昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2007年06月17日(日) あなたは未来の王様みたいに

携帯電話の留守電メッセージは、48時間しか保存できない。永遠ではないのか。役立たずだ。機械はやはり、わたしの望む何をも、叶えてくれるものではないな。
呼びかけられる、声はもう消えただろう。時折、突然に与えられるあたたかいものに触れることで、わたしは辛うじて、前を向いていられる。
元気だと、わかってよかった。

東京芸大で、『写真 見えるもの/見えないもの』という展示を見た。鈴木理策の写真が見たかった。4枚だけだが、この人の写真にはいつも、見えないものが写っていると、思うから。
上野公園の木陰で、鈴木道彦『異郷の季節』を読んだ。動物園に入ってみたかったが、遠足の中学生の群れに気後れがして、フェンス越しの緑を眺めているだけにした。
谷中を歩いていたら、徳川慶喜の墓はこっち、みたいな矢印が出ていたので、何となく霊園に入ってみた。昼下がりの墓場は誰もいなくて、雨が木の葉にあたる音だけがしていた。寂しいという感じは全然なかったが、徳川慶喜の墓はただの石だと思った。こんなものはもう何も語らない。死者の気持ちは想像することしかできないし、それは生きている者のためでしかない。
日暮里の駅周辺を次はどこへ行こうかとさまよっていたところ、豊田屋に行きたいんだけど北口に出るにはどうすりゃいいんでしょ、と白髪リュックのオジサンに道を尋ねられた。わたしが知るわけない。駅を出たらラーメン屋とパチンコ屋があるってえ聞いたんだけど…、と結構しつこくて、大抵の駅前にはラーメン屋とパチンコ屋がありますからね、とこたえて、豊田屋って文房具屋ですか、と聞いてみたら、目を真ん丸にして、違いますよ、と言われた。
駅近くの喫茶店で珈琲を飲んで、目を閉じて、重い腰をあげた。

堀江敏幸の『めぐらし屋』と『バン・マリーへの手紙』を読んで、気になったのでリルケ『マルテの手記』を読んだ。こうして並べてみると、フランスづいている。
『とうとう声に出して「なんでもないじゃないか」と叫んでみた。いくらか救われた気がした。もう一度、「なんでもないじゃないか」と叫んだ。しかしいまさら、どうなるというのだ。』

なんで電話に出なかったんだろう。悔やんでも悔やみきれない。1分でもいいから話したかった。わたしにだけ向けられた言葉が聞きたかった。それならせめて、あなたが電話をかけているところを見られたらよかったのに。わたしを呼んでいる、その時の姿や表情を。でも、それは不可能だ。こんな時、神なんていない、って思ってしまうけど、神はわたしが殺したのかもしれない。


2007年06月09日(土) 答えがないのは問題がないからだ

朝、出かける前に、ベランダの日の当たる場所に財布を干す。「日光浴させてあげるんです」と、店員のお姉さんが言った。かれこれ15年くらいは使った今のBREEの紺の財布は、あちこち擦り切れ、小銭を入れすぎるせいか型崩れも激しくボロボロで、この度引退の運びとなった。賞与の査定もけっこう良かったし、奮発して同じブランドの、いいほうの皮のを買った。これが、人生最後の財布になるかもしれないんだし。南向きのベランダの窓越しで、たぶん午前11時くらいから4時くらいまでは、太陽の光を燦々と浴びることができるだろう。太陽の力で、皮の中からアブラがしみ出て、汚れないようにコーティングしてくれるのだそうだ。新しい財布がデビューするのは、充分日焼けがすんでから。
それまでは、待機の時間だ。待機待機待機。人生って、何かを待っている間に過ぎていく時間のことをいうのだろうか。

5月後半の日記を書こうかと思ったけど、面倒くさいのでやめる。
覚えていることだけ。

国際美術館で、『様々な祖型 杉本博司作品展』を観に行った。作品自体は9点ほどしかないが、展示の仕方が贅沢かつ大胆で、迫力があり見ごたえがあった。作りこんだ写真はあまり好きではないのだが、教会のシリーズは観ていて飽きない。射し込む光とは優しいものなんだなあ、と思う。

三谷幸喜の芝居を観に行った。『コンフィダント・絆』。芝居を観るのは本当に久しぶり。Tが役者をやっていた時は時々観る機会もあったが、最近はさっぱりだった。ゴッホとスーラ、ゴーギャンとシュフネッケルが、共にアトリエを借りていた頃の話。この4人で一番胸にグサッとくるのは、やはりシュフネッケルだ。この人は美術教師で、いい奴だが絵の才能はない。シュフネッケルの悲劇は、絵の才能がなかったことではなくて、他の3人の才能を見抜く才能がなかったことだ。同じスタートラインに立ち、同じコースを同じペースで走り、同じゴールのテープを切るのだと思ってしまった。描ける者たちは、コースなんかそれてどんどん外へ出て行く。シュフネッケルの手の届かないところへ。友情はありがたいものだが、天才たちには重すぎた。3人と出会わなければ、凡庸な自分の人生を意識しないで生きられた。でも、3人と過ごしたおかけで、振り返る時間に厚みは出来た。「おじいちゃんは昔、ゴッホと絵を描いたんだよ。楽しかったなあ、あの頃は」と孫に話せるくらいの厚みは。それだけのことか?いや、それだけのことが、重要なんだ。確かにあった時間は、決して消えることはない。

あとは珈琲と本と煙草の日々だ。その他は仕事してやさぐれてるか、料理して酒飲んでるか何か食べてるか、その合間に寝て、朝になったら財布を干してる。

読書。読みすぎてよくわからないことになっている。
とりあえず、1冊。『タタール人の砂漠』は、たいへん良かった。
『確信は次第に薄れていった。人間はひとりっきりで、誰とも話さずにいる時には、あるひとつのことを信じつづけるのはむつかしいものだ。その時期、ドローゴは、人間というものは、いかに愛し合っていても、たがいに離ればなれの存在なのだということに気づいた。ある人間の苦しみはまったくその人間だけのものであり、ほかの者は誰ひとりいささかもそれをわがこととは受け取らないのだ、ある人間が苦しみ悩んでいても、そのためにほかの者がつらい思いをすることはないのだ、たとえそれが愛する相手であっても。そしてそこに人生の孤独感が生じるのだ。』

先日、『21世紀ドストエフスキーがやってくる』を、ジュンク本店で買った帰り道、月を見上げながら、天満橋まで歩いた。少しふくらんだ半月だった。月を見るたび、あの時に月を見て月の話をすればよかった、と思う。今夜は三日月ですね、とか、満月がきれいですね、とか、何でもよかったやん、しょうもない話やけどさ。そしたらさあ、こうしてひとりで夜空を見上げた時に、あの時と同じ形の月が張りついてたら、あの人もこの月を見てるかな、とか、それでわたしのことちょっとでも思い出してないかな、思い出してくれ!、とか、念力を送れたのになあ。祈っても無駄なわけよ、その話してないから。
わたしは何も、本当にもう何がどうなってほしいとかどうしてほしいとかなくて、ただ、長い時間をお疲れ様でした、と伝えたい。そしてそれが伝わってるかどうか、確かめたいだけなんです。






フクダ |MAIL

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