昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2007年05月17日(木) I don't want to sleep alone

左手の中指を火傷した。鶏肉と豆の煮物を作っていて味見をする際、落し蓋を持ち損ねた。すぐ冷水にさらせばよかったのに、そのまま調理を続けてしまった。何となく、大丈夫かなって、思ったから。今になって、蓋の当たった爪の横が赤く腫れはじめて、ヒリヒリする。痛み出すのは、いつも後から。これは火傷に限ったことではないけれど。

これから、5月8日以降の日記を書く。

5月9日(水)
19時半まで残業し、肩と背中がバシバシになった。新しい人が入社して、その研修係になったので、なかなか自分の仕事が進まない。「新しい人」という呼び方は、なんか、いい感じだ。帰りに寄ったスーパーで、3か月分のコンタクトレンズを買う。ミシェル・リオ『踏みはずし』(白水Uブックス)を、行き帰りの地下鉄と、昼休みの喫茶店と、夕食を作る間に、読み終わる。

5月10日(木)
休日。天満橋の竹井屋で、クリームソースのパスタを食べ、東洋陶磁美術館で『安宅英一の眼』を観る。旭屋の前で、強風にあおられて、さしていた300円のビニール傘の骨が折れた。折れたまま、平行四辺形になった傘を、さして歩く。ビニール傘は安っぽいが、傘をさしていても空が見えるから好きだ。傘にくっついて、流れ落ちていく雨粒越しに、曇った空がある。花屋で、母の日の花を贈る手配をする。今年は水色のアジサイにしてみた。花びらが透き通ってきれいだったし、今日が雨だったから。
クリーニングを引き取って買える。タブッキ『レクイエム』(白水Uブックス)を読む。この小説を読むと、旅に出たくなる。

5月11日(金)
朝礼当番。先日観た映画『バベル』のことについて、ひとくさり喋る。会社では、引き続き「新しい人」の相手。「新しい人」と言ったって、うちの会社で新しいだけで、もう30をとうに過ぎている、だろうと思う。もう充分古い。人にものを教えるのは難しい。なんで出来ないのか、覚えられないのか、何が難しいのか、わからん。わたしは、こういうことに向いていないかもしれん、と思うと、タバコの本数が増える。就寝前に、『ヴェイユの言葉』を読む。
『ときおり、畏怖と後悔にうちふるえながら、彼が語ったことばの切れ端をくり返さずにはいられない。正確に覚えているかどうか、わたしにはわからない。それを言える本人はここにはいないのだ。』

5月12日(土)
帰り、ドトールでHさんの話を聞く。相談事。Hさんは会社の先輩だ。なぜ、わたしは人に相談ばかりされるのだろう、とこないだ考えてみたところ、口がかたいからだとわかった。たぶん、ただそれだけの理由だ。わたしに何を言ってもそれ以上絶対どこへも出て行かない。話は、スポンジのように吸収されて、穴倉の中に落ちて、消える。わたしの口がかたいのは、ただ他人に興味がないせいで、それ以上の理由はない。

5月13日(日)
図書館に行って、本を返却し、ブッツァーティ『タタール人の砂漠』を借りる。あじの南蛮漬を作る。母から電話あり。夜、『ヴェイユの言葉』を読む。
『彼がわたしを愛していないのはわかっている。わたしを愛せるわけがない。それなのにわたしの内奥に潜む何か、わたし自身のある一点は、畏怖におののきつつ思わずにはいられない。それでもやはり、もしかすると、彼は、わたしを愛しているのかもしれないと。』

5月14日(月)
残業。ほとほと疲れる。なんとかしてくれ。しかしどうにもならない。ドストエフスキー『地下室の手記』を読む。ドストエフスキーの中では、信じられないかもしれないけど、けっこう好きな小説。人間は、ここに書かれてある苦しみからは、どんなことをしても絶対に自由になれないと思う。

5月15日(火)
昼休み、社員食堂でOさんと、うどんを食べる。Oさんは、うどんを1本か2本、れんげにのせて、スープのようにすすって食べる。そんな食べ方をして美味しいのだろうか。ズルズルッと一気にいけよ、と思うけど、言わない。わたしがとうに食べ終わったあともずっと、うどんスープをすすり上げており、それをずっと見てた。タバコが吸いたかったが、禁煙なのでイライラした。梅崎春生『桜島』と『日の果て』を読む。夜は『地下室の手記』の続き。

5月16日(水)
シネ・ヌーヴォで『黒い眼のオペラ』を観る。事前に仕入れた情報では、多発する長回しと台詞なし映画だとのことで、今日は相当疲れていたし、もう絶対寝るわ、と諦めムードだったところが、始まってみれば全く眠気に襲われず、画面に釘付け、たいへん良かった。特に廃墟のシーンは目を見張るものがある。それから、生活音の捉え方が巧い。わたしたちは、今はそれぞれの「ここ」にいるけど、でも、同時にどこにでもいるし、また同時に、どこにもいないのかもしれない。繋がりたくて、繋がりを求めて、たとえそれを得られても、確かなものは一瞬で通りすぎていく。もう一度見たくても、それはもう記憶の中にしかない。

無理をしないでとあなたは言うけど、わたしは無理などしていない。あなたのことを考えてすることは、わたしがほんとうにやりたくてすることだから、それは無理なんかじゃない。


2007年05月08日(火) たぶんわたしは、立ったまま夢を見ている

水みたいに時間が流れていく。気づいたら連休も終わり、今日は一気に夏だった。紫外線が矢のように降る。日中干しっぱなしにしていた布団は、太陽のにおいがいっぱいでフカフカ!、なんて甘っちょろい感触を通り越して、今はただもう暑いだけだ。干さなければよかった。

泥沼の中をクロールで泳いでいたみたいな4月の終わりにちょっといいことがあって、結局のところわたしはそれだけを明日への糧として生きてるんだけれど、連休後半部分は平常心を装うのに疲れず過ごせた。
しかし目の前の景色が悪いことには変わりない。まず、ダンヒルのウインドウからジュード・ロウが消え、サッカー日本代表メンバーの愚鈍な顔が並んだポスターに張り替えられているのはどういうわけだ、わたしに断りもなしに。毎朝の愉しみを奪われた。それから、阪神タイガースが試合をするたびにおもしろいように負けるのが不思議だ。これはいつか遠い昔に見た光景だ。歴史は繰り返す。わたしは阪神に優勝してほしいと願ったことはないが、試合には勝ってほしいと思っている。少なくとも、「野球」をしてほしいを思っている。それができていないことが嘆かわしい。井川がタンパに送られた。これは当然至極で、仕方がない。

今日は、サンマルクカフェで「有機ブラック」というどこが有機なのかわからない珈琲を飲みつつ、J.M.クッツェー『マイケル・K』を読了した。アフリカが舞台だとは、地名が出てくるまでわからなかった。洞穴でマイケルが育てたカボチャを食べる場面には、強く感動した。人間の本質はつまるところ、この歓びを生涯にいくつ得られるかにあるんやで、と思った。

夜は、自分で淹れた珈琲とビスコを3つ食べながら、『戦後日本のジャズ文化』を図書館で借りて読んでから、最近はずっとジャズのアルバムばかり聴いているせいか気になって、菊池成孔がマイルスの解説をする番組を見た。映画『バード』の中に、マイルスが出てくるシーンってあったっけ、と思って、確かめようと『バード』のビデオを探したけどなくて、そのかわりにマイルスともチャーリー・パーカーとも全然関係のない『北の橋』のテープが出てきたのでそれを観て、ああこの女優さんも亡くなったのか、などと感慨にふけったりなどしているうち、また水みたいにタラリタラリと時間が流れた。

ビデオを飛ばし飛ばしに観た後、連休中に神戸で『サクリファイス』と『ユリシーズの瞳』を観た(どうです、この2本立て。心と頭にずっしり重いよ)ことに影響されて、バルカン半島の歴史を勉強しようと本棚の前に立ったんだけれど、ついつい先日読了した『百年の孤独』を手にとって、パラパラ読みかえす。10年ぶりくらいに読んだ『百年の孤独』は、やっぱりやっぱり素晴らしくて、驚きとため息の連続で、今回何と言っても自分の中で主役だったのは、ウルスラよりもピラル・テルネラだ。愛は孤独のうちにしかなく、永遠は一瞬の中にしかない。
『どの土地に住もうと、過去はすべてまやかしであること、記憶には帰路がないこと、春は呼び戻すすべのないこと、恋はいかに激しく強くとも、しょせんつかの間のものであることなどを、絶対に忘れないように』

毎週、新聞をチェックしないといけなくて、忙しい。たくさんの人に読まれますように。それが、わたしの願いだ。カボチャが実るのを、一日千秋の思いで待ったマイケルと同じく。
伝わってる?それは、どうやったら確かめられるのだろうか?


フクダ |MAIL

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