彼の声を聞いて、笑顔になる。 一瞬、仕事中であることを忘れる。
彼は気づいているのだろうか?
甘えるような声と口調。 あきらかにいつもの私とはちがう私。 彼の声は私を「女」へと変貌させる。
* * *
今日から3日間、新入社員の仮配属。 期待してなかったといったら嘘だけど 予想通り、期待ハズレの2人の新人。
もう2年も前なのか。 なんだかもうずいぶん昔のことみたいだ。 いろんなことがあったけど、わたしは変わったのだろうか? ちょっとはイイ女になったのだろうか?
ひさびさの葉山はあいにくの雨。 それでも海で彼に会えるのは最高の気分。
遠くから彼の姿を見つけて 彼の乗るBMWの横を通りぬけて いつもの声を耳にして、笑顔になる。
風を背景に並んで歩く彼とわたし。 雨に濡れて、触れる指先はとても冷たい。
彼の隣りはとても心地よくて まるで自分の居場所のように錯覚してしまいそう。 そんなはずないのに。
疲れてベッドに埋もれていると携帯がわたしを呼んだ。
あきれつつもわたしはあなたを忘れられない。 人を好きになるのに理由なんていらない。 またわたしたち、ちょっと近づいてしまった気がする。
男の人があんなふうに泣くなんて知らなかった。 抱きしめたいほどにいとおしい。 この距離がもどかしい。
何をいっても自分を責めるばかりの彼。 何があったのかわからないまま待つわたし。
「こんなときに電話できるのはお前しかいなくて」 子どものように泣き続ける彼。 隣りにいてあげることができたら。
彼はわたしの恋人ではない。 単なる友達というには近づきすぎてる。 彼はわたしの大切なひと。
「何があってもわたしはあなたの味方だから」
嘘じゃないよ。 信じて甘えていいんだよ。
「日常生活がひとをつくるんだよ」
ドラマの中で江口洋介が言ったセリフ。 ぐさっときた。
いつかは夢を叶えようと思いながら働く毎日。 それがいつしか忙しさに追われて夢なんて忘れてしまって 自分の過ごす毎日が当たり前の毎日になる。
しばらくしたら自分のやりたいことをしよう。 そう思っていたはずなのに。
ひとが生きるからそこに日常がある。 一方で、その日常がひとをつくる。 それもまた真実。
ニューヨークで『AIDA』を観たときの衝撃。 これを演じたい、そう思った衝動。 夢を叶えるために、わたしは今なにをしたらいいんだろう?
思いがけず電話を受ける。 聞きなれた声。 自分が笑顔になるのがわかる。
わたしもちゃんと女のコだな、 そう思う瞬間。
あなたの声はいつもどおり優しくて あなたのリズムはいつもどおり心地よくて。
悲しみや挫折を知るあなたはとても強い。
もっと早くに出会っていたら。 そう思わない日はないけれど 過去のわたしであったならきっとあなたとつりあわない。
好きですなんてとても言えない。 このままでいい。 しあわせがここにあれば、それでいい。
桜の下ではしゃぐ若者の姿。 数年前のおだやかな風景を思い起こさせる。
あの人の隣りを歩いたあの時間。 一緒にいられることがただうれしくて、 すべてがまぶしく輝いていた。
同じ日に生まれた奇蹟を運命だと信じていた。
あれからもうずいぶん経つ。 あの人はどうしているのだろう。
桜を見上げる恋人たち。 あたたかい陽射しが彼らを包む。 わたしにはない、桜色の幸福。
夜、携帯に着信が。 名前を見て、気持ちが揺れた。 もう恋の相手としては見てくれないかもしれないけれど。
|