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第5章 (5) 女というもの・その1
多くの作品を通じて、世代や立場を問わず、世の女たちをさまざまに描いたモード・モンゴメリ。『ものを書く』という才能によって名声を得、子育てや家の切り盛り、地域の活動に奔走した彼女は、同時代(いまですらそうなのだから)の女性たちの権利や地位の代弁者でもあったろう。
ヒロインたち、そして脇を固める登場人物たちは、しばしば、モードというひとりの女性の'穏当でない'本音を口にしたし、幼女から老女まで、登場しない世代はいない。ときに救いようのない愚かな女を描いても、モードは、女の底意地の悪さ以外には寛容であった。
主人公が少女や若い女性の場合、ともすれば、恋愛へのあこがれや苦悩に目が行きがちである。しかし、作品の随所に貫かれているように感じるのは、むしろ古典的な徳としての、女性という存在への、そして母性への限りない信頼とでも呼びたいもの。実際に子育てをしたかどうかよりも、産み育てる『女』という存在すべてへの信頼感である。女性たちがつねに、この世界の半分を占めているという安心感。それらは、時代がいかに変わろうとも、普遍のもの、人間社会のよりどころとして、そこにある。
作品全体をおおうこの雰囲気は、モード・ムードとでも呼べばいいのだろうか、読みながらこの独特の空気でもてなされているという感覚は、ずっと私のなかにある。その世界を訪れた者をなじませる透明な触媒のように感じられるムードである。
「女であるということはごく不思議なものですよ。そしてなんにもならないのにあれほど愛するということはね。」
マーガレット・マッキンタイヤ/「エミリーはのぼる」
マーガレット・マッキンタイヤは、エミリー・スターが出会った不思議な老女。スコットランド出身で、女王のように威厳があり、'だいたいは正気'と思われている。自慢の息子を亡くしてから、神に祈ることをやめたという。彼女が神に祈っている最中に、息子が凍え死んだからである。女であることはごく不思議なこと…まったくもって、ミストレス・マッキンタイヤ、女である私にも、そうとしか思われない。
いつの時代でも母親というものは同じだ……愛と奉仕の偉大な姉妹である……人の記憶に残る者も残らぬ者も等しく。
/「炉辺荘のアン」
アニーおばさんはいつも何ものかに──人間であれ、動物であれ──エサを与えていました。彼女はいつも与えていたのです。その一生のあいだに多くの悲しみと失望に見舞われた人でしたが、何ものも彼女の気をくじいたり、心を悲しみや怒りで満たすことはなかったのです。
L・M・モンゴメリ/「モンゴメリ書簡集(1)」
身近な親類にアニーおばさんのような女性がいたこと。それは、ものごころつく前に母を亡くしたモードにとって、生き残るという本能への大きな支えであったことは想像に難くない。先の「炉辺荘のアン」からの引用にも通じるが、モードの母性への信頼の根底に、この叔母の姿があるのだろう。
といって、アニーおばさんのような存在には、なろうと思ってなれるものではない。経験によってなるのでもない。それは生まれついての特質─与え尽くすという天賦の才である。'アニーおばさん'的な女性に代表される特質に、ひとは惹きつけられる。私たちがこの山あり谷ありの人生のどこかで、真にすばらしい女性に出会ったときのことを忘れがたく思い出すのは、そのひとの特質が苦悩によって損なわれていないからであり、そこに母性のしなやかさ、強さをありありとみるからではないだろうか。
愛を得ることで劇的に変化してゆく女の姿も多くみられる。モードは伝えたかったのだろうか。たとえ外見がどうみえようとも、女の構成要素のほとんどは、愛情と、その裏返しのものなのである、と。そこを信じないで、何を信じるのかと。
「アンの友達」に収録されている短編、「ロイド老淑女」の主人公、ミス・マーガレット・ロイドは、愛によって、与える女となった。けちな金持ちの老婦人と思われているにもかかわらず、実際は飢えるほどの貧乏暮らし。言いしれぬ孤独。そんな彼女が、かつての恋人が遺した娘シルヴィアを知り、魔法使いのおばあさんよろしく、彼女を陰ながら守り、支援することに、まさに身を投じる。長い抑圧から自由になった愛情が、老淑女の鉄の自尊心を砂糖のごとく溶かしはじめる。
おぼろ月夜で、クローバーの野からよい香りをのせた風が小径を吹きそよぎ、老淑女を迎えた。 「お前のよい匂いがもらえたらねえ──その魂をさ──そうして、それをあの子の生命の中に吹きこんでやれたらねえ」 と、老淑女は風に向って声高に呼びかけた。
/「ロイド老淑女」(『アンの友達』より)
さて、女には他の女より美しくありたいと願うエゴイスティックな一面もある。フィル・ゴードンは華やかな美貌の才媛にして、アン・シャーリーの娘時代の学友。お嬢さん育ちの彼女のうぬぼれはあまりにも無邪気で驕りがないため、誰もが、かえって彼女に惹きつけられる。薔薇を薔薇と呼ぶのはあたりまえのことではあるが。そのフィルをしていちもく置かれているのが、アン独特の優雅さと、内側から瞳を通して輝くスピリチュアルな炎。そういう魅力こそ、ここぞというときに相手に訴えたい魅力であり、女が誰しも欲しがるものではあるけれど、こうしてはっきりと口にされてみると、これもなかなか難しそうである。
「アン、今夜はたしかにあなたが際立って美しいことよ。十の中九夜まではあたしのほうがわけなくあんたより光り輝くけれど、十番目に突然あんたはぱっと花が開いたように、あたしに顔色なからしめるのね。どうしたらそうできるかしら?」
フィル・ゴードン/「アンの愛情」
女にとって、母性と恋愛感情というのは、どこかでつながっている。恋と愛の区別にも意味はあるかもしれないが、女性にとっては、その思いが本物であるかどうか、真実自分を揺り動かすものであるかどうかが問われるように思う。愛することは、自分を変えること。対象がどうあれ、自分でやめられるものでもなければ、はじめようと思ってはじめられるのでもない。
彼は彼女を愛することはずっと前にやめた。そして彼女は──彼を永久に愛するだろう。そして彼が知らなくても、そのような愛は見えない祝福のように彼を一生かこむだろう。理解されなくてもかすかに感じられて彼をすべての害と悪から守るだろう。
/「エミリーの求めるもの」
どこかニュー・エイジ的な、空間を超えてとどくオーラ・フィールドのようなものを予感させる想いである。エミリー・スターが信じるような半無意識的な愛のパワーは、愛する相手の無事を祈る気持ち─古来から続いてきた女たちの祈りにも似た力。相手が恋人であれ夫であれ、子どもであれ、無意識のうちにつながっている相手には、さまざまなことが伝わるものであることを、経験から私たちは知っている。
決してこわれることのないダイヤモンドの芯に光る小さな青い輝きのように、美しい、はるかな、純粋に精神的な何かが心の中心に芽ばえた。どんな夢も、これにはかなわない。ヴァランシーはもう一人ではないのだ。世界中の、愛を知った女性の仲間入りをしたのだから。
/「青い城」
結婚に百歩出遅れてしまったヴァランシー・スターリングを主人公とした「青い城」は、恋愛と結婚をテーマに、大人向けに書かれた唯一の作品といわれる。引用した場面は、かなりの長さにわたって、'愛を知った女性の仲間に入った'ことの自覚、胸にわきあがる歓びを謳う。愛することと相手を理解することはちがうのだ、と他の場面では折にふれて諭すモードも、真実の愛にめぐり会う女としての幸せを、ヴァランシーが花開いてゆく姿とともに、惜しみなく描いたのだった。
愛することはやさしいことである。したがって平凡なことだ。が、理解すること、それはなんとむずかしいことだろう。
/「可愛いエミリー」
愛することはだれにでもできるやさしいことだ。しかし理解し合うこと──それはどんなに稀なことだろう。だれにでも許される美徳ではないのだ。
/「傷跡のある女」(「ルーシーの約束」より) --------------------------------------------------------------------------
※補足:モンゴメリの手書きレシピを受け継いだ「赤毛のアンレシピノート」(イレーン&ケリー・クロフォード編著/東洋書林刊)に、『アニーおばさんのレモンパイ』が紹介されている。
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