サーシャ・コーエンの日本名である。
彼女を抑え荒川静香は金メダルを獲得した。彼女は銀メダルだ。
「予定してた講演を縮小せねばなりません。 でも仕方ないです。あれだけの演技をされては。」 負けたのにすっきりした笑顔で彼女はインタビューに応じていた。 さすがに銀メダリストである。
会社に行く途中あのような輝かしい成績を残せる彼女達と僕では何が違うのかをいつものようにうつむき歩きながら考えてた。
そして解った。 僕の目線は10m先の地面しか見ていなかった。 彼女達の目線は常に前を向き遠くを目指していた。 それが違いだった。
だから僕は顔を上げて前を向き遠くを見るようにした。 そうするといつも立ってる内幸町の交差点から国会議事堂が見えることに初めて気がついたんだ。
| 2006年02月23日(木) |
自分自身のために書く |
かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。高校生の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。(109頁)
「風の歌を聴け」からの引用だ。 僕にも高校生位の時にクールに生きたいと考え、思っても発言しないようにした時代があった。そして上記と同じく、僕も発言できない人間になっていた。今思うと、若気の至りだなと笑い飛ばすしかない。
あと村上春樹の物語について思った事があったので下記に記しておく。
村上春樹の物語には、どうしようもなく救えない弱者と、権力や能力は無いが一般論で片付ける強者が存在すると思う(初めにしたクールの話は村上春樹自身の話なので弱者と強者は存在しない。即ち物語と無関係)。その対比が、彼の物語の本質で、その強者にも愛があるから美しい話になるのだと思う。愛の無い一般論者は2流の政治家か2流のメガメディアだ。
「しかし少なくとも、書くたびに自分自身が啓発されていくようなものじゃなくちゃ意味がないと思うんだ。自分自身のために書くか・・・・・・それとも蝉のため書くかさ」(114頁)
この日記の多くは自分自身のために書いてる。たまに蝉のために書く時もある。全ては気分次第。
「ビル間移動の際に鯛焼きを買った。1個150円だ。 歩きながら一口食べた。小学生に見られた。 行儀よくないね。袋にしまった。 今日はなんか疲れた。仕事したくないや。このまま帰りたいな。 今日は一旦帰って改めて明日からやればいいや。 でもまてよ、明日からなら気分一新できる保障なんてどこにも無いね。 無いはずだよね。ならばどうあるべきか? おそらく投げたい時に投げずに我慢するというのは結構大切なんだろう。 そしてそれはある意味スキルだし自分のためだ。 よし。ならば、少しづつでもぼちぼちやるとするか」 「ふむ。ということはまだ頑張れるってことだね?」 「えぇ、まぁ一応」 「じゃあ。頑張りたまえ」
僕が昼ごはんに和光の特ヒレかつ弁当を食べてた1時頃、 38.7度の小さな彼女はすでに38.2度まで熱を下げていた。
僕がボスの缶コーヒーで休憩してた3時頃、 小さな彼女は遊びつかれて寝て、37.8度度まで熱を下げていた。
僕が仕事で少し擦り切れて家に着いた22時頃、 小さな彼女は晩ご飯を240ml飲み切って37.5度まで熱を下げていた。
上記の文とは全然関係無いけど「羊をめぐる冒険」を読み終えた後で、 いま「風の歌を聴け」を読んでる。これも2回目だ。 最初読んだ時に黄色の蛍光ペンで線を引いた所があった。10Pの文だ。
ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。 「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事象との距離を確認することである。必要なものは感性でなはなく、ものさしだ」
この日記にも同じくそういう意味があると思う。
「認識こそ幻想だ」と右翼ナンバー2は僕に言った(羊めぐる冒険・206頁)
無知の知とは、 「自分がある知識を知らないという事に気づく」 だけで無く、 「既知の事象について自分の認識は間違っている?幻想かも?と感じる」 も含むんだなと思わされた。
具体例を言うと、保守的な人間は自分が保守的だとは思っていないんだと思う。僕が自分の事を高慢な人間だと思っていないと同じくらいにね(笑)
| 2006年02月13日(月) |
セックス・アピールの本質 |
引き続き羊をめぐる冒険の話だ。長くなっていますが。
上巻141頁で鼠の僕への言葉だ。 「女の子一人一人には綺麗な引出しがついていて、その中にはあまり意味のないがらくたがいっぱいつまっている。僕はそういうのがとても好きだ。僕はそんながらくたのひとつひとつをひっぱりだしてほこりを払い、それなりの意味を探し出してやることができる。セックス・アピールの本質とは要するにそういうことだと思う」
確かに。。 と唸る他ない。
しかし、上記は、セックス・アピールを人間的で理性的なものとして定義している訳だが、それだけでなく、動物的で感情的な自分の力を揚々と誇示することもセックス・アピールだと思う。だから、セックス・アピールは人間的なものと動物的なもの2つの本質があると僕は思う。
場合によってどちらかの方法を取捨選択していければ、巧くいく可能性が格段に上がると思われるが、そうはいってもそこは自分次第だと思いますね。要はバランスですが。
引き続き、羊をめぐる冒険を言及しよう(まだ上巻)
右翼ナンバー2は、誰も未解な問題の解決指令を出す(224頁) 「とにかく、動け、君は時間を無駄に使いすぎる。自分の置かれた立場をよく考えてみたほうがいい。そういう立場に君を追い込んだのは君自身でもあるんだからな」
その指令について耳の女は、僕の心を負から正へと前に進める(232頁) 「でもあなたのお友達は既にその深刻なトラブルに巻き込まれてるんじゃないかしら? だってそうじゃなければそんな写真をあなたにわざわざ送ってはこないでしょ」 「どうもいくしか無さそうだな」 「きっとあなたのためにもそれが一番いいのよ」
ちょっと僕も時間を無駄に使い過ぎてた気がする。ミクシーやってる暇は無いな。羊を探すためにベストを尽くさないと小説は美しい結末を迎えられないはずだ。現状に対する自己認識を否定し、ちゃんとした結果を求めようと思う。否定は物事を少しも前に進ませないのだから。
1年半振りに小説が少し読みたくなって(本当にこの1年半は読みたいと思った時は一度もなかったのだが)単行本で買って棚に眠っていたアフターダークを先日読んで、改めて村上春樹を読みたくなってきた。 村上春樹として僕が初めて読んだ「羊をめぐる冒険」の文庫本を再度買って読み始めた。もしアフターダークが僕に響かなければ動機も失われるわけだから、それは下馬評よりもがんばってくれたと思う。 羊をめぐる冒険の目次の第1章のタイトルを目にしてまず驚いた。「第1章 1970/11/25」と書かれたタイトルはちょうど僕の誕生日の7年前だったからだ。この偶然は当然僕の小説読動機にインスパイアされ俄然、読みふけることは致しかた無い。初読時はこの偶然に全く気づけなかったので粗かったなとしみじみともできた。 改めてこの歳の僕が読んでみると、初読時の24歳の僕が気づかなかった部分がヒットしたりする。例えばこんな部分だ。冒険に「僕」を巻き込んでいく右翼のナンバー2の言葉だ。(上巻100頁より) 「人は往々にして非現実に走ろうとします。なぜなら、その方が簡単そうに見えるからです。そしてある場合には非現実が現実を圧倒したかのような印象を与える場合も往々にしてあります。しかし非現実の世界ではビジネスは存在しません」 ふむふむと今ではうなずいてしまう。概念的で解りにくいがその背景にあるイグザンプルを考えるのはとても面白い。
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