ケイケイの映画日記
目次過去未来


2017年07月30日(日) 「君の膵臓をたべたい」




このホラーチックなタイトルからは想像できない、青春の瑞々しさに溢れた作品。正直稚拙な展開・幼稚な演出について行けない時もありましたが、終わってみれば、主人公二人に泣かされ、肩を抱き寄せたくなりました。監督は月川翔。

母校で教師をしている【僕】(小栗旬)。図書館の建て直しのため、本の在庫整理をしていて、12年前の出来事を思い出します。当時高校生だった【僕】(北村匠海)は、大人しく目立たない生徒で、友達も作らず暇さえあれば図書室に入り浸っていました。ある日盲腸の手術後、病院へ検診に行くと、「共病文庫」と名づけられた日記の落し物を拾います。そこには、もうじき自分は病気で死ぬと書いてありました。持ち主はクラスメートで人気者の咲良(浜辺美波)。信じられない【僕】。しかし平静を装い、誰にも言わないと咲良に伝えますが、翌日から彼女は【僕】に付きまとい、彼の事を「仲良し君」と皆の前で呼ぶようになります。

強引に自分のペースに、【僕】を付き合わせる咲良。愛らしく【僕】を翻弄します。対する【僕】の気持ちは、困惑半分、嬉しさ半分。しかしこれがなぁ。余命一年の女子高生が、あまりに健康的過ぎて拍子抜けします。高校生らしく健康的で良いのだけれど、健康的過ぎるのです。一度薬を映しますが、それだけでは演出としては不足です。あれだけ動き回れば、途中でどこかで倒れないと、不自然です。演じる二人が、若々しく好感の持てるお芝居をしてくれて、そこにかなり救われます。

高校生が同級生の恋愛を噂話するのは、いいでしょう。しかし親友だとて、いくら恭子が【僕】を気に入らないとして、あれほど敵意むき出しにするか?女子が友人関係で嫉妬するのは、彼氏ではなく同性の友人じゃないかなぁ。クラス委員長の【僕】に対しての「何かあったら、相談してくれ。僕はこれでも委員長なんで」の発言も、裏があるにせよ、高校生がこんな芝居がかった台詞言うかな?まぁ芝居なんですが(笑)。ガム君(矢本悠馬)が、何くれとなく孤立する【僕】を助けてくれるのも、ガム君自身が苛められているとか、過去に孤独だった経験があるとか描かないと、これもずっと一人ぼっちだった僕に、急に味方が出来るのは、不自然です。

まぁ主演の二人がいいから、いいけど・・・と、不満を飲み込みながら観ていた気持ちが一変したのは、咲良の共病文庫を、【僕】が読むとき。咲良が精一杯自分を強く見せようと、装っていたのがわかるのです。当たり前だよなぁ。咲良は言います。「今時分の身の上に起こっている事は、偶然でも運命でもない。自分がずっと心に思っていた事だ」と。彼女が一番したかったのは、恋のはず。しかし自分は、もうじき死ぬ。恋をするのは、辛くなるだけなのです。

それは自分だけではなく、【僕】も同じ。お互いがお互いを思うから。青春を謳歌してしかるべき、まだ幼いと言って良い男女が、自分の心を律するのは、どれだけ切なかったでしょう。「泣いていいですか?」と、咲良の母に問う【僕】。頷く母と共に、私も号泣。娘の傍らに【僕】が居てくれたこと、お母さんは誰より感謝していたと思います。

【僕】はメールで、咲良は文庫で、お互いに「君の膵臓を食べたい」と告げます。ぼんやり理解していたこの言葉の意味が、ここではっきり私に教えてくれました。この言葉は、幼い二人の「あなたが好きです」の、代わりに告げた言葉だったと思います。

咲良は、どうしてあれだけ健気で強かったのでしょうか?先日亡くなった小林真央さんのブログで、「癌になった私を、世間はどう思うでしょうか?まだ子供が小さくて、可哀想、でしょうか。でもそれは違います。何故なら、癌は、私の人生を代表することでは、ないからです」の一文を読んだ時、娘のような、この若いお母さんから、一生心がけたい言葉を貰ったと思いました。人生は長い短いに関わらず、様々な境涯に身を置きます。気をつけないと、辛い事哀しい事に、自分の感情が塗れてしまいがち。それらが自分の人生の代表だったら、それこそ、こんな悲しい事はありません。咲良の気持ちも、そうだったのじゃないかなぁ。良き家族、良き友に恵まれ、輝きに満ちた、楽しい人生だったと、自分の心に、周囲に、刻みたかったのだと思います。

成人した恭子(北川景子)のパートも蛇足。高校の時同級生だっただけで、それから付き合いもなかった【僕】を、結婚式に呼ぶかな?母校の先生になったのも、知らなかったんだよね?結婚相手もご都合主義が過ぎます。せっかく号泣したのに、また不満が沸いちゃうわ(笑)。

個人的には、不満はいっぱいなれど、主人公二人の心映えの美しさが何物にも勝り、観て良かったと思います。場内は超満員。巷の評判も、私のように文句のある人は、少ないようです。


2017年07月23日(日) 「彼女の人生は間違いじゃない」




東京までデリヘル嬢として週末だけ上京する若い女性が主人公で、それ相応の扇情的な場面があるにも関わらず、ヒロインを含む、登場人物全ての心を覆う哀しみが手に取るように届き、とても切ない作品です。監督は廣木隆一。

震災後の福島の市役所に勤務するみゆき(瀧内公美)。農業を営んでいた父(三石研)は、まだ立ち直れておらず、毎日パチンコ屋に入り浸る日々。みゆきの同僚新田(柄本時生)は、広報課勤務で、日々職務に励んでいますが、その重圧から疲弊しています。みゆきには秘密があり、週末父には英会話学校に通っていると嘘をついて、東京でデリヘル嬢として、働いていました。

父娘が住むのは、仮設住宅のようです。狭い空間を綺麗に整頓してるみゆき。仏壇がないのは、遺体が発見出来ないからでしょう。遺影の前に、小皿で御飯をよそう姿、どんな時でも手を合わせ、いただきます、ごちそうさまを言うみゆきの姿に、子供の躾の行き届いた、良き母であったのだろうと、その姿が透けて見えます。

対する父は、亡き妻の面影を追い求め続けています。画面には映りませんが、震災直後は、もっと腑抜けたようだったんじゃないかな。私と同年代くらいの男性は、妻を大切に思っていても、実際は自分優先、妻は居て当たり前。老後になったら二人仲良くあちこちと思っている人が多いでしょう。その老後が無くなり、きっと悔恨の日々なのです。

働かず、賠償金を食いつぶし、パチンコ三昧の父親に苛立つみゆきの気持ちも、充分わかる。若いみゆきには6年経った、なのでしょう。しかし父には未だ6年、なのです。これがみゆきを無くし、夫婦が残ったのなら、妻は賠償金が無くなるまで、夫の気の済むようにさせていたかもな、と思います。父の伴走するのは、みゆきには酷だと思いました。父は少しずつ立ち直ってきているのに、娘にはその兆しがわかりません。

一方みゆきも、傷ついた自分を誰かに守って欲しいのです。しかし父も別れた恋人も、自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、彼女を抱きしめてはくれない。ここで何故娘を、好きな女を、しっかり抱きしめてやれないんだと、歯がゆい私。とても現実的です。現実はドラマや映画のように、ここ一番で女の気持ちを抱き止める男の方が少ないはず。そして女は、どんどん一人で強くなっていく。
何故東京でデリヘルなのか、明確な答えは出てきません。現実からの逃避行。自分を壊してしまいたく、衝動的にデリヘル嬢になったのでは?福島の原発は、東京へ送る電力を作っていました。自分を壊すなら、自分の人生を変えてしまった東京が、相応しいと思ったのかと想起しました。

彼女がデリヘルを続けているのは、ドライバーの三浦(高良健吾)の存在が大きいのだと思います。三浦は確かに彼女を守っていました。デリヘル嬢であるのは、みゆきの多面性を表すのではなく、守って欲しい彼女の心の現われではないでしょうか?

老夫婦からの墓の懇願に、何とか応えようと頑張る新田。一方では、卒論に福島の震災を選んだ東京の女子大生からは、デリカシーのない質問に閉口しますが、立場上怒れないのでしょう。新田の家庭も、震災で両親が変貌してしまい、彼が年の離れた弟を養育している状態。

新田が弟を慈しんでいるのは、弟に愛情を与えることで、彼がそれに応える弟から、滋養を貰っているからです。みゆきの父が、親を亡くした子に、野球を教えることで、立ち直るきっかけを掴もうとしているのも、そう。淡々とエピソードを映す画面の中、みゆきの父が、何度も何度も「母ちゃん!寒いだろう!」と泣きながら叫び、亡き妻の冬の衣服を海に投げ込むシーンには、号泣しました。父の立ち直りへの儀式なのだと思いました。

蓮沸美紗子扮する写真家は、何故震災後の人々の心を捉えたのか?彼女の両親は被災地の出身。幼い頃、彼女もこの地で思い出がたくさんあり、この土地を愛しているのです。同じ外へ向かっての発信でも、そこが東京の女子大生とは、違うのでしょう。

それに気付いた時、はたと自分を省みました。私も被災地を愛しているのかと言うと、違います。被災地を心配する気持ちは、愛情ではなく同情なのだと思い知りました。東電勤務の夫婦のエピソード、浪岡一喜の霊感商法など、この作品で起きた数々の事は、事実に則しているそうです。外にいる私たちは、言葉を発するのではなく、かの地の人々を無言で見守る。かの地の製品を買う。時々義捐金を送る。風化させない、それに尽きるのだと思います。

一筋の光が、全員に当たるラスト。彼らの歩みは、これからもゆっくりでしょう。私も震災を決して忘れないと誓いたい。みゆきは、デリヘルは止めると思います。これからは父が守ってくれるはずだから。そして、また恋をして欲しいと、強く思いました。


2017年07月17日(月) 「破門」(BSスカパー全8話)




うちはスカパーではなく、ケーブルなのですが、ちょうどチャネルNECOで全話放送で、録画して観ました。映画の「破門」を観た時、これは多分マイルドに脚色しているのだろうと検討はついていましたが、骨格やストーリーは同じでも、変更している箇所多々ありでした。結論を言うと、断然ドラマがいい!でした。

ストーリーは、映画で描かれた部分は原作の「破門」で、ドラマはその前に原作の「疫病神」が描かれています。時間の関係もあるでしょうが、映画では最初から、嫌よ嫌よも好きなうち、的な桑原と二宮の関係性でしたが、ドラマではずっと二宮が振り回されており、あくまでビジネスで繋がった関係性が強調されていました。その振り回され方が、本当に命がけ。あれは死んどっても、おかしないな。

映画のインテリやくざ風の佐々木内蔵助に対し、こちら北村一輝の桑原は、とことんイケイケで、濃いのは顔だけではない。二宮の生死がかかっていても助けに来ないし、自分の気分で二宮を堅気扱いしたり、極道扱いしたり。あー、なんのかんの言っても、所詮はやくざやわと思わせつつ、ポイントポイントで男気を見せたり、間一髪で二宮を救ったりを描き、表面の暴力性だけではない、桑原の多面性と人間味を映します。観ている者の感情は、そっくりそのまま、二宮の桑原への評価の変更となるのです。まぁその後も踏んづけられるねんけど(笑)。映画の二人が、さっさと絆めいたものを深めるのに対して、ドラマの二人は常に付かず離れず。お互い腹の探りあいをするような、ドライな感じが続きます。

決定的に違ったのは、二宮のキャラ。濱田岳が演じていますが、映画の横山祐の、ただのヘタレ、グータラとは違い、完全なギャンブル依存症。頭の中は一山儲けて、借金を返すことばっかりです。そして父親の看病中の母親に、金を貰う等、ヘタレを通り過ぎたクズっぷり。それが桑原に連れ回されるうち、金ではなく生死を賭けた「賭け」に、ひりつくような快感や高揚感を感じ始める様は、やはり極道の血(父親が極道幹部は同じ設定)なのか、それともギャンブルジャンキーのせいか?人間の持つ闇の深遠を垣間見せる二宮を、愛嬌を兼ね備えて、好かれるキャラにしたのは、一重に岳ちゃんの好演だと思います。
散々酷い目に遭わされ、あれだけ嫌っていた桑原の窮地に、「俺と桑原さんは、一蓮托生や」と決意する姿は、いよ!男前!と、大向こうから声を掛けたくなるほどです。

しかーし!岳ちゃんも大変良いのですが、何と言っても北村一輝っすよ。もうかっこいいの、なんの。映画が少々柄は悪いけど、全国で受け入れられる大阪弁だったのに対し、こちらネイティブ大阪人の北村一輝、巻き舌も滑舌良く、柄の悪さ全開(笑)。あー、これは育ったもんしか、話されへんイントネーションやわと思う箇所が、数知れず。「行くで」が「行くでぇ〜」。「なんじゃ!」が「なんじゃい!」等々。大した事もないのに、「死んでまえ」(死んでしまえ)と言ったり。他の地方の人はびっくりするでしょうけど、「死んでまえ」は、「お前はアホか」くらいの値打ちしかないフレーズでしてね、「死んでまえ」が上手く決まったシーンでは、妙なカタルシスがありました。あれ、北村一輝のアドリブと違うかなぁ。

この役は、かっこいい!しか思い浮かばない程素敵でした。どれくらい素敵かと言うと、素人を殴っても素敵に見える(笑)。まぁ小清水ですけど。ヤクザ同士の時も、回し蹴りやらスッと綺麗に右手が出て、パンチ食らわす場面も、まぁ素敵だわ〜と。北村一輝は売れっ子なので、あちこちで見かけますが、もうこれからは、平凡な二枚目なんかせず、ヤクザヤクザの合間に、変態・殺人鬼役なんか、どや?とにかくキャラは濃い方が合います。この高揚感、「仁義なき戦い」をシリーズで観ていた時にも、ありました。

このドラマがスカパー製作だったのも、昨今の世相から、この高揚感が危惧されたのでしょう。ドラマは大阪の裏カジノも出てきましたが、映画では外国のカジノ。二宮のキャラ変更も、その辺を配慮してのことでしょう。じっくり描けているので、ドラマの方が良かったですが、改めて映画も上手く処理して、まとめているなと、思いました。

ただいま「破門」ロス中です(笑)。でも大丈夫、録画なので何度でも観られるのさ。続編の「螻蛄」も作られているので、こちらも是非とも観ようと思います。


2017年07月09日(日) 「ボンジュール、アン」




この作品のヒロインを演じるダイアン・レインは、私が一番好きな作品「リトル・ロマンス」で、映画デビューを飾りました。だから、私にとって特別な女優さんなわけ。近年お母さん役や、主人公の良妻役で存在感を示す彼女の、久々の主演作なので、勇んで初日に観てきました。出来は平凡ですが、ヒロインと同年代の私くらいの人なら、あ〜、わかるわ、この気持ち・・・と、共感でき、全体に品よくまとまっている点と相まって、好感の持てる仕上がりです。監督はフランシス・フォード・コッポラ夫人の、エレノア・コッポラ。

著名な映画プロデューサー、マイケル(アレック・ボールドウィン)の妻アン(ダイアン・レイン)。多忙な夫とはすれ違いが続くも、夫婦仲は円満です。夫と共にカンヌ映画祭に来た彼女は、その後夫とのバカンスを楽しみにしていましたが、夫は仕事で、急遽ブタベストに行く事に。耳の調子の悪いアンは飛行機を止めて、先に電車でパリに行くと言いますが、マイケルの仕事仲間で友人のジャック(アルノー・ヴィアール)が、車で彼女をパリまで送ると言います。最初は固辞したアンですが、マイケルの勧めもあって、送って貰う事に。しかし人生を楽しむパリジャンのジャック、数々の寄り道でアンを「接待」。無事パリまで到着するのでしょうか?

観る前は、熟年版「フォロー・ミー」みたいなお話かと思っていました。それが至って夫婦仲は良く、アンは子育ても仕事も一段落。今までそれなりに充実していたようです。そして寂しげなミア・ファローの笑顔だけが見たくて、あちこち連れ回したトポルと違い、ジャックはアンに、気が有る様子を隠しません。人生は楽しむためにあるんだよとばかり、アンを観光に連れまわすジャック。

それがお話が進むに連れて、幸せなんだけど・・・と、アンが託つ一抹の寂しさを、自分自身で見て見ぬふりをしてきたのが、わかってきます。夫は再々電話をくれるも、結局は「薬はどこにある?」「君がいないと、靴下の合わせ方もわからないよ」。そして、妻が電話しても、留守録はいっぱいで入らない。もちろん「愛しているよ」は言いますが、アメリカ人のそれは、朝夕の挨拶みたいなもんだからね(笑)。

いやいや、「愛している」は、夫の本心です。しかしそれは、母親のように、家族としてとしての意味が強いのではないか?と、妻は感じている。だけど時々夫に戻るので(笑)、妻は円満なのだから、波風立てずにまぁいいか、とやり過ごす。なので、妻が何も言わないから、夫も妻の不満に気付かない。そして益々鈍感になり、妻がプレゼントした腕時計を、他人にあげたりしちゃう。熟年女性を扱う作品を観ると、夫とは善良であっても、世界規模で鈍感なんだなと思います。

それが、最初は不承不承だった、ジャックの寄り道のお陰で、観光地を巡り、美味しいもの食べ、道端の草花を愛で、そうよ、本当は夫とこうしてのんびり旅したかったのに、と、アンに自分を振り返らせるきっかけとなります。そのゆとりある時間は、心に豊かな感情をもたらしてくれたのでしょう。そしてガイド男性は、若い女に不自由していないようなのに、熟女の自分に思い切り気がある。もうこりゃ、気分良くないわけはない(笑)。

美味しそうなフレンチばかりで、と言いたいところですが、私はフレンチは少々苦手。ワインも飲めないので、ジャックの語る薀蓄も、アンと同じで退屈なだけ。この辺は好き好きで、楽しめる方もたくさんいるはず。フランスのあまり紹介されることのない、素朴な景色はとても素敵でした。

でも一番素敵だったのは、アンを演じるダイアンです。現在52歳、子役から出発して、浮き沈みを経験しながら、ハリウッドで堅実に今の立場を確立した彼女。40過ぎから皺が目立ち、これは整形するかも?と危惧したのですが、以降なだらかに老化。皺も女の年輪よとばかり、美貌も健在です。これは内面の充実からくるものだと思います。ファッションもシックで上質なものから、旅行に適した落ち着きのあるカジュアル、ディナーの時のドレスアップなど、お手本にしたいような物ばかりで、とても参考になりました。

相手は人妻。ちらちら誘うも、寸でのところで引き下がるジャックに、不快感はありませんでした。そして簡単に陥落しないアンにも、人妻としての誇りを感じ、この辺は、客層ターゲットと思われるアンと同世代の女性の、共感も得るでしょう。

唐突に出てくるアンの過去は、唐突さより、その内容の切なさの方に気が向き、彼女の素敵な人柄は、この事が起因して出来上がったのだなと感じました。多分彼女は、家庭の大切さを、誰よりわかっているのでしょう。

舞台はフランスなので、時々フランス語が挟まれますが、こちらには字幕なし。これは何を言っているか解る方が、お話がもっと楽しめると思います。それとジャック。演じるヴィアールは、悪くないけど、個人的にタイプじゃありません(笑)。最近お金持ち、権力者が持ち役の感があるアレック・ヴォールドウィンですが、昔は優男だったのを知る私は、今の恰幅良い彼を見ても、その残像を追いかけちゃう。夫と同じくらい素敵じゃなきゃ。ランベール・ウィルソンとか、ダメかなぁ。ジャン・ユーグ・アングラードって、今何しているのかしら?(初老も優男が好き)。

この作品は、監督の経験が元になっているとか。かつてジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンに愛された、パティ・ボイドは、インタビューの中で、「私は有名人の妻としての人生しか歩いてこなかったので、それがなくなった時、どうして生きるか途方にくれた」と語っています。それほど、妻にも重圧なる事なのでしょう。エレノアもドキュメンタリー畑の人で、フィクションでは、80歳にして今作が初めての作品だとか。挑戦を忘れない彼女は、有名人の妻でありながら、その重圧を跳ね返した人なのでしょう。

アンのチョコ好きを忘れないジャックが送った、最後の洒落たプレゼント。夫には、なかなか出来ない芸当がいっぱいだった彼ですが、個人的にはこれが白眉。ラスト思案しながら笑顔でチョコを頬張る、意味深なアン。旦那さん、頑張って下さいね(笑)。地に足つきながら、でもちょっと夢見心地な、素敵な時間を過ごせる作品です。


2017年07月05日(水) 「22年目の告白−私が殺人犯です−」




韓国の「殺人の告白」のリメイク。私は元作を観ているので、一番大事な部分を知っての鑑賞です。個人的には、泥臭くて破天荒ながら、パワー全開の「殺人の告白」の方が好きですが、この作品も、事件以外の様々な要素をぶちこみながら、端整な仕上がりになっており、上手いリメイクだと思いました。監督は入江悠。

1995年東京で連続殺人事件が起こりました。当時の担当刑事である牧村(伊藤英明)は、時効を過ぎ、悔しくてたまりません。そこへ突如、犯人を名乗る曽根崎(藤原竜也)と言う男が現れ、事件の全容を書いた本を、出版すると言います。美しい容姿の曽根崎は、一躍マスコミに持て囃され、苦々しい思いの遺族や牧村をよそに、本はベストセラーに。そこへ、真犯人を名乗る人物が、ネットに犯人しか知りえない動画をアップします。

元作の幹を上手く生かして、枝葉にオリジナリティを感じさせて、これは良かったと思います。枝葉に神戸の震災、生き残った者の葛藤、精神障害者の罪と罰など。そして、これは韓国版でもそうでしたが、殺人鬼が持て囃され、事件を書いた本がベストセラーになるのなど、許されていいのか?と言う点。これは昨年、例の少年Aの書いた著書でも耳目の集まった事柄なので、タイムリーでした。

各々の理由に結論を出さず、問いかける作りです。曖昧な感じは残りますが、ヒットを狙うならこの方が賢いかな?野村周平登場で、元作鑑賞組は、その後の筋立てがわかります。亡くした愛しい人への思いは、元作の方が情愛が濃く感じましたが、ここは国民性でしょう。決して今作の遺族たちが、冷静でいたわけでは、ありません。

伊藤英明は、「3月のライオン」(前後編とも見たのに、感想未。良かったです)の、陰影のある極悪キャラでは、常に眉間に皺を寄せ、苦みばしったいい男っぷりで、おぉ〜!とアタクシも目が輝いたもんですが、今回はいつもの伊藤英明で残念。フツーでした。この人、敵役や悪役の方が、光るかもね。「悪の経典」も良かったし。

藤原竜也は、面白い役者になったなぁと痛感しました。この人、確かに美形なんですが、童顔だし肩幅狭くて、一向に大人の男の匂いがしない。でももう、35歳なんですよね。男の匂いがしないのに、何故か妖艶で、男女どちらでも相手に出来そうです。男性の年齢不詳系かつ美形は見当たらないし、「ドリアン・グレイの肖像」的な作品でも企画されたら、私は観たいな。

こちらの犯人は、ちょっと強引な気はしますが、ぎりぎりセーフ。帰りのエレベーターで、ご夫婦と思しきカップルの男性が、「あんなん絶対動機として無理やん。全然わからんわ」と仰ると、奥様は「私はわかる気がするけどなぁ」と仰る。前者には正義感と人間の強さを信じる心を感じるし、後者は人の心を思いやる想像力と、感受性の豊かさを感じます。私は後者の方です(ワハハ!)。つーか、男性と女性の特性の違いですかね?

とまぁ、日本でリメイクした値打ちはある作品に仕上がっていましたが、韓国版を観た者としては、何となく物足りない感覚も残ります。元作がビールなら、こちらは発泡酒かな?でもうちの夫は、ビールは飲みなれた発泡酒が好きだそう。だから、好みと言うことで(笑)。


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