マンガトモダチ
DiaryINDEX|past|will
○西島大介『凹村戦争』
〈半月遅れで届く新聞。となりの村からわざわざケーブルを引いてもNHKしか映さないテレビ。山に阻まれて、携帯電話もラジオの電波も届かない閉ざされ隔離された小さな場所……。〉
それが、このマンガの舞台となる凹村(おうそん)である。そしてストーリーは、そこに住む凹沢アル、凹伴ハジメ、凹坂カヨの3人の中学3年生が送る、平凡で退屈で凡庸な毎日のなかに、宇宙から奇妙な物体が落っこちてくることによって、進展する。
本作が初の単行本となる作者の西島大介は、これまでに『スタジオ・ヴォイス』といったサブ・カルチャー誌や『ユリイカ』といった批評誌、そして『ファウスト』や『新現実』などといった文芸誌において、ライター、イラストレーター、マンガ家と役割を変えながら、徐々にその認知度を高めていった人(ちなみに、90年代にスタートを切った日本橋ヨヲコや山崎さやか、竹下堅次郎などといったマンガ家といっしょの世代)で、『凹村戦争』は、現時点における彼の集大成とでもいうべき高密度な内容として仕上がっている。じっさいに、これが発表されてから各種媒体に掲載されたレビューはどれも、ほとんど賛辞のものばかりである。が、しかし、どの意見でも見落とされている、あるいは深く述べられていないのは、『凹村戦争』の本質が、ありふれた青春の内部にしかありえないリアリティを捉え、描いた点にあるということだ。
たしかに、SF的なガジェットや膨大な引用、スーパー・フラット以降を感じさせるディフォルメされたキャラクター造形と殺伐とした情景の描写は、批評という俎上に載せたときにもっとも目をつけやすい部分ではあるけれども、ちがう、もしも読み手がここにあるいくつかのシーンに感情移入するのであるならば、それは、方法論を越えたところで、または、そのような手法がある種のリアリティを抽出しているからに他ならない。ここでいうリアリティとは何か、といえば、以前(よしもとよしともの項のとき)にも書いたが、時代への共感と違和感である。それら両者がときには仲違いしながらも、『凹村戦争』のなかでは、共存している。どちらか一方に傾くことなく、同時に描き出されている。たとえば、ここではないどこかへの夢想は、今ここにいることの焦燥から生まれる、だが、今ここにいるということの実感は不思議な安堵へと結びつく、そのようなダブルバインド(のようなもの)に決着をつけるのではなくて、ただそれを確認する、そのためのシーソー・ゲームが、凹沢アルと凹伴ハジメ、凹坂カヨという3つの青春の間で繰り返される。そのようにして辿り着くラスト、凹村という、いわば閉じた円環の外に出た凹沢アルが、すべて崩れ去り、頭上には空白が、そして足元には夥しいほどに描き込まれた残骸の広がる空間にひとり佇む、言い換えれば、解放と閉塞が画面いっぱいに同居しているシーンは、非常に象徴的である。その直前に引用されるブラーの歌詞は、本来ならば皮肉を孕んだものであるはずなのに、アイロニーなのかストレートなメッセージなのかもはや判断のつかないものに変質している。その変質は、現状を肯定するのでもなく否定するのでもない、ただ見つめる、視線のたしかさからやってきている。
あ、そうだ。よしもとの名前を出したから言うわけではないが、僕はさいしょ『凹村戦争』を読んだとき、よしもとの『東京防衛軍』の裏返りではないかという印象を受けた。西島本人はよしもとよりも岡崎京子への思い入れのほうが強いのかもしれないけれども、壊滅する都市へあえて向かう『凹村戦争』は、壊滅する都市にあえて残る『東京防衛軍』のちょうど反対の構図を持っているといえる。もしかしたら、そのことは、80年代の反動としての90年代、90年代の反動としての00年代を微妙に示唆しているのかもしれない。
※作者のホームページ 西島大介「島島」
○桜井まちこ『H』
さみしい。
たったそれだけのことを、桜井まちこは、延々と続く大きなコマや余白を用いて丁寧に描きこんでゆく。かつてのマンガならば、モノローグによって語られることの多かった登場人物の内面は、そこではモノローグでは語りつくせないものとして現われている。
僕が、桜井まちこというマンガ家を気に留めるようになったのは、短編集『WARNING』に収録されている、『冬の塵』を、たまたま本当に偶然読んだことがきっかけであった。『冬の塵』は、簡単にいえば、ある女性の社会で味わう挫折が初恋の人との再会によって乗り越えられる、というただそれだけの物語にしかすぎない。のだけれども、しかし、たったそれだけのことがなぜか深い余韻となって胸に残る。
〈………なにしにきたんだ/あたし〉 〈がんばりにきたんじゃねーの? /がんばってる途中じゃねーの? /………オレはそーだよ/岸田は? 〉
ここで彼女(岸田)の出身地である札幌を思わせる雪が、ページのなかいっぱいに降り出す。頭上から降り注ぐ雪は、おそらく、じっさいには降っていない、いわば彼女の心象とでもいうべきものである。黒い空に散らばる白の点描は、ぱっと見には、つめたい。けれども、真っ暗であるよりは明るい、ささやかである分だけあたたかい、そういった微かな希望に近しいものへと反転させられている。その効果は、物語の中盤以降、口数のすくなくなってゆく登場人物たちと、ページの大部分を占めてゆく白と黒のコントラストからやってきている。僕はここいら辺をとてもうまいと思う。言葉ではなくて、描写の妙によって、さみしさと一筋の光が表されている。桜井というマンガ家における、それ以前の作風とは一線を画す、ビターでスウィートなテイストが、そこには生まれている。
『H』は、要するに、それ以降の作品である。ここでもまた、登場人物たちが胸に抱えるさみしさが、言葉では示されないことによって、読み手であるこちらへと伝わりくるように描かれている。ストーリーは、16歳の少女である小林忍と、その担任である山崎太一の、ふたりの関係を中心にして進む。
転校初日、学校に現われず川原に佇む小林を、太一が見つける。小林は、転校をきっかけにして、彼氏と別れたばかりであった。学校生活がはじまり、新しいクラスメイトたちと馴染めず徐々に心を閉ざしてゆく小林は、その反面、どこか自分と似たところのある対地に惹かれてゆく、打ち解けてゆく。と、ここまでが現在出ている2巻までの内容で、まあ、筋だけを追えば、お決まりのコースではあるし、心通わせるツールとして、携帯電話のメールが機能している点も、それほど目新しくはなく、じつは太一が教師の他にアルバイトとして出張ホストをやっているという設定も、いまの段階では彼のキャラクターを立たせる以上のものとしては活きていないが、しかし、ではそれらが弱点となっているかといえば、そうではない。むしろ、この時代のマンガとしては、ありふれたシチュエーションのすべてがたったひとつ、さみしい、という感情の普遍性を暴き出す格好となっている。2巻終盤、太一が泣き出す小林に向かって次のように言う。
〈……さびしいならさびしいってハッキリ言えや/言わなきゃ「自分が」さびしいなんて だれにもわかんねーだろ/……言わなきゃわかんねんだよ……〉
ここで小林の腕を太一は掴む。本来であるならば、「さびしい」と「言う側」と「言われる側」との回路が繋がる瞬間ではあるが、しかし、その一呼吸あとで、回路は、太一が唐突に小林の腕を放すことによって、切断される。口にされるべきさみしさは、行く場所を失い、無口なコマのなかで徐々に消えてゆく。そしてストーリーは、その言われなかったさみしさによって、さらに進展することとなる。時系列でいえば、携帯電話のメールも、教師と生徒という立場も、太一の秘密も、沈黙のなかにさみしさが隠れていることを強調する、そのためのマテリアルとして、作品の中枢を囲うように的確に配置されているのである。
また雑誌連載作品の性格上、一話一話の区切りがあるのだけれども、単行本にまとめられたとき、その区切りが無くなっていることも注目すべき点だろう。区切りがなくなっているというか、真っ黒に塗られた1ページだけが、その名残として残されている。もちろん掲載時には引きとなるダイナミズムはあって、それが起伏を作り出しているのだが、全体のトーンとしては、かなりスタティックだ。場面全体を支配する黒と白のはっきりとした明暗が、ただライトの灯りだけを数えながら延々と伸びるトンネルのなかにいる、そういう感覚を、こちらへと寄越す。ふたりきりのデート、高速とかで車を走らせているとき、それまで景色を眺めては他愛もない話をしていたのに、トンネルに入ったとたん、なぜか無口になってしまう、それに近しい静かな不安が、さみしさの目印として、丁寧に物語の行く先を描き出してゆく。そこにある小さな混沌に導かれ、読み手は、ゆっくりと心が解かれてゆく。
あ、そうだ。ねえ。って僕が君を呼び止めたことがあっただろう。あのときに言えなかったことがあって、それが今でも胸の内側でちくちく痛んだりもしてる。
さみしい。
ねえ、ひとりじゃ乗り越えられないほど、さみしいんだ。
ああ。馬鹿みたいだろ。僕はいつだって、いつまでだって、いつまで経ったって、たったそれだけのことを君に伝え損なったままでいるのだった
|