WELLA DiaryINDEX|past|will
ここに来て数日してあることに気づいた。この街は若者がやたらと多くて、あとは年寄りと観光客ばかりである。考えてみれば大学の街なので若者が多いのは当たり前である。そして大学で教えている、あるいは教えていた学者然とした紳士淑女。そして古色蒼然としたとした町並みを楽しむ観光客。普通の街とは違う。黒いガウンをきて町中を闊歩している人がいる代わりに、ビジネススーツに身を包んでいる人はあまりいない。街を行く人々は皆おだやかな顔つきをしている。そしてひがみを承知でいうと、みんな頭がよさそうである。いや、きっといいんだろう。 ここはオックスフォードとならぶイギリスの大学の最高峰であり、大学のある街として何百年もの歴史を持っている。カレッジの建物には1627などと建築された年が記されている。ここに住む人々もそれに誇りをもって暮らしているようである。 毎日街のどこかでコンサートが開かれる街。カレッジの庭や教会の庭にはバラや野の花が咲き乱れ、樹齢何百年という並木が美しい木陰を作る。ケム川に浮かぶボートのようにのんびりと時間が流れる街。しかしこの街の外観とは裏腹に街の空気は古臭くない。世界中から研究者や学生が集まり、常に人が入れ替わっている街。この街の空気は実は新しく自由で、そしてフェアである。 カレッジは本来学業の場なので、日中は観光客おことわりだったり有名どころのカレッジは入場料をとったりする。しかし観光客が減る夕方以降は事実上フリーパスになり、教会で行われるコンサートや礼拝は一転して参加歓迎である。 先日大学の植物園に行った。世界でももっとも古い植物園の一つであるという。入場料は決して高くはない。しかも冬の期間とウィークデイの夕方以降は無料だという。いい心意気である。 パンフレットを見ると現在の地に移ったのは250年前で…などとあり、維持費が足りないのでもしご興味があるようなら、寄付をお願いするという主旨のことが書いてある。財政難なら入場料を高くすれば、と思いがちだが、余裕がある人が寄付をすればいいという発想らしい。 ところでケンブリッジ大学(University of Cambridge)はいくつかのカレッジから成り立っているといわれているが、実際何度説明されてもよくわからないでいた。夫の上司にあたる日本通のプロフェッサーに大学とカレッジの関係について聞いたところ、明快な答えが帰ってきた。 曰く、「相撲にたとえれば簡単さ。カレッジは相撲部屋だ。みんなそれぞれの相撲部屋に属している。普段の生活もそこだ。だけど全体としては相撲協会に属しているだろう。相撲協会が大学だ。何かやるときには協会として動く。だけど試合をするときは部屋ごとに戦うことになる。それがカレッジだ。簡単なことさ。」 なるほど。スモウレスリングと一緒か。
こういう微妙な問題を、こんなお気楽なページで不勉強なままに言及してしまうのもどうかとは思うが、印象的なことを自分なりに書くことにする。 私たちの英国到着に遅れること一週間余り、今は天皇皇后両陛下がイギリスをご訪問されている。私たちは新聞を取っていないし、テレビもよく聞き取れないので、概要しか分からないのだが、ご訪英を控えてブレア首相が「温かな気持ちで迎えて欲しい」と英国民にアピールするなど、あまり歓迎ムードではないらしい。 つまり第二次大戦中の日本軍の元捕虜を中心とした退役軍人とその家族が日本に対して謝罪と補償を求めて運動を起こしているのである。連日テレビや新聞は、エンペラー・アキヒトがくる、彼は謝るだろうか。ドイツは謝ったぞ。女王陛下の晩餐会に出た、悲しみは表明したが謝ってない、あれじゃ足りない。ブレア首相の午餐会に出る、今度こそ彼は謝るだろうか。等々である。 テレビに映し出されるロンドンの街頭は日章旗とユニオン・ジャックで飾られているが、街を行く両陛下の車の脇には、その前を通りすぎるごとにこれ見よがしにそっぽを向くパフォーマンスを行う、「PRISONER」(prisoner of war POW と略す)と入ったたすきをかけた人々が目立つ。英首相官邸で出迎えを受ける両陛下を遠巻きにして元捕虜たちが老体に鞭打ってデモンストレーションを行っている。 皇室のメンバーはケンブリッジやオックスフォードに留学しているし、ダイアナ人気に沸くなど、日本とイギリスは仲がいい、という印象が強い。しかし英国では、特に第二次大戦中の元捕虜とその家族にとって、日本憎しの感情が未だ根強いようだ。一方、他の一般的な国民はいたってクールである。別にわれわれの周囲の人間も「日本のエンペラーが来てるね」などと話し掛けてくるわけでもない。盛り上がっているのは捕虜たちなのである。謝罪と補償、あなたはどちらを求めていますか、という問いに対して「両方です」と答えていた捕虜の孫という人がいたが、補償が目当てなのかな、という意地の悪い見方もないわけではない。 昨日は両陛下は日本庭園にお出ましだったようで、テレビには邦人が多数、旗をもって集まっていた。インタビューに対する彼らの返答はいずれもあいまいで、説得力がない。曰く「日本はダイアナさんが来たときにあんなに歓迎したのに…」「イギリスに謝ったら、中国やフィリピンなどアジアの国ではもっと大変なことになる」等々である。 なにを情けない、と思うなかれ。なんとも混乱するのである。答えようがないのである。普段は仲良くしていて、こういう時になると、突然日本の戦争責任をめぐって大騒ぎになるのか。 にこやかに控えめに振る舞う、戦争中少年だった陛下は、この運動を前に「謝れるものなら謝ってしまいたいよ」とこぼしていらっしゃるかもしれない。ここに日本国の代表として訪英しながら、象徴として実権をもたない中途半端な立場の辛さが現れる。 昭和天皇は初のヨーロッパ歴訪の時にパレードに生卵を投げつけられた。今回はさすがにそんなことはないが、日本が鬼畜米英といっていた時代は確かに存在したのだ、ということをしみじみ知らされる。しかしその一方で、なぜ日本が戦争をするに至ったか、日本の捕虜は虐待されなかったのか、国中が焼け出された日本はどこにも補償と謝罪を求めてはいけないのか、などと考える。
シューマンの歌曲だったか、「美しき五月に」という曲があって、曰く五月になると春になって世の中こんなに美しい〜♪という内容で、ヨーロッパの五月はことのほか美しいということは、われわれも知っていた。だからこそ出発の時期を五月にしたのだったが、しかし!まさかここまで美しいとは思わなんだ。全くどこもかしこも美しいのである。感嘆を通りこしてあきれるばかりである。 まさに木々の緑は輝き、空は青く澄み、風はさやかに吹き渡り水面や梢を揺らし、小鳥はさえずり、教会の鐘はゴンゴンと鳴るのである。すべてが調和して美しいのである。嗚呼。 ゲストハウスの裏手はケム川の緑地帯になっていて、中心部へ向かうと大学のそれぞれのカレッジの内部へ延び、駅のほうへ下って行くとCoe Fenという名の、なんというか自然そのままを残した野生公園になっている。そこは放し飼いの馬や牛がいて、草を悠然と食んでいたり、昼寝をしたり、軽快に駆け回っていたりするのである。あたり一面はワイルドフラワーと総称される小さい花が咲き誇っていて、まるで夢の世界にいるようである。思わず「ほへぇ〜」などという間抜けな嘆息が口をついてしまう。 ちなみにCambridgeというのは、その名の通りCam川にかかる橋、という意味で、川をまたいでいるカレッジには「ため息の橋」とか「数学の橋」とかそれぞれに意匠を凝らした橋があり、名物になっている。緑地帯からカレッジから橋をくぐりながらボート(PUNTS)をのんびり漕ぐというのが、学生たちの娯楽であり、かつまた観光客目当ての格好のアルバイトである。そんなわけで、地図を片手にうろうろ歩き回る私たちは何度も声をかけられることになる。 「Excuse me, Madam?ええ、あなたあなた。どうです?ひょっとしたらPUNTSに乗って美しい景色を楽しんでみたりはしませんか?」 うーむ、さすがQueen's Englishである。回りくどい。 「あ、いえ、結構、ありがとう」(にっこり) 「どういたしまして。よい一日を」(にっこり) 思えば私の「にっこり癖」は、むかし言葉も通じずにロンドンに滞在した頃についたものだった。とりあえずにっこりしてはさまざまな局面を切り抜けていたのである。長じてそれがOL時代の「オヤジ転がし」の技として開花したというのは余談だが、それにしても紳士的である。「ヘーイ!」などとは言わないのだな。なるほど。 土地勘のないわれわれは次に市内を観光する二階建てバスに乗ることにした。これは各国語対応でヘッドフォンからテープの案内が流れ、英語だけはガイドがライブで話すというお手軽なもので、一日中乗り降り自由である。地図を片手に前方に陣取る。なかなかである。途中で夫が2周しようといい出す。無論異存はない。なにしろ観光ではないのである。生活圏の外郭を知るためであるから、真剣なのである。一段高いところからケンブリッジの街を見下ろす。 さすがに1周半したところで飽きてきて、寒くもなったので降りることにした。乗るときに切符をもらっていなかったので、「切符をくれ!」というと、「ありゃ、渡してなかったけ、ごめんごめん」といいながら切符を切らずに渡してくれた。つまり日付のチェックがない。しめしめこれでまた違う日にも乗れるというものである。 こいつは春から縁起がいいやぁねぇ。
ケンブリッジに到着したわれわれを迎えたのは、受入先のプロフェッサーの大変有能な秘書、ペニーさんである。年の頃50前後。彼女は3時間も到着が遅れたわれわれを、オフィスで仕事をしながら待ちつづけていた。というのもこのあと宿泊場所に案内して、さらに食事を共にすることになっていたからである。仕事とはいえ大幅な残業である。そんなことを意に介さない彼女は、相当な仕事好きであることを窺わせる。 ペニーさんが用意してくれた宿泊場所はホテルではなく、ケンブリッジ大学の中のピータハウスというカレッジのゲストハウスだった。古いカレッジの建物の一角にまるで隠れ家のようである。これだとホテルよりずっと安くあがる。間取りはベッドルームと居間兼食堂、小さなキッチンと洗面所。シャワーだけでバスタブはない。家具はベッドが2つ、傾いたタンスが2つと折りたたみテーブルが一つ、そしてなぜか椅子だけは肘掛け付きが4、肘掛けなしが3と、豪勢に7脚もある。それからタオルやシーツのリネン類が数セット。 キッチンには最低限の食器のセットと調理道具がそろっており、冷蔵庫には彼女が用意してくれた朝食用の食料が少し、それからインスタントコーヒーとティーバックの紅茶。お米の国から来たわれわれのために、タイ米も用意してある。がらんとした部屋の様子に少し戸惑いながら、彼女の親切が身にしみる。ここで数週間を過ごしながらその間に住む家を探すのである。 食事はタイ料理のレストランに連れて行ってもらった。これもアジアからきたわれわれのための彼女の心尽くしである。ケンブリッジに日本料理店はないとのこと。タイ料理の隣はインド料理店、その反対側はアジア系の食材を扱う店である。それもあってここを選んでくれたらしい。 われわれの宿泊場所はまさにケンブリッジの中心部にあたり、ここは歩いて5分くらいのケム川の対岸に位置している。川のほとりは野外でビールを飲んでは談笑する人々でにぎやかである。名物のボート(PUNTS)に乗っているグループもいる。うむ、これがケンブリッジの学生たちか。騒いでいるところは日本の大学生と変わらないが、きっと何倍も勉強するのだろう。 毎日こんな風に騒いでいるのかとペニーさんに聞いたが、今日は週末だし、今週からお天気が急によくなったから出歩いているのだろうという。それまでは寒かったらしい。実は夫は晴れ男である。われわれを迎えるためにケンブリッジも陽気がよくなったらしい。わはは。 日本からの彼女へのお土産は扇子とハンカチのセット。それからうちにあった豆粒ほどの雛人形。 日本人の受け入れに慣れている先だと、やたらと豪華なガラスケース入りの藤娘の人形やらジャパニーズなものを持っているものである。そんな自分たちも使わないような古典的なものを贈ってどうするのだ。扇子はボーダーラインかな。喜んでくれたようで何よりである。 満腹になったところでゲストハウスに戻る。明日は土曜日で休みであるが、ペニーさんが夫の同僚となる人と私の英語学校の世話をしてくれる人を紹介するために食事に行こうという。つくづく仕事熱心な人である。喜んでそのお誘いを受け、彼女を送り出して顔を洗うのもそこそこにベッドに潜り込んだ。
われわれの乗ったヴァージンアトランティック便は定刻をはるかに過ぎて、ロンドン、ヒースロー空港に到着した。 これというのもタイヤの交換で成田で3時間も待ちぼうけを食わされたためである。機内で繰り返される案内は「少々お時間がかかる場合が予想されます」の一点張りで、この場合の「少々」がいったいどの程度の時間なのか、さっぱりわからない。マクドナルドの「少々」とはレベルが違う。 止まっている間にも機内ではじゃんじゃん飲み物や軽食が配られ、「少々」が「相当」であることを覚悟させた。しかしそこはそこ、相手はイギリス人であるゆえ、不満げなそぶり一つ見せずに鷹揚に構える他はない。 何といってもイギリスである。大英帝国である。女王陛下の国である。君臨すれども統治せずである。我が家と同じである。あ、いや、それはともかく紳士の国である。テディベアとパディントンの国なのである。 前回のカトマンズ紀行とは打って変わった思い入れだが、これにはわけがある。 今をさかのぼること10余年前、私が初めて本州を出たとき、飛行機に乗って向かった場所が他ならぬロンドンだったのである。 そう、その頃はロンドンまでの直行便はなかった。 ヴァージンアトランティック航空だってこの世に存在しなかった。心細い思いをしながら格安チケット屋で斡旋されたアエロフロート便に一人乗ったのだった。あの頃はまだソ連が解体していなかった。 ばりばりの共産圏の貫禄のあるスチュワーデスにびびりながら、兵士が銃を構えるモスクワを経由してロンドンに着いたのは9時を回っていて、真冬のロンドンは夜の帳が下り、空から見える街灯のオレンジ色の光を、窓ガラスに額をくっつけて飽きもせず見つめていたのである。 今回私がイギリスに来たのは、夫の在外研究にくっついてのことなのだが、何を隠そう私はイギリスが大好きなのである。私が頼まれもしないのに、ローラアシュレイの花柄のワンピースを着、紅茶には冷たいミルクを入れ、休日にはせっせとガーデニングに精を出しているのはそういうわけなのである。 私の日常を知っている人々は、私が無理矢理夫にイギリス行きを決めさせたと思っている向きもあるようだが、それは誤解である。 ロンドン到着は午後9時。夏時間ゆえ、まだ日は落ちずあたりは明るい。一路ハイウェイをケンブリッジに向かう。牧草地帯に映える緑が美しい。自然と気分が高揚してくるのがわかる。 とにかく、こうしてわれわれのここでの生活が始まったのである。
おひさしぶりです。 私たちは5月15日に無事Cambridgeに到着しました。 とりあえず、Cambridge大学のSt.Peterhouse Collegeの一角にある visiting scholar用宿舎に落ち着きました。 ここは通りから一本入った袋小路の奥に位置し、後ろはCam川の緑地帯が広がり、前には教会がいくつかあり、毎時荘厳な鐘の音が聞こえてきます。 建物自体は石作りの外壁で内部は木造の大変古いもので、壁は一面白いペンキで塗りつぶされたイギリスらしい内装です。設備は比較的新しく、シャワーの温度が異常に低いことを除けば快適です。そうそう、バスタブもないんでした。 先日シャワーの修理のおじさんがきたのですが、これがすごいケンブリッジ訛りで何言ってるかさっぱりわからない上に、私の言うこともさっぱり理解しようとしていないので参りました。 結局、シャワーのお湯がぬるいのはボイラーのスイッチ入っていなかったからだという結論に達して「熱すぎるようなら、また連絡しな。すぐ来てやるよ」 といって去って行ったのですが、相変わらずシャワーのお湯はぬるく、他のキッチンや洗面所のお湯は熱すぎるという、踏んだりけったりの状態になってしまったのでした。ああ、お風呂入りたい(涙)。 ここに2〜3週間滞在することができ、その後今後住む家に本格的に引っ越しです。 ちょうど今はこちらでの年度末で、各国からの訪問員が帰国するため、物件は探しやすいようです。すでにいくつかの家を見て回りましたが、 7つの家を見た結果、3ベッドルームの庭付きの家を借りることにしました。 小さくて古いイギリスらしい家も魅力だったのですが、結局広さに負けたということで。 ま、一生に一度だし、石川では団地住まいだったので、この時とばかり気が大きくなりました。 研究所のスタッフは皆とても親切で、特に秘書の女性がいろいろを骨を折ってくれるのですべてのことがスムーズに運んでいます。こちらの受け入れ先の研究所長がCambridge大学で高い地位にあることと、彼女のおかげで、林望氏のような名エッセーの題材には恵まれません。 当地はこの時期大変美しく、夢のような風景を楽しんでいます。 周囲には中華、イタリアン、フレンチ、などさまざまなレストランがあり、まずいイギリス料理に閉口する必要もないようです。とはいうものの、時にまずいイギリス料理に大当たりすることがありますが、ここは世界中から学生や研究者が集まるのでわりと進歩的な感じがします。 そのうちここでの滞在の様子を書いた「ケンブリッジ見聞録(仮称)」をホームページに連載する予定でいます。気長にお待ちください。
大学院を修了してしまいました。 しまいました、っていうのも変ですが、まあ、努力の甲斐あってということですな。 学校が終わって何が変わったかって、あまり実感がわかない、というのが正直なところです。 学校に入る前からここに住んでましたし、卒業しても相変わらずここに住むわけですからね。卒業してからはばたばたと東京の実家とこことを行ったりきたりしていたので、なにがなんだか、という感じです。 変わったといえば、てきめんホームページの更新がおろそかになったことでしょうか。 考えてみれば、今までは毎日学校に行き、一日にかなり長い時間を机に向かっていたわけですから、気晴らしといえばウェブぐらいで、論文書きや資料作りの合間にたまった思いを吐き出していたわけです。 今はメールとネットサーフィン以外に端末の前にいることはなく、気晴らししたければ何をしてもいいわけですから、勢い、まとまった文章を書こうなんて気はさらさらなくなるのは、ま、当然といえば当然ですな。 とはいうものの、いつの間にか増えているカウンタを見ては申し訳ない気持ちになって今日こそは書こう、明日こそは書こうと思っていたいたのですが、いかんせん書くことがまとまりません。 人間発散していてはいけないこともあるんですねぇ。 カトマンズ紀行のほうも、あと数話残したところで中断してしまい、完結しないうちにアメリカに旅行しちゃったりで、こちらも大変心残りです。もう少ししたら、ちゃんと終わると思います。 この環境もいつかは使えなくなりますから、どっかプロバイダを探してここごと引っ越すことも考えなくてはなりませんな。しばらくはこのままいけるでしょう。
|