ケイケイの映画日記
目次過去未来


2011年09月26日(月) 「スリーデイズ」

快作「この愛のために撃て」のフィリップ・カヴァイエ監督のデビュー作、「すべて彼女のために」のリメイク作。私は元作が未見で比べる事は出来ませんが、この作品は充分に楽しめました。監督はポール・ハギス。

大学教員のジョン(ラッセル・クロウ)は、妻ララ(エリザベス・バンクス)と一人息子ルークと共に、幸せな家庭を築いていました。しかし突然ララが上司殺害の容疑で逮捕され、幸せは一転。三年間ジョンはルークを男手で育てながら、ララの容疑を晴らすため、再審請求に奔走しています。しかし再審が棄却され有罪は確実に。絶望するララは自殺未遂を起こします。この一件で腹が決まったジョンは、ララを脱獄させようと決心します。

「この愛〜」でもそうでしたが、とにかく妻を一心に信ずる夫の姿に、まず心打たれます。仕事や子育てに忙しくても、妻への面会は欠かさず励ます事を忘れない。その事に対して感謝はしても、「冤罪」なので妻からの謝罪の言葉はありません。当たり前なんですが、冒頭に気が強くすぐに手の出るララの様子が描かれており、本当に誤認逮捕なのかどうなのか、曖昧に演出してあります。なので夫婦の諍いの後、「俺が無実だと信じているから、君は無実なんだ!」と言い切るジョンの姿が、とても頼もしいです。

日の当たらぬ裏道など歩いた事のないジョンが、妻のため闇の世界に足を踏み込む様子も、痛切な夫の愛情を感じます。男の中の男や、したたかな大物の役が多いラッソーに、こんな小市民的善人の役なんて似合うのかしら?と思っていましたが、さすがはオスカー受賞の演技派、何の問題もなくこなしています。特にゴロツキにやられた後の情けなくも辛さいっぱいの表情を、見事に「背中」で演じていたのは、すっかり感心してしまいました。

夫婦愛だけのお話かと思ったら、疎遠である父(ブライアン・デネヒー)とジョン、息子が幼い時収監されたので、なかなか心を紡げないララと息子の様子も挿入。当然の描写のようですが、夫婦がテーマの時、案外これらを行き届いて描くことは少なく、あるのとないのでは、鑑賞後のコクが断然違います。

特に印象に残ったのは、息子の決断を知った時の父、息子あっての夫婦・家族であると、決死の行動を見せるララのシーンです。親と言うものは、どんなに子供が心配でも、いずれは手を離さなくてはいけない時がやってきます。その反対に、絶対に掴んで離してはいけないときもあり。離す時は父親の判断、掴むときは母親の判断が正しいのかもなぁと、色々考えさせられました。私は特にジョンの父親が印象深く、「告発のとき」同様、ハギスは父と息子の描き方が秀逸だと思いました。元作はどうだったんでしょう?

逃亡シーンも元作はフランス映画で、どうだったんでしょうか?目まぐるしく変わるシーンに息も尽かせません。この辺は手練た演出で、さすがはハリウッド製だと感じます。韓国映画によくある警察の間抜け感もなく、手強い相手からすり抜けるのには、運も味方に付けることなんだと感じ、無理がありません。相反する夫婦の和解も、ボディランゲージで表現させるのは上手い演出だと感じました。

ただ逃亡シーンになると、ラッソー起用が裏目に感じます。誠実なれどひ弱かった夫が、妻を一心に愛する事で段々と逞しくなって行くように見せるはずが、元々逞しく見えちゃう。画像のような様子なので、アナタに付いて行けば大丈夫と感じてしまい、サスペンスフルなはずの展開に、妙な安心感が出てしまいます。やはり元作の主役ヴァンサン・ランドンのような、普通のオジサンが演じていた方が良かったかも知れません。

ララの方も、最初は美しいブロンドでしたが、収監中に地毛の赤毛と半々になり、やがて全て地毛に。歳月を感じさせる演出は良かったのに、必死の逃亡中に美しくウェーブがかかっている。何故?ギリアムの「12モンキーズ」も、黒髪のマデリン・ストウが逃亡のためにブロンドに染めるシーンがあったけど、ちゃんと描写があったし、時間もありました。今作では刻一刻と時が迫り、時間的に無理です。その他は無理のない展開だったので、非常に気になりました。

とは言え、夫婦愛+家族の絆、サスペンスと、荒唐無稽なはずの内容を、ハラハラドキドキ、感動までさせてしまうのですから、お見事でした。ララの真実もラストに描写、喉元に引っかかった骨も取ってくれます。是非元作も観たく思いました。


2011年09月22日(木) 「あしたのパスタはアルデンテ」




超楽しかった!食べて飲んで泣いて笑って感動して、もうお腹いっぱい!のはずなのに、別腹でティラミスもいただけちゃう余裕もあります。これは影の主役・お祖母ちゃん(イラリア・オッキーニ)の御陰だね。イタリアが大好きになる作品です。監督はフェルザンス・オスペテク。トルコから移住してきた人なんだとか。監督さんもイタリアが大好きなんですね。

老舗のパスタ会社の社長の次男トンマーゾ(リカルド・スカマルチョ)は、大学進学でローマに出た後そのまま居住。今日は兄アントニオ(アレッサンドロ・ブリィティオージ)の社長就任を家族で祝うため、故郷南イタリアのレッツェに帰郷します。その席でトンマーゾは、経営学ではなく文学部を卒業したこと、家業は継がず小説家になりたいこと、そしてゲイであることを家族に告白しようと思っています。しかし一同揃っての夕食会の時、兄が先に自分がゲイであることをカミングアウト。怒り狂った父はアントニオを勘当。ついでに血圧急上昇で入院してしまいます。家族一同動揺する中、父にお前が家業を継いでくれと懇願されたトンマーゾは、恋人の待つローマにすぐ帰るはずだったのに、そのまま実家にしばらく滞在するはめになります。

全然ノーマークの作品でした。それが拙掲示板で、原田芳雄追悼作のお知らせにレスを下さった方がいて、その時心斎橋シネマートでも上映ありと知りました。無事「野良猫ロック」と未公開作品「新世界」を鑑賞(こちらも楽しみました)。その時予告編で流していたのがコレ。予告編から爆笑するほど面白く、絶対これも観ようと決心。有り難きは映画好きのご縁ですね〜。本当に感謝感謝。Grazie!

冒頭に愛しい人と添えず、哀しみに沈む美しい花嫁の姿が。これがお祖母ちゃんの昔の姿だと最初に描写しているのが効いています。その辛さが、孫の代まで続くとは因果なものです。「他人の望む人生なんて、つまらない」が、この作品のキャッチ・コピーですが、長男として一生懸命家と会社を守ろうとしたアントニオ、自由に人生を謳歌出来る立場が一転、初めて兄の大変さを噛み締めるトンマーゾの頑張る姿を描き、ただ野放図に自由気ままを勧めているのではありません。自分を偽る哀しみ、家族の期待に添えない情けなさ。頑張った奥のそんな辛さを経験してこそ、本当の自分の人生が見えてくる、そう教えてくれます。

共同経営者の幼馴染のアルバ(ニコール・グリマウド)は、お金はあっても恵まれない家庭に育ち、情緒不安定。仕事は出来るけど友人はいません。精神病であるとも語ります。人生に捨て鉢気味なアルバが初めて心開いた相手が、ゲイのトンマーゾとは何とも皮肉です。次第に彼女を愛おしく感じるトンマーゾ。男の恋人のいるトンマーゾとアルバの関係を、お安くは描かず、大きな意味での人間愛に昇華させている数々の場面が、切なくも心暖まります。アントニオやトンマーゾと違い、家族に縁の薄い彼女には、私はこの描き方の方が幸せになると思います。

イタリア式食べて飲んで愛し合って喧嘩しての物語が、何故かお腹にもたれず清々しいのは、セックスシーンがなかったからかな?親愛のキスや、男性同士の事後の様子は映しますが、胸の谷間全開にさせて殿方を誘うのは、熟女さえもうじき卒業の淑女たちです。この目が腐る一歩手前のエロエロで笑わせておいて、哀しい彼女の過去を語らせるのは技ありでした。さすがイタリア映画!

トンマーゾのゲイの友人たちが、それを隠してトンマーゾの家族と接する場面は爆笑の連続です。しかし爆笑の裏に、如何に自分を偽るのが苦しいのかも理解出来る仕組みです。短髪に適度なマッチョの友人の、ピタピタのノースリブのオフタートルとパンツ姿に、「ゲイ丸出しだ」と他のゲイの友人に却下されるシーンでは、笑いながら考えさせられました。だってとっても似合ってたんだもん。太陽の燦々と降り注ぐ海ではしゃぐ彼らとアルバ。ひっそり隠れることないのよと、抱きしめたくなります。

男も女も騒がしくて滑稽、でも熱気いっぱいのこの作品で、気風の良さと器の大きさを最後の最後に披露したお祖母ちゃんの幕引きの仕方が、あっぱれです。会社を大きくしたはずのトンマーゾたちの父親も、まだまだ母親には勝てないものですね。

登場人物全て描き分けもくっきりしているので、知っている顔がいなくても、迷うことはありません。ラストの大円団は、息子二人がゲイで、家が絶えるなんて事ないのよ、好きな道を生きなさいと優しく諭されているようです。孫が女の子二人なのも、そう言う意味を含んでいるのかも?

いや〜「人生ここにあり!」と言い、イタリア映画最高です。最近はラテンと言うとスペイン映画ばっかり観ていましたが、古くはソフィア・ローレンやマストロヤンニの主演作がいっぱい日本でも公開されてたし、これからもどんどん公開して欲しいな。折しも10月には御大ヴィスコンティ大先生の「ベニスに死す」もリバイバルするし、この秋はイタリアに染まりたい気分です。


2011年09月19日(月) 「探偵はBARにいる」

豪華キャストの期首特番の二時間ドラマ。と言う感じかな?映画ならではだったのは、暴力シーンがふんだんにあって、流血が多かった、それくらいです。ストーリーと関係ない所で、たくさんゆるく笑わせる箇所があったり、テイストは悪くはないですが、う〜ん微妙な感じが残ります。監督は橋本一。

北海道のススキノで探偵をしている「俺」(大泉洋)。助手の高田(松田龍平)と共に、危ない仕事もこなしています。携帯は持たない主義で、連絡はいつものバー「KELLER OOHATA」の電話でしています。ある日「コンドウ キョウコ」と言う女性からの依頼を受けた「俺」は、複雑に絡み合う殺人事件に巻き込まれます。

昨日布施ラインシネマで観ました。ラインシネマね、今月から会員制度が変わったので、手続きがあったんですよ。有料会員は今迄6本鑑賞で一本無料が、5本になったの。それでポイント貯まってたので、手続き変更も兼ねの鑑賞です。何でも今上映中の作品で一番の観客動員、早くも続編制作決定と聞くと、ちょっと気になるでしょう?でも観た感想としては、そんなに大した作品じゃなかったなぁ。

良かったところは、名のある俳優、あっ、この人知ってる!的な俳優がわんさか出てきますが、みんなちゃんとキャラも確立、脚本も整理されていて、誰一人迷子にならず役割を果たしていた事。登場人物が多いので、大泉&龍平のコンビ以外は場面も少なく、脇もだれることなく光っていました。特に良かったのは高島政伸。全然配役とストーリーを頭に入れず観たので、へぇ〜こんな役もやるのかと、ちょっと新鮮でした。他は田口トモロヲ。でも彼はいつもいいもんね。

もちろん主役コンビも良かったです。「俺」は警察の塀に登って、落っこちそうで落っこちない、そんなヤバイ仕事もこなしながら、根は善人のようで、心の中には熱い血が通っています。そんな「俺」を、ずれたコント風のユーモアを交えて、大泉洋が好演しています。私は彼のハリのある声が好きで、高いのですが耳障りが良い。決してハンサムではないですが人に好かれそうな顔立ちで、強いくせ毛とスラッとした長身の個性がミスマッチで、喜劇でもシリアスでも両方大丈夫そうなのが魅力だと思います。そんな彼の個性は充分活かせていました。

龍平も飄々として鈍いのか強いのか、何を考えてるんだかわからない高田を、大泉と息の合った間合いで、チャーミングに好演しています。ちょっと「まほろば駅前多田便利軒」の行天と似た個性でしたが、こちらの方が軽妙です。他は上にも書いたけど、若い二人に頑張ってもらって、アクションや流血シーンもちゃんと挿入されていたことです。

ダメ、とも言い切れないですが、登場人物は皆背景を描かずとも、充分際立って描けているのに、肝心のストーリーが平凡。途中で筋がわかっちゃう。こんだけあちこち騒ぎになっているのに、一度も警察の取調べがないのもおかしいし、黒幕と警察の癒着があるなら、匂わす台詞は必要です。「コンドウ キョウコ」の正体も、上手くミスリード出来ているとは言い難いです。

全体のムードが悪くなかったので、登場人物を少し省略して、某ヨットスクールもどきな右翼団体や、霧島(西田敏行)の背景を描き込んだら、味わい深さが残った気がします。

悪くはないけど、これが大ヒットとは意外です。これも大泉洋がバンバン番宣に出たお陰かな?でも大味な大作がヒットするより、この手の個性的な小品がヒットした方が、映画好きとしては嬉しいです。そうか、個性が万人受けしやすかったのが勝因かも。

それにしても、龍平と言い翔太と言い、もう「松田優作の息子」と言う冠はいらなくなりましたね。お母さんの松田美由紀は私と同じ年。前妻から奪った形で結婚した夫が夭折したことは、彼女の胸には重いものを残したと想像します。若くして三人の子育ては大変だったでしょう。ずっと再婚しなかったのは、松田優作の未亡人・子供で有り続ける方が、自分にも子供たちにもメリットがあると計算したのかも。でもその計算こそが母親だと思います。私が彼女の友人なら、息子たちも立派になったから、そろそろ自分の幸せも考えたら?と言ってあげたいなぁ。

何だかんだ言いながら、続編も多分観ると思います。今度は松重豊もいっぱい出て欲しいな。彼ね、私の大好きなマッツ・ミケルセンに似てるんですよ〜、ねっ、似てるでしょ?



2011年09月15日(木) 「ハウスメイド」




え〜と、設定や内容が古臭いと言う感想をたくさん目にする作品です。私は感じるところがあったので、考察があたっているかはともかく、一生懸命書かせてもらいます。1960年製作の「下女」のリメイク。「下女」は子役にあのアン・ソンギが出演しているなど、ちょっとカルトチックな人気もあるサスペンスで、私も一度観たいなと思っている作品です。ご主人様のお手付きになった女中の悲哀とは、確かに時代がかったお話ですが、所々に挿入される演出やセリフに、今持って男尊女卑の思想に苛まれる、韓国女性の辛さを感じました。そして容赦ない階級社会の陰湿さ。映画が古いのではなく、未だ韓国社会が古いのではないか?そんな印象を受けました。今回ネタバレです。監督はイム・サンス。

上流階級の家庭の家政婦となった中年女性ウニ(チョン・ドヨン)。先輩メイドのビョンシクの厳しい指導の下、双子を妊娠中の妻ヘラと六才の娘ナミの世話を懸命にこなします。あるとき主人のフンから求められるまま、ウニは関係を持ってしまいます。妊娠したウニを、本人より先に気付いたビョンシクは、そのことをヘラの母に告げます。

冒頭、若く美しい娘たちが闊歩する、ソウルの歓楽街が出てきます。溌溂と勢いのある娘たちと対照的に、飲食店で働くのは年のいった美貌にも恵まれない女性ばかり。綺麗な人は水商売に行くのかしら?ウニは短大中退で両親もいません。韓国の学歴重視は日本の比ではなく、また氏素性、出身地に対しても今も厳しいと聞きます。社会の上昇気流からはみ出した女性たちを、映していたと思います。

ウニが簡単にフンを受け入れるので、頭が軽いように思った方も多いでしょう。しかし主人の言いつけと言うより、富豪の御曹司で物腰柔らかく、エレガントにピアノを弾くフンに対して、ウニが憧れを抱いていた描写がありました。そしてフンに対して「あぁ、この匂い」と、裸の男の肌に愛おしそうに抱きつきます。ずっとセックスしたかったんですね。服従ではなく、街でナンパされた男と寝るのと変わりないと思いました。その前に半裸の同僚女性に抱きつき眠るウニのシーンがありますが、あれは満たされぬ体を、女性同士で慰め合っていたのかもしれません。

双子は通常は大事を取り帝王切開ですが、普通分娩で産みたいと言うヘラ。「4人でも5人でも子供が欲しい」と言います。「子沢山が大変なのは、一般家庭よ」とも。前者は子供をたくさん産むことで、家庭で安定した居場所を作りたいのだと思いました。後者は育ちの良い人の言葉ではありません。

まだ若々しく充分女として魅力のあるヘラの母は、娘婿に対して抱きつき親愛の情を示します。一見西洋的ですが、私は義母として、はしたなく思いました。私が結婚当初まだ40代だった私の母は、私の夫の体に触れた事はありません。私の嫌悪感は、きっと韓国内でも共有していたと思います。

「この豪華な暮らしと比べたら、浮気くらいなんだ」と娘をたしなめるヘラの母。フンを陰で御曹司と呼び、何でも好きな物は手に入れてきた男だ、お前が妻で居る限り、ナミもお腹の子も、御曹司と同じ人生が送れるとも。どうもヘラは所謂成金の娘で、出自としては身分は低いのかも。母は玉の輿に乗った娘と共に手に入れた、名実ともの「上流社会」を、必死で死守したかったのでしょう。対するヘラは、愛しい夫に裏切られた事より、相手が年のいったメイドであることにプライドが傷つき、憤懣やるかたないように見えました。夫の子供の母は二人要らないと思うのは、当然ですが。

生まれはどこか、親は何の仕事をしているのか、先祖はどんな階級だったか、未だに韓国社会では最優先なのです。苦労して育てた息子が検事となったビョンシクが、酔っ払って「私は大韓民国の検事の母よ!」と、部屋で独り、怒りをぶちまけるシーンがありますが、これは息子はどうあれ、ビョンシクが自分たちのメイドである事で、生涯彼女を蔑むであろうフン一家に対しての怒りです。息子がどんなに出世しようと関係なし。まるでインドのカースト並です。

昼メロかと思うあれこれがあり、ヘラと母の手で流産させられたウニ。愚鈍ですが気立てが良く優しいウニは、一人で子供を育てる気であったのに。上流の男とは縁がなかったであろうウニは、最初これがきっかけで自分は這い上がれるかもと期待していましたが、結局はフンにはただの気まぐれ。娘ミナには、「どんな人でも敬意を持って接しろ。それが自分を高める」と教育する心とは裏腹、ウニを人並みに扱う気はないのです。フン、ヘラ、ヘラの母と、この家は傲慢と欺瞞の塊です。

私が絶句したのは、ヘラの母に対して「ウニの腹の子は私の子だ。私の子をどうしてお義母さんが勝手に流産させたのか?」と威圧的に物申した場面です。気性の激しいヘラの母でさえ、ひれ伏し謝ります。何これ?あんた浮気したあげく、妊娠までさせたんでしょ?なら嫁さんの母親に謝れよ。韓国の男尊女卑と階級社会の尊大さ傲慢さが、ここに極まれりと言う描写です。

ラストに不満が多いみたいですね。元作では家政婦は子供を殺して放火するのかな?子供は殺したはずです(これがアン・ソンギの役)。この作品では一人だけ自分に優しかったミナに「私の事を忘れないで」と最後の言葉を残し、ウニは焼身自殺。忌まわしい記憶の家を捨て、フン一家はどうも欧米のどこかで暮らしているようです。

さすがに今の時代、子殺しは描写できないでしょう。フンやヘラを惨殺するのも、子供が残されてしまう。そういう残酷な女性には、ウニは描かれていませんでした。「ビーデビル」のボンナムが、島民を根こそぎ殺戮したのは、我が子が亡くなったからです。また若いメイドを雇ったフンは、きっと同じ事を繰り返すでしょう。そしてアルコール依存症気味になったようなヘラと、修羅場を繰り返すことでしょう。

ナミは祖母がウニを流産させようとした場面を目撃しています。そしてウニの言葉。その意味がやがてわかる日が来るでしょう。フンは妻の出産のため、出張先から帰国するほど、何より子供が大事なのです。血にこだわる上流社会の一端です。けれど真実を理解したナミは、両親を嫌い蔑むでしょう。自分の人生で欲しい物は全て手に入れてきたフンは、娘の敬意は絶対手に入らないのです。韓国人の、そして上流社会の父親として、これほどの屈辱はありません。ウニは自らの命を賢いナミに託して、復讐しようとしたのじゃないでしょうか?それ以外、圧倒的に地位が上の彼らに、復讐する手立てがなかったのでしょう。

冒頭飛び降り自殺する女性が出てきます。ウニのように社会からはみ出し、絶望した人だったのだと、ラストに理解しました。「ビーデビル」といい、今の世の中でこのような作品が作られることに、韓国社会で脈々と続く悪しき常識に、暗澹たる気持ちになります。問題は男性側だけではなく、女性にも充分ありますよと言う気持ちが、ヘラの造形でしょう。昔ながらの夫に尽くし子を育てると言う「女の幸せ」を、私は否定しません。これも立派な幸せの在り方です。でも「金持ちの男と結婚して贅沢に暮らす」を目指す女性は、決して幸せではないと思います。

これを古臭いと言うなかれ。韓国だけじゃなく日本の女性も最近じゃ、仕事より専業主婦になりたい若い子が多いとか。大不況の折、仕事で苦労するのがイヤと言う本音も目にします。もうホントに嘆かわしいわ。結婚だって苦労の連続だよ?玉の輿願望の女性に、是非観ていただきたい作品です。


2011年09月11日(日) 「ピラニア3D」

じゃ〜ん!観て参りました。8月末の公開直後から観たかったのですが、難波や梅田のTOHOシネマズでは、夜7時代か9時代のレイトのみ。時間的に諦めていました。が、どんどん盛り上がる評価に諦めきれず、劇場検索したら、京都の二条でお昼1時から上映するじゃございませんか!

実はワタクシの三男めが今年春から某電鉄会社に勤めておりまして、家族券なるものが、毎月8枚配布されるのですね。特急以外はどこまでもタダと言う優れモノ、京都までタダで行けるのです。おまけにTOHOシネマズのポイントが貯まっており、3D料金だけで鑑賞可。しかしここで問題が・・・。高尚な作品とか特集上映ならいざ知らず、モノが「ピラニア3D」ですから!こんな酔狂、貞淑な主婦としては些か気が引けておったわけです。

パソコンの前でため息をついていたら、長男と次男が「どないしたん?」と聞くので、これこれしかじか。そしたら口々に「それは行くべきや」「そうや、観たいんやろ?何にも気にせんと、観ておいで」。もちろん内容はエログロおバカのパニック映画と知っての助言。そ、そうやんな!この年になって、恥ずかしがる事もないやんな!ワタクシのモットーは、家族の留守に大手をふって堂々と遊ぶ(映画観るだけなんですが、本数が一般の人と違いすぎ)なのですね。子供がみんな社会人になった今、「敵」は夫一人。当日夫は終日仕事で、帰宅は夕方。何の気後れがあろうか。と言う事で、はるばる大阪市内から出かけました。片道二時間かけた甲斐がありまくり、めっちゃ楽しかったです。

観光客で賑わうヴィクトリア湖。真夏の湖は、若者たちで大賑わいです。なのに保安官の母ジュリー(エリザベス・シュー)の言いつけで、ジェイク(スティーブン・R・マックィーン)は幼い弟と妹の子守りばかりで遊べません。何とか二人を言いくるめて湖まで遊びに来たジェイクは、ポルノ映画監督デリック(ジェリー・オコンネル)と知り合い、GFのケリー(ジェシカ・ゾー)と行動を共にすることに。その頃湖では、得体の知れないピラニアが繁殖していました。

ジョー・ダンテの「ピラニア」のリメイクです。元作はテレビで観たはずですが、覚えちゃいません(ごめん)。観たかった理由の一つは、監督がアレクサンドル・アジャだったこと。私には安心の監督で、私的に傑作だと思う「ヒルズ・ハブ・アイズ」や、苦く切ない幕切れが、ゴアホラーにしたら珍しく余韻を残した「ミラーズ」と、出来ればこれからずっと追いかけたい監督なのです。

リチャード・ドレイファスが出演なのは知っていましたが、まさか冒頭だけ出演とは。でもこれね、すんごい意味深なキャスティングですよ。ドレイファスが「ジョーズ」の主役三人の一人だったのは、周知の事。あの作品でどんな活躍をしたかを知っている観客には、今回彼の身の上に起こった出来事は、これからの展開を攪乱させるに十分です。その事を考えた上でのキャスティングだと思いました。

前半は若者の乱痴気騒ぎをメインに、おバカとお姉ちゃんのおっぱいのオンパレード。これってゴア主体のパニックの、いわば様式美でありまして、セオリーを踏襲。これでもかこれでもかのおっぱい攻撃なんですが、お姉ちゃんたちのレベルが高いのと、エロはエロでもセックスシーンそのものはありません。ちょこっとあっても水着着用。なので、太陽燦々と降り注ぐ中、アホだけどある意味とても健康的です。バカの若者たちも犯罪に結びつくような輩ではなく、ただのアホなので、安心してバカを愛でられます。

特に美しい裸体を惜しみなく披露したのが、ポルノ女優役のこの二人。水中での全裸はまるで人魚のようで、女のワタクシも惚れ惚れするほど美しい。特に右のケリー・ブルックは、脱ぎ要員とは思えぬ品もあり、すっかり気に入りました。













ジェイク役のマックィーンは、かのスティーブ・マックィーンの孫なんだって。ゴージャスでワイルドなお爺ちゃんと違い、爽やかな優等生タイプと見ました。ザック・エフロン風かな?絶対絶命には怒られるの覚悟でママに救いを求め、GFは若くても男として守ろうとする、好青年の役柄に合った演技でした。エリザベス・シューは老けたけどやっぱり綺麗。こちらもタフな保安官&ママを好演。ちょっとシャロン・ストーンに似てたなぁ。

まぁお話は単純なので、後は見せ方ですね。後半はピラニアが大活躍。時々飛び出してきては(3Dです)、不敵な眼差しでこちらを睨むのですが、まぁ〜憎たらしいのなんの。音もなく忍び寄ってきたかと思うとスカしたり、スカしたと思うと喰われたり、死んだと思っていると急に息を吹き返したりの描写も、今までのホラーの描写を踏襲しています。間合いが上手いので、ちゃんとびっくりしますよ。

グロの方も色々見せ方は頑張っていました。海、ピラニアと言う設定を存分に使って遊びまくり。あんなもん、こんなもんが目の前に飛び出します。そして笑える。いやグロが苦手な方には謎でしょうが、グロって結構笑えるんですよ。隙間から除くような隠微なグロもいいですけど、この作品のグロは健康的に(?)能天気に楽しめて最高でした。懐かしの若井はんじ・けんじの「アップダウンクイズ」を思い出す描写も良かったです(みんな知ってる〜?)。

とまぁ、ウハウハ喜びまくって、めっちゃ楽しんだ作品です。今まで観た3Dの中で一番面白かったです。元気も出た(いや本当に)ので、最近は週末にかためて観ていますが、今週は午後からの仕事前に、また映画館いっちゃおー!的気分です。そしてアジャ監督はなかなか器用なようで、みんな作風が違います。今後が本当に楽しみよね。続編が年末か来年に公開されるそうですが、アジャ監督ならまた観たいな。別の監督なら作品的にバッドな予感。まっ、それもこの手のジャンル映画にはお約束よね。


2011年09月08日(木) 「未来を生きる君たちへ」




観て二週間ほど経ってしまいました。デンマークのスサンネ・ビア監督の本年度アカデミー外国映画賞受賞作品です。今回は世間に不信感を抱く子供たちを軸に使い、人間の暴力性と親子のあり方に対して問うています。「ある愛の風景」「アフター・ウェディング」程の感銘は受けず、いささか小粒ですが、ハリウッドに渡り、自分の作風をセルフリメイクしたような「悲しみが乾くまで」よりは、ずっと出来の良い作品でした。やはり彼女には、デンマークが似合うようです。

別居中の両親に心を痛めるエリアス。スウェーデン人の彼は、学校で執拗ないじめにあっています。アントンとマリアンの両親も学校に掛け合いますが、拉致があきません。そんな時、転校生のクリスチャンが、エリアスをいじめる相手を叩きのめします。クリスチャンも母親を亡くしたばかりで、その事について父クラウスにわだかまりを持っています。家庭に不信感を持つ二人は、次第に親しくなっていきます。

学校以外でも、デンマークではスウェーデン人が差別されている描写が出てきます。映画友達の方にお聞きしたのですが、かつてはスウェーデンが属国であったため、まだその名残があるのだとか。どこの国でもこういった風景はあるのでしょう。

いじめに対して、学校の対応があまりに杜撰です。学校は日本でも兎や角言われますが、私の知る限りいじめに対しては、先生方はもっと熱意を持って解決できるよう対処していました。それが良い方向へ行くとは限りませんでしたが。他国の人から、住みよい国の筆頭に挙げられるデンマークですが、どうもデンマーク人から「それは違う」と言われているようです。

エリアスの両親は共に医師です。アントンはアフリカの難民キャンプで診察にあたっており、エリアスはそんな父を誇りに思っていて、父を許さない母を嫌います。しかし夫婦の破綻は、実はアントンの浮気によるもの。賢明なマリアンは、事の発端は子供には話していないのでしょう。よりを戻したい夫に拒絶する妻。この辺の微妙な夫婦の心の機微は、さすがはメロドラマの名手であるビアの演出は、冴え渡ります。

行き違いで全く関係ないのに、子供たちの前で中年男に殴られるアントン。何故やり返さないかと言う子供たちに、同じようにやり返すから、戦争が始まると説くアントン。それを証明するように、その男のところに出向き、何故殴ったのかと説明を求めます。野蛮な男は当然また殴る。殴られっぱなしでも、毅然と構えるアントン。そして子供たちに、あの男は哀れな男なのだ、お父さんは全然痛くない、これが正義だと教えます。

う〜ん、実は私はこのシーンがすごく嫌。ここに感銘を受けた方には申し訳ないですが、知識人の奢りを感じます。相手が同じようなインテリ層ならともかく、ブルーカラーの工員です。教養や嗜みがない奴だから、すぐ手が出るのだと、子供たちには綺麗事を並べるアントンの、腹の中が透けるようなのです。当然子供たちは納得せず、とてつもないことを仕出かそうとします。

しかしこれは、アントンと言う男性を通して、人間の複雑な多面性を表していたのですね。この直後、難民キャンプで「医師の良心」を真っ当していたアントンが、「人としての良心」に抗えず、行なってしまったこと。正直この時、私は胸がすく思いがしました。そして直後、この気持ちは正しいのか?と、自問してしまうのです。ここはビアの真骨頂でしょう。

公的には立派で聖人のようなアントンは、裏では妻を傷つけ下層の人を見下し、暴力には暴力で始末をつける。自覚もあれば無自覚な事もあります。しかし表の自分だけを子供に見せても、やがて子供はそれを見透かすのです。

その時期が来ていたのがクリスチャン。出来の良い息子が急に暴力的になり、その原因がわからない。転校を繰り返す息子は、今までも暴力でねじ伏せ居場所を作っていたのに、そのことに全く気づかない。家庭を顧みない父親は、母を介してコントロール出来ていた息子との関係は、母の死で問題が噴き出します。

張り詰めた空気の続く展開の中、やっと光を照らしたのはエリアスの行動でした。エリアスの行動は確かに崇高です。これで荒ぶる子供たちの魂を鎮めるのには充分。ですが、世間にはびこる「暴力」に対しての答えには、なっていないような。子供の純真な心を見習って、世界が平和になるようにと言う結論なら、些か陳腐な気がします。この出来事に、車の持ち主はどういうリアクションをしたのか?そこにこそ、暴力に対しての答えがあるのでは?

と、色々文句を言いつつも、常に射るような眼差しのクリスチャンが、子供らしい哀楽を見せる終盤は、ああ良かったと、涙が止まりませんでした。多少不満も残りましたが、手応えはまずまず。子供が題材という新境地も、それなりに上手く乗り切ったビア監督の次作も、期待したいと思います。


ケイケイ |MAILHomePage