昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年10月21日(土) 君の暗い夜は消える

一日中、青一色の空だった。雲はほとんど見なかったかもしれない。会社のビルから御堂筋を見下ろすと、北に広がる空の青と、銀杏並木の緑がアスファルトに映えて、もしかしてここはキレイな街なのかも、と思った。

夜、シネ・ヌーヴォで『ピレスマニ』を観て、帰りは大阪ドーム周辺をぐるっと回って、心斎橋まで歩いた。西側から新なにわ筋に出るまでは、ほとんど人通りがなくて、橋の下の川の色はどろどろの真っ黒で、ラブホテルのネオンにビラビラに照らされていた。決して心の和む風景ではないけど、わたしは『ピレスマニ』を観た後で、すっかり鷹揚な気分になっており、人生など取るに足らないものさ、と思うと、何もかもがどうでもよくなり、真っ暗な道をひとりでブラブラと歩いた。

やっぱりそれは嘘だ。どうでもよくないことが一つだけある。そのことについては、もう考えすぎて疲れた。先週、友人と知人のライブに行って、その帰りに飲んだ時、わたしの「どうでもよくないこと」について、話そうとしてみた。誰かにこのことを話すのは初めてで、緊張した。でも全然うまくいかなかった。こんなに長い時間を生きてきたのに、自分の心の形を言葉に変えることさえもできなかったのだ。絶望して途中で止めた。話したくても、話すことがないというのは、ああ、わたしはこのままどうしようもなくなってしまうんでしょうか。

『カポーティ』を観て、会社の同僚は、作家とは因果な商売だ、などと言っていたけれど、作家だけじゃなくて、人間なんてそれ自体がもう矛盾した存在だ、と思った。でもそれはあの映画を観た時に、小山清の『小さな町』を読んでいたからかもしれない。新聞配達時代の話ももちろんだけれど、炭鉱での描写がわたしはすごく好きなんだなあ。

それから『フィッシュマンズ全書』という分厚い本を買ったので、最近の夜はそれをネチネチと読んでいた。決して安くなかったし、音楽があればいいか、と思ってたけれど、吸い寄せられるように手が伸びてしまったのだ。フィッシュマンズについては、10数年聴いてきて、いまだ一度も飽きたことがないというのは、なんかすごい。

読書はいろいろと。昼休みなど空き時間に、マルクス・アウレーリウス『自省録』をよく読んでいた。『ハマースミスのうじ虫』のうじ虫みたいな犯人がこの本を折に触れて読んでいて(犯罪がバレそうになった時、自分を落ち着かせるために)、影響されてしまった。
あとは、野崎歓の『赤ちゃん教育』が面白かった。思い返せば野崎歓に気づかせてくれたのも、あの人だったのだ。本人はきっとそんなこと、忘れているだろうけど。でもわたしは一生忘れないのだ。
この違いが寂しい、と思ったことがあったけど、今はもういい。生きててくれればそれでいい、という気になっている。わたしも存在しているこの世界のどこかに。そのことを時々知らせてくれればいいと。これも贅沢な望みなのか?都合よく使ってくれればそれでいいのに。どういう形であれ、受け止める用意はできているのに。それでも、わたしの手は要らないというのだろうか。


2006年10月03日(火) お前は盃に葡萄の血汐を流せ

とうとう、9月は1日しか書けなかった。何をしていたのだろう。いろんなことがあった。思い起こし書き連ねてみても、人にはずいぶん退屈な日々とうつるだろう。しかし当の本人は、混乱と葛藤と戸惑いと歓喜と失望を繰り返し、自己内面戦争状態であった。
『もし退屈でたまらなくなったら、まあ誰か、でなければ何かを、愛するように努力するんだな。それとも、ただ何かにかかり合うだけでもいいよ』
と、『未成年』の中でヴェルシーロフも言っている。仰るとおり。わたしは、分裂する自分と戦い続けるヴェルシーロフが好きだ。

全てのことはわたしの内側で起こる。時々、破裂しそうになり、誰かに助けを求めたくなるが、前例がなさすぎてどうやっていいのかわからない。これと一生付き合っていくのだと覚悟を決めたはずなのに、毎日弱音を吐いている。
楽しくはないけれど、楽しそうには出来ている。これでも精一杯やっているんですよ。伝わってる?これでもまだ念力が足りないとでも言うのか。神なんていないわ。絶対にいない。


9月も、バカバカと本を買った。読みたい本が次々に目に入るのだからもうしようがない。2本もライブに行ったし、落語を聞きに行ったり、映画を観たり、飲み会も続いたりして、お金のないことこの上なく、さらに何を血迷ったのか、34や35歳にもなってから、まあ1回くらいはやってみてもいいかなと思うねん、などと言って、身近な友人がなんと2名も結婚するなどと宣言して、この先の出費について考えると、真っ黒な暗雲が立ち込めて前がよく見えない感じなのだ。
いいけどね。ここまできたら、何が何でもなんとかするよ。

天満宮の古本市でシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を200円で買えたのは収穫だった。雨がザアザア降りで靴やジーンズがぬれ、肌寒いわりには何箇所か蚊にかまれたり、300円で買った『ローズマリーの赤ちゃん』のビデオは画像があんまり良くなくて、カサヴェテスの顔が奇妙に歪んでいたりして映画そのものよりよっぽどそっちが怖かったりなどし、あんまり景気のよくない古本市だったけど、まあ良しとする気になった。

先週は、十三で『太陽』を観た。観たい観たいと言いつづけて、何年か経った気がする。待ちくたびれるわ。思うに、世の中の流れより、観たくなるのが早すぎるんじゃないのか。
司令官と会談するシーンが一番の見ものと思う。一度目の会談が終わって、主人公がドアを開けて部屋を出るところがいい。あの主人公は、生まれてこの方、たぶん一度も自分でドアノブをひねったことがないだろう。アメリカ人達は皆遠巻きに見ているだけで、主人公のためにドアを開けてやろうとはしない。主人公は戸惑い、少し迷って、しかし最後には敢然とドアを開ける。人間として生きると決心したのなら、扉は自分で開けなきゃね。
とにかくイッセー尾形は巧い。すごく巧い。それからソクーロフはラジオ好き。なぜあの人はあんなにラジオに拘るのか。

ずっと切れ目なく本は読んでいて、こないだ読み終えたカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』はすごく良かったなあ。はっきり言って感動した。今日は、『ハマースミスのうじ虫』を読了した。10月になったので、さあこれから人生3度目の『カラマーゾフ』を、とも思うけど、なんかよくわからない。

最近読んだ書物の中で感銘をうけた言葉。
『真実が時として幽霊のように姿をあらわす
 私はもう少しでつかまえられそうだと思う
 それからまた私はそれを見失ってしまう
 だから再びはじめなければならない
 試みること それがすべてだ  アルベルト・ジャコメッティ』

試みること、それがすべてだ。
ここまではどうにかたどり着いたのだから、もうちょっと辛抱強く、信じてみようと思う。
 


フクダ |MAIL

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