ケイケイの映画日記
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実際の障碍者である佳山明が、ヒロインのユマを演じるのは知っていました。冒頭近く、母(神野三鈴)との入浴シーンで、佳山明がオールヌードを見せ、物凄く衝撃を受けました。彼女はこの作品にオーディションで選ばれた素人。演じ手・作り手の決意や覚悟が、痛いほど伝わりました。監督はHIKARI。今年屈指の作品になると思います。
脳性麻痺の後遺障害を持つユマ(佳山明)は、一心に彼女の世話をする母(神野三鈴)と二人暮らしの23歳の女性です。友人のサヤカ(萩原みのり)の書くコミックのゴーストライターをしていることに、屈託を抱えており、自分で描いた作品をアダルトコミックの編集に持ち込みます。編集長(板谷由夏)は、ユマの作品を誉めつつ、「あなたセックスの経験は?経験がないと、読者を熱狂させる作品を描くのは難しいわね」と、告げられます。
ふっくらした顔に似つかわしくない細い脚は筋肉がなく、彼女が歩けない事を表している。胸はそれほど豊かではないのに、少し下垂気味なのは、腕を上下する動作がし難いからでしょう。そして猫背。囁くように小声で話す姿は、きっと肺の機能も弱いのでしょう。ユマの全身は、彼女の障害を物語っている。そしてその表情は、ミドルティーンにしか見えません。23歳の大人の女性としての経験がないからです。
編集長の一言で、自分には未開の世界である男女交際や、性の世界に足を踏み入れるユマ。マッチングアプリで相手を探し、デートをブッチされたり、男娼を買おうとしてみたり。母には嘘をついて出てきた夜の繁華街は、昼間にはいない異形の人がいっぱいで、車椅子のロリータ姿のユマも、浮きません。客引きをするオカマさんたちが、「やだー、この子可愛い〜!」と嬌声を上げます。障害者も恋愛対象になると嘘ついた、似非爽やか男より、ずっと愛の籠った嬌声だったな。
そこで出会ったのが、障害者相手の風俗嬢のマイ(渡辺真紀子)や客のクマさん(熊篠義彦)や、介護士(大東駿介)。カラオケ、飲み屋、ショッピングなど、今まで知らなかった世界を満喫する娘の前に、母は立ちはだかります。
私が衝撃を受けたのは、ユマの日常を描き、観る人に障害者への理解や共感を求める内容だと思っていたら、このお話は遅かりし反抗期を迎え、自分の殻を破るため、大冒険をする女子のお話でした。何これ?(笑)。マイに「私はセックス(恋愛だったっけ?)出来るでしょうか?」と問うユマ。返事は「あなた次第よ。やろうと思えば出来るよ」。あー、これは全人類そうだよな。障害はモチーフなだけで、描いている事は、誰にも通じる普遍的な事柄なのです。垣根なんか、どこにもないのよ。生き生きと変貌していくユマは、私であなたなのです。
このお母さんは、世間にはどう見えるのかな?私は障害のある子供を持てば、過保護過ぎて当然だと思いました。このお母さんに限らず、子供に何かあると、私のせいだと自分を責めるのが母親の性です。それが誰のせいでもなくても。依存ではなく、ユマが生き甲斐なんだと思っていました。それが後半、ユマの冒険が加速すると、別の観方に。
お母さん、勿論ユマに対する愛情が一番ですが、自分に罰を与えたのですね。「ある人」の存在が、私にそう感じさせました。そしてこの抑圧さは、障害以外はきちんとした子に育てたいと言う責任感です。一般的には非難されて当然の母ですが、障害を持つ子の子育ては、「普通」と言うのは難しいのです。守るか攻めるか、になると思う。
ユマのお母さんが「守り」なら、私が大昔見た、サリドマイドの子のドキュメントのお母さんは攻めの子育て。まだよちよち歩きの子なのに、立つとすぐつついて、転がすのです。当然泣く子供。お母さんは鬼教官みたいに「ほら、立って!」。手がアザラシのように短いので、自分で立つのは至難です。それを延々カメラは映す。月日が経って、今度は何でも足の指で教えている。字を書くのは勿論、裁縫まで。男の子でした。心を鬼にして、とはこの事です。
ユマは身だしなみ良く、優しく綺麗な言葉づかいで、他者に礼節を尽くします。そして遅ればせながら、反抗期も来た。これはお母さんの努力の賜物では?守るも攻めるも、私なんか足元にも及ばない、両方立派な子育てだと思う。
ユマのお母さんの呪縛を取り除けるのは、私は別れた父親だったと思います。きっと優しく繊細な人だったのでしょう。でも障害児が生まれたら、それだけではダメなのだと思う。一番に必要なのは、強さだと思う。妻が耳を傾けず頑ななら、それ以上に頑固になって、「別れない」と言えば済むことだと、私は思います。
「ある人」から、ユマは自分の存在が、詐取する側であったと、初めて認識します。そのことで、きっとお母さんへの心の底からの感謝が湧いたのじゃないかしら?友人に自分の書いた漫画を乗っ取られ、詐取される側であったユマ。この冒険で、今まではわからなかった友情、血縁など、色々学んだと思います。
佳山明が圧巻。芝居が上手とか下手とか、そんなのどうでもいいんだよ。この子の存在こそが、この作品の光です。神野三鈴も素晴らしい。ユマの冒険土産を見たとき、嗚咽しながら、一粒一粒涙を流す様子を見て、私が号泣しました。きっと泣く事すら律していたんだと思います。障害児を持って、卑屈になるシーンもありましたが、あなたが育てから、こんな良い子に育ったんです。私はこのお母さんの味方でありたい。
渡辺真紀子のさばけた風俗嬢も大変良かった。セリフの一つ一つ、みんな平凡なんだけど、彼女が言うと言霊が宿る。板谷由夏の編集長も、きびきび颯爽としていました。ユマが冒険の切欠を作ってくれた彼女に感謝しに行くと、満面の笑みで「やったの?」と聞いた時は、笑いました。この人たちと女子会したら、楽しいだろうなぁ。ユマのお母さんも入れてあげてね。
後半、旅券はどうした?何故外国?介護士の大東駿介は、こんなに仕事休んでいいいの?とか、突っ込み満載ですが、私が貰った勇気や感動からしたら、米粒みたいなもんです。なので不問。あっ、大東駿介と恋仲にならなかったのは、大変良かったです!
ユマの明るい未来を感じさせる笑顔に、電波系のエンディング曲が花を添えます。冒頭からは、こんな曲で一緒に乗れるなんて、想像できませんでした。何度でも書きます。今年どころか、映画史に残る作品だと思います。どうぞお見逃しなく。
富裕層の男性相手に、底辺の女性たちが違法に金を巻き上げる作品なんて、今の時流に合っていないとの声のある作品ですが、ストリッパーの衣装の上にゴージャスな毛皮を羽織るジェニファー・ロペスが、半裸の衣装のままのコンスタンス・ウーに、「寒いでしょう?こっちにおいで」と、毛皮に二人くるまる様子に、私の視点は定まりました。痛快でも愉快でもない、この作品は貧困と女性蔑視を問う、秀逸なフェミニズム映画です。監督も女性のローリーん・スカファリア。
幼い時に両親に捨てられたデスティニー(コンスタンス・ウー)。育ててくれた祖母を養うため、ストリップクラブを渡り歩いています。トップダンサーのラモーナ(ジェニファー・ロペス)に気に入られ、男性を虜にするダンステクニックを伝授して貰います。次第に姉妹のような関係になる二人はコンビを組み、大金を稼ぎます。しか2008年の金融危機で、クラブも大打撃仕事がなくなった彼女たちは、それぞれ別の道を歩みます。しかし、また貧困にあえぐ中、ラモーナが仲間のメルセデス(キキ・パーマー)、アナベル(リリ・ラインハート)と組み、ウォール街の生き残った富裕層の男性相手に、違法な荒稼ぎをしているのを知ります。ラモーナに誘われたデスティニーは、グループの中でも頭角を現します。
四人の女性たちの構成は、アジア、ラテン(プエルトリコ)、黒人・白人と、全て別々。実話を元にした内容ですが、これは女性のための映画にしたいと願う、作り手の気配りだと思います。そうそう、ストリッパーには、本物のトランス女性もいました(トレイス・リセット)。
彼女たちが、何故犯罪に手を染めたのか?親がいない、学がない、手に職がない。そして生まれついての貧困。頼るものがいない彼女たちは「女」と言うしか、武器がなかったのです。今年のオスカーのスピーチで、私が一番感銘を受けたのは、自分のヒーローは両親だと言った、ローラ・ダーンでした。私は破天荒な両親の元に生まれ、苦労しましたが、反面教師と言う手本を残してくれました。お嬢さん学校に通っていた、成金の小さな箱入り娘だった私は、彼女たちに無いものを、すべて持っていた。どんなに辛い境遇だったろうと思います。私は彼女たちを軽々しく非難したくありません。
私と同じように感じているのは、彼女たちの過去を取材をしている、記者のエリザベス(ジュリア・スタイルズ)。デスティニーが、「あなた、家はお金持ち?両親はいいるの?」と聞くと、「貧しくもなくお金持ちでもない。父は記者、母は精神科医」と答えると、鼻で笑うデスティニー。どうせ私の気持ち何か、わかりゃしないと言う事でしょう。しかしエリザベスは、「私はあたなたちを断罪する側よ。でも私自身は、被害者の男性たちは、自業自得と思っている」と、答えるのです。デスティニーの表情が変わります。エリザベスは、罪を問うより、なぜ彼女たちが犯罪に手を染めたのか?その理由を掘り下げたいのです。それは、女性たちすべてが、共有すべき認識だからです。
作り手は、この目線を持って欲しいのじゃないかしら?ウォール街の証券マンは、詐欺まがいの手で不動産を売りまくり、金融危機で客の懐が破綻しても、知らぬ存ぜぬ。鼻の下を伸ばしてカード詐欺に合っても、それは身から出た錆と言うものです。事実、被害に合った客たちは、警察には届けない。500ドルや1000ドルは、端金なのです。たまに苦情を言う客には、「妻や会社にこの事をばらす」と言うと、みんな引っ込む。なら、何故警察に捕まったのか?
富裕層の男性を相手に「仕事」をしていたのが、カモがいなくなり、ただの「男性」に手を出したから。彼は彼女たちと同じ場所に居た人なのです。もう潮時だと解っていたのに、グズグズ辞められなかったのは、後から来た薬中のドーン(マデリーン・ブルーワー)を、ラモーナは引き上げたかったのだと思います。底辺の女たちに目をかけるのは、過去の自分の辛さがそうさせるのです。そしてラモーナの深情けが、命取りになる。
ジェニロペが圧巻。登場シーンのポールダンスにまず目を見張り、セクシーを通り越して、挑発的で卑猥でもあるのに、そんじょそこらの小娘なんか蹴散らす別格の印象を残します。「ファミリー」をまとめる姿は、母のようでも師のようでもあり、包容力と求心力が抜群。プロデューサーも兼ねる彼女は、当然ビリングトップでも良いのに、ウーに譲り自分は二番目。超がつく大物になった現在、体を張ってやる必要もない役ですが、ジェニロペのこの作品に賭ける意気込みを感じます。ラモーナもデスティニーもシングルマザー。日本でもそうですが、養育費もなく、一人で育てています。ジェニロペは、若い女の子たちに、この作品から正しい生き方を学んで欲しいのじゃないかしら?
私は「〜過ぎる」も「奇跡の〜」も美魔女と言う表現も、大嫌い。もっとシンプルでいいじゃない。ジェニファー・ロペスは、世界一セクシーでカッコいい「オバサン」です。
この作品を見て、つくづく思うのは、女性たちは手を繋ぎ、支えあわなくてはいけないと言う事。ミソジニーは「私はあんな女性たちとは違うわ」と、彼女たちを蔑む同性に多いのじゃないかしら?どこが違うの?みんな同じ「女」です。
ラモーナは、15歳の時にデスティニーに会いたかったという。ストリッパーにも、シングルマザーにもなる前です。私より年若い、たくさんの女たちよ。どうかマウントなんかしないで。詐取する側にも、される側にもならないで。生産する存在になって欲しいのです。あなたたちから、愛情もお金も時間も詐取して良いのは、我が子だけです。夫がいてもいなくても、一人で生きられる力を蓄えて。同性だけではなく世の中には良識ある男性もいっぱいいます。其の事も忘れないでね。
2020年02月07日(金) |
「テルアビブ・オン・ファイア」 |
あ〜、面白かった!世に嘘が嘘を招くシチュエーションコメディは数あれど、まさか緊張みなぎるパレスチナVSイスラエルで、それが観られるとは思いませんでした。クスクス笑いっぱなしの中、両国の人がまるで隣人に思えた秀作でした。監督はサメフ・ゾアビ。
エルサレムに住むパレスチナ青年のサラーム(カイス・ナシェフ)。叔父がプロデューサーのパレスチナの人気ドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」のヘブライ語の指導と雑用係を勤めています。撮影所に通うためには、面倒な検問所を通らねばならず、無用な言葉「爆発的」を口にしたため、サラームはイスラエルの軍司令官アッシ(ヤニブ・ビトン)の元に連れていかれます。咄嗟に「テルアビブ・オン・ファイア」の脚本家だと嘘をついてしまったサラームですが、何とアッシの妻がこのドラマの大ファン。妻の熱狂ぶりを苦々しく思っていたアッシは、ドラマの筋に口を挟みます。しかしこれが大当たりで、サラームは本当の脚本家に抜擢されます。しかしこれが難関の数々の始まりでした。
ドラマは1962年が舞台で、パレスチナ人の恋人のいる女性スパイが、イスラエル人に化け、敵の将校を色仕掛けで陥落し、秘密を握って国に渡すと言うモノ。しかし彼女は本当に将校を愛してしまい…と言う禁断の大メロドラマ。とにかくパレスチナ、イスラエルの両方に渡って、老若の淑女に大人気なわけね。
「パレスチナの彼が素敵なの〜(確かにジョージ・クルーニーにちょい似た色男)」とアッシの奥様はうっとり。アッシが「イスラエルの方は?」と聞くと、「はっ?あんな軍人軍人した男はダメよ」と一刀両断。亭主は軍人なんですが(笑)。いや〜、女性って本当に自分に完成に忠実なのよね。どんなに日韓関係が悪化しようが、韓国ドラマを愛する日本のマダム、韓国のメイク用品やファッションを可愛いと愛でる若い子たちを、私は兼々天晴だと思っていましたが、これは面子や沽券はどこ吹く風の、女性の感性が天晴なのよね。女性の正しさは国境を超えるってね。
沽券に拘るアッシは、イスラエルの将校をもっとエレガントで凛々しく描けと言う。しかしこれが大当たりで、視聴率はうなぎ上り。悪役が輝くと、そりゃそうなるわな。しかし、内容をめちゃくちゃにされた脚本家は、怒り心頭「どうしてホロコーストなんか、持ち出すの!」と、イスラエルが見栄え良く見える改変に、取りつく島もありません。うーん、ここに対立の影が見える。そうこうしているうちに、アッシの案とは知らない叔父は、サラームのアイディアだと思い込み、彼を脚本家の一人に抜擢します。嘘から出た真ですね。
脚本は視聴率と新聞の論評次第で、放送しながら改変されて行きます。これは日本でもそうなのでしょう。やれ死なせればいい、ガンにすれば?とか、改変が気に入らない主演女優はへそを曲げちゃうしで、観ていてクスクス。おまけにサラームは、ヒロインのセリフに自分の気持ちを忍ばせて、こっそり愛しい彼女に届けます。この辺はドタバタしながら、すごく微笑ましくて楽しい。
脚本家として腕のないサラームは、仕方なしにアッシの元に日参し、アイディアを貰う羽目に。しかしこれが仇となり、アッシは最終回は、自分の案にしろと譲らない。しかしこの辺りから、たかがドラマの脚本が、両国の現在の状態を色濃く映し始めます。
叔父、脚本家、サラーム。年代は全て違いますが、それぞれが形を変えて、パレスチナの現在の状況に対し、辛く苦い思い出があるのがわかる。アッシだって、検問所に詰めるのは飽き飽きだと、これまた苦々しく思っている。彼の大好物は、パレスチナの料理であるフムスだと言うのも皮肉です。自由に食べる事も出来ないのですね。それなのに、気に入らないとサラームはまるで罪人扱いするアッシ。すぐに銃を向けられる様子など、パレスチナ人を抑圧するイスラエルの傲慢さや暴力が、随所に垣間見られます。
叔父は「このラストは、『マルタの鷹』からヒントを得た。絶対これだ」と譲りません。でもこの案ってなぁ。パレスチナだけで見る分には理解を得られるかもしれないけど、色々と物議を醸すオチなのではないかと、私は思います。アッシ案も、イスラエルに屈服した感じがしないでもない。そしてサラームが書いた仰天のシナリオとは?
うんうん、確かに技ありです。これが絶対いい!アッシの奥様も大喜び(私は何気にこの奥さん好きだ)。皆が皆、自分の願いを叶える大団円のラストを思いつくなんて、サラームは脚本の腕も上げたのでしょう。瓢箪から駒ですね。めでたしめでたし。
これだって実際はファンタジーです。でも現実に両方が手を携えて、協力して作り上げていく日が来ればと、鑑賞後、願わずにはいられませんでした。現実のパレスチナとイスラエルの市井の人々は、争いにうんざりしているのじゃないかなぁ。多分政治とは、かなり温度差があると思います。この作品を見るまで、そんな事、思いもしませんでした。アッシはサラームに「恋人同士は何をする?」と問います。「ハグ?キス?」。アッシは「相手の話をよく聞くことだ」。名言です。これはコミュニケーションで、一番大切な事なのでは?アンタ、聞いてなかったけどね(笑)。憎しみ合う国同士でも、使える名言です。
2020年02月01日(土) |
「リチャード・ジュエル」 |
面白かったです。でも多分、世間様とは違った部分で感慨を深めたので、その辺よろしく(笑)。監督はクリント・イーストウッド。実話を元にしています。
1996年のオリンピック開催中のアトランタ。警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォーター・ハウザー)は、イベント会場で不審なリュックを見つけます。中には爆弾が入っており、第一発見者のリチャードは一躍ヒーローに。 しかしFBIのショウ(ジョン・ハム)は、見込み捜査でリチャードを犯人と目星を付けます。リチャードは旧知の弁護士ワトソン(サム・ロックウェル)に弁護を依頼。二人三脚の戦いの火ぶたが切って落とされます。
予告編とあらすじくらいしか頭に入れていなかったので、最初リチャードの造形に面食らいました。正義感に依る過剰な職務態度は、明らかに行き過ぎ。それにかなり肥満なのが災いして、奇矯な人にも見えてしまう。いや、余計なお世話をしまくる様子は、明らかに「変な人」です。他のスタッフは持てあましてしまうでしょう。迷惑を被った元雇い主が、余計なお節介をしたくなるのも、正直納得しました。リチャードは母のボビ(キャシー・ベイツ)と二人暮らし。親子間は良好な様子です。
そしてそれ以上に面食らったのは、FBIの杜撰な捜査。あんな何の証拠もなく、犯人の目星をつけていいのか?当時ショウはイベント会場の警備を任され、自分の持ち場の事件に、面子をかけて犯人を挙げねばと言う気持ちが先走ったと描かれています。そこへ野心満タン、セクシーで獰猛な新聞記者のキャシー(オリヴィア・ワイルド)が、自分の身体と交換に、リチャードが容疑者だと聞きだすと、まだ捜査の段階なのに、一面トップで新聞に掲載されます。 これでショウは引っ込みがつかなくなる。リチャードをFBIや民衆の血祭りに上げた一番の戦犯は、私はキャシーだと思います。
喧嘩しながら、お互いの信頼関係を築いていくリチャードとワトソン。言い争いの最中、何故俺を指名した?と怒鳴るワトソンに、あなただけが、僕を蔑まず人間扱いしたからだ、との吐露には泣けてきました。彼の本音ですね。自分が人から敬意を集めるのは、法を執行する側になるしかないと思っていたのでしょう。彼は法律関係の本もたくさん読んでいますが、それは机上の空論。いくら理論武装しても、誰の心も動かない。手腕はあっても、正義感が強く情が濃いのが災いして、ちっとも客が付かないワトソンに、この言葉は胸に響きまくったはずです。
面食らったその3は、キャシー・ベイツ。とても小綺麗な熟年女性で、癖がある猛女役が多いベイツにしては、意外でした。察するに本物のボビがそうなのでしょう。でも私はそれ以上に、リチャードとの落差を感じたのです。このお母さんも、息子を愛してはいるでしょうが、持て余す時もあったのではないかな?もういい年のはずのリチャードは、健康にも経済的にも問題ないボビと同居中。ボビは息子に執着しているようには思えず、普通の愛深い母です。対するリチャードは、日本で言う子供部屋お兄さん(当時は若いのでおじさんに在らず)。ワトソンが打って出た無実の息子を信じる母のスピーチは感動的でした。でも内容もさることながら、普通に綺麗で礼節のあるボビを見て、世間はリチャードを見直したのではないかしら?
観ていて私まで苛々するリチャードに、ボビが食ってかかるシーンがありますが、それでも彼女は一点の曇りもなく子を信じていました。世間的には、母親なんだから当たり前と思われるかもしれませんが、これは実は難しい事です。息子を知っているからです。それでも尚、息子を信じ切った彼女を、私は同じ母親として、敬意を持ちました。彼女が居なければ、とっくにリチャードも心が折れていたかも?
当初で捜査は暗礁に乗る出来事を、FBIも新聞社も素通りします。後で気が付いたキャシーがショウに申し出ますが、一蹴されます。何で今頃そういうかな、この女も。何より不満なのは、この誤った捜査の訂正が作品中ないのです。キャシーがボビの演説で涙ぐみますが、まさかあれで彼女の禊を済ませたなら、口あんぐりです。これで権力やジャーナリズム批判をしているなら、お粗末です。深読みすれば、イーストウッドは右寄りの人なので、「そんなアホな」の例えを出して、これは特別な事と、目を反らす作戦かしら?そうまで思えるほど、名匠らしからぬ陳腐な描き方です。
この作品でもサム・ロックウェルは絶好調!今回も好漢で商売下手なワトソンをチャーミングに演じています。また萌えてしまった(笑)。今まで私の眼は節穴だったのか?50過ぎて魅力が増すという事は、本物だわね。当分幸せだわ(おほほほほ)。
リチャードが母・友人・ワトソンに支えられながら、FBIに堂々と抗弁する姿は感動的。誤った己の鼓舞の仕方で、法を執行する側に固執していた彼の、呪縛が解けた時です。
エンディングに流れた文章で、アー成る程、だから劇中、何度もリチャードは胸を押さえていたのかと納得。「健康のため、太り過ぎに注意しましょう」と言いたいのねと、取りました。私も人の事言えた義理じゃありませんが、今回整容には一層気を配ろうと決意。人は身だしなみですよ。ジョン・グッドマンは醜いデブではなく、恰幅が良く思えるでしょう?「ハスラー」のミネソタ・ファッツだって、エレガントな紳士です。でも一晩中のゲームで、髪も乱れシャツも汗だくな時は、体臭がしてきそうでした。身だしなみの基礎は清潔感です。その清潔感は、老いると失われて行くもの。私もボビを見て、一層気を配らなければと、誓いました。
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