ケイケイの映画日記
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2013年11月28日(木) 「マラヴィータ」




普通の出来でしたが、面白かったです。筋や内容を掘り下げるのではなく、かつての自分の役柄をセルフパロディしているような、役者たちのキャラや演技を楽しむ作品。そう言った意味では文句ありません。監督はリュック・ベッソン。

かつてマフィアのボスだったフレッド(ロバート・デ・ニーロ)。FBIの承認保護プログラムにより、妻マギー(ミシェル・ファイファー)、娘ベル(ダイアナ・アグロン)、息子ウォレン(ジョン・ディレオ)を伴い、世界各地を転々としています。彼らの警護をするFBIのスタンフォード(トミー・リー・ジョーンズ)は、地域に溶け込めと言いますが、彼らには至難の業のようで・・・。

癪に触るとすぐキレるのはフレッドだけではなく、マギーもベルも一緒。気に入らない奴は、ぼっこぼこです。ただ一人冷静沈着なウォレンは、暴力には訴えませんが、学校をくまなくリサーチ。すぐに影で牛耳るようになります。この暴力や裏稼業でのスキルの高さには、血は争えないと共に、環境も影響しているのも含まれているのでしょう。面白おかしく、上手く描いています。

どうという事のない中に、文化の違いを描くのも上手い。料理でそれが出ていました。フランス料理に、大雑把な料理やジャンクフードしか浮かばないアメリカ人が、一家言あるなんて〜と思っていたら、彼らはイタリア系。そう、マフィアつったら、イタリア系(笑)。護衛のFBIさん二人もイタリア系らしく、内緒でマギーの手料理を頬張る姿が微笑ましい。垣根を超えて親しい友人みたい。

バッタバッタ人が死んで行きますが、全然残忍じゃありません。ブラックユーモアを狙っているのか?巻添え食って、あの人この人死にますが、あれはどうかなぁ。私は告解の後の神父の様子と、上に書いた護衛のFBIの扱いには、ちょっと異議あり。前者は捻りが欲しいし、後者は工夫が欲しいところ。コメディタッチが、一気に冷めましたから。

余裕綽々で演じるデ・ニーロとファイファーが素敵。コミカルな演技が抜群に上手い。デ・ニーロはボサボサ頭で髭も白髪が混じっているのに、若々しくて現役の男性感と貫禄が充満。だから今の逃亡生活が、余計に哀愁に満ちて感じます。ファイファーも、初登場シーンこそ目はくぼみ、口元には皺がよりで、老けたなぁと哀しかったですが、徐々に本来のゴージャスさを年齢相応に感じさせて、素敵でした。そういえば彼女も「スカーフェイス」で、パチーノの愛人でしたね。

アグロンは17歳の役柄にしては、少々色っぽ過ぎますが、潤んだ目も美しく、暴力場面の彼女と、きちんと演じ分けできています。ディレオは、私は懐かしの「青い体験」のアレッサンドロ・モモに似ていると思うんだけど。似てない?だからイタリア系を上手く演じていたと言うことでOK?はしゃぐフレッド一家を引き締めるのは、トミー・リー。相変わらずユーモアの欠片もなく、苦虫噛み潰したような顔が、リアルFBIを感じさせて安定しています。


マフィアはファミリーと称されますが、仲違いすればこんなもん。それに比べりゃ、「本物のファミリー」の底力はどんなもんだい!と言う感じですかね?
どんなに大変でも、このパパなら付いて行きたくなりますって。そんな素敵な、デ・ニーロを楽しむ作品。


2013年11月22日(金) 「ペコロスの母に会いに行く」




主演のみつえ婆ちゃんを演じる赤木春恵が、畳の上で使う座高の低い椅子に座る姿が映った瞬間、私は心の中で「おばあちゃん(姑)!」と、叫んでいました。高齢になると膝が痛み、正座が出来なくなるので、多くのお年寄りは、畳で使用する、この手の椅子に座るのです。84歳で亡くなった姑の定位置は仏壇の横。赤木春恵と姑は全然似ていないし、お陰さまで老化はあっても、姑は認知症の兆候は、亡くなるまでありませんでした。でもあの椅子に座る姿は、私のお義母さんなのです。こうなるともういけない。あの姿、この姿と姑と重なり、55歳で亡くなった私の母まで脳裏を掠める始末。認知症を扱ってもカラッとしていてコメディ仕立てなのに、最初の方から終わりまで、泣きっぱなし、そして笑いっぱなしでした。多分私の今年の邦画NO・1の作品。監督は森崎東。

バツイチのサラリーマン兼漫画家兼歌手のゆういち(岩松了)。父親(加瀬亮)亡き後、認知症の状態が良くない実母みつえ(赤木春恵)の面倒をみるため、息子のまさき(大和田健介)を伴い、東京から生まれ育った長崎に帰ってきました。母の症状は次第に進み、ケアマネと相談した結果、みつえをグループホームに入居させる事に。息子として不甲斐ない気持ちを託ちながら、再々ホームを訪れるゆういち。そんな事はつゆぞ知らぬみつえは、過去と現在を行ったり来たりしています。

実母が老いる前の55歳で亡くなり、舅は67歳で脳梗塞を患い障害を負いますが、認知症の兆候はなく74歳で亡くなり、実父は86歳で健在ですが、これが娘の私より頭が冴えてんじゃないか?と言う可愛くない爺さんで、現在昔のお妾さんに面倒をみてもらっていて、電話くらいでほとんど会う機会がありません。私が一番身近に親の老いを感じたのは、近くに住み、再々交流のあった姑でした。

あのシーンこのシーン、どれもが微妙に違うのに、思い起こすのは姑との出来事ばかり。60過ぎた息子の帰りを外で待つみつえに、「危ないけん!」とゆういちが言うと、「ごめんね、怒っとる?」と聞くみつえ。「怒っとりゃせんよ」と言いながら、母の手を握り抱きかかえるように家に向かう息子。舅の葬儀の時、あれやこれや口出しする外野に、堪らなくなった姑は泣き出しました。その時私の夫は、ゆういちと同じように母親の肩を抱きながら、「お母ちゃんは何も心配せんでええで。兄ちゃんと俺がついてるからな!」。あの時の夫は、本当にカッコ良かったなぁ。

過去と現在が混濁するみつえは、しきりに「お父さん、お父さん」と言います。私は幸せな夫婦生活だったのだなぁと思っていたら、何とお父さんは酒乱で給料日には全て酒代に消えるような人。殴られる場面やら、依存症傾向から、神経を病んでいる場面まで出てきます。しかし空振りばかりでも、一人息子のゆういちを心から思う回想場面、そして家族を愛した晩年が語られて、みつえは苦労はたっくさんしても、不幸ではなかったのだなぁと思いました。こんな過去があったのにと、その後夫を受け入れ、恋しがるみつえに、心底感動しました。

しかし苦労の波に押しやられ、自分は不幸だと思う瞬間は誰にでもあります。夜中の防波堤に立ちすくむ、若きみつえ(原田貴和子)と幼いゆういち。この瞬間は幼い私にもありました。二歳前くらいだった妹をねんねこでおぶった母は、私の手を引き、夜の道を当て所なく歩いていました。どこに行くのか、怖くて聞けない私。姑にも同じ事があり、幼い義兄の手を引き、赤ちゃんの夫を背負い、夜の線路脇をとぼとぼ何時間も歩いたと言うのです。「お母ちゃん、あの時死ぬつもりやったと思うんや」と、義兄は言います。

みつえが思い留まった理由は、強い運命の糸を感じる出来事です。私の場合は、まだ口の回らない妹の「お母ちゃん、おうち帰ろう」でした。姑も二人の息子だったと思うのです。慟哭するみつえの姿は、私の二人の母でもありました。人はこうして、何か奇跡的な事や、愛情という名の血のしがらみにより、踏ん張ったり救われたりするのです。

もしみつえが夫を許さなかったら?こんなにも息子に手厚く介護してもらえただろうか?と、感じます。この感情は、母と息子が共有しているはず。ゆういちが何故離婚して東京から帰ってきたのか、理由は語られません。もしかしたら、みつえの介護が原因じゃないかと思いました。私は身近に何人も、定年後の御主人が自分の親の介護をするため、実家にも戻っているのを知っています。妻は伴わず。私の友人知人たちは、皆離婚ではなく、別居です。自分の親は自分で介護すると言うことでしょう。こういったケースは、人生の終盤が根底から覆されることですから、軋轢があって当たり前。新聞に同様のケースが紹介されていて、「苦労して育ててくれた親の晩年は、心配事がないよう送らせたい。快く送り出してくれた妻に感謝している」と、書かれていました。

ずっと思い出に浸りながら観ていた私ですが、老後の観念を根底から覆される出来事が目の前に。ゆういちはだいぶ認知の進んだ母を連れて、祭りに行こうと計画します。案の定右往左往する息子たち。この姿は、幼い子供たちを連れて、あちこち出かけていた私たち夫婦じゃないですか。子供が喜ぶだろう、その笑顔が観たい一心でしたが、子供全員が成人した今、その時の事を懐かしく楽しく話すのは、夫と私だけです。子供は親から必ず自立するもの。その時寂しくないように、あれは子供のためではなく、私たちが子供との思い出作りに、いそいそ出かけていたのだなぁと、今思うのです。

今度は子供が親に同じようにする。親孝行したいと想う気持ちは、遠からず死にゆく親との思い出を作りたいから。その準備なのだと、ゆういちを観てはっきりと感じました。「母ちゃん、ありがとう!忘れてよかけん、いつまでも元気で!」。この温かい言葉の底には、切ない切ない息子の心情が溢れているのだと思うと、またもう泣けて。

祭りでひとり残されたみつえが、いつの間にかいなくなり、大騒動に。実は姑生前の時、温泉に連れて行って欲しいと言われ、二つ返事で連れていった夫と私。姑の体と髪を洗い、今度は自分と、「おばあちゃん、湯船のへりに座っといて。滑ると危ないから、そこで待っといてね」と言い、急いで体を洗いシャンプーしていると、嫌な予感が。後ろを振り返ると、姑おらず!足元もおぼつかない姑、滑って骨折したら大変やん!と、真っ青になって探し回ったら、何と露天風呂でほっこりしています(笑)。無事で良かったとへなへなとしている私に、姑は「あんた、頭泡だらけやで」とニコニコ。「ほんま、自分の母親やったら、怒鳴り散らすとこやけど、姑やから怒ることもでけへん」とブチブチ兄嫁と義妹に愚痴ると、二人は口々に「ごめんな」「ありがとう」と言いつつ大笑い。

しかし今思えば、姑が長生きしてくれたお蔭で思い出がいっぱい。次男の嫁で別居の私が、疎遠になっても仕方無い夫の実家で、しっかり居場所を作り、夫の兄弟たちと仲良くしているのは、姑のお陰なのです。私は親の世話をしている、親孝行していると思っていましたが、それは自分のためだったのだなぁと、この作品を観て、しみじみ思いました。

ひとり桟橋に佇むみつえは、また過去と現在を行ったり来たりしています。長い人生、様々な人々との出会いと別れがあったはず。全ての人と許し許されするのは難しい。しかし認知症の彼女は、軽々思いで深い全ての人々と恩讐を超えて仲良くしているのです。「認知症も悪いことばかりじゃない」との、ゆういちの言葉が深々胸にしみます。

私の年齢になると、友人たちとの話題は健康と老後。私を含む全員、子供には迷惑をかけたくないと思っています。でも手のかかる実母の世話をして、私は不幸だったのか?苦労はとってもしたけど、その後私は確実に一回り大きくなっていたはず。そしてこの作品を観て、溢れ出る私の姑への思いは、とても尊いと自分で思うのです。この作品を観て、息子たちには、ちょっとくらい迷惑をかけようと思い直しました。私が死んでも、息子たちが心残りなく、寂しくないように。この尊い思いを息子たちにも味わってもらうべく、長生きしようと思います。




2013年11月17日(日) 「悪の法則」




監督がリドリー・スコット、出演が今をときめくマイケル・ファスベンダーを筆頭に、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、キャメロン・ディアス、ブラッド・ピットと、錚々たる顔ぶれ。期待しないって方が無理でしょう?それがあなた、びっくりするほど、つまんないの(笑)。ツッコミ、説明不足、描き込み不足満載の作品。今回も寝落ちしそうになりました。あぁ!

ある有能な弁護士(マイケル・ファスベンダー)。美しい婚約者ローラ(ペネロペ・クルス)との新生活が待っています。新生活のため、ふとした出来心から、実業家のライナー(ハビエル・バルデム)と手を組み、闇のビジネスに手を出し、裏社会に通じるウェストリー(ブラッド・ピット)を紹介され、麻薬の密売に加担する事に。全て上手く事が運ぶはずだったのが、弁護士が国選で弁護した女性からの頼みを聞き入れた事から、事態は思わぬ方向に。それにはライナーの愛人マルキナ(キャメロン・ディアス)が噛んでいました。

だいたいどうしてマルキナが、影で糸を引くのかわからんのだよ。彼女はダンサー上がりで天涯孤独。子供の頃親に殺されそうになったとは、台詞でわかります。ビッチで危険な女だけど、男心を惹きつけてやまない、媚薬をふりまくような女性というのも、キャメやんの好演で、これも納得。だけど、何故愛人であるライナーを始め、顔見知りの何人もの命に関わる大それた事をするのか、全く不明。途中で神父に告解する場面があったけど、あれになんか意味があるのか?それとも「ワタシ、オカネダイスキヨ」のラスト?それでも不明だよ〜。

とにかく前半お話が動かないのが痛恨。哲学めいた会話を散りばめたり、マイケル×ペネロペのベッドシーン、キャメやんの車とのファックシーン(笑えますよ)とか、ちょこちょこエロっぽしシーンも折り込んでいますが、うーん、どれも中途半端。暴力シーンや死体処理の猟奇性、変態指数も中途半端。せっかくR15なのに、それを生かせていません。

後半バイカーの殺人場面から、ちょっとましに。しかし!あの殺し方、ありなんだろうか?夜半にライトで眩しくさせて事故を狙うってのはわかります。しかし真昼間から、ピアノ線を引っ張って待つってどうよ?バイクが来たのは夜ですよ。あの道、昼間は何時間も何も通らなかったの?首がちょん切れたのに、騙されてはいけない。

ライナーから「ローラはどうだ?」と聞かれ、「最高だ」と答える弁護士。「そうだろう!」と破顔一笑のライナー。もしかして、恋人はライナーのお下がりか?と想像したけど、それ以降絡みなし。マルキナはかつてライナーとウェストリーが共有する愛人だったみたいに描かれるけど、それも以降絡みなし。印象的なペットとして、チータが画面に出てきますが、成金の悪趣味ペットの域は出ないし、ウェストリーは裏社会哲学を朗々と語る割には、間抜けな事で墓穴を掘る。ライナーはヒュー・ヘフナーみたいな豪邸に住んで、プレイメイトみたいな露出過多の美女に囲まれているので、どんだけ大物なのかと思いきや、ボディガードもちゃんとつかない、全くの小物。どれもが全て、思わせぶりなだけ。それだけで終わって、全然肩透かしで、作品中で設定を拾えていません。

唯一金に目が眩み、何を根拠に安心しているのか、素人臭さ満開の弁護士のみ、意味がわかります。離婚経験ありらしいので、その慰謝料で身ぐるみ剥がされたのか?ローラとの新生活のための欲なのは理解出来ます。でもなぁ、ローラはプロポーズに涙ぐむような、外見の派手さに似合わぬ純粋な女性です。お金なんかなくっても、彼女となら幸せになれたのに。この顛末はとても皮肉です。

チョイ役で、ブルーノ・ガンツ、ジョン・レグイザモ、エドガー・ラミレス、ゴラン・ビシュニックが出演。映画好きには知られたメンツですが、これってサービスになるの?地味なんですが。私はガンツのみ嬉しかったです。「ER」ファンだったので、ゴランもね。

救いは出演者が総じて良かった事。特に女性陣が良かったです。キャメやんは今回出色の出来で、退廃的な魔性の女を、腐臭が香る寸前の美しさで熱演。だから余計マルキナの描き方が残念でした。ペネロペは悪女の深情け的情の濃さを感じさせる役が多いですが、今回一貫して婚約者を信じて付いて行く、清楚な女性です。意外とはまっていて、感心しました。

結局「素人が安易に裏社会に首を突っ込むと、痛い目に合うぞ」と言う、当たり前の事を、クドクドクドクド、持って回って見せられただけの作品。どうしたんだ、リドスコ!


2013年11月10日(日) 「眠れる美女」




ガーデンシネマで観たのは、7月の「嘆きのピエタ」以来。最近はシネコンばかりで、すっかりミニシアターやアート系作品とはご無沙汰です。前日の愛しの君の映画を観て、ワーキャーと脳みそがミーハー状態のまま観たのが、悪かったのか?前半退屈で何度も舟を漕ぎ、寝落ちしそうになりました。後半から段々目が覚めてきて、終わってから、あぁ〜、そういう映画だったのかとおぼろげに理解した次第。要するに面白くはなかったのだな。監督はマルコ・ベロッキオ。

2009年イタリア。17年間植物状態の女性エルアーナ・エングラーロの両親が、延命措置停止の訴えを起こし、長い争議の末、認められる事に。しかしカトリック信者を中心に、この決議に猛反対する多数の民衆たち。一方で議会では、この判決を無効にする緊急議会が始まり、国は騒然となります。議員ウリアーノは賛成派ですが、かつて妻の延命措置を停止した過去があり、悩んでいます。娘マリアは反対派で、父とは険悪に。娘が植物状態となったため、全てのキャリを捨て看病に勤しむ大女優(イザベル・ユペール)。我を忘れ一心不乱に看病する彼女に、夫と息子は不満を募らせます。若い医師は、病院で薬物中毒の自殺願望のある女性と出会います。目の前で手首を切られ、救命する彼。捨てて置けず、行きずりに女性にも関わらず、彼女を看病します。

三つのお話が絡まることなく、エルアーナの事だけを軸に、お話は展開していきます。テーマは尊厳死。と言うことだけを頭に入れて、勝手に「海を飛ぶ夢」と、アルモドバルの「トーク・トゥ・ハー」(だって眠れる美女だよ)をミックスした作品かと予想していましたが、予想×。

一つ一つのお話は興味深いし、全部に印象的な演出もあり、上滑り感もありません。が、面白くない(笑)。三つのお話には、全て三様の「眠れる美女」が登場し、どれも印象的なのですが、如何せん辛気臭くて、とても暗いのです。様々なケースを通して、生への権利や自由を考えてもらおうと言う趣旨なんでしょうが、ユーモアや一息つく場面もなく、ただただ重厚なもんで、生への希望や活力を想起する元気が、こちらに起こらないわけですよー。

全てを捨てて娘の介護にあたる女優のプロットなんて、本当はしみじみ私にはこの母の気持ちが届くはずなんですが、全ての中には、夫や息子も入っているわけね。まぁそれもわかるんですよ。でも演じるユペールが、今回もファナティックなのに無表情な、カンに障る女を好演するもんだから、「あんた、間違ってます」と言いたくなるわけ。全然感情移入出来ず。監督は母親の無償の愛と、家庭の崩壊が比例していく様を見せて、観客に尊厳死の是非を問うているのかと解釈しましたが、痛ましいだけで、私の心の琴糸には触れず。しかし本当は同情出来るはずの人を、観ているもんにカッとさせるような役をやらせると、ユペールは絶品すな。

精神的に病んでいるであろう登場人物も多いです。女優もそうだし、自殺願望の女性もそう。マリアの恋しい男性の弟も、何か含みを感じます。希望を表そうとした自殺願望の女性は描き込み不足で、エキセントリックさだけが残ります。尊厳死がテーマのはずが、手を広げ過ぎて、散漫になった気がします。「死」への安らぎは感じるのに、「生」への希望は感じません。監督は是非は観客に問うているはずで、生と死は表裏一体であるはずが、私には片手落ち感がありました。

「トーク・トゥ・ハー」の、全裸の、それも超美しいレオノール・ワトリングのように、眠れるだけで抜群の存在感と惹きつけるものを持った登場人物もおらず、とにかく三つとも暗くて重たくては、三重苦でした。どれか一つを掘り下げて描いても、充分尊厳死の是非は問えたと思います。めっきりアート系への感受性が鈍麻している私には、キツい作品でした。


2013年11月07日(木) 「2ガンズ」




愛しのデンゼル様主演作。大作からB級アクション、悪役から善人まで幅広く出演するデンゼルですが、今作はお手軽なバディムービーとして、楽しめる仕上がりです。監督はバルタザール・コルマウクル 。

ボビー(デンゼル・ワシントン)とスティグ(マーク・ウォルバーグ)は、二人組の小悪党。とある銀行の襲撃を決行。400万ドルを強奪した二人ですが、しかしスティグがボビーを裏切り、400万ドルを持ち逃げしてしまいます。実はボビーは麻薬捜査官で潜入捜査をしており、スティグの正体も海軍将校。しかしスティグは仲間に裏切られ、ボビーもまた上司殺しの汚名を着せられます。どうする二人?

畳み掛ける感じでもなく、退屈でもなく、調度良い塩梅で進むテンポが大変よろしい。銃撃戦あり、カーチェイスあり、爆撃あり素手の対決ありで、アクション物のセオリーを踏襲。見せ方に新鮮さはありませんが、全て中の上くらいで、及第点をあげられます。その中で二人のキャラをきちんと浮き彫りに出来ています。例えば、スティグはデキるけど脳ミソは筋肉で、情にもろい善人だとか、ボビーは頭は切れるけど、現在はやさぐれ中で、でも娘ほどの年齢のポーラ・パットンが愛人の、色男とか色男とか色男とか。ね!

後から考えると、ボビーがハメられた理由はわかるけど、何故スティグが選ばれたのか?ボビーはパットンを何故振ったのか?(これ結構重要)、それなのに、なんでまだエッチしてんの?とか、パットンとジェームズ・マーズデンの都合良すぎる関係など、脚本は雑なんですね。CIAまで出てくる割には、スケールちっちゃいし。でも深みを求める作品じゃないし、当初はお互い使い捨ての相棒だったはずが、同じ境遇・立場に置かれ、段々信頼を深めて、本当の友情と絆を結ぶ様子が素敵なので、不問と致す。

ウォルバーグは、若造然とした役柄だったので、今更中堅どころのエースの彼がやらなくてもなぁと思っていましたが、人の良さが滲み出て、愛嬌あるスティグ像を作り上げていました。そして一番重要なのは、デンゼルととても相性が良かった事。これアメリカでヒットしたなら、続編作ると思います。

そしてデンゼル様。誠実な役柄の時も良いけど、こういう悪党寄りも素敵なのよね〜。端正な二枚目の彼も来年は「還暦」。無精ひげには白い物が目立ち始め、お腹も出て来た。「デンジャラス・ラン」では、「ドリアン・グレイのようだ」と言われていたけど、やっぱ老いの兆しが見え隠れしています。でもパットンのような美女中の美女とのベッドシーンも全然違和感なく、水も滴る男っぷりは、形を変えて継続中。ラスト近くで、札束が大挙舞うシーンの華やかさは、まだまだ彼のものです。私も老け込まずに、追っかけしなくちゃ!

肩の凝らない内容で、ほどほどの爽快感もある作品。パットン嬢もチラッとサービスで脱いでます。潜入捜査官の深い苦しみや葛藤を描いた、「インファナル・アフェア」のコクは微塵もござんせんが、デンゼルやマークのファンの方、B級アクションを好むご貴兄には、何の文句がありましょうや、の作品。


2013年11月06日(水) 「飛べ!ダコタ」




1946年、終戦からたった半年後に、新潟県の佐渡島でおきた、イギリス機不時着からの数週間の実話を元に映画化した作品。とにかく気持ちの良い涙をいっぱい流す作品で、鑑賞後は心が洗われた気分でした。監督は油谷誠至。

1946年の1月、佐渡島の高千村の海岸に、イギリスの飛行機がエンジントラブルのため、不時着します。それはイギリスの要人を乗せていたダコタと言う飛行機でした。終戦からまだ半年、村人たちは様々な葛藤を抱えつつ、飛行機の修理が済むまで、パイロットたちを精一杯もてなそうと決めます。

「イギリスは紳士の国だから、大丈夫」「ちょっと前まで、鬼畜米英と言っとっちゃじゃないか」と、村長(柄本明)を中心に、イギリス兵たちの処遇をどうしよう?と、村の要人たちの会議は喧々諤々です。会議の中で、「終戦じゃない。敗戦じゃ」と言う言葉が、とても重く響きます。敗戦国として、戦勝国のイギリス兵を丁重におもてなしするようにとの、上からのお達しも、唇を噛みたくなったでしょう。

でも村長が受け入れようと決めたのは、娘千代子(比嘉愛未)と幼い息子から、「困った人は助けなきゃ」の言葉があったから。そんな簡単な事か?と、普通ならツッコミの一つも入れたくなるのが、不思議な事にこの作品、とても素直に受け入れられるのです。これ以降も、重い内容のプロットは、ベタな展開なれど暗く沈む直前に拾い上げ、村人の善意の行動には胸が熱くなり、全編とても清々しいのです。描き方に押し付けがましさがないのですね。

当時の村人の皆さんは、ここに描かれる以上に屈託や葛藤があったはず。身内を亡くした人も、いっぱいいたはずです。しかし、それはイギリスとて同じだと描き、何故戦争がいけないのか?一人一人が考えて行かねばならないと、現代の感覚を忍ばせているからだと思いました。それを村人たちの成長として描いていたので、ストンと胸に落ちたのだと思いました。

善人ばかりが出てくる中、足を負傷し障害者になった健一(窪田正孝)だけが、「お国のために死ねと言われた」と、頑なです。エリート軍人だった彼は、負傷と敗戦で人生が一変したのですから、この気持ちもわかる。しかしクライマックスで、健一を愛する千代子が、「健一さんが足を怪我して村に帰って来た時、私は嬉しかった。もうこれで戦争に行かなくて済むと思ったから」との言葉に、「俺が怪我して嬉しがったのは、母さんと千代ちゃんだけじゃ」と、涙ぐみます。千代子の言葉は、愛する夫や息子、恋人を持つ、世界中の女性の気持ちです。だから二人だけじゃないの。息子が戦死した敏枝(洞口依子)の心を溶かしたのも、イギリスで息子の帰りを待つ母親と、その母を想うイギリス兵の存在です。

千代子と健一を観て私が想起したのは、「清作の妻」のお兼と清作。アプローチは違えども、同じ事が言いたいのだと感じます。

もう一つ印象的だったのが、村人の好意に胸を熱くさせ、思わず英語でお礼のスピーチする機長に、通訳をさえぎり高橋(ベンガル)が、「何を言ったか、よくわかる」と言うシーンです。もちろん彼は英語はわかりません。だけど、機長が心から自分たちに感謝し、言わずにおられない気持ちは、充分汲み取れるのですね。同じ土地で寝食を共にすると、文化の違いを超えて、お互いが見えてくる。そして結局人間の感情や善悪には、国境はないのだと、頭ではなく肌や心で感じるのでしょうね。その気持ちが、本当に素直に観客にも入ってくる作りです。

涙を流すのは心が浄化されて、健康にも良いのだと、何かで読みました。切ない涙や哀しい涙も良いですが、この作品は思い切り泣いたあと、自分も登場人物たちと同化して、清々しい人になれたと、ちょっと錯覚してしまう作品です。佐渡の海が何度も映されて、荒々しくも力強い風景を見せてくれます。その力強い波を一つ超えるごとに、人々の恩讐も海の向こうへ消し去ってくれるのでしょう。とても心の健康に良い作品です。






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