ケイケイの映画日記
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2009年06月28日(日) |
「ディア・ドクター」 |
前作「ゆれる」で、たくさんの映画ファンを唸らせた、西川美和監督の三年ぶりの新作。今回もすごい、素晴らしい。西川監督は丹念かつ的確に、登場人物の心理を浮き彫りにするのが非常に上手い人です。「ゆれる」では男兄弟、今作では中年男性医師ですが、まだ三十代半ばの愛らしい女性(可愛いんですよ、この人)、何故こうも男性心理が理解できるのか、本当に驚愕してしまいます。今回は僻地医療にも言及しており、社会派の面も感じさせる秀作です。
山間にある人工1500人の小さな村。村でたった一人の診療所医師・伊野(笑福亭鶴瓶)は、看護師の朱美(余貴美子)と共に、献身的に患者の治療にあたっています。とりわけ伊能は、長らく無医村だった村に来て三年半、村人からは神のように慕われています。そこへ東京から研修医の相馬(瑛太)がやってきます。最初はいやいや研修にあたっていた相馬ですが、伊野に対する絶大な村人たちの信頼感を目の当たりにし、研修期間が終わっても、ここに残りたいと思い始めます。そんなある日、一人暮らしの老夫人かづ子(八千草薫)が、自分の身体について、伊能にある「嘘」を頼んだことから、伊野は失跡してしまいます。実は伊野自身も重大な「嘘」を抱えていました。
私は役者鶴瓶に対しては疎く、何故彼が主役?といぶかしかったのですが、終わってみれば、彼ほどこの役に適任な人はいないと感じます。誰でもすぐ溶け込めるような、人を選ばない愛嬌のある笑顔。しかしふとした拍子に見せる小さな目の奥は、猜疑心の塊のようです。見方によれば小悪党に感じ、もしかしたらもっと悪党かも知れないと思わす瞬間もあります。直後にそれを打ち消すように、また笑顔。村人にはわからず、観客だけにわかるように感じる演出です。
伊野の嘘に加担するのが、医師以外の医療関係者だというのが、医療を取り巻く環境の、根深い問題を提議しています。伊能の嘘を知りつつ加担する薬問屋の営業の斎門(香川照之)。彼が吐露する国家資格のない、末端で医療に携わる者のやりがいは、私も病院で働く医療事務員(それもパート)なので、非常に共感するものがありました。なので「年寄りを自分の自慰に使っているのか?」という刑事(松重豊)の言葉は、冷水を浴びせられたような気がしました。確かに患者の役に立っている、そういう思い込みは、ただの自己満足なのかも知れません。しかし伊能の嘘を、「金なのか?愛なのか?」斎門に問う刑事に見せた彼の行動は、伊野を庇うだけではなく、自らの自尊心も示しています。
ベテラン看護師の朱美とて、当初から伊野の嘘には気付いていたはず。しかし老衰でみとる以外、これといって命に関わる病気が起こらなかったのでしょう、見て見ぬふりをしていのだと思います。理由はやはり、無医村であったから。なので重篤な状態で運ばれた患者の容態を朱美が先に見抜いたシーンは、この作品一番の緊張感が溢れます。「長く救急(病院)にいました。お手伝い出来ると思います」という控えめな言葉が、医師と看護師の力関係を物語っています。
病院にはこの他、理学療法士、臨床検査技師、医師以外のたくさんの医療者がおり、外をみれば、薬問屋以外にも製薬会社、医療機器メーカーなど、たくさんの人たちから、医療と言うのは成り立っているはず。医師だけで医療は成り立っているのではありません。甚だ未熟な医療事務員である私でさえ、「医師」という名の前には、どんなに理不尽な言葉にも口応え出来ず、悔しい思いをした経験があります。上記の人達はベテランであればあるほど、仕事が出来れば出来るほど、砂を噛む耐えがたい思いをたくさんしているはずです。医療の最前線で働いていた、それも優秀であるだろう朱美が、何故こんな僻地で看護師をしているのか、その理由もここにあるのでしょう。
れっきとした医師であるはずの相馬だけが、伊野の嘘が見抜けませんでした。このことからも、医療業界と言うのは、経験がものを言う世界だとわかります。伊能の嘘によって、僻地医療への夢と希望が砕かれた相馬。しかし伊能の元で学んだ彼の言葉には、患者側への提言も含まれます。「東京の病院では、患者の逆恨みや苦情で追い詰められていたのに、ここでは医師への感謝と敬意に満ちていて、本来のあるべき姿がある。医者としてのやりがいを感じるんです。」この言葉は、良き医師を育てるのは、患者の責任でもあるのだと思いました。
自分の父親の本当の仕事を、かづ子以外には語らなかった伊野。父親の仕事が彼にコンプレックスを持たせ、彼に嘘をつかせた起因であったと思います。どんなに優秀な大学を出ていたとて、父親の仕事を彼が口にすれば、なーんだと、相手は伊野をみくびり軽く侮蔑する、そんなことが多々あったことは、想像に難くありません。そのことで父の仕事に憧れ、憎む伊野がいたはずです。
「次々投げてくる弾」を的確に打ち返すことは、伊野に陶酔感をもたらすと同時に、常に逃げ出したい、とてつもない緊張感をもたらしたはず。我慢出来ず、時々冗談交じりに伊野が吐露する「真実」。それは多分、逃げ出したい気持ちが数段勝っていたと思わせます。それが出来なかったのは、長らくこの地が無医村であったためです。斎門の語った言葉が全てでしょう。例え嘘から始まったことでも、伊野なりの誠意と責任があるのです。そして村全体で、伊野の嘘を真実にしてしまったのだという、刑事の言葉も真理です。しかし、誰がそのことで村民を責める権利があるのでしょうか?
かづ子の娘であり医師であるりつ子(井川遙)。無医村である故郷を知るのに、自分の親でさえほったらかしの彼女。姉たちは陰で詰りますが、その事に医師であるりつ子が、心を痛めないはずはありません。しかしどうしようもないほど、都会の医師たちは多忙なのです。多分心身ともにすり減った日々を送るであろう彼女は、「あなたは伊野を訴えることも出来ます」という刑事の言葉に、「村の人に訴えられるのは、私の方かもわかりません」と、自嘲気味に答えます。地方出身のたくさんの医師の、内心の忸怩たる思いを、監督は彼女で表現したのだと思います。そして「彼(伊野)が、どういう風に母を診る気であったのか、知りたい」という彼女の言葉は、今のままの医療ではいけないのだという、医師側からの危機感も感じます。
西川監督の作家性でもある、常にスクリーンから漂う緊張感。しかしこの作品からは、一瞬気を抜けるユーモアもふんだんにありました。例えば老衰で亡くなる寸前の老人(高橋昌也)を往診するシーン。亡くなる事を前提に話を進める家族を尻目に、蘇生の準備をする相馬。それを遮って、「よう頑張った」と、伊野が老人の「遺体」を抱きしめ、心から労った後に起きた「奇跡」。そのユーモアで表現した部分こそ、監督が医師と患者との本当のあるべき姿を提言していたのかと、今感じています。かづ子との関係もしかりです。
今の医療を取り巻く環境は細分化され、本当に難しく問題が山積みです。しかし軸になるのは、病気を治したい患者と医療者側の、一丸となった強い気持ちであるのは、今も昔も変わりはないはず。片方に偏らず、両方にしっかり目くばせを効かせた作品で、とても考えさせられることがたくさんありました。病気は誰でもなるもの、医師には敬意を持ち、かつ奥する事無く何でも相談できる対等な環境を作らねばと、患者側でもある私は、痛感した作品です。
またまた素晴らしい!こんなに観る度に心が揺さぶられては、感受性が持ちません。この作品で念願のオスカー主演女優賞を取ったケイト・ウィンスレットですが、美人なのに年齢の割には貫禄があり、やや老けて見える彼女の特性と、いつもながらのマックスの演技力で、理解されにくいはずのハンナ・シュミットという女性の哀しみが、切々と私に迫ってきます。監督は「めぐりあう時間たち」のスティーブン・ダルトリー。
1958年のドイツ。15歳のマイケル(デヴィッド・クロス、成人後レイフ・ファインズ)は、道端で病に倒れた自分を介抱してくれたハンナ(ケイト・ウィンスレット)と、ひょんなことから関係を持ちます。15歳の少年と30半ばの女性。彼女の肉体の虜になってしまうマイケル。ハンナはセックス前の儀式として、本を朗読してくれるよう、マイケルに頼みます。夏が終わろうとする時、何も告げずマイケルの前から去ったハンナ。傷心のマイケルが次の彼女と再会したのは、8年後。法科大学生となったマイケルの前に現れたのは、ナチスの親衛隊員として裁判にかけられていた43歳になったハンナでした。
偶然から知り合った二人ですが、唐突なハンナからの誘いにはびっくり。年齢から考えての分別も全くありません。しかし、映画が続くに従って、何故彼女があのような激情にかられたのか、手に取る様に浮かび上がります。
マイケルには当然初めての女性で、この歳頃の子が女性を知ると、のめり込んでしまうのは無理からぬこと。大胆な濡れ場もたくさん出てきますが、あまり猥褻に感じないのは、マイケル演じるクロスの、この歳頃の男子の純情さが、滲み出ていた演技のお陰でしょう。そして儀式のような朗読。文芸作からコミックまで、ハンナの喜ぶ顔が見たくて、せっせと本を選び朗読するマイケル。「恋する少年」の喜びに溢れています。
対するハンナですが、息子のような歳頃の子を弄んでいるようには、私には見えませんでした。それどころか、些細な事で痴話げんかするわ、女の我がままを振りまき、マイケルを困らせるわで、まるで年齢差を感じさせません。これも後々理解出来るのですが、彼女はこの時「対等な恋」がしたかったのだと思います。
ハンナはある秘密を抱えていました。それを言えなくて、他の親衛隊の看守であった女性たちよりも、重罰を受けます。その秘密は前半でも伏線があり、私には早くにわかったのですが、秘密を守りたい彼女の狼狽を、ケイトは絶妙の演技でみせてくれます。人によっては、何故このことくらいで、と思う人もいるでしょう。しかし彼女にとってこの秘密は、自分にとっての尊厳を守る事だったのでしょう。
裁判官の問いに答えた彼女の、バカ正直で全く隙のない答え。それは彼女の折り目正しく秩序を守る、しかし融通が利かず頑固な性格も表しています。昇進を前にしては、転々と職を変えたのも秘密のせい。ここには、誇り高くて、秘密を抱えた自分を受け入れられない、ハンナの哀しさがあります。
他人から見れば、滑稽なプライドでしょう。しかし、人には誰でも触れられたくない部分があるはず。収容所の生き残り女性は、ハンナを称して「人間味のある知性的な人で、他の看守とは違った」と証言します。彼女の秘密は教育を受ける機会を奪われたこと意味します。一つ嘘を重ねると、人とはその嘘を隠すため、次々と嘘を重ね無くてはいけません。自分の生い立ち、家族、何故そうなったか、自分の過去が暴露されるかと思うと、ハンナには言えなかったのでしょう。一生牢獄に繋がれても構わない覚悟をさせるほどの苦しみ。その苦しみをずっと抱えてきたハンナの哀しみが私に入ってしまい、号泣してしまいました。この秘密さえなければ、職を転々とすることもなければ、彼女はナチスの看守になど、ならなかったと思います。
対するマイケル。かつて愛した思い出の女性は、ナチスの親衛隊だったという重荷が、ずっと彼の人生を支配します。そして彼女の秘密に気付いてしまうという二重の重荷が、マイケルを生涯苦しめます。ドイツではナチスというと酔棄すべき対象として、戦後徹底的に学校教育で教えられたはずです。しかしハンナが目の前に現れるまで、マイケルはその事を身近に感じたことはなかったでしょう。かつてのナチスの残骸を観て回るマイケル。ハンナへの嫌悪と哀れさ、それが甘美だった思い出と混濁して、複雑という言葉だけでは、片づけられなかったでしょう。一生を支配したその感情のせいで、彼は離婚し親と疎遠になったのかと感じました。
後年意を決して、牢獄のハンナに朗読テープを送るマイケル。その事がきっかけで、自分の秘密を克服するハンナ。誰にも知られず誇りも傷つけず、彼女が秘密を克服する場所が牢獄だったなんて。しかし新しい自分に変わってゆく喜びにふるえる彼女は、かつてハンナの肉体によって、大人の男性への階段を上った、少年期のマイケルのようでした。今度はハンナがマイケルを貪り求めているのです。
恋する女性に戻ったハンナでしたが、マイケルのある問いで現実に引き戻されます。思えば秘密の為、何人の男性が前に表れても、卑屈になってしまう自分がいたのでしょう。かつての無分別な行動は、女性として年齢的に崖っぷちにいたハンナが、自然な自分を出せる、対等な恋を一度でもいいからしてみたいという、女心からではないでしょうか?それには20歳の年齢差は、重要だったのだと思います。
頑なに自分の誇りを守ったハンナですが、マイケルへの答えは、伝言に全て込められていました。不器用な誇り高さを最後まで守ったハンナを、私は理解してあげたいと、心から思います。
前面にハンナの哀しみが溢れているので、ともすればナチス擁護と誤解されないための配慮でしょうか、二役で収容所の生き残り女性を演じるレナ・オリンの造形が秀逸。私は大好きな女優さんですが、凛々しく気高く聡明なユダヤ人女性を好演しています。彼女の言葉からは、ナチスの罪は未来永劫許されないが、ハンナ個人は受け入れようとする隙間も覗かせます。彼女の好演で、欧米におけるナチスの存在が、他の国にも明確になったように思います。
レイフ・ファインズも相変わらず素敵。恋に苦しむ男の憂鬱を演じると、天下一品の人です。ジェレミー・アイアンズが老境に差しかかってきたので、この手のキャラは、当分彼の独壇場でしょう。しかし若き日のマイケルを演じたクロスが、レイフに見劣りない素晴らしい演技だったのは、嬉しい誤算でした。
年齢差のある男女の恋から始まる私的な事柄を、人の尊厳とは何か?、教育の大切さ、更にはナチスを通じて戦争についても考える時を与えてくれる、ぎっしり内容の濃い作品です。私は最初から最後まで、ずっと胸が締め付けられたままでした。傑作だと思います。
うわっ、もうすっごく良かった!老レスラーの復活劇かと思いきや、復活なんか全然しないし、老いの孤独とみじめさが画面いっぱい広がるのに、主人公のプロレスにしがみつくレスラーの性が、万感胸に迫るのです。そして壮絶で苦いはずの幕切れの、とてつもない幸福感。本当に素晴らしい!監督はダーレン・アロノフスキー。
80年代に一世を風靡したレスラーのランディ(ミッキー・ローク)。今は落ちぶれて、平日はスーパーで働き、週末はドサ周りで試合をするプロレスラーです。ある試合の後、倒れた彼は、長年の筋肉増強剤や鎮痛剤のせいか、彼の心臓はボロボロで、バイパス手術を施され、もうリングには立てません。心寂しくなった彼は、なじみのストリッパー、キャシディ(マリサ・トメイ)に会いに行きます。そこでキャシディから娘に会う事を薦められ、数年ぶりに娘ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)に会いに行きます。
冒頭往年のランディのスーパースターぶりを派手に見せた直後、場末の試合で僅かなギャラをもらう姿を映し、現在の彼の様子を上手く浮き上がらせています。リング上では流血のファイトを見せるプロレスラーたちですが、楽屋裏では実に和気あいあい。組み合わせが決まると、二人で段取りを決めどちらがどう立ち回るか、話し合います。こう書くと、やらせみたいですが、プロレスはやらせではなく、ショーです。それも命がけの。
筋書きがあるのは、ファンが一番良く知っているはず。それでも熱狂するのは、怪我や流血も恐れず、磨き上げた肉体を使った最高の技を、観客に楽しんでもうおうと懸命な彼らを、理解しリスペクトする心があるからでしょう。
トレーラーハウスの家賃が払えずとも、ロングの髪を金髪に染め、逞しく見えるように日焼けサロンに通うランディ。長年ステロイドなど、筋肉増強剤も使っていたのでしょう。鎮痛剤をお菓子のようにかじる姿も、若いならともかく、老境に差し掛かる今は痛ましいです。もちろん肉体的なトレーニングも欠かしません。若いレスラーたちが、一様にランディに敬意を表するのは、かつて名を馳せたからだけではなく、老いた今でも、「プロ」レスラーとして、たゆまぬ努力を続ける彼に、プロレスへの深い愛を観ているからでしょう。
寂しさからか、憎からず思っているキャシディに好意以上のものを見せるランディ。年増ストリッパーとして、屈辱的な客の冷やかしを聞き流すキャシディとて、同じ種の寂しさや侘しさは感じています。しかし素直になれない彼女。「私はこぶつきなの。そんな女、いやでしょう?」との言葉に、ランディを傷つけまいとする、聡明な女心が覗きます。本心はランディに惹かれる彼女ですが、子供のいるキャシディにとって必要なのは、子供ともども愛してくれて、安定した生活を送らせてくれる人のはず。ランディは対極にいる人です。決して自分の熱情だけでは突っ走れません。
ローク以上に私が期待したトメイですが、底辺に生きるシングルマザーの、包容力や母性、女としての経験値の高さを隅々まで感じさせるキャシディを、豊かにきめ細かく演じて、本当に素晴らしい!誰だって好きになりますよ、こんな女性なら。ストリッパーとしての妖艶さも、あまりに脱ぎっぷりがよくて、同性の私も、その気風の良さに感激するほど。40半ばのはずですが、プロポーションも抜群だったし、踊りも本職さんに習ったそうで、とてもセクシーでした。
娘役のウッドも、負けず劣らず良かったです。最初確執のある父を拒否しながら、すぐ受け入れる様は、素直な良い子であると感じさせます。親に愛されなかったと思う子供は、どこかしら自分に自信がなく、己を否定しがちです。そのことに、彼女はまだ気づいていないはず。あの成り行きは、ステファニーの年齢からは当然で、大人として親と接せられない子供の心を、ウッドも胸に沁み入るような演技でみせてくれます。
一時は引退を納得する彼が、引退した往年の選手たちとともに出席したサイン会。すっかり老いた車椅子や義足の元レスラーの姿を映します。そこにはもう「プロレスラー」の面影は全くありません。場末でも何でも、自分の輝く場所はどこなのか、彼は思い知ったのではないでしょうか?
ラストの試合で語るランディの、「俺の引退を決めていいのはファンだけだ。ファンが俺の家族だ」との言葉は、とても感動的です。本当の家族からは逃げられ、愛する女性との間ももどかしく進展しない、そんなろくでなしで不器用な男を心から愛してくれるファンを、家族だと言い切るランディ。彼の居場所は、リングしかありません。それは寂しさからだけではなく、虚構にしか生きられないからでもなく、ランディという男の宿命ではないかと思います。決して現実逃避だとは、私は思いませんでした。ストップモーションで終わるラストは、観る人に委ねられますが、私には「至福」と言う言葉しか、頭に浮かびませんでした。
大好演の女性二人に支えられ、アロノフスキーがランディ役に熱望したというロークが、期待以上の演技でとにかくお見事でした。どうしても本当のロークの俳優としてのキャリアがダブって感じますが、それも良いスパイスでしょう。セクシー系の優男だった人ですが、こんなにワイルドなろくでなし親父が似合うようになるなんて、人生捨てたもんじゃないですね。私は「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の彼が一番好きでした。その頃の画像です。
まっ、今とだいぶ違いますが、今作で彼のファンになる人も多いかも?とにかく抜群のおススメ作品です。私はアロノフスキー作品は初めてですが、多分今までの作風とは異なっていると思います。プロレスラーの生きざまという骨太の幹を主体に、底辺に生きる人々へ、厳しくも温かい眼差しで繊細に描いた秀作でした。
2009年06月13日(土) |
「ターミネーター4」 |
本日より公開。実を言うと、先行上映で先週の日曜日に観ています。忙しかったので書けなかった、というのもあります。でもそれ以上に、めでたさも小くらい、という感想なので、書くにも燃えるもんがないのだねぇ。それが延び延びになっていた最大の理由です。
2018年。スカイネットが起こした審判の日を生き延びたジョン・コナー(クリスチャン・ベール)は、抵抗軍として戦士として戦っています。そんな時、マーカス・ライト(サム・ワーシントン)と名乗る人物と巡り合います。マーカスは敵か味方か?意外にもマーカスは、将来ジョンの父親となるカイル・リース(アントン・イエルチン)と関わりがありました。
このシリーズには愛着があってですね、皆さん不評の「3」だって結構楽しめた口です。いや内容はほとんど忘れていますが、クリスタナ・ローケンの女ターミネーターが気に入ったんでね、全然大丈夫でした。しかし!今回のターミネータって、全然「人間もどき」ではないのですね。アンドロイドではなく、ロボットなわけ。それで巨大化したりですね、「トランスフォーマー」かい!の場面が出てきたり、荒廃した町は、懐かしの「マッドマックス」のようです。
確かにお金をかけたアクション場面は、華麗ではなく重厚でキレがあり、見応えは充分。ストーリー的にも格段文句があるわけじゃないです。でも私的にはどれもこれも「フツー」。それで?という感じなんですね。
今日は「2」がテレビ放映されていましたが、T800とジョンの交流、狂信的になっているサラの心を、幼いジョンが抱きとめる風景など、隋所隋所にドラマ部分にも厚みがあり、それが悲観的で壮大な未来感に、光明を感じさせる部分でもあったと思います。それが今回ほとんどなし。あのラストで感じろと言われてもあなた、安直過ぎです。
アクションだって、私がこのシリーズに期待しているのは、どんな魅力的な敵方ターミネーターが出てくるか?なんで、この作品のように、別に「ターミネーター」でなくてもええやんけ、的なロボットでは不満です。アクションもお金をかけて大迫力!というのではなく、「2」で見せたシュワちゃんのライフルさばき(劇場で観た時、私が「わー、かっこええ!」と言うと、夫が「あれは『ライフルマン』でもやっていた。」と言っとりました。チャック・コナーズ?)や超人同士の肉弾相撃つ戦いであって、こんな壮大なもん、あんまりいらんわけ。
今回ワーシントン演じるマーカスが謎の存在として出てきますが、私はオチが予想出来たので、これも不発。ただしワーシントンは好演で、非情になりきれない男の心情を、男っぽさの中に微妙に見え隠れさせて、とても魅力的で、ベールより数段魅力的。でも数段って、あかんでしょ?
今回私が大いに期待したのは、御贔屓ベールがジョン役だったこと。しかし華がないのにも程がある!という地味さ加減です。「ダークナイト」でも同じこと感じましたが、あれはヒース・レジャー、一世一代という名演技の遺作ということで、割り引いて観てあげねばと同情的でしたが、今回反論の余地なし。主役がこの存在感の薄さは何?将来自分の父となるカイルは、過去に送り込むことで死ぬ運命なのは周知のこと。少年の頃のカイルを見つけ出した時など、もっとこう、瞬間的に観る側に複雑な幸福感を見せる演技をしないと。夫が夫なら嫁役のブライス・ダラス・ハワードもダメダメ。こんなに魅力の薄い彼女も初めてです。この役は、いてもいなくても一緒。ついでに妊娠している設定も、全然生きてないし。
と夫に不満を言うと、「妊娠は続編作りそうやから、それで使うんちゃうか?」とのこと。なるほど。それが戦犯やな。調べると後2作作る予定だとか。だから壮大な前振り的な、大味な作品となったんですね。この頃こういう作りの大作が多いですが、この風潮は何とかならんもんでしょうか?連続ドラマやないねんから、一本一本で勝負してもらいたいもんです。
2009年06月07日(日) |
「60歳のラブレター」 |
なるほど・・・。夫婦ものだし、私は楽しめそうだなと予告編で感じていたのですが、仲良くしていただいている同じ年の映画友達の方が、公開直後ダメ出しされていて、嫌な予感が。予告編の方が良かったです。あまり出来のよろしくない、大人の寓話でした。今回少々ネタばれです。
橘孝平(中村雅俊)とちひろ(原田美枝子)夫妻は結婚30年。仕事一筋で家庭を省みず、あげく愛人まで作る孝平と、専業主婦として結婚生活を耐え忍んできたちひろは、孝平の定年を機に離婚します。魚屋を営む正彦(イッセー尾形)と光江(綾戸智恵)夫婦は、口は悪いが仲の良い夫婦です。しかし光江に脳腫瘍が見つかり、二人はうろたえます。妻を五年前に亡くした医師の佐伯(井上順)と、独身で50代を迎えた翻訳家の麗子(戸田慶子)は、仕事を通じて知り合い、お互い魅かれあっていきます。
この三組のカップルが絡んでいくのですが、その辺はよどみなく無理がありません。上手い構成で、この辺はさすが秀作「キサラギ」の脚本家古沢良太だなぁと言う感じ(だから私は観にいったのだ)。でも彼の力量の片鱗も、今回はこれだけでした。
微妙な夫婦や熟年者の心の機微は表現出来ていますが、その手法は古臭く、リアリティも中途半端。孝平の造形は若々しいを通り越して、あれは幼稚ってもんです。60もなれば、自分が社会で活躍出来たのは、会社と言うバックがあってこそと、普通はわかっているもんでしょう?それを俺だけの力だと思い上がるのは、30代止まりじゃないの?あげく若い愛人とパトロンではなく、現場の共同経営者として新たなチャレンジなんて、バカじゃないの?と、私は口がぽか〜ん。
妻の方は原田美枝子の好演により、そこそこ納得出来ます。しかしいくら何でも、愛人の存在や子供が生まれても三週間も会いに来ない夫に、口応え一つしたことのない妻なんて、いるんですかね?麗子のてほどきで美しく生まれ変わったちひろ。「こんな原石をほったらかすなんて、それだけでもひどい夫だ」と麗子は言いますが、それって夫だけの罪?エリートで家庭を顧みないというのは、言い換えればお金には不自由せず自由な時間はたっぷりってことです。ならば発想の転換で、子供の手が離れれば働きに行くなり勉強するなり、自分磨きする時間はあったはず。このままのちひろを観客に受け入れるようにするには、長年親の介護で苦労したなど、別エピソードも挿入する方が良かったかも。でも原田美枝子の「小さな箱入り娘→世間知らずの貞淑な主婦」ぶりは、とても良かったですよ。
ちひろに興味を示す流行作家に石黒賢というのもなぁ。彼は40代半ばのはず。はぶりの良い有名人で独身である彼が、何故面白味なく、従順なだけの10才前後年上の彼女に興味を示すの?これも説得力がありません。ちひろと同じ年代か、それとももう少し上で、夫だった孝平より妻と言うものの存在に感謝し、認める男性はいくらでもいます。そんな釣り合った年齢の俳優、例えば長谷川初範などに演じてもらえば、素敵な展開を期待出来てたのにと、残念です。
他二組のカップルはそこそこの出来栄えです。特に魚屋夫婦の描き方は秀逸。病床の妻の元での夫の「ミッシェル」の弾き語りには泣かされました。しかしこのカップルも、子供がいません。その辺素通りはどうよ?という気がします。いらなかったのか、欲しかったのに恵まれなかったのか、その辺さらっとでも描けば、コクが増したと思いますが。
麗子のキャリアのある女性が、振り返れば一人きりの孤独を噛みしめるというのも、普遍的でしょうが、少々古臭い。私は彼女の様な立ち場の人には、もっと元気でいて欲しいです。だって仕事ができて自分の力だけで生きているのは、同じ女性として、立派なことだと思うからです。井上順の医師は、平凡ですが足るを知る善良さのにじみ出た人で、とても良かったです。
そして致命的なのは、全部がハッピーエンドなこと。そりゃその方が希望がわくでしょうが、この年代はそれぞれ山あり谷ありを踏み越えて来た人達のはず。安直に希望をもたらずだけではなく、現実を見据えて、苦くても一筋光明が見える描き方の方が、リアルに励まされると思うのですが。
以上、私には不満の残る作品でした。
ロバート・ダウニー・jrに死角なし。ここ二年、彼の出演作は全て観ていますが、どれもこれも外れなし。今回「ゾディアック」に続く新聞記者役ですが、立ち位置も内容も全く違う役ですが、新聞記者の、胡散臭さではなく性を感じさせる役がらを、誠実に人間味たっぷりに好演。オスカー俳優ジェイミー・フォックスも難しい役を繊細に演じてとても良く、地味な作りですが、深々と人生について考えさせられる秀作でした。実話を元にしており、監督はジョー・ライト。
LAタイムズの人気コラムニストのスティーブ・ロペス(ロバート・ダウニー・jr)。最近記事に息詰まっていた彼は、ベートヴェンの銅像の前で二弦しかないヴァイオリンで、美しい音色を響かす、ホームレスのナサニエル(ジェイミー・フォックス)と出会います。ナサニエルが名門ジュリアード音楽院を中退したと知ったロペスは、何故彼が今の暮らしをしているか、俄然興味が湧きます。彼のことを書いたコラムは大反響。この事から、ロペスはナサニエルの人生に深く関わることになります。
最初記事のネタになるとナサニエルに近づくロペスが、彼の奏でる音色に聴き惚れ、才能に魅了される過程が、とても自然に描かれています。ナサニエルの演奏するクラシックの数々は、スクリーンを通じても、聞く者の心を落ち着かせ、安らぎを与えるのです。
音楽と人生に的を絞るのかと思いきや、映画は多角的に人生について問いかけます。ナサニエルの心を掴むため、自らもホームレスの保護地を頻繁に訪れるロペス。それはナサニエルを助けたい善意からですが、中々彼らを理解出来ないロペスの様子が描かれます。彼の戸惑いや、その場から完全に浮いた視線は、多分観客と同じでしょう。不潔で危険な様子を丹念に描いており、ロペスの心情は痛いほどわかります。彼の吐く言葉も正論。しかしそれは違うのだと、のちの展開で回答が出てきます。
ナサニエルはある精神疾患を患っており、それがためジュリアードで学ぶことが困難になり、退学。その傾向は神童めいた青春期から始まっていたのですが、自分の身に起こる恐ろしさを払しょくするため、一心不乱にチェロを弾くナサニエルの姿は、本当に痛ましい。その後も頻繁に恐怖にさらされるナサニエル。荒ぶる純粋な魂を鎮められない彼の辛さは、フォックスの素晴らしい演技で、思わずナサニエルと同化してしまい、涙が出ます。音楽の天分をという「恩寵」を受けた彼が、引き換えに失ったものは、あまりに大きいものでした。ナサニエルは頭髪も薄くなった中年のホームレスなのですが、まるで思春期の少年のように純粋に見えるのです。フォックスの渾身の演技は本当に心が洗われるようで、存分に彼の力量を見せつけます。
何故ナサニエルが路上を好むのか、閉塞的な場所を嫌うのか。広大な空間でないと、彼の心を受け止めてくれないのでしょう。それは両手を大きく開いて、彼を抱いてくれる人がいないことを表しているようです。自分に再び音楽を授けてくれたロペスを、ナサニエルは「自分の神」だと崇めます。彼を助けたい一心で上に立って引っ張ろうとするロペス。しかしそれが亀裂を生みます。お互いがお互いを認めているのに、噛み合わない二人の心がもどかしい。
同僚でありロペスの元妻であるメアリー(キャリン・キーナー)は、二人の様子を時には微笑み、時には嫉妬し見守ります。破綻した二人の結婚生活ですが、ロペスは彼なりに最善を尽くしたはず。しかし寸でのところで、逃げたのでしょう。ナサニエルとロペスの関係に、メアリーは夫婦であった頃の自分たちを重ねたのでしょう。夫であった男に、今回は逃げずに立ち向かって欲しいとの気持ちが、キーナーの好演によって、ひしひし私に伝わってきます。
ナサニエルには、適切な医師の治療と薬物投与が必要だと主張するロペス。保護地でボランティアのリーダーをしている男性は、「それは彼が望んだことか?」と、ロペスの問いかけます。望む望まないは関係ないと思っているロペス。ナサニエルのためなのだから。友情の名を借りた、その上から見下ろした視線を、ナサニエルに恫喝され、ロペスは自分の欺瞞に気付きます。
ロペスが保護地で浮いていたのは、懐に飛び込んだのではなく、彼らを観察していたからでしょう。ナサニエルに対しても、「保護者」からは逃げ、耳触りの良い「友情」の名で彼を引き上げようとしていました。友情とは対等です。相手の全てを受け入れること、傾聴すること、尊重すること。友情とは愛なんだなぁ、と強く感じました。一般的な弱者に対しては、表面に囚われ、どうしても難しいですが、ナサニエルのような特別の天分を持つ人を主人公に据えたお陰で、私はすんなりと納得出来ました。
それにしてもロバートの快進撃は本当にすごい。元々演技巧者ですが、薬物中毒から這い上がって以降、演技に大らかな豊かさが加わったように感じるのです。中年期に入り渋さと愛嬌を併せ持ち、とっても大事な男としてのゴージャスさも満開。ライバルはジョージ・クルーニーかな?私は断然ロバート派!
劇中、クラシック演奏をグラフィックで色を感じさせる場面が出てきます。私が中学生の時の音楽の時間、ヴィバルディの「四季」の中のヴァイオリン協奏曲「春」を聞いて、感想を書くという課題が出ました。「イエローやブルーなどの、明るいパステルカラーが見える」と書いた私の感想に、先生は「クラシックを聞いて色が見えるのですね。なんて素敵な!」と、線を引いて5重丸下さいました。あの時先生は音楽に携わる者として、単純に私の感想に感激してくれたのでしょう。そこには子弟ではなく、同じ目線に立った共感があったはずです。その喜びが伝わり、今でも私も覚えているんでしょうね。この作品のエンディングは、正にその大切さを表していました。
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