ケイケイの映画日記
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2008年10月29日(水) 「コドモのコドモ」




画像のように、本当に幼い小学生女子が妊娠出産するお話。あちこちで喧々諤々、論争が巻き起こっている作品なので、平日でも超満員だと思いきや、テアトル梅田の大きい方のスクリーンはガラガラ。私は平日に観る事が多いですが、いつもシルバーの方がいっぱいです。どうも題材から嫌悪感持たれちゃったかな?こういう「あり得ない」お話を上手く作るには、細部の描写のリアリティが重要だと思いますが、その辺が、実際とは少し距離のある固定観念的に思えます。主軸の11歳女子妊娠出産も、出産を経験した私から観るとまるでお花畑で、なんだかなぁ。ただし子供たちが健闘していたので、腹の立つような作品ではありません。今回ネタばれです。

とある地方都市。小学校五年生の春菜(甘利はるな)は元気な女の子。同級生のヒロユキ(川村悠椰)と、「くっつけっこ」なる遊びを、興味本位でしてしまします。東京から来た担任の八木先生(麻生久美子)は、父兄の反対を押し切り性教育の授業をしますが、そのことで春菜は、自分が妊娠してしまったことに気付きます。春菜から事の次第を聞かされた学級委員の美香(伊藤梨沙子)は、子供を産みたい春菜の心に共鳴、クラス一丸となって、春菜の出産に向けて団結します。

子供達は本当に愛らしいのですが、その日常はリアルと大人の想像が半々。性教育の授業に、エロだ何だと囃し立てる男子たちや、あり得ない状況ですが、親や教師に内緒で事を運ぼうとするのも、子供らしい純真な感覚です。赤ちゃんは可愛いですもんね。バレたら出産まで漕ぎつけるのが危ないくらいは、五年生ならわかるはずですから。その気持は私も素直に受け取れます。

仲良しの女子同士が、些細なことで絶交したり、また仲良くなったりはよくある話で、微笑ましく観ていました。しかし女子とは恐ろしい生き物で、これだけじゃないのだね。大概の学年には「女王様」なるものが存在し、権力を振るっているのが現実です。早い時は幼稚園から始まります。なので感傷をくすぐる、イイとこ取りだけしている気が、ちょっとしました。

しかし「くっつけっこ」する前に、ヒロユキが立ちションをするのですが、いくら子供だって、思春期前だぞ。性器まで見せて女子の前でするか?子供の無邪気さを表現して、セックスが何かをよくわからない子がしてしまった、と言いたい演出でしょうが、昨今の五年生、いくら田舎でもそれほど純朴でしょうか?いじめや様々な少年犯罪など、都会に限定されたことではないはずです。

五年生と言えば、女の子は林間や臨海学校前に、生理について保健の先生から話を聞くはずです。その時に生理は妊娠と密接な関係がある、生理があるというのは妊娠できる体になったということで、むやみに男性に体など触らせないように、などなど、私の頃だって教えられました。なのでこの「全く何も知らずにやりました」という描き方には疑問があります。

娘の鼻の穴が膨らんだくらいで嘘のわかるお母さん(宮崎美子)が、我が子の妊娠がわからないということが、あるんでしょうか?生理が始まったばかりの頃は、毎月あったりなかったり安定しません。ホルモンが関係するので、イラついたりニキビが出たり、娘が申告しなくても、母親は毎月チェックしているもんだと思います。それとこの作品でもセリフで語られますが、慣れていないので、そそうして下着やシーツを汚してしまうこともしばしば。それをいくら農家の忙しい時期だからと言って、春菜のお母さんのような行き届いた人に、そういう設定は不自然です。せり出したお腹も、20歳前後の子なら、本当にわからない子もいるそうですが、乳房も膨らむ前の体型の五年生では、わからないはあり得ません。

もう苦笑するしかなかったのは、出産場面。産婦人科医の息子が陣頭指揮で、「ヒッ、ヒッ、フ〜」と呼吸法を教えたりしながら、子供たちだけで出産します。超安産で。ちょっとちょっと!息子よ、それはどこで覚えた?勝手に分娩室覗いたのか?産婦人科医の息子だからお産が誘導できるって、笑うに笑えません。

未成熟な子供の子宮では、あれくらい胎児が成長出来るかどうか、疑問です。高年齢出産のマル高をご存じの方は多いでしょうか、18歳以下の妊婦もまたマル若と母子手帳につけられるはずです。いわば若年で出産するということは、それだけでハイリスク妊婦です。春菜の場合も普通分娩もあり得ません。ちょっと生々しいお話で申し訳ありませんが、会陰が裂けたり、途中で子供が出なくなるなど、とんでもなくハイリスクです。

検診にお金がかかるからと、陣痛が始まって初めて病院に駆け込む妊婦もいると聞きます。これを観て、お産がこんなにお手軽に出来ると若い人が誤った認識を持ってしまうのじゃないかと、私はそこを危惧します。いくらファンタジーとして見ろと言われても、「お産は命がけ」を経験している私としたら、単に子供の団結力や純粋さを表現する手段として、断じてお手軽なお産を使って欲しくはないのです。

あの出産シーン、胎盤は出してなかったですね。私は次男の時胎盤が出てこなくて、医師の手で剥離してもらったのですが、大量出血で死にかけました。どうやっても胎盤が出ないときは、最悪子宮ごと摘出になるなど、大変なことなのです。どうしても小学生に出産させたかったら、警鐘を鳴らすためにも、そういうお産につきものの、諸々の大変な描写も取り入れるべきです。

ラストのハッピームード満開なお誕生日パーティーもなぁ。反省もなければ葛藤もなし。先行きの明るい未来だけを予感させる結末です。これは小5女子の出産は素敵なことよ、という結論ですか?春菜の両親は驚きだけでケンカするでもなく、ヒロユキの両親も逃げるように東京に引っ越ししたのに、誕生日には「お祖父ちゃんと父親」が明るく参加。なんかもぉーバカバカしくて。生命の尊さを描くには、あまりに描写が軽すぎます。

子供の日常生活もある意味イイとこどり、妊娠出産に関してもほわんほわんと描き、私的には何を言いたくて作った作品かは理解しかねました。学級崩壊の様子だけは、非常にリアル。先生が頭でっかちで子供の気持ちを考えず、自分の主義を押し通そうとすると、こうなるんですね。集会での親の非常識さを表しているのも、良かったです。何故なら先生だって、最初から良い先生になるわけではありません。先生を育てるのは親と子供です。親がこういう態度なら、どこまで行っても平行線だなと、つくづく感じました。子供たちに春菜のお産の様子を語らせた八木先生が、「あなたたち、本当に頑張ったね・・・」と、涙した場面が、私には一番印象深い作品でした。八木先生、この事件を糧に、いい先生になりますよ。こっちをメインに作れば良かったのに。


2008年10月19日(日) 「僕らのミライへ逆回転」




えー、14日に観たのですが、諸々忙しくて書くのが遅れてしまいました。前評判も高く期待値マックスで観たため、ちょっと期待は割りましたが、充分面白かったです。監督は私の大好きなミシェル・ゴンドリー。

DVD全盛の時代に、取り残されたようにビデオをレンタルするフレッチャー(ダニー・グローヴァー)のビデオ店。しかし店員のマイク(モス・デフ)は、そんな時代遅れの店とフレッチャーを愛しています。街にも開発の波が押し寄せ、フレッチャーの店は立ち退きの危機に。そんな大変な時に、マイクの友人ジェリー(ジャック・ブラック)が、発電所に忍び込んだ折に強力な磁気を浴びてしまい、店のビデオを全部だめにしてしまいます。困った二人は、往年の名作の簡単なリメイク作品を作り、レンタルすることに。しかし苦肉の策であったはずが、街で大評判となるのです。

予告編でお馴染みになった、リメイク場面がすんごく面白い!これはもう、映画好きなら大爆笑の連続です。「ゴースト・バスターズ」を初め、ハリウッド王道のヒット娯楽作ばかりなのも、とっても気が効いています。「ラッシュ・アワー2」の時は、ジャッキー役に扮したジャック・ブラックが、目張りならぬ、一重目にしてたんですよぉ。せっかくジャッキーは○形で二重にしたのにね〜、西洋人にはどっちでも同じだったみたい。

無手勝流の学芸会並だった撮影風景ですが、素人芸ながら、段々と撮影の腕が磨かれて行く様子が本当に楽しい。あの手この手で知恵を絞り、少ない予算で妥協せず、如何に良い映画を作るかに二人が拘り始める様子は、きっと映画作りの先達方もこうだったのだろうと、爆笑しながら、胸が熱くもなってきます。

この街はアメリカでは底辺なのでしょう。住民の多くは黒人だったり、白人でもトレーラー暮らしのジェリーのようなプアホワイトなのでしょう。役所の人が治安の良い、時代に合った街にしようとするのは、住人のことを思うからだとは、良くわかります。でも住人はそのことを望んでいるのかしら?

それを表していたのが、ライバル店の店長さんかも。アクションとコメディで埋め尽くされた店内にはビデオはなく、DVDばっかり。DVD機器もないような人たちのため、拘りの品揃えを施すフレッチャー側にしたら、このライバル店は裏切り者でしょう。しかしマイクに愛想よく接っし、フレッチャーは元気かと聞く店長は、フレッチャーやマイクが羨ましいのではないでしょうか?生活のため信条を曲げ、役所の要求を必死で呑んでいるのでしょうね。

「ドライビング・ミスデイジー」のリメイク作を作っている時に感じる、何気なく悪気のない黒人への差別観も、上記の事と繋がっています。『恵まれた私たちが、恵まれないあなた方底辺の人々のため、一生懸命考えてあげますよ』。こう言われて、嬉しい人なんかいませんよね。フレッチャーには立ち退きの後の住居は用意されます。しかしそこではビデオ屋の営業は無理。彼の生きがいやプライドは?彼の店でレンタルするのを楽しみにしている、街の人たちの気持ちは?おバカ映画の様相に爆笑しつつ、私がずっと心に感じ続けていたのは、このすれ違いの善意です。

そのすれ違いを見事に埋めてくれたのが、ラストシーンでした。今度はリメイク作ではなく、自分たちの伝説のヒーローを描いたオリジナル作品というおまけ付きです。憐みの気持ちを吹っ飛ばすのには、やっぱりプライドを見せなくちゃ、ということで。このシーンは大昔、夏休みの小学校の校庭で観た、映画鑑賞会を思い起こさせます。例えスクリーンは白いシーツだって、みんなで観て感動を分かち合うという、劇場での鑑賞の原点を観るようでした。

ジャック・ブラックは私は好きでも嫌いでもないですが、今回はファンには堪らない「いつものジャック」でした。今回私のハートを鷲掴みは、モス・デフ君の方。私の好きな優柔不断で気弱で誠実な好青年ぶりが、とっても素敵でした。土壇場で見せる気骨や、好きな女の子のキスも出来ない奥手ぶりなども、可愛かったわー。ミア・ファローが近所の熟年女性役で出演でしたが、少女っぽさを振りまく様子がとっても愛らしくて素敵でした。

私は監督にも女優にも脚本家にも、成りたいと思ったことはないけれど、こんな形では出演してみたいなぁと思いました。そう言えば、高校の時にクラスで映画を作ったんだっけ。タイトルは「あさひが丘のバイオニック・政子」。当時放送していた、「あさひが丘の大統領」と「バイオニック・ジェミー」と「北条政子」をくっつけたモノです。上映会開いたら、著作権違反だって、シガニー・ウィーバーが来るかしら?


2008年10月13日(月) 「宮廷画家ゴヤは見た」




私的に久々に観るミロス・フォアマン監督作。(ちなみに私の一番好きな監督の作品は「ラリー・フリント」)有名なゴヤと彼が描いた絵画を狂言回しに配して、18世紀末から19世紀のスペインの激動の時代を描いた作品。歴史好き・絵画好きさんは元より、私のような門外漢でも楽しめる作品となっています。

18世紀末のスペイン。画家のゴヤ(ステラン・スカルスガルド)は、宮廷画家として活躍する一方、世相を風刺した版画も世に出していました。その頃カトリック教会では、揺らぎかけている威信を取り戻すため、ロレンソ神父(ハビエル・バルデム)の提案で、形骸化していた異端審問を強化します。ゴヤの知り合いである裕福な商人の娘イネス(ナタリー・ポートマン)は、兄たちと居酒屋で食事をしていた際、豚肉を嫌った事を潜入していた教会の手のものにより密告され、ユダヤ教徒の疑いありと、審問にかけられます。

堅苦しく作ると、壮大で高尚な歴史劇になってしまうところを、フォアマンは格調は落とさずに人間臭く、そしてちょっぴり下世話にも感じる悲喜劇として作ってあったので、私のような歴史に疎い人間にも充分物語についていけました。

独裁政治にも似たカトリック教会が権威を振るう様子、それを許した王室を、スペイン人民の解放を名目に武力で追い出すフランス軍、しかし指揮を執ったナポレオンは、次の王には自分の兄弟を据えるのです。結局誰が政権を執ろうと、一向に人民は解放されません。その様子を冷静かつ憂いを込めて見つめるゴヤ。私は本当に絵画には疎いもので、彼の絵にこんな背景をあったとは全然知らず、勉強になりました。

創作であろうイネスとロレンソの人生。不当な審問にかけられ人生を台無しにしたイネスは、本当に可哀想なはずなんですが、私には何故か精神の清らかさ強さを感じてしまいます。それは長く繋がれた牢獄の最初の方で、彼女が生きるよすがを得たからだと思います。精神に異常をきたそうが、美しい容姿がどのように朽ち果てようが、同情だけではないものをイネスに授けた数々の演出が、彼女をただ時代に翻弄された可哀想な女性とは描いていなかったと思います。これでもかと言うほど試練を与えられながら、イネスの真の姿を観客に知らしめたナタリーの演技は圧巻で、今回本当に感心しました。

ロレンソは壮大な風見鶏的人生を生きます。しかし彼の負の部分は、当時の彼の力で「抹殺」出来たはずなんですが、「なかったこと」に留めるロレンソに、心の底に残る彼の良心を感じます。狡猾で小心、卑怯者の彼ですが、どこか憎めないものを私が感じるのは、この辺です。ハビエル・バルデムは、どんな役をやってもまぎれもなくバルデムなのですが、全く違う役を演じて、どれもこれも素晴らしい演技です。カメレオン役者ではないという点が、これからハリウッドで活躍する強みになると思います。

審問と言う名の拷問は、神への忠誠心を試すためのものだとか。どんなにひどい拷問も、神を信じる者には神の愛が下り耐えられるのだとか。ロレンソの講釈はこんな感じだったかな?私はキリスト教は全くわかりませんが、それは本当のキリストの教義を、歪曲した解釈ではないのでしょうか?人間は神ではないのですから、拷問には耐えられないのは当然です。自分たちは神に選ばれし人間だという、選民・特権を意識を持った当時のキリスト教会を表現していたように思います。

監督がそれを鼻で笑う様子で描いたのが、ロレンソの姿でした。そして時代のうねりに巻き込まれた異端審問所長にも、その様子が表れています。しかし審問所長は、そこで感じた労苦を無駄にしませんでした。ロレンソに「悔い改めるなら・・・」と、彼に恩情を与える所長は、上記の解釈など嘘っぱちだと肌で感じたのでしょう。以前の彼なら考えられないことです。これは人間は決して神とは同格には成り得ない、ちっぽけで弱い存在だと、所長が身に染みて感じたからだと思います。この演出は、私にはとても印象深いものでした。

で、ロレンソはどうしたか?彼の選択もまた、心から自分の人生を「悔い改めた」からの選択であったように思います。こんなギリギリの状況になって、本当の悟りが開けるのですから、人間って本当に業が深いもんだよと、つくづく感じます。

ラストのイネスの様子に、私はトリュフォーの「アデルの恋の物語」と似たラストだと感じました。何と悲痛な悲劇的なラストだろうと、脳天を一撃された当時思春期の私でしたが、今回のイネスは、皮肉で残酷ですが幸福感すら感じます。イネスが待ち続けたものは、もうどこへも行かないのですから。傍がどんなに同情し可哀想だと感じる状況でも、当人は心から幸せなのかもしれないという事を、改めて実感したラストでした。


2008年10月09日(木) 「容疑者Xの献身」




いや、想像以上に良かったです!この作品はドラマ「ガリレオ」の映画化で、私はドラマの方は全く未見。でもこのタイトルは、東野圭吾が直木賞を取った作品だったので、記憶に残っています。なのでドラマの映画化という観方ではなく、優秀なサスペンスが原作だという認識で鑑賞しました。原作は未読ですが、手堅くまとめた佳作だと思います。

真冬の12月、お弁当屋を営む花岡靖子(松雪泰子)は、娘の美里(金沢美穂)と二人暮らし。ある日別れた夫富樫(長塚圭史)が二人の所へやってきて、あらん限りの暴力をふるいます。困り果てた二人は咄嗟にこたつのコードを使い、富樫を殺害。放心していた時、隣に住む高校教師石神(堤真一)が靖子を訪問。証拠隠滅に協力します。全裸で指紋も消されていた富樫の死体ですが、すぐに身元は発覚。警察の疑惑は靖子に向きますが、靖子母娘には、完璧なアリバイがありました。捜査を担当している草薙(北村一輝)と内海薫(柴咲コウ)は、草薙の大学の同期である天才物理学者湯川(福山雅治)に協力を仰ぎます。そして石神もまた湯川の同期で、天才数学者だとわかります。

最初に犯人が割れているし、どういう展開で見せるのかな?と思っていましたが、サスペンス部分より登場人物の心を掘り下げる手法で、ドラマ部分を強化していました。これが勝因だと思います。

出だしの、そこはかとない石神の靖子への慕情を匂わすシーンは、恋愛には全く不器用そうな孤独人の様相が、短いシーンで充分感じ取れます。それと上手かったのが長塚圭史。美里は靖子の連れ子で、富樫とは血縁関係はありません。すさまじい暴力を美里に振るう様子には、これが過去にも何度もあったろうと感じさせ、殺人犯となった母娘に同情が湧きます。時間の限られた映画でこう感じさせるには、長塚の遠慮のない暴行シーンは有効でした。
原作では多分、もっと描きこんでいたろう心情でしょうが、映画はその辺を短くまとめ、三人の心理や行動には無理がありません。

ドラマではゲスト扱いであろう堤真一と松雪泰子が、実質的には今作品の主人公です。タイトルのXは石神です。ドラマの映画化であるのに、ゲストに華を持たせる以上の、二人をメインに押し上げた作りは、原作を理解した作り手の見識の高さが伺えます。それに応える堤真一と松雪泰子が素晴らしいです。

いつもの颯爽として堤真一は見当たらず、猫背で白髪交じり、37歳にしては老けた様子は、石神の今の状態を雄弁に物語っています。いつも抑揚なく語り、目も開けきらぬようなどんよりした様子は、これも石神の心が現れています。なので雪山での射るような湯川へ向けた眼差しや、靖子の新しい恋の相手への気持ちを語る場面など、一瞬の悪意を感じるシーンが光ります。熱演する場面などほとんどなく、常に能面のようなのに絶望感が立ち込める石神。上手いなぁとほとほと感心していました。

松雪泰子も、今回はきつめの華やかな美貌を封印して薄化粧で臨み、薄幸の美女がとてもよく似合っています。元クラブのホステスであったという設定も、なるほどお水の世界で洗われた美しさだなと感じさせます。そして彼女のような優しく繊細な人は、その世界では苦労しただろうとも感じさせ、お弁当屋を開くのが念願だったというのも、頷けます。観客の同情を一心に受ける女性は、彼女のいつものイメージとは違いますが、松雪泰子もとても健闘して演じていたと思います。

石神の造形を「いい人」だと印象付けて置きながら、何をしでかすかわからぬ、得体の知れぬ不気味さも感じさせ、良い意味で物語の往くへを撹乱させます。サスペンス部分の謎溶きも、無駄と無理がありません。散りばめられた伏線の処理も問題なし。この辺は良い意味でそつがないという感じで、上手く原作の雰囲気を生かしているんじゃないでしょうか。

石神にお前は友人だという湯川。俺には友人などいないという石神。同じく天才と持て囃され、将来を嘱望され二人は、17年間の環境で変わってしまったのでしょう。しかしそのトリック。石神は数学の天才のはずなんですが、頭の良い人は何事にも万能にその才を発揮できるのかと、驚愕します。
その頭脳をもっと違う方に使って欲しかったという湯川に、「そんなこと言うの、お前だけだよ」と語り、「警察に法律違反をさせるのか?大したものだな」と微笑む石神は、決して皮肉を言っているのではありません。湯川の心を素直に受け取り、彼を誉めているのです。こんな真面目で良い人が罪を犯すなんてと、胸が締め付けられました。観客はきっと彼の17年間の孤独と寂寥感に、思いを馳せるでしょう。

そしてラストに今までの思いの丈を放出するかのような石神の涙に、私も号泣。場内すすり泣きがいっぱいでした。湯川は物事には何事にも論理があり、原因不明はないというのが持論の人らしいです。冒頭で、でも「愛は予測不可能」と言ってたなぁと思いだしました。石神には靖子の行動は予測出来なかったんですね。素直に感動しました。

肝心の福山雅治なんですが、存在感もほどほど、堤真一を立てて脇に回って受ける演技を心がけたようで、良かったです。素直で良い意味でアクのないところと、モノ欲しそうでないところが私は好きです。あんまり知的な匂いはないけれど、映画同様そつなく天才物理学者を演じているという感じです。この人が嫌いと言う人は、聞いた事がありませんが、それはきっと意識してピークを迎えないようにしているからでは?メジャー感をキープしながら、どこかサブカルの匂いを漂わせているのも、新鮮さを保っている秘訣でしょう。イケイケドンドンの若いころと違って、32〜3歳からは、意識的に仕事もセーブ気味のようで、上手く飽きられないようにしている気がします。本人の意思かブレーンの戦略か、どちらにしてもクレバーですね。

ところで原作の東野圭吾は、実は私の育ったところの隣町出身の人です。学年も四つ違うだけだし、お祭りの時はいっしょの神社さんに行ってたんだよなぁ。なので彼のエッセイで子供の頃に出てくる場面は、そっくり私の幼い時と重なるのです。その割には3冊くらいしか読んでないダメな同郷人なんですが、この作品の原作は是非読みたいと思います。


2008年10月06日(月) 「トウキョウソナタ」




あぁ、もう!タダ券あるからって、観なきゃ良かった!これならぶちゃいくで太っちょの可愛い女の子を観に、「落下の王国」の方が絶対ましだったと思う。予告編で悪い予感がしてたんですよ(なら観るなよ)。キョンキョンが「誰か私を引っ張って…」というシーンね。亭主がリストラされてるのに、そんなこと言ってる場合かよ、と思いましてね。でもその予告編の方がずっと本編よりましだったんだから、どれだけ個人的にトンデモ家庭劇だったか、おわかりか?折角家族各々のキャラは、嫌悪も含めてリアルだったのに、そのリアルを、どうしようもない脚本の勉強不足と悪意で(そう悪意なのよ!)、ぺしゃんこにしちゃってます。多分「ありふれた家庭の、徐々に始まる崩壊を、ラストで見事に希望の光を与え再生させる、傑作ホームドラマ」なーんて感想が溢れると思いますがね、私は久々に怒りモード全開です。今回罵詈雑言モードで行きますんで、よろしく!監督は黒沢清。

タニタの総務部課長の竜平(香川照之)は会社をリストラされ、職探しをしています。長男貴(小柳友)は大学生ですが、昼夜逆転の生活をしており、突然アメリカの軍隊に入隊したいと言い出します。小学生の二男健二(井之脇海)は学校の先生とそりが合わず、父親にも不満があります。ある日思い切って以前から気になっていたピアノ塾の先生(井川遙)の元に、親に内緒で入塾を希望します。そして妻であり母である恵(小泉今日子)は、家族それぞれに秘密を抱えているだろうと察しながら見守っています。

馬鹿と阿呆の品評会ながら、家族四人の造形は、なかなかリアルです。竜平の小心者でいばりくさる親父なんか、本当にいそうですよ。特に自分より背丈が大きくなった長男には怒り心頭でも手を出さすに、小学生の健二には、ちょっと気に入らないだけで手を出す様子は、器の小ささ満開です。妻にリストラが言えない夫というのも、いるでしょうね。面接で「あなたは会社のために、何が出来ますか?」に答えが詰まる場面も印象深いです。竜平は46歳、与えられたことを一生懸命やっていく、そういう世代でしょう。時代が変わったのに、頭も心も追いつかない様子が、上手く出ていました。拾った金を盗めない小心な善人ぶりも良かったです。

恵の閉塞感もよくわかる。しかし好きなタイプの母親じゃないのね。息子二人の母にしては、いやに大人しい。私なんか息子三人は手も出す足も出すで、シバキ回して育てたので、朝帰りしといて「今から寝るから掃除機やめて」だの、グータラバカ息子のくせに、いきなりアメリカの軍隊に行くだのという息子なんぞ、うちなら夫と二人で100%座敷牢です。まぁだから息子たちが親を知っているので、こういうふざけたことは言わないわけなんですが。長男も嫌いだけど、如何にも今時の一部分の若者を描きましたって感じなんでしょう。ちなみに私が違和感を抱いた、「誰か私を・・・」は、あのシーンなら別段疑問はありませんでした。

突飛な行動をする次男の造形は、全く問題ありませんでした。担任とピアノの先生の描き方は気に入りませんでしたが。

ではどれだけ脚本が現実と乖離しているか、検証に入ります。ネタばれもりもりなので、ご注意を。

まずカッと来て会社を辞めた竜平の気持ちはわかりますよ。しかし何故速攻ホームレスのための炊き出しに並ぶ?タニタは体重計など健康関連の計測器を製造販売する実在の会社です。同じ境遇の黒須(津田寛治)に、畳掛けるように「退職金は?失業手当はどうした?」と聞かれますが、その時の竜兵の答えは、「お前、すごいな・・・まだ何も」。はぁ???こんな大きな会社の総務部の課長だったんでしょ?こんなこと、パートの契約社員だって真っ先にやります。この場合会社の温情で失業手当が後回しになる自己都合ではなく、早急に出る会社都合にしてもらう余地は、話し合いで充分あります。炊き出しに並ぶ前に、やることいっぱいでしょ?何度もいうけど、こんなボンクラで本当にタニタの課長やれたの?

長男のアメリカの軍隊に外国人が入隊する件は、まあ映画的創作と我慢しよう。何で唐突にアメリカが日本を守っているから、家族を守るために軍隊に入るんだよ!というのは、バカ息子だから見逃してやろう。しかしだね、入隊して一ヶ月か二か月で、ずぶの素人を戦地へ派兵するか?いくらアメリカもバカだからって、それはないでしょう。第一に戦力になりません。母親の恵が息子の幻を見たようですが、その時のセリフも「いっぱい人を殺したよ・・・」って、あんたバカ?自分のヘタレ息子が人を殺してトラウマに陥ってるってか?普通は殺される方を心配しないかね?

では次は二男ね。給食費をちょろまかして、ピアノの月謝に使っているという設定ですが、これもあり得ません。今は給食費は銀行引き落としです。もう大昔からですよ。全くないとは言えないでしょうが、ほとんどないはずです。担任の投げやりな様子も、現場で頑張っているたくさんの先生を知っている私は、これがリアルと言われるのには、大変遺憾ではありますが、まぁいるにはいるんでしょう。でも三か月滞納や早退盛り沢山なのに、親に連絡しないはあり得ません。一ヶ月滞納でも、払う払わないとは別に、学校は連絡するはず。そして今の学校は、欠席や早退した後はちゃんと担任から「○○くん、体の調子は如何ですか?」と連絡あるんですよ。あの担任意地悪そうでしたが、自分の立場を悪くする間抜けには見えませんでした。

井川遙のピアノの先生もダメダメ!子供がどう言い繕うが、小学生ですよ?お金が関係しているわけですし、一度も親が顔を見せなくて引き受けるというのは、幾らなんでも常識がなさすぎです。もしかしたら、常識知らずと表現したかったのか?子供相手に自分の離婚の話するし。やっぱバカなんだは、こいつも。

次男がバスに無賃乗車しようとして捕まる場面、あり得ません。どこから見ても中学生以下の子です。いくら黙秘権行使と言ったって、大人の犯罪者と同じ留置所に入れるか?翌朝不起訴で釈放?どこの国の話ですか?こんな場合は少年課の刑事さんとか来て、普通は家を聞きだして迎えに来てもらうでしょう?何するか分かんない子を野に放つなんぞ、よっぽど犯罪だぞ。監督、国家権力に恨みでもあるのかね?

キョンキョンと役所広司の件は、もう書くのもバカバカしいので割愛。あの出来事が閉塞的な恵の心を打ち破った出来事にしたいんですよね、はいはい。

私がもっとも怒ったのは、竜平がショッピングモールの清掃の仕事についた時の描き方です。あんなお店の死角でパンツ見せて着替えさせるモールが、どこにある?あんな品のないことをして、速攻客から苦情が出ます。そしてトイレ掃除。何故素手でさせる?家庭のトイレだって手袋を使うのに、手袋なしで公共の場を掃除する人なんて、私は観た事ありません。これって、清掃の仕事を恥ずかしくて卑しい、底辺の仕事だと表現したい、確信犯的脚本では?

これが悪意でなくてなんでしょう。現在の竜平はそんなに卑しいのか?今のご時世なりふり構わず、自分のため家族のため働いている人はごまんといますよ。その人たちは、これを観たらどう思います?もう絶対許せません。

ラストの健二の演奏場面も個人的には噴飯ものでした。お金の見通しもなく、中学から音大付属へ受験ですか?だいたいここの家、最初から裕福ではないのですよ。だってあんな電車のすぐそばの家、土地は安いはずです。隣は空き地って、そう表現したいんでしょ?恵が「ボーナスが出るまで買い替えは我慢ね」って言ってたストーブは、量販店で8000円くらいで買えます。普通ボーナスが出たらって表現なら、エアコンでしょう?私は生活苦を表現したいと思ったんですが、それも見事に外されました。先生曰く、「あなた(健二)には才能があります」とは言ってましたが、ほとんど練習場面も出てきてないし、家にもピアノないし、あんな短期間であんな見事に演奏なんかできるの?小さい頃からピアノやってる人、怒れ!もしかしたら天才なのかも知れませんが、「天才とは一分の才能と九分の汗」なんだぞ!誰か偉い人に言葉かも知れませんが、私がこの言葉を読んだのは小学生の時、山岸涼子の「アラベスク」のノンナのセリフでした。なので、明るい未来を予見させるシーンも、私には憤慨以外の何ものでもあらず。

とこう言う風に、個人的には愛嬌もへったくれもない、トンデモ作品でした。この作品が描く世界は私のテリトリーで、うちの夫もリストラ復活組です。上司とけんかして会社なんか辞めてやる!と辞表を叩きつけたあと、泣いて妻から懇願され、プライドぺしゃんこになって、頭を下げて復帰した御主人も知っているし、夜の八時に帰宅後、食事を取ってお風呂に入って、また10時から働きに出る御主人も知っています。夫のお給料が減ったので、自分が早朝の給食作りに出かけ、9時から事務の仕事をやっていた奥さんも知っています。その人たちの頑張りを知る私には、こんないい加減なアプローチでね、「リアルに現代の世相と家族を映した見事な作品」とは、絶対認められません。反論お待ちしております。今回の私、怖いなぁ(笑)。


2008年10月03日(金) 「イントゥ・ザ・ワイルド」




予告編とショーン・ペンが監督ということだけを頼りに観ました。裕福な家庭に育った、感受性豊かな青年の自分探しだと思っていた予想は、早々に撤回。まるで自分の身を切られるような痛みと厳しさを主人公と共有し、彼の魂の慟哭と浄化の繰り返しを観て、何度涙したかわかりません。その果ての粛々とした静寂と心からの安息。なんと素晴らしい作品でしょう!

1990年、ジョージア州アトランタの大学を、優秀な成績で卒業したクリストファー(クリス)・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)。裕福な家庭に育った彼でしたが、両親(ウィリアム・ハート、マーシャ・ゲイ・ハーデン)からの援助の申し出を全て断り、無一文からアラスカを目指し、家族から身を隠すようにして旅立ちます。名前もアレキサンダー・スーパートランプという偽名を使い旅するクリスは、行く先々で様々な出会いと別れを繰り返します。

ただのお坊ちゃんの自分探しではなかったのです。彼の育った家庭は複雑で、幼い時から両親の不仲を観ながら、妹(ジェナ・マローン)と二人、心を痛めて育ったのです。ケンカの繰り返しだけならまだしも、父親の暴力、子供たちも呼ばれての話し合い、果てはどちらの親を選ぶかなど、子供には残酷で辛い事ばかり。子供を交えての話し合いなど、所詮親の言い訳で、こんな時の子供は、両親の果てしない詰り合いを聞きながら、居たたまれず、なすすべもなくただ涙を流し続けるだけなのです。それがどんなに心に傷を残すのかは、私にはとてもよくわかる。だって私がクリスと同じように育ったんだもの。

彼の放浪は途中車も乗り捨て、ヒッチハイクと野宿が主で、お金が底をつくと働く事の繰り返し。リュックに生活用品一式を背負い、缶詰を食べ畑の放水車で体を洗い、草むらで眠る毎日。文明を否定した生活はとんでもないのですが、しかし優等生であることを強いられ、重苦しかった親からの解放で、望んでいた真の自由を手にした彼は本当に生き生きとしていました。家庭に問題があると、子供は自立する時を逸してしまいがちです。飛びたい時に飛べないのです。彼の取ったこの極端な行動は、如何に親の呪縛が強かったかと物語っていると感じました。しかし自由を得た彼は、尚もアメリカで最後の未開の地と言われるアラスカ行きをあきらめません。「自然の中では自分は強いと思いこむのだ」という書物の引用が出てきますが、クリスはもっと強い自分になりたかったのでは?

何故強くなりたいのか?今の自分では、クリスは親を受け入れ赦すことが出来ないからだと感じました。少年のような純粋な感受性のまま青年になったクリス。いつまでも親、取り分け父親を許せぬ卑小な自分が、きっといやだったのだと思います。学資金の2万4千ドルは、恵まれない人に寄付して旅を開始します。学資金はクリスが優秀な成績を収めて得たものでしょう。しかし親の庇護の元、勉強に励むことが出来た結果だと、聡明な彼はわかっていたと思います。親の影が一切ない清貧の暮らしの中、「アレクサンダー・スーパートランプ」として、どこまやっていけるのか?ただの親への反抗心ではなく、気骨のある反骨心だと思いたかったのだと感じました。

たくさんの出会いの中、彼らに学び彼らに与えるクリス。ヒッピーカップルのレイニー(ブライア ン・ディアカー)とジャン(キャスリン・キーナー)、気がよく豪快な農場主のウィル(ヴィンス・ボーン)、孤独だけれどクリスを慈悲深く包む老人ロン(ハル・ホルブルック)。それぞれの場面が一言では言えない味わい深さで描かれ、強い余韻を残します。

クリスに自分の息子を重ねたジャンは、「御両親に連絡は取っているの?」と心配します。同じ立場のジャンの息子の気持ちは、痛いほどクリスにはわかるはずなのに、ジャンは受け入れ、あくまで親は否定するクリス。これが血の執着だなと思います。何度も彼の日記で「いい人だ」と表現されたウィル。厳格で粘着質な父親とは正反対の、肉体労働者の善良さと豪快さを併せ持ち、「この頭でっかちが!」と叱咤する彼に、クリスは男として憧れを抱いていたのではないでしょうか?ウィルが「檻に入る」ことがなければ、もっと長くに彼の下で働き、クリスはアラスカには行かなかったかもしれない、そんな気がします。

そしてロン。ロンが多くのヒッチハイカーやヒッピーたちとは違う佇まいを、クリスに感じた事が、二人の縁の始まりです。私も観ながら感じていましたが、髪がボサボサ、顔も洗えず泥だらけで破れた服を着ていても、クリスには清々しさが漂っていました。人生の風雪を超えた老人の目には、その心だけが映ったのでしょう。

別れ際に「君を養子にしたい」と言うロン。それはたった一人アラスカの奥地に向かうクリスに、「君は孤独ではない」と言いたかったからだと感じます。私はもっと孤独感の漂う放浪だと、観る前は想像していました。それが良き出会いに恵まれ、クリスは本当の意味での孤独を知らないまま過ごします。壮絶な孤独を経験したロンだからこそ、これから孤独に苛まれるであろうクリスに、ここで自分が待っている、だからあきらめるな、そういう意味が含まれていたように感じました。ロンの流す涙は、ただの寂しさではなかったと思うのです。

本当の意味でのサバイバルな、森での日々。他の土地では感じられない、本当の意味での「荒野」を感じさせます。しかし荘厳で雄大な自然は、決してクリスを拒んでいるようには感じませんでした。彼に試練を与えながら、手を差し伸べてはくれませんが、乗り越えてごらんと見守っているようにも感じるのです。とても父性的だと感じました。クリスにとってこの自然と立ち向かうのは、父親と向かうことだったのでしょう。

ラストの顛末は悲劇だったのでしょうか?私はそうだとは思いません。「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ」。クリスが最後に得た教訓。本当の孤独を知り衰弱した体が震える時、彼の脳裏に浮かんだのは、自分を抱き締める両親でした。ロンが語った「神に愛される瞬間」というのは、こういうことなのかと感じました。

人を変えるには自分が変わらねばならない。この言葉はよく使われるフレーズですが、言うは安し行い難し。実際は我慢したりあきらめたりすることを、人は「自分が変わった」と思いこんでいるのではないか?連絡のない息子を心配する両親の劇的な変貌を、画面は映しています。クリスは反抗や説得ではなく、自分が変わる事によって、親を変えたのです。身を呈して親に捧げた、崇高な息子の愛だったのではないかと、私は思いたい。思い切り泣きましたが、決して哀しい涙ではありませんでした。

エミール・ハーシュは、他の作品ではほとんど記憶に残らず、この作品が初めてと言っていいかも。なんで何の賞も取らなかったのかと憤慨するほど、素晴らしい!ラストで本当のクリスが映るのですが、顔立ちは違うのに、本当のクリスが乗り移ったのではないかと思うほど、劇中のハーシュはそっくりでした。他の出演者も演技巧者ばかり集めての派手さのない作りは、とても好ましかったです。

カメラが雄大な自然をとても美しく厳かに撮っています。お話としてはとても地味で、面白みがないはずなんですが、2時間半、引き込まれる様に見つめ続けました。魂が大きく揺さぶられて落ち着いた後、ペン監督の偉大さに気付かせてもらいました。今のところ、今年のNO・1候補です。


2008年10月01日(水) 「最後の初恋」




中年向けハーレクィーンロマンス的趣の作品。その年代の人用のスウィートさ満載で、出来としてはボチボチでんなという感じですが、それでも私がプラスαを感じる事が出来たのは、自分の年齢とキャスティングのお陰だと思います。

夫の浮気に悩み別居中の主婦エイドリアン(ダイアン・レイン)。反抗期の娘に手を焼き、喘息の息子の体調を気にかける毎日ですが、心から子供たちを愛しています。子供たちが夫の元に出かけた時、親友のジャン(ヴィオラ・デイビス)から、海辺の小さなホテルの留守番を頼まれます。シーズンオフのリゾート地の泊り客は、医師のポール(リチャード・ギア)だけ。しかし彼も家庭と仕事に問題を抱えていました。二人だけで過ごす五日間、お互いに心を打ち明け合う間になっていきます。

と、設定はどうしようもなくあり得ない訳なんですが、、そこをカバーする小技はあるわけで。冒頭普通にガミガミ子供たちに接するエイドリアンを映し、夫との不仲の原因、復縁したい夫の気持ちもさらっと紹介するので、こういう風に家族と切り離されて、自分独りになれる空間があるって、考えるのには都合がいいよなと、自然体で受け入れる事が出来ます。

二人は急接近するわけではなく、フランクでありながら節度も保つ姿が好ましいです。お互い大人で子供や家庭があるわけですが(ポールは離婚している)、それが良い意味で心を許す材料になっているのは、よく理解できます。それと男性は家庭や子供に悩みがあっても、男同士では話が出来ないのではないかと思います。行きずりとまではいかない、でももう会うことはないだろう中年女性、それも落ち着きと賢さを感じさせる人にならば、自分の心を解放させることが出来るんでしょうね。この辺は全く無理はありませんでした。

それになんたってギア様とダイアンですもの!見た目で好感を持たない方が、おかしいってもんです。この辺キャスティングにものすごく納得感あり。ダイアンはジョシュ・ブローリンと結婚後、すごい勢いで盛り返しており、年齢より深い皺も隠さない姿は、ナチュラルな美しさに溢れています。内面の充実さが表に出ているのでしょう。女の皺も人生の味わいと感じさせる、稀有な女優だと私は思っています。そしてギア様。還暦前でね、女とああだこうだと悩んだり喜んだり、そんな人は彼しかいません。ジェレミー・アイアンズもこういうの似合うんですが、あくまでエキセントリックで、一緒に地獄に落ちそうなのが得意でしょ?その点ギアは、甘くてハッピーなムードを漂わせているので、この歳になってまで、色恋で深く考えたくない中年女には、とっても向いていると思います。

ポールが滞在中、上手い事嵐が来て、予想通りの展開に。この辺もご都合主義なんですが、私は至って素直に映画は観る方なので、この辺は既に画面にほろ酔い加減になっておりました。別に気にしない気にしない。

前半のリアルとファンタジーない交ぜの匙加減の上手さから、残り1/3は中年女性の夢の実現に向けて、お話は猪突猛進していくので、この辺りからはちょっと夢も覚め加減になる私。ほろ苦い部分も含めて、女性に良いとこ取りで言い訳が過ぎるのは、ちょっと疑問が残ります。別居中というのにエイドリアンは働いていないのはおかしいですし。夫の造形も上滑りで、もっと丁寧に夫を描けば作品の味わいはぐっと上がったと思います。あれでは結局男が出来た、それだけの理由に思え、前半のエイドリアンの思慮深い賢さが半減されます。

ラストもなぁ。ああいう風に悲劇的なラストはいいのですが、あれでは安物のメロドロマです。中年ならではのほろ苦さと哀歓を感じさせる成り行きならば、ハーレクィーンロマンスから脱したと思います。

それでも「良い母親であることだけが、私のプライドだったのに」というエイドリアンのセリフや、ポールの患者の夫に扮するスコット・グレンの、妻への切々たる思い、その43年連れ添った妻が夫に向けた、「あなたのために綺麗になりたい」という言葉は、私のような中年女性には、とても心に染みる言葉でした。こういう細部が心に残るので、美中年を使っての夢物語じゃん!と、切り捨てることが出来ないのです。

「良い母親だけが私のプライド」、ずしーんと来ますよ。子育てと家庭を守るため、あれもあきらめ、これもあきらめ、夫は家庭を「ほどほどに」振り返るだけ。子供だけはちゃんと育てねば!と、私も思ってたなぁ。でも子供はいつまでも子供にあらず、母親の手から離れていくのは、本来は「良い母親だけが私のプライド」だった私たち中年女性には、喜ばしいことなのですね。幸か不幸か、歳とってしょぼくれ気味になった多くの夫は、妻の元に帰りたがります。幸い私の夫は真面目な良い人です。これからは「良き妻であることが私のプライド」を目指し、頑張ってみるか。くれぐれも「だけ」にはならないようにね。


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