ケイケイの映画日記
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2016年10月30日(日) |
「手紙は憶えている」 |
久々のアトム・エゴヤン監督作品。エゴヤンは割と好きな監督さんなのですが、あんまり好きじゃない劇場での公開が続いたせいで、パスが続いていました。この作品のチラシには「ラスト5分云々」と書いてあり、これはもう、映画好きには致命的なキャッチコピーです。内容も現在ヒットメーカーになった監督のデビュー作に、酷似した部分もあります。それでも観て良かったと思えたのは、ナチス・認知症など、社会派を思わす巧みなサスペンスの中に、「記憶」の本質とは何か?と、私に想起させてくれた事です。秀作です。
認知症で老人施設に暮らす、90歳のアウシュビッツからの生還者ゼヴ(クリストファー・プラマー)。一週間前に最愛の妻が亡くなった事も忘れがちです。同じ施設に暮らすマックス(マーティン・ランドー)も同じアウシュビッツからの生還者で、ここで再会しました。まだ記憶に鮮明なマックスは、自分たちの家族を殺した看守オットー・ヴァリシュが、現在ルディ・コマンダーと名を変え、のうのうと暮らしていると言います。自分たちが生きている間に、オットー(ルディ)を殺そうと話がまとまります。マックスは記憶の途切れがちなゼヴのため、手紙に計画と記憶の詳細を書き、渡します。その手紙を持ったゼヴは、一人施設を抜け出し、四人のルディ・コマンダーの中、「本物のルディ・コマンダー」を探す旅に出ます。
ロードムービーの趣もある中、老体で認知症のゼヴは、曖昧な記憶、そして疲労から、常に肩で息をする様子など、いつ倒れるかとハラハラさせます。そして父を必死で探すゼヴの息子の痛ましい姿にも、辛い気持ちになります。
別人である三人のルディ・コマンダー。一人は元軍人、もう一人も属する人でした。二人ともアウシュヴィッツには赴任せず、当時一人は18歳、一人はまだ10歳。この年齢の差が、戦後ナチスに対しての思いに、明暗を分けます。 18歳は、軍人として行動や、当時の誤った愛国心を悔やんでおり、今はひっそりと暮らしています。
まだ社会的に思考が定まらない時に経験した10歳の子供の目に映るナチスの世界。軍服のカッコよさや、お小遣いも貰ったでしょう、派手な羽振りの良さが記憶に焼き付いていてる。その後もアイドル的にヒトラーを信奉する姿は、現在の自分の不遇をナチスを信奉する事で、発散してるのでしょう。現在の所謂ネオナチに通じるものがあると感じます。本当の事実を知らない、観ていないから、信奉出来るのです。
記憶が無くなるのは、辛い事です。でもマックスのように、体の自由が利かないのに、しっかり記憶が残る事は、凄惨な記憶のある人には、もっと辛い事のように思いました。マックスも普段は封印していたはずの、その記憶。しかし残酷な偶然が、その扉を開けてしまう。人は喜怒哀楽の記憶の積み重ねで、感情の豊かさが違ってくると聞いた事があります。記憶とは、人生を左右するものだとも感じます。
今作のプラマーの渾身の演技は、出色でした。銃で「ルディ」を脅すシーンなど、ヨタヨタした様子が普通なら滑稽に映るはずが、彼の迫真の演技は、老いの哀しさが満ちており、残り少ない生を使い切りたい執念を感じます。私はプラマーと同世代の俳優では、マックス・フォン・シドーが大好きなので、シドーだったらもっと嬉しかったかも?と観る前は思っていましたが、プラマーの俳優魂を観て、とても感銘を受けました。
私がプラマーを初めて見たのは、「サウンド・オブ・ミュージック」リバイバル時の、トラップ大佐役。当時中学生で、押し出しのきくハンサムだけど、近寄り難い威厳が少し怖く、そんなに好みの人ではありませんでした。それがマイケル・ファスベンダーを見た時、プラマーにそっくりだと感じて、あれは子供だったから、プラマーの魅力がわからなかったんだと痛感。今なら追いかけるのにね(笑)。
過去の男を追いかけ、過去から来た男に苦しめられるゼヴ。その苦しみは、老若の人に深い感慨を齎すはずの作品です。オチは予想出来るわ、と言う映画好きさんにも、お勧めです。
今頃大学生の就活ものもなぁと、パスの予定でしたが、親愛なる映画友達の方が高評価なので、観てきました。いや〜面白い!SNSに依存する若者の風潮を背景にし、ちょっとした心理的サスペンスです。青春期が過ぎ去ろうとする若者たちのホロ苦さを描きながら、万人が自分に当てはめて想起できる作品。監督は三浦大輔。
演劇に情熱を注いでいた精神分析が好きな拓人(佐藤健)。天真爛漫でバンド活動に熱中していた光太郎(菅田将輝)。地道で素直な瑞月(有村架純)。常にアンテナを張り巡らし、何事にも意識の高い理香(二階堂ふみ)。理香の同棲相手で、就活に疑問を持ちと語る隆良(岡田将生)。ルームシェアしている拓人と光太郎の部屋の上が、友人の瑞月の留学生友達だった理香の部屋な事を偶然知った彼らは、理香の部屋を就活の情報収集の拠点にします。しかし一人二人と内定が出ると、段々と心の底の感情が露わになってきます。
いや〜、怖い怖い。ホラーかと思う程、内定の出ない彼らの焦燥感が手に取るように伝わってきます。最初こそ和気藹々啞で、サークル活動の延長のようだった彼らですが、次第に手の内を見せず、表面だけ取り繕うようになっていきます。追い詰められているのですね。
就職は結婚に似ています。思う人には思われず、思わぬ人から思われて。縁遠くなると焦りだし、どんな人と結婚(どんな仕事がしたい)のか、解らなくなり、何でも(誰でも)よくなる。そして本当はそこからがスタートなのに、ゴールだと思ってしまう。そんな中、内定が出たのは、明確に目的意識を持って、就活に臨んだ者です。そして過大でも過小でもなく、正当に自分を評価して、妥協点を見出した子です。
現実の希薄な人間関係の中、ネットのSNSでの繋がりだけを、生きる縁にしている様子は、若い子ばかりじゃないでしょう。最近承認欲求と言う言葉が、良く目に付きます。誰しも愛されたいし、認めて欲しい欲求はあるはずなのに、この言葉に、私は違和感があります。自意識過剰で、人の目に映る自分ばかり気になるは、自信のなさの裏返しだと思うから。そこに「役に立ちたい」「喜ばれたい」と言う感情があれば、もっとニュートラルな心を持てるのじゃないかな?
同じ学生劇団で、拓人と一緒に演劇に情熱を注いでいた烏丸ギンジ。大学も辞め、演劇の道一筋に生きるギンジに対し、演劇は学生の時だけと、就活に励む拓人は、一見真っ当な道を選んでいるように見える。でもツイッターでギンジをフォローし、ネットで始終彼の動向を気にするのは、拓人がまだ演劇への情熱に、燃え尽きていないから。世間の評価を気にせず、演劇の道を進むギンジが、羨ましくて妬ましいのです。似たような境遇の光太郎ですが、彼は引退ライブも盛大にやり、自分の中でケジメが付いていたのでしょう。冒頭、光太郎が髪を黒に染め直す様子が出てきますが、あれは気持ちを切り替える、大事な儀式だったんだと、後から思い返しました。
この作品には、ちょっとした仕掛けがあります。それを観て私が感じた事は、「頑張れ!」でした。人は大なり小なり、この子と同じような感情を抱いた事があるはず。私はこの子を笑えない。若い時は自意識過剰だったり、根拠のない自信で、自分が大きく見えるものです。いっぱい恥をかいて、いっぱい悩んで泣いて、絶望したり這い上がったり、引き締まったり緩んだりを繰り返しながら、等身大の自分が見えてくるはず。それを大人と言うなら、彼らより30才程上の私だって、まだ修業中。しかし30年前の私と今の私は、確実に違う人間です。本当の自分が見えてくるのは、生き方を決める事に繋がるのじゃないかな?
ラストシーンは、一分間スピーチの空しさを感じます。一分間で自分の今までなんか、語れないもの。でもこの会社、内定が出たと思います。私が面接官なら、その後の話しを聞きたいもの。でも勝負は本当はここから。決まってからが本番なんだよ。それを忘れないでね。世の中の就活生たち全てに幸あらん事を、祈っています。
作家性が好きじゃない、監督は腹黒だ、とかなんとか言いながら、新作が公開されれば必ず観てしまう西川美和監督。それだけ卓抜した技量があるのは、誰もが認める人です。しかし今作は予告編からちと違い、嫌らしさがほとんどない。設定こそ特異ですが、ユーモアと暖か味のある、実にチャーミングな作品に仕上がっています。どうした?監督(笑)。ちょっと気になる箇所はありますが、私は好きな作品です。
作家の津村啓こと衣川幸夫(本木雅弘)。美容院を経営する妻夏子(深津絵里)とは結婚20年で、子供はいません。夏子は高校時代からの親友大宮ゆき(堀内敬子)と旅行に出かけるも、バスが事故に遭い、夏子は死亡。しかしその時幸夫は、編集者の知尋(黒木華)と浮気の真っ最中。葬儀の間も、一度も泣けなかった幸夫ですが、バス会社の遺族を集めた説明会で、ゆきの夫陽一(竹原ピストル)と出会います。長距離トラックの運転手である洋一は、ゆきがいなくなり、子育てに困っており、幸夫は自分が二人の子供、小6の真平(藤田健心)と5歳の灯(白鳥玉季)の子守を買ってでます。
幸夫は往年のプロ野球選手・鉄人衣笠と同姓同名(幸夫は幸男だけど)。この名前で生きて行くのは辛かったと言います。これはわかる。何で衣笠みたいな、渋い人を選んだのかと思いましたが、監督は広島出身なのを思い出す。この辺からして、今回の監督は「いい人」です。
幸夫は今年お騒がせの、ザ・ゲス男。作家と言っても、現在はヒット作には恵まれず、タレント作家としてテレビの露出の方が多し。マネージャ―(池松壮亮)もいます。才色兼備の妻・夏子は、努力家でもあり、現在は美容師として一流に。そんな妻にプライドを振りかざし、しょうもない自意識にぐるぐる巻きになる夫の幸夫。まぁ〜ちっちゃい男(笑)。憂さ晴らしが不倫ですか?妻の葬儀で、悲しむより自分の髪形を気にする様子には、怒りより先に、バカなの?と思っちゃう。もうね、「さざなみ」の夫にお怒りの奥様方、あの夫の比じゃございません事よ。
しかしこれがモックンが演じると、ユーモラスかつ、子供が駄々をこねているように感じます。全然腹が立たない。私は「少年のような男性」と言うのが苦手で、自分はそれだと思っている人は、たいがいが、そんな清々しいもんじゃありませんから。こちら幸夫は少年にもなっていない、タダの子供みたいな人。子供って何やらかすか、わからないから、観ていて面白いでしょ?幸夫はそれです。
自分が子供なので、子供たちともすぐ打ち解ける。最初は少しの妻への謝罪の意味と、作家的好奇心から世話していた幸夫ですが、途中から子守にはまりまくる。それもとても母性的な意味合いで。観ていて、あぁこの人は家庭に居場所がなかったんだなと思います。妻の存在が大きすぎて、夫として座り心地が悪かったんですね。四人での海水浴の風景など、まるで仲睦まじいゲイのカップルが子育てしているかのような、「家族」としての違和感がないです。
しかし本当は楽しいのに、余計なひと言を陽一に言った為、素直な陽一は真に受ける。結果善意の侵入者(山田真保)の登場。陽一や子供たちは、そんな事は思っていないのに、自分はもう必要ない存在だと、拗ねて悪態付いて、心にもない暴言失言を繰り出す幸夫。ホント、子供だわ。
私が観ていて唸ったのは、すぐに登場しなくなる二人の主婦が、デーンと各々の家庭に、死後も尚すごい存在感なのを描けている事です。幸夫の整っていた家は、乱雑なゴミ屋敷手前。そして弾みで観てしまった、最後に残した妻の一撃に衝撃を受ける。その後、激怒(笑)。まぁ勝手なもんです。自分は何をしても、妻は自分を愛していると信じていたんですね。
大宮家は、子育てや家事は元より、とにかく陽一が子供以上に妻を恋しがり、劇中泣きっぱなし。その様子が大の大人なのに、いじらしくて。お父さんがこんななので、上の子の真平は、自分がしっかりしなくちゃと、泣くに泣けない。そして繊細な息子の心は父には伝わらない。そして息子も、意地を張って伝えたくない。この父子、元々そりが合わなかったのだろうとは、想像に難くない。水と油だもの。二人の橋渡しを、潤滑油になっていたのが、ゆきでしょう。
この両家の風景は、とてもありふれたものです、それ故、家庭において、如何に主婦の存在が掛け替えがないかも、改めて痛感します。
今までの西川作品は、盛りだくさんの思わせぶりな描写で、あちこちで議論を沸騰させたものですが、この作品は素直に行間を読ませる作りで、訝しむ必要なく、胸にストンと落ちてきます。今までの策士的な面影は、今回に限りありません。子供たちの可愛さに、監督も優しい気持ちになったのかも?私はこの方が好きだな。
苦言は、全く両家の親が出てこない事。夏子の父は亡くなったと語られますが、その他の7人は?この人たちの親なら、推定70〜80代。遠くに住んでいる、老老介護である、もう亡くなった。幸夫しかいない状況に持って行くには、幾らでも絞れます。葬儀にも全く誰も顔を出さずに済ますのは、如何なものか?保育ママさん(託児所のようなもの)らしき存在も出てきますが、そんなマニアックなものを出すくらいなら、何故祖父母を出さないの?家庭や人生を描く時、良くも悪くも、親の存在抜きでは描けません。
いつまでも若々しくハンサムなモックン。それでいて、どこかとぼけた味わいがあるのが、彼の強みです。お蔭で近寄りがたくない。普通に演じれば、反感しか持たれない幸夫を、理解してあげたくなったのは、彼のお蔭です。子供と接する様子に、三児の父である素の本木雅弘が透けて見えたのも、微笑ましかったです。竹本ピストルは、しっかり演技しているのを、今回初めて観ました。いかつく強面ながら、最愛の妻の死に、怒り嘆き、途方にくれる姿が、とても共感を呼びます。教養も薄く、でもしっかり家族を愛しているのがわかる。この年頃の子供を置いて、妻が旅行に出るのを許すことで、どんなに優しい旦那さんかも、わかります。誰もが好きになる様な陽一を、好演しています。
デキスギ君みたいな真平を、デキスギ君の如く健心君も好演。この子、絶対伸びますよ。しっかり見守りたいな。玉季ちゃんは、ほぼ地のようなお芝居で、監督も自由にやらせたのかな、と思う程自然でした。二人とも、本当可愛かったです。
夫婦が永く暮らすと、あれは愛じゃない情なのだ、いや惰性で一緒にいるんだよ、とか、良く聞きます。そんな理屈も、昔は私も考えたりしました。でも大事なのは「別れていない」と言う事なんじゃないかな?長く暮らし過ぎて、大切だと思う感情も忘れちまった時に、突然訪れた妻の死。妻の置き土産が夫を救う姿に、あの一撃は、やっぱり戯言なんだよと、私は思うのです。
2016年10月13日(木) |
「シーモアさんと、大人のための人生入門」 |
とっても素敵な笑顔でしょう?このおじいちゃんは、ピアノ教師のシーモア・バーンスタイン。有名なピアニストでしたが、50歳の時に引退し、現在の生業はピアノ教師。俳優のイーサン・ホークは、俳優として行き詰まりを感じている時、とある夕食会で当時84歳のシーモアさんと遭遇。彼の人柄にすっかり魅了され、救われたのだとか。そんなシーモアさんの魅力を、イーサンが監督した作品。きっと自分の貰った幸せを、人々に分けたくなったんですね。
私がまず注目したのは、生徒にピアノを教えるシーモアさんの姿。厳しくも慈愛に満ちている。愛にも色々あるけれど、「慈しむ」と言う字が付くと、「育まれる」わけで。シーモアさんを、その境地にさせたのは、彼の生い立ち。
まるで音楽とは関係のない家庭に生まれ、6才の時せがんで買って貰って中古のピアノから始まり、懸命に努力し、功成り名を遂げたのに、父親からは認めて貰えず、それが彼の心に重い澱を残しています。
演奏会の時の、絶望的なまでの緊張感を語るシーモアさん。失敗すると、名声も明日の暮らしも失います。これが彼が50歳で引退した理由。名声に執着すると、自分にとって、一番の演奏が出来ないから。好きだから、楽しいから演奏していたはずなのに、大切なものを見失ってしまう訳です。
執着しない人生は、豊かで美しいと、本当はみんなわかっているけど、実はとても難しい。その事を誰が実践し、語ってくれるのか?一つ一つの金言に、言霊を響かせるシーモアさんに、イーサンが出逢ったのは、偶然ではなく、彼の魂が呼び寄せた必然ではないでしょうか?
シーモアさんの生徒たちは、プロのピアニストではなく、普通のピアノ好きに見えました。ピアノは今でも、教養の一つに数えられるお稽古事です。私はピアノを上手に弾けるのよ、と自慢するのじゃなく、ピアノを弾いていると楽しい、幸せだと思えたなら、それが教養=人生を豊かにする事なんだと、晴れ晴れとした顔で指導を受ける生徒さんたちから、感じます。
シーモアさんは言います。神は自分の中にいる。自分の中の神を信じろと。これは自分の力を信じろと言う事ですね。本当の意味で自分を愛し尊重出来る人は、必ず他者も愛せるはず。シーモアさんの笑顔を観て、そんな気がしました。
全編ほぼ出ずっぱりで、飽きさせる事無く、80分強を見せてしまうシーモアさん。本当はもうちょっと編集してもいいかと思いますが、監督のシーモアさんへの惚れっぷりを感じ、それもまた善きかなと思えます。人生の喜びって、充実した人生って、何?と、私を含む迷えるたくさんの大人に贈る、イーサン・ホークからのプレゼントの作品です。
心斎橋シネマートで、深田晃司監督の舞台挨拶付きの回を観てきました。当日舞台挨拶があるのを知らなくて、本当はポイントで観ようと思っていたのが、舞台挨拶があるのでと、窓口で却下(!)。ケチ〜、TOHOシネマズは大丈夫なんだぞ!と思いましたが、ここまで来たので仕方なし、お金を払っての鑑賞でした。しかし監督は本当に映画好きらしく、丁寧誠実な語りで、30分弱、まるでトークショーさながらで、質疑応答もあり。僭越ながらアタクシ、質問までしちゃいました。これでタダなら、身の置き所がありません。お金払って良かった(笑)。作品は最初からずっと、異様な緊張感を強いられ、フランス映画のようなサスペンスタッチ。ハネケの作品を観ているようでした。
小さな町工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)。家族は妻章江(筒井真理子)と10歳の娘・蛍(篠川桃音)。平穏な毎日に、利雄の古い友人だという八坂(浅野忠信)と言う男がやってきます。何やら訳ありの男ですが、利雄は少しの間、住み込みで雇うと言います。最初は警戒していた章江ですが、八坂が蛍にオルガンを教えたのを機に、心を許し始めます。しかしそれも束の間、鈴岡家に大きな傷跡を残し、八坂は去って行きます。その八年後、新入社員として、孝司(太賀)が、工場で働く事になります。
最初から最後まで、ものすごく画面を作り込んでいます。もう隅々。日常生活、歩く道、生活音や工場の風景。全て一つ一つの意味がビンビン伝わってきます。
朝の食卓は和食で、お味噌汁付きの、きちんとしたもの。家内工業なので、夫は昼食も家で取りますが、カレーでも焼きそばでも、インスタントではないお味噌汁がある。夫の好みなのでしょう。
これはすごく大変ですよ。うちも結婚して15年くらい、昼食取りに夫が毎日帰宅していましたが、もう本当に何も出来ない。午前中に家事やスーパーでの買い物を終えると、すぐに昼食を作り、片づけをして、少し一服すると、今度は夕方前から、次々子供が学校から帰ってくるので、長時間は家を空けられません。パートもお昼ご飯を作れる距離、子供にお帰りと迎えてやれる時間を探しました。正に籠の鳥。私が映画に行けるようになったのも、夫が遠くに転職し、お弁当を作って渡すようになってからです。あのままだったら、私は今の私じゃないな。干からびてミイラみたいか、大げさではなく、発狂していたかも知れません(もちろん、それで幸せな人もいますよ)。
章江は事務も手伝っており、仕事は夫婦だけでしています。重い空気、閉塞感が覆う家庭。しかし、その重さに、二人とも気づかぬふりをしています。章江が唯一息を抜けるのは、生まれた時から信仰している、プロテスタントの教会に通う事です。娘と二人、食事の前にお祈りしているのに、そそくさと先に食事する夫。妻の信仰を認めてはいるのでしょうが、無神経過ぎる。これでは、妻は夫に気を使うでしょう。初めは自分の勝手で申し訳なく思う感情も、その内不満になるものです。
そんな時現れた八坂。私なら相談なしに勝手に決める夫に、もっと抗議したと思います。しかし困惑しながら受け入れる章江。主従的な関係が以前からあったのがわかります。そこには信仰に対しての遠慮もあったと思います。
夫が仕事だけして、育児にはノータッチなのに対し、八坂は蛍にオルガンを教え、プロテスタントにも理解を示し、自分の使った食器まで洗う。次第に八坂の誠実さに好感を抱く章江。。章江の利雄に対する不満な部分を、全部カバーしている。あぁ危険だなと思う。何故なら私には八坂は、それでも得体が知れず、不気味な男に映ったからです。私は浅野忠信が苦手なんですが、それはこの暗い不気味さなんだと、改めて確認しました。これは浅野の演技は元より、監督の不穏さを持続させる演出が、冴えていたからだと思います。
そして突然、鈴岡家に取り返しの付かない傷跡を残し、八坂が去った八年後。全く変わらないどころか、少し身ぎれいになった夫に対して、とんでもなく老け込んだ妻。何て鈍感な男だろうと、私は腹立たしく思いました。それが、利雄の告白で、何故彼が若返ったかのかを知ります。八坂が残した傷跡のお蔭で、心が軽くなったのですね。孝司の存在により露わになった、夫婦それぞれの八坂に纏わる罪と罰。利雄は利雄で、一生罰は背負って行こうと思っているのです。
真逆の反応をする章江。信仰しているはずの彼女の方が、納得しない。この矛盾も、とても理解出来ます。私は章江と同感です。
筒井真理子が素晴らしい。良い女優さんだと認識はしていましたが、美しく楚々とした8年前は、フランス女優のような絵画的な優美さの中、章江の憂いを的確に表現。そして8年後。何でも監督と話して、三週間で13キロ太ったのだとか。髪形こそ変えていましたが、老けメイクらしきものはありません。なのにこの8年間の章江の苦悩まで透けて見える様子に、驚嘆し、感嘆しました。監督によると、筒井真理子ありきで作った作品だとか。その責は十二分に果たせたと思います。その他、演技陣全てが、日常生活に包まれた不穏を表現し、素晴らしい好演でした。
オルガンの意味、象徴的な色使い、罪と罰の認識、その他舞台挨拶で伺った監督の狙いは、ほぼ受け取れました。それって作り手と観客の至高の幸せですよね。
「ラストは、私はあの夫婦は別れないと思いましたが、監督として明確な答えはありますか?それとも観客に委ねていますか?」との私の質問に、即答で「観客に委ねています」と返答していただきました。たった2時間で、人の人生の答えは出せないという事です。これを、人生を考える時間を与えて貰ったと思うか、委ねるのは作り手の手抜きだと思うか、そこがこの作品を観るか辞めるかの分岐だと思います。私は前者なので、観て良かったです。
八坂で始まり、孝司で完結する鈴岡家。私が別れないと思ったのは、誰にも、連れ合いにさえ知られたくない、自分の罪と向き合った時こそ、人生の淵に立った時だと思ったから。どんな結果になろうとも、一人では辛すぎるこの重さを支え合うのは、夫婦しかありません。そして孝司。彼は夫婦にとって、悪魔か天使か?私は恵まれない生い立ちに負けない強さを持った、孝司が好きです。孝司を天使だったと思える為にも、利雄と章江には、是非これからも人生を共に歩いて欲しいと思います。
2016年10月07日(金) |
「 SCOOP! 」 |
今年一番グッと来た作品。同じ大根仁監督の「バクマン。」を去年の邦画NO・1に選んだのも、グッと来たから。この作品も、多分私の今年の邦画NO・1です。
かつては凄腕の報道カメラマンとして名を馳せた都城静(福山雅治)ですが、現在はしがないパパラッチ。雑誌「scoop」の副編集長定子(吉田羊)に頼まれ、仕方なしに新人記者の野火(二階堂ふみ)と組むことに。最初は衝突ばかりしていた二人ですが、やがて息の合った仕事ぶりを見せ始め、スクープを次々ものにしていきます。そんな意気軒昂のさなか、拘留中の連続殺人犯の現在の様子を撮れと言われ・・・。
「バクマン。」が青春の熱気なら、こちらはその後の人生を折り返した者たちの、思秋期です。喧騒と猥雑の中、次々と有名人の不倫や御乱交場面を押さえて行く場面が、とっても面白い。いや〜、本当にあんなのですかね?大げさじゃなく、命懸け。ユーモアを交えた、下世話な馳走感たっぷりです。その猥雑さの隙間に、思秋期の心模様が見えてくる。
劇中では理由は語られませんが、静は友人で情報元のチャラ源(リリー・フランキー)に重い借りがある。チャラ源は現在落ちぶれて、絶賛シャブ中進行中。チャラ源は、多分ボクサー崩れ。落ちぶれたのは、その借りが原因なのでしょう。なのにちっとも静を恨まない。妻がチャラ源を見捨てた時、静はどうすればいいのか?これが男と女なら、一緒に堕ちて行くのも幸せかもしれないけど、男同士なら、惨めなだけです。
その代り、静は華々しい表舞台から身を引いて、どぶねずみかゴキブリ(by静)の、パパラッチに身を投じたんだと思いました。辛うじて職を得ているのは、チャラ源が這い上がりたくなった時、手伝いたかったからじゃないかなぁ。「静ちゃん、俺が嫌になったなら、いつでも切ってくれていいんだよ」。そんな事を言う友を、誰が切れるものか。その言葉の裏は、俺の事、見捨てないで、だもの。
現在副編集長として、次期編集長を争って、火花を散らす定子(吉田羊)と馬場(滝藤憲一)。現在は下世話な芸能ネタとグラビアヌード担当ですが、彼らも元は報道記者。何度も賞を取ったのに、二人とも「忘れた」「覚えていない」と言う。自分の現在の立ち位置を、良しとしていないのでしょう。雑誌のコンセプトが方向転換されたためで、彼らには、サラリーマンの悲哀が滲みます。
そんな酸いも甘いも噛み分けた彼らが、手塩にかけて(多分)育てるのが野火。当初「この仕事、マジサイテーですね」とふてくされていたのが、スクープ連発して、ある日を境に、「この仕事、最高ですね!」と、満面の笑みを浮かべる。このシーン、私も笑顔になりました。野火の体中から、アドレナリンが吹き上がっている。静は段々記者らしくなる野火が、嬉しかったんですね。
私は年が行こうが、若い人の引き立て役や、枯れ木も山の賑わい扱いされる事はないと思っています。でも若い人に道を譲ったり、花を持たせる事は必要だと思う。野火にスクープを譲る静。女として一歩引いた定子。人はこうやって、親以外の人から育てられるのですね。そして一人前になっていく。野火は幸せ者です。
馬場が泣き笑いしながら、自分の童貞喪失の時、静に酷い目に合わされたか、面白おかしく話すとき、実は私も号泣しました。何故なら馬場が、如何に静を慕い、好きなのかが伝わってきたから。それはもう一度静に浮かび上がって欲しいと思っている、定子も同じ。常にやさぐれて、風俗の話しばっかりして、野火をスパルタで育てる様子はサディストみたいなのに、みんなに愛され慕われていた静。直接や台詞で描かないで、静の人隣を浮かび上がらせた監督の手腕は、素晴らしいです。
そんな静の人間味に説得力を持たせたのは、監督の力量と同等くらいに、福山雅治の好演だと思います。何だか演技が下手だとか言っている感想が目につきますが、私はすごく良かったと思う。あの設定で、薄汚さを感じさせなかったのは、彼が演じたからだと思います。
「そして父になる」と比べてどうのこうの、全く意味がないわ。全然タイプの違う作品だもの。少なくとも私は、こちらの作品・福山雅治の方が断然好きです。「そして父になる」の役名なんか、とうに忘れたけど、都城静は、私はきっと一生忘れない。
癖の強い役が多いふみちゃんですが、今回は真っ直ぐ普通の女の子も好演。強気な鉄の女的な仕事ぶりと、静への思いを見せる女心との落差を上手に演じた吉田羊も、今までの彼女で、私は一番好きです。リリーはあっと驚く怪演で、哀愁も感じさせます。でも一番の脇は、私は滝藤憲一でした。最初は敵役っぽく登場したのに、最後の方にはまるで違う人に感じました。記者の哀歓を、一番感じたキャラです。
終盤、まさかの展開で、本当に驚愕しました。静と野火の行く末に、う〜ん、そう来るかと、少し甘いなと思っていたら、その後の展開への布石でした。この作品は、原田真人監督の「盗写 1/250秒」を元に作られたそうです。元作もそうだったのかもですが、幾らでも変更できるし、この潔い展開は色んな意味を含めながら、深い余韻も残し、私は成功だったと思います。
とってもとっても好きな作品です。大根監督は、「モテキ」をCSで観て、あっ、面白いじゃんと感じ、勇んで観にいった「愛の渦」では、イマイチぴんとこず、「バクマン。」で大ホームラン。あぁ私も野球で表現しちゃった(笑)。この作品、多分設定や感覚はは古いのです。野火の台詞は、それを揶揄していたのでしょう。大根監督が作ったのじゃなかったら、私も野火のように文句言っていたかもしれません。大根監督の作品は、一生観ようと誓った作品。
2016年10月05日(水) |
「ハドソン川の奇跡」 |
この作品の公開を聞いた時、え〜?,夜のバラエティで外国人出演の再現ドラマみたいじゃんと、全然乗り気ではありませんでした。でも監督がクリント・イーストウッドなので、仕方なく鑑賞。乗り気ではないけど、観ればイーストウッドだもん、感動するんだろうなぁと思って臨みましたが、しっかり泣いてきました(笑)。
2009年1月15日。サリー(トム・ハンクス)が機長を務める155名を乗せた飛行機が、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立ちます。しかし直後、鳥が飛行機に飛び込んできて、エンジントラブルに見舞われます。離陸した空港か、近くの空港に着陸しようと考えたサリーですが、時間的に無理と判断。ハドソン川に不時着水、そして全員救出と言う離れ業を演じます。しかし副機長のジョン(アーロン・エッカート)と共に、事故調査委員会で、ラガーディア空港に無事戻れる時間があったはずだと追及され、自分の判断は本当に正しかったのか、葛藤が始まります。
私はこのお話、全然記憶にないので、最後までハラハラしました。不時着水するまでのアクシデントは、臨場感たっぷり。CAさんたちが、何度も「座って下さい、屈んで下さい」と、絶叫するのではなく、冷静に繰り返し連呼する様子が印象的。多分こういった場合の訓練はしているでしょうが、いざ実際なると、乗務員だってパニックになるはず。三人のCAは全て50代に見えました。ベテランだったのも、良かったのでしょう。あれなら乗客が比較的落ち着いていたのも、納得です。
「アルコールは飲んでいないか?」と、委員会の人が聞いた時、「フライト」を思い出しました。そうか、世間では英雄扱いでも、まずは機長の判断ミスを疑うんだなと感じます。そしてサリーの判断を疑う事柄を、羅列してきます。
サリー本人も、あの判断は正しかったのかと、ずっと苛まれます。世間の体感と本人との乖離。もしサリーの判断が間違っていると決定されれば、彼は過失を問われ失職。老後のプランも無くなります。最初は夫が無事だった事だけに安堵していた妻(ローラ・リニー)ですが、マスコミに追いかけられる事と、生活の先行きの不安で疲弊していきます。本来なら、今までの人生全てを失ってしまいかも知れない夫を、支えるべきはずの妻。しかし自分の不安を、夫に訴えてしまいます。
これ、本当に同じ立場としてわかります。誰か他の人に言えばと思うかも知れませんが、何の解決にもならないです。今こういう事を言うのは、夫に対して申し訳ないとは、妻もわかっているはず。それでも言わずにいられない相手として、夫を選んだのは、きっと今まで、本当に信頼し合ってきた夫婦なんだと思いました。私は妻のこの率直さも、サリーを奮起させたと思います。
もう一つ、乗務員たち、取り分けジェフが最後まで自分の味方であった事は、とても心強いことだったでしょう。サリーは自分の保身もあったでしょうが、自分を信じて、ついてきてくれた人々(乗客も含む)に、顔向けできない結果はあってはならない。そういう信念が芽生えた事が、葛藤を上回ったのだと思います。
乗客が海洋警備隊やその他で、ニューヨークが一丸となって救われる様子は、本当に感激しました。そして歓喜する人々を見るのも嬉しい。イーストウッドの演出は過剰さはないのに、心に滋養を与えてくれます。
公聴会で、事故調査委員会の隙を突くサリー。どんなに優秀なプロファイリング、シミュレーションとて、実戦で得たの咄嗟の判断や機転には叶わないと立証します。実際の公聴会での出来事なんでしょうが、この展開には、私も日頃そう感じていたのよと、溜飲を下げた観客も多いと思います(もちろん私も)。
「あなたが生きて元気なら、それでいい」と、落ち着きを取り戻し、夫に電話する妻。ちゃんと自分の気持ちを聞いて貰った後なので、心からの言葉です。エンディングに実在の関係者が登場するのですが、サリーの奥さんは、リニーが演じた通りの、素直で繊細な感じの素敵な方でした。実話で登場人物は全員存命なので、監督も気を使ったでしょうが、美談だけに終わらず、心のひだまで描きながらも、この好感度。流石はイーストウッド。これだけの事を盛り込んで、周知の事実を描いて感動させて、96分です(笑)。
私が現存する世界中の監督で、一番の人はイーストウッドだと言うと、それほど映画を観ない人は、訝しげな顔をしたり、酷い場合はせせら笑う人もある始末。やっぱり俳優としてのイメージが強いんでしょうけど、映画監督の認識って、世間ではそんなもんなのかなぁと、ちと残念です。
2016年10月03日(月) |
「ある天文学者の恋文」 |
実はジェレミー・アイアンズが好きです。でも颯爽とした彼じゃなく、女に溺れて堕ちて行く男を演じる彼が好き(笑)。「ダメージ」「戦慄の絆」「M・バタフライ」(←男だけど)とかね。なので、死んでからも若い娘に付きまとう爺さんの役とは何て素敵なと、かなり歪んだ期待で観に行きました(笑)。不倫関係なんでね、まぁいけしゃあしゃあとと、シラケる気分にはなりますが、私の期待は叶えられたので、まぁいいでしょう。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。
著名な天文学者のエド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子のエイミー(オリガ・キュリレンコ)は、不倫関係にあります。逢瀬の日々は少なく、頻繁にメールとネットで連絡し合う二人。しかし、エドからの返信がなく、心配していたおり、エイミーは彼の急死を知ります。悲しみに暮れるエイミー。しかし不思議な事に、死んだはずのエドから、メールや手紙、DVDがエイミーの元に届きます。真相を知りたいエイミーは、彼との思い出の場所へ繰り出します。
まず冒頭、乳繰り合うアイアンズとオリガの姿に、これだけで観に来て良かったと思う私(笑)。とってもハンサムでエレガントなアイアンズですが、年齢には勝てず、最近こんなシーンはご無沙汰だもん。セックスではなく、服も着てキスだけで、これくらいエロチックで濃密な空間を醸し出すとは、流石です。
不思議なメールや手紙の謎は、だいたい予測通り。ミステリー的面白さはないです。エイミーの真相究明の旅は、エディンバラや風光明媚なイタリアの島など映し、それぞれ美しい。そして道案内のようなオリガが超絶魅力的です。私はオリガの事、余り綺麗だと言う認識がなかったんですが、この作品では飛び切りの美しさ。キャサリン・ゼタ・ジョーンズを若くした容姿で、キャサリンからゴージャスさを抜き、清楚で憂いを足した感じです。
アルバイトにスタントウーマンをしているので、普段もカジュアルな装いなのですが、これが手足が長くモデルかと言うくらい、スタイル抜群。思い切りよくヌードも見せています。最近はアクションが多いみたいですが、何かもったいないわ。私のような邪な期待でない向きも、彼女を観ているだけで、元は取れます。
ストーリーの方は、「父が一番愛していたのはあなた(by娘)」「この島へは、教授はあなたしか連れて来なかった」と、まるで未亡人扱いで大歓迎の島の人々の光景等々、如何に二人が愛し合っていたかと朗々と語る画面は、トルナトーレの演出よろしく、甘美な切なさを盛り上げます。が!如何せん不倫。こちとら結婚生活30年以上の人妻なんでな、当然気分はよろしくない。そして如何に演出が上手くとも、絶対的に脚本が陳腐で古臭い。エイミーの秘密を匂わせるような宣伝も、年の差不倫に説得力を持たせたいだけで、大した事はありません。そしてラスト近く、娘があの場所に来るなんて、蛇足もいいところです。
常識人のエドの親友は、エドを断罪します。これはあんまり陳腐な脚本なんで、申し訳程度のお詫びでしょう(笑)。娘に上記の台詞を言わして、「父は私よりあなたを愛した。私はあなたに嫉妬した」(ちなみに娘はエイミーと同じ年)なんて言わせりゃ、この父親、人として終わってるわ。老いらくの不倫に呆けてしまい、死んでからも若い愛人が自分を忘れないように、愛を装って呪縛しているわけです。多分地獄行きよね。でもいいの、私はそんなジェレミー・アイアンズが観たかったから、満足です(笑)。
素では老いが隠せないからか、アイアンズの登場シーンは、ほとんどパソコン画面。だから渋さを湛えたハンサムのまんま(笑)。私は内容そっちのけで盛り上がっていました。主演二人のファンなら、満足できる作品です。
2016年10月02日(日) |
「レッドタートル ある島の物語」 |
何度も寝そうになりました。いやいや、つまらないのではなく、画面を観ていると心地よくて。ジプリ作品ですが、監督は「岸辺のふたり」のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。
海で嵐に遭い、無人島に辿り着いた男。筏を作り、何度も島から脱出しようとしますが、不思議な力で、何度も失敗します。失意の底の男の前に、一人の女が現れます。
この作品、セリフはありませんが、声や音楽はあります。まず感嘆したのは、男の役のアフレコの人が上手い。叫び・慟哭・嗚咽・溜息。アニメの表情以上の感情を吹込んでいます。
女は亀(レッドタートル)の精であるのは、作品中描かれます。私は「鶴の恩返し」的な内容なのかと想像していましたが、近いのは「人魚姫」でした。 男性の作った筏を転覆させていたのは「彼女」。遠くからずっと男を見つめていたのかな?この島に居て欲しかったのだと思いました。
作品を観ていると、彼女の気持ちが私にも理解出来ました。幻聴は弦楽器のカルテット、失敗させているのが「亀」だとわかると激昂し、甚振ってしまいますが、その事を後悔し、看病する。生まれたままの姿の「女」を慮って、貴重な自分のワイシャツを提供する、等々とても思いやりがある、品の良い紳士ぶりです。私も段々彼が好きになっていきます。
やがて子供が生まれ、自然の災害に見舞われながらも、愛情に育まれた家庭を築く三人。やがて成人が近づいた息子は、一人大海に旅立ちます。この風景は、坂東真砂子の「山妣」の中で、人里離れた山奥で、生まれた時から母と二人だけで暮らす娘が、その閉塞感が嫌で嫌で飛び出した光景とはだいぶ異なり、両親の愛情を一身に受けた子供が、今以上の成長を望むなら、旅立たせる以外にないのだな、と感じました。それは無人島であれ、私たちの住む街であれ、変わりはないのですね。
その時、あっと思ったのが、息子が海を渡ると言う事は、男も若ければそう出来たはず。息子が亀の精の血を受けついでいるから大丈夫なの?そうじゃなくて、男は女との一生を選んだんだなと思いました。幸せとは、どこに転がっているか、わからないのだなぁ。息子のいない寂しさをじっと耐える女を、後ろから優しく抱きしめる男。「夫婦」でしか分ち合えない感情。切なさと幸福が共存する姿。叙情的なシーンがたくさんある作品ですが、私はこのシーンが一番好きです。
作り込まれたCGではなく、色も水彩画の如く淡々。過剰なものはない、しかし繊細に描きこまれた風景や人物は、人生の意味や意義を、この作品の深海の如く、美しく深く想起させてくれました。一人の人を幸せにする、それだけで充分豊かで美しい人生じゃないかしら?
ラストは、あぁ女の一生だなぁと、ため息でした。彼女は男以外の人間を愛する事は、もうないと思う。
観た直後より、段々と自分の中で熟成するような作品です。
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