ねんねん仔猫
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2004年09月30日(木) 離婚まで

そんなこんなで、すれ違うだけの日をずっと過ごした。

私は最初の離婚に向けての話し合いをはじめたし、
職も、葬儀屋さんに変ったし。

でも、その葬儀屋さんで、
たまたま中学の同級生のY君のお父さんのお葬式があった。
私は、そのY君が同級生とは知らないが、お葬式で弔問客として彼がやってきた。
私は、思わず、ニコニコとしてしまったのだが・・・

その葬儀前に、彼と少しだけ、話をし、
今、「離婚するかもしれない」ということと、パソコンのアドレスを教えた。

でもそれもそれだけだ。
私は、彼に連絡を取って、泣き言をいうのも嫌だったし、
自分の離婚話の方が進んできて、それどころではなかったし、
もし、会うとしても、すっきりしてからでないと嫌だった。
弱い自分を見せるのでなく、昔の、明るい私で会いたかった。

そうして、半年過ぎ、
あるとき、夜電話がなった。
携帯をみると、彼だ。
初めて電話をしてきてくれた。

そのときには、最悪の精神状況だった・・・
なかなか、離婚話が進まず、追い詰められ、
人にあえない、すぐに泣けるなんて状態だった。

私は久し振りに、本当に17年ぶりぐらいに彼と長い時間話をした。
話の途中で泣けてくるし・・・・
そして、いつか、すっきりしてと彼に会いたいから、
離婚への決意を新たにしたのだ。
その電話の4ヶ月後に離婚する事ができた。


2004年09月29日(水) 高校生活2年〜大人になって。

彼は、その後、色々な女の子と付き合い?
楽しい高校生活を送ったらしい?。

2年は、私はなぜか、彼の友人、N、K,H君、その他もろもろの彼の取り巻きと
同じクラスで、みんなにシカトされ続けた2年。

3年になって、彼とはすこし話をするようになった。
体育の選択授業で、出席を取る時に、
私の時に、「はい!」と彼が返事をしたりして、
それが「すごい嫌だ」とか、友人との交換日記に書いてあるのだ。
それくらい普通になっていた。

卒業式を終え、彼は東京へ行く。
その日、いろんな友人へ電話したあと、最後に私に電話をしてきた・・・・


それから、別々の生活をする。
だが、実家に帰って来たときには、珈琲をのんだり、
東京へ私が遊びに行ったときに、会ったり・・・(それは覚えていないのだ・・)
いい友人として・・・・

私が彼に対する思いは、槙原敬之の歌詞だった。
「東京DAYS」とか「MILK」とか、「遠く 遠く」とか・・・
槙原の歌を聞いたときに、彼を思って聴いていたのだ。
ずっと、そんな思いを抱いていた・・・その思いだけは覚えている。
私が最初の結婚をしてから、ずっと、ずっと、会うこともなく、
東京でどうしているか、知る術もなく、ずっと、心の中で心配をしていた。


そして、ある日、
下の娘を、自転車の後ろに乗せて走っていたら、
「●ぁちゃ〜〜ん」と私のニックネームを呼ぶ大きな声が・・・
くるりと見渡すと、
車の中から手を振り、遠ざかっていく彼が・・・・
「あっ、戻ってきたんだ!!」ただそれだけだ・・・

そして、今から5年前は、高校の同窓会で・・・
でも、わずか5分話をしただけだ・・・
その同窓会のあと、上の娘の塾に送った帰りに、コンビニで会った。
その時に、携帯の番号を教えた、「またランチでもしようね」と言った。
ただ、それだけだ。
会う事も、電話をかけることも、かかってくることもなかった。

そうして、日にちは過ぎていく。


2004年09月28日(火) 高校生活1年

グラマーのノートを彼に貸したら、彼がI先生に見付かってしまった。
I先生に取りあげられ、彼は1時間授業をさぼり、職員室に、座り込み、
「返してくれ。」と陳情したらしい。
サボっている間に、クラスみんなが嘘を言って、
他の先生にごまかしてくれたらしい。
そんなで、みんなが私たちのことを、入学後すぐにしるのだ。
I先生までが、授業中にからかうのだ。
それはとても、嫌だった。


私は、高校の夏休みに、大きな大きな手術をした・・・

それを彼に伝えずに、内緒で入院した。
知られたくなかった・・・・・

でも、私と同じクラスの子が、
「入院しているらしいよ・・・」と彼に教えてしまったのだ。
ある日突然、彼はお見舞いにきた・・・・

今、2人でこのときの話しをする・・・

彼は、どこの病院か分からずに、
いろんな病院を探したと。
そして、やっと見つけて行った時の、私と母の冷たい視線。

来て欲しくなかったから内緒にしてあったんだよと私。

そして夏休みが終わったあと、
私は、彼に「他に好きな人ができた。」と嘘をいって別れた。
それも中学の時のM君と・・・・
私はともかく、彼に病気のことを知られたのが嫌だった・・・・


そして、別れたあと、彼の友人のN君、K君、H君はじめ、
彼の周りから、「なんでこんないい人を振るのだ?」とシカトされるのだ。
これから、私は寂しい高校生活を送ることになった・・・


2004年09月27日(月) 中学から高校へ・・

中学3年の1月だった・・・
交換日記をはじめた・・・
あと残り少ない中学生活を一緒にいるため、
自転車通学を止めて、私は歩いて通学をし、
行き、帰りを2人で通学した。

時代的にも2人の付き合いは、
純愛そのもの・・・・
学校帰りに公園で話す程度・・・・
そして、手を繋ぐのが精一杯の純愛・・・・
だから、今の「冬ソナ」なんてなんのその・・・・
彼のお母さんが冬ソナが好きだったんだけど、
思わず、「私達は純愛してましたから・・・」なんて答えたりして・・・

高校の運良く、同じ高校に行けた・・・
くじ引きみたいなもので、
当時、群制度だったので、2校のどちらにいくか分からない・・・
同じ群を受けて、同じ高校へ・・・・
そして、また、一緒に通うようになった・・・

が、2人の時間はそう長くは続かない・・・

ふたりは、高校の初めての夏休みが終わったころ別れてしまうのだ。




2004年09月26日(日) 私に必要な物・・・

空、風、太陽、海、水

星、月、緑、猫、音楽、本

そして、シン・・・・


2004年09月24日(金) 人は「運命」と言う

人は「運命」という。
決してそんなものではないと自分では思う。

今の旦那は、昔、中学1年の同級生。同中、同高だ。
そして、中3から8ヶ月程お付き合いをし、交換日記をした彼だ。

私は中学に入って、クラスで1番仲の良かった男子だ。
そして、1年の最後には彼が好きになっていた。
彼はとても性格がよかった。
でも、子供の私は、自分の気持ちを打ち明ける事もなく、
また、彼のことを好きだった女の子との仲をとりもったり、
また、彼をからかって・・・・・
その、からかった事が原因で、彼を怒らせてしまい、
中学2年は、ずっと無視をされ続けていた。
私は、その時から、彼が好きだった・・・・

そうしているうちに中学3年になり、
いつの間にか、クラスが違うのに、仲が良くなっていた。
そして、友達が彼に、
「●●君、○○ちゃんがすきなんでしょ?打ち明ければ・・」と
そうやって、友達に催促された彼は、学校帰りに、
自転車置き場で、気持ちを打ち明けてくれました。
その時の私の答えは「ありがとう・・・」

そして、私達は付き合うことになりました。

と言っても、なんともはや、私、中学の頃のこと覚えてないんです。
私が覚えている事と、私が覚えていることが違うんです。
基本的に男と女と違う・・というか、
中学1年の頃は私が彼が好きで、
中学3年の頃は、彼の方が私を好きだったせいでしょうか??
ともかく、昔話をすると、ケンカになります。
あまりにも、私が覚えていないから・・・・

でも、他の友達の話、先生の話、昔話が出来るというのは、
とても楽しいんだけど。

私が彼の事を、心の中で忘れる事がなかったから、
また、会いたいと思っていたから、好きとかの気持ちじゃなくても、
こうなっただけで・・・・・

いや、やっぱり、運命なのかもしれない・・・・なぁ・・・







2004年09月20日(月) 分かってないよ。

昨日、実家の母がきた。
いろんな話をしている中で、
前の旦那の給料なら、いま生活は楽だったかね?といった。

ブチッ。

とろくさいこと言わないで。
それは、私がフルで働いて、家事も育児も全部私がやってのはなしでしょう?
奴だけがゲラゲラ笑ってテレビ見てて、
冗談でも、そんなこと言わんで!!


まるで、分かっていない・・・・
なんで私がいやになったか?

私だけ、私だけ・・・・

そんな生活に疲れたんだ。
全部が私の肩に乗っかって・・・・
もう、つぶれかかっていたんだ。
確かに生活はそれまで出来た。
でも2人で考えて、なにかしていこうと出来ない以上、
全部の負担はわたしだ・・・・

今の私は、お金じゃない。
お金も大切だ。
でも、子供が手が離れたら、
私は、今の旦那と最低限の生活でいい
お金では、私は心が癒されることはないんだ。
それより、本当に私を守ってくれる人、2人で、
信頼でき、お金がなくても、この人はちゃんと守ってくれる、
どうにかしてくれるおいう安心感。
この人に任せておけば大丈夫。
この人と生きていけるという気持ち。
それだけなんだ。

いつか、誰もしらないところで新しくはじめたい。
2人の新婚生活を・・・・
宮沢賢治の生活でもいいんだ。
そんな思いが、2人の心にある・・・・

みんなそれぞれ、何を幸せとするか違うのだろうけど。




2004年09月19日(日) その後

2年前の8月の日、
奴が家から出て行く日。
話し合いで、家は残りのローンごと貰うことになったから。

猫と犬が飼えれば、
私は引越しをしたかった。
でも、子供が嫌だといった。
なるべく、人に分かりたくなかったようだ・・・

その日、私は仕事だった。
上の娘に残酷なことをした。
「引越しを手伝ってあげて。」と・・・
仕事の途中で、実家に電話したら、「大きな荷物はなくなっているよ。」と
ついに自分で幕を下ろしてしまったんだ・・・と
未練ではなく、泣けてきた・・・

家に帰ると引越しの箱がなくなっていた・・・
誰もいない家。また、泣けてきた・・・・

でも、「本当ならどうにかなったのかもしれない。」と
自分を責めていた気持ちは、わずか3日ほどでなくなってしまった。
そして、1週間後は、「やっぱり、楽だ」と感じてしまった。
家が苦痛でなくなった・・・・

そして、前へ歩き出したのだ。


2004年09月17日(金) 最近の楽しみ・・・

我が家で最近、めだか飼いはじめました。
水鉢に、ウォーターレタスと赤いめだか、黒いめだか。
赤いドジョウ、1匹。

買ってきた次の日、ドジョウがいない。いない、いない。
探すと、なんと飛び跳ねたのか、土の上に・・・・
まだ、生きているものの、
体が半分乾いていて、水に戻しても、
体が横に向いて、半分斜めに向いている・・・・
赤いドジョウは、
わずか、12時間ぐらいで死んでしまった・・・・
1匹で750円もしたのに・・

めだかはそれに引きかえ安い。

兄貴の所では、増えて、増えて困るといっていたのに、
うちでは、産まれない。
もしかして、全部同姓か??
と思って毎日、水鉢を見るのが癖になった。
ある日、ついに1匹の赤ちゃんを見つけた。
ネットでしらべると、親が子供を食べてしまうから、離さないといけないらしい。

離して1センチぐらいになって、親が食べれない大きさになったら、
水鉢に戻してやった。

しばらくして、やっぱり見付からない・・・・
うん、分かった・・・・
子供が水が汚いといって、水を替えたり、
増えすぎた、水草を捨てたりしていたから、
どうも、卵を捨てていたらしい・・・

ある日から、いる、いる、いる・・・・
毎日、5〜6匹、スクっている。
ついに、もう1つ、水鉢を買って、赤ちゃん用にした。
今、赤ちゃん水鉢に40匹ぐらいいる・・・・
仕事から帰ったら、必ず覗くんだ・・・・・

はぁ・・・でも全部大きくなったらどうしよう?
すこし、人に配るとするか・・・・


2004年09月14日(火) ついに・・

もう、何年も彼と目を合わせなくなっていた。

そんな私に離婚の話し合いはできない。
父に私の代弁をしてもらった。

話をすすめていきながら、
生活は子供と3人でやっていけるのだろうか?
フルで働くことになった、私は
時間は無いが、お金にゆとりが出来た。
なんとなく、なぁなぁになってきた。
そして、最初の年は、離婚を止めてしまうのである。

でも、そのご8ヶ月ぐらいして、
何も変らない奴。
私だけが、子供、PTA、家事、全て負担で、
何もかわらなく、
会社だけ行って、帰ればご飯が用意されていて、
子供の塾送り迎えするわけでなく、洗濯するわけでなく、
掃除するわけでなく・・・・
1人で居間を占領し、ゲラゲラテレビを笑って見ている奴。
だんだん、「なんで、私の家でもあるのに、
私がこたつに入れないんだ?テレビを見れないんだ?
何で、私が2階へ逃げていかなくてはいけないんだ?
何で、私だけが忙しいんだ?
何で?何で?何で?」

だんだん、何での疑問ばかり増え、答えは見付からない。
だんだん、体の調子が悪くなってきた。
仕事へいけなくなってきた。
奴は働きたくないっていったのに、
私だけ働いて、忙しくて、私ももう仕事したくない・・・・
私は仕事をやめてしまった。
外へ出れなくなった。
人と話ができなくなった。
泣けて泣けてしょうがなくなった。

子供が、「お母さんがイライラ、ピリピリしているのが嫌。
離婚してもいい。」と言った。
私の様子をみて、父が「やっぱり、結婚生活をするのは無理だろう。」と言った。
こうして、初めて離婚話をしてから、
中休みを経て、本当に離婚話へと進んでいく。

そして、私は離婚話を進めるうちで、
「やっぱり、コイツとはやっていけない。こんなだから離婚したいんだ。」と
あらためて、決意を固くしていくんだ。
そして、未練は一つもなく、約2年前に離婚をする事が出来た。


2004年09月12日(日) 極めつけの出来事

そう、極めつけの出来事とは・・・・・

「今月の給料から7万円減るから・・・」
「え??」

今まで、私がパートで働いていた分、
そっくりその埋め合わせってこと?
ボーナスが減り、役職になったせいで給料も残業はなくなり、
だからといって、基本給が上がったわけでなく・・・


「じゃ、これから、私もフルタイムで働くから、
 土日休みのうち、あんたも1日ぐらい働いて。」
「嫌だ!」
「はぁ??、じゃこれからどうするの?」
「節約する。」
「はぁ・・・節約してできる金額じゃないでしょ?」
「じゃ、子供の習い事止めればいい。」
「親が一生懸命やって、出来なければ仕方ないけれど、
 何も努力していないのに、やめろなんてこと、私はいえない。
 勉強も、習字も、頑張っているんだよ。」
「何とかなる」
「何にもならんじゃん。」

なに、何とかなるって、私の親の援助のこと?
今まで、散々してもらったくせに。
これ以上、むしりとるわけ?
ハイエナみたいな奴。


 1日たって、もう1回聞いた。
 

「平日仕事してる。だから働きたくない。」

ブチッと音がした。
そう、本当に頭に来た時には、「切れる」音がするんだ。
本当にそういう感じだった。
「もう、コイツと一緒にいるのは嫌だ。
いままで、いつも、ご機嫌とって動かしてきたけれど、もう
おだててまで、動かすのも嫌だし、私がコイツの犠牲になるのは嫌だ。」

どうせ、フルで働くなら、子供と2人でいい、
私の人生にコイツはいらない。
父親としての、責任感がないやつはいらない。父親じゃない。

最後はなんか、可愛そうな奴だと思った。馬鹿で・・・・・



決めてから、離婚するまで1年3ヶ月かかるんだけど。



 


2004年09月10日(金) ああ、良かった

昨日、書いていて、怖かったんだよね。

もし、上の娘が、飛行機オーバーランしたりして・・・・
 
昔、中華航空が、名古屋空港で墜落したっけ。
みんな、もうつくぞ!とお土産いっぱい持って、
家で待っている人の喜ぶ顔を思っていたに違いないのに、
 
とりあえず、娘は3時間遅れで無事に帰ってきました。
お土産、たっくさん持って・・・・




2004年09月09日(木) 天中殺?

こんな日もあら〜な。

午後、実家の母から電話があった。
下の娘が、学校で運動会の練習中に、足をくじいたらしい。
学校へ迎えに行ってくれたみたいで、「どうしたらいい?」というので、
私の職場へ連れてきてもらった。
お陰と、職場は医療機関なんだ。

足は骨折はなく、捻挫。
テーピングして湿布した。


今度は上の娘から電話だ。
「おかあさ〜ん、今日帰れんだけど。」
今、娘は北海道へ修学旅行へ出かけている。
それも、本来ならオーストラリアのはずが、2年ほど前のSARSの
影響で、国内になってしまったのだ。
そして、昨日は台風18号のせいで、
予定が大幅にくるい、寄るべきところへ寄らず、
また、楽しみにしていた気球にも乗れず、
そして、今日は、飛行機だ。

なんと、飛行機がブレーキの故障で
飛ばないというのだ。
他の乗客は、羽田なり、青森へ行ったらしいが、
180名ぐらいの団体が乗れる飛行機はない。
また、急に宿泊できる場所もないだろう。
空港に泊まるのか、どうなる事か・・・・・


2004年09月07日(火) 結婚後

そんなこんなで、結婚してしまったあとも、
いろんな問題が待っていた。
それは、私だけがひっかる問題で、
彼は密かにたまっていく私の不満を、
きっと、何も感じずに過ごしたのであろう。
私が離婚を言い出すその日まで・・・・

勝手口つけてと頼んだ、簡易網戸が上手につけれずに
叩きつけて壊した。そして私がつけた。
男のくせに、女にやらせるなって感じ

妊娠した時に、「女の子がいい。男なんていらん。男ならおろしてこい。」
結局男の子で、私は5ヶ月に死産した・・・・
別に彼の言葉のせいではない、きっと、子供に欠陥があったのだ。
でも、私は彼を許さない・・・・子供は本当のお父さんに、喜んでもらえないから、自ら命を絶っていったんだ。と責めた。


後から結婚した友人が先に赤ちゃんが生まれたのを知って、泣いていたら、
「いつまでも、泣いとるな。」と言われ、
私は、見付からないように、お風呂場で泣いた。

子供がダダをこねたら、もう、しらん。とほかってどこかへ行ってしまった。
誰の子供じゃ。責任もてよ。

そして、Kさんと会っていた。

子供の幼稚園の話をしたら、「そんな話ききたくないわ。」と言われた。
子供の話をせずに、なんの話がおまえとあるのだって感じだよ。

私が熱が38℃あって、ふらふらの時に、
隣へ回覧板をもって行ってもらおうと思って頼んだら、留守でまた、疎の隣へ。
その隣も留守で、また隣へもって行かなくてはならなかった時に、
家へ帰ってきて、「こんなもん、2度ともっていくか!」と
玄関へ回覧板をたたきつけた。


思いだした、自分が本当にウンザリした事。
これは思い出したことだけの話で、
もっと些細な事がいっぱい、日常の中でたまっていくんだ。

そして、極めつけの事が起こったんだ。





2004年09月05日(日) 兆し

上手く行かなくなる兆しは・・・・

「お嬢さんを下さい。」と両親に挨拶に
くるときに、私と喧嘩をしていて、すっぽかした事だ。
親は、そのつもりでいたのに、彼は約束の日に来なかった。
その時点で、いや、その前から、
私の両親は奴が嫌いだった。
今、娘をもつ私として、今なら両親の気持ちがわかる。
そんな奴が自分の娘を大切にしてくれるとは思えない・・・

そのあと、結納にしても、その当時、
長男なら100万。次男でも歳がいっていて、
ある程度給料を貰っていた彼は
70万が普通の時代だった。
なのに、奴は「30万」と言った。
私は自分の価値がそれしかないようで、
その金額に・・あまりにガッカリして、その時に
育ってきた環境の違いを思いしった。
その時から、マリッジブルーになり、奴との結婚に疑問を感じるようになった。
「こんな人でやっていけるだろうか?」
何人もの友人に訴えた。

そして、結婚式の日、
新幹線で旅立つ時に、会社の皆が、送りにきているときに・・
奴は、暗い遠くに向かって、「手をふって。」といった。
あのときに、彼がかつて、結婚を申し込んで断られたKさんがいたのだ。
Kさんは、会社のみんながいるところへ顔を出したく無かったのだ。
だから、こっそり、陰から送ったのだ。
何も、2人の間になければ、堂々と顔を出せばいいのに・・・・

そう、奴は一時期、私と付き合っているときに、
Kさんとの中に、終わっていたはずなのに、焼けぼっくいに火がついて、
連絡をとり、会っていた。
それを私が知り、「もう、会社もやめる」と
奴との別れをきめたとたん、彼は「すまなかった、何が自分にとって大事か、
よく考えた。結婚を前提に付き合ってくれ。」と私のところへ戻ってきたのだ。

彼は、、約束を破るなんて、平気の平気。
どれだけ、すっぽかされてきたか・・・・

そんな奴だったのに、
私は自分のものにしたかったんだ。
ただ、それだけ。


2004年09月04日(土) 4年だけ・・・・

人間の愛は、遺伝子的にみると、
4年ぐらいで覚めるらしい。

好きで結婚したはずなのに・・・・
いや、好きだったのだろうか?

親がうるさい私は、家から早く出たかった。
歳がかなり、離れている元旦那はとってもたのもしく見えた。
ただ、見えただけだ。
横着で、自分では何も決められない奴だ。
ただ、バブル前で、仕事も沢山あり、
周りに仲のよい仕事仲間がいる奴は、とても素敵に見えた。
ただ、見えただけだ。

そして、他の人が好きだった奴の目をこちらに向けたかっただけかもしれない。

結婚前に、結納のことでもめ、今までの環境の違いを思い知った。

でも、私は結納を止める勇気がなかった。

悩んで、友人に散々泣いて、「やめたくなった。」と訴えたくせに、
同じ会社に勤めていた奴の事を思ったら、
結納を取りやめにする勇気がもてなかったのだ。

今、思うと
やっぱり、もう兆しは出ていたのだ。

結婚はする前に、
もめた人は、やがて問題が出てくるのではないだろうか?

周りを見ても、どうも、そういう人が多いようだ。


2004年09月02日(木) もと旦那について・・・

昔から、怪獣こと、もと旦那と上手く行かなくなって、
十年ちかくなる。

最初しようと進めていたが、色々なものを分けるのが面倒で、
結局、おあずけになっていた・・・・が、
やっぱり、無理なものは無理。
だんだん、私に無理がきた・・・・
もう、逃げたくなってきた。
全てを捨てて・・・・
泣けて、泣けてしょうがなくなってきた。
人に会いたくなくなってきた。

そうした私をもう一緒に生活するのが無理だと、
親が離婚をすすめることにした。

ちょうど2年まえ、4月に話しあいをはじめた。
私では話ができないので、父に入ってもらった。
初めて話をした日は包丁を米びつに隠して寝た。
朝、母が「あんた、生きとったかん?」と言った。

私はずっと、彼におびえていた。
怒ると恐い彼にずっと、おびえて、いた。
彼を怒らせないように、ずっと、ご機嫌をとってきた。
彼に頼むくらいなら、全部自分でやった。

そうして、だんだん彼がいらなくなっていった・・・




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