於徒楽的日記(OFF生活編)
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2003年10月23日(木) いざ沖縄4:国際通りは新京極?

 京都人なら判っていただけるかしらん。まさしくそんな感じ。あそこへ行けば観光土産がほぼ揃うってところと、お店もココに出店してるというプライドを掛けて双方とも頑張ってはる様に思う。
 開店前の9時ごろ、すでにタクシーにて国際通りへ。早過ぎやねんて〜。ま、今年の夏開業した「ゆいレール」に記念乗車もできたわけで。ココで各関係者宛のお土産をチョイス。紅型コースター、Tシャツ、琉球硝子、琉球焼、シーサー、泡盛各種、ちんすこう、紅芋まんじゅう、沖縄そば、さんぴん茶、うっちん(うこん)粒、まだあったやろか。再度昼食は牧志の市場へ。ラフテー(豚の角煮)をたっぷり食べておく。
 ホテルに荷物を預けておいて、飛行機に間に合うよう戻り、レンタカー返却。那覇空港では台風の影響が少し出てきたのか、強風により離陸遅れあり。それでも順調に関西空港到着、はるか乗車に間に合った。
 久し振りの京都は肌寒かった。駅ビル内で夕食を済ませて帰宅。お土産は最低限で、ほとんど宅配便に依頼してあるぞよ。


2003年10月22日(水) いざ沖縄3:美ゅら海なり〜

 ブセナを後にして、午前のうちに海洋博公園へひとっ走り。山越えルートでとりあえずいってみますた。色々と怪しいテーマパークが並んどったのう。あまり時間がないので寄り道なし。んで、間もなく開館1周年という水族館へ到着。なんとなく海遊館と似たような雰囲気ってか。魚の種類は当然違うんやけどさ。さっと観たあとは歩き疲れてしまい、公園内もほどほどに引き上げやした。
 海沿いルートで今度は首里城へ向かう。一部観光向けやない道があったけれどご愛嬌かね。高速に乗ってしまえばあとは楽じゃった。ココは世界遺産になったから観光客だらけ。だからというわけでもないが比較的写真をとりまくった。扮装写真もねん。
 空腹がピークのころ、那覇市内のホテルに漸く辿り着く。チェックインもそこそこに、タクシーに乗って国際通り方面へ急いだ。目指すはTVでも注目の牧志公設市場。魚屋のオバちゃんに捕まって、一方的に食材を決められて「2階で食べて」だと。おやつどきやったけんど、2階の食堂ではお客さんがうろうろ。出てきたのはイセエビの造りと味噌汁、ハリセンボン(あばさー)の唐揚・あんかけ、各種お造り(海ぶどう付!)。ご飯が食べたくなって、タコライスを追加注文。迫力負けやね。
 それからはしばらく市場商店街や国際通りをぶらつく。臥龍氏はブセナのときから得意の営業トークで情報収集していって、「海人(ウミンチュ)」の店や民謡居酒屋について調べとった。現地でも同じく聞き込みしては衝動買い。ま、翌朝はお土産捜しせないかんしのう。
 夕食は情報により民謡居酒屋にて。ゴーヤチャンプルーや山羊刺しに舌鼓、沖縄民謡の生演奏にウキウキ、泡盛でふわふわ気分やった。それから沖縄の打楽器を買って、ホテルへ戻った後も、於徒楽は悪乗りしてオリオンビールに手を出す。あろうことかソファーで寝てもうた。記憶が飛んでるねんその後・・・。


2003年10月21日(火) いざ沖縄2:夏の終わりのハーモニー

 この歌が浮かんだ日じゃった。朝食は海風にあたりながらテラスにてこれまたご馳走なり。半袖で臨んだものの、ちと冷たかったかも。んで、ビーチ沿いを散歩して、午前は名護湾での海釣りに出る。小型のボートに乗り込んで、カップルがもう1組と、男性1名。インストラクターのお兄ちゃんがボートを操ってくださり、ポイントを2点当ててくださった。於徒楽は後半船酔いしてしまい、結局ボウズ。臥龍氏は2ひき。後の3名さんは好成績。日差しは強めで、帽子とサングラスで顔面をカバーしたものの、半袖の左腕が特に焼けた。
 陸に上がって、臥龍氏の眼鏡フレームが一部破損していた事に気づき、急遽名護市内へ眼鏡屋探しのドライヴ。ホテルが案内してくださったところへ急ぐものの、何しろカーナビしか頼れないので、近くまで来ておきながら遠回りになってもうた。聞いていた所在地が古い情報で、余計に混乱してしもうたのう。それでもフレームは無事修理完了。帰りに沖縄そばとソーキそばを食べておく。
 その後は休憩しながら、臥龍氏のリクエストによりビーチで数分間過ごす。彼は泳いだっす。いったん部屋へ戻ってから、海の中を覗き見できるイベントへ。硝子底のボートに乗り込んで、珊瑚の様子や、熱帯魚が泳ぐ姿、ナマコやウニの生息風景なんかを見る。その後で、海中展望塔に行って、視点を変えて魚の泳ぐ姿を眺めてみた。上からと、正面からではこれまた景色が異なる。あたりまえやけどさ・・・。
 んで、大浴場で身体を温めてですな、遅めの夕食に突入。イタメシだが、パスタ・ピザが一切出ないコースになっちった。ま、美味しかったからそれも良し。そんでから、古酒(くーす)バーにて泡盛をくくっとね。バーテンダーのお兄ちゃんが日本酒通だったようで、色々と地酒について語り合っとったのう。
 ココのホテルは無料のシャトルバスがあって、乗りまくった。


2003年10月20日(月) いざ沖縄1:平和を考える日

 朝早くから外出。於徒楽の姪っ子の登校時刻と重なったので3分間のおしゃべり。たまたま駅のホームが近かってん。んでもって、はるかで関西空港へ。
 於徒楽4回目の飛行機搭乗なり。身体障害者・赤ちゃん連れの乗客が優先搭乗された関係もあり、やや10分ほどの遅れ。ま、それはそれでいいことなりよ。所持品チェックは「ペットボトルはこちらへ」が印象に残る。たまたま手に持ってただけやねんけどさ。
 無事に那覇空港へ到着、レンタカーの送迎バスに乗り込んで手続。運転は臥龍氏。日程を考えて、移動の都合上初日は南部を巡ることとして、まず「ひめゆりの塔」を目指す。資料館での証言員さんの話をお聴きして、劣悪な環境と捨て石作戦の運命の中散っていった少女達の写真、当時の記録や再現セットを眺めるのはかなり酷なものなり。その後は平和公園へ。海風を受けながら、ココで飛び込んで自決された人々を想う。流石にこの2箇所については、持参のビデオをまわすことができなかった。
 高速に乗って、一路ブセナ岬へ。2000年の沖縄サミット会場にもなった景勝地であるが、運良くこのリゾートホテルで2泊できることとなり、とにかくゆっくり寛ぐこととする。夕食は贅沢して琉球料理の会席を。泡盛とオリオンビールでニマニマ。それでいて「オメデトウ!」の嵐の翌日だからこそ、命の尊さを逆に一身に受け止めることができたかな、と2人で話し合った。そして、夜はホテルのサービスによりスパークリングワインを傾けた。
 部屋はスイートやねぇ。セミダブルが2つ並んでて、ベッドとバスルームが何故か窓で仕切ってある。室温は24℃なり。海が見えるのねん。


2003年10月19日(日) Eternal Love for Marriage

 はい。イベント当日でごじゃいまする。朝からばたばたと、ひとつひとつやることをこなすだけで終わってしまった。
 会場へは10:00過ぎに入って、すでに送迎バスチームは到着済みで、実家に届いていたプレゼントを漸く受け取って。礼装に着替える人たちは早めに終わってて、ロビーで人待ち顔の様子。腹ごしらえをぼちぼちしておく。
 於徒楽は11:00から準備を始めて、楽屋着のようなものに着替え、髪型から固め始めて、顔を造って。最初はウェディング・ドレスなり。パリコレにも出品経験がある某K.Y.氏のオートクチュール、とっても天気が好いので上機嫌。
 臥龍氏は11:30ごろから準備。正味着替えるだけなのでシンプルやね、新郎は。
 この日、チャペルで4件の挙式予定。うちは3件目だったらしいが、少し予定が押し気味のようで。ま、12:30頃いざ出陣すりゃ、最初ワッカを踏んでしまって両家の両親に両手をついちゃったところを目撃されたけんども、その後はうまい具合に家族写真と2人の写真を収められたし。
 13:00過ぎより、ワーグナーの行進曲にて入場。ゆっくり歩みすぎて、BGMが早く終わってしもうた。ま、それなりに何とかなりやした。友人でもある牧師に司式を依頼してあり、BGMは於徒楽の姉が担当、聖歌隊も妹分に任せているということで、於徒楽自身はとてもリラックスした状態を保てた。ブーケおよび髪飾りの花は生花で、臥龍氏の友人(実はプロの花屋さん)が前日に仕立ててくださったもの。持つとけっこう重たいものじゃった。
 無事ウェディングベルを鳴らして、フラワーシャワーを浴びて親族写真。その後オープンカーでからからと敷地内をドライヴ。着替えてから披露宴に臨む関係もあり、裏から着付室へ向かう。
 14:30過ぎに披露宴会場へ。約60名の出席。今度はピンク地の掛下とオーガン刺繍の和装なり。オーガンは臥龍氏's父のご専門でござい。照明を浴びて、お気に入りのBGMで歩くのはすごく気持よいっす。ご馳走が目の前に並ぶけれどほとんど食べられないのが残念。でも仕方ないっす。いったんお色直しで退場、16:30過ぎには黒の素描友禅でお引き摺りなり。これも臥龍氏's父のご専門。あとは当日に出てきたランチョンマットも臥龍氏's父のお心遣いによるもの。カラオケは一切なく、ケーキ入刀とキャンドルサービスと、子供花束&プレゼント交換、出席者からのスピーチおよび唄(さわださんThanks!)で進行をプロの司会者に依頼。その司会者からの突撃インタビューという企画もあったりして、充分に時間を使えたような感じ。最後の両親への手紙、花束、両家・新郎の挨拶と、淡々とこなすことができた。
 17:30頃お開きで、ごく一部のメンバーが二次会に残ってくださり、結局その場しのぎで臥龍氏の友人に司会をお願いしたり、臥龍氏の弟が黒子で動いてくださって何とか収まった。二次会はこじんまりと20数名。職場関係が増えて、お引き摺りの衣裳を見ていただいてから着替え。これが19:00頃。ビンゴ(景品は京都生まれの健康グッズ)とカラオケで無理やり盛り上がって、最終は21:00頃まで居たけれど、帰り着いたらフラフラじゃった。


2003年10月18日(土) イベント前日

 やべーまだリングピローが出来てないし、当日配る札も揃ってへんやん! と、新郎新婦共に焦りの一日。
 最終的に出来たのが夕方で、会場に持っていったのは営業ギリギリの時間帯だったりする。ほんまにもーとんでもなく迷惑かけまくり。結局は間に合ってくれたので良しとせにゃ。
 式次第の折込とかはその会場で作業したなんてさ・・・ええ加減にしおし >自分たち
 仕事は休みを貰っていて、イベントに集中できる状態になって、本当にワクワクドキドキ。まな板の上にのっかかった状態やから、もう後戻り出来ないし。んでもって、本当に人が集まってくれるのかなぁ、という不安もある。ふぅ。

(20041008 以下転載)

泣きじゃくりながら、当日に読むべきお手紙をようやく完成させる。

花嫁から両親へ

パパとママが40歳の時に、私は生まれました。
31年生きてきて入院知らずの健康を授かり、
大学も行くことが出来たのは、何よりも
パパとママや、家族みんなの支えがあったからです。
深草の家を火事で失ってから20年。
大好きな音楽を忘れないために、
クラシックのLPやCDをまとめ買いしていたパパ。
長年パートで働きながら家庭を守ってきたママ。
大人社会の中で生きるのに不器用で親不孝な娘ですが、
6年前に巡り逢った[新郎]と
一生苦楽を共にしていくことを決めました。
パパとママにとって、6番目の孫の顔を見せることが
私にできる、さしあたっての親孝行でしょうか。
これからも元気で、弟との3人暮らしを楽しんでください。
パパ、ママ、私を産んでくれてありがとう。
今、とっても幸せです。


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