日) 金沢21世紀美術館

昨日とは打って変わって荒天。朝市はパスして、そのまま特急バスに乗ることにする。
金沢まではおよそ2時間。今はなき能登鉄道の線路跡と、鉛色の空と荒れる日本海を見ながら一路バスは金沢へ。途中で睡魔に襲われ、寝ぼけ眼で香林坊へ。ホテルに荷物を置いて今日の目玉その1の金沢21世紀美術館へ。ここは現代アート専門で建物自体がすでにアート。ボランティアらしい監視員の対応にむっとしながらもさまざまな催しを見る。私たちにとっては子供だましで面白くない展示もいくつかあるが、子供だましだけあって子供には大盛況。楽しそうに走り回り展示物を見ながら心から楽しそうに笑う子供たちの姿を見て、自分たちの年取った心に結構ショックを受ける。
いったんホテルで休憩してから、みんみんさん&りー氏との会食へ。昔ここに住んでいたころのレストランへご案内。お料理もおいしく、話も弾んで楽しい夜だった。


2004年12月25日(土) とんびにバナナを…。

朝起きたら枕元に昨日見たお重が並んでいるとなどということはなく、粛々とおきて、洗面、食事、布団上げを行う民宿の朝。外は北陸とは思えないピーカン。10日と25日は朝市は休みだというので、市内はとても静か。とりあえず海沿いをガシガシと歩き回ることに。市街地の100円循環バスが何通りか走っていて、とりあえずきたバスに乗ってみるが、旧輪島駅から先がルートが変わり、思い掛けない場所に連れて行かれる。いつの間にか輪島駅に戻ってきたので、バスを降りて海沿いの道を歩き始める。空にはとんびがピーロロロロロと鳴いていてのどか。輪島港の脇から浜辺に抜ける道は遊歩道になっていてそこから見る海は信じられないほど青くてきれい。途中でみんみんさんからのメールが携帯に入っていたので、そこで返信。なんか便利な世の中だなーとまた感心。風もなくぽかぽかと暖かい。猟師町ではみんな大掃除に余念がなく、これだけ密な生活をしていると自分ちだけ掃除しないなんてわけには行かないなーと変なところで考え込む。
とりならべにいとなんさんが持ってきたバナナを実は旅行に持ってきていて、浜辺についてバナナを食べようとすると突然上から黒い物体が降ってきて、バナナが地に落ち、夫が悲鳴を上げる。夫の指からは血が出ている。あーびっくり。のどかなとんびどころではなくなるが、おなかはすいたのでそのままこそこそととんびに隠れてバナナを食べる。
海岸からわき道を抜けるとあっという間に市街地に入る。地元のNPOが作成したお勧めランチマップにしたがっておすし屋さんに入る。ここは東京の店で修行していた江戸前寿司。大将は私と同じぐらいか。昨日のおすし屋さんより、ねたもしゃりもおいしかった。横浜から来たという夫婦の人と相席になり、盛り上がったり。
おなかもくちくなったので、昨日の輪島塗の店に入る。結婚じゅう年目におじゅうを買うのも悪くないので、まあ、記念ということで。こじんまりしていて、椀のくりぬき以外すべての加工を自分でやっているという話だったが、昨日今日と話をしていてとても信用がおけると思ったので買うことにした。結構な額だが、ほかの店よりは割安感もある上に1割ほど引いてくれた。お重と普段使いのお椀を二つ買う。こっちはクリスマスプレゼントだ(笑)。お重もお椀も無地。二つとも年内に届けてもらうように頼んで、ぐっと寒くなってきたので早めに宿に帰る。お風呂に入って休んでいると私たちあてに電話がかかってきた。ここにいるのは誰も知らないのに、と思っているとさっきの輪島塗の店のご主人で、カードで買ったのにサインをもらうのを忘れていたとかで、またとりにきてもらうことにする。売るほうも買うほうも舞い上がっていたかも。


2004年12月24日(金) のと

一転して能登にいる私。早起きして昨日の残り物をお腹に収めて朝二番の機上の人となった。
離陸して安定飛行に入り、配られた飲物が終わらない内に着陸体制。はやっ!晴天のお陰で最短ルートらしい。富士山もアルプスも良く見える。能登は雨( 笑)
能登は十年振り。町は再開発が進んでいて、以前の面影はない。宿で紹介された寿司屋でお昼。朝一終了後の寂しい通りをそぞろ歩き、輪島塗りのお店で心引かれるお重に出会う。
むー。悩みつつ能登の夜は更ける。


2004年12月23日(木) とりならべ2004

というわけで、とりならべである。
詳細はお仲間のサイトをごらんいただくとして(手抜き)、今回で6回目になるらしい。といっても2回目は引っ越したばかりで年内にはできなくて、1ヶ月遅れぐらいでやった記憶がある。それほど年末を意識していたわけではなかったが、しかしもう、とりならべなしでは年があけないと思うほど生活に根付いてしまった感がある。丸五年となると顔ぶれにも変化があって、結婚した人、赤ちゃんが生まれた人、音信不通になってしまった人、など時間の経過を感じさせる。去年は諸般の事情で参加者が少なく、6人で1テーブルを囲んでしみじみ食べていたのだが、今年は早めに声をかけたのが功を奏したのか、総勢11人+赤ちゃんという盛況だった。ぴよたさん、ぴよたさんちのケロちゃん、tenkoさん、ようこさん、Slashさん、いとなんさん、Yassさん、Yassの嫁ちゃん、しーちゃん、NEOさん、れいこな、れいこな夫。
初登場の人は、畏友マルコさんつながりのいとなんさんと、Yassの妻と、Slashさんと、ケロちゃん。もともとはネットのオフ会のような形で始まったのだが、Yassは完全にオフラインモードの知り合いなので、当然妻にもハンドルネームはないのだった。出迎えて一番「ハンドルネームつけないと」ということになり、とりあえずAsaちゃんと呼ぶことに。ケロちゃんはハンドルネームだが、ハンドルで呼んでも本人が理解しないので本名で呼ぶ。お初の方々もそれなりになじんで、楽しんでもらえたようで良かった良かった。みんなが持ち寄ってくれたものをわしわしと食べ、ときおりドラえもん絵描き歌のFlashとか、ペリーの声とか色物をはさみながら7時過ぎに解散。一時帰国中のようこさんとは帰り際に万感迫り思わずハグしてしまう。同じ東京に住んでいても会う頻度はあまり変わらないのだが、まあ、気分ということですか。細い肩だった。
料理の配分とか大体要領もわかってきたし、2時半ごろ集まって、おなか一杯食べてのんびりして、いいペースかも。また次回もよろしく>該当の方々。


2004年12月20日(月) あと少し

非常勤先L。
このクラスは2人ほどドロップアウトしてしまったが、あとはよく皆がんばっていて、雰囲気もいいので楽しい。今日が年内最後で年明け2回で終わり。これで年内の授業は自分が受ける分も含めて全部終わり。講師控え室で顔なじみの人に年末の挨拶をしたり、構内のATMで知り合いとすれ違ったり、まあここにも知り合いは増えつつあることよ。
お昼を同業の人と食べるつもりでいたのがキャンセルになったので、空いた時間で美容院でカット。非常勤先から駅に行く途中に去年あたりできたところで、まあ帰り道だしものはためし。担当したのは私と同じか少し下ぐらいのおばさんはいった女性。特に上手いとも特にセンスがいいとも思わなかったが、無駄話せずてきぱきと進めてくれるので早く済んでよかった。今まで行っていたところはブローが念入りだったが、髪の毛を軽く乾かして終わりなので、美容院に行ったという感じはしない。
てっきりこの人はE-mailで済ますだろうと思っていた人から、大判のクリスマスカードが届いていた。今から郵便でカード送っても間に合わないからこちらからはE-mailだ。本棚に糸を渡してカードをつるしてみる。


2004年12月19日(日) パンがなければ焼けばいいじゃないの。

木曜日に迫ったとりならべ(意味のわからない人は「とりならべ」で検索してくだせえ)で来客があるので、掃除でもするべ、と思っていたが朝からちっともはかどらない。夕方スポーツクラブに行く前に急に腹痛に襲われ、どうもおかしいと思って熱を測る。あら微熱が…。高熱に強い私は、37.1℃ぐらいが一番つらい。スポーツクラブは明日にでも行こうと、休むことにする。後で今月から週末会員に変更していたことに気づく。ダメじゃん(-"-)。だからといって這ってでも行くような玉ではないのだった。今年はもう行けないなぁ。
で、検索した方はお分かりの通りとりならべの常連のNEOさん。最近材料濃厚なずっしりとしたパンをホームベーカリーで焼き続けているようなので、とりならべにずっしりパンをリクエスト。じゃあ、こちらはフランスパンでも用意しようかと思い、ホームベーカリー添付の説明書を見ながらとりあえず試作してみる。通常焼いている食パンよりドライイースト少なめ、粉多めで牛乳もバターも入れずに5時間後(!)に皮バリバリで焼きあがる。山形のフランスパンというのも変な感じ。パン・ドゥ・ミ(pain de mie)とも違う。
ところで、マリーアントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」といったという話は有名だが、あれはお菓子ではなくブリオッシュなのだという話を、元同僚のフランス人にこの間教えられた。「パンがなければ」は"S'il n'y a pas de pain,"だろうから、それとブリオッシュ"brioche"でgoogleのフレーズ検索をしてみたら、« S’il n’y a pas de pain, qu’on leur donne de la brioche ! »という文章が出た。直訳すると、「もしパンがないなら、彼らにブリオッシュを与えよ!」か。でもこの文章でヒットしたサイトは2件しかない。今度は"Marie Antoinette"と"brioche"で検索。今度は«S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche»が出た。「彼らがパンを持っていないなら、彼らはブリオッシュを食べる」か。
当時のパンというのは、今のような白いパンではなくて黒っぽいごつごつのパンだったのに対して、ブリオッシュは卵も牛乳もバターも入ってそりゃまぁ贅沢だわけだ。お菓子だろうとブリオッシュだろうと、アントワネットのとんちんかんの度合いが変わるわけではないけれど。と思いながらさらに検索してったら、この言葉はマリーアントワネットとは別の人の発言らしい。薀蓄だなあ。

参考サイト:
ネイバー知識plus http://plus.naver.co.jp/browse/db_detail.php?dir_id=110902&docid=14143


2004年12月18日(土) あと1つ

なんだかあったかい夜。
非常勤先Iは、今日が年内最終回。家から直接出かけていったら、うへー遅刻しちゃったよ。大油断。しかもなんだかんだとやることは多いのであった。来年度はもう少し質・量とも整理しないと身体がもたないじょー。年内はあと1つで終わり。がんばるじょー。

軽い気持ちで1ヶ月の米ドル定期預金つくって、うっかり満期が過ぎていて、損失計上してしまった。ぐぅ(-"-)。2年以上前に作った豪ドル定期の満期が数日前にきて、こっちで損失補てんするも悔しさが募る。


2004年12月17日(金) 美人はほんとに得なのか?

とあるシンポジウムに参加。
古今東西の文学における艶や笑いについて、研究者たちが大真面目に論議しようというものである。お堅いものの中にふと挟まれる笑い、不真面目さの中に仕組まれた高等なレトリック、それらを学術的に論じること自体が笑いでもあり、まじめに語れば語るほど聴衆の大爆笑を誘う場面もたびたびあって、面白い午後のひと時だった。
ところで、壇上の一人はしばしばテレビにも登場する美貌の女性研究者。彼女の専門から学術的に分析してもそれなりに聴衆は聞き入るだろうに(というかそれを期待しているのに)、ここぞとばかりに下ネタや駄洒落を連発する。しかも間合いが取れてないので全然面白くない。場の空気が読めていないのか、確信犯なのか、本人はしゃれているつもりの悪ふざけがことごとくすべる。周囲も聴衆も半ばあきれていて、まさにグーで殴りたい衝動に駆られるのだが、この人、この姿かたちの美しさゆえに今まで許されちゃってここまで来ちゃったんだろうなぁと思わせる。こうなると「美人だから許される」というのは、不幸なことだよなぁと思う。年の頃は40代後半、ファッションも決まっているし、まさに絵に描いたような才色兼備でありながら、「色」が際立ちすぎて「才」を邪魔している印象を受けるのだ。
器量よく生まれついた人はある時期ある場面で間違いなく得をしているだろうし、自らの美を売りにする職業ならばいくら美しくても美しすぎることはない。しかし、本業とは関係ないところでその「美人だから得」の切り札を使い続けてしまうと、そうではなくなった時やまったくそれが通用しない場面で、その反動で思った以上のしっぺ返しもくるのではないか。
もちろん彼女が著名人となるまでには天賦の才に加えて、人一倍努力があっただろう。にもかかわらずそうして手に入れた数々のものであっても「美人だから得…云々」の一言で片付けられたこともあったのではないだろうか。逆にちょっとまずいことをすると、今回のように「美人だからと思って…云々」と実際以上に悪く言われることもある。本質でないところでその人の評価が左右されてしまうというのも邪魔臭い話であるが、美しく生まれついてしまったがゆえに他者の雑念に惑わされ、もっと磨いたり探求できたりしたものをみすみす逃してしまったかも知れないと思うと、得した以上に損しているような気もする。


2004年12月16日(木) V字分布

フランス語、今期終了。
先週の試験の結果が返ってくる。一応合格。このコースは、成績優秀者は表彰されるのだが、なんとクラスの半数が成績優秀者だった。平均点もかなり高い。これってすごく極端なM字曲線、いやV字に分布してるんだろうなぁ、あるいは、おじゃる丸の眉毛みたいに出来るグループがこっちからみて右、それ以外は左、のように分布しているのだろうか。平均点を出しても意味がないような…。ま、どのみち私は分布図向かって左側さ(-"-)。
さて、成績通知表の分析(ごそごそ…)。
試験は5分野あって、書き取り(文章は先生が読み上げ)、聞き取りの三択問題、読み取りの三択問題、口頭試問、作文である。総合点は過去最低なのだが、よく見てみると、作文はわずかながら過去最高点だし、聞き取りと読み取りの三択問題は、9割取れている。口頭試問はいつもより低めだが、なんといっても書き取りがひたすら足を引っ張っている。私の総合点のみならずクラス全体の平均点も大幅に下げているに違いない。元凶はこれだーっ。
書き取りで点数が取れない原因は、聞き取れないか綴り字が間違っているかのどちらかだが、私の場合は圧倒的に綴り字の不確かさに原因がある。そもそも活用と綴り字は自習すべき項目であり、それに時間をかけていないのは明らかなのだ。これからは苦手科目として特に訓練して克服するよう努力しよう。作文する機会も自分で作るようにしよう。


2004年12月15日(水) じゃんじゃんばりばり

シチューを作る。
朝、小麦粉をいためておいて、牛肉を茹でてゆで汁を一部とりおいて保温調理鍋で引き続き加熱し、仕事帰りにジャガイモたまねぎにんじんを買ってきて投入。再度加熱してまた保温。野菜が煮えたら「すぱにや(ご参照:11月30日の日記)」を溶かして牛乳と塩コショウで味を整えてまた加熱して保温。なんか簡単だよなー。今日もおいしく出来上がったが、オージービーフはちょっと味が弱いのか、水の量が多すぎたのかちょっとコクがない感じ。炒めたまねぎを電子レンジ加熱で代用したせいかも。しかしあめ色になるまでたまねぎを炒めるなんて、指の先から家の中までたまねぎ臭くなるのでとてもそんな代償を払ってまで作る気はないのであった。

電車で日本K済新聞社の中吊り広告を見て、三秒ほど呼吸を忘れる。あの連載小説の広告ですよ、奥さん。「待望の新作が日K新聞朝刊に登場。」「好評連載中 日本K済新聞」。いやー冗談かと思いましたよ。誰が待望して、誰に好評なのか。いや、みんなでツッコんで遊べるという意味では大好評だけど。

昨日から今日にかけて講義要綱をじゃんじゃんばりばり作って各非常勤先へ送る。去年の今頃、うんうん唸りながら作っていたのとは大違い。去年は急遽声がかかった新規先への履歴書の作成と平行して、やったこともない(←当たり前)新規科目の講義要綱をいくつも作っていたので、かなりつらかったのだ。今年は実績があるので、学期中のメモなど見ながら今年度を振り返りつつ、加筆修正して終わり。昨年度じたばたした分、今年度の自分が成長したようで、「先生」はちょっとうれしいぞ。来年度は、新規科目が3つあるが、かなり勝手がわかってきたのでうち2つは先方がくれた資料を参考にして難なく終わり。残り1つを含めてまだ要請されていないのがあと3つ。これはちょっと気が重い。


2004年12月14日(火) 危険な宝探し

さいたま市のディスカウントハウスで火事があった。しかも連続放火だという。いったい何が狙いなのか、卑劣な犯人を心から憎む。このチェーンは、「ジャングル陳列」とか「圧縮陳列」とか呼ばれていて、わざとどう並んでいるかを見せずに、客が行き当たりばったりに思わぬ掘り出し物を見つけるトレジャーハンティング(宝探し)を狙って作られているといわれている。
ご参考:リアルタイム・リテール http://premium.nikkeibp.co.jp/retail/special/01/09.shtml
私は数ヶ月前に、繁華街にある系列の別の店で買い物をしてそのことを10月19日の日記にも書いたが、そこは特に店内の見通しが悪く、掘り出し物を楽しむというよりは、できるだけ早く目的のものを見つけて早く店を出たいと思った記憶がある。責任者は記者会見で避難通路は確保されていたので買い物客に被害はなかったとしたが、さいたまの店では焼け跡から従業員が遺体で見つかった。この3人は、客の誘導や消火活動にあたっていて逃げ遅れた可能性があるのだという。「ああ、やっぱり」という思いと「だからこそ対策は何かなかったのか」という思いとが交錯してやりきれない。消防法違反をしていたとしたら、企業もそれを見逃していた当局も責任は重い。
私の経験ではこのチェーンの接客態度はまじめできびきびしていて、非常に気持ちがよかった。さいたまの店員たちもきっとまじめな人たちだったのだろう。犠牲者の冥福を心からお祈りしている。


2004年12月13日(月) はしごはずされた10年

非常勤先Lの近くに勤めている元上司とお昼を食べる。
私が新卒で入ったところは合併につぐ合併で当時の人たちはてんでばらばら。新しく会社を興した人もいれば、ほどほどの退職金をもらって優雅なリタイアメント生活に入った人もいれば、不遇な第二の人生を送っている人もある。今日会った人は比較的恵まれているほうだろうか。それほど年収ダウンもなく、お子さんたちはそろそろ学校を終える時期である。
昔の同僚の話や昔の生活の話をぽつぽつとする。あの頃は福利厚生も手厚く、社内預金の利率も高かったが、ほぼ10年前に私が会社をやめたころはそろそろ斜陽の兆しが見えてきた頃だった。それから数年の間に会社の厚生施設や社員寮はばたばたと閉鎖になり、従業員に家を持たせる(そして、家を買ったら転勤させて空いた家を借り上げ社宅として格安で運用する)ための貸付金も優遇措置がなくなった。昔は住宅購入資金を市場より安い金利で会社が貸付け、退職金で返済するようにローンを組んでいたのだ。4k万円ぐらい借りられたので、限度額ぎりぎりを安易に借りて、住宅資金に当てるだけでなく遊興費に使っている人もいたし、当時は会社から勤続5年や10年の節目に、余暇資金としてもいくらか借りられる制度があり、原則禁止されていたけれど会社で借りたお金を市場で運用したりする人もいた。退職金も多くを望めず金利も一般並みの条件になった今となっては、80歳になってもローンを払い終わらないというケースも続出である。
私がペーペーの新人だった頃はバブルがはじけていたので、それほど景気のいい話はなかったが、その前のバブルのまっただなかにいた人たちは一流企業にいれば一生安泰で、まさか後でこれほど経済状態が悪くなるとは思っていなかった。会社に踊らされ、高いところに上らされ、はしごをはずされたた感じである。それでもまだマシなほうなのかもしれない。


2004年12月12日(日) アイルケ

ハー○クインロマンスといえば、一昔前一世風靡した金太郎飴的恋愛小説シリーズである。程よい厚み、程よい刺激、夢を書き立てる設定、そして過激でないラブシーン。これでもかこれでもかと出版される似たような小説にハマる女性が続出して一時社会現象にもなったのではなかったか。
ところで、ひとりハーレク○ンロマンス(オヤジ向け)を量産する人がいる。日K新聞朝刊連載中小説である。ただしこちらはオールドファッションの性描写満載。お仲間の掲示板でも寄ってたかって突っ込み中。いつぞやの大ヒットの何番煎じか何匹目のどぜうか、読めばよむほど既読感が募る。過去の原稿シャッフルしてもわかんないんじゃないか?という名言まで。ヒロインである人妻の年齢が自分の年齢に近いのがまたいけないのか、本当に読んでいて気持ち悪い。といいつつ新聞を開くと真っ先に目を通して、あまりのばかばかしさと気持ち悪さにけっ(-"-)といい続ける毎日。ある意味ハマってるというんだろう。さて今日は日曜日、せめて子供が家にいるような日曜日にはやめて欲しい描写である。避妊具もつけないで性行為におよぶ人妻@子持ちと、それを愛の証のように感動している男。

ば、ばっかもーーん!!

これが世の男性の願望を代表しているなら、まだまだ望まない妊娠と性感染は減らないね(怒)。
ま、何にせよつっこみどころ満載なのだが、わが意を得たりのブログを見つけたので、もう私は何も言う必要がない。日Kを購読していない人にもわかりやすく解説。
#追記:下記ブログは男性の視点で突っ込んであるので、わが意を得たりというのはやや言いすぎ。微妙に解釈が異なるが、でもあの小説が男の考えを代表しているのではない(あたりまえ)なことを知ることができるのでそれはそれで可。

にっけいしんぶん新聞 テーマ:連載小説
http://nikkeiyokyom.ameblo.jp/category-bdc5585a31b0bee1dcdd00c3f2d4d854.html


2004年12月08日(水) 牡蠣大尽

日曜日にとある筋から牡蠣が届く。ありがとうございます>該当の方。
朝からわくわく。午後になって殻つきと剥き身とが入ったずっしり重い箱が。うっひょー。さっそくあけて、殻つきの方をキッチンで立ち食い。電子レンジに1個あたり1分見当でかけると、口が半開きの中身がぷりぷりの芯までほどよく熱が通った状態になる。じゅる。各自3個貪り食ったところで、ようやく落ち着いて冷蔵庫にブツをしまって今後の調理方針について話し合う。これまた到来もののワインがあるし、夜が楽しみである。
夕方スポーツクラブ。シャワーも浴びるのもそこそこに飛んで帰って、酢牡蛎で1個食べてから、後は電子レンジで各自6個。石川にいた頃は、年に1度穴水まで行って、バケツに入った牡蠣を炭火焼で山ほど食べたが、突然沸騰した水が牡蠣から噴出したりしてなかなか危険だった。電子レンジはその点簡単。それから剥き身を軽くバターでソテーしてゆずしょうゆをかける。んまー。大河ドラマの慎吾ちゃん一世一代の大芝居も、牡蠣の余韻にかき消されていくのであった。
翌月曜日は、牡蠣雑炊。炊き上がったご飯に剥き身の牡蠣を乗せて数分蒸らし、軽く混ぜておわんによそってから、かつおで取ったおだしをかける。わさびと刻みねぎとさっとあぶったのりを載せてかっ込む!美味。平行して殻つき牡蠣にホワイトソースをかけて、粉チーズをかけてグリルへ。ホワイトソースで封じ込められた中で、牡蠣がじんわりと熱せられる。グラタン上部の香ばしいこと。牡蠣から出た水分とホワイトソースが混ざってこれまた絶妙なソースに。
火曜日の朝、ずっしりと重い殻を可燃ごみ回収に出す。ううう、さようなら(涙)そういえば、日本橋に蛎殻町(かきがらちょう)という街があるけど、こんな感じだったのかしら(違)。夜は、牡蠣の熱い油じゅー@栗原は○みレシピ。さっとゆがいた牡蠣に、白髪ねぎをどっさり載せ、かんかんに熱した油を上からじゅじゅじゅーっとかけておしょうゆをちょろりとたらして食す。うおー。牡蠣はあと1回分。
水曜日はチャウダーにするか鍋にするか悩む。白菜がようやく安くなってきたので鍋でファイナル。うーむ。満足。

♪こいびーとよ これが わたし の いっしゅうかんのー しごとですー
♪テュリャ テュリャテュリャ  テュリャテュリャテュリャリャー
♪テュリャテュリャテュリャ  テュリャ ヤー ヤー


2004年12月07日(火) むかしといま

フランス語試験前半終了。
今日は「話す」力を見るテストで、自分の番のときだけ行ってあとの授業はなし。昨日作った作文をぎりぎりまで暗記すべくぶつぶつ言っていたのだが、山は全然はずれ(もったいないからいつか使おう)。いくつか提示されたテーマのうち一つ選んで、辞書をみながら10分間準備をして残りの10分話すというもの。私は「過去に見た映画について」と「日本の過去と現在の比較」という二つのうち「日本の過去と現在の比較」について話す。最近頭が幕末なので100年ちょっと前と今の比較を話す。昔は歩いて移動していて、ヒコーキも電車もなくて、鎖国をしていて、外国行きは難しくて、日本に外国人は少なくて、人々は外国人を恐れていたけど、今はヒコーキや電車を使って旅行するし、たくさんの人が外国旅行するし、日本に住んでいる外国人もたくさんいる、という話をしたら、1分で終わり。それから先生がいろいろと誘導質問をしてくれて、キモノをきて、ハカマを履いて、ハカマというのはすごく大きなパンタロンのようなもので、ハカマはサムライしか履いてなくて、サムライ以外に商人とか農民とかいて、農民は野菜や米を作ったり、海や川で魚を釣ったり、山に入って火をおこす用の枝を取ったりした。農民はハカマは履いてなくて、短いキモノを着て、わらじを履いていて、わらじはわらで作ったサンダルで、学校に通っていた子供はたくさんいなくて、一般的に学校に行くのはサムライの子供で、学校の先生はサムライかお坊さんで(僧という単語は教えてもらった)、農民の子供は親を手伝わなくてはならなかったので、学校にはいってなかった。というような話をする。普段教室で無口な私がまあ絶句せずにそこそこ話し続けたので、先生としては期待以上だったのではないか、と想像(内容は事実誤認だらけだろう)。山は外れたけれど、作文して直前までぶつぶつ言い続けたのもよく作用したようだ。
地下鉄に乗って帰る途中、携帯メールで大学の同期の男性@求職中がたまたますぐ上(笑)にいることがわかり、2駅戻って一緒にお昼を食べた。幕末と今を比較するまでもなく、ここ数年で世の中ほんとに変わったよねえ。


2004年12月06日(月) こどものつくったうた

非常勤先L。構内の銀杏が昨日の暴風雨でかなり散って、黄色いじゅうたんを敷き詰めたよう。管理の人たちが総出で落ち葉と格闘している。葉っぱがあらかた落ちてしまったおかげで木立からすっきりとした青空が良く見える。
授業の終わりに帰り支度をしていたら女子学生が箱をもって、たたたっと近づいてきた。「せんせい、これ、こないだ専攻の旅行で買ってきたんです。食べてください(はぁと)」といって、サブレを一つくれた。うわ、こんなの初めて。ちょっとときめいてしまった。なんか修学旅行みたいで楽しかったらしい。お昼は軽く学食でたぬきうどんを食べて終わり。後は図書館に夕方までこもってフランス語の作文をして、後で元同僚たちをお茶に誘って、フランス人に添削してもらった。赤いボールペンを渡したら、もう真っ赤。はじめのほうは辞書に載ってる例文を多用しているのでそれほど赤が入っていないのだが、後半になって話が込み入って自分のオリジナルになればなるほど赤が増えていく。グラデーションだね、と笑われる。

最近、お仲間の掲示板での話題で、関西の人は、他の地方に移り住んでも他地方出身の人に比べて自分の言葉(関西弁)で通す人が多いのではないか、という話があったのだが、それに関連してふと「こどものつくったうた」という実家にあるテープを思い出す。これは1960年代頃に放送されたものを父がオープンリールのデッキで録音したしたもので、「こどものつくったうた」というタイトルが付いている。多分関西の放送局が企画したものだと思うが、小学生が書いた詩がいくつかあって、それにメロディをつけてそれをボニージャックスだかダークダックスだか、男性コーラスが歌ったものである。関西弁で書かれた詩が面白いといって父はこれがすごく気に入っていて、私が子供の頃何度か聞かせてくれた。今はカセットにダビングして同居している孫に聞かせたりしているらしいが、はっきりいって子供が聞いても面白くない。前述したように1960年代なので、お父さんは戦争帰りでもともとは海軍だったとか、家族で牛乳を一本しかとっていなくてそれはお父さんが飲むとか、その世情を感じさせる歌が関西弁で入っている。昔は今のように詩のイントネーション無視のメロディはつけなかったので、歌の関西弁を生かすようなメロディで、今聞くと多分すごく面白いと思うのだが、関西弁ということでその中のある歌を思い出したのだ。
うろ覚えなので一部抜粋(といいつつ、メロディに乗せてあると意外と覚えているものだ)。


「おかあちゃんは 『そおでございますねぇ』と いった」
「おかあちゃん 無理して東京弁 使こぅたら おかしいわ お客さんも 京都の人 やんか」


京都人のおかあちゃんが、訪問客に対して気取って東京弁(標準語)を使っているのを子供が揶揄している。以前はなんとも感じなかったが、掲示板での話題をなぞった後だと興味深い。少なくともこの時期、京都で東京弁を使うのを是とする流れ(流行?)があったということだ。テレビの普及と関係があるのだろうか。


2004年12月05日(日) 先住民

明け方すごい風の音がしていた。そういえば、強い雨が降るっていってたなぁと思いつつそのまま起きずにいたら、朝外を見てびっくり。ベランダ一帯にプランタの土と藻が散らばっている。はぁ?夜中のインスタレーション(今「新日曜美術館」視聴中)ですか?窓ガラスにも土がついている。台風の時だってこんなにひどくはなかったような…。不精しないでプランタを奥に下げとけばよかったなと思いつつ、ベランダを掃いて水をまいた。日差しが強い。もっと乾燥したほうが片付けやすそうなので小休止。せっかくの日光なので箱入り娘のバジルの鉢植えを外に出す。

ところで最近、私の周囲はFeliceさんにインスパイアされるのが流行。いまやFeliceさんの日記は必読の書ですよ、奥さん。

新選組のドラマがもうすぐ終り。今続々と新政府軍が江戸に向かって集結しているところ。見ているとドラマそのものよりもポスト新選組(つまり明治維新以降)の日本のあり方とか考えてしまうが、これで次に江戸に遷都されて「東京」が生まれて、廃藩置県が行われて今の中央集権の土台ができるわけだ。
で、インスパイア源Feliceさんは12/4の日記で関西人の東京(人)への対抗意識について取り上げていて、その中で司馬遼太郎の小説の一節を引いて「幕末・維新を経て中央政権が急に押し寄せてきた」ことに対する反発心が、今の対抗意識の元凶ではないかと書いている。それまで帝のお膝元にいて独自の文化を作り上げていた人たちが、なにやら関東のほうから中央集権という名前のもとに言葉やら制度やらを押し付けられたら、それは反感を持つだろうということだ。しかし考えてみると、当時の東京の中央集権というのはほとんどが薩長が占めていたわけで、大阪あたりからしてみると、今まで遥か西にいた人たちが作ったものが、今度は東のほうから高圧的に押し寄せてきたという形になる。
「東京は田舎ものの集まり」というのは言い古された言葉だが、東京にも先住民(江戸っ子)はいた。江戸っ子は三代続かないと、などと言って江戸弁を操り、これまた独自の文化を誇っていた人たちが、中央集権化で急に自分たちの居住区に押し寄せてきた、言葉も振る舞いも違う「東京人」をどう感じていたか。さぞさまざまな軋轢があったことだろう。

(追記:上のように回りくどく書いてしまったけど、これに関連して掲示板にも大雑把に書いたことを以下に採録。)
-----------追記ここから-----------
えーと、つまり「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」という言葉通り、中央集権の本拠地である東京がにくけりゃ「東京人」までもにくいという論法も成り立つだろう、でもその「東京人」というのも、所詮は地方から集まった人たちの寄せ集めなので、もともと先住民である江戸っ子も「東京人」が嫌いだったろうなぁ、ということを言いたかったわけですが。
----------追記ここまで-----------

子供の頃、神田の問屋街あたりにつれられて行ったことがある。通りすがりに商店のおじさんに道を尋ねると、「この道をマッツグいってね、シロイ道をね、うん、そこのシロイ、シロイ道を…」と説明してくれた。いくらその方向を眺めても白い道はない。不思議に思っていたが、大人は理解したらしくお礼を言って目的地にたどり着いた。「広い」を「シロイ」、「まっすぐ」を「マッツグ」といったりする人があるのをそのとき初めて知った。最近は落語家も標準語だし、今神田あたりでこういう話し方をする人はめっきり少なくなっただろう。


2004年12月04日(土) しわす

今朝、夫が「寒い寒いと思ってたらもう12月なんだよね〜、寒くて当たり前だ〜。」と感心していた。明け方寒かったらしい。いまだに夏用の薄い羽毛布団に、申し訳程度に毛布などをかけて寝ている私たち。いいかげん冬用のお布団だそうか、それともこのまま乗り切るか。
夫の研究室はここ数年、同じ場所で11月にある展示会に出展しているのだが、会場近くには巨大なクリスマスツリーが飾りつけてあってカップルなどが写真を撮っているらしい。この間展示会から帰ってきて一言。「いつもあそこに行くとクリスマスツリー飾ってあるから、いつでもクリスマスツリーがあるような気がしてたけど、あの時期だからあるんだよね〜。」よく気がつきました。それってNYのロックフェラービル前ではいつでもツリーの下で人々がスケートしてるようなものか。
今日は非常勤先I。そういえばここからは先日「重要」と表書きした封書が届いていて、中を見ると「11月に昇給がありました。」というお知らせだった。しかも4月までさかのぼって支払われるらしい。やったー月300円のアップだー(笑)。というわけで遡及分2100円が多く振り込まれた。それと数日してボーナスも出た。ここは6ヶ月以上働くとボーナスがあるというのを初めて知る。やったー数千円の臨時収入だ(笑)。律儀に税金が1割引かれている。すずめの涙からも搾り取る気なのね>酷税庁。
そんなことを思いながら出勤すると、構内に俗っぽいクリスマスイルミネーションが輝いていた。キリスト教系でもないのに。なかなか不思議な動きを見せる非常勤先Iである。


2004年12月03日(金) 歯科医で過ごす午後。

今朝、パンが焼ける匂いと焼ける合図のメロディ音で目を覚ますつもりが、目覚まし時計がなっても気配なし。キッチンに行くと昨日タイマーをセットしたあとスタートボタンを押し忘れていた。ひーん。
非常勤先Bのあと、夕方歯科医の予約。通常ならここで時間をつぶして直接向かうところだが、他にもいろいろとやることがあるので一度家に帰ってから出直すことにする。というわけで、食事もせずに(でもケーキ屋さんには寄って)直帰。乗り換え駅でちょっと歩いて住民票を取る。住民票は印鑑登録証で自動機発行も可能なのだが、前夜にそういう話をしていたにもかかわらず忘れる。窓口に申請書を出すと、先月から自動機だと発行手数料100円安くなるといわれるが、時間もないのでそのまま受け付けてもらう。あとから考えれば、自宅近くの出張所に出直せばよかったがあとの祭り。この間のデパートの友の会カード再発行手数料といい、最近、こういう細かい無駄な出費が多いなと思う。生活があわただしいと結局こういう失敗が増える。気をつけないと。
家に帰って、実家に届ける荷物(金婚式の集合写真の焼き増し、写真を入れる額、ケーキ、取り寄せた卵をもらって帰るパックなど)をまとめて、あわただしく昼食を済ませてバスに乗って一路実家へ。歯医者さんの予約の15分前の午後3時15分に実家着。荷物をすべて渡して、じゃ、ちょっと行ってくるといって徒歩2分の歯医者さんへ行って、再び実家に戻ったのは6時前。日もとっぷりと暮れている。
別に大手術があったわけでも大幅に治療が遅れていたわけでもない。時間通りにブースに入り、歯医者さんにお誕生日のプレゼントを渡し、予定通りの箇所を治療してもらい、さらに気になる箇所を申告してそこは改めて予約を取ることにした。治療中に頭上で交わされた会話で、先生のPCがウィルスに感染しているらしいという連絡が来たという話になり、奥の書斎に通されてちょっと見ることに。といってもそのパソコンにはウィルス駆除ソフトが入っていて最新版にしてあるというし、おそらく成りすましのウィルスだろうということになる。そもそも自分がウィルスに感染したことがないから、症状をみても良くわからない。虫歯になったことがない歯医者さんも困るだろうな。(んー、それを言ったら獣医や男性婦人科医もだめか)それからポップアップをブロックしたいとか、DVDが見られなくなったとか、いろいろ設定を直しているうちに遅くなってしまった。先生が普段使うサーチエンジンはYahoo!だというので、Yahooのツールバーをダウンロードして、ポップアップブロッカとして使うことにする。それからDVDはWMP(Windowsメディアプレイヤ)は突然画像が見えなくなったということで、更新ファイルをダウンロードしてみたりするが解決せず。一度削除してもう一度インストールしないとだめなのかも。WMPはダウンロードに時間がかかるので、お茶を2回振舞われたりして、17時に降参。
時間がかかって申し訳なく思った先生が、じゃあ今度の予約する分もここでやっちゃいましょうと言って下さり遠慮なくそうすることにする。いくら実家近くとは言え、こなくて済むならその分時間が浮く。そこからまた待合室でしばらく待ち、さらに夫が新しくかかる歯医者さんに紹介の電話を入れていただいたりする。もう20年以上もかかりつけなので、ほとんど親戚の家に遊びに来たような濃密さだ。昔から近所の家に上がりこんで、おしゃべりに興じたりピアノを引き続けたりして、時を過ごしたものだがそんな感じ。近所のケーキ屋さんや米屋さんが相次いで閉店して、街の様子もぐんぐん変わる。先生にはずっとお元気でいていただきたい。


2004年12月02日(木) 女装

お世話になっている方の還暦のパーティがあり、この前買ったワンピースを着て、厚めにお化粧して、髪の毛をくるくる巻いて、ヒールのある靴を履いて出かける。久々にこういう格好をすると女装してる気分。他に出席する女性たちで、何着て出ます?とか相談してたのだが、30代になったばかりの女性は「親戚の結婚式や友達の二次会にきて行くぐらいの格好で行きます」という。むーん。もう身近に結婚式する人はほとんどいないのよ。しても地味だしねぇ。私と同年代の女性は「10年以上前に着てたちょっと派手なスーツで出ます」という。10年以上前は派手だったよなー(遠い目)。なるほどと思ってコートは10年以上前のを引っ張り出してくる。肩パッドいり(笑)。今見ると、良くこんなたっぷりした生地のものを着て会社に通ってたなと思う。よく言われることだが、バブルの頃は既製服であっても仕立てがいいのでデザインさえ厭わなければいまだに十分着られる。
パーティは盛況。主役のご両親が揃っていらしていた。ご子息の還暦を祝えるとは、当然結婚60周年のダイヤモンド婚式も済まされているわけで、なんと幸せなことだろうと思う。
引き出物(おみやげ)に紅白饅頭。これはご両親からという。会場に飾ってあった花をいただいて帰る。我が家に切花があるのは、10ヶ月ぶりぐらい。


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