
そしてこれが、ご本人たち。女性陣も当時の女優さんの雰囲気を上手く掴んでいますね。でも抜きん出て、ダーシーのトニパキぶりは出色でした。私は彼目当てもあって観たので、出演場面が少なくて、とっても残念。スカヨハは、リーを演じるに当たり、娘のジェイミー・リー・カーチスに会ったのだとか。出演の頃ジャネット・リーは、トニー・カーチスの奥さんでした。役作りに熱心なスカヨハの心意気を感じる、良いお話です。
「サイコ」公開は1960年。今なら60歳は監督盛の年齢ですが、今から50年以上前は、老人扱いだったのですね。隔世の感があります。
ブロンド美人女優を偏愛するヒッチコックは、この作品の姉役も、もう既にモナコ王妃となっているグレース・ケリーに頼もうと言い出します。彼のブロンド好きは有名で、主演女優は必ずブロンド。「鳥」のティッピ・ヘドレンは、かつて彼を袖にしたため干されたと暴露。この作品でも二人の女優を追い掛け回す様子や、アルマの言葉から数々の浮気も感じます。ん〜、でもあんまり気持ち悪くはない。もうちょっと変質的・妄執的に描いても良かったかも。女優は主にリーとの絡みが多かったですが、ねっとりまとわりつく風もなく、リーに紳士的で優しかったと言わせています。この辺、御大に気を使ったのかしら?
妻のアルマは才能ある脚本家で、結婚30年、影になり日向になり夫を支えています。「サイコ」の企画も、いの一番に妻に相談する夫。危険な企画なのに、何故?と尋ねる妻に、「若い頃のように、期待と不安の入り混じった情熱的な気持ちで映画を作りたい」と言う夫。見る見る口元がほころぶ妻。そして夫には自分が必要だという自負もある。
しかし夫は駄々っ子のように、妻に求めてばかりです。遅々として進まぬ「サイコ」の撮影に苛立ち、共同の脚本を書きたいと言う旧知のクック(ダニー・ヒューストン)との間を嫉妬する夫に、妻は胸のすく啖呵を切るのです。「私は30年、あなたの仕事を支えてきた。浮気にも耐えた。それでも人は、あなたの周りに集まり私には知らん顔。クックと仕事するのは楽しいからよ。私はあなたの妻のアルマよ。あなたが契約した女優じゃないのよ!」。もうこの歳で夫の言いなりになる筋合いはない、と言う意味です。このアルマのセリフに、拍手喝采した古女房は、私だけではありますまい。
一見何でも相談する夫に見えますが、結局は自分のしたい事を自由にやっているだけ。その影の妻の内助の功なんて、当たり前過ぎて目にも入らない。妻でもなく母でもなく主婦でもない快感を、クックとの仕事でアルマが感じるのは、当然なのです。私がサイトを続けている原動力が、正にこれ。うちのように夫が天才でなくとも、自分に何がしかの才能のない妻とて同じなのだと、感慨深いシーンでした。しかしアルマには落とし穴が。
アルマの夫は天才ヒッチコック。対する妻は才能ある脚本家であっても天才ではない。人々が彼女に求めているのは、脚本家ではなく、糟糠で才色のヒッチコックの妻なのです。この人としての悲哀を、赤い水着やクックが女を連れ込む様子で、女としての悲哀にまで発展させる筋立てが上手いです。でも才女のアルマですもの、傷ついたままでは終わらない姿に、また惚れ惚れします。
夫婦とは結局相性なのだと思います。ヒッチが天才であっても、アルマなしで大成したのか?才女のアルマとて、他の天才と添っても、ヒッチほど世に出る人に仕立て上げられたか、それは疑問です。この作品を観て、そこを痛感しました。お互いそこに気づいたのでしょうね。夫の窮地に、「あなたを愛しているわ」な甘い言葉ではなく、「私もこの家に住みたいの(制作資金捻出のため、抵当に入っている)」と、ハードボイルドに立ち入るのは、長年妻をやってきた人にだけ許される、特権ですって。駄作の烙印を押された「サイコ」が、見る見る傑作に再生される過程がスリリングです。
映倫との折衝、オーディションの風景、セットの様子や撮影現場のピリピリした、でも熱気のある様子は、映画ファンとして見ていて楽しかったです。暴露的な話しは、ヴェラ・マイルズが「めまい」を降板理由が妊娠で、彼女をスターにしたかったヒッチの機嫌を損ねたと言うくらいで、私は品が良くてこの作りは好きです。面白かったのは、映倫の検査では、リーのバストトップが映っていると、ダメ出しが出たのに、実際はどこにも映っていなかったと言う件。演出とカット割りって凄いですね。見えない物まで見えちゃうのだから。
印象的だったのは、グラマラスで美しい女優たちが、一様に「私は妻で母で主婦。家に帰れば家族が待っている」と、とても家庭を大切にしている事でした(それでもジャネット・リーは、その後トニー・カーチスと離婚するけどね)。それをヒッチは「女はわからん・・・」と独白します。簡単じゃないの。女優も大事だけど、女としての人生はもっと大事と言うことよ。きっと最後まで妻の事も理解仕切れなかったはずです。夫としては凡人だったのでしょうね。
私はヘレン・ミレンが、特にこの近年大好きで、ちょっと割増の感想かも?でも映画好きには好意的に受け入れて貰えるはず。今年の「午前十時」は、確か「サイコ」が入っていたので、是非再見したいと思います。

とても愛すべきチャーミングな作品。「大渡海」と言う名前の辞書を作る編集部が舞台で、「大きな言葉の海を渡る」と言う意味で、「大渡海」です。なので、渡るのには舟が必要→舟で渡る→舟を編む(編集する)と言う意味です(で、良かったかな?)。善良な市井の人々が、辞書を作ると言う地味な作業の、情熱的で誠実な十数年を、微笑ましくユーモアたっぷりに、そして熱く描いた作品。ずっと微笑んで観ていた気がします。監督は石井裕也。
1995年の東京。玄武書房辞書編集部では、新しい辞書を作る事になりました。折しも編集部の中心である荒木(小林薫)が、定年でもうじき退職。監修の国語学者松本(加藤剛)の落胆ぶりを見た荒木は、営業部では浮いた存在ながら、生真面目で言葉のセンスを持つ馬締光也(松田龍平)に白羽の矢を立てます。ほどなく異動となった馬締は、お調子者の同僚西岡(オダギリジョー)やベテラン編集員の佐々木(伊佐山ひろ子)と共に、黙々と仕事に勤しむ日々が始まり、自分の一生を辞書作りに捧げようと決心します。そんな時、下宿先の大家タケ(渡辺美佐子)の孫娘・香具矢(宮��あおい)に出会った馬締は、彼女に一目惚れします。
松田龍平が絶品。クールなイメージのある彼が、こんなに愛すべき変人を好演するなんて、大感激です。四の五の書くより是非観ていただきたいです。「真面目」「誠実」「努力家」と言うのは、人としての絶対的美徳なんだな。こうまで極めると、他の数々の欠点を吹っ飛ばす破壊力がある。コミュニュケーション不全気味で、なかなか人とは打ち解けられない彼が、気がつけば辞書編集部の人たちと絆を結ぶのは、編集部の人たちも、そういう美徳を持っているからでしょう。
特にお調子者で今風の西岡は、全然そんな風に見えません。しかし辞書を作る情熱は、彼も人一倍なのです。身を捨てて辞書作りを続行させた彼にも、大感激です。人って見かけによらないを、ひしひし感じました。ある意味馬締を化けさせた、最大の功労者です。
用例採取(言葉集め)のため、街へ繰り出し合コンにも出て、今の流行りの使い方や言葉を拾っていく様子は、耳に入る全ての言葉が対象です。更には他の辞書と首っ引きでのそれらの取捨選択。そしてその言葉の説明書き。それを十数年かけるのです。小学校の頃からお世話になっている辞書が、こんな途方もない努力の積み重ねで作られているなんて、全然知りませんでした。これを知っただけでも値打ちがあります。
十数年の間には、人の生死、恋や結婚、部署の異動など、様々な事が起こります。最初は異動に渋々だったファッション雑誌から来た岸部(黒木華)が、気取ってシャンパンしか飲めませんと言っていたのが、いつの間にか下町の居酒屋で、楽しそうにビールをぐいぐい飲む様子で、彼女の心の成長がわかるのです。そして一番成長をしたのは、やはり馬締です。
映画の初めの頃は、背中一面に「自信がありません」と張り紙がしてあるような馬締が、かつてと同じように謙虚に、だけど今では人前で立派に挨拶も出来る人になっています。でも何が素晴らしいって、どんな立場になろうと、出世しようと、香具矢の言うように「みっちゃんって、面白い」と、愛すべき変人ぶりは同じな事です。馬締を馬締のまま成長させたのは、きっと香具矢の内助の功ですね。
私が高校生の時、お兄ちゃんが東大生だと言う子がおりまして、国語辞典はお兄ちゃんから譲り受けたと言うのね。普通の辞書とは、きっと違うのだろうと、クラスみんなでワイワイ言いながら引いたワケです。その言葉は「女」。そしたら、ツラツラ書いてあった最後に、「妊娠出来る人」と書いてあり、みんな騒然となりました。で、もちろん次に引いたのが「男」。当然の如く、「妊娠させられる人」と書いてある。もう30年以上前の事ですが、「これはあかんのんちゃう?」と、当時の女子高生たちも思いました。
この無神経な記述は、今は当然改訂してあると思います。「明日から改訂だ」と言いながら、お互い用例採取の束を見せ合う馬締と荒木に、遠い昔の辞書にまつわるお話を、思い出した次第です。
あのシーン、このシーン、想い出深いシーンばかりです。家でもスーツの上着を脱いだだけで、ワイシャツとズボン姿の馬締が、恋の告白の後、正座して玄関で香具矢の帰りを待つ時(相当変です)、上着ではなくベストを来ていたのが、大変面白かったです。彼的には「家での正装」だったのでしょうね。二時間半弱、このようにチャーミングなシーンが満載、でもシーンが浮き上がることなく、きちんとみんな繋がっていて、お見事です。
世の中は新しい物が出来ると、それに飛びつきがちです。でも自分の本当に好きなものを見つけたら、それがどんなに地味でも時代遅れでも、一生歩むべきなんですね。その幸せや充実感を、どうぞ画面から感じて下さい。

私の愛するマッツ・ミケルセンが、昨年のカンヌで主演男優賞を受賞した作品。早く観たいなと思っていましたが、来てみると、何とマッツは小児性愛者の疑いをかけられ、孤立無援で四面楚歌と言う役柄!変態の疑いですよ、あなた。本当の変態の役なら、わぁ〜面白そう〜と思うけど、愛する人が変態に間違われる役をするなんて、辛くて観たくないもん。おまけに監督のトマス・ヴィンダーベアはドグマ系の監督で、今作が初見ですが、私はトリアーが嫌いなもんで、必然的にドグマも苦手。尻込する理由が満タンで、出来れば避けて通りたかったのです。でも親愛なる映画友達の方が傑作だと言うので、勇気を出して観てきました。いや観て本当に良かったです。私の愛するマッツの集大成のような役柄だったし、監督も隅々まで行き届いた演出で、非常に感銘を受けました。
教師だったルーカス(マッツ・ミケルセン)は、学校の閉校で失職。妻とも離婚し、一人息子マルクスは妻が親権を取っています。やっと幼稚園で職を得て、息子とももう少しで暮らせる予定です。しかし園児の一人で親友テオ(トマス・ボー・ラーセン)の娘クララ(アニカ・ヴィタコブ)の嘘から、クララに性的虐待を与えたと決めつけられ、職は解雇。街中から村八分のような扱いを受けます。
冤罪とは、いとも簡単に出来上がるのだと震撼しました。クララから「告発」された園長は、ルーカスに釈明の機会を与えない。調査員の聞き取りは、まるで誘導尋問で、頷くか否かだけで事が進められます。疑わしきは罰するです。他の園児まで、あたかも自分が被害にあったように、記憶が捏造されるのです。これは親の思い込みのせいでしょう。デンマークには、「酔っぱらいと子供は嘘をつかない」と言うことわざがあるそうで、それも拍車をかけているのでしょう。
クララは嘘をついても、何の得にもならないと周囲の大人は思っている。しかし嘘をつく前の様子は、クララは明らかに両親から邪険に扱われ、両親の不仲に心を痛めていました。自分を包容してくれるルーカスに、愛情を向けるのは自然な事です。なのにプレゼントや、唇へのキスをたしなめるルーカス。自尊心が傷ついたのでしょう。
クララは何度も「想像力豊かな子」と表現されますが、それにしても、この女心と報復の仕方は、同世代の男子では有り得ないです。女とはオムツが外れた時から怖いもんですね。調査の時のアニカの演技がまた秀逸で。おどおどした素振りは見せず、しかし質問の時、顔を歪めながら、何度も鼻をすする姿はチック症状のようで、動揺しているのがわかるのです。この場面の緊迫感は、アニカちゃんのお手柄です。
田舎町の小さなコミュニティなのでしょう、街中はみんな知り合いです。微笑ましく親睦をはかる様子が描かれ、テオやその他の友人たちも、多数がルーカスと幼馴染で、彼の人柄は熟知しているはずなのに、手の平を返したような様子が恐ろしい。でももっと恐ろしいのは、私もきっとこうなるだろうと思った事です。
作品では、ルーカスが無実だと判って観ていますが、街の人々は誰も真相を知りません。事件は誰もが睡気すべき幼児への性的虐待容疑。もし私に幼い子供がいるなら、どんなに可愛がってくれた人でも、あの人にはもう近づくなと言うでしょう。魔女狩のようだと嫌悪させながら、あなたもこの人たちの気持ちがわかるでしょう?と、監督に言われているようです。
ひたすら身の潔白を言い続け、理不尽な仕打ちにも毅然と対応するルーカス。私なら逃げ出します。でもそれは、罪を認めた事になるのでしょう、彼はしっかり前を向き続けます。私が救われたのは、息子のマルクスと幼馴染の一人が、ルーカスを信じ続けた事です。本当に誰もいなかったら、ルーカスは無実を訴え続けられなかったと思うのです。そして私が感銘を受けたのは、クララの嘘を信じる大人たちには歯向かうけれど、ルーカスがクララを赦していた事です。教育者とは、こうありたいものだと痛感しました。
一つ疑問に思ったのは、刑事事件にまで発展しているのに、ルーカスには弁護士が付かなかった事です。日本とは事情が違うのでしょうが、ここは謎でした。
耐えているだけだったルーカスが、スーパーで反撃に出た時、街の人は頭がおかしくなったと思ったでしょう。私もそうかと思いました。でも違う。それはクリスマス・イブの集会に、教会へ行く直前の、高ぶった気持ちの現れだったのでしょう。思えば神の子キリストも、謂れ無き受難に合った人です。信仰心を示すこの場に堂々と出席する事は、ルーカスに取って最大の弁明だったのだと感じました。
私がマッツが好きなのは、知性があって誠実感があり、繊細な雰囲気である事です。かと言って線が細く弱々しいのではなく、男性的骨太感や包容力があり、セクシーです。その全てがルーカスに表現されていました。ハリウッド作品に出ることも多い彼ですが、今イチそんな特性や卓越した演技力を生かしているとは思えず、ちょっと大味な役柄ばかり。やはり彼は母国デンマークやヨーロッパの作品が似合うようです。今回も抑えた演技を要求される中、教会での賛美歌に涙する姿、怒りの頂点を表す気高さは、カンヌの主演男優賞にふさわしい堂々たるものでした。今までは「アフター・ウェディング」の彼が一番好きでしたが、今はこの作品が一番です。
物語はラスト近くで大きな転換を迎え、急速に救済されます。ルーカスとテオが向かい合う場面が秀逸。何転もしながら、また二人は親友に戻るのだと理解しました。テオの心の移り変わりは、男の友情は、女同士の友情とはまた違う絆があるのだと感じ、細やかな演出が冴えていました。
しかしラストのラスト、監督はまた謎をかけてきます。その前の和やかな様子に、女性たちがあまり加わらない事に、少し居心地の悪さを覚えたのは、私の気のせいだったのでしょうか?この作品の原題は「ハンター」。魔女狩のようにルーカスを追い詰めた町の住人たちは、ハンター。獲物はルーカスだったはず。獲物でなくなっても、狩りはするなと言うことでしょうか?新たな局面ですが、この受難にも、ルーカスはきっと立ち上がると信じています。

現在フランスで一番ハリウッドな女優マリオン・コティヤールの、久々の母国での作品。両膝を切断した女性の、再起までの苦闘を描いていると思って観る向きには、肩透かしの作品でしょう。人間の本能を描いて、神々しいまでの生命力を感じさせる作品です。監督はジャック・オーディアール。とても良かったです。
シングルファーザーのアリ(マティアス・スーナールツ)は、五歳の息子サムを連れて、南仏に住む姉のアナを頼って居候します。ほどなくアナの紹介で、クラブの用心棒の職を得ます。そこで客同士のトラブルに巻き込まれたシャチの調教師のステファニー(マリオン・コティヤール)を助けた事で、知り合います。後日ステファニーはショーの最中の事故で、両足の膝から下を切断。絶望に打ちひしがれる彼女は、ふとアリに連絡を取ります。それがきっかけで、二人の交流が始まります。
冒頭電車の中で、お腹が空いたと言う息子のため、空いた座席から残飯を拾って食べさせるアリ。万引きもします。何てダメ親父!しかしあっけらかんと、悲壮感も屈辱感もまるでないアリの様子は、何だか妙な希望も覚えます。後から思えば、この冒頭は秀逸でした。その日の糧を稼ぐのに必死の姉夫婦が、弟と甥を迎える様子が温かい。
絶望の淵にいるステファニーは、何故一度会っただけのアリに連絡したのか?それは、戯れに男を誘っては突き放す。そんな暇つぶしに興じる彼女を、遠慮なく「売女のようだ」と言ったからでしょう。足を失ってからの彼女の周囲は、まるで腫れ物に触るよう。誰も今の現実を突きつけてはくれない中、自分の真実をさらけ出したかったのだと思いました。
案の定、アリは海辺にステファニーを誘うも、さっさと自分だけ泳ぎだします。しかし、その様子に、あろう事か、彼女は自分も泳ぎだすのです。かつては毎日浸かっていた水。久々に水と戯れる充実感を実感する彼女。出来ない事を数えるのではなく、出来る事があると知った瞬間でしょう。
足を失い、女性としての自信を失った彼女に、「やるか?」と聞くアリ。絶倫男のアリですが、自分がしたいのではなく、彼女に対する思いやりです。腕っ節が自慢のアリが、懸け試合の格闘技に出る事を一度は反対するステファニーですが、血が飛び散り、歯が折れる、その肉弾相打つ様子の強烈な生命力に、すっかり魅せられます。この頃から、急速に心身を回復させるステファニー。この様子は物凄く納得です。私の息子たちはラグビーをしていましたが、彼らが言うのには、吹っ飛ばされるだけではなく、その逆もとても爽快な気分なのだとか。セックスも格闘技も、共に生命あってこその本能的な快楽なのです。
車椅子はやがて義足に。義足を隠していたパンツの丈は、やがてクロプトパンツの丈となります。有りの侭の自分を曝け出した時、彼女はシャチと対面します。以前のように美しく上半身を動かす様子は、まるでバレエのようです。試練を乗り越えた様子に、思わず涙が出ました。
この作品では、辛いリハビリの様子は映しません。まるで一足飛びにステファニーが再生したように思えます。しかし、義足を作る時の屈辱的な姿や、一筋の涙、そっとトイレに行こうとする恥じらいの姿に、映さない向こうの過酷さを感じさせます。彼女は強く有りたいと、やせ我慢を続けていたのではないか?それが自分の運命を受け入れた、ハードボイルドなステファニーを作り上げたと感じました。
対するアリは、子供そのまま大人になったような男です。息子を迎えに行くのも忘れ、セックスにふけるような男ですが、別れた妻から子供を引き取ったのは、妻が麻薬を運ぶのに息子を使ったから。「唇にはキスしないで」と言っていたステファニーが、セックスの時自ら唇にキスするようになったのは、アリへの愛情表現です。それなのに彼女を置き去りにして、別の女と寝る鈍感さ。しかし自分の本能の赴くままの行動が、ステファニーに生きる希望を与えた事実。ステファニーは未成熟なアリに隠れた、器の大きな純粋さを、誰よりも実感していたのでしょう。恥じらう彼女を抱きかかえ、トイレに連れて行く時の彼が、私は一番好きです。
ステファニーに配慮のなさを指摘され、致命的に姉を傷つけたアリ。どん底の状態で彼が見たのは、目を背けていたのではなく、目にも入らなかった未熟な自分です。自分の持てる唯一の長所で再起をはかる彼。そこで起こった出来事で、格闘技以外で、アリは初めて血を流し骨折したはずです。その痛みには爽快さはなく、アリが本当に父親になるための試練だったのでしょう。そして体だけではなく、初めて心から異性を愛する意味を知る出来事だったのだと思います。「愛している」。平凡な言葉が、この未熟な男から発せられると、とてもカタルシスがありました。
マリオンは絶望の淵からハードボイルドに至るまでを、ほとんどノーメイクで熱演。外見は変わらないのに、心の変遷が手に取るようにわかります。マティアスは初めて観ましたが、アリと言う大人子供が、とても愛しく思えるのです。二人共超チャーミングでした。
骨折すると、再生する骨の周囲がカルシウムで強化され、以前より強くなるが、決して元の姿に戻る事はない、と言う独白がラストに入ります。新しい姿は、アリとステファニーそれぞれ。劇中ずっとアリの事を名前で呼んでいた息子ですが、アリの骨折が治る時、きっと「パパ」と呼んでくれるでしょう。
| 2013年04月04日(木) |
「ボクたちの交換日記」 |

ウッチャンナンチャンのウッチャンこと、内村光良の脚本・監督作品。原作は構成作家の鈴木おさむ。手の内を知り尽くした世界が舞台だからでしょうか、人より少し長い青春時代を送った男子二人の哀歓が、とても素直に心に沁みる秀作です。ところどころ難も感じますが、それを差し引いても大好きな作品です。
甲本(小出恵介)と田中(伊藤淳史)の二人は、「房総スイマーズ」と言うお笑いコンビを組んで12年。気がつけば30歳です。売れない状況を打破すべく、甲本が考えたのが交換日記。最初は嫌がっていた田中ですが、次第に日記はページが重なり、ネタ係だった田中は、日記を元にネタを下ろす提案をします。
前半は二人の交換日記を独白すると言う形の中、二人の性格や日常、背景をしっかり描いています。お調子者のイケメンで大らかな甲本はツッコミ担当。几帳面で真面目、でも少し偏屈な田中はネタとボケを担当。しかしお笑いとは不思議なもので、笑いのセンスは田中の方があります。微妙にコンビの仲に影を落とすはずの事ですが、二人は高校の同級生でした。
二人は部活も同じ水泳部。ハンサムで人気者で部活でも一番の甲本が、田中のお笑いのセンスを見込んで、コンビを組もうと誘ったのです。「桐島」で描かれたように、校内のヒエラルキーでは、上位の甲本、下位の田中であったでしょう。憧れとまではいかなくても、田中は甲本の存在が眩しかったはず。その甲本が自分を認めて誘ってくれた過去は、田中にとって感謝と自信に繋がっていると感じます。
しかし今は、舞台とネタ合わせ以外は会話すらない彼ら。「ダウンタウン」は幼稚園からの幼馴染ですが、楽屋で取っ組み合いの大喧嘩して、すぐ舞台があったとか。何食わぬ顔で舞台を終えた時、あぁもう自分たちは親友ではなくなった。お笑いコンビになったのだと実感し、物凄く寂しかったと語っていました。それを言ったのが浜田か松本か、それすら覚えていない、ずっと昔の記述です。友人ですらなく、ただの同級生の二人ですから、売れない現状と共に、お笑いコンビの難しい間柄を、上手く表現していた思います。
辣腕ディレクター川野(佐々木蔵之助)から、ピンで構成作家にならないか?の誘いを、何故断ったのかと田中に聞いた時、「甲本と二人でやりたかったから」と言う言葉に、小躍りする甲本がいじらしい。甲本が追いかければ田中が逃げ、またその逆もあり。交換日記の中で、お互いの短所をあげつらう二人ですが、甲本の致命的な失敗は、田中は決して責めず庇います。友情でもなく男女の愛でもなく、家族でもない。まるで夫婦のようだと思いました。コンビとしての相性は良くないはず。だから売れない。それでも決してコンビ別れしない二人。
昔Wヤング(今は二代目)と言う漫才コンビいて、しかし人気絶頂の時、中田治雄が借金を苦に自殺。その時相方の平川幸男が、「何で俺に相談してくれへんかったんや!嫁はんより長い付き合いやないか!」と、棺にすがり号泣する姿が、今でも記憶に鮮明です。これも昔、オール巨人阪神の阪神が、自身の不倫騒動で迷惑をかけたと、相方の巨人に謝罪を入れた際、礼儀作法や道徳にはうるさい巨人(その方面では怖い人で有名)が、「お前、子供欲しいと言うとったもんな(前妻とは子供が出来なかった)」と、許してくれたそう。
そう言った、売れる売れない、損得ではない、二人しか分らぬお笑いコンビの情と絆を、甲本と田中からもしっかり感じ取る事が出来ました。だからでしょうか、若くもないのに、男のくせにこの二人は、実によく泣くのです。でもそれがみっともないとも、可哀想だとも思わない。泣きなさい、今は思い切り泣きなさいと、私も一緒に泣いてしまうのです。今は辛くとも、先のある涙だと感じたから。
満開の桜の下でのコントで終わるのかと思いきや、それからが少々長いです。この辺は端折って、すぐまた、交換日記に繋げた方が良かったかも。私はずっと今の様子だと思っていたのに、後から設定が17〜8年前とわかって、この辺の時代考証は甘いと感じます。時の流れもわかりづらく、17年後、登場人物に容姿の変化がほとんど感じられないのも変です。
甲本の娘に言わせた的外れのセリフには、私もカチンときました。その後の田中の怒りを見て、そういう伏線だったのかと、納得。いやウッチャン、お見逸れしました。原作にもあったのかな?二人共糟糠の恋人(長澤まさみ・木村文乃)と、ちゃんと結婚していて、この辺二人の人柄の良さが出ています。長澤まさみはまるで菩薩様のようで、ちょっと出来すぎじゃないの?とも思いましたが、キャバクラ勤めで、男を見る目が出来ていたんですね、きっと。うん、そういう事にしよう。才能がない悲哀を味わった甲本ですが、けじめの付け方の全うな男らしさは、彼には平凡という「勲章」が似合うのだとも感じました。
主役二人は、伊藤淳史は演技巧者として認識していましたが、初めて小出恵介が上手いと感心しました。たくさん彼の作品は観ているのですが、どれもそれなりで、彼自身のキャラ優先に感じましたが、今回は私的には100点上げてもいいくらい、甲本の人柄や苦悩が、直球でこちらの届いてきました。きっと二人にとって代表作になると思います。
お笑いとコンビとして歩いた二人は、その後違う人生を歩みますが、それぞれが天分にあった人生を、精一杯歩んだのだなと感じ、最後まで涙が出ます。お笑いの裏側の詳細な描写は、表側から伺い知れぬ厳しさで、その辺も興味深く観られます。お笑い芸人とは、笑われる人ではなく、笑わせる人が本物なのだなと痛感しました。前半はクスクス笑えるコメディ調で、後半は滂沱の涙の作品。でもとても爽やかです。お金を使わなくっても、日本のサブカルを題材に、こんなに見事に映画に出来るんですよね。堂々の青春映画でした。