ケイケイの映画日記
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2019年06月25日(火) |
「ガラスの城の約束」 |
ブリー・ラーソン主演の人間ドラマは外さないなぁ。昨今流行の「毒親」と言う括りではなく、子供時代の辛い記憶から逃げず、親を見つめなおす事で、否定する自分自身の生い立ちから、解放された女性のお話です。アメリカの人気コラムニスト、ジャネット・ウォールズが書いた、彼女自身の実話です。監督はデスティン・ダニエル・クレットン。私の今年一番の作品です。
1989年アメリカ。若き人気コラムニストのジャネット(ブリー・ラーソン)は、優秀な会計士で投資家のデヴィッド(マックス・グリーンフィールド)と結婚間近。デヴィッドと顧客との会食を終えたジャネットは、帰りのタクシーで、ゴミ箱を漁るホームレスを目撃します。それは未熟な親として、彼女たち四人の兄弟に、充分な養育環境を与えなかった、父レックス(ウッディ・ハレルソン)と母ローズマリー(ナオミ・ワッツ)でした。
夢ばかり追い続けるレックスは、仕事が続かない。売れない画家の母は育児や家事より絵を描く事に熱心です。とても良き親とは言えず、お金が無くなれば夜逃げの連続で、お陰で子供たちは就学年齢にも関らず、学校に行っていない。
何より私が心を痛めたのは、子供たちが始終お腹を空かしていること。成長期の子供にとって、何より辛い事です。「最貧困女子」の中で、ネグレクトで育った子達が、一様に夕暮れ時が嫌いだと言うのだそう。何故なら学校から帰宅の途中、あちこちから夕餉の支度の匂いがする。でも自分たちには、夕食は用意されていない。余りの残酷さと切なさに、一母親として、読んだ時号泣しました。
この両親は、ある意味子供に依存しています。自分たちの家庭の理想には、「子供」が必要だったのでしょう。だから、子供が成長する事に必要なものは拒み、手元を離れる事を極端に嫌う。子供はいつまでも子供ではなく、思考も感情も育つのに、それが理解出来ない。見守ることも出来ないのです。親になってはいけない人なんだと思いました。
火傷させても虐待の通報が怖くて病院から連れ出してしまう、続かぬ仕事、毎度の夜逃げ、入浴できず公営プールでのシャワー、食費を飲酒に使う(レックスはアルコール依存)、夫がダメなら自分が働きゃいいものを、絵を描くしか能の無い母。しかしこの劣悪な環境に子供たちを思い、胸を痛めるものの、私は不思議とこの出来の悪い両親を、責める気になれません。
それは作り手が責めていないから。この無頼で未熟な両親は、歪ですが、間違いなく子供たちを愛しています。子供に対して、身体的にも精神的にも暴力をふるうシーンは、一度もありません。そしてレックス自身が虐待の被害者である事を匂わせ、何故彼がこんな風変わりな人間になったのか、糸口を見せてもくれます。そして成長した子供たちを自分たちのために働かせたり、お金の無心もしません。不法占拠の家に住もうが、ゴミ箱を漁ろうが、子供を頼ったりしない。
親の全てに否定的なジャネットに、姉や弟は、楽しい時もあった、と言います。普通の親の愛情を得られなかったとて、全て否定していいのか?それは違うのです。私も平凡な家庭に育ったとは言い難く、この作り手&原作者の言いたいのは、ここだなと思いました。
ジャネットはちゃんと火傷を治療しなかったせいで、引き連れた火傷の痕が、お腹に広がっています。子供を警察に取られたくない一心の、浅はかな親の行動でした。しかし後年、この傷が彼女を守ってくれるのです。本当は負の傷跡を、ジャネットは機転を利かせた。あぁここだと思いました。
子は親を選べない。親から学ぶのは、良き部分正しい部分だけではなく、負の爪痕を自分でどう昇華するのか?それは子供自身にかかっている。どんな出自に生まれようと、今の自分は自分自身が作り出したものです。
親を見つめ直すことは、自分を見つめなおす事。その事に気付いたジャネットの潔さが、心に沁みます。ラスト、母と兄弟、その連れ合いと子供との感謝祭の宴を、自宅で開くジャネット。父の事を貶しながら、笑顔で語り合う家族。その様子に、「私は恵まれている」と涙するジャネット。ここでまた号泣の私。四度の離婚、五度の結婚を繰り返した父、虚言癖があり、人格障害の母の間に生まれ、複雑な家庭環境の中育った私は、彼女の気持ちがわかるからです。私も今の人生に心が満たされている。
今現在、または過去に置いて、親に辛い記憶がある人は多いでしょう。許さなくていい、感謝なんかしなくていい。ただ親を見つめ直して欲しい。自分の人生は自分が作るのだと信じて下さい。目標を決まったら、頑張って頑張って頑張って下さい。私の目標は早くに結婚して、暖かい家庭を作り、元気な子供たちに囲まれ、毎日笑って暮らす事、でした。ジャネットとは違う形で、頑張って頑張って頑張って、目標を手に入れた私から、心よりこの言葉を贈ります。
故・樹木希林(母親役でも出演)が、家族同様に愛情を持っていた浅田美代子に是非代表作をと、企画した作品。年齢不詳の愛らしさを持つ浅田美代子にはぴったりの題材で、希林さんは、本当に彼女の事大切に思っていたんだなと、公開を楽しみにしていました。しかし個人的には、色々雑な面ばかりが目に付き、仕上がりはとても残念でした。監督は日々遊一。
ホステスをしながらネットワークビジネスにも手を出している聡子(浅田美代子)。ある日、その会合を見ていた伊藤(木内みどり)と名乗る女性から、平澤(平岳大)と言う男を紹介されます。国防省関連の仕事をしていると言う平澤は、途上国を支援すると形で資金を集め、国境を越えたビジネス展開していると語り、聡子に片腕になってほしいと頼みます。承知した聡子は、次々と客を紹介。しかし二人は、その資金を私的に流用し、贅沢三昧の暮らしを始めます。聡子は佐々木(岡本富士太)と言う老人に気にいられ、家を一軒贈られます。老人ホームに入っていた母を呼び寄せる聡子でしたが、破綻はすぐ傍まで来ていました。
架空の儲け話で資金を集め、それを手にタイに逃亡。逮捕された山辺節子がモデルの実話。その時、実年齢は還暦を超えていたのに、息子のような年齢の現地の愛人には、「38歳」と噓をついていた事が、タイトルの由縁。世間の耳目を集めた事件で、ご記憶の方も多いと思います。
まずは聡子の履歴ですが、家庭不和の思春期の頃は描いています。彼女の詐欺体質は、生い立ちから来ている風にしたいんでしょう。父親は暴君で浮気もしている。でも聡子に癇癪を起すのも、「その年で男といちゃつくな!幾らかかっていると思っているんだ!」と言う台詞、唐突過ぎて意味不明。いちゃつくはいいとしよう。幾らは、「お前を育てるのに、俺はどれだけ働いて頑張っているのかわかるのか!幾らかかってるんだと思ってるんだ!」でしょ?
妻を殴打していると思わせるシーンでも、「だから俺があれほど言っただろう!」と、声だけ。どんな理由であっても、妻を殴って良いはずはないけれど、どんな理由か説明しなきゃ。台詞で説明したくなきゃ、殴っている描写をすれば?浮気相手と父親がキスするシーンだけ、やたらねちこくて、少々気持ち悪い。これで聡子の性格が歪んだんですよ、行間読んでくれは、雑過ぎる。
これ以降は60前後のホステス時代まで、背景を描くのががすっぽり抜けている。この間の方が、彼女の人格形成に重要な事があったように思いますが。結婚暦はあるのか、子供はいるのか、男関係は?ホステス以前はどんな仕事をしていたのか、まるでわからないのは、ダメだと思います。
雑な描写は、愛人関係になったあと、浮気がばれて聡子に去られた平澤が、金の工面に聡子に電話ですがるも、出てもらえない。その時平澤の顔には殴打の後。金を払えず怖いお兄さんたちに殴られたのはわかるけど、その時も独り。それだけ。えっ?開放されず、横で怖い人がゴルフのスウィングでもしてりゃあ、瞬時にして盛り上がりますが、平澤も背景としての描き込みがほぼなく、盛り上がりゼロ。全体に台詞、演出の主語がなく、演出の中途半端さが目立ち、盛り上がりたいのにそれが出来ない。
投資家たちが、聡子に詰め寄り紛糾する場面が長すぎ。多勢の中孤立する聡子が、ふてぶてしく相手を煙に巻くのは良かっただけに、同じ事の繰り返しのこの場面、半分以下で良かったわ。
その他にも何故タイに行くのか、片言であっても英語が喋られるのはどうして?とにかく聡子が一度も躊躇することなくこの犯罪に手を染めたのか、わからないのです。平沢の浮気以前に、気付く時はいくらでもあったはず。これで「私も被害者」というのはお門違い。そのお門違いをラストであの肯定は、強引過ぎる。
何より怒ったのは、浅田美代子が全く可愛く撮れていない!彼女は最近やっと老けてきましたが、五年ほど前くらいは、年齢不詳の愛らしさで、中高年女性向きお洒落雑誌でひっぱりだこでした。特別若作りしているわけでもなく、気負いの無いスタイルは、熟年女性のお手本でした。彼女の若さの証拠には、一回りしたの平、息子ほどの年のタイ人俳優相手の濡れ場も、違和感がありません。
清潔感と華やかさもほどほどにある人は、この年齢では稀有です。それが全く生かされておらず、浮腫んだ顔、弛んだ目元を強調するようなショットの数々には、落胆しました。彼女有りきの企画なのに、全く愛情を感じません。
上にも書いたけど、あの形式でラスト事件の核心を語るのは、手抜きです。女優よりタレントとしての活動が長い彼女には、確かに主演を勤めて代表作となるでしょう。この作品に出ている小松政男とか、息長く芸能界に入る人は、やはり腕が違います。美代ちゃんもしかり。普段は眠っているその力量を見せてもらえたのだけが救いかな?残念な作品です。
ただいま小屋変えしたりで、ロングラン上映中で、やっと見て来ました。ラストシーンは、ほんわか演出していますが、「アデルの恋の物語」の、痛烈なラストを思い出してしまった。五人の男女の恋愛模様が描かれ、なかなか面白かったです。監督は今泉力哉。
28歳のOLテルコ(岸井ゆきの)。大好きなマモル(成田凌)とは、深い関係にあるのに恋人同士ではありません。親友の葉子(深川麻衣)は、テルコとは逆バージョン。年下の中原(若葉竜也)に尽くしぬいて貰っているのに、邪険に扱っています。あやふやな関係が続いていたテルコとマモルですが、マモルが「自分の好きな人」と紹介する、すみれ(江口のり子)が表れてから、それぞれの微妙な関係性に変化が訪れます。
観る前はメンヘラかと予想していたテルコですが、前半は頷きっぱなし。今の私じゃ、バカかお前はと、テルコを叱咤したい気分ですが、これ今だからね。自分の若いときを思いだしゃ、こんなもんですよ。人生とは私の大好きな彼なくば、砂漠と一緒。私も採用して貰ったアルバイト初日がデートと重なり、アルバイトを蹴った経験があるもん(笑)。
毎日電話し、彼の家にお泊りし、デートして。そりゃ好きだなんだと言われなくても、彼氏だと思いますよね?でも待って。テルコは最初から「マモチャン」と呼ぶけど、守はずっと「山田さん」です。この温度差。それに一抹の不安も持たず、33歳以降のマモちゃんの人生には、自分も一緒だと確信するなよ。私は象の飼育員なんて、守が突飛な事を言うから、私の年も考えてくれと、絶望して泣いているのかと思ってしまった(笑)。
なので靴下の一件から、テルコと距離を取るマモルの気持ちは理解出来ました。それでも、クズだなこいつと思っていたマモルですが、すみれ登場で、見方が変わります。大雑把でガサツなすみれに、甲斐甲斐しく世話しようとする様子に、あんまり女と付き合った事ないんだなぁと感じました。すみれはそんなの、喜ばない女です。
すみれはガサツでも、雑な女じゃなく、人の感情はちゃんと汲み取る人です。それが中原には響きます。「寂しい時、誰かと話したくなって、誰もいなかったら、その時僕の事を思い出してくれれば、それでいいんです」の言葉には、何と言う無償の愛と、感動してしまった。それをテルコのバカは「中原君、気持ち悪いよ」って、何だよ。この辺、似た様な二人ですが、決定的に恋愛感が違うのが解る。そして後半になると、各々登場人物が別の顔を見せ始めます。
私がこの作品で一番好きなのは、中原です。彼が葉子と距離を置こうとしたのは、すみれが彼に対しての葉子の態度を詰ったから。自分は良くても、他人から好きな人はそう見える事を、彼は初めて知ったのですね。自分は葉子の傍らにいるだけで満足だけど、一方通行なこの不毛な関係は、葉子の人としての成長に邪魔になると思ったのでしょう。決してテルコの言う「恋人同士になるのが無理だから、諦めましたと言え!」では、ないのです。こんなに恋しい相手に対して、相手を中心に想い思考する中原。これが無償の愛でなくって、何?「幸せになるたいっすねー」と、笑いながら涙ぐむ中原に、思い切り貰い泣きしてしまった。それなのに、「うるせー、ばーか!」って(怒)。バカはお前だよ、テルコ!
若葉竜也がね、本当に上手い!みんな全く別の役柄なのに、何を演じても感動するくらい上手い!映画もヒットしたし、年末の助演賞は確実でしょう。岸井ゆきのは、超キュートに見えたりブスに見えたり、変幻自在。猫かぶりの守の前と、毒舌家の他の人の前での姿も、微妙に演技を変えて役柄をとても理解していました。彼女のお陰で、テルコがとても身近に感じました。
すみれと同じ事を、守に忠告する葉子。これが意外な展開でね。こんなに素敵なのに、途中で自己肯定感が著しく低い事を露にした守ですが、ここでも不器用感満載。言われて反省するなんて、結構いい奴じゃん。ああそれなのに、アホのテルコはまた・・・。ここまで来ると、バカが愛おしくなります。
好きになるのに理由はないでしょ?と言う会話が、最初の方で出てきますが、それは私も賛成です。好きになった相手が、タイプなんだよ。友達でいいから、関係続行を望んだテルコは、愛がなんだ、恋がなんだと言いながら、満身創痍で守を愛しているんだな思うと、やっぱり涙が出てくるのです。
満身創痍を抜けて、豪胆になると、「私はまだ」以下の台詞の気持ちになるのかと、すごく納得してしまいました。アデルのように気が狂ったわけじゃなし、豪胆を抜けると、きっと達観するんだよ。そうしたら、中原の気持ちがわかると思うのね。その後は、中原と葉子のように成れたらいいね、テルちゃん。
2019年06月04日(火) |
「僕たちは希望という名の列車に乗った」 |
ドイツが東西に分かれていた時代を描いたお話は、秀作が数々あり、私が最も愛しているのが「善き人のためのソナタ」。大人世代が描かれている作品が多いですが、今作は東独ではエリートであるはずの、前途悠々の高校生たち。窺い知れない当時の東ドイツの状況も垣間見られ、純粋な高校生たちの行動に、教えられる事の多い作品でした。監督はラース・クラウメ。
ベルリンの壁がまだ無かった時代の1956年。エリートが通う高校に通学していたテオとクルト。時々西ドイツに渡っては、向こうの文化やニュースを享受していました。ハンガリーで、ソ連の影響下の強さに堪えかねた民衆が蜂起し、多くの市民の犠牲が出た事を知ります。同じような立場の自分たちを重ね、クルトの提案で、クラスメートたちはハンガリーの犠牲者への黙祷を捧げます。これが東ドイツ当局の耳に入り、彼らは異分子として、処罰の対象となると言われます。
まずびっくりしたのは、当時はまだベルリンの壁がなかったこと。そして、身分証こそ必要ですが、割とたやすく東西ドイツを往来出来た事もびっくり。そりゃ西側の情報もすぐ入ってくると言うものです。
エリートであるはずの彼らの教室ですが、クラス25人くらいですが、ロッカーも無く、小学校のような狭さ。私はこの辺に経済状態の悪さを感じたのですが、どうなんでしょう。
幾度も卒業試験を西ドイツで受けると出てきます。私は別の国だと認識していたので、これもびっくり。もちろん理由は必要でしょうが、試験は東西統一だったのでしょうか?
命を落とす痛ましさに黙祷しただけなのに、この展開。犯人捜しにやっきになる当局は、生徒たちに誰々が口を割ったと噓と付き、生徒ではなく、子供たちが知らなかった父親の背景を暴き、あろう事か、自分たちに都合良い犯人をでっち上げようとする。もう何をか言わんや。正義はどこへ?
当初は生徒たちが正義感を貫いたのだと感じていましたが、大臣登場でそうではないなと。彼の首には、敵方同胞から拷問を受けた生々しい傷跡が。正義と言うのは、その場所、時代背景で、変遷するものじゃないかしら?信じていた正義は、時代と共に正義ではなくなって行く例は、たくさんあります。
では子供たちが貫いたものは?私は良心ではないかと思いました。友人を売って今の地位を築いた者、家族のため、已む無く思想を変えた者、拷問に耐え切れず、寝返った者。親たちが最後には我が子を見守る道を選んだのは、良心に背いた自分の心の傷が、癒える事がなかったからだと思います。これも戦争の傷跡でしょう。時代は変わっても、国が違っても、良心は変わらない。
当時の東独の若者たちの、西側諸国と同じ、青春の日々を描く導入から、次第に闇や厳しさを表現。ラストはタイトルそのまま、希望を抱かせる締めくくりでした。実話が元ですが、その後の彼らが、どんな人生を送ったか、知りたくなりました。
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