ケイケイの映画日記
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いやもう、この作品大好き!長い映画がダメなので、インド映画はあまり観ていません。でも「マダム・イン・ニューヨーク」や「その名にちなんで」のような、忘れられない大好きな作品もあります。今作もあら筋を読んでピンと来ての鑑賞です。笑いと共に、瑞々しく若々しく描いた、フェミニズム映画の秀作です。監督はキラン・ラオ。
妻プール(ニターンシー・ゴーエル)の故郷で、結婚式を終えたディーパク(スパルシュ・シュリーワースタウ)。満員列車に乗り、新妻を家に連れて帰る際、慌ててしまい、何とプールと同じベールを被った別の花嫁ジャヤ(プラティバー・ランター)を、家まで連れて来てしまいます。ジャヤは訳アリの様子で、自分も夫も偽名を名乗り、ディーパクの家は大混乱。プールはプールで、ディーパクに頼り切っており、夫の家の住所どころか、街さえ知らず、途方に暮れてしまいます。
えっ?これ現代なんですか?と、思うくらい、文明の遅れた様子が描かれ、びっくり。インドでも地方ではこんな様子なんですね。携帯(スマホじゃなかったと思う)、ネットカフェの言葉で、今なのだと確認。しかしこの様子が、貧しいとはちっとも感じません。ディーパクの家族や友人の様子を筆頭に、登場人物の多くに、温かさが滲んでいたからだと思います。
対照的な二人の花嫁を通して、インドの女性の環境が解る作りになっています。 インドは今でも親の決めた相手との結婚が主流のようです。伝統的な価値観の元、育てられたプールは、素直で従順。夫や親の言う通りに生きれば、幸せになれると思っている。一晩駅で過ごして自分を、何も悪い事はしていないのに、まるで傷物になったように悲嘆にくれる。従来の価値観により、自縛されているのです。この感覚は、プールの親世代の私には、とても解かる。あれもダメ、これもダメ。自立なんかしなくても、良妻賢母になれれば、幸せになれると、世の中からも親からも教えられていました(←大嘘です)。
駅構内で軽食を出す店を出しているマンジュおばさん(チャヤ・カダム)に世話になるプール。一人暮らしのマンジュおばさんは、「夫も息子も追い出した。家事もしない、大変な時も助けてくれない男なら、自分が稼げたら要らないだろう?」。仰る通り(笑)。全ての女性たちの人権意識が同じではないと、チラチラ小見出しに見せる演出に、妙味があります。
その象徴が、聡明で美しいジャヤ。昔のながらの価値観に抗いながら、自分の生き方を懸命に模索しているのです。そのために、方便の嘘で固めた彼女の姿は、女性という植民地から、向けだそうとしている難民のように感じます。
しかし、この作品の素晴らしい所は、伝統的な女性の生き方も肯定している事です。ディーパクの家は、祖父母から兄弟家族まで暮らす大所帯。暮らし向きも、そう豊かではないでしょう。嫁姑の諍いもあけすけで、風通しの良さを感じます。都会に出稼ぎに行っている長男の嫁の寂しさを、大姑・姑が共に気遣っているところなど、情の深さを感じます。ジャヤの姑のように、プールの持参金についても問わない。そして何より、ディーパクがプールの事を、愛しく思っているのが、伝わるのです。
対するジャヤの嫁ぎ先は、もっと都会的な暮らしをしているようですが、前妻の死亡の様子も不穏。嫁に暴力を振るう事も平気で、奴隷扱いです。そしてお金はあるのに欲深い。「家」の概念が強いインドですが、家とは貧富の差で良し悪しが決まるのではなく、そこに暮らす人の心映えで決まるのだと描いています。
プールを演じるゴーエルが超可愛い!花が綻ぶとは、この事かと思いました。人生のほんの一時の輝きを、思う存分見せてくれます。無知で世間知らずが過ぎるプールを、呆れずに応援したくなったのは、彼女のお手柄だと思います。
噛み煙草を始終吸っている警察署長も印象深い。ジャヤに目をつけて、「金になる」と言う様子や、悪党丸出しだったのに、最後の最後で大活躍。金になるというのは、悪い奴から取るという意味だったのね。強い者には強く、弱いもんにはそれなりの様子が、何故だか好漢に感じます(笑)。
ディーパクとはぐれた数日間で、改めて自分を見つめ直したプール。お礼のつもりで店を手伝ったりお菓子を作ったのは、対価でお金が得られるのを知りました。ディーパクの兄嫁の絵心の使い方も上手い。「マダム・イン・ニューヨーク」で、主人公のシャシの姪が「叔母さんはラドゥ(家庭料理)を作るだけに生まれたんじゃないわ。他にもっと価値がある」と伝えた事を思い出しました。伝統的な家庭観に、プールはこれから新風を吹き込むことでしょう。ジャヤは新しい女性像を開拓していくのでしょうね。紆余曲折を経て、ディーパクたちがジャヤに協力したのは、正しい道だと、皆が思ったからだと思います。
ラストにやっと再会したプールとディーパク。抱擁の力強さに、思わずこちらが泣きました。うんうん、良き夫婦になりますよ。
コメディタッチで、インド女性を取り巻く問題点を点在させながら、ハラハラさせ、考えさせながら、一つ一つ解決していくうちに、これはまだまだ日本やその他の国でも、当て嵌まる事だなと思いました。女性は決して男性や家の植民地では無いと、心ある老若男女に向けた秀作でした。
2024年10月13日(日) |
「シビル・ウォー アメリカ最後の日」 |
架空のアメリカの内戦を描いた作品。観る前は、アクション中心で、思想的な部分や人間ドラマは希薄な、エンタメに傾く作りだと予想していました。予想は大外れ。アメリカの闇や病巣などではなく、アメリカそのものが、深く真摯に描かれていたと思います。監督はイギリスのアレックス・ガーランド。
現在の大統領の政策に反発し、連邦政府から19の州が離脱したアメリカ。テキサスとカリフォルニアは西部同盟を結び、政府軍との間で内戦が勃発。各地で激しい紛争が起こっています。戦場カメラマンのリー(キルスティン・ダンスト)は、記者のジョエル(ワグネル・モウラ)、同じくベテラン記者のサミー(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)、駆け出しカメラマンのジェシー(経理―・スピーニー)のジャーナリスト四人で、14か月一度もメディアの取材に応じていない大統領に、単独インタビューを臨みに、激しい戦火の中、ニューヨークからワシントンのホワイトハウスまで、車で向かいます。
少しだけ目にした感想に、内戦の理由が描かれていないと読みました。鑑賞前はその事を危惧していました。しかし分断が声高く叫ばれるようになって数年、今のアメリカを日本から観ているだけでも、内戦の数歩手前にいるように感じます。確かにいきなり内戦状態が描かれますが、映画が始まってしまえば、全く気になりませんでした。
先ず四人の構成に気付きがありました。リーはブロンドの白人女性ですが、ステロ的な生き方をせず、女性ではごく少数であろう、戦場カメラマンです。血気盛んなジョエルは、見るからにラテン系。円熟した聡明さを漂わせるサミーは、老いた黒人男性。そして志は高いが、右と左が解るくらいの小娘であるジェシー。彼らは多分、皆アメリカで生まれ育った、アメリカ国籍を持つアメリカ人。しかし今まで、又は今後、様々な差別を受けて来たであろう人たちです。言い換えれば、とてもアメリカらしい。のちの赤いサングラスの男(ジェシー・プレモンス)の言葉に繋がると思いました。
数々の戦場に立ち合い、精神的にも肉体的にも限界が来ているリー。「大統領のインタビューをスクープ出来ると思うと、勃起する」と答えるジョエルとは対照的です。しかし彼らは同じジャーナリスト。自分の感想や感情を抜きにして、真実を民衆に伝える事を共有しています。「今まで各国の戦場を撮ってきたのは、アメリカに内戦が起こらないようにしたかったから」と吐露するリー。この内戦で無力感いっぱいになっている様子が、とても辛い。
リーとジェシーの両親は、この内戦に無関心。自分の所に火の粉が降りかからねば、無かった事なのでしょう。しかし二人は、その事を良しとしなかった。激しい戦闘の中、ある一角だけ、魔法のように被害を受けていない場所に出くわす四人。洋品店の店員は、「無関心なのが一番よ」と、にこやかに応じます。そうだろうか?屋上には何があったか?あれは見守っているのではなく、見張られているのです。無関心=思考停止なので、その事が理解出来ないのでしょう。自分に被害がないとて、戦争に関して無関心でいるのは罪だと、私は取りました。
至近距離での銃撃戦がたくさん出てきて、緊迫感満点です。いつ命を落としてもおかしくないのです。こちらから観ると、どちらが敵で味方か解らない。それは兵士もそうなのだと解かるセリフが出てくるのが、とても恐ろしい。
先述した赤いサングラスの男が、リー、ジョエル、ジェシーに出身地を尋ねます。「実にアメリカらしい」と冷酷に微笑んだ後、「香港」と答えた記者に何が起こったか?このシーンは観て何日も経ったのに、脳裏に焼き付き、とにかく恐ろしい。本当は出身地など、どうでも良いのです。銃の引き金を引く理由を後付けしたいだけなのだと、思いました。兵士にとってはそれが戦争、そう感じました。
これがアメリカの正体なのだろうか?イギリス人監督のガーランドは、「違う」という気持ちを込めて描いたのが、この四人だと思いました。私はそこに彼のアメリカへの敬意を感じます。当初こそ、「後部座席は老人ホームと保育園ね」と、皮肉めいてリーは言いますが、彼女の愚痴はこれだけ。人は皆、人権を持ち対等であるべきです。しかし年齢・性別・出自・財力が絡み、平等ではありません。そこに助け合い、相手を思いやる気持ち、そして尊重が無いと、ずっと格差は埋まらない。この四人には、それがあったと、私は思います。それも命懸けの。
私がとても好きなシーンは、世話になってばかりのリーに、ジェシーがドレスの試着を勧め、その写真を撮るシーンです。微笑むリーには、束の間の心の休息であったでしょう。無力な者だって、相手の心に水を与える事は出来るのです。
観る前は、ガーリーなイメージで好演しているキルスティンは、ミスキャストだと思いました。それがどうして、今まで観て来た彼女の中で、一番素晴らしい!素顔に近いメイクからは、わざと不細工に撮っているのかと思う程、疲労が滲み出ている。それなのに、豊かで高い人格を滲ませています。兵士でない戦争の片側を、一番表現していたと思います。
売り出し中のケイリー・スピーニーは、本作で初めて観ました。「プリシラ」のスチールからは想像できない別人ぶりです。この作品は、数日間で変貌していくジェシーの、成長物語でもあります。もっと緩やかな成長でも良いのに、戦争は人を一変させてしまうという事でしょう。最後に撮った写真は、ここからジェシーの地獄の一丁目が始まるのだ思いました。思う存分、地獄を歩く事でしょう。
二人とも来年のオスカー候補になると思います。
戦争は何故起きるのか?私は欲だと思う。それに追随する人の理由は、貧しさだと思う。そう思うと、閉塞する世界中に、背筋がゾッとするのです。衝撃的な映像がずっとエンディングで流れます。ジョエルが大統領の短いインタビューに、「それで充分だ」と答えます。その眼には、私は憎しみが籠っていたと思います。この年になって、今更ながら政治がどれだけ大切か、身に沁み理解出来るようになりました。アメリカだけではなく、世界中に向けての祈りを込めた、反戦映画だと思います。
私の大好きな、いかがわしいオカルトホラー(笑)。かつて、夜のバラエティ番組で、予期せぬ惨劇が映されたビデオテープが発見されたという、架空のお話しです。1970年代半ばのオカルトブームの時、私はミドルティーンで、この手の放送がその頃から好きだったので、どっぷりと懐かしさに浸りました。とある事にも気付きがあり、私的に面白く鑑賞しました。監督はコリン&キャメロン・ケアンズ。
ジャック・デルロイ(デヴィッド・ダストマルチャン)は、夜更けのトークショウー番組「ナイトオウルズ」の人気司会者です。長年高い視聴率を誇っていましたが、最近は低迷気味。起死回生を図り、悪魔を呼び出す儀式を、番組内で行います。しかし、これが思いもよらぬ惨劇を生むのです。
劇中、当時の風俗やオカルトが席巻した時代感を、丁寧に作り込んで蘇らせています。私は子供の頃から、アメリカのコメディドラマやアニメが大好きで、当時の空気感を絶妙に漂わせる美術が秀逸。髪型からファッション、番組構成まで、架空なのに懐かしくて、ウハウハしてしまった(笑)。
映画の「ネットワーク」が作られたのも、この時代。熾烈な視聴率争いも描かれます。視聴率が取れりゃ、何でも有りが描かれます。胸が痛かったのは、おしどり夫婦と称されたジャックの妻が癌に侵され、瀕死の床から夫の番組に出演し、夫への愛を語る場面。お涙頂戴で視聴率を稼ぐのが目的です。表向き大の愛妻家であると言われるジャックですが、本当に妻を愛しているなら、こんな死ぬ一歩手前の病み果てた姿、大衆の前には晒せません。酷い夫だと思いました。このシーン、私には重要でした。
何やら怪しい団体にも出入りするジャック。「アイズ・ワイド・シャット」で、描かれた宗教団体を想起しました。低迷する視聴率のテコ入れに、団体の居住地で火事が起こり、そこの生き残りの少女リリー(イングリット・トレリ)を、番組に出演させます。
これには裏があり、リリーの保護者的存在のジューン(ローラ・ゴードン)は、ジャックと出来ている。今は独身なんですから、公的に公表しても良いものを、元愛妻家ジャックは、妻の死をいつまでも悲しんでいなければならないのでしょう。それも視聴率のため。
ユリ・ゲラーが、当時世界を席巻していましたが、Mr.マリックが出てきた時、ユリより凄いじゃん!と思いました。マリックも超能力者を名乗りますが、それはシャレで、彼がマジシャンなのは、衆人が知っていました。今回種明かしに催眠術も使われます。そう言えば、プリンセス・テンコ―の師匠、初代引田天功が、「さん〜、にぃ〜、いち!」と、テレビで睡眠術を披露していたのもこの頃。アメリカでもそうだったんだと、感慨深い私(笑)。でもこれで騙すのは、凄い高等技術ですよ。裏でプロデューサーとジャックの、仕込みがあーだ、こーだの胡散臭さ満開の会話も、昔だから成立したんですよね。オカルトのお安さは、大衆向けの娯楽としては、手頃だったのでしょう。
私は信仰はしていませんが、神や仏は信じています。でも悪魔は信じていない。馴染みがないからでしょうか?その代りと言ってはなんですが、怨霊は信じています。惨劇の理由は、私は悪魔の降臨ではなく、怨霊だと思うんですが。
一昨年96で亡くった父は、「昔は女は男のついでに生きとったもんや」と、嘯いておりました。それは日本だけではなく、アメリカでも、多分世界中でそうだったんでしょう。そう思わすのは、ジャックが「自分のため」病身の妻を人目に晒したり、恋人ジュリーを日陰者扱いしたり、懇願を却下したりする姿です。二人を踏み躙っているのに、良心の呵責もない。自分の無慈悲な行いに、疑問すらないのです。だって妻や恋人は、自分のついでに生きているから。
夢か現か幻か。妻との再会に喜ぶジャックですが、その妻が怒りの鉄槌を下したとは、夢から覚めても解らないかな?きっと解らないでしょう。
オカルトや風俗だけではなく、1970年代の、そういう男尊女卑まで網羅して描いた作品です。結構秀作でした。
2024年10月01日(火) |
「サウンド・オブ・フリーダム」 |
打ちのめされました。「闇の子供たち」でも描かれた、児童の人身売買。「闇の子供たち」は、当時今よりずっと貧しかった東南アジアが舞台でしたが、この作品の主な舞台は、中南米。世界中で蔓延る事なのだと、暗澹たる想いです。ラストで知りましたが、ジム・カヴィーゼル演じる捜査官は、実在の人です。志の高い崇高な作力作。監督はアレハンドロ・モンテベルデ。
アメリカ人のティム・バラード(ジム・カヴィーゼル)は、国土安全保障省の捜査官として、性犯罪で誘拐された児童の捜査をしています。保護したホンジュラスの少年と、一緒に拉致された姉ロシオ(クリスタル・アパリシオ)を救うと約束した事を切欠に、上司と掛け合い特別捜査の許可を得ます。単身コロンビアに渡ったティムは、当地の警察官から、秘密裏に子供たちを解放する闇社会の大物バンピロ(ビル・キャンプ)を、協力者として紹介されます。
冒頭、子供たちが誘拐される様子が描かれます。ホンジュラスでも地方なのでしょうか、さりげなくあちこちに、文明の遅れなど貧困を感じさせる演出です。彼の地では、市井の人々の立身出世は、まだまだ芸能やスポーツしかないのでしょう。父親の無防備な様子は、日本では考えられませんが、ここでは仕方ないのだろうと、納得しました。むしろ、父親の深い哀しみに寄り添う演出に、感じ入ります。
小児性愛者(ペドフィリア)を捕まえるのが仕事のティムたち。同僚が、「この仕事は辞める。犯人を捕まえても、子供たちは一人も助けた事がない」と言う。ティムは報告書に犯罪の克明な様子を書く時、涙します。この様子に、彼らもまた、子供たちや親と同じく傷ついているのだと、痛感します。この事は念頭に会った事がなく、捜査官たちに、心から申し訳なく思いました。それと同時に、百戦錬磨の捜査官たちにさえ、心の傷を癒えさせない、最悪の犯罪なのだとも認識しました。
どす黒く華やかな裏社会で生きるバンピロが、ペドに食い物にされる子供たちを救おうと決心した理由が、とても感動的です。数々の罪を犯した彼が、初めて死にたいと思う程悔やんだ罪が、自分が買った娼婦が、25歳ではなく14歳だった事です。頭に降りた神の啓示に従ったと言うバンピロ。執拗にペドフィリアの罪深さを描き、また悪党にも、善なる心に灯がともる事も示唆しています。
この作品に根底には、神があります。ティムしかり、姉弟しかり、バンピロしかり。ティムが少年から貰ったネックレスは、ティムと同じ名前の教会のものです。父から姉にプレゼントされ、それを姉は、別れの際に弟が守られるよう、渡したのです。ティムの魂に火をつけたのは、このネックレスです。
ティム自身、6人の子供を持つ善き父です。命がけで、猪突猛進するように見える彼ですが、妻子の気持ちを置き去りにしているのではないと描写する、妻(ミラ・ソルヴィノ)との毎日のメール。実際の妻も、夫を鼓舞してくれたとか。「お父さんは、あなたたちより、見ず知らずの女の子が大切」だと教えるより、「お父さんは、一人の女の子の命と人生を守るた、崇高な仕事に就いている。」と伝えるのでは、最悪の時に、子供たちの感情の守られ方が違います。これは例え話で、伝え方の良し悪しのつもりではありません。家庭生活は平穏な時だけではなく、時に嵐が吹き荒れる事も多々あります。その時、夫婦は良く話し合い、同じ方向に向く事が、如何に大切かと感じます。妻もまた、信仰しているのでしょう。
もう一人感じ入った存在が資産家のパブロ(エドゥアルド・ベラステーギ)。囮捜査のためには莫大なお金が必要で、身の危険を感じ悩んだあげく、子供たちを救うため手を貸します。ここも富める者は貧する者へ分け与えるという、キリスト教の教えが隠れていたと思います。
隠れテーマは神でしょうが、バンピロのように清濁併せ吞む人、パブロのように損得を抜きにして応援するパトロンの存在が、大切かを教えます。正論だけで通用しない世の中で、様々な境遇の人々が協力しあって、正義を貫かねばいけないのですね。
とにかく展開がスリリングで、最後の最後まで息がつけませんでした。社会派サスペンスとしても、娯楽面でも秀逸です。ティムの強靭な正義感は、最後まで観客の心を動かし、突き動かしてくれます。
この作品はある方面から圧力がかかり、(政治的?資本?)製作から五年間お蔵入りだったとか。何たること!子供は、清潔な環境に身を置き、栄養に配慮した食事を取り、勉学と社会性を身に着けるよう学校に通い、親や親に替わる人から、愛情を持って育てられる。これは子供の権利です。書いていて、虚しくなりました。世界中どころか、日本でも、ここからこぼれ落ちる子供たちが、たくさんいる事に。
ティムは何故命懸けで、ロシオを救いたかったのか?「ロシオは希望だ」と語ります。苛烈な捜査で傷ついた心を癒すのは、ロシオを救い出す事でしか、叶わないと思ったのですね。ロシオの身の上の辛さは、自分と同じなのだと。ロシオの事を、自分たちの娘のようだと妻と語り合うティム。バンピロも、14歳の娼婦の闇は、自分の闇だと言っています。この尊い気持ちが、全ての人に伝わりますように。
観るのに勇気が必要な作品ですが、大人として、子供たちへの責任とは何か?もう一度鑑みたくなる作品でした。演じる子供たちへ配慮があるので、直接的な性暴力のシーンは無かった事を、付け加えます。必見作です。
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