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2003年12月22日(月) どっちも危ない。

夫が通勤途中に落し物をしたのを親切な人が拾って警察に届けて下さったという電話が夫から入る。電話の向こうで、なぜ落としたのか、落とすわけはない、としきりにぼやく夫をさえぎり、「つまり私に警察まで取りにいけ、と、そうおっしゃっているわけですね?」と話を切り上げて警察までとりに行く。私が家にいる日でよかったよな>夫。
警察までは歩いていけるほど近くはなく、バスに乗るのはちょっとお金がもったいないような、しかし自転車というのも根性がいるなぁ、ということで結局バスで行く。バスを待っていると、向こうから救急車が「横断歩道直進します、お待ちください」といいながら赤信号を走ってきた。横断歩道で信号待ちしていた女性は、それまで気付かなかったのか青になるとそのまま横断歩道を渡り始め、救急車の前を(轢かれる前に)あわてて走り抜けていった。待ってりゃいいのに危ないことである。そういえばこの間、一車線道路を斜め横断で、前後をよく見ずに車道に出た男性が2/3ほど渡ったところで走ってくる車に気付き、車の前を通って慌てて歩道まで戻っていた。渡っちゃえば良かったのに、そっちのほうが危ない。
警察で落し物を無事受け取ってからバス停いくつ分かを歩いて、普段あまり行かない高級スーパーに寄って、お正月用の買い物をする。ここぞとばかり重いものばかり買って「ほら、こんなに重くて運べないし」という言い訳をして帰りもバスで帰ってきた。


2003年12月21日(日) ソプラニスタ初体験

友人が参加している市民オケの第九。
年末だから第九を聞く、という趣味はないのだが、ソリストが今話題のソプラニスタだというので、行ってみることにした。彼に出演依頼をしたのは、テレビなどで有名になるずっと前だったので、今後はとても呼べないだろう、という。考えることはみんな同じらしく、会場についてみると比較的大きな市民ホールが補助席が出るほどの盛況。
指揮者は30代半ばで、もともと決まっていた指揮者が直前に降りてしまったので急遽決まったらしい。1曲目のエグモント序曲についで第九。指揮者は2曲とも暗譜で振っているのだが、全篇早いテンポで進む。まったりするはずの三楽章でもペースは衰えず。三楽章からソリスト入場になるが、ソプラニスタが登場すると他の3人より身体が大きく、衣装も独特なので会場が一瞬ざわめく。メゾソプラノは真っ赤なドレスで対抗しているが、歌が始まると高音域で大きな楽器(身体)を持つ彼にはボリュームという点でかなわない。ソリスト4人のバランスもやはり悪い。
オケも歌もこれといってたっぷり歌い上げるという箇所もなく、タッタカタッタカ曲は進み、あっという間に終わった。合唱団の入場で途中数分間中断があったのに、演奏時間約1時間は驚き。客席も合唱団も大変に盛り上がっていたが、わー、なんだか珍しいもの聞いちゃった、という感じである。



2003年12月20日(土) とりならべ

本日は恒例のとりならべ、今年で5回目である。詳しくはNEOさんの日記に大変コンパクトかつわかりやすく記述されているので、そちらをご参照されたい(手抜き)。それによると、去年は10人ぐらいでとりをならべたらしいが、今年は諸般の事情により大幅減で6人。一時は開催も危ぶまれたが、これを逃すと年に一度ケンタのチキンを食べるチャンスを逸するという理由で、開催にこぎつけた(大げさ)。6人だと食卓にちょうど全員着席して一つの話題で盛り上がれるので、それはそれで大変よろしかったのであった。
夜は、大学の同期の結婚式の二次会に出る。今頃同期の二次会というのも珍しいから同期会代わりに出てくれ、と呼びかけられてその気になる。MLによると同期が10人ぐらいが出るという話だったが、顔ぶれは当日までわからず。入り口に並んでいるうちに、おおーいたかー、誰も知ってる奴がいなかったらどうしようかと思ったよー、という感じで何人か顔をあわせる。比較的同期会などに良く出てくるメンバーが集まったが、信じがたいほど容貌の変わった人もいて驚く。早速みんなで集合写真を撮ったり。
会場では、新郎と職場のオケつながりのあるむっしゅんぬ氏にも会う。彼はオケ仲間とハンドベル隊を組んで新郎新婦も参加して一曲演奏。ハンドベル楽しそう。他にも新郎新婦二人の演奏とか、クイズとか二次会らしいアトラクションを楽しんだ。
昔と違って悪ふざけする人も悪酔いする人も出ず、終わったあとは挨拶を交わして粛々と解散する。見栄を張ることも卑下することもなく、素でやわらかな時間を過ごした。やっぱりみんな大人になった。


2003年12月19日(金) ここにもいた。

夫が自分の学生さんと忘年会をしたのだが、その場で、今年研究室に配属になった3年女子が「私、卒業してすぐ結婚して子供も生まれると思うので、今やってる勉強を役に立てる機会がないんです」というようなことを言ったらしく、イマドキそんなことをいう人がいるなんてと目を丸くして帰ってきた。夫の勤務先は世間では難関と言われる私大の工学系で、同じ専攻の中でも夫の研究室は勉強が厳しいという噂もあるところである。この手の話は畏友マルコさんも国立大学の教育学部生の会話を例に挙げて日記で言及していらっしゃるが、ここにもいたのか、という感じである。
確かに世の中の男性には、配偶者には外で仕事をさせず、俺が女房子供を養っているんだという誇りをばねに仕事に打ち込むタイプの人もいる。そういう人と知り合って無事結婚できればよいが、いくら双方そのつもりでいても生活のために働かなくてはいけなくなる人も多いと言うご時世である。どうやってそのような生涯養ってくれるような*甲斐性のある*男性を探すつもりなのだろうかとか、すぐ子供が生まれるからといって生まれなかったらどうするつもりだろうかとか、世間に出る前のたわ言とひとしきりその考えを茶化した後、二人で考え込んでしまう。
私が就職した頃はまだまだ「女は腰掛」という風潮が根強く残っていて、それに反発するように働き続けることにこだわっていたような気もする。彼のほうには、すぐ結婚して家庭に入るぐらいならもっと楽なところに行けばいいのに、という驚きもあるようだ。善意に解釈すれば、就職に有利だからという理由で専攻を選ぶ学生に比べれば、職に結びつけない彼女の学問の動機はより純粋だということになるだろうか。実際、高度な教育を受けた専門職の象徴のような女医であっても結婚退職する人は意外と多いらしい。が、専門性の高い人間を養成するためには、一人当たりに多くの時間と費用が投資されているわけで、これらの投資結果を社会に還元せずに家庭内に埋もれさせてしまうのは、あまりにもったいない。ある意味社会への裏切りのようにも思える。
もちろん職に就かないという選択も職業選択の自由の一つであるし、専門性が高いからといって外で働き続けることを強要するのもナンセンスである。逆に専門性を身につけていればこそ、一時期家に入って充電をして、世の中をキャッチアップしてまた社会にでることも可能だろう。しかし初めから使い古された「永久就職」のような選択を狙っているのはやはりどうかと思う。あるいは結婚したら家に入るというのは時代遅れに見えて、実は現代っこらしい彼女達のしなやかさなのだろうか。仮にそうであっても、家を守り子供を育て自ら外的刺激を求めない毎日の生活で、配偶者を飽きさせずつなぎとめておくというのは、実は結構テクニックや素養が必要なのではないか、などとも考える。外では仕事をすることによって適度に刺激を享受し、内では「仕事してるから」という理由で家事の手抜きをしまくっているパートタイムワーカーとしては、他人事ながら行く末を心配してしまう。


2003年12月18日(木) 家族サービス

フランス語教室は一昨日で終わったので、久々に用事のない午前中。メールの処理などをしながらだらだらを満喫してしまう。
お昼過ぎに実家へ。お歳暮というか餅代を手渡して大いに喜ばれる。もともとなんとなく虚礼廃止の家風だし、親に誕生日以外の贈り物はしないのだが、すでに引退していることもあり、遅まきながら今年から始めてみるか、というところ。おおーなんか大人になった気分である。
ひさしぶりに同居している兄世帯のところに顔を出す。ここ数ヶ月子供たちの相手をする気力がなく、実家にいっても隠密行動をしていたのがだが、最近歯医者さんに行ったらしく治療の帰りによっていたのがばれていた。先週行われた姪の発表会のビデオを見せてもらう。ひときわ顔立ちがすっきりしていて、誰よりも大きな声で歌いながらのびやかに踊りを披露している姪の姿に感動する(←叔母馬鹿)。その後プーさんのビデオをみんなで見ながらまったり過ごす。
親世帯に戻ってきて少し世間話をしてから帰る。師走で道路はめちゃくちゃ混んでいて、バスが来るまでに15分、バスに乗ってからも渋滞で動かず、1時間ぐらいかかって帰ってきた。これなら1時間お茶飲んでから出てきても同じだったかも。
ポストにこの間こっそり受けた仏検3級の結果が入っていた。この間の試験は道路渋滞のために遅刻するわ、そういえば受験票を家に忘れるわ、試験なのに時計を持ってないわ、ダメ受験者の見本のようなダメぶりだったのだが、結果は余裕の点数で合格していた。びっくり。次を受けるとなると2級かー。2級以上は上級者という感じがするな。3級と2級の間はどのくらい大きな溝があるんだろう。


2003年12月17日(水) 走ってナンボ

集中力に欠けるくせに気持ちの切り替えもうまくないので、いつでも半分雨雲に頭を突っ込んでいるような気分でいる。
のたのたしている自分を叱咤しつつ、よっこらしょ、よっこらしょ、と一つ一つ懸案事項を片付けていって、残りあと一つというところでまた手が止まっている。脳みそがストライキを起こしているらしい。そしてその中枢の部分では「もう、そんなに焦らなくてもいいんだぜ」と周囲の細胞に触れ回っている神経細胞がいるに違いない。
12月は師走というけれど、周囲の大学教員な人々を見ると本当に走り回っている。やれ来年度の授業計画を何日までに出せ、来年度採用の人選をしろ、卒論を書かせろと、いろんなことが前倒しになっているこのご時世、ただでさえ忙しい会議と講義の合間を縫って12月は本当に皆さん大変そうである。私の仕事先の講師控え室でも、あっちでひそひそこっちでひそひそと、ちょっとした談合の場である。いつこちらにも飛び火してくるかわからない。


2003年12月16日(火) 低空飛行

フランス語教室今期終了。
この間の進級試験の結果が返される。先生からは前回すでに、個人差はあるが全員合格と言われていたので、みんなリラックスして結果を受け取る。試験の結果は一人だけが優秀賞をもらった。例のいつでも褒めてもらいたい自己主張の強いマダムは、優秀賞にあと数ポイント足りなかったらしい。さかんに優秀賞にあと一歩だったことへの言及をしていた。それ以外の場面でも、「私が一番初めに気がついたの」とか「(非英語話者の英語を聞いたときに)文法的な誤りは私にはわかるのよ」とか、常に「よくできる自分」をアピールしていて、いったい彼女をそこまで追い立てているものは何なのかかといぶかしく思う。彼女はそうやって頑張って、頑張った自分をアピールしながら、このままずっと気を抜かずに生きていくのだろう。
私の成績は、前回の試験の時はほとんど勉強していなかったせいもあり、今回の方が少しポイントがあがったが、相変わらず中の上の域を出ない。子供の頃からどの集団にいても常に中の上もしくは上の下に位置していたので、多分本能的にその程度にいけるぐらいまでしか勉強がすすまないのだろう。が、低空飛行ながらこのまま次へすすむと、今年度末には一応基本的な会話はできるようになる予定である。楽しみ。
今期だけ同じクラスで勉強していたマドモアゼルが1月からフランス留学するので、お別れのプレゼントとして全員分のガトーショコラを作ってきてくれた。お料理の腕前はセミプロだそうで、大変に美味。それから来期は違うクラスに行くつもりの人が作ったカードを一人一人に配ってくれた。彼女は本職のイラストレータ。まあいろいろな才能の人がいるものである。


2003年12月15日(月) 極上のおやつ−須賀敦子さん

一日、家のPCの前にこもって気の乗らない作業と格闘する。
ここ数日、家のネットワークがつながりにくいことも気分を逆なでする。合間に洗濯物をたたんだり、業者とやりとりをしたりしながら、気分転換に、先日図書館で借りてきた須賀敦子さんの文章をちびりちびり読む。
須賀敦子さん。なぜかこの人を他の作家のように呼び捨てにすることが私にはできない。面識も直接のつながりもないのに、例えば遠い親戚か誰かの知り合いのように、その気配を感じる。
彼女の名を初めて知ったのは新聞の社会面に小さく載った彼女自身の死亡記事で、評伝を書いていたのは池澤夏樹氏だったろうか、還暦を過ぎて初めて出版したエッセイがたちまち評判を呼び、それから10年に満たない著作活動の間にいくつかの珠玉の文章をこの世に送り出して、これからという時に亡くなってしまった、ほんとうに惜しいことであるという記事が記憶に残った。それから何年かして須賀敦子さんの著作を読んだ時の衝撃は忘れられない。初めて読んだのは「コルシア書店の仲間たち」だったか、「ベネツィアの宿」だったか、何ページも読みすすまないうちに、心の中で「あぁっ!」と小さく叫んで身もだえして本をパタンと閉じてしまう、というようなことを何度も繰リ返した。意図的にひらがなの分量を多くしたやわらかい文体の中に、突然なんでもないふうに「〜みたいに」「〜のような」と、軽やかな子どもの視点のような比喩の一文が挿し込まれる。それらひとつひとつがなんとも鮮やかな差し色のようにぎゅっと心を揺さぶって、彼女の著作の数が多くないということをすでに知っていた私は、そういう比喩に出会うたびに、食べおわるのがもったいない極上のおやつのように、その先を読み進めなくなってしまうのだった。
そして3年ほど前に全集が発売された。そこには未発表の散文や未完稿のノートや対談、訳などがき集められていて、おそらく中には彼女自身本意でないものも収められているのだろうに、それでも8巻までしかない。今手元にあるのは、3巻と4巻。ついついその先を読んでしまいそうになるのを、押しとどめ、引き剥がし、なるべく読み終わりを引き伸ばすようにしている。ページの後ろの方をめくっては、まだ読んでいないところがあるぞ、しめしめ、と思っている。


2003年12月14日(日) ゆく川の流れ。

年賀状を書き始める。例年に比べて画期的に早い。
新・日曜美術館を見る。東京・白金の東京都庭園美術館は、アール・デコ様式を取り入れた昭和初期の傑作である旧朝香宮邸をそのまま利用している。宮邸をアール・デコ様式で建築したのは朝香宮夫妻がパリ滞在中に、博覧会等で本場のアール・デコに刺激されたことによるが、夫妻がパリに滞在したそもそものきっかけは、単身滞仏していた朝香宮が交通事故で重傷を負い、その看病のために宮妃が渡仏したことである。夫妻が滞在していたパリの高級アパートで、宮妃は水彩画を習ったり友人と語らったり、積極的にパリの文化を吸収し、帰国後も建築を学習しつつ熱心に宮邸建設に取り組んだらしい。近世皇族が一番金銭的に恵まれていた時期でもあるが、今より封建的であったその当時、傑作建築の影に女性の力が大きく関わっていたというのは頼もしい。しかし、その後日本は軍事色を増して戦争へと突入し、戦後朝香宮は皇籍離脱するわけだから、宮邸としての寿命は短かった。
テレビが終わってから遅い朝食を済ませ、優先度の高い十数枚を書いて、これだけで午前中を潰す。時間が過ぎるのが早いのか作業が遅々としてすすまないのか、いずれにしても平日に流されている間あれこれもやろうとしていたことが一向に片付かない。ここ数日、滓のように心に深く沈んでいる厄介ごとを取り出して眺めたり、またしまいこんでいるうちに時間が過ぎる。
早めに夕食を済ませてスポーツクラブに行く。私は水中ウォーキングをするのだが、最近シンクロナイズドスイミングの練習をしている女性と一緒になる。歩けるほどの浅いプールで、足を高々と伸ばしたと思うと、水中から上半身が飛び出し、前進したと思うと沈んで反対側から顔を出す、というようなルーティンを1時間ほども繰り返している。どういう素性の人なのだろうか、気になる。
帰り道、なんの脈絡もなくイラク派兵に思いが及ぶ。争いは憎しみだけで何も生み出さないことを、メディアは嫌と言うほど我々に突きつけてくる。米大統領がブッシュではなくアル・ゴアだったら世界はどうなっていただろうか、と思う。アメリカのどこかの州の選挙管理委員会がヘタレだったおかげで、ブッシュが大統領になり、アメリカが、世界が、間違った方向に動き出しているのだとしたら…。


2003年12月13日(土) 変わり行く…。

たっぷりと眠って遅めの朝食にする。
天気がいいので、窓の外を見てみると案の定丹沢の端っこが見えるので、朝のうちに私達が屋上、と呼んでいるマンション上部にある日照権に配慮してできた空間を利用した展望スペースに行くことにする。私達の部屋は南に面していて、引っ越してきたときはベランダに出れば富士山が望めたのだが、それから1年も経たないうちに西側に十階建てのマンションが建って、富士山と夕日が拝めなくなった。富士山を見るには、管理人室で鍵を借りてこうして上っていかなければならない。
展望スペースは露天なので、外出するのと同じ重装備で白い息を吐きながら外に出る。期待通り空気が澄んでいて遠くまで見渡せる。北東の方角に2本角を出したような筑波山も見える。筑波山を見るたびにガマという言葉を連想していると、山それ自体がもっさりとしたガマガエルに見えてくる。北西の方角にうっすらと秩父連山、富士山は真っ白に雪化粧して、上方にかかる雲がまだらに影を落としている。東に新宿の高層ビル群、南東に六本木ヒルズ、その向こうにお台場のフジテレビ社屋。ビルのシンボルでもある銀色の球体が午前中の陽を浴びてギラギラと光っている。
眼下に目を落とすと、普段の生活の場である。以前は珍しがって何度もこの展望スペースに足を運んだが、最近はすっかり存在を忘れていて、最後にここに来たのはもう1年以上前かも知れない。その頃に比べるとだいぶこの辺りの地理に明るくなってきたので、ああ、あれがこの間散歩に出かけたあたり、あそこをバスが走っていてどこそこに出る、などということもわかるようになって面白い。家の前の幹線道路は災害時にも機能するように沿線の住宅の不燃化を進めていて、古い木造家屋はまとめて立ちのきになって、次々とマンションに建て変わっている。今日も新たに更地の部分が増えているのを見つけた。
部屋に戻ってきて、年賀状の印刷に取り掛かる。うちにあるプリンターは、結婚した時に買った旧式のもので、デジカメ画像などの高画質に耐えるものではないので、Wordの図形描画機能を使って円形をいくつか組み合わせてサルとバナナを描き、新春の挨拶とそれぞれの連絡先を入れて終わり。年に1度しか使わないのでインクも固まっているらしく、マニュアル片手に何度かクリーニングをするが、去年に引き続き黒色は出ないらしい。黒色部分を濃紺で代用したりして、思うような色がなかなか出るまで時間がかかったが、途中で軽く昼食を済ませたり他の作業もしながらだましだまし印刷を終える。
夕飯は、ラーメンを食べに行く。今日見つけた新しい更地は、今にもつぶれそうだった八百屋とそれに連なる住宅だった。そういえば近所にあった今にもつぶれそうな豆腐屋はどうしただろうと思って探してみたが、豆腐屋もすでに見当たらなかった。


2003年12月12日(金) 寒さに包まれる

昨日の氷雨に懲りたので、天気予報を見ないままショートブーツに皮のジャケットという出で立ちで家を出る。雨は降っていなくて曇天の低い空である。こういう天気は北陸に暮らしていた頃を思い出す。「鉛色の空」という表現がぴったりな低く雲が垂れ込めた冬は、関東の乾いた刺すような寒さとは違って、湿り気を帯びてやんわりと包み込むようだった。もちろん雪国だから厳寒には違いなく、寒さは底から這い登ってくるようなのだが、ほほに触れる冷気は意外なほどやわらかった。
そんなことを思い出しながら、案外早く到着したバスに乗って最寄のJR駅までバスに乗る。JR駅までは銀杏の街路樹を抜け、その向こうにつながる大通りは欅の木が連なっている。街路樹も、電車の窓から見える木々も、黄葉した葉もだいぶ落ちて寒々しい景色が広がっていた。
仕事が終わってぼやぼやしているうちに、もう真っ暗である。夫と待ち合わせて、この間の打ち上げで行った郊外の駅前にある魚のうまい店に行く。前回は体調不良やら気遣いやらであまり堪能できなかったので、今度は心ゆくまで味わおうという趣旨である。店の主人は新潟の人らしく、メニューには新潟の銘酒がずらりと並ぶ。とりあえず生ビールを飲んで、熱燗を一合だけ飲んで、冬の味覚に舌鼓を打って帰ってきた。大満足。
うれしかったので食べたものを列挙しておこうっと。
食べたもの:ほうぼうの刺身、天然ぶりのおおとろ、生うに、しめ鯖、てんぷら盛り合わせ(ピーマン、海老、しいたけ、ナス、ししとう、キス)、串焼き(レバー、砂肝、ぎんなん)、子持ちはたはたの煮付け、山芋千切り、白子ポン酢、これだけ食べて8000円ほど。
あんな店が近所にあったら、毎週行っちゃうな。


2003年12月11日(木) 氷雨

フランス語。
試験が終わったら急に人数が減った。2時間目から入室した人が4人。それまで学食でお茶を飲んでいたらしい。みんな欲がないなぁ。進級テストは全員合格という話。最終回を待たずに休みに入る人とか、別のクラスを履修する人とか、留学する人とか、いろいろらしい。クラスが終わったあといつものように学食でサンドイッチを食べていると、わらわらとクラスメートが集まって、結局8人ぐらいでテーブルを囲む。「クリスマス会みたいで楽しいねぇ」などという人もあり。
何ヶ月ぶりかで美容院に行く。毛先だけゆるくパーマをかける。長さはあまり変えていないがずいぶん梳きバサミを入れたので、毛量半減。パーマをかけている間に図書館で借りた須賀敦子全集の分厚い1冊を読みふける。惜しみ惜しみ読んでいるのでなかなか読み進まず。
帰りに実家に寄るつもりで、ケーキを買うがバスがなかなか来なくて凍える。バスを待ち始めた頃はまだあたりは薄暗かったのに、やっと乗れた頃には真っ暗。もう冬至が近い。そういえば美容院の近所のNY仕込みの和食の店S角は居ぬきで買われたのか、店の名前が変わっていた。
実家でなにやらきな臭い話を聞く。高度成長時代に消費を謳歌した人々なのでなかなか難しいのかも知れないが、もう少しインフラを整理してもらいたい、と口には出せずに帰る。


2003年12月09日(火) 図書館のわな。

朝フランス語進級テストを受ける。絵を見ながら即興で話を作るというもので、文法や語彙などはあらかじめ提示されていた試験範囲に含まれているものの、思いがけないストーリー展開になっていてとたんに頭の中が真っ白になる。文字通りしどろもどろにタスクを終え、次課程も続けるかという問いに「もちろんです。もし可能ならば…」と答える。可能らしい。
終了後、傷心のまま電車に乗って非常勤先Bへ。今日は出講日ではないが、夕方まで時間を潰す必要があるのと借りたい本があるのとで、仕事道具一式を持って出てきた。非常勤とはいえ大学に籍を置いている恩恵の一つは、図書館が自由に使えることである。それが複数となればまたその恩恵は大きい。実際、蔵書検索をしてみたら非常勤先Lの目的の本があと1週間ほど貸出中になっていて、非常勤先Bを試してみたら首尾よく入手可能だったのでのこのこと出かけてきたのだから。
非常勤先Bは戦後の新興大学で、規模もあまり大きくない。蔵書も広く浅くという感じで1フロアあたりにある書架の分類も複数にまたがっており、歴史の古いLに比べるとまた違った顔つきをしている。書架がどうもにぎやかだと思ったら、かなりの数の本がカバーをはずさないままブックカバーフィルムでコーティングしてあった。人目を引くことを意図した装丁のままにぎにぎしくならべられているのだ。帯ははずしてあるので、書店の雰囲気ともまた違う。どちらかというと公共図書館に似ている。非常勤先Lの図書館は、配架前に全てカバーの類は取り去ってしまい、分類番号を貼ったシールの上だけを補強してあるので、無駄はないが無味乾燥な顔つきになる。学生時代図書館でアルバイトしていたときに、惜しいと思いながらも指示で美しいカバーをずいぶん捨ててしまった。あまりの美しさにこっそり持って帰ったこともある。
目的の本は学術書だったが、探しているうちに須賀敦子著「塩一トンの読書」が目に飛び込んできた。目的の書架の上段に読書案内を主題にした本がいくつかあり、これも装丁のなせる業か、須賀敦子さんを見つけてしまった。もともとかばんの中に持っている本が一冊。目的の本が一冊。それから書架から書架へ分類番号を辿る道すがら、もう一冊これも目を通しておいたほうがいいと思う本をすでに手に持っていて、そして目の前にある趣味のいい装丁の本。背表紙に手をかけたままかばんの中身と相談する。かばんの中は他にも、すでに仕事道具と、フランス語のバインダーと、修理に出そうと思った靴が一足と、折りたたみ傘と夕方から使う資料が入っている。これこそが荷物を置く場所を持たない常勤でない悲しさである。やどかりのようにいつでも一式かついで歩いている。また3日後にここにくることはわかっているけれど、もう脳の中枢部分がこの本を本能的に欲している気分になって、結局三冊とも借りることにする。
セルフサービスで貸出手続きをして、その場でかばんの中を整理し、真四角になったかばんを肩に担いでよろよろと次の目的に向かった。


2003年12月04日(木) 元・優等生なマダムたち

フランス語の進級テスト。
全然勉強してこなかっただの、出来ただの出来なかっただの、私はダメだのあなたは大丈夫よだの、姦しいことこの上なし(-"-)。進級テストというのは、次の級に進んでも大丈夫かどうか判断してもらうだけなんだから、落ちたらもう一回やればいいだけの話ではないのか?落第したところで放校処分になるわけでなし、企業派遣でもないのに、しかも自分は受かると信じてるくせに、なんでそう大騒ぎするかな。まぁ騒ぎたい年頃なんでしょう、ということで>メダム。
なんか最近人と話してると、コツン、コツンと壁に当たるような気がして疲れるなぁ、と思っていたのだが、ここへ来てなんとなくわかった。生身で話をする相手に、「いい子ちゃんの優等生」育ちのメダムが多くて疲れるのだ。きっと子供の頃から周囲の期待に応えてがんばったんだろうなぁ、という雰囲気の人がこのところごろごろ身の回りにいるのだ。正解することが一番大事で、間違いは許されなくて、身の丈にあってきちんと揺るぎがない、「誰から見ても評価される自分」を臆面もなく肯定できちゃう人。
あぁ〜にがてだなぁ。脳天気ですみませーん。


2003年12月02日(火) リニアモーターカーって…。

テレビでリニアモーターカーの最新情報を取り上げていた。最高速度を更新したらしい。有人走行最高速度581km/hらしい。リニアモーターカーの実験てまだやってたのか。これって私が子供の頃からずっと開発してるよな、と思っていたら、40年以上も研究開発しているらしい。私より年上らしい。山梨のドン金○氏亡き後も、まだやるらしい。がんばるらしい。40年前は車輪だけが線路の上をシャーっシャーっと走っていたのが、いまや人も乗せられるようになった。一般向け試乗走行も年数回行われていて、希望者は多くすごい倍率で、これまでにのべ約6万人以上が試乗したらしい。大阪と東京を1時間で結ぶのが目的らしい。東京と大阪、いかにも40年前に思いつきそうな距離である。これを管轄しているのはJR東海らしい。http://linear.jr-central.co.jp/index1.html
品川に新幹線が停まるようになっただけじゃだめですか、やっぱり大阪まで1時間で行きたいですか、とJR東海の人に聞いてみたい。「狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く」という名文句があるが、ほんとに行きたいのはどこなのか。いまさらどこに線路が作れるのか?
開発リーダーは、この日最高速度を記録したことについてほほを紅潮させながら「感無量です」と語っていた。この人たちの挑戦がプロジェクト×で放映される日は来るのか。


2003年12月01日(月) そうかムラカミハルキか。

お仲間の掲示板で「やっぱり村上春樹の話題が出ると同年代という感じがしますね〜」という主旨の会話がなされていて、そうか、そうだったのか、と軽いショックを受ける。同年代というのは、大雑把に30代半ばぐらいの人々なのだが、そういえば、周囲には村上春樹が好きという人がかなりいる。そうかみんなの青春時代にとって村上春樹は特別なのか。
私はといえば、最近はすっかり読書から遠ざかっているが、今よりずっと本を読んでいた頃でも、なぜだか村上春樹に手は伸びなかった。もちろん「ノルウェイの森」が赤と緑の表紙をならべて、長い期間書店で平積みになっているのをよく見かけた記憶もあるし、彼の代表作のいくつかの名前をすぐに挙げることもできる。週刊朝日は割と読んでいたので、連載中の村上朝日堂をなんどか読んだ記憶もあるはずだし(安西水丸のイラストが印象的)、20代半ば頃たまたま書店でみかけた「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の文庫を上下巻買い、世界設定が面白くて一気に読んだ記憶もある。今でもふとポケットに手を入れてバス停に突っ立っていたりすると、主人公の「計算士」という職業を思い出したりもするのだが、どういうわけかそれ以上彼の作品を読んでみたいとは思わなかった。それから最近では新訳で話題になった「ライ麦畑でつかまえて」も買った。それでも、私にとって村上春樹は一つのジャンルであり「村上春樹というもの」以上にはならない。
そうか、同年代の青春の書なのか。夏休みの宿題で、自分では自由研究だけと思っていたのに、9月になって学校に行ってみると同級生達が観察日記のヘチマの話なんかしてて、え、そんなのあったけ(今からじゃ間に合わない…)、と愕然としているような気分だ。


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