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■ 私と踊りについて。(長文、でも心から書く)
自分と、踊りについて思うことを書く。
クラシックバレエを習い始めたのは、小学校一年生のころ。 バレエのない人生は考えられないくらい好きだった。 三年生のときに引っ越して、別のスタジオに通い始めたら、また初心者の子たちと一から始めなくてはならなくて、子ども心にちょっと傷ついたのを覚えてる。
トゥシューズは、たしか、五年生か六年生になるまでもらうことがなかった。「初心者クラス」だったからという理由もある。 早い子は、習い始めて三年目ぐらいでとっくにトゥで踊っていた。 ずっとずっと、すごく苦しかったことは忘れていない。 すごく思いが強かったから。
でも、このときは子どもだったから無理なかったと思う。
ただ、今思うのは、自分の「誰かのせいにする」という悪い癖だ。 小学生の私にだって、できることはあったはずなのだ。 先生に悩みを相談してみるとか(プライドが高くてできなかった)、別の「お姉さんクラス」(大人のひともいたから、「ダメ」と言われていないのに勝手に「ダメ」だと思い込んでた)に通わせてもらうとか。
あれだけバレエを愛していたわたしは、中学生のときに習うのをやめた。 好きなのに、いつでもひとのせいにしていた。 バレエをやめるなんて、そんな苦しい思いなんてしなくてもいいのに。 六年生で引っ越したアメリカでは、また「今日からバレエを始めます」というひとと同じクラスだった。 かなり、テンションが下がった。英語も十分にできないし、もう駄目だった。
足かけ8年くらいは続けた大好きなバレエ。
小学生のころ、何度も大きな舞台の発表会に出た。
なかなかいい役はもらえなかったけど、お気に入りの作品で、小さい子たちをはべらせて(!)、私を含めた「小学校高学年のおねえさん」4人で踊ったことがいちばんのハイライトだったかもしれない。
ソロの動きも一人ずつちょっとだけあったことが、何よりもうれしかった。 振付だってまだ少し覚えてる。
自分も日本舞踊をたしなむ踊り好きの母は、いつもバレエ少女のわたしのレッスンの送り迎えや発表会の世話を焼いてくれた。
そんな母が、ある日、「もっと大きくやればいいのに」とつぶやいたことがある。 ずっと、踊りの評価をすることのなかった母が口にしたそのひとことは、わたしの心の奥深くに残っている。二十五年近く経った今でも、ちっとも忘れていない。
「くるみ割り人形」であこがれていた「アラビアの踊り」の<本物>、ベリーダンスを始めたのは、30歳になってから。 ジンバブエで、たまたま新しいクラスが開いたときだ。
いま、ベリーダンスを初めて丸四年が過ぎ、もう五年目に入っている。
自分の踊りの欠点。母が言ったことは、いまだにあてはまる。
子どものころ、クラスの背の順ではせいぜい自分より後ろに二人いたことがちょっとあったくらいで、たいてい自分は後ろだった。
幼稚園のお遊戯では、女の子はみんなかわいいスカートだったのに、私だけズボンだったことを忘れない。(サイズ問題?) 自分は一番かわいい「ピンク」なのだと自分を慰めていたことを覚えている。つややかなピンクのサテンのズボンが、哀しかった。
バレエでも、思いっきり手を伸ばせば、たいてい隣の子にぶつかった。 わたしが手足を伸ばすと、だいたい平均の三割増しくらいのリーチがあった。 頭一つ、背が高いことがざらだった。
わたしは、すごく周りを気にしたし、いつしか手足をちゃんと思いっきり伸ばせなくなっていた。
いま、身長は172cmくらい。
わたしの踊りの欠点は、日常生活の動作の特徴にも表れている。 うつむく頭、ふっと縮こまったりする腕、十分に高く上げようとしない(あがるのに)脚。
それから、メンタリティの問題が大きい。子どものころからおんなじなんだと思う。
他人からどう見られているのか、いつもいつも気にしていた。 十分伸ばしきれない腕は、隣の誰かが腕を伸ばせなくなると困るからひっこめるという無用の遠慮。
ときに焦ったようにずれるテンポや中途半端な動きは、そのまま心の乱れと焦りと、他人への意識(自分がどう思われているのかということ)がマインドを乱していることの表れ。 かしげる首は、無意識に背を低く見せようとする(別にそんなふうに見せたくないはずなのに)動き。 そわそわと動く腕は、不安を表してる。
ほんとうはゆっくり動きたいのに、焦るのは周囲を意識する心の乱れからだ。
その欠点は、昔も今も変わっていないと思う。
遠慮する必要ないのに。
リーチが長いことは事故を起こしがちだけど、そんな遠慮はほんとうにもったいないと、いま、思う。
それは、「他人のせいにすること」と同じ。 誰かが隣にいるから仕方ないじゃない、と思うのは間違い。
どうせすぐに引っ越すからという言い訳をして、誰に遠慮する必要もないのに、好きな家具やカーテンすら買わないで、好きでもないもので我慢して暮らすこととも同じ。
それもこれもすべて、今年初めからの「シンプル主義」に通じてることに気付いた。
好きなのだから、好きにすればいい。
わたしは、他人のせいにしたり、他人を過剰に意識したり、自分自身に言い訳をしながら、我慢したり妥協したりして、不平不満をためながら生きてきた。 それはもう、家具から、小物から、服から、生き方から、人間関係から、何もかもだ。
そんな必要まったくないのに。 本来それは、とくにためなくてもよいストレスなのに。
好きな家具は、買えばいい。
踊るのなら、他人の三割増しのリーチだろうがなんだろうが関係ない。 イメージ通り、十二分に手を伸ばせばいい。
なんて、損をしてるんだろう、自分。
ベリーダンスとクラシックバレエはもちろん、重心や姿勢、体の持ち上げ方などが根本的に違うのだけれど、「踊り」であり「きれいに見せる」という部分では、やっぱりダンスの基本はバレエだと思う。
足かけ8年間の練習は、どうやったらきれいに見えるのか、手先の動き、腕の動き脚の動きなどをみっちりと身体に覚え込ませるものだったし、その基礎はベリーダンスにも十分に活かせるものだ。
でも、わたしは「ベリーダンスはバレエと違うのだから」という誰かの(バレエをやっていない誰かの)ひとことをきっかけに、バレエの良さを活かすということに封をしてしまった。
誰が何と言おうと、アドバイスは自分自身で心から納得してこそ役立つものなのであり、むやみに従う(=そうすることで他人のせいになる)ものではない。 それでは自分が損するばかりなんだから。
生来の面倒くさがりが、わたしをむやみに周囲の目を気にして遠慮し、我慢し、他人を言い訳に不平不満をためる人間へと染めてしまった。
この年齢になって、やっとその無限ループみたいなものの根源がわかった。
最近好きな石井ゆかりさんの年間占いにあったけど、今年、「私が知りたかったのはこのことだったんだということがわかる」というのは、まさにこのことだったのかもしれないと感じている。
いろいろ、わかってしまった。
時間はかかるかもしれないけれど、毎日の生活、人間関係、お部屋のことなどをはじめ、踊りについても、「シンプル主義」、つまり自分自身が本当に好きなこと、必要としていることは何かということを感じながら、納得のいくように生きていきたい。
まだ、母は、「もっと大きくやればいいのに」って思うかもしれない。
わたしも、思ってる…。
でも、技術に頼らず、いろんなこと、心の中のこと、体にしみこんでいる「踊り」というもののことについて、やっとつながった気がする。
わたしは、大丈夫なんだと思う。
いちばん大切なことが、やっと、心からすとんと落ちるようにわかりました。
だから、もっともっと、自分で自分の踊りを、踊りたい。
そう思います。
2011年05月09日(月)
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