ケイケイの映画日記
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2009年05月31日(日) 「重力ピエロ」




初めて話題の伊坂幸太郎原作作品を観ました。事前には容姿に差がある兄弟二人が、連続放火事件の真相に関わる内容、とだけ、薄っすら入れただけでしたので、この手法で家族の在り方を問いたいのかぁーと、まず感心。疑問点も数々あり、結論は倫理的には否定されるべきことなんですが、力技でねじ伏せられてしまいました。これは敵役である、渡部篤郎の好演によるところも強いです。

大学院で遺伝子の研究をしている兄泉水(加瀬亮)と、落書き消しのアルバイトをしている春(岡田将生)は、仲良し兄弟。今日は亡き母(鈴木京香)の命日で、父(小日向文世)の元へ、久しぶりに三人が揃います。その時春が、最近頻発している連続放火と、落書きの奇妙な一致点を見つけ、その事を兄に相談します。

勉強は出来るけど冴えない兄と、イケメンなのに女の子に興味のない弟。容姿の差が強調されますが、この事で兄は弟に対して嫉妬したり卑屈になることもなく、弟も兄を立てて仲の良い兄弟。これがまず伏線でした。

母が亡くなった後もきちんと片付いた家、屈託なさそうな、穏やかだけど明るい男三人の様子。温厚で誠実、優しい父。これも伏線。考えてみれば、主婦が居ない男所帯だというのに、この様子は不自然でした。それを牛乳入りのおでんで目を逸らさせたんですね。上手いなぁ。

二十数年前、母がある事件の被害者であるというのがわかると、私はオチはだいたい読めました。なので推理物としては弱いです。でもそれまでに繰り返し、この一家がありふれた、しかし如何に愛情に満ちた家庭であるかが描かれていたのが、ラストまで持続してインプットされます。それも力強く描かれていたのではなく、まるで点滴が体を回るかのごとく静々と淡々と描かれていたので、心の中全部が「良い家族なのだ」と、支配されています。う〜ん、ある意味トリッキー。

幾度となく出てくる「俺達は最強の家族だ」という言葉。これは本当は最強とは程遠いから、常に心を奮い立たせているからでしょう。だって私も我が家は最強の家族だと思っているけど、普段はそんなこと、欠片も思わないもの。この言葉は、一見この絆の深い家庭を象徴しているようで、皆が相当なストレスを抱えて生活していることを物語っていると思いました。

キーパーソンになる男に、渡部篤郎。本当に唾棄すべき男として、観客から一心に憎しみを浴びなければ、このお話は成り立ちません。この作品の一番の功労者は、私は彼だと思います。この他主要キャストは、全て好演。いつものイメージを踏襲しながらだったので無理が無く、「自然体」という言葉が、とても似つかわしい好演でした。その中で私が初めて観た吉高百合子は絶品。なるほど、これは将来の大器ですね。

この物語が描きたかったのは、「家族」とは血に左右されることなく、懸命な努力で築いていくものだ、と私は感じています。そのため父親の無用とも思える息子たちへの告白、世間の醜い姿、普通は納得しがたいだろうオチなど挿入しているんでしょう。

私自身、血に固執する両親に振り回され、血の汚さを知ることで自警する心のある人間です。しかし夫と結婚し夫の家族と巡り合い、自分の家庭を巣作りする上で、血の確かさと深さも知りました。

なので原作をきちんと踏襲しているというテーマには、そうでもあるし、そうでもないと感じています。しかし作り手の真摯で強い思いが充分伝わり、この気持ちを深く尊重したいと感じています。少なくとも父の、神に自分で決めろと言われた、という事柄には、私は素直に感動出来ました。

今の世の中は、色々な家族の形態があり、一口には言えません。子連れの再婚カップルをステップファミリーと呼ぶことも、知られています。なさぬ仲の兄二人を育てた母は、「子供のある人とは結婚するな。子供を連れても結婚するな」が口癖でした。しかしもっと過酷な選択をしたこの家族の確かな絆は、そう言う人たちに勇気を与えるものだと思います。私は母の言いつけを守り良き家庭に恵まれましたが、「血」の有難さも今、改めて噛みしめています。



2009年05月21日(木) 感謝!「映画通信」五周年記念 自推レビューベスト15

皆さま、こんばんは。2004年5月21日より開始しました「映画通信」のコンテンツ(と言っても、感想文と掲示板だけですが)、「ケイケイの映画日記」が、お陰さまで本日で満五周年となりました。当初は本当に自分のメモ書き+α程度に思って始めたサイトですが、いつのまにやら映画を観て感想を書く、という行為は、私の日常生活の一部となり、多くの良き読者の皆さまに支えられ、今では私の人生で家族の次に大切なものとなっています。

お陰さまでたくさんの方にお読み頂き、現在カウンターは185424。この数が多いのか少ないのは、私にはわかりません。ですが、取り立てて何も誇るもののない、一兼業主婦の映画レビューを読んで下さっているのだと思うと、私にはとてつもなく大きな数字です。書き手として、本当にお礼申し上げたく思っています。

転職後は思うように時間が取れず、更新は以前より遅くなっていますが、細々とでも頑張って映画を見続け、感想は書いていきたく思っています。今後とも「映画通信」及び「ケイケイの映画日記」をよろしくお願い致します。

ということで!コンテンツもたった二つのこのサイト、お祝いに何かしたくても、感想文しかありません。そこで私自身がよく書けたと満足出来た感想文や、掲示板でやり取りが長く続いた作品、思いもかけず大反響だった作品など、思い出深い作品を、僭越ながら自分で選んでみました。これが良かった作品ばかりではなく、全然ダメダメだった作品もありで、感想を書くって面白いなぁと、つくづく感じています。皆様もよろしかったら私といっしょに、五年間を振り返っていただければ、幸いです。では順不同で!

ある結婚の風景

いつか読書する日

大奥

かくも長き不在

嫌われ松子の一生

コレラの時代の愛

シークレット・サンシャイン

清作の妻

接吻

父親たちの星条旗

人が人を愛することのどうしようもなさ

善き人のためのソナタ

欲望

力道山

レディ・イン・ザ・ウォーター

それでは皆様、今後ともどうぞよろしくお願い致します。


2009年05月17日(日) 「ミルク」




あぁ、良かった。いや作品も良かったんですが、「良かった」と感じたことに安堵した気持ちが、「良かった」という表現になったと言う事で(ややこしい?)。実はこの作品の監督ガス・ヴァン・サントが、カンヌでパルムドールを取った「エレファント」を観たのですが、当時大絶賛の嵐であったのに、ワタクシ全然何も感じず。腹が立つならまだしも、取りあえず言いたいことはわかるんですけど、本当に何も感じないわけ。エンディングが出た時、「えっ?これで終わりかい!」と真っ青になり、狼狽した記憶が今でも蘇ります(悔し泣き)。だってね、私のようにこれだけ時間使ってお金使って映画観ている人間がですよ、「何も感じない」。これほどの敗北感がありましょうや?悔しいから、あっちこっち感想を読んで回りましたが、それでも「わからん」。以来、「ガス・ヴァン・サント」の名は、私にはトラウマに。どんな作品が来ようと、多分どーせわからんねんからと、避けて通っておりました。

しかし、あのショーン・ペンがオスカーの主演男優賞を取った作品なわけですよ。やっぱ避けて通るのはもったいない、ということで、意を決して観て来た訳です。トラウマ払拭の出来でした。


1972年のニューヨーク。ゲイであるのを隠してサラリーマン生活をしていたハーヴィ・ミルク(ショーン・ペン)は、40歳の誕生日に出会ったスコット(ジェームズ・フランコ)と恋に落ち、変化を求めて二人でゲイの住人の多い、サンフランシスコのカストロ地区に移住します。開いたカメラ店には、いつしかゲイの人達が集まり、社交場となって行く中、次第に自分たちや、他の被差別者たちの人権に関心が募るハーヴィ。活動を続けるうち、ついに市政執行委員に立候補します。

冒頭、ハーヴィとスコットのキスシーンが、あまりに自然なのでびっくり。何故すれ違っただけで、スコットもゲイだとわかったんだろう?という疑問も飛んでしまうほどです。ゲイの人達ばかり出てきますが、ペンを始め、ちょっとクネクネした仕草も可愛らしく、私にはその後のラブシーンも、男性同士という違和感は、あまりありませんでした。それどころか、ハーヴィとスコットの間で醸し出す情感は、お互いへの思いが充分溢れていて、濃密であり透明感もありで、私はとても好感が持てました。これはペンより、フランコが上手かったからだと思います。

一個人から、次第に政治家としての活動が主だってくるハーヴィ。公的な部分の自分が充実してくると、私人の部分は、パートナーともども孤独が深まるというのは、ストレートの人と変わりはありません。そして段々演説が上手くなり、市長や同じ議員のダン・ホワイト(ジョシュ・ブローリン)との付き合い方も狡猾なってきて、「プロの政治家」に変貌していく姿も自然です。素人の純粋さをいつまでも持っていては、政治家は務まらないと言う事なのだなぁと、感心しました。要は信念を曲げないということが重要でしょうか?

高齢者や被差別対象の弱者の救済に奔走して、勢力を拡大していくハーヴィ。しかし一口に「マイノリティ」と言いますが、私がハッとしたのは、友人たちに自分はゲイだと、親にカミングアウトしろと、ハーヴィが薦めるシーンです。私も在日韓国人で同じくマイノリティですが、家に帰れば「家庭」という温かさに包まれた空間があるわけです。しかし彼らにはそれがない。ゲイ仲間との交流は心を癒してはくれるでしょうが、血のつながった親兄弟に理解されないというのは、その苦悩と寂しさはいかばかりかと、同情しました。

自分を隠して生きるのは、本当に辛いことです。嘘の人生。嘘が嘘を呼ぶ虚しさを経験せず生きている私は、本当に幸せです。そう思うと、本当に彼らに味方したい。でも反対派の「それなら家庭を持ち、子供を作ると言うことは否定されるのか?」という答弁には、頷けるものがあります。私も息子たちには結婚してほしいし、人並みに孫の顔だってみたい。この辺観ながら複雑な思いがよぎります。

私が結論づけたのは、男性皆がゲイであることはないでしょう。それならば「少数の彼ら」を尊重するのは、許される事ではないかと。例えそれが自分の息子であっても。最大公約数から外れるからと攻撃するのは、賢いやり方ではありません。尊重すれば、必ず友好が生まれるものです。

オスカー受賞のペンは、いつもの油濃い熱演ぶりから、意外にあっさりとゲイのハーヴィを演じていてびっくり。しかし表面の可愛らしさと反比例するような、内面の男らしさを強く滲ませる演技で、良かったです。他の出演者の政敵ダン・ホワイトのジョシュ・ブローリンや、エミール・ハーシュ、ディエゴ・ルナなど、みんな良かったですが、何故この作品でブローリンがオスカー助演候補に?ブローリンがこれくらいの演技が出来るのは周知のことで、個人的にはホワイトの心の動向の掘り下げ方がやや浅く、ああいう行動に出たのは、イマイチ納得出来なかったです。

この作品で一番良かったのは、ジェームズ・フランコ。若者らしい無謀さを感じさせる出会いの頃から、ハーヴィを信頼し心から愛している様子が感じられます。スコットが知性も感じる誠実で落ち着いた大人に成長出来た理由は、きっとハーヴィとの恋だったのでしょう。相手を引き立て、自分も輝くというのは、演じ手としては難しいと思いますが、今回のフランコはそうでした。助演賞のノミネートなら、フランコにしてほしかったな。

画面からはゲイの人の情感は溢れていましたが、それ以上にパブリックに政治家として生きる信念が伺えて、私はとても「男らしい」作品だと思いました。濃密な空間はあっても決して濃厚ではなく、芯の強い作品でした。


2009年05月06日(水) 「グラン・トリノ」




これも5/1の映画の日に鑑賞。二月に観て大感激した「チェンジリング」より、こちらの方が出来は上らしいという情報に大いに期待しての鑑賞です。しかしこの作品で、「俳優・クリント・イーストウッド」は引退と聞いていたので、子供の頃からテレビの洋画劇場や、「ローハイド」の再放送で彼を見続けている私としては、寂しさも抱えながらの鑑賞でした。そのせいでラストは予想出来てしまいましたが、もう涙が出て止まらず。イーストウッドの集大成として、素晴らしい作品でした。

長年フォードの工員を勤め上げたウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)。偏屈で頑固な彼の元には、長年連れ添った妻亡きあと、息子たちや孫たちも寄り付きません。ただ一人若い神父(クリストファー・カーリー)だけが、「亡くなった奥様から、あなたに懺悔させてくれと頼まれた」と、一生懸命彼を訪ねます。そんなある日、チンピラの従兄にそそのかれされた隣家のベトナム人青年タオ(ビー・ヴァン)が、ウォルトの宝物であるグラン・トリノを盗もうとして、ウォルトに見つかり威嚇されます。謝罪する母や姉スー(アーニー・ハー)。罪滅ぼしとして、タオはウォルトの家で手伝いを申し出ます。頑なだったウォルトですが、これがきっかけで、タオの家族との交流が始まります。

嫌われ者の偏屈じいさんと聞いていたので、どんなもんかと思っていましたが、祖母の葬儀でふざけたお祈りをしたり、ピアスをしたヘソ出しルックで参列する孫に怒らない老人などいません。母の葬儀で涙一つこぼさない息子たちもそう。私には子供や孫、嫁の方が違和感バリバリで、この辺は普通の観客なら、ウォルトに同調しやすいように導入してあるのでしょう、上手いと思いました。

人種差別意識を持つ老人が、若い移民のベトナム人と触れ合う内に、段々と心が氷解して差別心がなくなっていく、そんな単純なストーリーではありません。アメリカは人種のるつぼです。チンピラの黒人を登場さすかと思えば、市民を守る警官も黒人。タオ一家のように善良に慎ましやかに暮らすベトナム人もいれば、従兄のように、ゴロツキになって行く者もあり。病院に行けば白人の主治医はもうおらず、中国系の、それも女性に交替しています。白人の描き方も、実の子さえ他人行儀なのに、お互いに悪態をつきながら、それを楽しんでいるかのような理髪の店主とのやり取り、腰ぬけのスーのBFなど様々に絡めています。一人の古き良きアメリカを体感した老人を通して、今のアメリカの現状を描いています。そしてこの人種だからこうだと、一言では決して言えないのだと、画面から静かに訴えかけてきます。

タオの一家は、祖父も父も亡くなり、男は優しく気弱なタオだけ。彼に一家の大黒柱としての心を教える人はいません。最初聡明で利発なスーを気に入ったウォルトの心には、私と同様「女は男と違って順応性があるのよ。だから女は大学に入り、男は刑務所に入る。」スーの語ったこの言葉は胸に突き刺さったでしょう。アメリカだけではなく、他国で生きると言うのは、どこの国でも同じなのだと思います。

ウォルトの手ほどきにより、大人の男としてたしなみを身につけたタオは、段々精悍に、そして自信も付けて行きます。何故ウォルトは他人のタオとは上手くいくのに、実の家族には、素直に自分が出せないのでしょうか?

ウォルトはフォードに長年勤めていたのに、息子はトヨタの営業職です。忸怩たる思いを抱く父。当然です。私の夫や息子が同じ立場なら、決してウォルトの息子のような真似はしないでしょう。しかし息子にも父を否定したい気持ちが、今の職場を選ばせたのでは?わかり易い愛情を息子に注いだ父ではなかったのでしょう。その原因は、朝鮮戦争にウォルトが出征していたことに起因しているのだと思います。誰にも言えないその思い。「父親たちの星条旗」のドクが、ウォルトに重なります。いつもいつも鬱積した思いを抱える夫を、亡き妻は本当に心配していたのでしょう、それが神父への頼みごとだったと思いました。神によって夫を救ってほしかったのでしょう。

しかし神父は神ではなく、ウォルトにとってはただの若造です。最初手強い相手だ、優位に立たなければと、年長の親しくも無いウォルトに、「コワルスキーさん」ではなく、「ウォルト」と話かけ一蹴された神父ですが、めげずに彼と会話を重ねるうち、ウォルトにも変化をもたらせます。神がもたらした変化ではなく、それは神父自身の成長なのでしょう。

一見小さな町に起こったお話のようですが、朝鮮戦争からベトナム戦争、そして多数の民族で成り立つアメリカの歴史をも描いています。ウォルトが誰に懺悔したか、グラン・トリノは誰に渡すのか?そこに監督イーストウッドが、これからのアメリカの在り方を示唆しているのではないでしょうか?アメリカだけではなく、もしかしたら、世界中に向けたメッセージなのかも。それは血や人種に惑わされない、そして宗教にも支配されない世界です。そしてラストのけりの着け方。イーストウッドの数々の雄姿が記憶にいっぱいの私たちには、物語の構成上抱く感情以上に、万感迫るものがありました。きちんと伏線も張ってあり、とても立派な始末の付け方です。

私にとってのイーストウッドは、山田康雄の吹き替えが当たり前だったので、レンタルする時も、わざわざイーストウッド作品だけ、吹き替え版にしたものです。テレビの洋画劇場が全盛だった子供の頃、私が憧れたのは、イーストウッドではなく、ヘストンでありニューマンでした。それが時を経て、彼らが段々活躍する場所が減っていくのに対し、監督として類まれな実力を発揮し、俳優としても最後まで主役を張ったイーストウッド。いつのまにか、映画ファンとして敬意を持って彼を観る私がいます。さよなら、俳優イーストウッド。物心ついた時から、ずっと私を楽しませてくれて、本当にありがとう。これからも監督のあなたに、ずっと期待し続けます。


2009年05月03日(日) 「チェイサー」




面白い!映画の日に、「グラン・トリノ」とはしごしてきました。(実はその前に「おっぱいバレー」も観てますが、書く時間がない。取りあえずこれも観て損はないっすよ)「グラン・トリノ」も本当に感激しましたが、これはたくさんの方が感想を書いているので、観ている人の少ないこちらから。だって本当にびっくりするくらい、面白いんだもん!監督はこの作品が初のナ・ホンジン。これが初監督なんて、これも驚愕。韓国で実際にあった連続猟奇殺人を元にした作品ですが、基本的にはフィクション。同じような題材の「殺人の追憶」より、個人的にはこちらが好きです。

デリヘル経営者の元刑事ジュンホ(キム・ユンソク)。使っていた女性たちが、次々と借金を残し失跡するのに腹を立てていたのですが、女性たちが最後に向かった客の電話番号が、皆同じ事に気付きます。今夜もその電話番号が鳴り、風邪で臥せっていたミジン(ソ・ヨンヒ)を無理やり行かせます。しかしその相手こそ、連続殺人鬼のヨンミン(ハ・ジョンウ)だったのです。ジュンホによって捕えられたヨンミンですが、あっさり殺人を自供。しかし全く証拠が出ず、逮捕令状のないままの拘束は、次の日の正午まで。それまでに証拠を掴まんと焦る警察なのですが・・・。

冒頭やさぐれ感満点で、金銭的にも苦境に陥っているジュンホの様子が映ります。危険な目に遭わされる他のデリヘル嬢の様子も映し、雇う側と雇われる側との信頼関係も無く、お互いがゴミかクズくらいしか思っていません。これが後々のジュンホの変貌を感じさせるのに効果的です。

殺人現場の様子や、獲物を追い詰めるヨンミンの様子は、本当にぞっとさせます。一見平凡で、むしろ優しそうな容貌のヨンミン。しかし数々の猟奇的シーンの一つ一つ、まるで血の匂いまで嗅いだ気になるくらい、生臭く怖いです。反比例するような彼の容姿は、得体の知れなさを煽り、精神異常者なのか?それとも相当な知能犯なのか?怖さを倍増させるのです。

普通はこの手の猟奇的殺人を扱った題材は、犯罪者側の心の闇に迫り、掘り下げるのが定説ですが、この作品は潔いくらいほとんどなし。しかしそこには「ファニーゲーム USA」にあったような、奇妙な爽快感は全くなく、湿った空気が支配する劇中、韓国人が持つ独特の情や恨の感情が浮き彫りになり、暴力そのものではなく、ヨンミンに対しての強い怒りが湧き上がります。

ヨンミンは2度も殺人を自供しているにも関わらず、寸でのところで毎回証拠が上がらず釈放を繰り返しています。腹立たしさを感じるとともに、警察の無能さも感じます。しかしただ警察はぼーとして仕事が出来なかっただけなんでしょうか?夜中一睡もしないでヨンミンを尋問、夜中に雨の中、山中で泥だらけになり証拠探し。必死になって仕事をする彼らの前に立ちはだかる、「規則」と「人権問題」。この二つは市民生活を守る上で、とても重要なことです。しかし最初にヨンミンの犯行現場を見せたのは何故か?単なる犯人探しのサスペンス仕立てにしなかったのは、行き過ぎた「規則」や「人権」は、真実を見失い、却って墓穴を掘ると言うことが、言いたかったんじゃないでしょうか?

なので、ヨンミンを追い詰めたのが元刑事であり、違法な仕事が飯の種であるジュンホである、ということが重要なのでしょう。手の内を知った警察内部を潜り抜け、自分が捕まる危険を冒しながら最後までヨンミンを追い詰めるジュンホは、「規則外」の人間なのです。

ミジンは隠していましたが、幼い娘がいました。最初はヨンミンのことを、自分の使っている女性たちを他へ売り飛ばした奴と、恨み骨髄だったジュンホですが、母の無事を心配する娘を観ているうち、ただの商品であったミジンの安否だけが、彼の心を支配します。あの時ミジンは断ったのに、俺が行かせたのだ、この子から母親を奪ったのは俺だ、他の女たちも俺が行かせたから、殺されたのだ。ソウルの路地裏を走って走って走りまくるジュンホの心が、人間らしい悲しみと怒りと絶望に満ち満ちてくるのが、手に取る様にわかるのです。悪徳刑事ではあったでしょうが、やさぐれても、彼の心は決して悪徳ではなかったのです。それは人らしい感情を一切感じさせなかった、ヨンミンとは対照的でした。

全編馳走感たっぷりで、テンポが非常に良いです。間の抜けたユーモラスな場面なども随所にあり、目を背ける猟奇的場面の連続のあとは、それが良い意味で息抜きになりますが、心臓バクバクの緊張感はずっと持続します。こちらでは知られた俳優は出演しておらず、美男美女も登場せず。それが一層実話が元と言うリアリティ感をアップさせています。特にキム・ユンソクとハ・ジョンウは、「殺人の追憶」の時のガンちゃんとパク・ヘイル並の存在感で、強い印象を残しました。私的には久しぶりに既視感のない、傑作サスペンスでした。ディカプリオ主演で、ハリウッドがリメイク権を獲得したそうですが、レオが演じるなら、多分ジュンホでしょうね。それなら期待できないけど、ヨンミンならば期待感大です。


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